思い出すだけでも嘔吐をもよおす。ひょっとすると時計が五~六百年も逆回りしたのではなかろうかと思われる。私たちの住むこの時代に起こったとはとうていおもわれないでき事である。
古代日本国(倭)が、後漢の安帝に送った奴隷(生口)、中世の高麗や朝鮮王国が元や明国に朝貢品として贈った女性・「貢女」のように、総連は「生の人間」を金日成に献上した。これはまぎれもない事実である。
もう四十年も前のことだが、私はいまだ、この胸のつかえを抑えることができないでいる。
一九七二年四月二十六日、新潟から出発した「金日成元帥誕生六〇周年祝賀団」はピョンヤンに到着。例のように競技場には多くの幹部たちが集められ、ブラスバンドは「金日成将軍の歌」が繰り返し演奏されていた。
二〇〇人の優秀な朝大生は、隊列を組み金日成の前に勢ぞろいし、団長は仰々しく総連からの祝賀伝達文と贈り物を献上した。
いや、ほんとうは彼ら彼女ら自体が、還暦の食卓に捧げられた「生の朝貢品」であった。
神でない以上、間違いを犯さない人間はいないと言うが…。
私は七十歳を越した在日二世だが、五十年前、東京の小平にある朝鮮大学の学生であった。北朝鮮への「帰国船」が出ると父母兄弟は北へ渡っていった。
離れ住む家族を恋しく思うときがなかったといえば嘘になるが、当時、大学の爆発しそうな熱気のなかで夢中になって勉学に励んだ。幸か不幸か大学に残りその後母校の教員となった。
そして、一九七一年・金日成元帥の還暦を一年後に迎えるころになると、大学はもちろんのこと、総連の各級機関や学校、地域単位での、金日成に対する忠誠の贈り物・キャンペーンが繰り広げられた。それは、莫大なカンパを募って準備した、工作機械、電子計算機、製造機器等であり、趣向をこらした記念品や装飾品であった。その量は「帰国船」一~二艘では積みきれなかったという。
給料からいくら天引きされたかも忘れてしまったが、大学の教職員は仕込まれた討論が続いた後、「真心を込めての忠誠金」を捧げたものだ。そしてそれは、なんの負担にもならなかったばかりか、胸に込み上げる熱いものを抑え切れない心境であった。教祖さまにひざまずき無上の幸せに震える信徒のように……。
私の仕事はそれだけではなかった。ある日の午後、セレクトされた(信じられる)教員たちが、教務棟の会議室に集められた。還暦を祝う学生祝賀団の候補にあがった学生を説得して送り出せ。その名誉ある担当者としての任務を遂行せよというものであった。もちろん私はなんの疑いもなく担当者に選ばれたことに対する誇りすら感じ、懸命に任務にあたった。
対象者として自分の学部の学生が割り当てられた。数名の学生はほんとうにすんなりと説得に応じてくれた。なかには「先生、ありがとうございます。自己の任務をまっとうします」と顔を紅潮させて誓う学生もいた。
本人はイエスだが、家庭の事情で決まらない学生が多かった。その事情はいろいろであった。父母を大学にまで呼び出し説得しても空回りし断念した学生もいた。
ある地方からの学生で、日本の高校から進学してきた学業優秀なB君は、父親がガンとして首を縦に振らなかった。父は数店のパチンコ店を営んでいた。
学校にも呼べず、それでも帰りの交通費ぐらいは出してくれるだろうとの目論見で家庭訪問をすることにした。
最初は、この子が店を継がなくてはならないから駄目だの一点張りだった。しかしもう一つの難関があった。B君の叔父が二人いて一人は韓国に、そしてもう一人が民団の現職幹部で、徹底的に反対していると言うことであった。
若気のいたりだろうか、または任務への義務感からか、私はその叔父に会いたいといった。すると「先生、そりゃだめです。血を見るかも」と言うのだった。
母親も「お前の思いもわかるのだが…」と涙を流しながら、思い留まってほしいというのだ。こうして話は結論が出ないままで大学に引き上げた。
明るく活発なB君が、大学に帰ってからはすっかり元気がなく悩み続けていた。
そんなある日、中間総括会があった。当然順調に成果を上げている同僚とそうでない人がいた。ある先輩教員が「とにかく根気よく説得することだよ、一晩かかっても、繰り返しの連続であってもいい。こちらは絶対に引かないことだよ」とアドバイスしてくれるのであった。
