韓国人拉致被害者『日本語訳国連北朝鮮人権報告書』P291-294

北朝鮮人権問題

韓国人拉致被害者について、『日本語訳国連北朝鮮人権報告書』より抜粋。おそらく日本以上にしらみつぶしに拉致されています。

文中の番号は、書籍中の引用元を指す番号。この投稿上では無視してください。

⒞ 1955~1992年
朝鮮戦争後の韓国市民の拉致と強制失踪

884. 韓国人の拉致および強制失踪は、朝鮮戦争の休戦協定署名後も引きつづき起こっている。朝鮮戦争後、韓国人約3835人が北朝鮮に拘束もしくは拉致された。そのうちの3319人は、一年半以内に韓国に戻され、9人はその後韓国に自力で逃げ帰った【1365】。韓国人516人は、北朝鮮により失踪させられたままであると見られている。

⒤ 漁師の拉致と強制失踪

885. これらの拉致被害者の大半(89%)は、海上の漁船で捕らえられ、強制的に失踪させられた。彼らの漁船が、北朝鮮領海内に乗り入れた事案もあれば、公海または韓国領海内で捕まった事案もあるようである。合計で漁船124隻が北朝鮮に拿捕され、漁師1147人が拘束された【1366】。韓国人漁師457人は、北朝鮮に失踪させられたままである。

886. 各漁船が拿捕された正確な場所は不明である。しかし、すべての船が類似した方法で拿捕されたことを示す信頼に値する情報が、ある元北朝鮮治安関係者から寄せられている【1367】。北朝鮮の元治安関係者たちによると、漁船の拿捕と漁師の捕獲は、朝鮮労働党の海軍部隊により実行された【1368】。船が捕らえられると、船員は、数カ月間調査される。大抵の場合、数名の船員は調査後釈放されるが、他の船員は北朝鮮に残された。

887. 韓国人漁師の漁船は、伝統的に2隻1組で航行し、片方の船がもう一方の船の状況を政府に通報したため、北朝鮮による妨害や捕獲は、即座に韓国内で知られるところとなった。しかし、2隻とも失踪させられ、拿捕から数カ月後に乗組員を北朝鮮が開放するまで、漁船と船員の状況が分からない場合もあった。たとえば、プンブク号に乗船していたチェ・ウォンモ[Choi Won-mo]の場合、1967年6月5日に海上で捕獲され、1967年9月16日に船員8名のうちの5名が、別の船で韓国に戻された【1369】。残された船員と戻された乗組員の違いから、若い船員を残すという北朝鮮当局の傾向がわかる。北朝鮮の元工作員の証言によると、もっとも若くて利発な者は、思想上の訓練を受けさせられ、スパイにされるとのことである【1370】。残された他の漁師達は、別の産業へ従事させるべく送り込まれる前に思想教育を強いられたと見られる【1371】。

888. 極端な場合は、船とその乗組員の確認がかなり遅れることがあった。拉致された乗組員が北朝鮮から逃げて韓国に戻ってから知られることになる場合である。たとえば、2013年8月にある漁師が北朝鮮から逃げて韓国に戻ったとき、41年前に海上で行方不明になったと思われていた2隻の漁船と25人の乗組員が初めて確認された【1372】。
 1970年に拿捕された船に乗っていたリ・ジャクム(男性)は、ソウルで調査委員会に拿捕の様子を話してくれた。

1970年4月29日、2隻の小型砲艦が私たちの船に近づいてきました。私たちの船は国境線からおよそ50マイル離れたところにいました。遠くから2隻の砲艦が近づいてきました。
……私は韓国海軍がやってきたと思っていました。
しかし武装した10人の北朝鮮人たちが私たちに発砲したのです。そして彼らは、「投降しろ、さもなくば殺す」と叫んでいました。それで、船長と私たち全員は、何が起こっているのか分かりませんでした。私たちは目が覚めたばかりだったのです。船長はその時、ちょうど立ち上がろうとしていました。彼らは船長を撃ったのです。彼らの指示はたったひとつ。私たちが従わなければ、ただちに私たちを撃つと。それはとても威嚇的だったので、私たちは何故そんなことをするのか、訊けませんでした。彼らは私たちに降りろと言ったので、私たちはそのとおりにしました。もし言われたとおりにしなかったら、すぐに殺すと彼らは言いました。それで、私たちは言われたとおりにしました。そして、食堂に入りました。彼らはドアを閉めました。とにかく、この2隻の北朝鮮小型砲艦が私たちの船をおよそ1時間曳航しました。国境をまさに越えようとした時だったと思いますが、韓国海軍が私たちに気づき、攻撃を始めました。しかし、私たちの船はすでに38度線を越えて北朝鮮領海内にいたのです。それで韓国海軍には救助されなかったのです【1373】。

889. ある元政府関係者によると、捕縛された乗組員の中のもっとも若く、肉体的にもっとも健康な人たちは韓国には戻されなかったと言う【1374】。彼らは朝鮮労働党が運営するスパイ訓練施設に送られた。

