炭鉱で生き延びる韓国軍捕虜たち
私か穏城郡商業管理所で指導員として働いていた当時、韓国軍の捕虜を何人か見た。朝鮮戦争で捕らわれた韓国軍捕虜は、一九七一年までは平安南道の集団収容所に入れられていたが、それ以後は穏城郡の周原炭坑、豊仁炭坑、上和炭坑、穏城炭坑等に配置された。
当時、穏城郡の韓国軍捕虜は数百名にも膨らんでいた。私は職業上、生活物資の供給のために韓国軍捕虜が収容されている炭坑の合宿所を訪問する機会があった。強制労役に苦しむ彼らの様子は、乞食の群れを彷彿させ、見るも気の毒だった。韓国軍捕虜は数十名ずつ、ひとつの中隊にまとめられて、北朝鮮生まれの人間とは隔離されて働かされていた。
六五号供給所の所長に赴任してから私は、彼らが作業を行なう坑内にも入ってみた。正月元旦、郡党責任秘書と一緒に物資を持って坑内に入った私は、片隅に集まって身を縮めている人々を見てとても驚いたことを覚えている。他の坑夫たちは郡党秘書と嬉しそうに挨拶を交わすのに、彼らは憂鬱な表情で視線を避けていた。郡党秘書に尋ねると、視線を落としているのは韓国軍捕虜で、皆がスパイ任務の疑いがあるという。
坑内の高さはたった一メートルほどだ。坑道はとても狭くて、腰を伸ばせないのは無論のこと、膝を曲げて作業しなければならない。蒸し暑いせいか、韓国軍捕虜たちは真っ黒に汚れたバンツ一枚だけの姿、裸同然の格好で働いていた。
彼らには機械や装備も与えられていない。短い柄のスコップとツルハシだけで採炭作業をする完全な手掘りである。まるで原始時代の奴隷のような労働を強要されていた。
韓国軍捕虜は一生を炭坑の地下採掘場で過ごさねばならない。結婚する場合には、北朝鮮では出身成分の悪い女(南朝鮮の越南者家族)を配偶者にあてがわれる。彼らの子供たちには中学教育までしか許されず、軍隊入隊も拒否されている。父と一緒に坑夫として働くという選択肢のみが、唯一の将来の道だった。
当然、生活も赤貧洗うがごとしである。彼らの家に行ってみると、部屋の床には敷きゴザもなく、掛けぶとんもろくになかった。
韓国軍捕虜の中に、今でも記憶に残っている人が何人かいる。
慶尚道が故郷だという金敬照は、韓国に妻と二人の子供を残しているという。戦争前には農業をしていた彼は、家族に入隊の事実を隠したまま戦場に出た。軍隊に行くと言えば妻が驚くと思い、「ひと月くらい都会を見物をして、他の仕事でも探してくる」とごまかして家を後にした。当時、彼は、一カ月程度で戦争が終わるだろうと踏んでいたので、よけいな心配はかけまいと思ったのである。
妻は何か感じるものがあったのか、「今は戦争中なのに。もしかしてあなた、軍隊に行くんじゃないの」と尋ねた。無言の夫を見て妻は察したのだろう。彼女は夫が家を発つ日、餅を作り、風呂敷に包んで持たせた。
金敬照さんは戦争に出た後も、その風呂敷を大事に懐に入れ、妻を思い出していたという。だが、故郷の妻と自分をつなぐ風呂敷も捕虜収容所で奪われてしまった。そして今、彼は拷問を受けた後遺症で片方の足を引きずりながら、黙々と地下の坑道で石炭を掘り続けている。
北朝鮮で新たな家庭を築いているにもかかわらず、南に残してきた妻の話をよくしていたのは、忠清道の金鐘銀だった。彼は結婚してまもなく入隊し、捕虜になった。妻の妊娠の知らせを最後に家族からの消息は途絶えた。それだけに彼はとても南の妻を懐かしんでいて、「今でも妻は、結婚式で履いていた花靴を抱えて私を待っている」と、口癖のように語っていた。
金鐘銀さんと彼女は同じ村で育った幼なじみだそうである。恋愛中にはよくこんな遊びをしたという。彼が柿の木のてっぺんに登って身を隠し、彼女に探させる。彼女が自分を探せないようだと、柿をわざと落として知らせる。彼の故郷は柿の有名な産地だった。しかし、今はもう南の妻に居場所を知らせる術はない。
こちらに家族がありながら、あまりにも南の妻との思い出を懐かしむので、周囲の人々は冗談で、「おじさん、統一されて故郷に行けるようになったら、こちらにいる奥さんをどうするつもりなの。なぜ、もう会えないかもしれない南朝鮮の奥さんの身の上話をするの」とからかった。
と、金鐘銀はそのたびにきっぱりと答える。
「ここは仮の住みかだから、統一さえされれば韓国の妻のもとに行くよ」
「今までどこの誰が待っているものですか。とっくにいい男と一緒になっていますよ」
とからかってもなおも、「いいや、彼女は必ず私を待っているよ」と譲らない。
彼は性格がとても楽天的で、唄をよく歌った。折に触れては、しっとりとした声で自身の境遇を唄に託して歌っていたのを思い出す。
同じく忠清道出身の李鐘九は、七人兄弟の末っ子だと言っていた。彼は在学中に参戦、独身のまま戦地に赴き、捕らわれた。
韓国軍捕虜は、当局の監視下で一生を暮らさなければならない。炭坑で密告でもされると、無条件に連れ出されてひどい目にあわされたり、いつでも囚人扱いを受けた。彼らの共通した願いは、「統一された故郷の地に行き、死ぬこと」だという。
ひとつ驚かされる事実があった。彼らの生活環境はとんでもなく劣悪で、いつ何時大きな事故が起こっても不思議ではない炭坑の採掘場で、無防備な状態で働いている。にもかかわらず、一度として彼らが働いている坑道が崩れた噂を聞いたことがない。他の炭坑では事故が絶えないのに、韓国軍捕虜が働いている炭坑では事故がない。私は、「神様の御加護があるのかしら」と密かに考えたりもした。
穏城郡以外に咸鏡北道で韓国軍捕虜が働いている炭坑は、恩徳郡の阿吾地炭坑、セッピョル(新星の意)郡の龍北炭坑、下面炭坑などである。
『北朝鮮 泣いている女たち―价川女子刑務所の2000日 (ワニ文庫)』P235-240
※トップ画像は『北朝鮮全巨里(チョンゴリ)教化所―人道犯罪の現場』より、一番近いイメージの絵を引用。