かるめぎ No.30 1999.12.01

会報『かるめぎ』の過去号を、旧サイトから、順次こちらにアップしていきます。この機会に、過去の『かるめぎ』を通して、守る会の歩みを知っていただければ幸いです。

(旧サイトより転載:http://hrnk.trycomp.net/archive/karu30go.htm)

在日帰国者、日本人妻の往来の実現を!  囚われの40年!もう待てない!

 99年12月14日は在日朝鮮人、日本人妻を乗せて北朝鮮に向かった帰国船が出た40周年です。この記念すべき年に、「守る会」は講演や映画、学習会など多様な催しを開いてきました。12月には、東京、大阪でそれぞれ大きな集まりを開きます。

東京集会は
12月5日、外国の人権活動家らを招いて「国際フォーラム」を、

大阪集会は
12月18日、帰国者の受け入れに当った北朝鮮の要職にいた呉基完氏(1965年韓国に亡命)を招いて、それぞれ行われます。

 日朝国交正常化の動きも見える中で、帰国者と日本人妻の日本への里帰りは避けて通れない問題であることを広く世間に呼びかけて関心を高めていきましょう。

写真説明
在日コリアンの方から、帰国船を見送りに新潟に行ったさいの写真がカルメギ編集部に寄せられました。
1960年1月のもので、当時の雰囲気を伝える貴重なものです。トポリスク号(左)とクリリオン号の二隻のソ連船が横着けされ、埠頭には当時の帰国船団長の金殊栄氏(のちの僑胞総局長=右から6人目)ら北高官の姿も写っています。

キューポラの街・川口で映画と講演の集い 10・23集会 ゆかりの地に思い新た

 帰国運動40周年を記念する「守る会」の連続集会の2回目として、10月23日埼玉県川口市で映画と講演が行われました。映画は吉永小百合主演の「キューポラのある街」(1962年作品)。

講演は、元大韓赤十字社国際部長(現東大大学院客員教授)の崔殷範氏。

 崔氏は、帰国第一船が出航した1959年に韓赤に入社し、当時の韓赤のとった方針などを報告しました。また1972年に南北朝鮮赤十字会談の一員として平壌入りした際、北朝鮮の壌範養鶏場での目撃談を披露しました。(講演要旨別項)

 帰国者、日本人妻が40年間も北朝鮮で拘禁されている事態の解決のためには、韓国の格言の「結者解之」(原因を作ったものがそれを解決しなければならない)の精神で、国際赤十字や日赤、日本政府など関係者による解決のための努力の必要を強調しました。

そのために、帰国者、日本人妻の日本への里帰りのための船を日本から出すことなど三点を提案しました。

 集会には別件で来日した安赫氏(守る会の招請で95年に来日講演)がかけつけ、短いあいさつ(別項)を行いました。同氏は強制収容所をなくすためには映画を作り、世界に訴えたいと、その構想の一端を披露し、協力を呼びかけました。

安赫氏のあいさつ 強制収容所の映画を作りたい

 来日する都合があり、やっと小川先生とも連絡がとれ元気な姿を見せたくて、この会場に来ました。現在の私は、ソウルで自然に生活をし、海外へも行けます。
 韓国で大学や市民団体で講演しますが、どうして強制収容所にこだわるのかと聞かれます。老人や孫までが収容所に入れられる現実を見た人間として、2000年を前に政治犯強制収容所があるのは北朝鮮だけです。

 この人間の罪を本にして、北の収容所のことを韓国の人たちと世界に知らせたい。そして映画にしたらもっと効果があるだろうと何年も前から考えていました。

 各国に少しずつ友人ができて、映画のセットを作りました。若者が見学に来てほしいのです。シナリオの仮タイトルは「ヨドク・リスト」です。

10.23 映画と講演集会 崔殷範氏講演要旨 「結者解之」の精神で帰国者、日本人妻の解決を

 ことし七月に日本に来ました。私の韓国なまりの日本語で失礼します。
 1972年に南北赤十字会談2次会談のメンバーの一人としてでピョンヤンへ行きました。会談が終った4日後、何万匹規模の養鶏工場を見学したときの体験です。

