朝鮮学校の恩師、韓鶴洙先生は拷問で殺された 光射せ!7号より

北朝鮮人権問題

元大阪府教育会会長・元大阪朝鮮高校校長 韓鶴洙(ハナクス)先生は拷問で殺された 〝スパイ〟を断固として認めないため殺して拇印を捺させた 脱北者 李守一

韓鶴洙先生一家と家族ぐるみのつきあい

 韓鶴洙先生の日本(大阪・東京)での活躍は改めて語るまでもない。一九七〇年代までを大阪で過ごした総連活動家や在日同胞のなかで、先生を知らない人はほとんどいない。

 一九七一年と記憶されるが、韓鶴洙先生は片道キップの教育者代表団の一員として北へ「帰国」することになる。

 人望厚い先生とのお別れに総連活動家や同胞、教え子たちはもちろん、日本の政界と教育関係者たちが別れを惜しんでいたころ、出発の何日か前、私は両親とともに八戸ノ里(編集部注=大阪府東大阪市)の先生の自宅へ招かれた。

 韓鶴洙先生の次男、韓星宇は私と二歳違いで、両親たちの付き合で知り合い、夏休みや冬休みの大半をわが家で実の兄弟のように過ごした。

 最初のころは星宇を一人っ子と思っていたが、じつは六〇年代初めに、まだ幼い長男と長女を「帰国」させていたことがわかった。韓鶴洙先生が「帰国」された翌年、一九七二年に韓星宇とオモニは後を追うように「帰国」していった。

 しかしなぜか音信がなかった。韓鶴洙先生は忙しいにしろ、星宇は私にハガキ一枚でもよこすはずなのに……。

 翌年、年賀状で韓鶴洙先生の簡単な挨拶があり、新義州(平安北道 行政委員会教育処副処長)で働いていること、韓星宇たち家族もいっしょにいることがわった(長男と長女は平壌)。

 一九七五年、私たち家族も「帰国」することになった。

 北朝鮮の清津港に着いたとたん聞こえてきたのは「騙された」、「取り返しのつかないことをした」、「どうしよう」と、帰国船から降りる人びとの口から漏れる言葉であった。なるほどこれで、先に帰国した人たちから手紙が来ない理由がなんとなく理解できた。

 清津で、取り調べと配置のため四〇日ほど招待所で過ごした。

 この船は技術集団が多かったため、私は平壌への配置は無理であったが、父が総連専任活動家だったということで、幸いにも農村ではなくある都市に配置された。

 配置されて一月ほど過ぎたある日、突然韓鶴洙先生が「やっと五日ほど休暇をもらえたので飛んできたさ」と、わが家へ来られた(交通が不便なため新義州からまる一日かかる)。

 日本での宣伝とあまりにも大きい違いにおどろいていた父は、「いったいどうなってるんや」と、先生に詰め寄った。それでも先生は「国が国防に力を入れすぎ、国民生活は我慢するしかしょうがないんだ」と、あくまでも前向きであった。父と先生は酒豪家であり朝まで飲み明かしていた。

 先生の「帰国後」、総連での出来事や思い出話などを語り合っていた。そして、話しても話しても話きれないまま、アっという間に先生との別れの日がきた。先生は、私にも「気を落とさず大学まで勉学に励みなさい」と、優しい眼差しで励ましてくださった。お別れの挨拶が終わると、先生はわが家を後にした…。

 これが朝鮮で 韓鶴洙先生と最初で最後の再会であった。

 風の噂に聞こえてきたのは、一九七五年の暮れのことであったと思う。

 韓鶴洙先生がスパイ容疑で取り調べを受けているとの事であった。これを聞いた父は「そんなバカな、容疑もくそもあるもんか! 本当の悪者を疑え!」。

 父は耐え切れず 新義州に行くといってきかない。周りに住む「帰国者」たちが止めてもきかない父に、誰かが「スパイ容疑(政治犯)は本人だけではなく、その家族まで山奥の収容所に送られる。いまあなたが行ったところでなんの弁護もできないし、逆にあなたと家族にまで被害がおよぶ。それでも後悔しないのなら行きなさい」と言うのであった。