私とB君との「談話」は、もう根気比べ、体力比べの域に達していた。とうとうB君は夜も更けるころ、「親との縁を切ってでも」といい説得に応じた。
彼は家に戻り両親を前にして「店は弟に継がしてくれ、勘当されても北で勉強したい」と譲らなかった。十日ほどして、彼は晴れた顔で大学に戻ってきた。そして、父母兄弟に送られて新潟を後にしていった。
当時の大学には、いわゆる総連幹部や学校の教師の子弟は決して多数を占めていた訳ではない。祝賀団に選ばれた学生も決して幹部たちの子弟や、学業優秀者だけではなかった。母親を日本人にもつ学生は、多くの場合日本国籍をそのままもっていた。そうしてこのような学生が結構含まれていた。
総連は卒業生の組織への配置などでは、一種の「差別」論理を働かせていて総連中央の重要なポストへは配置しなかった。にもかかわらず、「日本国籍者」が結構選ばれていた。またパチンコ・金融・生産業者などの商工人の子弟も多く含まれていたと思う。
とにかく、総連の幹部政策とは様相の違う祝賀団であった。どうしてこのような人選で構成された二〇〇名もの「祝賀団」が組織され、献上されたのかいまだ謎の部分が多い。しかし、その片棒をあまりにも「忠実」に担いだ自分がそこにいた。
ほんとうに罪なことをしてしまったと思う。
どうしても教え子たちには逢えなかった。そんな資格もなかった。
何を隠そう。私の北に渡った父母はもちろん兄二人と姉、弟までも今は帰らぬ人となり、多くの友も北の地で死んでいった。だが、それにもまして、「地上の楽園」を吹聴して「帰国」させ、「祝賀団」にくい込ませた教え子たち、なかには政治犯収容所の露として消えていった学生たちを思うと胸が痛い。
B君は、その後地方の幹部にはなったが、若くして患い、「先立つ不孝を許してください」との一言をのこして他界した。
私は彼から一通の手紙も、伝言も受けていない。かれの心情を今では痛いほどに理解できる。彼が帰って五年も過ぎたころ、東京での大きな大衆集会で偶然にも、B君の父親にあった。私は「ピョンヤンからは便りがありますか」と訊ねては見たが、アボジの目を直視することはできなかった。恨みのこもった鋭いアボジの眼差しを感じないではいられなかった。
私は一九八〇年の初、父母と兄を続けて亡くし健康も害してはいたが、何よりも「思想的な動揺」から、志を同じにする同僚とともに、荷物をまとめ大学から脱出(脱北)した。あとで知った話だが、当時は大学の教員で脱出、すなわち転向する人が稀であったため、その影響を考えた大学側は数か月間秘密にしていたという。
友人は両親がそれなりの会社を経営していたので、就職、生活の心配はなかったが、こちらは、まず食っていくことから解決しなくてはならず、世渡りのむずかしさを嫌というほど知らされる毎日であった。
その後、縁あって身をかためた。そして思い悩んだのち、父母の墓も訪ね兄弟や甥っ子たちにも逢うべく北を訪問することにした。
総連本部では、訪問に先立っての面会者の名簿申請が要求された。こちらは「過去を捨てた人」であり、事務的な申請手続きを進めただけであった。しかし、世の中は皮肉なもので、大学の後輩たちが総連地方本部の役職についていて私の「正体」はばれていた。
社会部長とかの肩書をもつ幹部が、「先生、親戚だけではなく教え子たちの面会も申請できますよ」とせかせるように言う。
私はペンを握ったまま思いあぐねた。いや、針のむしろに座らされた罪人と変わらなかった。B君をはじめ「祝賀団」に押し込んで青春と人生を破滅させたかっての教え子たちに逢って、謝罪するのが―もちろん頭を下げるだけで許される問題ではない―人間の道理ではないのか。
だのに教え子たちの名前を面談申請欄に書き込めなかったのだ。朝家を出るときは手帳に名前と住所をメモしてきたが、どうしても申請することができず帰りの電車に乗っていた。
あの、呪わしい「説得工作」に加わったK先生などは、そのころまでも現職にいて、北を訪問するたびに教え子を訪問しては励まし、お小遣いまでやってくると言う話を聞いていた(やっぱそれが立派な教育者だろう。俺はそうできないダメな人間だと反問していた)。
約二週間の訪問期間中、ずっと「今からでも申し込んで、B君などに逢ってみるべきでは」と自分に問い続けたが。ふみきれないままで日本へ帰る最後の日をむかえた。
