かるめぎ No.37 2001.03.01

会報『かるめぎ』の過去号を、旧サイトから、順次こちらにアップしていきます。この機会に、過去の『かるめぎ』を通して、守る会の歩みを知っていただければ幸いです。

(旧サイトより転載:http://hrnk.trycomp.net/archive/karu37go.htm)

いよいよ 中・四国支部ができます!!

みなさん、こんにちは!

 本日(2月12日)近くの書店に行ったら、「北朝鮮はるかなり(上・下巻)」が店頭に並んでいました。もちろん著者は成蕙翼пiソンヘラン)さん、訳者は「守る会の」萩原遼先生です。この書籍については「守る会」の方がたには説明するまでもありませんが、今号の「かるめぎ」は下記の要領で実施される中国・四国支部設立時に会員以外の方にも配布しますので中国・四国支部からも宣伝させてください!

 成蕙翼というのは、金正日総書記の前妻の姉で「金正日15号官邸の抜け穴」を著した李韓永さんの母でもあります。また金正日総書記の後継者である金正男さんの伯母でもあります。彼女はまさしく北朝鮮ロイヤルファミリーの中枢にいた方であります。「北朝鮮はるかなり」は、そのような彼女が北朝鮮を脱出して初めて著した手記であります。私は先刻読み始めたばかりで、残念ながら上巻の54ページで中断しましたが、このページまでの読後感は朝鮮現代史に翻弄された祖母、母、娘(著者)の女性三代が辿った壮大なノンフィクション物語であります。朝鮮版「ワイルドスワン」と言い換えることができるかも知れません。私は早急にこの原稿を書き上げて再び読むことにします! みなさんも是非読んで下さい!

趙 博さんも応援に駆けつけます!!

 さて、中国・四国支部結成式では萩原遼先生の記念講演会のほかに、趙博(ちょう・ばく)さんの記念ライブと萩原遼先生と趙博さんとの記念トークが追加公演されることになりました。趙博さんは、1956年大阪生まれ、在日韓国人二世。元関西大学講師。現在、河合塾英語科講師のかたわら、コミュニティ放送局FMわいわいDJ担当し、ミュージシャンとして年に80回以上のライブコンサート・公演を行っています。92年にファーストCDアルバム(Rapture & Rage)、95年にはセカンドアルバム「爛漫」、99年CD「ソリマダン」「橋/長らくご無沙汰しているけど」、2000年6月CD「ガーリック・チンドン」を発表され精力的に活動されています。なお結成式では四国地方の在日韓国人の方も参加される予定ですので、単なる人権運動だけではなく日朝友好の社交場として気楽にご参加していただけ幸甚に存じます。

松山で会いましょう!

 結成式は四国の松山で開催されます。松山は松山城と道後温泉だけではなく、文学の故郷として知られる愚陀仏庵(ぐだぶつあん:正岡子規の私邸。歌会を開き、夏目漱石も同居していた家屋)や優雅な西洋建築の萬翠荘(ばんすいそう:久松侯爵(旧藩主)の別邸。重要文化財)など魅力的な名所がたくさんあります。結成式の前日には観光案内もあります。参加希望者は早めにご連絡下さい。また観光巡りあとは道後温泉で一風呂浴びたあと前夜祭(懇親会)も予定しています。「守る会」の会員以外のかたのご参加も大歓迎です。皆様のご参加を待っています。では、松山で会いましょう!  

中国・四国支部結成式

日 時:2001年3月25日(日)

時 間:午前10時~午後4時

場 所:松山総合コミュニテイーセンター

    松山市湊町7丁目5番地

    TEL(089)-921-8222(代表)

※会場の変更に気をつけて!!

日 程:◆記念ライブ      趙 博

    ◆記念講演      萩原 遼 共同代表

    ◆趙さん、遼さん記念トーク

    ◆中国・四国支部結成式

入場料:無 料

前夜祭・松山観光

日 時:2001年3月24日(土)

時 間:午前10時時~

    (午前10時以後でも到着次第参加可)

場 所:松山城・愚陀仏庵・萬翠荘・道後温泉ほか

    (参加者の希望により変更可)

会 費:実 費(交通費・入場料)

懇 親 会

日 時:2001年3月24日(土)

時 間:午後6時から

場 所:道後(詳しい場所は、本ホームページの掲示板にあります)

会 費:実 費

※ 松山観光、前夜祭(懇親会)、中国・四国支部結成式にご参加(宿泊手配も含む)の方は次までご連絡下さい。懇親会・宿泊の申し込みは、カルメギHPの掲示板でも案内しています。そこから申し込みをされると便利です。

連絡先:福本(℡0893-44-3163)もしくは、松浦(℡0893-44-2468)

結成式会場など一部、かるめぎ1月号(No.36)でご案内した内容が変更になっています。 ご注意下さい!

設立準備委員 福本正樹 池田正彦 松浦照雄

2001年度「守る会」総会&支部・会員交流会 御案内!!

日 時:4月7日(土) 

10:30~12:30  支部・会員交流会(自由参加)

1:30~2:50  総会

3:00~5:00  講演会

テーマ:「帰国者問題に関する今後の課題を考える
      -知る権利と義務、そして知った責任を問いながら-」

講 師:山田文明氏(大阪経済大学助教授/運営委員)

    藤森克美弁護士

場 所:文京シビックセンター3階 シビックホール会議室1

    (集会室がたくさんあります、ご注意ください)

     文京区春日1-16-21 TEL 03-5803-1100 

交 通:営団地下鉄南北線・丸の内線後楽園駅

    都営地下鉄三田線・大江戸線春日駅下車徒歩2分

    (文京シビックセンターの地下2階に出られます)

ソウルからの通信 -最終回-  東 昇平

経済の鈍化にともない 北朝鮮ブームはトーンダウン 金大中大統領の支持率30%に急落

 韓国ソウルは20年ぶりの大雪となり、寒い日が続いている。季節の移り変わりとともに、南北関係好転の勢いも衰えてきた。

 金大中大統領は南北首脳会談直後には70%に達した支持率が、現在では30%前後に低下してしまった。とても直近にノーベル平和賞を受賞した政治家の支持率とは思えない。対北朝鮮政策もスローダウンを余儀なくされているのである。

 金大中政権にとって、経済改革を着実に推進し、経済を安定成長の軌道に乗せることが最も重要な課題となっている。韓国経済は構造調整の遅れに半導体価格の低下や原油価格の高騰等の外的要因も重なり、最近では経済の先行きに対する不安が高まった。例えば、現代建設の流動性危機、大宇自動車等大手財閥企業の会社更生法適用、消費の低迷等にそれらが顕著に表れている。

 2002年末の予定されている次期大統領選挙を見据え、金大中大統領は既にレームダック化(政権末期に権力者が力を失っていくこと)したとの見方が多勢を占めており、今後は政界再編の可能性や憲法改正論議を含めて与野党間で様々な動きが出てくるものと見られている。

 一方、北朝鮮の外交攻勢は継続して積極性を見せ、2月6日にはカナダとの国交正常化のニュースが入ってきた。一昨年末からの外交積極化により、フィリピン、オーストラリア、ベルギー等とも国交正常化に成功してきたわけだが、カナダとの国交樹立により主要先進7ヶ国の中ではイタリア、イギリスに続き三カ国目となる。このような動きは昨年、日本のマスコミや学界で、日本もバスに乗り遅れまいとする「バス乗り遅れ論」を生んだが、北朝鮮が日本との国交正常化を真に望んでいない限りバスに乗ることはできないし、バスに乗る必要もないであろう。

 そのような政治的ニュースは様々な形で流されるものの、ソウルのテレビ、新聞で取り上げられた北朝鮮ブームは完全にトーンダウンした。南北首脳会談以後、統一、統一と声高に叫ばれ、知識人、学生のみならず、市場で働くアジュンマ達もがみな統一を期待した半年前とは、ソウルの雰囲気が全く違っている。「首脳会談をしたところで何も変わらない」、これが市民の一般的な考えである。

学府で拾った「金正日」肖像画ビラ

 昨年末、私が通う大学でこのようなビラを拾った。ビラには金正日の大きな肖像画が描かれ、「創党55周年を迎える朝鮮労働党に栄光を」、「朝鮮労働党総書記であられる民族の偉大な太陽金正日将軍様」と書かれている。その裏には「金正日将軍は7千万同胞が仰ぐ民族の父、祖国統一の救世」、「民衆の熱狂的な歓呼に答礼を送られる金正日将軍様」となっている。北朝鮮の経済状況ではとても考えられないような耐水性の上質カラー印刷物である。下に小さく「白頭星会」と書かれているので、これが発行所なのだろう。

 冷戦時代にはこのようなビラが多くソウルに撒かれた。朝鮮半島を南向きの風が吹く時、北朝鮮が風船に大量のビラを付けて飛ばすのだという。もちろん韓国側も北朝鮮向けの宣伝ビラをばらまいた時期があった。それにしても和解「ムード」を自ら作っておきながら、このビラはひどいのではないだろうか。「ムード」はしょせん「ムード」に過ぎない。

 オドゥ山統一展望台というところがある。いくつかのガイドブックにも紹介されているが、ソウルから1時間ほど列車で北に行った所にある観光地である。北朝鮮の大地が見え、北朝鮮市民の生活や教育システム等を紹介する韓国側の「宣伝」の場である。先般行ってきたが、北朝鮮家庭を模した部屋に行ってもテレビがあったりする等、実際とは乖離している内容物が多い。それでも北朝鮮の実情を理解しようとする多くの韓国市民が訪れている。「統一祈願文」を書くコーナーでは、その必要性如何に疑問を持ち、少し虚しくなった。南北和解「ムード」が醸成された今は今後の方策を具体化する時期に来ている。日本でも「守る会」の存在と役割は大きくなる一方であろう。

最後にあたり

 なお、私個人の都合により「ソウルからの通信」は今号で終わらせて頂くことになった。毎号他愛のないことを書き連ね、原稿の提出が遅れる等、迷惑をお掛けすることが多かった。お詫びしたい。突然のことながら、私は今回、別の仕事のため、ソウルを離れることとなった。このような事情ゆえ「守る会」の活動に直接参与できなくなったが、私はこの小さな人道的運動が少しずつでも大きくなり、国際政治という大きなフィールドを少しでも動かすことのできるような縁の下の存在になることを祈っている。小川晴久、金民柱、萩原遼の著名な三共同代表や運営委員の方々だけでなく、「かるめぎ」読者の方々が知識を共有し、意見を述べあう場であってほしい。これは多くの方が指摘していることだが、講演会や勉強会にどんどん参加され、知人に北朝鮮の現実とこの運動を紹介してほしい。私は皆様に心からお願いしたい。

<ご苦労様でした。編集部一同>

ワシントン便り 萩原 遼

「北朝鮮 米国務省担当官の交渉秘録」の著者・キノネス氏に会えず

 「世の中うまくいかないものだなぁ~」と、つくづく思ったのは1月19日でした。この日、ワシントン市内の戦略国際問題研究所(CSIS)で、韓国与党の最高幹部の一人、李仁済氏の講演会があり、その研究所の若手専任研究員のグレン・ベックさんに招待をうけました。ベッグさんは在米韓国人で、日本でも知られている気鋭の朝鮮問題専門家です。

 私のお目あては李仁済氏ではなくケネス・キノネス氏でした。たぶん彼も来るだろうときいていたのでいそいそと朝早く出かけました。

 キノネス氏は、米国務省の朝鮮課長をした人で、3年ほど前に退職。93年から94年の北朝鮮の核疑惑のさい、米朝交渉に代表団の一員として終始くわわった人です。キノネス氏は朝鮮語がたんのうで夫人は在米コリアン。

「とてもいい人。アジアの情緒がわかる人」

 と別の記者からもきいていたので、私の取材の最初は、この人ときめていました。そこでこの人の書いた『北朝鮮 米国務省担当官の交渉秘録』という本、(昨年9月に中央公論新社から翻訳出版されました。)500ページ、上下2段組みの大著を必死で読み、メモをとったり質問項目をつくったり、準備万端ととのえてCSISに行ったところ、彼はきていない。

 ワシントンで知りあった産経の西田令一記者と昼食をとりながら、キノネス氏の自宅の電話など調べてもらうようたのんで、アパートに戻り次の手を考えていたところ、その産経記者から電話です。

 「きょうのニューヨーク・タイムズ読みましたか。私もさっき読んだところだが、キノネス氏のことがのってるんですよ。でかでかと。10万ドルのワイロをもらっていたと」

 夜10時近くでしたが、すぐ歩いて6~7分のスーパーに走りました。1部だけ残っていました。1面のほとんど全面をつぶすほどの大きさで顔写真つき。10万ドルといえば1千万円。ワイロの内容は、奥さんに最高級車、娘さんの大学の学資など。

 本の中でも奥さんのことなどがよく出てきて、愛妻家の人情家だなあ、この人ならいろいろと教えてもらえそうだなあと、私の期待ははふくらむばかりでしたが……。

 西田氏も
 「ワイロをもらうような人じゃねえ。もう一人のチャック・ダウンズ氏の連絡先、なんとか調べてあげますよ」
 と慰めるようにいってくれました。

「東北アジア地域の情勢変化についての評価」の筆者チャック・ダウンズ氏にお会いする

 チャック・ダウンズ氏とは、元国防総省東アジア局の副局長もやったことのある北朝鮮問題の専門家。『Over the Line(境界線を越えて)北朝鮮の交渉戦略』という著書が1999年に出ていて私も手もとにもっていました。この人が昨年12月にソウルで開かれた「第2回北朝鮮人権・難民問題国際会議」に出席して、論文「東北アジア地域の情勢変化についての評価」を発表しました。この論文が韓国語に訳されて会場で配られたそうです。その論文を会議に参加した朴春仙さんが日本に持ち帰って『かるめぎ』編集部に届けてくれました。それを東海支部の梅村雅英さんが全訳してくれました。1万5千字ほどの長いものです。

 しかし重訳のため意味がよくとおらないところがあり、原文がほしいということで、私が手に入れることになりました。どこに住んでいるのか、西田氏もあちこちの研究所をパソコンで検索してくれたが分からない。結局、別の朝日の記者がチャックさんの名刺を持っていて、それをファックスしてくれました。

 「古い名刺なのでここにいないかもしれないけど、電話してみれば分かるでしょう」

 電話といっても私の英語はスーパーで買い物をしたり、に使うていどのお粗末なもの。しかしそんなこともいっていられず、電話しました。案の定いまはそこにはいない。しかし親切な人もいるものです。彼の自宅の電話を教えてくれました。見知らぬ外国人に他人の自宅の電話をホイホイ教えていいものだろうか。しかしありがたい。とにかくかけてみよう。

悪戦苦闘の英会話

 「チャック・ダウンズです」

 いきなり本人。日本人の朝鮮問題専門家で、あなたの論文を探している、というと

 「論文のタイトルは?」

 英語から韓国語に、それを日本語に訳したものをさらに英語に直したため元のタイトルとは大きく変わっていたのでしょう。

 「そういうものは知らない」

 ソウルの国際会議で配られたものだというと、納得したのか、ではあなたにあげようとなりました。私が日本から来たといったためなのか、

 「私の本が近く日本で翻訳されるんですが」

 「『Over the Line』でしょう。私みな読みました。あれはとても価値ある本でした」

 これはお世辞ではありません。朝鮮戦争休戦協定に始まり、最近の米朝核交渉まで五十年にわたる北朝鮮の交渉を後追いし、5つのパターンに分類しています。面白い本ではないが、こんな地味な研究をやる人は日本ではあまりみかけません。たいへんな労作です。これがきいたのか、話しがスムーズにいったようです。人に会うときは、やはり著書の1冊や2冊はきちんと読んでいくべきだということをあらためて思いました。

 論文をどこで受取るか、急いでいたので自宅に行ってもいいかとたずねると、それはまずい、二日後に昼食をいっしょにしようということになりました。新聞社の支局が多く入っている中心部のナショナル・プレスビルのフロントで落ち合うことに決めました。

 受話器を置いてどっと疲れが。悪戦苦闘の20分でした。しかし嬉しい。私のはじめてのアポイントメントです。こんなに簡単に応じてもらっていいのか。教えてくれた朝日の記者に相談しました。

 「日本の朝鮮問題専門家がわざわざ自分の論文を探してくるということは悪い気はしませんよ。インタビュー料はアメリカ人は受取りません。少なくとも私は払ったことがない。誘った側が食事代を持てばそれでいいんですよ。ギブアンドテークですよ。萩原さんになにか頼みたいんじゃないですか」