 北朝鮮ではなんの抵抗もできないことを教えてくれた。

 さすがの父もわが身は惜しくないが、自分の家族にまで被害を受けるとの一言で力なく座りこんでしまった。あのときの父の悔しがる姿が今も眼の前にうかぶ。

 日本にいるときは 総連と在日の権利のため、警察であれ役所であれ、大声を張りあげ在日の正当な主張を堂々と展開してきた父であるのに、自分の祖国と思いこんでいた北朝鮮で、友人の弁護も発言もできないばかりか、政治犯には法的手続きもできず、弁護も裁判もない矛盾に耐え切れなかったのだ。

 それよりも恐ろしいことは、清津で個人調査のため書かされた内容に親友関係欄があり、韓鶴洙と記入していた。事実、先生は親友訪問の理由で通行証明(北朝鮮では旅行に行く時なくてはならない証明書)を出しており、休暇をわが家ですごしている。また、先生の私的な旅行は私の家以外どこにも出かけたことがなかったのである。

 一九七六年の年が明けてまもなく、父親も数回地元の保衛部に呼び出され調書を取られるなど、韓鶴洙先生の判決(?)次第で、わが家も山奥に追放、もしくは収容所行きが間違いないと周りの人びとは噂し、人の出入りもなくなった。

 一九七六年のある日、韓鶴洙先生の家族がいなくなったという知らせが届いた。

 平壌にいた長男(韓星民)、長女(韓美奈)も 連れていかれたという。

 父は北朝鮮で話にだけ聴いていた独裁の恐ろしさを身近に感じ、真実を喋れない血生ぐさい事態をどう乗り切るかを心配していた。彼らの言う” プロレタリア独裁” とはまったく恐ろしいものである。

 当時、金正日が「国内に潜入しているスパイを摘発しろ!」との指示に従い 、北朝鮮国家保衛部はデッチ上げをしてまでスパイを作り出していた。一九四五年の解放から三〇年もの年月がたっているというのに、スパイを探し出せとの指示が毎週、毎月、毎年下りてくる。この人たちには 現状維持(飯の食いつなぎ)のためにも、良心の呵責も何もあったものではない。

 また、この保衛部に所属している人たちは無知であるうえ、人間としての良心も道理も喪失した輩の集合体である。

 こんなやつらに、一度睨まれ拘束(逮捕状もなく)されると、おぞましい拷問をうけ、事実でないことまで認めざるをえなくなるといわれている。

 北朝鮮と総連で教養用として学ぶ、〝抗日パルチザンの回想記〟に「最後まで拷問に耐え組織の秘密を守りぬいた」と言う決まり文句がある。これは北朝鮮保衛部が日本植民地時代の拷問よりはるかにひどいという証である。

 自分の国民にこのような過酷な仕打ちができるものだろうか? 日本での苦しい生活のなか、祖国と民族のためすべてを犠牲にしてたたかってきた人に対してふるまう仕打ちであろうか?

 韓国の北韓民主化委員会の姜哲煥(カン・チョルファン)氏の手記「収容所の歌」(邦訳=『平壌の水槽』刊)には、韓鶴洙先生と長男韓星民の名前が出てくる。姜氏は同じ収容所で獣よりもひどい扱いを、先生の家族とともに一〇年もの間強いられたと書いている。

 姜氏の祖父は一九六〇年代初め京都商工会会長であった。一九七六年当時、総連出身「帰国者」たちがスパイ容疑で拘束され、その家族が連座制に引っかかり収容所に送られた人びとは数えきれない。

 日本人妻を合わせた「帰国者」十万人のうち、十人に一人の割合でも一万人である。こんな悲劇が北朝鮮では今現在も続いている。国の政策を自分たちだけで単独決定する独裁者たち(この時代は金日成、金正日)が知らなかったと弁明するのは あまりにも面の皮が厚すぎる。

 当時総連では「祖国で誰々が捕まった…」と噂になれば「それは 本人たちがまだ資本主義思想を取り除けないから教養のため捕まった」と言ったそうだ。その張本人が韓徳銖(ハン・ドクス、元朝鮮総連議長)である。

 これは無念の犠牲者たちに対する一度でなく二度の死を強要することであり絶えられない侮辱であり人権の蹂躙である。

 北朝鮮では金正日から金正恩に移り変わろうとする今日、自分の政権地盤を固めるために、また新たな粛清の血の雨が降り続いている。それも知らずに総連は盲目的に独裁者の言いなりになり、一世同胞たちが血と汗で築いた共同財産が独裁者に食い潰されたのをどうして黙認できよう!

