祖国訪問時に拉致され、収容所送りになった在日朝鮮人『さらば、収容所国家北朝鮮』 姜哲煥著/落合信彦監修 P134-137

北朝鮮人権問題

同胞を騙して北朝鮮へ売る朝鮮総連。

収容所に送られた一時帰国者

日本からの帰国者だけの居住区域である10班村には、私がいた約10年間のあいだに約5800人が送り込まれてきた。

そのうちの900~1000人が独身者で、残りの5000人弱は、すべてその家族である。10班村には私たちのような家族収容者が入るマッチ箱のような家が800戸前後あった。

耀徳収容所に初めて在日朝鮮人帰国者が送り込まれたのは1974年。このときは約100世帯800人ほどが革命化区域に収容された。その後、年を追うごとに帰国者の収容者は増え続け、毎年500~1000人のぺースで送り込まれてきた。

もちろん収容者は100パーセント何の罪も犯していないのだから、当然その家族には収容される理由など、あるわけがない。それにもかかわらず、このような蛮行が実施されたのは、金日成・正日親子が日本からの帰国者を体制を揺るがす可能性のある危険分子と見なしていたからだ。

(中略)

私の一家を含め、在日朝鮮人帰国者は収容されるまでは豊かな暮らしをしていたものが多いので、人一倍の苦労を強いられ、環境に適応できずに死亡する率が高い。収容されて1、2年で一家全員が栄養失調で死ぬ例も珍しくなかった。

素直に言って悲惨な運命を辿った一家をいちいち列挙していったら、いくらスペースがあっても足りないほどだ。しかし、私のような収容者から見てもあまりに気の毒で、ぜひ触れておきたい一家がある。

それは李春和一家だ。

彼女が収容所に次男の李世鳳、長女の李美和とともに耀徳収容所に送られてきたのは1983年のことだ。

この一家3人は帰国者ではなく、東京から祖国訪問団の中に入って一時帰国している間に拉致され、〝山送り〟になったのである。私の知る限り、一時帰国中に連行されてきたのはこの一家だけだったと思う。

82年末、李春和は祖国訪問団の一員として、次男、長女とともに新潟から祖国へ向かった。目的は62年に単身北朝鮮へ帰った夫の行方を捜し、再会するためである。彼女の夫・李ジュンリョンは62年に妻や周囲の反対を押し切って帰国。数年後に消息不明となっていた。

李春和は夫が北に帰ってしまったあと、トラックの運転手をして4人の子供を立派に育て上げ、それが一段落したのを期に消息不明となった夫との再会を思いだったのである。

祖国にやってきたものの、夫の消息は手掛かりすらつかめなかった。平壌に1ヵ月、咸境北道の金策に5ヵ月滞在し、政府の機関や在日帰国者の家々をくまなく回ってみたが、努力は何の結果も生まなかった。

そして、諦めて東京に帰ろうかと思案していたとき、一家に突然予想だにしない不幸が襲いかかる。〝スパイ罪〟で当局に連行されてしまったのである。

(中略)

祖母が李春和をたいへん気の毒がり、よく世話を焼いていたので、私も世鳳と話すことがよくあった。

彼はよく朝鮮総連に騙されたと言っていた。

父・ジュンリョンは実はスパイ罪で粛清されていたにもかかわらず、東京の総連幹部は李春和に〝夫に会わせてやる〟と言って一時帰国団に入るよう薦めたのである。その言葉を真に受け、春和は300万円ものカネを用意したうえで、82年末、新潟を出港したのだった。

(中略)

彼女の自慢はふたつあった。長男のチョルヘが日本で最もレベルの高い東京大学に入学した秀才であること。それに自分は運転手として人の何倍も働いたので、東京都内の道は全部知っている、ということだった。

兄のチョルヘが秀才であることは弟の世鳳もよく囗にしており、自分も東大を目標にしていたのだが……と、ため息をつくのを私は耳にしたことがある。

また春和からチョルヘの写真を見せてもらったことがある。チョルヘが東大を卒業する年に撮ったものだそうだが、写真の中で母と一緒に微笑んでいる彼は、ガッチリした感じで、春和の息子というよりは弟に見えた。

収容された当初、李春和一家は東京での生活から突然地獄に放り込まれ、途方に暮れていた。それでも母・春和は徐々に気を取り直し、私たちが目を見張るほど活発に働き出した。東京でも苦労に苦労を重ねながら4人の子供を育てた大だけに、体力も気力も並み大抵のものではなかったのだろう。

しかし、東京で生まれ育ち、学校でいい成績を上げることだけを目標に生きてきた世鳳は、粗食と重労働に耐えきれなかった。結局、収容所に来て2年目だったと思うが、彼は栄養不良から両眼を失明し、さらに膝の関節が動かなくなってしまった。

その後、私は彼の姿を見かけたことがない。気に掛けたこともなかった。自分が生きるのに精一杯で、他人の心配などしてはいられなかったのだ。

多分、世鳳は死んだのではないかと思う。五体満足な人間でさえ、生きていくのが困難な収容所で失明し、歩行も困難な人間が生きてゆくことは奇跡に近い。

ただ私としては世鳳の分も母・春和と妹の美和が生き続けて、再び東京で長男のチョルへ、三男のソンヘと一緒に暮らせる日が来ることを祈るのみだ。

その後、私は収容所を出たあと、祖国訪問団の関係者から、この家族についての噂を耳にしたことがある。朝鮮総連が東京にいる長男と三男へ春和、世鳳、美和の3人が事故死したため、旅行中の事故に対する保険金を支払うという連絡があったそうなのだ。しかし残されたふたりの息子はそれを信じず、朝鮮総連を通じて北朝鮮当局に何度も行方を問い合わせているという。

さらば、収容所国家北朝鮮』 姜哲煥著/落合信彦監修 P134-137