ダウンズ氏の著書が日本で翻訳出版

 これは当たっていました。2日後、食事のなかで、ダウンズさんは

 「私の本が日本で出版されたらあなたが書評を書いてくれますか?」

 「もちろん。喜んで」

 これもお世辞ではありません。

 2日後の正午、チャックさんは約束どうり来てくれました。アメリカ人にしては小柄。ことし五十歳。いま浪人中とかで、私が、そこそこの日本料理店のジャパン・インを予約すると

 「日本のレストランは高いから別のところがいいのじゃないか」

 と私の懐を心配してくれました。国防総省の幹部をしていただけに眼光鋭い人ですが、なかなかこまやかな人のようです。

 それから2時間半、食事を挟みながらとはいえ、私の超下手な英語につきあってくれたダウンズ氏には本当にありがたく申し訳なく思いました。こちらの質問にたいする答えは大体見当がつきますが、自分の意見を早口でのべられると理解は半分以下。聞き取れない悔しさと情けなさを痛感しました。これをばねに、新しい進歩があるならば、意義ある日となるでしょう。参考になる本や人や研究所を教えてくれたことも、私にはとても嬉しいことでした。

2001年2月12日 ワシントンにて

 萩原 遼

南北離散家族対面とは何だったのか  川島 高峰 明治大学講師

解説

 それは「50年ぶりの3泊4日」であった。再会した家族は誰もがすぐに50年前に戻っていた。しかし、再会の喜びが大きければ大きいほど、その別れはつらいものとなった。実際、再会以降、離散家族の多くが不眠症、精神的喪失感といった「再会症候群」に陥っている。平壌訪問団の診療を担当した李洙真(イ・スジン、38)医師は「再会を終えた高齢者の離散家族の場合、家族と共にいられない自身の人生を、どう補償してもらえるかという虚脱感、喪失感に苦しめられる」と指摘した。高齢者の場合、それは痴呆へと発展する確率が高い。「家族に会えないまま死ぬかもしれなかったのに、顔を見ることができたのはうれしいことだという点を、周りの人々が強調、指摘してあげるべきだ」という助言は、「再会問題」が、正に「再会後問題」であることを示している。

 理想は自由意思による再結合と定着だが、段階的な処置として名簿交換→生死確認→私信交換→対面→対面所設置→対面定期化といった過程が模索されている。毎日100人ずつ会ったとしても、韓国の離散家族全員が取りあえず一回は肉親と再会できるには二ヵ年を要する。離散家族の多くが高齢者に属すため、要するに今回のような方法だけでは問題解決に限界がある。多様な方法による解決が急がれるのである。

■ 個々の離散家族にとって再会とは何だったのか?

 再会申請に漏れた離散家族が大韓赤十字社に抗議に訪れたというのも、彼らは絶望と希望の境界線に置かれているためだ。離散家族再会推進会の李敬南(イ・キョンナム)会長は「760分の1の確率で再会が行われるが、一人の喜びの後には759人の痛みが続く」と述べた。今回の離散家族再会を「韓半島の苦しみを癒した」と評したマスメディアもあるが、それは余りといえば民衆の心を見据えない評価だ。

 肉親と再会した離散家族の思いに南北の差はないだろう。しかし、今回、再会した北の人々は「民衆」と呼ぶには程遠いエリート階層であった。北朝鮮では98年3月、人民保安省内に離散家族住所案内所を設置したが、「勇気ある」申告は460件だけに止まり、南の7万6千人とは大きな差がある。この南北格差は、双方の入国者数にも見られる。1990年以後、合法的に訪韓した北朝鮮人は992人。94~98年は1人も来なかった。これに対し99年までに北朝鮮を訪問した韓国人は1万1,321人。この数字には98年11月以降の金剛山観光客の20万人は含まれていない。

 韓国の統一部当局には金正日(キム・ジョンイル)国防委員長の「拡幅政治」により、越南者に対する差別が緩和されてきたと分析するむきがある。しかし、ソウルを訪れた訪問団に越南者は含まれておらず、朝鮮戦争前後に北越し、北朝鮮の社会で成功した人々ばかりであった。

■ 再会と葛藤

 後に触れる民間対面業者による斡旋の場合、北の離散家族が南から来た親族との対面を拒絶することがある。それどころか折角、対面業者を通じ所在が確認できても、「戦死した人が生きているはずがない」と、その存在すら頑なに否定されることもある。こうした場合、離散家族は「爆撃で死亡」、「戦争の時、失踪」ということにして「愛国烈士遺族」という出身成分(51階層中、上から7番目)にあり、よい待遇を受けている場合があるからである。北朝鮮では1960~70年代、越南者の家族を「敵対階層」に分類、抑圧してきた。これまでにも小説家・李文烈(イ・ムンヨル)氏のように北の弟との再会(民間ルート)がマスコミに取り上げられたため、北朝鮮にいる弟が教化所に入れられてしまうというケースがあった。

 同様の問題は韓国にもある。北で越南者が差別されるように、南では北越者を出した家族には「連坐制」が猛威を振るうのである。北越者は、まず公職にはつけない。捜査機関により定期的に調査を受ける。当然のことながら、民間への就職に際しても家族の前歴をひた隠しにしなければならない。今日、連座制はその法的根拠が廃止されたとはいえ、反共・反北朝鮮に基づく差別は韓国社会に定着しているため、その苦痛から海外へ移住するものさえいる。

 このため北越家族の間では強制連行・拉致といった本人にとって不本意な北越であったということになっている場合が多い。従って、当人の北越が自主なのか、連行なのかは残された家族・親族にとって大きな問題であり、真相を知ることをおそれ再会を敬遠することもある。「今は和解局面だが、今後南北関係がどのように変わるのかは誰も知らないでしょう」と慎重に考えるものが多い。韓国赤十字社は、こうした問題を考慮し、再会を望まなければ北朝鮮に「所在確認不可」「再会不願」などで通報することとしている。

 再会を避ける理由は他にもある。深刻なのが重婚と財産権に関する問題だ。離散家族の資産家などが多額な財産を遺した場合には、その相続をめぐり訴訟がおきるケースが出てきている。戦争中に家族を残して北から越南をしたある男性が韓国で財をなし新しい家庭を築いていたが、そこに今度は北に残してきた家族が脱北して韓国にきたという事例がある。このケースでは遺産の相続をめぐり北から越南して来た元の家族と、南の新しい家族との間で訴訟が起きている。韓国では重婚は過去にさかのぼり基本的に無効とされ、民法は北朝鮮の住民にも適応されるので、この裁判では南の新しい家族が負ける可能性が高い。平安南道が故郷の退職企業家・金某(70)さんには、北に残してきた本妻と息子がおり、98年には中国を通じその生存を確認した。しかし、韓国で再婚し子供のいる金さんは「財産分配などの問題で子供たちの反対が激しいだろうと思い、家族に話しさえ持ち出せないでいる」状態だ。

■ 民間対面斡旋団体による再会

 韓国には政府から承認された民間対面斡旋団体が全部で38ある。そのうち、実際に活動しているのは10団体前後。離散家族から調査依頼を受けると、まず生死確認をし、それから手紙や写真を北側の家族に送り、さらに状況が許せば対面へと持ち込む。この場合、対面は中国領内で行われる。従って、連絡者として活躍する在中国コリアンの役割が大きい。彼らはビジネスマンに扮して北朝鮮内に合法入国したり、あるいは北朝鮮内に独自の協力者を雇ったりして活動を行う。

 必要な経費は、生死確認に500~1,000ドル、手紙交換に約1,000ドル、対面に8,000~1万5,000ドルが必要となる。つまり、再会に至るまで約1万ドルから2万ドルかかるということだ。経費は斡旋団体関係者に対する謝礼と北側関係者に対する賄賂である。経費にひらきがあるのは連絡者や協力者の能力、北側家族の所在地により大幅にコストが変わってくるからである。韓国政府は60才以上の高齢離散家族に申告だけで北朝鮮訪問を許可し(北朝鮮が入国を承認すればの話だが…..)、交流補助金(生死確認80万ウォン、対面180万ウォン)を支援している。また、「離散家族総合情報センター」のホームページを開設、オンラインでの申請も受けられるようにしている。

 しかし、この民間対面は所詮、庶民には遠い高額な世界である。黄海道出身で大田に住むH氏(81)は97年、民間対面斡旋団体に北に残してきた娘の調査依頼をしたところ、所在の確認ができた。手紙と写真の交換を3回繰り返し、再会を決心した。しかし、再会の試みは4回とも失敗に終わった。5回目にようやく娘を中国領内に呼び出す事ができた。その間、北の監視員・通行書発行機関に2万3,000ドル、中国公安当局等に高額な賄賂を支払った。5泊6日の親子再会となったが越南者家族として抑圧を受けてきた娘の苦痛に、父は涙ぐみながら謝ったという。このケースでの費用は、推計となるが総額10万ドルに及ぶのではないかと思われる。

 また失敗に終る事もある。在中国コリアンの連絡者が中国公安当局や、北朝鮮内で保衛部に捕まってしまうことがある。彼らも命がけなのである。こうなると連絡者の救出のためにさらに賄賂が必要となるし、最悪、連絡途絶ということにもなりかねない。さらに北朝鮮側の家族に韓国からの接触の試みがあったことが治安機構に露見すれば、北の家族は精密監視対象にされたり、教化所送りとなったりするのである。従って、北側の家族が連絡を受けても再会を拒否する事もある。

 さらに酷いことに離散家族を食い物にする詐欺も起きる。大田の経営者・金某(72)氏は、98年2万ドルを費やし丹東で夢にまで見た甥と二日間を過ごした。ところが、対面の喜びも束の間、在中国の仲介者が「私にも金をよこさなければ、北朝鮮当局に知らせて甥の家族を皆殺しにする」などと言ってくるのである。この場合、政府が承認した団体とはいえ、中国領内での活動は主権の及ばない地域での非合法活動なので依頼者は泣き寝入りである。

 それでも、90年以降、韓中関係が好転することで中国ルートの交流件数は大幅に増えた。90年には95件だったが、99年には1,318件、2000年には4月末現在で605件となった。90年以後の総交流は8,094件で、このうち再会に至った家族は6.4%の518人となる。残りは生死確認、書信交換に止まる。

■ 平壌にとっての離散家族再会

 「南北離散家族再会」は、北にとって政治利用の具でしかなかった。本誌34号における萩原遼氏の指摘「南北会談 100人の離散家族再会では、何も変わらない」の正しさを改めて実感する。実際、金正日は、昨夏のオリンピックにつき「シドニーより先にソウルに行かなければならない」と述べていたが、年始早々の北京・上海行でこれが単なるリップサービスに過ぎなかった事を示した。

 しかし、離散家族再会を前後して体制と理念を越えた血縁の絆は、北朝鮮の変化に大きな期待を膨らました。例えば、それは85年の故郷訪問団との比較から論じられたりした。85年の再会が約2時間の再会だったが、第一回離散家族対面は6回で11時間の再会であった、南北代表団が同じ金剛山ホテルに同宿したことはかつて前例がない(他に宿泊施設があるのか?)等々……。

 南の期待を弾ませるような北朝鮮側の発言もあった。南北両赤十字の団員の世代交代を北朝鮮側関係者は「南の方でも386(30歳代、80年代大学入学、60年代生まれ)世代に変わっているから、北でも世代交代するべきですよ」などと述べたし、ソウル・平壌相互交換訪問の折衝で北の連絡官は「双方がそれぞれ航空機を運航する必要があるのか。北朝鮮側の航空機が北朝鮮代表団を載せてソウルに飛び、その後韓国側の代表団を平壌まで運ぶことにしよう」と提案し驚かせもした(実際、その通りの相互乗入れとなった)。極めつけは韓国マスコミ関係者訪朝の折の金正日の発言である。彼はそこで「今年は9月、10月に毎月一度ずつ」離散家族に再会の機会を与え、来年は「離散家族らが家まで訪問することができるようにしてみる」と発言したのである。このため、8.15再会後に予定されていた一連の展開(非転向長期囚の送還(9月2日)、離散家族面会所設置のための南北赤十字会談(9月初め)、盆の離散家族再会(盆の前後))から、「9月の急流」という表現も登場し期待は大いに膨らんだのである。

 李柄雄(イ・ビョンウン)前大韓赤十字総長は「非転向長期囚の送還が終われば離散家族問題が失踪する可能性もある」と述べたが、この急流はその懸念通り9月で止まったのである。ところが、政府当局は「北朝鮮側が労働党創立55周年の記念行事などで韓国と関連した事業の日程を守ることができなかった」、「行事も終わり、これから本格的な正常業務に入るだけに離散家族訪問団の相互訪問などもスピーディーに進められれば日程に合わせることができるのでは」と期待をつなぎ続けた。そのかすかな期待を引き伸ばしたのは、アメリカ大統領選挙の集計が予想以上に長引いたからに過ぎない。

■ 大韓赤十字総裁更迭問題

 この問題は南北間の交渉遅延策を企図し北朝鮮側の一方的な論難として全く降ってわいたようにおきた。11月3日、平壌放送は「当面の離散家族訪問団の相互訪問と今後の北南赤十字会談を見直さざるを得ない」と一方的に強調した。その理由は、大韓赤十字社・張総裁が「我々の高貴な政治体制に真っ向から対抗する妄言」を行い、「張総裁が赤十字社の総裁でありながら、離散家族訪問団の相互訪問事業を我々に対する誹謗中傷に利用しているのは、人道主義の理念や同胞愛の視点から到底許すことのできない挑戦であり、我々に対する耐えられない冒涜である」というのである。そして、「挑発者への我々の裁きは冷酷である」、「張総裁が赤十字会への誹謗中傷だけでなく、我々の政治体制にまで挑み、反北朝鮮対決に目くじらを立てている右翼勢力を代弁している」と、これまた誹謗中傷と挑発を繰り返した。

 北が問題とした張総裁の妄言とは、9月20日に発売された『月刊朝鮮』のインタビューでの発言であった。そこで総裁は「平壌は過去10年間、発展せず停滞していた。韓国からきた人は毎日服を着替えたが北朝鮮の人々は同じ洋服だけ着ていた。離散家族の再会は南北双方の異質性と体制の優劣を比較できる鏡だ。北朝鮮には自由がなく、統制社会のなかで息苦しく生きている」と述べた。

 発売から44日後、遅まきながらの反論となったことはこれが単なる言いがかりであることを示している。当初、張総裁は「辻褄だけ合わせたかのように『北は自由がないなどとは…』と引用するなど意識的に問題化しようとしている印象が強い」、「謝罪すべきことではなく、時間がたてば北朝鮮側が理解するだろう」と答えていた。しかし、その後の展開は余りにもお粗末であった。

 まず北朝鮮赤十字会が8日、「張忠植(チャン・チュンシク)大韓赤十字総裁が、「月刊朝鮮」のインタビュー内容に関して送った『遺憾書簡』を受け取ることはできない」と平壌放送で表明したことで、総裁の謝罪が露見してしまったのである。しかも、同書簡は直筆ではなく代筆によるものであった。また第2次離散家族の再会前日、再会行事に総裁主催の晩餐会があるにもかかわらず、張総裁は突然、日本に出国した。その理由を、再会行事に支障を来す恐れがあり、日本赤十字社とサハリン同胞の永住帰国問題を話し合うためとしていたが、日本赤十字総裁は出張中にあり、韓国駐日大使館でも総裁の日本国内での居場所を把握できず、事実上の「雲隠れ」となった。

 12月9日、第3回赤十字会談開催是非を問う電話通知文は、朴基崙(パク・ギリュン)大韓赤十字社事務総長名で送られ、北側は「来年に延期した方が良さそうだ」と回答してきた。この「事務総長名」による通知文送致をめぐってか、21日、張総裁は朴事務総長を解任するに至った。辞任要求の理由を朴事務総長は「張総裁の日本行きを私が勧め、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)への電通文も私の名義で送ったことに対する不満のようだ」と語った。その二日後、張総裁は自ら辞任した。

 張総裁は「朴事務総長に辞任するように言った時、私自身も退くことを考えた。北側が第3次交換訪問の時も問題視したらどうすればよいのか。再び(外国に)行けば済むことでもないし…」、「朴事務総長がマスコミのインタビューで個人的な感情で(私を)非難する下剋上まで繰り広げられるとは…。これは果して本人の意志なのだろうかと思った」と語った。その後、28日、かねてから言われていた新千年民主党の徐英勳(ソ・ヨンフン)前代表最高委員が大韓赤十字社の22代総裁になった。