 問題は金正日のお墨付きで、同胞の共同財産を独裁者と自分の私利私欲のために食物にした許宗萬のような人間がのさばっていることにある。

十年間強制収容所生活の二男と再会

 一九七〇年代初、金日成は「総連専任たちはほとんど、ろくに給料ももらえなくとも社会主義祖国のために活動する真の愛国者である……。黄金万能の資本主義社会で子供たちの教育に差し支えがあってはならない。わが党は総連専任イルクン(注・活動家)の子供たちを帰国させ、大学、就職まで面倒を見ることにしました…」と教示した。総連活動家たちは 自分たちの苦労を誰よりもご存知であられる首領さまに感謝し忠誠を誓ったのであった。

 金日成は独裁国家の政治家らしくとてつもない嘘を平気で言う。

 この教示に騙され、総連活動家たちは命にも代えられない息子や娘たちを人質に取らわれ、いまだに総連から足を抜くことができない人が大半である(あとでわかったことだが、この騙し文句に、在日帰国事業と子供たちを人質に取られた事件は、なんと韓徳銖の入れ知恵であった)。

 金日成と韓徳銖のため、九万三千人の在日と日本人妻が地獄に落とされ、一度しかない人生を根こそぎ狂わされたのだ。

 それだけではない。韓鶴洙先生のように有りもしないスパイ容疑で処刑された無念の在日たちは数えきれない。

 私のような在日「帰国者」の若い世代は、住み慣れた日本とはあまりにも対照的環境で自由の束縛、遅れた経済、不衛生、規律生活(編注:私生活を無視した統制生活)のため、精神病で死んだ若者たちがいかに多いことか?(精神病は栄養失調をともなうと、病状は悪化し、やがて死んでいくことを知っている当局は、病気を治すのではなくわざと見殺しにする)。

 一九八六年、韓鶴洙先生の家族が収容所から出所してきたという噂を耳にした。

 朝鮮ではデマが多いから「本人を確認するまでは信じない」と私は 半信半疑でいた。

 噂が流れて二カ月ほど過ぎたある日、韓星宇がわが家を訪れた。あまりの懐かしさに、

「星宇、お前十年間もどこ行っとったんや?」、

星宇は、

「山で道に迷うて帰って来られへんかったんや」、

とさり気なく答える。

「この方向音痴め!」、

との短い挨拶(日本語)で十年前の星宇に変わりないことを確認する。

 しかし、懐かしさに微笑む笑顔の裏には十年もの間、北朝鮮一般社会に住んでいる人びとにも想像できない人権蹂躙と食糧難を体験し、生き抜いてきた不死身の青年へと彼は成長していた。

 星宇は、赤ん坊のとき兄弟(長男、長女)が帰国したため、一人っ子のように育ち、勉強はできたが好き嫌いが多く体はひ弱なほうであった。ハムと卵しか食べなかったあの偏食家が動物の飼料以下の食べ物で十年間を生きぬいたのだ。

 毎日十二時間以上の重労働、日に三回の点呼(朝六時夏は五時、昼、夜十時)が一番辛かったと語った。

 収容所内で脱走者が捕まり、見せしめのため公開処刑されたとき、「犯罪人」にはもちろん、集められた人たちにまで銃口を向けるというのだ。

 なんの罪もない人たちが 凶悪犯以下の取り扱いをうけ、耐え切れないほどの人権蹂躙に歯を食いしばり耐えたと涙ぐむのだった。

 彼は、あまりにも想像できない話に驚ろく私に配慮してか、おもしろい話も聞かせてくれた。山に落とし穴を掘って、かかったイノシシなどは最高の獲物で、一度はその穴に熊がはまっていたのに驚き、大人数十人で槍みたいな物でまるで原始人のごとく熊をしとめた話をユーモアたっぷり話してくれた。ヘビも大変な御馳走のひとつであったと話していた。

 姜哲煥氏の「収容所の歌」にはネズミを食べなければ収容所では生きのびることはできないと書かれていたが、星宇は私にその話はしなかった。いくらなんでもそれだけは言いたくなかったようだ。

