変わり果てた日本人妻の白い肌『北朝鮮泣いている女たち』

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北朝鮮人権問題

※トップ画像は『Are They Telling Us the Truth?』P26より、一番近いイメージを引用。絵は収容所に入れられた女性の6か月後。

変わり果てた日本人妻の白い肌

 私が住んでいた穏城オンソン邑には、日本の北海道で朝鮮人男性と結ばれ、夫について北朝鮮に渡ってきた五十代の日本人女性がいた。日本語はわかりにくいし、朝鮮では子供のいる家庭では「ダレダレのお母さん」と呼ぶのが習わしなので、彼女の名前や日本名は聞いたことがない。
 彼女の夫金基一キムギイル(六十代)は穏城郡給養管理所(食堂兼旅館)の運転手として働いていた。息子同士が私の夫の学校で同じクラスで親友、しかも近所に住んでいたので、彼の日本人妻とも面識があった。もっとも私たちのように、金基一一家と親しくしていた家族は近所にはいなかった。理由は後で触れよう。
 金基一は六〇年代末頃、北朝鮮に単身帰国したが、党は彼に、「北朝鮮は地上の楽園だと言って妻を帰国させろ」と指示した。夫の説得を真に受けた彼の日本人妻は、長男を日本に残したまま、娘と末の息子だけを連れて帰国船に乗る。トヨタの乗用車二台とトラック一台を積んで。
 しかし、北朝鮮の現実は、彼女が想像していた地上の楽園とはほど遠かった。持参した乗用車は奪われるように無償で国家に捧げさせられた。携えてきたテープレコーダーなど日用品も、郡党、保衛部、警察が一銭も払わず持ち去ったという。何かと口実をつけて召し上げるのだ。たとえば、ラジオカセットを持っていたとする。外国の放送を聞く恐れがあるので、有無をいわさず没収されるという具合だ。
 急に変わった生活環境も日本人妻を苦しめたようだ。たとえば食べ物である。北朝鮮の食糧事情は、日本と比べればはるかに悪い。子供の頃から慣れている地元の人間はそれでも我慢がきいたが、豊かな日本からやってきた彼女には、おそらく耐えがたかったのではないだろうか。
 彼女は日本でも良い暮らしをしていたそうで、なおさらショックが大きかったようだ。北の貧しい生活に適応できず、透き通るように白かった彼女の肌は、見る見るうちに浅黒くなっていった。脱水症状に悩まされていたのだろう。
 だが北朝鮮では、満足に腹を満たすだけでも多額の金が要る。糧票の必要な北朝鮮で正規のルートで充分な量の食料を確保するのは困難で、法外な値段の闇の物資に手を出さなければならないからだ。頼りは日本から持参した数々の品物だった。日本製の時計、洋服などを米や肉などと交換し、食いつながなければならなかった。こんな状況を称して誰かが「たまねぎ生活」と呼んだが、それにも限度がある。一家の生活は次第に困窮していった。
 さらには、日本人妻を抱える一家には厳しい監視の目がつく。妻を呼び寄せた直後、「日本の女性と暮らしているから、スパイ活動をする可能性がある」という理由で金一家は保衛部の監視対象になった。
 この監視が生半可ではない。家族全員が何時にどこに出かけ、何を食べたかまで保衛部がつきっきりでチェックする。住居も一等地にかまえることはできない。実際、金一家は、最初は穏城駅前広場に面したアパートに住んでいたが、そこが「一線道路」だからと、すぐに裏の村の平屋の住宅に引っ越しさせられた。「一線道路」とは、金日成・金正日が地方視察に使う鉄道や道路の周辺地域を指す。北朝鮮では、資本主義の水に染まった日本人や在日同胞というだけで、保衛部の監視下、一家の生活にはさまざまな制約が加えられ、差別され続けるのだ。
 周囲の視線も冷たい。保衛部の監視下にある日本人妻の家庭には誰も近づこうとしない。へたに一家と話でもしようものならスパイ容疑をかけられかねないので、恐ろしくて話をしようとしない人間ばかりなのも当然だった。
 ただ、私たち一家だけが彼女の家と親しくできた。子供が夫の学校に通っているということもあって、何かと相談に乗るという口実があったからである。
 しかし、保衛部は、そんな私たちを見逃さなかった。日に日にみすぼらしくなっていく日本人妻を見るに見かねて、優先的に食用油と卵を用立ててあげたことがある。また、夫も家庭訪問に訪れて、酒食を振る舞われたことがあった。それが、私の逮捕後に大問題となった。
 「夫が訪問するだけでもスパイ容疑なのに、幹部をさしおいて大事な物資を融通するとは何ごとか。おまえたち一家は、スパイ活動を手伝っている」
 あらぬスパイ幇助ほうじょの疑いをかけられたのだ。実際、この容疑に関する条項が私の判決書にも書かれており、これが過重な刑期の原因のひとつでもあった。
 夫が校長をしていた学校に通っていた彼らの息子金明伊キムミョンイは非常に聡明で勉強もよくできるうえ、ずば抜けてサッカーがうまかった。平壌の国家代表サッカー団からスカウトに来るほどだったが、彼の入団は結局かなわなかった。母が日本人なので、息子の平壌居住は不可能だからである。スカウトはその才能は惜しみながら、彼の入団を断念した。
 代わりに彼に与えられ続けるのは、みじめな人生である。日本人の血を引いているというだけで明伊は子供たちから疎まれ、いじめられた。毎日、泣いて帰る彼の姿があった。
 将来の希望も閉ざされている。北朝鮮では、日本人や在日同胞が政治的制約を受けるのはすでに述べた通りだ。もちろん、日本人妻の子供も例外ではない。北朝鮮で一人前の社会人の証であり、いちばんの栄誉といえば、軍隊への入隊である。だが、日本人や在日同胞の血縁者には、これが許可されにくい。さらに、エリートへの登竜門である労働党への入党の道も事実上閉ざされているに等しい。日本にいる親類から多額の送金があり、党に献金をよほどすれば話は別だが、それはほんのひと握りの例外的存在でしかない。
 進学も希望通りにはいかない。大学進学が認められても、せいぜい技術大学。卒業しても、建設現場などでこき使われる。溶鉱炉で鉄を溶かしたり、建設現場で泥まみれになって働かされる。あるいは、機械工場で旋盤工として従事する。どちらにしても、危険な仕事に従事させられるのがお定まりのコースなのだ。
 言葉も習慣も十分に理解できない異国の地で、一家は孤立させられ、つまはじきにされながら暮らさなければならない。檻なき独房に入れられているに等しい生活の毎日である。日本人妻の心痛はいかばかりだったろうか。
 彼女がやってきた当初、肌がとても白くて奇麗なので、彼女が表を歩くと服装や色白の顔を見たさに、人々が遠巻きにした。しかし、私が北朝鮮を離れるときには、当時の面影はかけらも見当たらなかった。そこにいたのは、苦労が積もりすっかり老け込み、深いしわが刻まれたひとりの初老の女性である。
 おまけに財産も使い果たし、日本の親戚から仕送りもないので、金一家は生活苦に喘いでいる。明伊のお母さんは望郷の念にかられ、涙の日々を送りながら、嘆き続けていた。「死んでもいいから日本に帰って兄弟に会いたい」と。

北朝鮮 泣いている女たち―价川女子刑務所の2000日 (ワニ文庫)P240-245

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