 張氏辞任劇は南北双方に原因がある。北朝鮮側に端を発した問題とはいえ、その後の韓国側の対応は余りにも卑屈な迎合であり、総裁の突然の訪日については政治的圧力の影も言われている。人道主義の「民間」団体においてその内紛がこのような形で表面化し、張氏自らが未だ言えない事もあると発言しているように、韓国側の真相追求が行われるべきである。

 他方、北朝鮮側の真相は二つだろう。ひとつは、10月19日、張総裁が北朝鮮赤十字会に合意事項不履行について北を批判したことに対する報復であり、今一つは北朝鮮が朝米関係に関わるコスト(時間・経費・労力)の支出を最優先したいための時間稼ぎである。特に、10月下旬のオルブライト国務長官訪朝に続き、クリントン大統領訪朝の可能性がとり沙汰されていた時期、平壌としては何時、アメリカ大統領が来てもいいように平壌を「空けておきたかった」のではないか。11月初頭、ホワイトハウスはクリントン訪朝が数週間以内にあり得るとしていた。クリントンの任期内訪朝の可能性が対外政策専門家等の勧告により取り消されるのが11月13日頃であり、これが報道で明らかにされたのが11月14日である。クリントン訪朝の可能性があれば、大韓赤十字社総裁への論難を口実として第二回離散家族再会もどうなっていたかわからないだろう。

■ 第2回離散家族再会 第1回との比較

 北朝鮮側は72人にのぼる第1回の脱落者を第2回の再会訪問団に含めたのに対し、韓国側は毎回新しい訪問団を選定することにしている。日程は1日少ない2泊3日であったが、観光を減らすなどで、実際の対面時間は1次とほぼ同じの9時間となった。また、北側のメンバーは第1回と比較して「普通」の人々が増えたと分析する向きも一部にあったが、基本的に北朝鮮で成功した人々であり、話題となった拉北者1名を除くと全てが「越北者」で占められた。

 第1回と比べると、北による再会事業の政治化の度合いが一層強いものとなり、金正日総書記の称讃、体制宣伝が増えた。ソウル・平壌双方の北側の代表はいずれも再会初日、大韓赤十字総裁に対する非難を述べた。「張総裁は一度罪に死に、正しく生まれ変わらなければならない」とは、これが再会事業の発言かと驚かされる。また、ソウル訪問の離散家族は、金正日の著作や宣伝用の冊子を持参して来た。高麗ホテルで北のある家族が「偉大なる将軍様のために万歳しましょう」と提案し、南の家族が当惑するという場面もあった。これを「南側の家族がどう対処していいかわからなくて困っていた」と報じた『朝鮮日報』に北側は謝罪を要求し、この記事とは直接関係ない同新聞社の写真記者を軟禁することまでしたのである。

 また、第二回の訪問では、北朝鮮は北の家族に対する南側のお土産を制限(父母に洋服一着分の布地、兄弟に簡単な記念品、現金500ドル以下、中古品不可)した。一部報道はこれをあたかも北の要求かのように伝えたが、それは間違いである。前回、韓国の家族の中には着ていた服をその場で脱いであげたり、1万ドル以上を渡したりした。北はしばしば、「韓国の毒虫や害虫が北朝鮮社会に侵入しないよう、高く高く防虫網を張らなければならない」と宣伝してきたが、お土産の制限は言わばその防虫網なのである。第1回再会が、北朝鮮の体制の正当性にとって好ましからざる要因を多くもたらしたに違いない。

 第1回再会のソウルと平壌の様子を、朝鮮中央テレビは異例な事であるが、会場の再会家族の会話をそのままに放送した。従来のアナウンサーの解説だけで現場音のない画像と比べると大きな変化である。高麗ホテルの売店にあるテレビでソウルでの再会場面が映し出されるとすぐに女子職員10人余りが集まり、韓国側の記者に「自分のことのように胸が痛む」と再会場面を涙ぐんで見守ったという。しかし、第2回ではソウルの再会場面はほとんど放映されなかった。

 第二回離散家族再会では、拉北された東進(ドンジン)27号の甲板長の姜・ヒグンさん(49)が平壌を訪問した母親の金三礼(キム・サンレ73)さんと「劇的な再会」をした。しかし、姜氏が「拉致はでっち上げで、我々は38度線を越え、(北朝鮮の)警備艦に捕らえられた」、「共和国(北朝鮮)滞在中の数日間に無償で勉強できて無償で治療してくれると聞いたため、ここで暮すことにした」と発言したり、それに合わせて平壌放送が「姜氏が東進号の拉致や北へ拉致されたということは、ねつ造であり、偽りであるということを全世界に宣言する」と報道したり、この再会は文字通りの「劇」に過ぎない。姜氏は2カ月前に労働党に入党したということだが、この「辻褄合わせ」から、どうやら遅くとも9月前後から周到に準備された再会劇なのであろう。

※ 東進27号拉北事件

 ドンジン号は1987年1月25日、ペクリョン島北西側28マイルの公海上で乗組員12人を乗せて操業中、北朝鮮警備艇により拉致された。当時、北朝鮮は「ドンジン号が北方限界線を越えて偵察行為をした」と主張し、その後、国際世論の批判を受け送還を約束したにもかかわらず、北は船員の抑留を続けた。

 ドンジン号乗組員の家族、錫奉(ソクボン、30)さんは「拉致による離散と故郷を失った人達の離散は厳然たる違いがある。強制的に拉致された漁民を離散家族の問題として扱ってはならない」と訴えている。

■ 特殊離散家族問題

 日本では「感激の再会」の報道が先行し、特殊離散家族の問題が見失われがちである。特殊離散家族とは非転向長期囚、国軍捕虜、拉北者、北派工作員、脱北者等のことを意味し、本来、離散家族とは別個の問題として取り扱われるべき問題である。

●非転向長期囚

【定義】

 そもそも韓国で「非転向長期囚」は北朝鮮式用語という理由から禁止されてきた。実際には全員出所した状態であり「非転向長期囚」は存在しない。以前は転向する可能性があるという含みから「未転向長期囚」とした。これも釈放した人を「長期囚」とするのは矛盾があるということから、「出所共産主義者」に変わった。しかし、共産主義者の釈放を容認した表現になるとの批判から、99年2月、「出所南派(北朝鮮から韓国に派遣された)スパイ及び公安関連事犯」となった。

 金正日国防委員長は「彼らを連れてくるための闘争を繰り広げなければならない」としてきたが、6.15共同宣言に際し南は北に譲歩し、ついにこの表現を宣言文に取り入れたのである。結局、北送対象者は63人となったが、これを受け「転向長期囚まで平壌行きを希望」するようになり、「北朝鮮も彼らを受け入れるという立場だとすれば[非転向]の範囲をめぐる論議は避けられない」との政府当局の見解は、この問題の根底にある矛盾を示している。

【非転向長期囚の離散家族化】

 非転向長期囚の中には送還することで南の親族や、出所後に構えた家族と会うことが出来なくなるものがいる。31年間刑務所の面倒を見てくれた母親(93)との別離となる申(シン)・インヨン(71)氏は、「北に置いてきた妻と息子には会えるが、母親を残して行くのはあまりにもつらい」と話した。また、93年釈放後、結婚したキム・ミョンス(79)氏。94年から女性と同居している金永泰(キム・ヨンテ、69)氏など、この新たな離散問題に該当するものは約10人。

【辛光洙(シン・グァンス、71)送還問題】

 日本で問題とされたのが、80年6月宮崎県青島海岸で日本人コック原敕晁(ただあき、44)を拉致した辛光洙の送還である。80年2月、「合法的な身分を勝ち取るため」という金正日からの直接の指示(①40~50歳の男性②身寄りがない独身③パスポートの発給経験がない④前科がない⑤借金がなく銀行口座を開いたことがない人を探し出し拉致せよ)で、80年4月、日本に潜入。原敕晁さんを宮崎に誘い、酒を飲ませ海岸に連れ出し北朝鮮工作員に引き渡したものである。以後、辛光洙は原敕晁になりすましスパイ活動を行った。これら一連の拉致活動は85年安全企画部に捕まった時、辛光洙が原敕晁の身元事項が詳細に書かれたメモを持っていたことから、露見した。日本人拉致問題で数少ない捜査実例であり、日本政府は「調査を進めている日本を難しくするもので、非常に残念」と韓国を批判し、毎日新聞は9月4日付けの社説で異例の韓国政府の直接批判を行った。

●国軍捕虜・拉北者

 北朝鮮人権白書(統一研究院)によると、拉北・抑留者は4,210人。99年3月、国家情報院は87年1月に拉致されたドンジン号漁労長チェ・ジョンソック氏をはじめとする454人の名簿を公開した。さらに朴在圭(パク・ジェギュ)統一部長官は6月29日、元国軍捕虜問題は約4万人としこのうち「300人の名簿が確認された」と発表した。従来、政府は未帰還国軍捕虜を約1万9,000人と推定してきたので、二倍以上に増えたわけだ。この発表で暗に赤十字交渉などでもこの問題を議題にのせていることを含んだが、北朝鮮当局は終始「一人の捕虜も拉致された民間人もいない」としている。

 それどころか、8月23日、北朝鮮は韓国内に存在しているかのような偽装放送「韓国民族民主戦線」を通じ、「拉致者たちは韓国社会に幻滅し、北朝鮮に憧れ、自ら進んで北朝鮮国民になった人たちで、元国軍捕虜は捕虜交換当時、米国植民地の韓国に帰ることを拒否し、自ら進んで残った国民だ。彼らは皆、家庭があり幸福な生活をしていて、韓国に帰ることを望んでいない。彼らの送還は自由意思に従うべきだ。こうした問題が本人の意思とは関係なく、強圧的に処理されれば反人権的な犯罪行為になる」と声明した。

 従来、「存在していない」としてきた拉致者・捕虜について、この「半公式」声明は、その存在を前提とした反論をしてきたわけである。北が非転向長期囚の送還を要求するならば、当然のこととして、これを交渉カードとして国軍捕虜、拉北者の生死・所在確認やその送還を公に強く要求すべきであった。ところが、韓国政府は国軍捕虜、拉北者を「不本意ながら北朝鮮に残ることになった人々」という表現にまで後退し、専ら北を刺激しないようにという姿勢で一貫した。

●北派工作員

 戦時は軍人身分で、休戦以後は軍籍のない民間人の資格で北に派遣された工作員のことである。休戦後の53年から59年の間だけで5,576人の工作員が派遣され、72年までに失踪・死亡したスパイは7,726人にもなる。その中には14才以上の10代の少年が27%も含まれていた。戦時・平時を問わずその訓練は軍により行われたが、派遣は民間人の資格で行われたためその国家補償の対象としての法的根拠がないのが実情である。政府は98年密かに家族にその死亡または失踪事実を通報したが、民主党の金成鎬(キム・ソンホ、統一外交通商委)議員が昨年10月2日、北派スパイ366人の名簿を入手・公開するなど、情報が公となることで注目され始めた。

 しかし、この問題がさらに議論を呼ぶようになったのは非転向長期囚の北送実施である。南派工作員が英雄として帰還するのと比べ、余りと言えば、格差がある。

●脱北者

 北朝鮮に両親兄弟を残し脱出してきた脱北者は、残してきた家族に危害が及ぶことを恐れ、韓国社会の中で公に名乗ったり、家族の身元を公開したりすることができずにいる。対面への申請など思いもよらないのである。脱北者は「私たちも南北の分断によって生じた犠牲者ではないか」とし、離散家族再会の報道に涙を流すばかりである。脱北者は韓国に約1000人、海外に30万人いると推定されている。

■ 小括

 離散家族再会問題の流れを追う中で、ここ半年の推移が逆にはっきりしてきた。全体として3つの流れがある。第一は、6.15南北共同宣言に向けた対韓関係を中心とした流れ、第二はオルブライト訪朝・クリントン訪朝問題・アメリカ大統領選挙といった対米関係を基調とした時間稼ぎの流れ、そして第三がアメリカ共和党政権確定に伴う対中関係を基調とした路線への乗り換えである。つまり、北朝鮮にとって離散家族問題の比重とはこのような流れの中での位置付けに過ぎず、韓国をつなぎとめておく外交カードである。合意事項の履行は、北にとって都合の良い太陽政策政権を維持するための支援策に過ぎず、金大中が欲しがる世論の支持を平壌が与えるという構図なのである。離散家族再会事業と人道援助事業とは構図が実に良く似ている。平壌にとって同胞意識そのものが人質なのである。しかし、中朝間にもまた同様な離散家族問題があることを考えると、周辺国との対外関係において北朝鮮はこの問題を避けては通れないはずである。

帰国事業島嶼からった日本人妻問題 高柳俊男 運営委員・法政大学助教授

当初からあった日本人妻問題 

 北朝鮮へ帰国した日本人妻の問題で早くから活動してきた団体は、よく知られているように「日本人妻自由往来実現運動本部」(のちの「~実現運動の会」)である。池田文子(本名=江利川安栄)を代表とするこの団体は1974年4月に結成され、日本人妻からの手紙を機関誌『望郷』のほか、『鳥でないのが残念です』(1974年)や『日本人妻を返して!』(1979年)として出版し、また映画『鳥よ翼をかして』(1985年)を製作するなど、この問題に対する世論形成に大きく関わってきた。

 同時に、池田文子なりこの団体は勝共連合や統一教会と関係があるとされ、その活動に対してとくに左翼の側から厳しい批判の目が注がれてきたことも、また周知の事実である。

 しかし、この池田の会にしても、1974年の結成ということは、早いといっても帰国事業開始から15年も経っている。帰国事業が始まった1959年当時、日本人妻の問題はどのように認識されていたのであろうか。

 というのは、在日朝鮮人の場合でも、祖国帰還とはいえ大多数は朝鮮半島の南部、すなわち韓国をもともとの出身地とする人々であり、故郷とは違う社会主義の北朝鮮への帰国を決意するにいたるまで、さまざまな苦悩や逡巡がみられたのが一般的であった。

 ましてや日本人妻(ないし夫)の場合、配偶者が選んだ国に一緒についていくといっても、自分にはまったくの未知の国であり、言葉や風俗習慣や生活レベルの問題など、愛情だけでは解決できない数多くの不安を抱えながらの出発であった。

 その夫婦間の葛藤は、帰国事業を扱った当時の映画にも如実に描かれている。私たちの会で一昨年10月に上映した『キューポラのある街』(1962年)では、菅井きん演じる日本人の妻は同行を望まず、結局父親と子供たちだけが帰国するという展開になっている。

 また同じ年の8月に上映した『海を渡る友情』(1960年)でも、水戸光子の扮する日本人の母親は当初、「あなたはいいが、私と息子は外国人として扱われる」「日本人も同じように歓迎するというが、当てにならない」「今さら知らない土地で苦労したくない」などと言って、夫と一緒に帰国することを拒み離婚寸前までいくが、結局はダブルとして生まれた子供のアイデンティティの問題もあって、最後は一家そろって帰国していくというハッピー・エンドで終わっている。

 このように、日本人妻の問題は、決して最近起きたものでも、帰国事業から15年を経て初めて発生したものでもなく、帰国事業の開始当初から存在した問題であった。

「北朝鮮に帰る日本人妻をはげます会」のこと 

 その映画『海を渡る友情』の事実調べをする過程で(詳細は在日朝鮮人運動史研究会『在日朝鮮人史研究』29・30号掲載の拙稿をご覧ください)、帰国事業が始まった当時にも日本人妻の問題を考える団体があったことを知った。というのは、映画の最後、品川駅から新潟への帰還専用列車で一家が帰国していく様子を描いた場面で、日本人の母親が「日本人妻を守る会」の女性たちから花束をもらっているのである。

 これが、映画の中での創作なのか、実際にそのような団体があったのか調べる過程で、「北朝鮮に帰る日本人妻をはげます会」という組織が実際に存在していたことを確認した。これは前述の池田文子らによる「日本人妻自由往来実現運動本部」とは思想的背景を異にし、帰国運動の真っ最中に、運動を推進する側によって作られたものといえる。