 収容所では、毎年のように長い冬が過ぎ、春になると人びとがバタバタと倒れ死んでいく。栄養失調の結果である。

 星宇のオモニも出所二年前の春亡くなったとのことだった。

 私はこの話を聞き、北朝鮮は地獄そのもので、そのどん底がこの収容所だと思った。しかし、帰国者たちの行った収容所は時には出所できる可能性もあるが、生きては二度と出てこれない収容所がまたその奥にあるとのことだった。

 民主的な、平等な社会を創造すると言いながら、裏では独裁・恐怖政治で国民たちを脅かし、自分の独裁を正当化するため、アメリカ、韓国と言う「敵」を創り、敵のスパイは許せないとの口実のもと公然と人びとを捕まえ「スパイ」として抹殺する。こうして金日成、金正日親子はあの世にしかないはずの地獄をこの世に創造した「天才」である。

 これが北朝鮮が「地上の楽園」という社会主義国家の実態である。

先生を殺した下手人をつきとめた長男

 韓星民・韓星宇は出所後、平安南道の林山事業所に配置され北朝鮮一般公民として働くようになった(収容所内は政治犯罪者として扱われるため、公民権剥奪、上訴および書信の自由などが剥奪される)。

 北朝鮮という社会は、言論の自由、デモ集会の自由、居住の自由、海外往来の自由、海外情報、文化(音楽、映画)観賞の自由、海外への通信の自由はいっさいない。そして、外国から来た人(外人および海外同胞含む)との面会は庶民たちにはいっさい認められない(「帰国者」の場合、親戚のみ国家の統制下でごく一部だけ認められる)。

 その上 徹底した身分(成分)制度。月給では三日も生活できないためやむをえずおこなう闇商売も統制され、服装、髪型(髭)も自由にできない…数えきれないほどの不自由と不便だらけの社会である。

 収容所内の人権蹂躙と迫害がどれほど過酷であったか、こんな不自由と不便だらけの北朝鮮の一般社会に復帰すると「天国に来た思いだ」と彼らは述べる。

 韓星民兄弟は生まれつき真面目な性格と、収容所で十年間鍛えあげた木こり作業に驚いた林山事業所支配人(社長)は彼らを特別待遇し人間的にも親しくなったと言う。

 長男韓星民は過ぎ去った十年間の苦労と父の無念の死をどうしても納得できず、それを明かすため支配人に訳を話し、休暇をとって平壌に行くことにした。

 韓星民、韓美奈は万景台革命学院を卒業していた(この学院は親が亡くなった抗日パルチサン、党、軍幹部要職の子孫たちのみを受け入れる北朝鮮最高のエリート孤児院である)。

 一九六〇年代はじめには幼い兄弟を受け入れる施設が多くないため、父親が総連専任でもあったので在日向けの宣伝用に二人を入院(入学)させたと伝えられている。(一九六七年ごろ 総連専任の子女専用の寄宿舎ができたため、その後この学院には「帰国者」の入院記録はない)こういう訳で、その学院の子供たちは身分制度上、トップクラスのエリートであり卒業生たちは当然、党、軍の要職に就くように定められている。

 韓星民は当時三〇代半ばなので同級生たちも一定の役職に就いていた。

 四〇人ほどいる同級生一人一人に会い、十年間の経緯を話し、父の死の解明を頼みこんだが、みんな「さわらぬ神に祟りなし」と、ほかの事ならなんでも力になるがこの問題だけには触れたがらなかったという。つまり国家保衛部の再調査の要請である。

 金正日は一九七四年、後継者の座を確保したあと叔父金英柱、義母金聖愛、異腹兄弟金平日、金成日たちを監禁あるいは海外追放し、党、軍の要職幹部たちを国家保衛部長金ビョンファに命令し粛清を開始した。

 粛清も一段落した一九七九年(?一九八〇年)、金正日は証拠隠滅のため国家保衛部長金ビョンファを逆にスパイ容疑で粛清し国家保衛部長の座を空席にし、事実上金正日本人が兼任していた(二〇〇九年金正恩に移譲するまで)。

