本稿は、1960年に新読書社から発行された「北朝鮮の記録 : 訪朝記者団の報告 」を紹介しています。帰国事業当時「38度線の北」同様、大きな影響を与えたと思われる訪朝記事です。現段階でのコメントはつけません、一つの歴史的資料としてお読みください。
はだかの朝鮮人 ーあとがきにかえてー
読売新聞社社会部 嶋元謙郎
われわれ訪朝記者団一行七人が、平壌飛行場に降りたったのは十二月十八日。同じ飛行場から飛びたったのが一月五日だから、朝鮮には正味十九日間滞在していたわけである。
わずか十九日間で朝鮮の全貌が分かるはずはなし、語る資格もない。しかしわれわれは朝鮮滞在中にこの目で見、この耳で聞き、このハダで感じた記録を、卒直にありのままにこの冊子のなかで書きしるそうとこころみた。それが戦後はじめて正式に朝鮮を訪れた記者団として当然の義務であると思ったからである。
わずかな滞在期間ではあったが、われわれはなるべく広く深く朝鮮を知ろうと、文字通り夜を日についで、視察し、取材を行った。元日の日まで、通訳や案内役のシリをたたいて取材したほどのどん欲さで、われわれ一行のある記者などは二年分の仕事をやったと悲鳴をあげたほど。それでも、帰ってみると、視察しそびれたり、聞きのがしてきたことがたくさんあった。だからこの記録も決して完全無欠なものではない。しかし、その不足を補うため、朝鮮で発行している文献を利用することはさしひかえた。というのは、それらの文献を信用するかしないかの問題ではなく、われわれが見、聞き、感じた以外のことであるからだ。
その点、これはあくまでもわれわれのメモによる記録である。ハッタリや誇張ないのはいうまでもない。
ある韓国人記者
なぜ、われわれが、このようにこだわるのかといえば、一部の心なき人たちから、洗脳されてきたのだろうとか、宣伝に迷わせたのだ、というような中傷がなされているからである。それに答えるために、次の話をしよう。
われわれが香港から日航機で帰るとき、途中立ち寄った台北から、韓国の商人三人と新聞記者二人と隣り合せて坐った。たまたまわれわれが朝鮮の「ピョンヤン(平壌)」という煙草を喫っていたことから、お互いにそれと分かって話しあったが、
「北朝鮮はどうなっていますか?」
と聞くから、
「お話しするよりも写真をごらんなさい」と、われわれの写してきた写真を披露した。商人たちは
「解放前の平壌は知っているが、これでは全く見当がつかない。同じ土地つづきのところに住んでいて、こんなに立派になっているとは知らなかった。すばらしい」
と感嘆していたが、韓国の記者諸君はウソだといって信用しようとしない。適当につくった写真だというのだ。こちらも同じ新聞記者だからインチキ写真呼ばわりされたのではハラの虫が承知しない。それではフィルムをお目にかけようというこよになった。ところが、その記者たちはあわてて断った。
「フィルムは見たくない。」というのである。
フィルムを見れば、その写真がつくったインチキのものであるか、あるいはありのままの姿をとらえたものであるかは一目でわかる。もちろんわれわれのフィルムは、修正や誇飾のないそのものズバリであるから現在の朝鮮の躍進ぶりが〝真実である〟と認めないわけにはいかなくなる。それがイヤなのだそうだ。真実を探り、報道するのが新聞記者の勉めであるからには、この記者たちは新聞記者としての使命を捨てたともいえよう。批判精神に富んだ新聞記者ですらこうなのである。われわれは彼らの頑固さを悲しむと同時に、真実から目をそむけようという人が、いかに多いかを知った。
韓国系の人だけではない。日本人のなかにもいる。しかも、それがかつての朝鮮に住み、朝鮮で働いていた人に多いのである。その人たちのために、わたしは一言語らなければならない。
清潔、勤勉、親切な朝鮮人
「朝鮮民族というのは、こんなに立派な人種だったのか」
朝鮮にいったわれわれ一行は、異口同音にこういって驚いたものである。それまで朝鮮人に対する蔑視感情があったわけではない。日本人より以上にすばらしいかもしれないという感嘆と垂えんの声だったのである。
