日本から舞い込んだセーターの注文『北朝鮮 泣いている女たち』より

北朝鮮人権問題

日本から舞い込んだセーターの注文

(中略) 

 警察庁から来た警官や刑務所の警官も、外貨稼ぎのために囚人たちを情け容赦なく利用するのは同じだった。輸出品の生産過程で少しでも不良品が出ると、すぐに独房送りである。
 一度、厳順英オムスンヨン白銀姫ペクウンフィ李華淑リファスクら七人が、不良品を出した罰として、七日間独房に閉じ込められたことがあった。ようやく解放された彼女たちの脚は、タコの足のようにぐんにゃりして、まともに歩けないほど衰弱していた。彼女たちも、また独房で障害者にされてしまったのだ。
 輸出工場の女囚たちは毎日のように警官に蹴られ、びんたを食わされる。警官の絶え間ない罵声と暴力の中で、数百万個の輸出品が製造され、契約日に合わせて梱包され、南浦ナムポ港から搬出された。
 一九九〇年一月、輸出二班(編み物工場)が新しくできると、すぐに日本から手編み製品の委託加工の仕事が舞い込んだ。
 編み物はテキスト通りに作ればいいのだが、三日でセーター一着を完成しろという与えられた目標はそう簡単には達成できそうになかった。第一、手編み担当の囚人は服を洗濯していないし、風呂にも入れさせてもらえないので、編み物糸に手垢が真っ黒くついてしまう。刑務所側は、その対策として各分組ごとに洗面器と石鹸を一つずつ置いて、手を洗わせた。また作業時には膝の上に白い布を敷き、その上に編み物をのせる。とくに完成品を初めて日本に送った際に汚れが目立つとクレームがつけられて以来、汚れには非常に気を遣うようになり、作業中は分組ごとに一日何回も手を洗うよう指示された。
 しかし、囚人たちは手を洗う時間一分も無駄にせず、働く手を休めなくとも、三日でセーター一着を作るのがやっとだ。一日三回許されたトイレの時間すら仕事にあてがわれた。こうして夏までに、セーター、ジャケットなど日本向けの加工品数万着を生産し、出荷した。
 北朝鮮の田舎には、まだまだ満足に教育も受けられず、文盲のまま生活を続けている人々が大勢いる。編み物工場の金英淑キムヨンスク(三十六歳)もそんなひとりだった。彼女は人民学校(小学校)も出ていなかったので、自分の名前すら書けない。編み物の本をいぐら読んでも理解できないのは当然だった。
 したがって、完成品を決められた日までにきちんと編めない。それどころか編んでは解いて、また繰り返すうちに、糸が駄目になってしまった。
「私はどうして田舎で生まれたのか。私はなぜ勉強させてもらえなかったのか。なぜ私の村には小学校がないのか」と、ひとりつぶやきながら彼女はぼろぼろと涙を流す。それが管理指導員に見つかり、殴る蹴るの暴行を受けた。
「おい、このアマ、字が読めないだと。わざと作業をサボろうとしているんだな。素直に白状しろ」
「先生様、私は本当に字が読めないのです」
 ぼろぼろになりながら、英淑がか細い声で真実を伝えようとしても。管理指導員はまったく耳を貸そうとはしない。
「おい、我が共和国の文盲退治が終わったのは、いつのことだ。字を読めないなんて言いやかって。おまえの思想があやしいのだ。もう一度検討してやる」
 金英淑は次の日、予審房に入れられた。予審房は独房に似ているが、独房より少し広い。刑務所に入れられて、器物を破損したり、資材を無駄にしたとき、あるいは不良品を出したときに取り調べを受けるところだ。
 彼女は1カ月経っても戻ってこなかった。その後、衛生員金信玉キムシンオクが耳打ちしてくれたところによると、彼女は結局殴られて死んでしまったそうだ。彼女の死体は衛生員がかますにくるみ、送り出したという。
 金英淑の出身地は慈江道龍林チャンガンドリョンリム、天にいちばん近い村と呼ばれる高山地帯の山奥だった。学校に行くためには、龍林里所在地まで百八十里(約四十五キロ)近く山道を歩かなければならない。生前に彼女が言っていた「学校に行けなかった」という言葉は、おそらく本当だったのだろう。
 妻が死んだことも知らずに、ある日英淑の夫から手紙が届いた。山奥で何十年物の人参を見つけた夫は、それを金日成の長寿を祈り、捧げたという。指導員は手紙を読み上げた後、「おまえらは刑務所内でも党に反対する不遜な考えをして、労働にも誠実に参加しないが、家にいる家族は、このように党と領袖様に忠誠を尽くしている」と感想を述べた。
 しかし、自分の妻がどのように死んだか聞かされた後でも、英淑の夫は変わりなく忠誠を尽くせるだろうか……。
 一九九〇年になると外国からの委託加工依頼が多く入ってきた。刑務所局と价川ケチョン刑務所長はもっと外貨を稼ぎたい一心で、血眼になり大騒ぎだった。
 所長は毎日のように輸出工場に来て、「おまえたちが不良品を出したり、機械を破損すれば、すぐ独房にぶち込むぞ」と、口癖のように脅していた。
 フランス向けにはバラの造花も作った。金のバラ、銀のバラ、斑点のバラなど、さまざまな色のバラ十二本を花束にする。指先に力を入れて作ると、十本の指が擦れて血が出そうな状態でふにゃふにゃになる。バラは一日十八時間の間に、一人千本作らなければならない勘定だった。
 だが、ノルマはどんなことがあっても達成しなければならない。一時間で六十本を仕上げないと、一日の量には間に合わない。囚人たちは、一日三回のトイレもできるだけ遅く行こうとして、分組の中でよく揉めた。飯もほとんど働きながら食べる毎日だ。
 輸出工場が稼動した当時、集められたのは刑務所の中でもわりと若くて、刑期の短い比較的健康状態のいい人である。しかし、その後、二年間の厳しい労働と殴打、独房処罰の末に、何十人もが障害者になり、生命まで失う人が続出した。
 それほどまでして私たちが价川刑務所で稼いだ外貨は、外国からテレビや冷蔵庫を輸入するために費やされた。そして、輸入された電化製品は各地域の警官に配られたそうだ。いわゆる〝金日成の贈り物〟だった。血と涙の結晶が、私たちをどん底に落とした張本人たちのプレゼントに使われる――。このやるせなさは筆舌に尽くしがたい。
 中央の警察庁長官白鶴林ペクハクリムも、輸出増産と外貨稼ぎを増やせとうるさかった。警察は外貨をたくさん稼いで自主的に機材を輸入して使え、という金日成の指示に従っているのだという。外貨稼ぎ事業に囚人を動員して無報酬で労働させるのだから、国家の利潤は莫大だった。
 外国の人々は自分たちが使っている種々の製品が、北朝鮮の刑務所の囚人たちが命と引き換えに作り出したもので、伝染病をはじめ、あらゆる病原菌がうごめく不潔極まりない監獄で製造されたとは、想像もしていないだろう。実際、囚人の間では、外貨稼ぎは「あの世稼ぎ」と呼ばれていた。囚人の命と引き換えに外貨を獲得するからである。

北朝鮮 泣いている女たち―价川女子刑務所の2000日 (ワニ文庫)』 P165-171

※画像は『Are They Telling The Truth?』より。