 帰国運動を日本人側から積極的に支援した日朝友好団体に日朝協会があるが、その機関紙『日本と朝鮮』79号(1960年3月25日)および83号(同年7月25日)の関連記事によれば、この「はげます会」は在日朝鮮人帰国協力会の女性幹事を中心に、1960年3月5日に東京都内で発起人準備会を開き、同年7月18日に結成大会を開催した(議長は二瓶万代子)。結成の目的は、多かれ少なかれ帰国後の生活に不安を持つ日本人妻を激励することにあったという。

 結成大会の席で決定された活動方針は、以下の通り。

① 帰国問題でいろいろと迷い、実家との関係で悩みをもつ日本人妻たちのあたたかい相談相手となる。

② 懇談会、歓送会などを開いて朝鮮の実情や、すでに帰国した人たちの生活状態などを話し合いながら、日朝間の友好親善、日朝婦人の交流のため協力しあい、日本人妻をはげます。

③ 向こうの状態を知るための講演会、研究会を開き、日本婦人に朝鮮問題を理解してもらう。

④ 日本人妻の今までの苦労の記録、朝鮮へ帰ってからの感想などを発表する機会を作る。

⑤ 将来、里帰りの問題が起きた場合、率先して協力する。

 これら5項目を見ても、映画でも描かれたとおり、日本人妻の帰国をめぐってはさまざまな悩みが当初からあったことがわかる。ところで、この会はどのくらい活動したのだろうか。とくに率先協力と明記された⑤の里帰り問題に、どの程度真剣に取り組んだのだろうか。

 近年、3回にわたって実現した里帰りの際、「北朝鮮に帰る日本人妻をはげます会」の名を聞かなかったことから考えても、実際には大して活動していないのではないかとも思われる。どなたか当時の体験者の方で、この会についてご存じの方はぜひ教えていただければと思う。

 それにしても、当時の日本人妻の苦悩のなかには、北朝鮮が経済的に未開発の未知の国だという不安ばかりでなく、朝鮮人差別の厳しかった当時の日本社会のなかで、身近な家族や親戚をも含む日本人の目を意識した悩みもまたあった。それは近年の里帰りの際にも、日本名の公表を望まなかったり、家族や親族がいながら名乗り出なかったりといった事例からも、事後的に窺い知ることができる。

 私としては、在日朝鮮人帰国者の場合と同様、こうした日本社会の朝鮮人差別の問題と、北朝鮮という国家の人権問題の2つの側面から、日本人妻(ないし夫・子供)の問題を考えていきたいと思っている。そうすることが、この問題へのバランスのとれた接近を可能にするのではないだろうか。

(文中 敬称略)

東アジア地域の情勢 変化についての評価 チャック・ダウンズ

(ソウルの第2回北朝鮮人権・難民問題国際会議で配られたもの)翻訳:梅村 雅英(東海支部)

 現在、世界は北朝鮮の外交戦略がどのような様態に変化するものなのかについての関心で非常に騒がしい。学者や専門家は誰彼となく今年六月の南北頂上会談に現れた金正日の外交的手腕について言及し、近づいてくるシドニーオリンピックでの南北朝鮮同時入場の可能性を打診しり、米朝間頂上級交換訪問について論議もしている。北朝鮮の態度変化を期待してみるに値する新しい消息も引き続いている。イタリア、オーストラリア、フィリピンがそれぞれ2月4日、5月8日、7月13日に北朝鮮と修交し、7月27日にはカナダが北朝鮮を承認し、ドイツ、ベルギー、英国、オランダ、スペイン、ニュージーランド、トルコも北朝鮮を承認するだろうという展望である。米国務長官は朝鮮労働党創党50周年記念行事を祝賀するために訪問し、金正日称揚歌を歌う子供たちを激励することもした。これまで朝鮮半島に覆っていた緊張の戦雲が瞬時に晴れたような状況である。

 北朝鮮の動きを注視してきた専門家たちが北朝鮮の根本的変化を占う様子も数多く見ることが出来る。好意的でありながら、魅力的にさえ感じる金正日の行動が既存の威嚇的立場からの変化試図の証拠ではないかと考えるである。甚だしくは、ある人々は北朝鮮が自分たちが取ってきた抑圧的で非妥協的な方法の失敗を通して、改革だけが生きる道であることを悟るようになったと分析した。

 だが、北朝鮮の友好的ジェスチュアーが体制を強固にし、自国民に対する抑圧的統制を強化し、軍事力増大のための時間と物資を確保するための幻惑的なねらいである可能性もあるという点を指摘する人々は多くない。そして北朝鮮の対内外的立場には実質的に変化したものが何も無いという点を指摘した人々もほとんどいない。しかし、現在と類似した「開放」戦略を駆使したことがある北朝鮮の過去の戦略を振り返ってみると、北朝鮮は自分たちが獲得しようとする利益に符合するときにだけ、攻撃的態度からの変化を試図してきたことを知ることが出来る。

 過去50年間北朝鮮は驚くほど一貫的であり、成功した戦略を駆使してきた。その間北朝鮮は交渉テーブルでは欺瞞的な方法で多くのものを勝ち取って行った。守勢に追いこまれていた情況でも休戦交渉を通じて領土を確保し、以後にも停戦協定を無視したまま軍備を強化し、テロを恣行することによって影響力を確保すると同時に、全世界の耳目を引こうとした。対話を望むという美名の下に韓国情勢を撹乱させたりもし、査察拒否で一貫することによって譲歩を引き出し、1994年以来平和会談を推進する過程でも長距離ミサイルを開発した。北朝鮮は敗北が明白な情況でもきれいに瀬戸際戦術を駆使し、交渉を通して多くのものを得ている。それにもかかわらず、北朝鮮は一度も国内的抑圧と国際社会に向けた威嚇の手綱を緩めたことはなかった。

北朝鮮の行動パターン

 国際社会に対する北朝鮮の周期的な行動変化パターンは、政権樹立以来、持続的に反復される様相を帯びているが、北朝鮮は典型的な変化をもくろむような印象を与えて交渉のテーブルに誘導した後、先行条件履行や自分たちに回ってくる利益と譲歩を高い強度で要求し、最大限の利益を得た後に初めて交渉を妥結する。そして楽観的な展望を持って交渉に臨んだ相手側は、見事に幻滅感と失望感を味あわされる。反面、北朝鮮側は、相手側の失望感を徹底的に利用して、次の会談では進んだ新しい合意が導き出されるかもしれないという幻想を植え付けようとする。従って過去数ヶ月の上昇ムードは既にその頂点に到達しているということが出来、遠からず、再び下降曲線を描く悪化局面に入る展望である。

 結局錯覚に過ぎなかったことが判明した過去数回の南北会談の過程を振り返ってみると、金大中大統領と金正日国防委員長間の頂上会談を通じて導き出された陶酔感もまた最後に挫折感で終結する可能性もある。言い替えると、韓国は北朝鮮に対する相当な経済的支援をした後に、初めてそのような挫折感を経験するようになるだろう。

初期の期待感拡大戦略

 国際社会からの北朝鮮の開放の兆しに陶酔していた二度の経験を一度振り返ってみよう。1972年7・4南北共同声明と1992年の朝鮮半島非核化共同宣言および南北基本合意書が発表された当時、韓国のこれに対する大々的な宣伝と興奮で大騒ぎしていたことを記憶しているであろう。

 1972年7・4南北共同声明での合意事項のなかで「統一は外勢に依存するとか、外勢の干渉を受けることなく、自主的に解決しなければならない」という原則や「統一はお互いに相手方に反対する武力行使によることなく、平和的に実現しなければならない」という原則は2000年6・15南北共同宣言にも再確認された事項であり、金日成は北朝鮮側代表団の反対を押しきり、南側代表李厚洛が提示した

(1)相互中傷および誹謗の中止

(2)宣伝目的のための一方的統一提案の禁止

(3)相手方に対する武力使用禁止

 の原則についても同意した。また韓国は、政治的策略とは無関係に離散家族問題を人道的次元で排他的に取り扱える南北赤十字会談の円滑な推進の必要性についても納得させることが出来た。しかしこのような合意の履行は金日成の提案である表面的管轄機関としての「南北調節委員会(SNCC)」の構成問題として持ち越された。金日成の提案に従う場合、既に両側が合意した事項といえども、履行に当っては両政府の批准が必要となるのであり、北朝鮮側の意図は合意事項の拘束力を弱化させることが出来る手段の確保であったということが出来る。

 共同宣言がなされた後13ヶ月の間、南北朝鮮は6度の南北調節委員会会談と7度の赤十字本会談、そして数多くの隷下関連団体の会議を開催した。そしてしびれるような感動の中で共同声明が発表され、数ヶ月間一瀉千里に進行した交渉に真剣な関心が集中されたにもかかわらず、結局全ての対話は北側の非共助的態度によって決裂してしまった。初期段階での会談が余りにも順調に進行した結果、統一を念願していた世人の期待は一気に膨れ上がっていたが、すぐに失望感に変わる他なかったのであり、このような相手側の期待を膨らませる方法は北朝鮮の久しい戦略の中の一つとして位置を占めてきた。

 また一度漠然とした期待感に陶酔していた時期は、1992年である。1992年は、その類例を探すことが難しいくらい、その細部的な部分まで合意が導出されていた。南北朝鮮は「核兵器を試験・製造・生産・接収・保有・貯蔵・配備・使用しないこと」と「核エネルギーをもっぱら平和目的にのみ利用すること」に合意した。また「核再処理施設とウラニウム濃縮施設を保有しないこと」と「朝鮮半島非核化を検証するために相手側が選定し、双方が合意する対象について相互査察を実施すること」にも同意して、これの履行のために「共同宣言が発効した後、ひと月以内に査察の手続きと方法を規定するための南北核統制共同委員会を構成・運営すること」にも合意した。

 だが、こうした合意もまた1972年の場合と同様、これに必要な細部規定が必要とされていたので、以後北朝鮮側の非妥協的態度により結局何ら実効性を収めることが出来なかった。

非合理的な楽観

 1994年、米・朝ジュネーブ会談を通して一括妥結案が導出された後、クリントン政権も北朝鮮に対する楽観的な展望が流布されたのに一助した側面がある。ウォルター・スローコム(Walter B. Slocombe)米国務次官は希望に満ちた語調で「これまでの北朝鮮の閉鎖的な立場に一大改善が起こっているので、北朝鮮が国際原子力機構(IAEA)の査察を受容し、視察団が継続ヨンビョンに留まり、深刻な疑惑が提起されていたテチョン核施設の効果的凍結のため調査し、監視することが出来るよう許容されたことは大きな意義があった」と報告した。マドリーン・オルブライト(Madeleine Albright)米国務長官は「遅々として進まないが、北朝鮮が外部との接触と開放に乗り出し始めた」と言及し、米側交渉代表であったトーマス・ホバート(Thomas C. Houbbard)は「北朝鮮側代表が、今回の一括妥結案は、北朝鮮が国際舞台に乗り出すための刮目すべき変化であることを披瀝するため、非常に努力する姿を見せてくれたのであり、これは金正日の意向であることを打電した」と明らかにした。

ジュネーブ核合意の下での北朝鮮軍の発展

 ジュネーブ核合意の結果として北朝鮮の行動が改善されるだろうというクリントン政権の期待とは異なり、北朝鮮はより実質的で脅威的な軍事力増強に着手した。核兵器開発に重点を置くよりは、これを運搬する手段であるミサイル開発に注力し始めたのである。

 1994年以来、自国が保有するミサイル技術の拡散のための広範囲な国際的共助体制を構築し始めた。1996年10月にはイランとリビアなどの中東の武器商たちが見守る中で、ミサイルの試験発射をする計画だったが、米国の圧力で取り消されたと報告されている。だが、北朝鮮は試験発射なしでもミサイル技術をパキスタンとイランに販売することが出来た。4月6日にパキスタンは北朝鮮のノドン・ミサイル技術を土台にガウリ(Ghauri)ミサイルの試験発射を実施した。安保問題専門家は、パキスタンのミサイル発射試験によって、1ヶ月後のインドの核実験決定が触発されたものと信じている。1998年7月21日には、イランも北朝鮮のテポドン・ミサイル技術を応用してシャハブ(Shahab)‐3・ミサイルを試験発射した。このミサイルの射程距離は1,300kmに達するので、イスラエルとサウジアラビア全域、トルコの大部分の地域、そしてロシアの一部および中東地域に駐屯している米軍にも相当な脅威となる可能性がある。イランとパキスタンの試験発射の結果は北朝鮮に送られ、有用なデーターとして使われているものと感知されている。

 こうした技術的交流が、北朝鮮の能力向上にどんなに寄与したかということは、朝鮮労働党創党50周年記念行事で明らかにされた。8月31日に北朝鮮は、日本上空を横切って太平洋に、射程距離1,380kmの三段階推進方式の1号ミサイルを発射した。これについて北朝鮮の官営通信は次のように発表した。

 心から深く慶祝する共和国50周年創建日を迎えて、科学者たちと技術者たちは多段階推進ロケットを利用して最初の人工衛星の発射を成功させた。これは実に歴史的な事件であり、金正日国防委員長の領導のもと繁栄の道を前進する我が共和国の偉大な業績と不滅の潜在力を遺憾なく示してきた人民の喜びである。

 ミサイルの発射が、単なる宇宙探査のための平和目的から実施されたものだったという北朝鮮側の主張にもかかわらず、意図的な威嚇行動であったのであり、これは北朝鮮が米国の友邦国である日本と韓国の領土の大部分と、そこに駐屯している10万余名の米軍を威嚇することが出来る新しい能力を保有したことをはっきりと見せつけたのである。北朝鮮はミサイルの弾着地点の近くで操業していた漁船はもちろん、外交経路を通して日本側に唯の一言も警告もしなかった。北朝鮮政権は、西側にこれ以上誤った安保意識を持つことは、彼らを威嚇し、脅迫すること同様に無益であることを感じさせようとしたことは明らかである。

 北朝鮮の多段階ミサイル開発は、彼らの技術水準に照らし合わせて見るとき、驚くべき成果である。このミサイルには在来式弾道や生化学弾道はもちろん、甚だしくは核弾頭まで装着することが出来る点から非常に脅威的である。これにより韓国が長距離ミサイル開発を放棄し、韓国・日本・台湾が核兵器を開発しない代価としてアジアの安保を保障した米国の能力に対するアジア各国の信頼にひびが入り始めた。北朝鮮はブースターが装着された多段階ロケットを発射することが出来る技術的能力を見せつけたので、この試験発射は北朝鮮が早晩大陸間弾道ミサイルも発射することが出来ることを立証したのである。過去数年間北朝鮮は、米国の西部まで到達することが出来る射程距離3,000~4,000kmのテポドン2号ミサイルを開発してきた。

 万一ジュネーブ合意の反対論者たちの主張通り合意に署名した後にも、北朝鮮が継続して秘密裏に核能力を維持していたということが事実としたら、北朝鮮の発展したミサイル技術保有は、この地域の国々が新しい核の脅威に直面することになったことを意味するものである。1999年ペリー(William J.Perry)対北報告書が発表された以後、1994年国防次官スローコムがあれほど叫んでいた「立証することの出来る核施設の凍結(verifiable freeze)」論議はそれ以上持続できなかった。ある人々は北朝鮮が単純に核兵器輸送手段を開発していることに過ぎないと考えるかもしれないが、北朝鮮は明らかにジュネーブ核合意以後も核兵器開発に対する執着を捨てきれずにいる。

北朝鮮崩壊可能性についての誤った自信感

 米国の官僚たちは政治経済的危機に直面した北朝鮮は変化の道を選ぶほかないだろうと考える傾向がある。1997年、米行政府内の朝鮮半島専門家であるチャールズ・カートマン(Charles Kartman)大使は「悲惨な展望の前で北朝鮮は伝統的に維持してきた孤立主義を深刻に再考し始めたのであり、米国と韓国をはじめとするその他の国家はこうした北朝鮮の動きに支持を送る」と発言した。オルブライト米国務長官も最初に訪韓した席で、朝鮮半島の平和に対する展望は「基本的に北朝鮮がどのくらい多くの試練を経験するかに掛かっている」と言及したことがある。

 20世紀が幕を閉じようとしている時点で、共産主義体制はそれ自体の矛盾により崩壊する他ないだろうと考えられている。北朝鮮の崩壊を確信する米国と韓国の政策決定者たちは共産主義が決して成功することは出来ないという脱冷戦期の決定論に依拠して北朝鮮も結局は新しい理念を受容せずにいられないだろうと見ている。