私にいわせれば、「現在朝鮮に住んでいる朝鮮人と、むかしの朝鮮人とは、全く人種がかわっている。」とさえいえる。
実は私は三才のときから中学を卒業するまで、十五年間を朝鮮で育った。いまの私の年令からいえば、ちょうど人生の半分を朝鮮で送ってきたことになる。いうなわば朝鮮は私にとって第二の故郷だ。
だから、私は朝鮮人については、こどものころからつき合って詳しく知っていたつもりである。その私が、目を見はったほどの変わりようなのだ。
いまでも朝鮮人といえば、不潔で、怠け者で、手ぐせが悪く、乱暴で粗野だ……などと、ハシにも棒にもかからない人種であると思っている日本人がいる。ところが実際に朝鮮で会った人たちは、清潔で、勤勉で、親切で、おとなしい、いわばまるで正反対の人ばかりである。
一例をあげれば、私が平壌についた翌日、街頭で煙草の吸殻を捨てたところ、たまたま通りかかった中年の婦人が「アイゴウ(ああ)!」といってその吸い殻を拾ってタモトに入れた。吸殻を拾って吸うほど煙草に困っているのではさらさらない。吸殻を歩道の両側のクズ入れに捨てるために拾ったのである。日本での習慣とはいえ全く私は穴があれば入りたいほどの恥ずかしい思いをした。
朝鮮では日本のように、くわえ煙草で歩いている人は一人もいない。煙草を吸いたい人は、両側の歩道に約百メートルおきに置いてある高さ五十センチほどの白いセメントづくりの灰皿兼ゴミ箱のまわりで吸っている。また、むかしは街頭でよく手バナをかんだり、タンをはいたものであるが、ついぞお目にかからなかった。中国では街角に「放啖罰千金」とか「不放啖文明化」などというポスターが貼ってあって、タンをはくのをやめる運動を行っていたが、朝鮮ではそんなポスターは全然見かけない。それほど清潔になっているのである。たまにくわえ煙草で歩いていたり、放啖している人を見掛けるが、いかんながらこれは全部日本から帰国したばかりの朝鮮人である。日本にいる朝鮮人だけでなく、われわれ日本人も見習ってよい点だろう。
朝鮮人は勤勉だ。工場や農村では、一日の労働が終わっても、なおクラブや民主宣伝室で、勉強したり、実習している人が多い。少しでも技術を向上させるためだそうだが、こんな熱心さもかつてはなかったことだ。朝鮮が朝鮮戦争の廃墟のなかから、わずか六年の間に不死鳥のように立ち上がった原因の一つは、こういった朝鮮人の勤勉さであろう。
とにかく、朝鮮人はすべての点で変っていた。その原因は何だろうか?
日本人が知っている朝鮮人とは、日本の植民地下にあった時代の朝鮮人であり、日本という〝異国〟に住んでいた朝鮮人だ。差別と屈辱と搾取にあえいでいる姿である。つまり、ゆがめられていた朝鮮人観にすぎない。真の、ハダカの朝鮮人ではなかったわけだ。
朝鮮に住む朝鮮人は、母なる祖国を持ち、民族としての誇りと自信にみちた朝鮮人である。これが本来の姿なのだ。われわれははじめて朝鮮人の本当の姿、ハダカの朝鮮人を知ったといえよう。人種が変わったと思うのも当然だ。愛する祖国を持ったということが、こんなにも人間の性格をかえるものか、私はつくづくと感じいったことだった。
「まず、朝鮮人観を改めなさい。さもないと朝鮮に対する評価を誤るから。」私は声を大にしてこう叫びたい。
すばらしい親日感情
われわれが朝鮮を訪問して一番嬉しかったことは、朝鮮全土にわたって対日感情がすばらしく好いことだった。それは、「好い」というよりも、親日感でもちきりであり、友好親善の気運が爆発していたといえよう。
金日成首相をはじめとする政府、労働者、言論界はもちろんのこと、どんな片田舎にいっても、じいさん、ばあさんまでが日本人だとわかるとよってきて握手を求めた。
「在日朝鮮人の帰国が実現したのは、日本の国民が人道的な立場に立って強力に帰国問題について協力してくれたからだ。こんな立派な日本人と、ぜひ親善を深めたい」
というのである。