 韓星民が再調査を要請しようとしていた一九八六年当時の国家保衛部は金正日の手中にあったので、誰もがこのことだけには触れたがらなかった。

 韓鶴洙先生の事件、つまり一九七五年末と言う時期が、金正日の粛清がはじまるころなので、もし韓鶴洙事件が金正日が粛清した者たちとなんらかの関連があれば、それはとりかえしのつかない事態を招くことは間違いない。

 また、いくら幼い時からの級友とはいえ、韓星民は「帰国者」であるから彼ら同級生たちは権力の裏を明かすことはできないと判断し尻込みしたのであろう。

 こうした内幕を知らないまま韓星民は失望して平壌を去った。

 林山事業所に戻った韓星民は、どのルートから糸口をたどればいいのか考え続けた。このままでは保衛部監獄で無念に亡くなった父、そして出所まであと二年を耐え切れずに収容所で亡くなった母に対し、長男として申し訳ないという気持ちをどうする事もできなかった。それに高等中学卒業直前に収容所に送られた弟の将来を考えると眠れない日々が続いた。

 収容所に行く前、弟星宇は新義州の高等中学校から国家科学院直属理科大学へ推薦され、入学試験でも成績優秀、最終面接で「合格通知を待っていなさい」と太鼓判を押してもらったほどである。このような訳で韓星民は弟の進学を見捨てる訳にはいかなかった。そのためにも、父韓鶴洙のスパイと言う汚名を雪ぐ以外方法がなかった。

 そんなある日、万景台学院から大学まで同期生であった親友から手紙が届き、父親の生年月日、保衛部に行った当時の職場、家族が収容所に送られた日時を知らせろ、とのことであった。

 返事を出して三カ月ほど過ぎたある日、黒塗りのベンツに乗り親友が現われた。党中央行政部(司法、警察担当)に所属しているといった。しかし保衛部は軍の所属であるため関与できないという。そこで仕事がら国家保衛部の平安道担当者と知り合いになり、何度か会う機会をつくり親しくなったという。

 お互い安心し合った後、さり気なく十年前に韓鶴洙事件担当者を調べたところ、何年か前に平安北道保衛部内部で権力争いに敗れた韓鶴洙事件担当者が、賄賂事件を暴露されて除隊したことがわかった。幸い現職でなく除隊していたので、再調査でなく一般人としていくらでも締め上げる事は可能だと言うのであった。

 そのときの感激、親友のありがたさと同時に事件担当者への怒り。十年間のつらい思い出がごっちゃ混ぜになり、韓星民は涙しか出なかったと言う。

 韓星民は、その日のうちに親友のベンツに乗って平壌に行った。親友は「オレはここで降りる」といって「後は運転手に話してあるから」といった。その車で新義州付近の小さな町に向け車を走らせた(その担当者は権力争いの末、出党撤職を受け故郷に帰っていた)。

 ちなみに移動の際、通行証がいるが党中央№二一六(車)とあれば厳格な平壌出入りの検問もパスできるのである。二一六は金正日の誕生月日の二月十六日を意味し、党の上層幹部にのみ許された車である。

 目的地に近づいた時、運転手が「部長からお話しは伺っております。本人には私から話しますので合図をするまでは黙っていてください」と、なにか意味ありげに語りかけてきた。

 午後六時、元担当者は黒塗りのベンツに圧倒されながらやってきた。

 「劉君でしょう? 二年前のあなたの賄賂事件で幾つか伺いに来ました」と言う挨拶から始まり、手帳に書き込みながら当時の内部権力争いの経緯を聞きだし、現在の平安北道保衛部の悪事や個人的な悪事情報を聞き込んだあと、夕食となった。

 事件担当者はてっきり自分の言い分を聞き、現職復帰への手助けをしてくれる恩人と思い込んでいた。

 酒が一杯入ったころには 自分に有利な証言と現職保衛部の悪事を喋りまくっていたという。

……

 一般的に保衛部の悪事とは

 ①容疑者を逮捕(逮捕状なし)拘束し、拷問で事実とは違う証言をさせ自分たちのシナリオ通り事件を進めていく。拷問に負け、罪を認めたあと「お前の罪は許されない。しかし家族は助けなきゃダメじゃないか? そのためにはほかの人の動向を話しなさい」。こう言う調子で罪もない人を巻き込む。