身支度も終えた午後の時間、それでも何かお土産を買おうと思い、ホテルの売店へ降りていった。
私は自分の目を疑わないでは居られなかった。心を鬼にしてピョンヤンにいる親友に逢うことも断念していたのに、玄関横のソファに李哲珠が、間違いなく哲守がそこにいたのだ。二人はしばらく声もなくただ茫然と眼をみつめ合った。そして「おお…」と声をだしただただ抱き合った。涙が留めなくあふれた。私は嘔吐するように泣いた。二日前、兄弟にあったときもこんなには涙が出なかったのに。
二人は、二階のコーヒーショップでお茶を飲み、その横の椅子にさし向って座った。缶ビールとツマミだけでの再会の宴であった。多くの事を語り合った。これはまったくの偶然だった。哲守は日本から来た遠縁の人に面会して帰るところだったと言うのだ。
二人は大切な話をたくさん語りあったはずだが、いまは全部忘れてしまった。だが鮮明に覚えていることは、哲守が「福樹! ところで「あすなろ」は今もあるんだろう」と懐かしそうに訊ねた。「うん、どうかね」と答えたたが、小平市内の二人の喫茶店〝あすなろ〟が、いまも続いているのかどうかはどうでもいい話だった。
二人は共有したかったのだ。朝鮮大学でともに学びともに教鞭をとっていた二人の青春(遅まきの青春も含め)の熱い思い出を、互いの胸に刻印し、いつまでもとどめておきたかったのだ。
一九七〇年代初、大学は総連議長の韓徳銖と金炳植が恐ろしい権力闘争を展開していた。そして、総連式・「文化大革命」の嵐が吹き荒れていた。
哲守の専門は数学だが、彼は音楽的な感性と才能も豊かであった。じつに感情のこもった歌いかたで教員仲間での一等級歌手でもあった。特に西洋音楽・モーツァルトが好きだったが、大学内では、そのことを秘密にしておかなくてはならない時代であった。下手すると「資本主義文化に汚染された教員」として吊るしあげにされるから……。
それでも二人は日曜日になると、学生たちが外出したあと連れ立って小平市内でメシを喰い、きまって音楽喫茶「あすなろ」に入った。
小一時間もすると、私は「いつものとこへ」と言い残し、パチンコ台の前に座っていた。彼はいつまでも音楽を聴きながら待っていてくれた。そして大衆酒場で一杯ひっかけ、武蔵野の雑木林の道を肩を組み歌を唄いながら、独身寮に帰りベッドにもぐり込むのであった。
あの解放感と友情の絆は二人だけの秘密であり、最大の喜びであったと言っても過言ではない。人は自由が奪われるほどに自由を求める生きもののようだ。
もう別れる時間が迫ったころ、哲守は「ところでB君たちにも逢ったのか?」と聞いた。「いや逢わないで帰ることにした」と答えた。彼はじっと私の眼をみつめながら、「わかるよ。俺も会わないでいるから」といった。
沈黙が続いた。
私は「ちょっと待てよ」と言い、売店でお菓子と即席ラーメンを一抱え買った。そして幾ばくかのお金をそっと添えて手土産にした。
ピョンヤン駅まで送るといったが、それは駄目だという。ホテルの玄関で見送った。彼の後姿がどうしてあんなに痛ましく思われたのだろうか。
最初で最後のピョンヤンでの出逢いであり離別であった。哲守は三人の子と妻を残し六年前に逝ってしまった。
その後、子供たちも生まれ、あっという間に月日は過ぎていった。私は意識して友人、特に総連の連中には会わないようにした。「隠遁生活」である。
人間とは勝手なもので「いたし方なかったさ。時代のせいだよ」と言い逃れ、またそう考える方が精神的に楽であったりもした。しかし、私の心底から離れないのが、北に送った教え子たちへの贖罪の念であった。
数年前、いわゆる「主体思想」研究の日本での最高の権威者と言われた朝鮮大学元副学長の朴先生がテレビで、「金日成の主体思想の誤りを指摘し、特に教え子たちを北に送った教育者としての良心の呵責にたえないとの「転向宣言」をされた。先生の行動に感動し尊敬の念を新たにしたのであった。そして自分の「総括」の不十分さと勇気のなさを悔いた。
人生の黄昏期をむかえ、私はただただ教え子たちに許しを請いたい。いまからでも遅くはない、「悪魔」には騙されない。良心をもって生きていきたい。そして行動したい。
北が二〇〇名の学生をさらっていった目的は、なんだったのか?