 どんな政治体制といえども、それが強圧を基礎にした体制である場合には、結局失敗してしまうものだという結論には妥当な根拠がある。健全な政策決定にあって正確な情報が非常に核心的な要素であるにもかかわらず、全体主義国家ではそのような真実がよく歪曲されたものだった。マイケル・レーディン(MichaelLedeen)はこの点について「クレムリンの指導者たちは非常に重要な事案について、しばしば誤った情報を入手するにいたる場合が多かったが、これは情報機関が上部に嘘の報告や誤った情報を提供する場合が多かったため」と説明している。外部からの圧力や民衆蜂起が無いとしても、独裁者の理念的要求を満足させるため公式的に許容され、容認されている欺瞞と嘘は、結局北朝鮮を崩壊させる要因になるだろう。極端な命令統制方式を基盤にした体制なので、北朝鮮は自己調節メカニズムを喪失する他なかった。失敗さえ自ら祝うことが出来る閉鎖的体制なので、自体的改革が不可能なのである。国際社会からの援助の手が切れるとか、交渉を通じて国際社会から何でももぎ取れないとすれば北朝鮮体制は結局崩壊してしまうだろう。北朝鮮はこのようなどうしようも出来ない体制改革情況に直面するようになることを一番憂慮している。こうした理由から北朝鮮は外国との交渉を通じて莫大な経済的利益を出させる方法を選択したのであり、宥和的ジェスチュアーをとることで交渉について期待感を相手側に植え付ける戦略を考え出したのである。

 世界のいたるところで引き続いた共産主義の没落のように、北朝鮮もまた崩壊してしまうだろうと信じているクリントン政権は、北朝鮮が孤立の枠を破って国際社会に出てくるように誘導するため国際共助体制の樹立を支持している。米行政府官僚たちの間で「軟着陸(Soft-Landing)」誘導政策と呼ばれるこの政策は、北朝鮮体制の急進的崩壊は北朝鮮が漸進的に崩壊するとか、米国側が提示する変化方向に従うようになる場合より、はるかに危険な結果を招来するようになるものであるという前提に立脚している。

 国民の基本的な要求さえ従属させることが出来ない利己的で腐敗した政権は、直ちに滅びるように見えた。しかし北朝鮮政権が分配手段を掌握している限り、外部からの援助は政権の政治的圧迫のみを強化させるのに利用されるだけである。北朝鮮政権は忠誠を尽くすものにのみ食料と医薬援助、そして商業的投資が提供されるように決定するだろうからである。1998年9月29日、「国境なき医師団」は、北朝鮮政権が「彼らに忠誠を尽くす家庭の子弟にのみ食料を提供し、そうでない家庭は除外したこと」を知り、北朝鮮から活動中の医師たちを撤収させた。これについて前朝鮮労働党書記黄長燁は「金正日政権は全ての人民と食料配給手段を掌握している。言い替えると、食糧配給は統制のための道具」であると説明している。外部からの援助は北朝鮮政権に時間を稼がせるだけでなく人民たちに対する統制を強化することが出来る梃子を提供することと同じ逆効果をもたらすであろう。

 また外部的支援は北朝鮮政権に最悪の経済的危機を解決するのに助けになるのではなく軍事力を強化するのに必要な労働力と資源に転換されている。北朝鮮政権が国際社会の人道的支援を国内の政治的抑圧の機会として活用するように、安保問題においても多少油断している機会を利用して、新しい軍事技術を開発するための時間と資源を得ているのである。もどかしいことだが、北朝鮮の国家目標は国民の生存ではなく政権の生存を保障することであり、こうした側面から見るとき、北朝鮮政権としては武器開発が農業開発よりはるかに重要な投資であるわけだ。

 北朝鮮は外部からの援助が、どんなに大きな助けになっているかを米国の政策決定者たちよりも、もっとよく看破している。北朝鮮は過去50年の間、友邦国や敵対国との交渉を通して譲歩を出させる方法を会得することが出来た。北朝鮮においてモスクワから支援を受けるか、ワシントンから援助を受けるかということは、何ら問題にならない。彼らは共産独裁国家から支援を受けると同時に、非常に効果的に政治的な独立を維持しながら、西側の民主主義国家からも援助を受けているのである。

 北朝鮮が、自ら崩壊するようになるだろうという考えを唯の一度もしたことが無いことは、別に驚く事実ではない。

 米国の政策決定者たちが、北朝鮮の崩壊が不可避であると考えながらも、崩壊の衝撃を緩和するためだという論理によって、介入政策をとるのを見ると、これは北朝鮮の崩壊が不可避ではない、という点を傍証するものであると言うことが出来る。北朝鮮に援助を提供することは危険な賭博である。後日米国が、北朝鮮政権の生存を延長してやった、という責任を負わなければならないからである。政治、経済、安保、そして道徳的意味から、北朝鮮政権の生存を助ける義務を分担するということは非常に疑わしい目標であると言うことが出来る。

何をしなければならないのか

 ある米国の交渉家が真顔で指摘したように、北朝鮮に対する一番良い方法は北朝鮮との交渉自体を拒絶することであるかもしれない。そうした接近方法は北朝鮮に自らの過誤を直視するようにさせることであるので相当な論理的訴えを持つことが出来るだろう。だが、頭の痛い問題を解決しようとする西側世界と西側交渉代表たちに持続的な影響力を及ぼさずにいる。朝鮮半島での難解な問題を解決しようとする希望は常に心から平和と安定を追及する真摯的で献身的な外交官たちの関心を引いてきた。

 西側世界が北朝鮮と交渉を繰り広げる、また別の理由は戦争に対する恐れのためであるということが出来る。北朝鮮は非理性的であり、予測不可能な存在として認識されており、戦争の結果は残酷なものであろうから、西側世界では甚だしくは、その政策が相手をより強くしてしまうことがあっても、戦争を避けることができる唯一の提案として、援助政策を支持する人々が常にいるのである。

 米国と西側世界は優勢な立場から交渉をはじめるが、こうした優位が交渉での結実に結び付くようにするのには別に神経を使っていない。圧倒的な軍事力を基礎に北朝鮮に圧迫を加えるよりは、脅威を加えないことに同意するのである。北朝鮮が到底追いつけない経済的な優位を持っているにもかかわらず、北朝鮮政権に経済援助を提供した。西側世界はあえて交渉する必要が無いにもかかわらず、平和を期待する心から、事実上何らの代価も得ることが出来ない交渉に北朝鮮が参与することを懇請した。だが、全ての交渉で西側は、戦術的、戦略的に多様な梃子であるといえる民主主義の強力な力を満足に発揮できなかった。

北朝鮮に対する誤った理解

 北朝鮮に対する誤った理解が北朝鮮との交渉過程を決定し、交渉の成功を難しくしている。交渉に臨む北朝鮮側提案の基礎は、相手側の武装解体や共産主義化、失敗した経済法則に対する執着など、放棄することも出来ず、成就することも出来ない無数の要求事項から構成されている。また北朝鮮は敵が自分たちの政権維持にとてつもない脅威を加えており、他国からの経済的援助を通して自国経済を救うことが出来るのであり、政権の強固化は国民に対する徹底した弾圧を通して勝ち取ることが出来るという無数の誤った仮定のなかで自ら幻惑されている。

 これと同様に、西側交渉代表たちも北朝鮮政権が、長期的目標のために妥協するであろう、国民たちの要求に添って改革するであろう、交渉を通じた合意の精神に忠実であるだろうと非理性的期待を持っている。過去50余年間北朝鮮の全体主義的圧制を目撃していたにもかかわらず、西側交渉代表たちは北朝鮮政権を国民のために奉仕する政権として見なそうとする傾向がある。北朝鮮の問題を解決しようとする西側世界も、北朝鮮が困難な問題を解決するため交渉に参与するだろう、彼らの不満を解消し、国民を苦境から抜け出させるだろうという誤った仮定をしている。

 今日北朝鮮の交渉目標は、北朝鮮が建国された以後の全ての交渉と同様に、西側世界のそれと非常に異なっていて摩擦をかもし出している。米国は北朝鮮の崩壊に随伴するものと憂慮されている戦争危険を回避するため、抱擁政策を推進している。反面北朝鮮はこのような抱擁政策を拒否しながら、平和攻勢と急速な体制崩壊および戦争勃発可能性を武器として彼らが憎悪するほかの世界とのまたひとつの交渉を導こうとしている。

 微笑と握手からそれ以上利得を得ることが出来ないとき、そして自身の友好的な態度に何か重要な意味を付与しなければならない必要性を感じる時が来ると、彼らはまた一度の無理な要求と様々な非難と好戦的な脅威などをひとしきり並べたてるのである。北朝鮮政権とその他世界の間の雰囲気は北朝鮮が望む時度毎、緊張局面に逆戻りすることが出来るのである。北朝鮮の無意味な友好的態度を取り込んで、強硬な威嚇と脅奪戦略に逆戻りするときが明らかに来るであろう。そして彼らの要求事項にある程度接近譲歩が得られるとき初めて彼らは、再び交渉再開が可能であると提議するのであり、その時から交渉は新しい周期を描き、再び始まるのである。その時になると北朝鮮は間違い無く対話に参与する代価として何か新しいものを要求するであろう。ただわからないことは、果たして西側世界が北朝鮮との交渉を通して教訓を得、体制生存を目的にして北朝鮮側が提示する要求を拒否する決意をすることが出来るかということである。

著者紹介

 チャック・ダウンズ氏は、防衛、安保問題の専門家。1991年から96年まで米国防総省の東アジア政策局の地域問題・議会関係担当副責任者を務めた。現在国務省、米議会などのコンサルタント。著書『北朝鮮の交渉戦略―板門店38度線上の攻防』がある。 (編集部)

フォレンツェン医師の日記抄訳にあたって  国忠崇史(会員)

ノルベルト・フォラツェン医師

 私は特に子どもの人権を云々する手合いでないけれど、RENKのビデオで目にする通り、飢えた子どもたちが寒空の下、裸足でさまよい拾い食いする光景など、直視するのもやりきれない。以前何度か当誌の校正を担当したが「コッチェビ放浪記」には泣いた。いま、南北和解のふゎふゎムードが漂うなかで、あの子たちはどうしているのだろう。ふんわり甘い綿菓子の一つでも与えられただろうか?

 …答えは否であろう。東アジア全域を大寒波が襲ったこの冬、大人も子どもも、骨にしみる北風のなか次々と命を落としているのだ。

 北朝鮮では以前から海外NGOが援助活動を行ってきた。だが行動範囲の制限や物資配分が不公正なため、目的を果たせぬとして撤退する者もある。「国境なき医師団」「AAH」、さらに20世紀最終日の前日、あるドイツ人医師が追放令を受け、凍える国を後にした。

 医療奉仕団体から派遣されたフォレルツェン氏は、99年7月の赴任早々、放置されていた重度火傷患者に皮膚移植を施したことで共和国親善メダルを受け、当初は英雄待遇であった。メダルの威光を背に、医師は国内をつぶさに見て回ることができた。

 彼は病院や路上で目撃した事実を、外国の記者や議員に伝えたため、当局に「人民の敵」と掌を返すごとく非難され、結局追放された。いま韓国を拠点に「多少の波風を立てる」計画である。私が思うに、金正日の圧政に憂いを持つみんなが跳ね上がった行動をすべきでないけれど、歴史を動かすには常に一定数の「突破な人間」は必要なのだ。このたび『TIME』誌が医師の日記を抜粋していたので、以下に日本語版のマッキンタイアー記者の記事の要旨を『TIME』編集部の許可を得て紹介します。英語版も訳出しあわせて併記してみた次第です。

「人権抑圧の実状:ドイツ人医師は北朝鮮で何を見たか」 TIME asia 1月22日号

 ドイツ人医師のノルベルト・フォレルツェン氏は、1999年7月、非営利団体「ジャーマン・エマージェンシー・ドクターズ」のボランティアとして朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に入った。同国の医療体制を視察し、支援するというのがその任務だった。翌日、フォレルツェン氏は南西部の港町、海州に近い新院市内の病院を訪れる。そこでは、医師たちが盲腸手術の準備を進めていた。患者は、幼い少女だった。麻酔が効かなかったが、医師たちは構わず手術にとりかかった。ドナルド・マッキンタイアー記者(ソウル)

 病院には、薬も消毒液も、注射器、点滴器具、石鹸(せっけん)さえもなかった。医師たちは外科用の手袋をつけずに、素手で手術をしていた。建物の中にはトイレがなく、水もバケツで運びこむしかない。手術室のセメントの床には古い血痕がしみついている。病院には電気が来ていないため、手術は外の光が入る窓際で行われていた。

 ここから、フォレルツェン氏の旅が始まった。1年半の間、崩壊の瀬戸際にある北朝鮮の医療体制を見てまわり、信じがたい光景や、恐ろしい場面の数々を目の当たりにすることになる。北朝鮮政府は当初、フォレルツェン氏の奉仕活動をたたえて「友好」を意味するメダルを授与した。一躍有名人となったフォレルツェン氏は、このメダルと、並外れた精神力を武器に、国内を縦横無尽に駆け回った。当局が外国人の立ち入りを禁じている領域にも足を踏み入れ、そのすべてを十数冊の日記帳に書きとめた。逆境に立ち向かう人々の勇気に感服する一方で、社会にはびこる不平等も垣間見た。すぐ先の農村部では子どもたちが餓死しているというのに、ベンツの送り迎えで、優雅な生活を送るエリート層。平壌近郊の高速道路上で、拷問死した兵士の遺体を見つけた時、フォレルツェン氏はついに国際支援団体とたもとを分かつ決意をした。そして、北朝鮮での圧制と人権侵害の実状を、外に向けて訴え始めたのだ。昨年末、北朝鮮当局はフォレルツェン氏を追放し、2度と戻らないよう言い渡した。

 だが、フォレルツェン氏は逃げ去ろうとしているわけではない。今では自身が所属する「ジャーマン・エマージェンシー・ドクターズ」からも突き放された形だが、フォレルツェン氏は動じる様子もなく、「多少の波風を立てることは必要」と語る。フォレルツェン氏の主張はこうだ。外の世界が北朝鮮の政府に対し、人権抑圧をやめるよう圧力をかけなければ、食糧や医療の援助をいくら与えても意味がない。北朝鮮は現在、欧米諸国との国交樹立を強く望んでいる。国際社会はこれをカードとして利用すべきである。「北朝鮮は、国際社会をあざ笑っている。だが、圧力を加えればそれに応えてくるはず。まさに今がチャンスだ」と、フォレルツェン氏は力説する。

 フォレルツェン氏があえて騒ぎを起こそうとしているのだとしたら、それは北朝鮮で見たものがあまりにひどかったからだ。国民は何年間にもわたる飢餓と栄養失調で弱り切っており、結核などの病気も蔓延(まんえん)している。医療は基本的なレベルにさえ達していない。病院には、必需品を購入する予算もない。医師たちの多くは旧東ドイツで教育を受けたが、最近の医学の進歩について知識を持っている者は皆無に等しい。フォレルツェン氏は、北朝鮮にいた1年半の間に心臓手術はおろか、胆石の除去手術さえ見かけなかったという。大きな手術に必要な道具も、薬品もないからだ。たとえ手術が行われても、麻酔は使わないのが普通だった。ある病院では、車にはねられた男性患者が脚の骨にひどい感染症を起こしていた。麻酔薬がないため、医師たちは患者に安い酒を飲ませた上で、脚全体を切断した。「まるで石器時代のようなやり方だった」と、フォレルツェン氏は振り返る。

 最初のうちは、フォレルツェン氏も他の国際団体員と同様、「北朝鮮のような国では、何を見ても口外しない」という暗黙のルールを守っていた。だが、それは次第に難しくなっていった。小さな町に車を乗り入れれば、まわりの丘に真新しい墓が点々と立っているのが見える。締め付けが厳しく、将来に希望も持てない生活の中で、人々の間にはうつ病が蔓延し、アルコール中毒もいたる所で見られた。旧ソ連と同様、あらゆる物資が乏しくなっても安い酒だけは常に出回っていた。「いたるところに不安感があふれている」と、フォレルツェン氏は日記に記した。

「この人々の目に宿る恐怖感は、一体どこから来ているのだろう」

 小児科を専門とするフォレルツェン氏は、子どもたちの身の上に特に心を痛めた。平壌を一歩出ると、広い地域で重度の栄養失調がみられた。平壌の南西にある南浦という港町へ向かう途中には、道路工事現場で働く子どもたちの姿があった。政府は、ここに十車線の高速道路を建設しようという壮大な事業を進めているのだ。何千人もの子どもたちが、ハンマーで岩を砕き、それを手押し車やにわか作りのリュックに入れて運んでいた。中には8才という幼い子どももいた。