 リ・ジャクム(男性)は、訓練されてスパイになった、捕縛された韓国漁業者のひとりだった。彼は調査委員会で証言した。一般的に、韓国から拉致された人たちは比較的高い教育を受けていました。私たちは小学校、中学校を卒業し、高校をドロップアウトした人もいましたが、比較的高い教育を受けていました。それで、北朝鮮人たちは、私たちを監視し、観察し、肉体的な健康度を見て、後で使いものになるかどうか、金日成と指導者達を守るために働けるかどうか、を見ようとしていました【1375】。
 
890. スパイ学校で、彼らはチュチェ思想と金日成について、そして革命的振る舞いについての講義を受けた。彼らは、テコンドー、運転、拉致の仕方、家屋侵入、窃盗、見つからないで家に忍び込み殺害する方法を訓練された。教室は小さく、ふつう一クラス4人に限られている。訓練を受ける人たちは、常に、彼らのクラスの他の3人以外の人に会わないようにされる。彼らは、異なった時間に、教室に案内され、教室から出される。極端な場合は、各教室や施設の間を歩く間も目隠しをされる。私たちはスパイ学校に送られました。私たちにはなぜその学校が必要なのか分かりませんでした。この学校を卒業すれば、他の学校を卒業するよりはるかに良い特権か恩恵が得られる、と彼らは言っていました。彼らが私たちを脅すことさえありました。ですから私たちはスパイ学校に行くしかなかったのです。それで私たちは3年と8カ月間、その学校で教育を受けたのです【1376】。

891. 調査委員会は、人質をスパイ訓練学校の学習過程に心から専心させるために使われた方法も聞いた。恐怖と物理的力が、学生を威嚇するために使われた。
 リ(男性)は山の中腹に連れて行かれ、授業をもっと熱心に聞き、よい成績を収めなければ死ぬことになると脅された。

 私がこの学校に入れられた時、私はちゃんと学習していませんでした。数日間はあまり集中していませんでした。そうしたある日、彼らが私を連れ出し、散歩に連れて行くと言ったのです。彼らは私を車に乗せました。2時間ぐらい走ったと思います。深い山の中でした。彼らが車を止めたところは誰もいない山の中でした。運転手が持っていた2丁の拳銃を私に見せて、言ったのです。「逆らい続けるのか、お前は? 膝をつけ、さもないと弾をくらうことになるぞ」と。それで、私は尋ねました。「私を殺すのか?」すると彼は言いました。「もしお前が私たちの話しを聴かないなら、どうして生かしておかなければならないんだ?」それで私は言いました。「分かった、膝をつく。従うことにする。」だから私は生き残ったのです。生きていられたのです【1377】。

892. 彼らに期待されるスパイ活動を素直に、従順におこなった人たちは、国家により独立した住居を与えられ、おそらく国家の意思に従ったものと思われる。スパイ訓練学校を際立った成績で卒業できなかった人たちは、工場の仕事に送られた。学校で学生達は、学校から解放される前に、拉致についての真実を人に伝えないとの誓いをさせられた。

私たちは、私たちが北朝鮮に拉致されたことについて話さないと誓う書類に拇印を押さなければなりませんでした。
……もし私たちが誰かに拉致されたことについて話していたら、私たちは政治犯収容所に送られていたでしょう。私たちは卒業し、北朝鮮社会に仲間入りしました。そして私たちはやれと言われたことは何でもしたのです【1378】。

893. 拉致され、 スパイ学校用に選ばれなかった漁師は、他の産業の仕事に配置される前に別の思想訓練学校に送られ、北朝鮮社会に放たれた【1379】。ある証人は、北朝鮮はこうした人たちを「自分の意思で北朝鮮にやって来た勇気ある英雄達」と表現した、と語った【1380】。

894. 学校からいったん解放されると、拉致被害者達は国家安全保衛部(SSD)の厳しい監視下に置かれた。ある目撃者は7段階の監視を受けたと、調査委員会に語った【1381】。南朝鮮出身であることで、漁師と彼らの子孫たちは成ソン分ブンの敵対階層に分類され、教育と職業の機会を制限された。

息子は韓国人の子供ですから、高等教育を阻止されました。北朝鮮政府に忠実な人たちの子孫、北朝鮮政府に役立つ人たちだけが大学に行く事を許可されます。……高等教育を受けさせるためには私の命を渡してもいいと私は彼に言いました。韓国では私の息子は高麗大学校を卒業しました。彼は電子工学を学び、その後、順調に行っています。しかし、北朝鮮では私が韓国の出身だからだというだけで、私の子供達、私の息子は高等教育、良い教育を受けることが出来なかったのです。北朝鮮での生活を経験した人は誰でもこの事、この事実に気づいています」【1382】。

日本語訳国連北朝鮮人権報告書』P291-294
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