四年前、図書館で手にした本「在日朝鮮人はなぜ帰国したのか」―監修・小此木政夫―を見て驚いた。
昨今あの「帰国事業」の本質とその実態が心ある人びとの手で明かされているが、朝大生二〇〇名の「集団帰国工作」の目的は十分に解明されてはいない。逆に言うならば、総連や北にとっては触れられたくない陰謀的な、または失敗作の画策であったゆえんではなかろうか。
この本の七九頁のくだりの、対談に出てくる洪祥公(故人)は、私の友人であり朝大の教員仲間であった。対談相手の金さんが「二〇〇人もの集団帰国がたんなる気まぐれではなく、戦略的な目的があったのでは?」との問いに答え、洪君は「この工作に加わった同僚に尋ねてみたが、自分も今もって理解できないと言うのです。学生のなかに日本の国籍をもった学生(母親が日本人)がいました。ところがのちに、このとき帰国した学生のパスポートを使って、北朝鮮から日本に不法入国した者が逮捕されるという事件があったようです」と語っていた。
また「学生の説得工作に加わった者の一部の者ですが、良心の呵責に悩んだ末、頭を地面につけて謝罪しても足りないくらい申し訳ないと書いた手紙を学生に送ったとの事です。手紙を受け取った学生は、同じ仲間と手紙を読み合い、〈一つの区切りにしよう。いまここにいる現実はどうしょうもない。一生懸命に生きるしか方法がない〉としたとのことです。この話を人づてに聞いた手紙を出した主は、胸が締め付けられる思いだったと言ったそうです」と話していた。
思うに洪君も勇気のある対談をしたものだ。
この、学生たちの家庭の共通点は、
●親が必ずしも総連の幹部や熱誠者ではなく、むしろ民団系の同胞子弟である
●商工人子弟と母親が日本人である学生が比較的多い
●成績が優秀でも家庭が貧しい者
●日本高校出身者である
この共通点があったと思う。
このような学生が指名されたことは、大変意図的であり、何か重大な伏線があったとみるべきであろう。
元帰国者問題対策協議会・事務局長で、「帰国事業」の直接的な推進者で、のちに総連と北の体制に反対してたたかってきた新潟の張明秀氏は、一九九一年ごろ、五十人ほどのあの学生たちを選び、日本に送ってパチンコ業などに就いている同級生などを対象に「財政活動」をさせる計画が進んでいたが、日本への脱出者が出ることを心配し霧散したとどこかで主張していたことを記憶している。
二〇〇名のその後の動向はつかみようがないが、多くの親は息子や娘に逢うために北へ出入りしている。それらの話から、なかには「約束が違う」と抗議したり、脱北を企てたりして強制収容所へ送られた学生、また多額の仕送りをあてに堕落した生活をしてきた学生たちのなかには、北のダラ幹の息子たちにとりこまれ不良グループの構成員になったり、覚せい剤中毒に侵され廃人となり、親御さんたちの溜息と地獄の苦しみの発生源となっている。こんな悲劇がどこにあろうか!
じや、何がその目的であったのか? 日本人拉致者の利用方法を見ると明らかなように、「生口」「貢女」としてさらってきた「生きた道具」を、南への特殊工作員養成や日本語の教師養成、パスポート事件のように利用しようとしないわけがない。
しかし、想定外の側面も多く、思ったように事が運ばなかった。それでその後は、監視人同伴での日本訪問などを仕込み、金持ちの親御さんから金や物品の収奪を繰り返してきた。まさに馬賊の人質作戦であり禿鷹のたぐいである。
こんなあくどいことが許されていいのだろうか!
このような金日成親子と昨年「華々しく」出現した三代目・正恩の独裁政権に断を下さない以上、北朝鮮の民主化も人権の回復も望めないばかりか、朝鮮総連は、彼らの格好の収奪と闇の実行集団からの境遇から逃れることはできないであろう。
悪魔の親子、金正日親子に鉄槌を!
二〇一一年五月
『光射せ!7号』P161-168