 そして昨年11月、フォレルツェン氏の怒りはついに爆発した。平壌から北へ約50キロの北倉という町の病院を訪問するため、ドイツ人看護婦とともに車に乗っていたフォレルツェン氏は、道の真ん中に人が倒れているのを見て、運転手に停車を命じた。運転手は耳を貸さずに車を進めた。フォレルツェン氏はさらに言い張ったが、同乗の通訳や監視人も反対した。停めなかったら車から飛び降りると脅して、ようやく運転手を従わせた。横たわっていたのは制服姿の遺体で、20才前後の兵士と思われた。シャツをめくると、首や背中に傷跡があった。まだ生々しい傷もある。旧東ドイツで反体制活動をしていたという看護婦には、兵士が拷問の末に死亡したことがすぐにわかった。フォレルツェン氏はこの時、人々の目が語る恐怖の意味を理解した。この国の仮面の下には、収容所と拷問の世界が広がっていたのだ。

「裏側に潜んでいた暴力と、ついに対面した気持ちでした。行動を起こさなければ、と考えました」

 平壌に戻ったフォレルツェン氏は、北朝鮮政府を厳しく批判する「人権声明」を書いた。強制労働や恣意的な逮捕、拷問などの例を列挙し、ドイツ人ジャーナリストと訪朝中だった米議員に手渡した。北朝鮮当局はフォレルツェン氏を「無政府主義者」「人民の敵」と呼んで非難した。同時に、フォレルツェン氏の車のブレーキ液が抜かれたり、タイヤが切り裂かれる事件が相次いだと言う。数週間後、北朝鮮政府はついにしびれを切らして、フォレルツェン氏を中国行きの列車に放りこんだ。

 フォレルツェン氏は、みずからを「目的を掲げる反逆者」と呼ぶ。その目的とは、北朝鮮の国民を救うことだ。先日は、国境付近で北朝鮮の人権について即興の演説を試みて拘束された。「いつかまた、北朝鮮に戻るつもりだ」とフォレルツェン氏は言うが、「友好」のメダルも魔力を失った今、実現は難しいだろう。

 (抜粋要約)

「フォレルツェン医師の日記」(英語版TIME) 熱狂の場所の日記:ピョンヤン到着の感慨 

 装飾的なバッヂがどこにでもある。ウェイターたち、車掌や掃除婦、幹部、アイスクリーム売り…。大人はだれも、そのバッヂをエリの折り返しに付けている。このバッヂは国中に異なった形で百万とあるに違いない。それぞれのバッヂのふちの色が、その人の社会的位置を象徴しているというのだ。

 ピョンヤンの川べりの摩天楼に、私は迎え入れられた…。ほんもののスカイラインを背後にしたさまざまな高級ホテル、横断幕が掲げられた6車線の道路、おびただしいショッピングセンター、そして、飢えた様子など全くみられない人々。われわれ人道的活動家は、外交官街の警備厳重なアパートメントに住んでいる。北朝鮮の一般市民は、立ち入りが許されない。立ち入ろうとすると、入口で守衛に阻まれるのだ。

 ここは、素晴らしい人たちの素晴らしい国だ…。しかし、それは彼らを「ただしく」知ることができた者のみに限ったことだ。多くの人々は、強制的訓練やおびただしいパレード、早朝6時からの会議や単調なプロパガンダに疲れ果て、心身症を患っている。彼らは疲れて、忍耐の限界だ。驚くに当たらないことだが、病院はもう満杯である。

 患者の大多数は飢えた子どもたちで、その子たちの母親は「誤ったバッヂ」をつけているか、または社会的階層が、単純に奴隷…、それらの人々こそ、われわれが救援したい者たちだ。

<1999年7月27日・ピョンヤン>

 海州(ヘジュ)第2病院を訪れた。じめじめと暑い日だ。病室は患者であふれ、角には砂利がたまり、悪臭は耐え難い。汚いベッドに弱々しく消耗した患者が横たわり、巻いた包帯は不潔だ。熱気やハエ、蚊を避けるための何も、ここには存在しない。換気装置も、蚊帳(かや)も清潔なリネン類も石鹸もないのだ。

<1999年12月5日・ピョンヤン>

 大腿部複雑骨折で手術が必要な8歳の女の子が、児童病院にいた。しかし、骨統合(骨同士を接合する手順)に要する適切な薬剤や機器が、われわれには欠けていた。われわれが手順にかかると、女の子は静かにすすり泣いた。後になると、痛みのあまり叫びだしたのだが。女の子は、手術台の上に1時間半いたのだ。…だが、われわれの脊髄麻酔は45分しか効かなかった。そして他の麻酔や鎮痛剤は入手できなかった。女の子の母親は、震えている娘を見るなり泣き出した。手術劇が行われた部屋の気温は、その間ずっと摂氏4度前後を示していた。

<2000年11月10日・ピョンヤン>

 北朝鮮では寒さがぶり返した。2度目の冬がすぐそこだ。そして、こんどはより苛酷な冬になりそうだ。

 プクチョンに行く途中、藁のマットだけにくるまった若い男が路上に横たわっており、見たところ眠っているようだった。夏ならば、酔った男たちが、死んだように地面に寝ていることはある。しかしこの場合は、本当に死んでいるのだ。軍の自動車や、幹部の高級車が一瞥もくれずに走り過ぎていった。その若い男を見たうちの誰も、ケガを治す方法を教えてはあげられないのだった。私はもう一度自問せずにはいられなかった「この国では、人生は何のために費やされるのだろう?」と。2時間後、工業都市・プクチョン着。他の通りにいけばまたもや、他の若い男が横たわっている。またしても顧みられない。誰も注視せず。今度の彼は、酔っているだけだった。生きているのだ。今のところは。

<人権年表> 『北朝鮮の新思考と人権問題の深刻化』 (2000年12月~2001年2月)

2000年(12月)

12日 英国は北朝鮮と国交を樹立した。

15日 平壌で開かれた第4回南北閣僚級会談は、年内と予想されていた北朝鮮の金永南最高人民会議常任委員長(元首格)のソウル訪問が決まらないまま終わった。「主敵は北」とした今年の国防白書の記述の改めを要求、韓国側を執拗に非難する一方、新たに「50万キロワットの電力支援」を直ちに約束するよう要求した。

16日 読売新聞ソウル支局発の朝鮮通信によると、朝鮮中央通信社が発行する『朝鮮中央年鑑』2000年度版で、北朝鮮の97年の人口が2235万5000人となっていた。96年比24万1000人の増。

19日 同日付『東亜日報』が北朝鮮亡命者の両江道人民委員会軍需保障局責任指導員出身もチョン・ジンス氏(35歳)証言として伝えたところによると「資本主義的要素を摘出する」として、北朝鮮の恵山で昨年4月2日と5月9日に渡って、恵山飛行場などでヤミ商売などをしていた住民19人が公開処刑された。この他20人以上が非公開処刑され、600人以上が懲役刑を受けたという。昨年2月の金総書記の指示に基づき、3月から人民軍保衛司令部による連行が始まり、約4000人が調査を受けたという。これに対し、住民が「配給もくれずにどうして生きていけるのか」と反発し、国境警備隊の将校を殺害し、死体を保衛司令部の門前に投げ捨てる事件もあったという。

19日 韓国の現代リサーチ研究所は同日までに、韓国の20歳以上の男女1000人を対象に南北統一の世論調査を実施した。8割が「統一すべき」とし、83.4%の人が「北は赤化統一をあきらめていない」と回答した。66.5%の人が「北は深刻な軍事的脅威を与えている」とし、76%が「統一より南北の平和体制構築がまず求められている」と回答。

21日 韓国統一省が発表した統計によると、今年の北朝鮮から韓国への亡命者数は、同日現在303人と年間では初めて300人を越えた。職業別の内訳は11月末(273人)現在で、労働者・農業者関係ら136人。学生・無職100人。外交官・商社関係者ら21人。党関係者・教師ら13人。軍人3人。

27日 来日した英国外務省のウエストマコット審議官(50)が在日英国大使館で産経新聞の取材に応じ「人権尊重は英国と他国との関係の重要な要素。問題になるのは迫害からの自由や法による統治などの普遍的基準で全世界に共通する」と、人権外交の重要性を強調。北朝鮮との国交樹立では「北朝鮮政府の政策を認めたわけではない」と断り「普遍的な人権を追求し成功すれば、人権や自由の侵害、児童労働、地域の安全を脅かすミサイル開発の問題を北朝鮮と共有できる」と述べた。

29日 クリントン米大統領が北朝鮮訪問の断念を表明。

2001年(1月)

4日 同日付『労働新聞』で金総書記は「過去の古いやり方で仕事をしてはならない。これまで整えられた土台の上で生きていくのではなく、新たな時代の要求に合わせてその姿を絶えず一新すべきである」「科学と技術は極めて速い速度で発展している。過去に収めた成果に満足し、足踏みしていては立ち塞がる難関を克服することも国の経済を振興させることもできない」「過去の外国式の古い枠と慣例を全面的に見直し、すべての事業を我々式に展開していくべきである」と新思考を打ち出す発言集を掲載した(2月11日付け朝日新聞)。

8日 北朝鮮で1年半の医療活動を続け、今年になって国外退去を求められたドイツ人医師、ノルベト・フォルレンツェン氏がソウル市内で記者会見し、北朝鮮の一般市民の間で、生きがいを失う「燃え尽き症候群」が蔓延、アルコール依存症患者が増加している実態を明らかにした。同氏は「多くの市民は将来を悲観し、希望や生きがいを失って燃え尽き症候群に悩まされていた」と語った。「病院には深刻なアルコール依存症の男性が大勢いた。酒が唯一の楽しみだからだ」と語った。支援食料の分配では「国際機関は視察の一週間前には北の関係機関に通告しなければならず、実際に食料がどこに配られているのか誰も知らない」と指摘した。

8日 北朝鮮難民救援基金が文京シビックホールで総会を開催。各メンバーが中国における難民支援活動の体験を報告して、今後の活動に活かす方法を話し合うとともに、社団法人化の道も探ることを決めた。出席者は20人。

12日 平壌駐在のデービッド・モートン国連人道援助問題担当官は、ロイター通信の書面の質問に対して「2000年の収穫は、5、6月の干ばつが大きく影響した。2001年の食糧不足は過去3年間よりも深刻なものになるだろう」と述べた。

15日 中国共産党対外連絡部スポークスマンが20日に発表したところによると、金総書記は20日までの日程で中国を訪問し、最終日の20日に中国の江沢民国家主席と会談したほか、朱鎔基首相の案内で16日から上海のハイテク都市ぶりを視察して証券取引所と先端技術に強い関心を示した。上海訪問の際は「以前の上海の姿は見いだせないほど現代的に変貌した」と驚き(朝鮮中央放送など)。中朝首脳会談では、金総書記は「改革・開放後、中国、とくに上海などは大きな変化を遂げた。これは中国共産党が実施している改革・開放路線が正しいことを示している」と強調。

22日 韓国の金大中大統領は、最近の金総書記の中国訪問に触れ「北は今年に入って新思考を主張し、相当な変化を見せている。今年は多くの変化が予想されるため、適切に対応していかなければならない」と述べた。

31日 第3回南北赤十字会談は6項目の合意を盛り込んだ共同報道文を発表し終了。離散家族の面会所は、金剛山を主張する北と板門店を主張する南の合意には至らなかった。合意点は100人ずつ3回目の交換訪問を2月26日、28日に実施する。300人に限って3月15日に手紙交換を行うなど。会談場所の金剛山ホテルは停電が多く、交渉員は防寒コートで寝、温水も出ず深刻な電力不足をうかがわせた。

2001年(2月)

1日 産経新聞の古森義久ワシントン特派員電によると、米国政府関係筋は、韓国の財閥「現代グループ」が金剛山観光開発の許可獲得などを名目に数回に渡って北朝鮮に供与された3億ドルの無償資金援助が軍事転用されたと見ていることを明らかにした。内訳は99年にカザフスタンからミグ21戦闘機40機を購入し、石油の調達が可能になったために大規模軍事演習を再開したとみている。

6日 カナダ政府は北朝鮮との間で国交を樹立したと発表した。

7日 パウエル米国務長官は、訪米中の李廷彬外交通商相と会談し、終了後、ブッシュ政権が韓国の金大中大統領が進める「太陽政策」を支持することをうたう共同声明を発表した。

7日 産経新聞の黒田勝弘ソウル特派員電によると、韓国で国税当局による新聞17社、放送5社、通信1社に対する国税当局による税務調査が問題になっている。大統領は年頭記者会見で、「言論改革」に触れ、「公正な報道と責任ある批判」を強調している。税務調査は、歴代政権が、マスコミ対策で使ったりしてきた。「言論改革」は、進歩派の市民団体が主張し、同じ進歩派で政権よりと見える「ハンギョレ新聞」がキャンペーンをはってきた。北の人権問題を批判している『朝鮮日報』『東亜日報』などの動きを牽制する政治的意図があるとする観測も見られる。

7日 朝鮮中央通信などによると、北朝鮮とスペインは同日付けで国交を樹立した。

13日 同日発売の時事問題専門週刊誌『時事ジャーナル』は、政府・与党ブレーン作成の内部文書を入手して報じた。文書は『朝鮮日報』など4紙を反政府マスコミと認定「批判水位は極めて危険な状況」と指摘。「効率的な国政運営や国民統合の大きな障害となっている」とし、「大統領をはじめとする権力の核心への批判を防ぐ防御壁を築くことが不可欠」と主張している。

(佐伯浩明:運営委員)

帰国者からの手紙 

●●様

其の後 如何お過ごしですか 私方も細々と元気でくらしていますから御休で下さい

昨年●●さんの友達からほしいものがあったら送って上げるからたのめとの便り朝鮮語の便りでしたので●●と●子さんが衣類と総合ビタミン剤をたのむ便りを出しました

そして●●さんから送って下さった一万円 九月七日に受取りました

返事を●子さん達が出したのですが私が昨年手首骨折で今だに良くならず又最近あばら骨の打身で息も出来ぬ位 これは骨折と違ふので月日が過ぎれば治をるでしょうが散々な目に会っています

●●君はどこと云って悪くはないようだけど肩の骨が使へず右肩です 寝たり起きたりです 此の度突然●子さんの長女●子に縁談があり良縁のようなので嫁にやりたいのに準備が出来ていないので家内中大あわてをしています

●●君が私が手紙書くとよく着くから一枚書いて呉れと申されます

迷惑になる事ばかり私も申訳無くことわったけど最後の一回だけ助けて呉れとたのんでくれとの事厚顔しく便り書いています●●君もお母さんが亡く成ったので心細く成ったのか●子の結婚式の事を自分が一肌ぬいでやろうと考へたのか便り書いてくれと何回もたのまれます

はっきり月日はきまっていませんが十二月十八日にきめるとの事

多分一月に成るだろうと云っています

●子は25才こちらでは遅い方です婿も31才早くすると思います

嫁は婿家の近い身内に靴下一足でも肌着一枚でも贈をする風習

姑には洋服布地の一着位、一年前死んだ舅の衣類(燃やす)までざっと19人靴下だけでも二十足と目を廻している

そして婿に成る人には黒の洋服地と白のワイシャツ位はしなくてはならないらしい。

婿家は日本から援助のある家

何も持ってくるな(タンス鏡台等)云ふけど、どうなる事やら

●●君私をせめるばかり忙がなくてはと私の姪にも便りしたけど頼りない

今迄はなばなしく送物をして呉れた●●さんにたのむ事だけを頼りの綱と私にたのむ

私も厚顔しい事出来ないのに悪役になってこうして又便りしています

里帰りでも出来たら●●さんに電話して(代々木ホテルより)逐一近況をお知らせしたり●●さんの話等を出来るのに里帰りも日本より迎へる積極的な運動をされた人が優先的に帰へられるとききます