実はわれわれは、かって日本人が朝鮮を植民地として搾取してきたという引け目を負っている。どんなにひどいことをしてきたか、無茶なことをやってきたか、についても知っている。いわば〝低姿勢〟で訪問したのであるが、われわれの杞憂はすぐに吹き飛んでしまった。日本人の傷跡には触れない。暗い過去をむしかえして日本人をせめようとしない。過去は過去、今後は今後、とはっきり区別しているのである。かえってわれわれの方が、過去の日本のやり方を反省せざるを得ないような有様だった。
この事実は、朝鮮人たちがいかに熱烈に同胞の帰国を待ちわびていたかということを物語るもので、帰国朝鮮人が増えれば増えるほど、親日感情が加速度的に高まっていくことが想像される。
また帰国した朝鮮人で、日本のことを悪くいう人は一人もいなかった。われわれは赤十字のマークの入った新聞記者章をつけていたが、街を歩いていると帰国朝鮮人が向こうから飛んできて、嬉しそうに話しかける。ホテルにもよく訪ねてきたりした。その人たちは、差別と貧困の生活にあえいでいた日本時代の苦しさは、ほとんど忘れてしまって、帰国に際しての日本人の歓送や賜物などのあたたかい思い出しか残していない。楽しい「思い出を語って」いるのである。近所の人に話のも、この思い出だ。だから、この人たちによっても、一層の親善のタネはまかれようというわけだ。
こんな親日感情に富んでいる国を隣国としてもっている日本人は幸福である。互いに往来して仲良くしたい、という気持ちになるのは当たり前だ。ところが、現在の日本政府は、「仲良くしよう」とさしのべている朝鮮の手を、邪険にふりはらっている状態だ。
日本政府の対朝鮮関係は、対中国関係よりも一段ときびしい。
たとえば、われわれが、在日朝鮮人の帰国受入れ状況を報道するために、朝鮮対外文化連絡協会の招きで朝鮮に出かけるということが、はっきりわかっていながら、政府はパスポートの行き先に「朝鮮民主主義人民共和国」と明示するのを拒んで、通過国にすぎない「中華人民共和国」と記入したくらいだ。当時国会でパスポートに「ヴェトナム人民共和国」と記入したことが、北ベトナムを承認している証拠ではないかと問題になっていたためでもあるが、われわれは行先が迷うからせめて「朝鮮(北半分)」か「北朝鮮」と書いてくれと要求しても、「朝鮮」という字を書くことだけはかんべんしてくれという始末。それほど政府は「朝鮮」に触れることを恐れているのである。まるでライ病患者のような扱いだ。
日朝の文化交流
日本政府はこれまで北朝鮮からの朝鮮人の入国を、ただの一度も許可したことがない。
〝半島の舞姫〟として日本人にもたくさんのファンをもつ崔承喜さんを、日本に招こうという運動は数年前からおきている。崔承喜さんも初舞台を飾った日本での公演を、一生の楽しみにしており、これまでに日本の招請団と前後三回にわたって契約書を交したが、いずれも日本政府の入局拒否でフイ。同じく国交を回復していない中国からは、京劇などの文化人が来日したことを考えると、一段と朝鮮は差別待遇されているといってよい。
そればかりではない、朝鮮が熱心に要望していた東京アジアオリンピック大会にも参加を認められず、また東京で開かれたオリンピックサッカー審判の講習会にも、代表が香港まできておりながら日本のビザが下りずにむなしく帰ったという事実もある。「重要なことは参加することである」というオリンピック精神や、スポーツに国境はないというスポーツマンシップの鉄則も日本政府にはいれられなかった。
さらにこんどの帰国船による日朝新聞記者団の相互交換も、政府が朝鮮記者団の日本での取材の自由を認めないために、いまだに実現されない状態だ。
人間の交流だけでなく、文化品の持ち込みや貿易までもしぶっている。昨年十一月の読売新聞社の後援で東京で開かれた「今日の朝鮮展」の出品物は、十ヵ月間東京の倉庫に眠ったのちにやっと許可されたものだし、貿易にしても直接日本に輸入することはできない仕組みになっている。