 ②容疑者から犯罪とは無関係だとわかると、それなりの賄賂を貰って帰す。このとき容疑者の親戚関係を把握し、あとで仕返しをする幹部が居ない事を確認したうえで賄賂を受け取る。

 大きく分類すると このようなものである。

……

 運転手は、酒が回ったころ事件担当者に「あなたは十年ほど前、韓鶴洙と言うスパイを裁いたのになぜ英雄称号をもらえなかったのか?」とさりげなく聞くと、事件担当者は「スパイ事件は一網打尽にしないことにはあまり意味がない。あの男がもう少し長生きしていたらたぶんそうなっていたし、英雄称号さえあれば今の自分のように惨めな立場ではなかったと思います」と言ったそうだ。

 事件担当者が保衛部の悪事を語るなかで「拷問中容疑者が死ぬ時がある、するとその死体からこちらで仕込んだ陳述書に拇印を押す」と言う話を語った。そのとき、そばで聞いていた韓星民は、合図を待ちきれず怒りを爆発させた。

 事件担当者の胸倉を掴み「このガキ! オレのオヤジを殺したうえ、スパイに仕立て上げ、英雄称号だと?」もう止められる状態ではなかった。

 「お前みたいな虫けらのような奴のため十年間獣のような扱いを受け……今日この日のために生き抜いてきたんだ!」。事件担当者は半殺しにされ、気絶寸前であった。

 その時運転手が「お前のした悪事は全部分かっている。しかしまだ上(金正日)には報告していないので素直に白状すれば家族は助かるはずだ」。

 事件担当者は観念したかのように「拷問で殺したのではありません。信じてください。連日の尋問で血圧の高かった先生は十日目に大動脈脳出血で急死しました。保衛部内の医師に聞いてもわかります。死後、拇印を押したのは確かです。

 ご存じの通り保衛部では、まだ判決が決まらない尋問中の容疑者が死ぬと担当者の責任になるので、しょうがなく拇印を押しました。本人と家族の方には本当にすまない事をしました」

 運転手は以上の陳述書を作成し署名させた。

 韓星民はこんな奴らのペン先一つで自分たち家族におわされたあまりにも惨い仕打ちを振り返りながらくやし涙を流した。

 しかし北朝鮮保衛部での拷問が無ければ、十日間で健康な先生が死ぬ事はまずない。

 それから一カ月ほどして韓星民は私の父に、父韓鶴洙が名誉回復した事を伝えにわざわざ訪れた。

 その年、韓星宇も大学に進学し、新しい人生がはじまった。

 後に韓星民は平城家具工場を設立し、従業員思いのよき支配人となった。工場設立に欠かせない機材を送ってくださった、父の在日の友人に対する感謝の気持ちを忘れないためにも星民は愚痴ることなく、もくもくと働いている。

 ここに掲載されている内容は 当事者韓星民、韓星宇から直接聞いた話である。

 クライマックスのいわゆる名誉回復は、韓星民が万景台学院卒業生であったがゆえに可能となったのであり、ほかの人には想像もできないことである。

 金正日から金正恩の時代に変わろうとする現在、新たな粛清の血の雨が降っているのが現状である。

 なんの罪があって北朝鮮国民は六十六年ものあいだ三代にわたって独裁下にあえがなくてはならないのだろうか?

 貧困な生活状況、国民を餓死させても平気で国のトップだと主張する独裁者をこれ以上許せない。

 朝鮮総連は独裁国家に盲従するのではなく、北朝鮮民主化のため立ち上がるべきである。それでこそ民族のため、北にいる家族のために役立つ本当の姿だ。

*    *    *

 この手記を読まれた方のうち、現役の総連幹部たちもおられると思います。

 そのなかには使命感をもってこの手記を本国に送ろうとする人に告げたい。あなたのしようとすることは祖国のためでも民族のためでもなく、独裁者の手先になり妄従しているにすぎない。

 この手記が本国にとどけば言うまでもなく迫害を受ける韓星民、韓星守たちの事を他人事にしか思えないのであればとめないが、その時は、良心と道徳をもつ人間としてではなく、人間の皮をかぶった獣(けだもの)として送るが良い。

二〇一一年五月二十日  脱北者 李 守一

1972年ごろの北朝鮮での韓鶴洙先生一家(右から先生、星宇、明子夫人、美奈、星民)

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