順番を待てば死の方が先に来そうです

●●さん本当に申訳ないけど●●さんが最後の貴方への甘えだと思います

自分も力をかそうと思いたたれ貴方へ便りを書けと申されます

そしてお金も現金書留と云ふので送ると日本円が私達の手に入いるのです

しかもめったに行けぬ平壌にも旅行証が出るのです

首都平壌に十年に一ペンも行けない人も大多数です

私自身がそうです

どうか三万位送って下さい

●子さんの一人娘の結婚式です 助けて下さい、

十二月十八日にはっきり日にちを決めると男側が云っています

一月だろうと思いますがどうか呉々も宜敷くお願い致します

御家族の皆様へよろしくお傅へ下さい

●●様  ●子姑書

日本への里帰りも 上納金しだい!! 朴 龍鎬(パク・ヨンホ) 前号で紹介した元朝鮮総連分会長の話の続き

孫一人を三週間 日本に連れてくるのに八百万円

 昨年の秋、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に帰国した息子家族に会うため夫婦で行ってきたし、おカネも置いてきたので当分行かなくてもよいと思っていた。

 ところが急に「孫の病気のことで話があるから急いで来て欲しい」という電話があったので、取るものも取りあえず一人でピョンヤンに行って きた。息子は「その子の病気(病名不詳)を治すために日本に三週間連れて行って欲しい。私ら両親はついて行けないが、五百万かかる。そして親代わりにこちらの人が二人ついて行くのでその滞在費として他に三百万円を用意して欲しい」と言うのであった。

 つまり孫一人を三週間日本に連れてくるのに八百万円かかるというのである。それに両親はついてこれないし向うの現地の人がついて来て、その滞在費も負担せよというのである。

 頭にきた元総連分会長は、向うの人に言ってやったそうだ。「二百万円に下げて貰えないか」と。するとその人は「それでも前には一千万円もかかった。それが金正日将軍さまになってから五百万円になった」といい、せせら笑いながら「いやならやめたら」という素振りをみせたので、結局私はそれをやめ、息子に言って来た。「もうこれ以上のことはできない」と。しかし親のことだから、今まで孫を診てくれた医者への心付けはしてきたようだ、と筆者は思った。

帰国者九万三千余人、その親族は数十万 その殆どの人が自由に日本に来れない

 このことを複数の現職総連活動家に話したところ「そんな話はずっと前から聞いている。ただお互いに言わないだけだ。共和国は在日朝鮮人 からおカネをしぼりとることばかり考えているんだ」と、憤激口調で答えた。彼らは、在日同胞がおカネをだすことで、帰国者をたくさん日本に呼び寄せている話を当然のようにしていた。元総連分会長が肩を落とし嘆め息まじりに「おカネさえあれば、何でもできる感じだった。今まで総連で働いてきた私が馬鹿だったのか」という自嘲的な言葉が、筆者には印象に残る言葉と態度であった。

 そこで筆者は最近、金正日総書記がだした本にこんなくだりのあることを思い出し、それをひもといてみて更に驚いた。

 『金正日 在日本朝鮮人運動と総連の任務』(平壌 朝鮮労働党出版社 二〇〇〇年一月十日発行)にでている「総連は朝鮮民族の誇りであり、世界海外僑胞運動の模範である 一九九四年五月六日」の論文がそれ。これは故李珍珪総連第一副議長が祖国に行って金正日書記にあったときの談話で、時期としては金日成主席急死の直前である。少し長くなるが意味を正しく伝えるためにそのまま紹介することにする。

 「祖国では帰国した総連幹部と商工人の子弟たちを日本に送り、家族に会えるようにする活動をうまく組織しなければなりません。

 これまで日本に行く祖国の代表団要員の中に在日商工人子弟たちを入れて送っていたが、総連幹部子弟たちも日本に送らないといけません。

 子どもを思わぬ父母はいません。父母の心情はみな同じです。何十年間互いに離れて暮しているのだから、父母は子どもたちとどれほど会いたいと思っており、子どもたちは父母をどれだけ懐かしんでいることか。血肉の情とはこんなものです。

 私がかつて祖国解放戦争(韓国では六・二五動乱と言っている=筆者)のときに首領さま(金日成主席のこと=前同)と一年八カ月離れていましたが、首領さまをどれほど顔を見たく、懐かしかったことか、辛抱できませんでした。父様首領さまは私に会いたがったし、私は首領さまを見たくてたまりませんでした。

 (中略)

 革命的義理と道徳的見地からみても、帰国した総連幹部と商工人の子弟たちを日本に送り、父母に会えるようにしなければなりません。

 帰国した同務(トンム)たちが表彰休暇を貰って日本に行き、家族と会える制度をつくることは、好いことだと思います。帰国した同務の中で仕事をよくやる人を組織で推薦し、表彰休暇で日本に送れば総連活動家と同胞はほんとうによかったと思うし、総連事業が活気を帯びることでしょう。」

 以上の談話で金正日総書記が、帰国者をどのように見ているか、どう対処しようとしているのかがよくわかる。帰国者が九万三千余人もいること、その殆どの人が自由に日本に来れない″カゴの鳥″的状態にあるという現実無視の言といえよう。しかも総連幹部と商工人の子弟たちだけを日本に送ってやれといっているのだ。その上、前述のようにカネを出す人間に限っている。「表彰休暇」制度づくりは、一石二鳥を狙った策略と思うのは筆者のひがみであろうか。金正日総書記は昨年六月の南北首脳会談と関連して「苦難の行軍」は「最悪の試練」であったと言っている。以上からもわかるように、帰国者問題一つみても、現実の厳しさを如実に物語っているといえよう。

第二の故郷 北朝鮮  佐田 ミサヲ(会員・主婦)

 故郷、北朝鮮は… 

 北朝鮮の義州は、私の第二の故郷です。中国との国境の町・新義州の近くです。鴨緑江をはさんだ中国側の旧満州安東(現在の中国東北部丹東)の女学校を出ている私は、中国が改革開放政策をとって自由に往来が出きる様になり母校訪問団の一員として丹東を七、八年前に訪問、現在の名門校第七中学になっている旧女学校や、電気部品工場になっている寄宿舎などを訪れ、寄宿舎では十人位の女子工員さんに歓迎されてお茶を馳走になったり、おしゃべりをかわしたり、写真をとってあげたり、帰国後は年賀状を頂いたりしました。早晩義州にも必ずこの様な日が来ると期待していました。

 昔北朝鮮に住んでいた人達も思いは同じで、住んでいた地名をとって「義州会」「定州会」「宣川会」などなどを作り、毎年全国の各地に集って、彼の地をしのんでいます。

手紙を出すのはおやめなさい 

 私の場合、萩原遼先生の御著書『北朝鮮に消えた友と私の物語』を拝読するまでは、地上の楽園は信じなかったけれども、北朝鮮では他人に警戒心を持たなければ生きてゆけない国になっているなど、夢にも思っていませんでした。読後、萩原先生と文通させて頂く様になってから、北朝鮮に関する本を手当たり次第読むようになり、何て恐ろしい国になってしまったのだろうと驚いたり戦慄を覚えたり、時には恐怖感の余り読み進む事が出来なくなって、本を閉じる事もありました。又、本を読みながら、胸をなで下ろす思いをする事もありました。

 中国には、数回行っているのですが、ある時、北京からなら北朝鮮に手紙が出せると聞き、なつかしい方に手紙を出したいと思い、義州会のメンバーで、警察畑で定年になった方に相談しました。彼は「やめなさい」と一言。「どうしてですか?」「相手に迷惑がかかる」「お元気ですか、私も元気で今こうしたことで中国に来てます。その程度でも?」「出さない方がいい」と、その方は職業上、かの地の事を知っておられたのでしょう。頑固に止められたので、私はしぶしぶ中止しましたが、出していたらスパイなどの罪に問われて、相手の方に迷惑をかけたかもしれないと身の縮む思いをしたものです。

同級生から聞いた話 

 又、女学校時代の同級生(二〇〇名)の中に朝鮮人が五人いましたがその一人、呉正子さん(日本名:呉城正子)の事も思い出しました。南朝鮮に住んでいたもう一人の朝鮮人同級生から聞いた話ですが…。

 呉さんは情熱家で気性の激しい人でした。戦後、北朝鮮政府の機関で活躍し、ある時、男性の一人が女子を侮蔑した事に立腹し、呉さんが激しくその男につめより口論になり、男も腹を立て「生意気な女だ、ぶっ殺すぞ!」と「殺すなら殺してみろ!」と呉さん。次の瞬間、銃は発砲され、呉さんは即死。十八才の生涯を終えたというのです。正義感も人一倍強かった呉さんの事ですから生きていても不正をあばいたりして、収容所送りになったかもしれない、とふと思ったりしましたが、この頃から既に北朝鮮の暗い現象は芽生えていた様にも思えました。

 生きているうちにどうしても行きたかった国だったのに、いまのままでは私たちのふるさと訪問は夢に終わりそうです。

心から声援を送ります 

 それにしても「地上の楽園」をうたい文句に、多くの在日朝鮮人を北に送りこんだ「朝鮮総連」は犠牲者の救済の為に、どういう活動をしているのでしょうか?「地上の楽園」をイメージさせて、地獄のような生活を強いる様になった責任を、どうやってとっているのか知りたいところです。かの地と同じように、そんな事実は無いとひらき直っているのではないでしょうね。又、在日朝鮮人の人達は、この事に対して、どういう形で抗議をしているのでしょうか? まさか日本の中にかの地のような「収容所送り」(精神的な圧力)みたいなものがあるのでは…。

 と、ふと思ったりしました。それ程「北朝鮮」は私達日本人に「不気味、ゴリ押し、道理の通らない国」というイメージを与えています。私は日本に引揚げてこられて本当によかったと思うと共に、今日もかの地の何処かで、故なく善良な人達が、食を断たれたり、身体を破壊するような拷問、足げり、強打、強姦、無理無体の堕胎等々の地獄絵図さながらが繰り返されているかもしれないと思うと、かの地の為政者を憤激せずにはいられません。

 自分の事しか考えない独裁者は必ず倒されると思っています。現在の私には、その日が一日も早からん事を祈る事しか出来ませんが、その事に全生命をかけている人達に、心から声援を送ります。

「この人に聞く」 聞き手・金国雄 福本正樹さん(高校教員)

北朝鮮人権問題との出会い

 将来、アジア関係のことでボランティア活動をしたいと思い、転勤を機会に図書館に通っていました。そこで最初に読んだのが安明哲氏の「北朝鮮絶望収容所」でした。現代にこんなひどいところがあるのかと驚愕しながら、北朝鮮関係の図書を読破し、すっかりこの問題にとりつかれてしまい、「守る会」に入会しました。

 私は、国語を教える高校の教員ですが、以前より日本やアジアの現代史や人権問題に関心がありました。森村誠一『悪魔の飽食』、本多勝一『中国の旅』などをはじめとして大体は読んでいます。国語の教材に類似のものがでてくると、それにふさわしい内容のものを選んでプリントにし、生徒に読ませています。

 私は戦争や侵略など、正しく生徒に伝えていくのは、教員としての義務だと思います。当時の人々が命をかけて戦ったことを貴重な教訓として後代に伝え、二度と繰り返さないようにすべきと考えます。

―― 「かるめぎ」のホームページを作成 ――

 パソコンを始めたのは、北朝鮮関係の本を読み始めた頃です。「かるめぎ」をインターネットのホームページにしたらと思いつき、守る会のホームページの作成を買ってでました。名乗りでたものの作成の仕方が分からず、全て手探り状態でした。原稿の作り方、アップロードの仕方など後で分かれば簡単なのですが、最初は全て試行錯誤でした。

 「かるめぎ」の紙面は最初手作業で入力していましたが、後はスキャナーで読み取り、二、三日かかって作成していました。現在は編集部よりメールで送付してくれますので、大変楽になりました。

 これからの社会になくてはならないインターネットは、「守る会」の活動にとっても重要になると思います。今のホームページに付け加えたいのは、リンク先と参考図書です。又、「守る会」の発行する『生命と人権』を掲載し、これを有料にして会の活動資金の足しにしたらどうかと考えています。内容豊かなホームページにしたいと思っています。

 メールを活用して、「守る会」の主張を広めていったらどうかと思います。国

会議員や報道機関は自らのホームページを持っていますので、そこへ会の主張を

述べたら効率的な宣伝活動が出来るのではないかと思います。

 又、全国に散在する会員を結びつけるためにもメールの利用は必要です。IT

は時間や場所を問わないので、私のように田舎にいて部屋からあまり出ない者で

も利用することが出来ます。現在、国はIT戦略を重要政策として展開していま

すので、会員の方々もIT技術をこの際身に付けたらと思います。そして、「か

るめぎ・ネットワーク」に参加されたらどうでしょうか。

―― 北朝鮮の政治状況について思う ――

 私の学生時代は、全国に学生運動の嵐が吹き荒れていました。私もそれに参加し、悪い影響と痛手を受けました。その頃、政治学の先生が言っていた印象深い言葉があります。その言葉は、「絶対権力は絶対に腐敗する。」正にこれは北朝鮮の体制にもあてはまるのではないでしょうか。金日成・金正日父子の独裁体制が国民の権利を奪い去った人権状況や、独裁に起因する戦争の危機などを生み出しています。これらに反対するのは当然です。北朝鮮の強制収容所は、ナチスの強制収容所に該当するのではないかと思います。ホロコーストがないだけで実質的には同じなのではないでしょうか。過去のナチスの収容所より北朝鮮の現在の収容所を問題にすべきです。

 北朝鮮の現状を世論に訴えることを通じてこれらに反対し、帰国者や北朝鮮の苦しむ人々に少しでも人権の光りが射すよう、「守る会」の活動に協力していきたいと思います。

読者の広場 大堀 直樹 (学生・会員)

小川先生をお招きし講演会開催

 昨年11月10日(金曜日)、東京の明治学院大学白金校舎にて、「守る会」共同代表のお一人である小川晴久先生の特別講演会が開催された。この特別講演会は、学内の「日韓関係研究会」という勉強会に参加している私が提案し、お忙しい小川先生にご無理を申し上げて開催されたもので、当日、遅い時間帯にも関わらず(20:00-21:30)、21人の方が集まって下さり、中には「守る会」ホームページ常連寄稿者の姿も散見された。この場を借りてご足労頂いた皆様に深く感謝申し上げます。

 「帰国事業と強制収容所」と銘打ったこの講演会の眼目は、以下にあった。即ち、今年6月の平壌における歴史的な南北首脳会談を契機に日朝和解の兆しと朝鮮半島情勢の明るい未来という論調がマスコミで報道されているが、北朝鮮政府の失政によって引き起こされた大規模な飢餓の蔓延などについては今のところ無視され、無責任な楽観論も少なくない。まして、金正日体制を梃入れするであろうコメ援助など、金正日体制のエリートたる核心階層にのみ行き渡る可能性が高い援助には慎重な態度が求められるべきではないか。概ねこのようなものであったが、小川先生の講演は、その効果を十分に聴衆に与えて下さった。

 「守る会」関係者を除き、「北朝鮮帰国事業」を知らない方たちが多かった為、まず言い出しっぺの私が拙いながらも帰国事業や帰北された方々の現状について説明したのち、小川先生の講演が始まった(紙面の都合上、重要と思われる部分のみを抜粋)。

独裁の犠牲になった帰国者

 講演会は、先生ご自身の朝鮮半島への学術的な取り組みを通して、対北朝鮮観の変遷も通時的に説明するというもので、私自身もとても興味深かった。

 「帰国事業」発足当時の日赤の活動(日赤は日本人抑留者と引き換えに、帰国事業を展開したという)、60年代の学生たちが共産圏を好意的に捉えていたこと。先生は、60年代初めに実学思想に裏打ちされた朝鮮実学史や朝鮮文化史の本を読み、深い感銘を受けたこと。そして、それらの本は、日帝時代、日本に留学していた朝鮮人の知識人によって書かれたものであったという。

 ところが、63年の刷から前文に金日成の名が記されるようになり、67年、唯一思想領導体系が構築され、独裁体制が完成することにより延安派、ソ連派、南労派、パルチザン派らが相次いで粛清され、長大な朝鮮の歴史のなかで金日成のみがもっとも偉大な存在とされる異常事態になったという。そして、1959年から翌60年にかけて多くの帰国者が北に渡ったということ、本格的な独裁体制が確立する前に北に渡った彼らは、唯一思想領導という名の独裁体制の犠牲になった悲劇的な存在であること。このことを強調されていた。

守る会結成の逸話

 次に「守る会」について。1993年、帰国者の遺家族の秘密集会における衝撃的な証言がきっかけだったこと。「守る会」という名称は、松川事件における支援者の会にちなんだものであること。1994年の発足時に総聯の暴力分子の妨害にあったこと、「人権を守る会」だけでは弱いので、「生命と人権を守る会」としたことも話されていた。

過去の侵略行為の償いとして 人権状況の改善にも力を入れるべきだ

 次に補償問題に関係して話された。安江良介(故人・岩波『世界』編集長)氏、国際政治学者・坂本義和氏を一刀両断に批判されていたのが、個人的に痛快であった。

 私事で恐縮だが、坂本氏は、私の出身学部の創設者であり、畏れ多い先生ながら、最近、総聯系の雑誌に日本人の被拉致者のことで露骨な北朝鮮擁護の発言をされていた。

 小川先生は、坂本氏や和田春樹氏らが提唱する段階論に異を唱え、これでは人権状況の改善につながらないと批判され、過去の侵略行為の償いとして人権状況の改善にも力を入れるべき、と話された。また、日朝国交正常化交渉に関係して、日韓方式が提案されたが、金で解決するだけでは日本占領時に持ちこまれ、現在国立大学に保管されている文化財遺産などの返還が進まないこと等の問題点を指摘されていた。

強制収容所の廃絶を!