朝鮮との貿易は三十年十月の次官会議で「不許可の方針」が立てられ、現在でも効力を発揮している。ところが朝鮮の地下資源、とくに茂山の鉄鉱石は純度の高いことで日本の鉄鋼界にとってすいえんの的だ。これを輸入するためには一たん香港まで運び、香港の商社から買付けたという口実で日本にもってきている。三角ルートを経てくるから、当然値段も高いが、業界では争って買っている現状だ。結局三十四年十二月十七日に通産省は、輸出する場合は朝鮮に直接送ってもよいとタガをゆるめたが、それもほんの一部品目だけ。重機械類や金額のはる品物の輸出は、禁止されているか、あるいはいぜんとして香港経由である。
朝鮮にとっても日本から買いたいものはたくさんある。昨年六百億円に上る火力発電装置を日本に引き合いにだしたほか、毎年タイヤ、機械、自動車、織物、雑貨などを欲しがっている。しかし、これも日本政府の不許可のためご破算になり、ここ一年の間に、イギリスや西ドイツと高額な取引をしている有様だ。朝鮮という目の前の大きな市場を荒らされるのだから日本の業者にとっては、〝頭痛のタネ〟。国際市場の「朝鮮行」のバスに乗りおくれるなとあせっている。
もうお分かりのように現在の日朝関係は、朝鮮が積極的に文化、スポーツ、経済の交流を望んでいるのを、日本側が拒絶しているといった状態である。もちろん日本としては朝鮮半島が朝鮮民族による単一国家として統一され、その国と国交を結ぶことが最も望ましいに違いないが、現状は雪どけにあるいまの世界情勢をもってしても、三十八度線で南北に二分されている韓国と朝鮮との早急な平和統一はむずかしい。しかしそれだからといって、統一されるまで今日の状態を続けるというのは能のない話ではないだろうか。
日本政府の不許可の理由の一つは、韓国関係をおもんばかってのことである。釜山に抑留されている日本人漁船員を一日も早く日本に迎えるために、日韓会談をなんとかまとめようというハラもあるだろう。もちろんわれわれも、日本人漁船員が一日も早く釈放されて故国に帰ってくることを望んでいる。しかし、いまの日本政府のやり方をみていると、韓国の〝人質政策〟にふりまわされているような感じがないでもない。なぜ、抑留漁船員の問題を政治の場から切り離して、人道問題として処理しようとしないのか? 在日朝鮮人の帰国問題を人道問題として取扱ったからには、抑留漁船員問題も当然人道問題ではないのかといいたい。そのうえで李ラインを政治問題として扱うべきだろう。
反日政策を表面に打ちだしている韓国との交流はともかくとして、親日をかかげている朝鮮とは、すみやかに交流を行うべきだと思う。これは、われわれ記者団の一致した意見だった。
とくに注目すべきことは、朝鮮は中国のように「政経不可分」などという難しい注文をつけていないことだ。
「日本は先進国だから、われわれも大いに学びたいと思っている。むかしからの関係もあって仲良くしようとこれほど礼を尽くしているのにネ」
これは労働新聞の一記者のボヤキである。われわれは少々くすぐったい思いだったが、お互いの国家、政治形態を尊重しあって、そのうえでの交流を行おうという意見には賛成だった。なにしろ、日本から何十万人という朝鮮人が帰国する。何人帰るか、正確には分からないが、いまかりに二十万人の朝鮮人が帰国すると仮定してみよう。一人の朝鮮人が百人の日本人の友人をもっておれば二千万人の日本人の目が、いやが応でも朝鮮に注がれることになる。これらの人たちが、手紙などを交換することによって、より深い理解が生まれ、やがて両国民の間に切っても切れない親善と友好が芽ばえてくるであろうことは明らかだ。日本政府も黙ってはおれまい。
われわれの泊っていた平壌ホテルの一室に、われわれと同じ時期にある政府要人の内意をうけた使者が、内密に朝鮮を訪問して意向を打診していたほどだ。保守系の幹部たちも動きはじめている。帰国船をクサビとした日朝交流の機運が、次第にもり上ってきていることは事実だ。
ともかく、現在、帰国船ではわずか三十数時間でいける朝鮮への道程が、一般人は香港経由で五日間もかかる。まさに「近くて遠い国」だ。この障害を取り除き、日本海が〝平和な湖〟となって日朝両国間に血の通うことを期待したい。これが、われわれ訪朝記者団一行の偽らざる心境だった。日朝両国の友好と親善を祈りながら!