 次にこの講演会のもう一つの主題である強制収容所について。「守る会」の共同代表のお一人でいらっしゃる金民柱さんの弟さんの北に渡ってからの人生と絡めて語られた。

 金民柱さんの弟さんは、金日成総合大学を卒業するほどの俊秀であったにもかかわらず、突如行方不明になり、長い間消息不明であったが最終的に強制収容所で亡くなったことが確認されたと言う。

 強制収容所は社会主義国につきものであり、例としてソルジェニーツィンの『収容所群島』(新潮文庫・絶版)を例に引かれた。現在の中国にも労働改造所(労改)という強制収容所があるが、ここでは外部の家族との連絡はとれるそうである。姜哲煥・安赫の『北朝鮮脱出』(文春文庫上・下)を読んだ者なら北朝鮮の強制収容所の過酷さはとてもこんなものではないということが分かる。

 そして、昨年発表されたアメリカのペリー報告書について。この報告書は、アメリカの対北朝鮮政策が、強硬策から宥和政策に換わったことを表すものだと強調された。これは北朝鮮人民の苦しみを長引かせるものであること、次期大統領には共和党のブッシュ氏になってもらいたいと述べられた。それは、上院公聴会で北朝鮮の人権問題に敏感なのは主に共和党勢力だからなのだという。ただ、黒人や貧困層のことを考えるとゴア氏のほうがいいとも漏らされ、先生の複雑な心境を拝察した。また、フランスの知識人も北朝鮮の人権問題には積極的だと述べておられた。

 講演会はこの後、質疑応答に移り(省略)、まとめとして、北朝鮮に強制収容所が存在すること、そしてこの問題意識を広範に共有し、国際的に北朝鮮に圧力をかけていくこと、このことが解決への方法だと力説されて講演会は終了した。

保守派に与することなく 革新派とも一線を画す

 最後に、小川先生に講演のご苦労をお願いした者の責任として、総括しなくてはならない。

 北朝鮮の強制収容所問題を取り上げるにあたって一つ留意する点がある。それは、えてして保守、右翼の側からのものと混同されがちだということである。事実、私はこの講演会の宣伝を学内でするにあたって、ある先生から右翼のレッテルを頂戴した。

 かつての日本が朝鮮半島や中国、東南アジア諸国を侵略し、無辜の民を未曾有の惨禍に巻き込んだことは厳然たる事実である。戦後の日本のハト派、良心派と呼ばれた人たち(小川先生が批判された坂本氏や安江氏はその代表格である)はその贖罪意識を持ち、日本の国家権力に厳しい目を向ける一方、社会主義主義諸国には憧れのようなものを持ち続けた。しかし、社会主義国に共通する政治犯強制収容所は、人間をもっとも大事にするはずの社会主義国が、最悪の監獄国家に他ならなかったことを証明している。それに、革新派(ハト派)=北朝鮮の圧制存続・保守派(タカ派)=体制打倒(結果的に)という奇妙なねじれが生じていることからも分かるが、必ずしも従来の保守/革新の図式は成り立たなくなってきている。日本の過去の過ちに何の痛みも感じない保守派に与することなく、また空洞化した過去の図式にしがみついている革新派とも一線を画すこと――このことが肝要ではなかろうか。また、小川先生が指摘されていたように、収容所問題を多くの人に知ってもらい、国際的に圧力をかけることもとても大事であると思う。

 当日、会場にいらしてくれた皆様と、何よりも、ご無理を申し上げて講演会をお引き受け下さった共同代表の小川晴久先生に心からの感謝を申し上げて擱筆する。

読者の広場 鄭早苗(チョン・チョミョ)大谷大学文学部教授

「釜山から便りを」

 昨年10月から韓国の釜山大学・韓国民族文化研究所の客員研究員ということで釜山に来てもう4ケ月過ぎようとしていますが、色々考えさせられることが多い毎日であります。私が気付いた釜山の一面を紹介します。

 まずこちらでは金大統領のノーベル平和賞のことが話題にならないということです。これはよく世間で言われるような、金大統領は全羅道出身で釜山大学は慶尚道にあるからという地域対立の問題では片付けられないと思っています。簡単に云えばIMF問題がいまだに深く尾を引いていることが大きい原因のひとつだと思います。大学生の休学率が40パーセント(軍隊入隊者を含む)近いとか、釜山の失業率が5パーセントを上回っているとかを聞きますと大変さが身にしみます。北韓の金正日が上海に行ったとか、ヨーロッパではデンマークをはじめとする国々が北韓と国交を樹立したとかの話題も別に人の気を引くものでもないようです。近ごろ私は何か分かりませんが、この国の人たちのしたたかさに気付き、それを小気味いいと思うようになっています。

 と言いますのも、大学の研究室で植民地時代の史料ばかりを読んでいるのですが、抗日武装組織や大韓民国臨時政府や光復軍という名の知れた組織だけが日本の統治に反対したのではなく、普通学校や女学校でも「差別的な先生を辞めさせろ」とか「朝鮮史の時間を増やせ」「朝鮮の歌も教えろ」等の要求を掲げ、あちらこちらで同盟休学をしたり、会社でも待遇改善や賃金闘争で一定の成果をあげたりしている史料を見ますと庶民レヴェルでの歴史の面白さに惹かれています。先ほど書きましたように韓国経済はいま大変な混乱と苦しさに直面しているようですが、結構人々は平気なようなのです。休学をする学生はその間アルバイトをして学費を稼ぐことを当然と思い少しもがっかりしていませんし、よく学生たちは映画を見たり音楽を聴いたり、本も読んでいますし世界の情報にも通じている学生も多いようです。何よりも悲観をしていないのです。韓国人の三つのうそを教えてもらいました。「死にたい、儲からない、結婚しない」は嘘らしいです。昨年度の日本人の自殺者は交通事故死の3倍以上であったと言いますと、信じられないという顔をします。私もなんだかその顔の意味が理解できそうです。北韓の人々もそうなのではないでしょうか? あれだけひどい非人権的悪政にもかかわらず、人々が生きている姿を見ますとまさに韓民族のしたたかさを思います。

詩二編 小野 美智子

 『 自由への扉 』

さあ起きて そう歩きましょう
遠くはないのよ 一緒に歩きましょう
希望の扉まで
途中で吹雪にあっても大丈夫 
灰色の雲が行ったら陽が昇るから
立ち上がり そう歩きましょう
寒くはないのよ 皆で歩きましょう 
自由の扉まで
鳥が飛ぶほうへ さあ歩きましょう
陽射しは雪を溶かし 道を造るでしょう
木の芽が萌えて 山々にチンダルレが競って咲くでしょう
その中を行きましょう
チャンゴを鳴らし ほら皆が待っている
勇気を出して さあ歩きましょう
あの扉まで

『 離散家族 』

恋しい人がいる 北にも南にも
声を限りに呼んでみる
有刺鉄線の向こう側とこちら側
愛しい人がいる 北にも南にも
行けるものなら駆けるのに
見えぬ壁の向こう側とこちら側
散りじりの家族 北にも南にも
同じ言葉を話すのに
国は二つに分けられて
北から南へ 南から北へ
鳥さえ通うのに
飛べるなら 飛んでゆきたい
届かぬ思いに
涙あふれて 涙あふれて

<東京本部>

―2月8日運営委員会だより―
「北朝鮮人権市民大学」
第一回講座「北朝鮮学入門」

講 師:朴 龍鎬氏(元朝鮮総連幹部/会員)

講演内容

「韓国の北朝鮮専門家・学者グループの編集した
教科書『北韓学概論』の解説と質疑応答」

日 時:3月3日(土)午後1時30分~5時まで

場 所:喫茶店ベラミ2階

   (JR日暮里駅北口、駅を背にして左側)

   (荒川区西日暮里2-20-1 TEL(03)3801-5545)

<東海支部>

 東海支部が誕生して1年になります。この1年、南北関係や日朝関係など大きな変化がありましたが、「守る会」も大きく変わったと思います。4月の結成総会では小川晴久、萩原遼両共同代表に講演していただき、スタッフも驚くほどの成功で東海支部の幕を開ける事が出来ました。

 次に東海支部として会に貢献できることとして「守る会」の組織のIT化を図るということで、インターネットを利用した「かるめぎネットワーク」を構築したことです。今では全国の会員20数名が参加し、週1回のペースで記事や情報の交換も行われています。また、「かるめぎ」編集・版下作りも現在、このネットワークを通してその大部分を行っています。

 そして昨年7月の高知への親睦旅行、11月には初めての勉強会を開催することが出来ました。特に勉強会には福岡から、先日韓国への入国が認められた金龍華さんをはじめ、こじんまりとした勉強会には贅沢なほどの人たちが集まってくださり忌憚のない意見交換が行なわれ大成功をおさめました。

 なお先々週、金龍華さんより連絡があり昨年12月にお会いした「東海支部」の皆さんにお会いし、お別れの挨拶をしたいとのこでしたが、今回、急な事で調整が出来ませんでした。また福岡でのお別れ会の案内状もいただきましたが、言葉を交わし直接お別れすることができませんでした。金龍華さんが今後、韓国で向かえる生活の基盤を築く上での困難さを心配しつつも先ずは、良かったと思います。今度は韓国で会う事になればと願っております。

 この1年は東海支部の足元を固める1年でした。新しい会員も増えました。しかしまだまだ不備な所もあります。引き続き支部基盤の充実を図り、守る会の発展に尽くすことができればと思っております。

 南北首脳会談以後、ごく少数の離散家族再会などもありましたが、まだまだ脱北者もあとをたちません。昨年、韓国に逃げてきた脱北者は過去最高だったそうです。生命をかけて逃げてくるということは、北では生きていくことが命がけだということです。北の内情はかなり酷いようです。北の人たちが中国や韓国、日本に逃げてくるのではなく、自由に遊びに来れるよう自由往来が帰国者の方たちも含め一日も早く実現される日が来る事を祈って活動を続けていきます。

ジャンボ・東海支部

<関西支部>

第15回関西支部講座のご案内
報道写真家がとらえた離散家族再会の現場、 そして南北の日本人妻たち

 講 師 報道写真家 山本 將文 さん

日 時 2001年 3月10日(土) 午後1時~5時

場 所 大阪経済大学   G館  G55教室 

  大阪市東淀川区大隈2-2-8

  大阪市バス 井高野車庫行き 大阪経大前下車すぐ

  (大阪駅前、扇町、天神橋筋五丁目、天神橋筋六丁目などで乗車できます。)

   阪急京都線 上新庄駅下車 徒歩10分

 20世紀後半に起こった朝鮮半島と日本の人権問題を21世紀にまで引き継いだことは、きわめて残念なことでありますが、この問題への理解を広げ、小さな力をたくさん合わせることで、立ちはだかる壁の中に小さな穴をあけていき、やがて壁を打ち砕く亀裂をつくりだしたいと思います。

 今回の支部講座は「アジアと戦争」を中心テーマに、朝鮮民族に焦点をあてつつ、報道写真家として活躍してこられた山本將文さんに報告してもらいます。

報告内容は

    ① 北朝鮮取材体験と南北の日本人妻

    ② シベリアの北朝貯労勧者

    ③ 中国延辺の朝鮮族と北朝鮮

    ④ 南北離散家族再会と報道されざる事実

    ⑤ など・・・・・・・・・です。

 長年にわたる広い範囲の取材にもとづいた各地の朝鮮族の現状とともに、北朝鮮の日本人妻と韓国の日本人妻、そして南北離散家族再会の現場を取材した最新の内容を報告してもらいます。同時に山本さんが撮影してこられた写真の数々もスライドで紹介していただきます。

 なお、当日1時からKNTVが製作した帰国運動のドキュメンタリー「戻らぬ船」のVTRを約1時間ご覧いただきます。帰国運動の実態と現在の問題にせまるすぐれた内容です。放送をご覧にならなかった方は、ぜひ1時にお越しください。

山本將文さんプロフィール

 1949年大阪府生れ。報道写真家。日本写真家協会会員。70年代からアジア各地の朝鮮民族をはじめとする取材をおこなってきた。著書(写真集)に『ヒロシマ・ナガサキ韓国の被爆者たち』『アジアの人びと1970~1989』『朝鮮民族』などがある。

編集後記

◆ 陽春もまじかとなりました。会員のみなさま、お変わりありませんか。今号は予想をこえて多くの原稿が集まり、割愛するにしのびない力作も少なからず、増ページで収録しました。情勢の進展と守る会会員の熱意の高まりの反映と思われます。寄稿くださった方、編集、発送、その他の仕事にお力ぞえくださったすべての方がたに厚くお礼申し上げます。

 前号で予告しました金民柱共同代表の「金大中大統領への手紙」は、今号も体調すぐれず見送りとなりました。おわびいたします。(ワシントンにて 萩原 遼)

◆ かの地では「開放」や「世代交代」も「指導者」の口の端にのぼってるやに聞く。一方、守る会においても、支部制という分権化の導入や世代交代が検討されるようになってきた。また今年から北朝鮮人権市民大学や帰国者問題裁判へ の試みも始まろうとしていて、まさに過渡期にあると言える。そんな中で「かるめぎ」が重要な働きをしているのは間違いない。(佐倉 洋)

◆ 編集の仕事に携わり原稿の内容を良く読むようになったことで非常に勉強になります。(金 国雄)

本の紹 介 

新刊!!

訳者:遼さん

北朝鮮はるかなり 上・下巻 -金正日官邸で暮らした20年-

成惠琅(ソンヘラン):著/萩原遼:訳

文藝春秋(本体価格:各1714円)

 朝鮮戦争開戦時、15歳だった著者は妹・惠琳(ヘリム)とともに革命家の母に連れられてソウルから北朝鮮へ渡った。以後、約半世紀に及ぶ成一家の彼の地での苦闘の日々、信じがたいほどの数奇な人生は涙なくしては読めない……。金正日の前妻・成惠琳の姉が綴った慟哭の手記!

 北朝鮮のトップ女優だった妹は金正日に見初められて妻に、姉は家庭教師として官邸入り。官邸で見た金正日と息子・正男の知られざる素顔。やがて妹は精神を病んで入院。両親は憤死し、姉は自らの子供のあとを追って平壌を脱出するが、最愛の長男はソウルで狙撃され死亡! Taiyosha Books indexより

「北朝鮮はるかなり(上下)」読みましたか?

 読み始めは朝鮮版「ワイルドスワン」の感じでしたが、読み進むに連れて別物でした。「ワイルドスワン」は何が何でもあんた(共産党)が悪いという立場で貫かれていますが、「北朝鮮はるかなり」は、そうではなく、悪名高い金正日総書記から受けた喜びも悲しみも余すところ無く紹介している。といっても悲しみのほうはかなり押気味に書いてはある。その押さえたところに彼女の苦悩がかいま見える。金正日書記の元に残した彼の妻と息子は、彼女にとっては愛しい妹と甥になるからだ。

 また「北朝鮮はるかなり」は「ワイルドスワン」のように極端に現代史に翻弄されてはいない。数奇な人生を生きた親子三代記です。初めて目にした北朝鮮情報も多いです。何はともあれ、「北朝鮮はるかなり」は北朝鮮ロイヤルファミリーの情報としては超一級ですね。これ以上の情報は私も他に知りません。読み始めて雑用が入り度々中断したのですが、この週末に一気に読んでしまいました。北朝鮮研究に必要な一冊です!みなさんも是非読んで下さい!!(M)かるめぎネットワーク通信より

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