 当時は韓国でも数百匹の養鶏場の時代でした。採卵がベルト・コンベ-ア式で行なわれ、孵化され、そして白衣の女性の鑑別士がメスとオスに分け、次々と流れ作業を行っていました。別の場所でセメント袋詰の肥料が積んであるのを目にしました。私は鶏糞肥料かなと思ったら、案内人(付き添いの指導員)の説明でオスのひよこを潰し乾燥させて作った粉末肥料だと知りました。

 私は戦慄を覚え、恐怖感が体を走りました。ここでは役に立たないオスのひよこは生き残さないのですね。韓国の養鶏場ではオスのひよこは村人に売られ、大きくなるとサムゲタン(韓国の鶏料理)になりますが、大きくなるまで餌を与え、子供が遊んだりしますが。

 北朝鮮には「乞食」はいません。地上の楽園と宣伝するが、自分でパンを作れない者(使用価値の無い人間)は生きる事を許されず淘汰されるのですね。資本主義国では金持ちも貧乏人もいますが、北朝鮮では言葉が悪いですが「乞食」はブルジョワ的な生き方なのです。

 北朝鮮へ帰国した人たちで強制収容所で暮らし韓国へ亡命した人たちから、体制や首領に反対する者は公民ではないと暴行されたり拷問される、と証言を聞いています。生命というものがどのように扱われるのか、これが私の北朝鮮で経験した事です。

 1959年12月14日に新潟港から北朝鮮へ帰国第一船が出た年の3月に、私は大韓赤十字社(韓赤)へ入社しました。二十歳頃でした。帰国問題のいきさつを聞いておりました。

 日赤は1月の理事会で協力声明を出し、その後韓赤中央では強力な反対声明を出しました。その一部を直訳で読んで見ます。
 「今日、日本政府と日赤は世界の自由を愛する人々によって非難をうけるべき共産主義者の奴隷のために協力している。在日韓国人の北送は自発的な自由意志の行使ではなく、人間を抑圧と束縛のどん底に落とし奴隷としようとし、再び擁立できなくする意図である。人道的動機という日本の主張は完全な虚偽であり、日赤の参加は赤十字のすべての原則を破壊するものであり、善良な人たちを奴隷に追いやることは人道主義とは正反対のもので、文明国とその国民が承知するものではない」。

 そして終わりに「日本は最悪の非人道主義を行い人道主義を主張する偽善を行っている」と、このような声明を1959年2月14日付けで出しました。これは当時の韓国政府や国民の声であると私は思うのです。そしてジユーネーブの国際赤十字へ韓赤ソウル支社の事務局長や梨花大学総長を派遣しました。
 坂の上にある国際赤十字からはレマン湖が一望できます。「二人の恋人が夢を抱き湖の舟つき場を歩いてる。このまま行くと湖に落ちて溺れてしまうが、国際赤十字の立場では自分の意志で行くのは関知しないという、韓赤は放っておくと溺れてしまうから放置するのは人道的でないと反対するのだ」と韓赤幹部の李氏から聞きました。

 赤十字の七大原則は、人道主義、公平、中立、独立、奉仕、博愛、国際主義ですが、韓国人は朝鮮戦争の体験で北は地獄であると認識しました。ところが国際赤十字も、日赤も判断を誤り、日赤は北送を正当化していますが、出国の自由を与えたのですから、戻る自由も保障すべきだと言いたいのです。「結者解之」という言葉が韓国にあります。結果の原因となったものが解決すべきだという意味です。国際赤十字、日赤や日本政府は里帰りの船を出すことを勧告したいのです。

 三つの私案を提案します。

 一、国際赤十字に、1959年の北送事業決議に対して、新たに離散家族再会事業問題、日本人妻全員の里帰り問題を韓半島の南北分断の延長問題として解決する新決議提案を日赤、日本政府代表が提出できないものか。

 二、日本人妻全員の里帰りの実現について、赤十字はそれぞれ伝統と特徴があるのでそれを踏まえ「守る会」が対応してはどうか。

 三、北朝鮮との交渉は、韓国の南北対話の豊富な経験を活用すれば、よい結果が得られると思うのです。

 ご静聴ありがとうございました。

コッチェビ放浪記(みなし子の浮浪児) 第二回

 北朝鮮で両親が餓死し、中国に脱出した10歳と8歳の兄妹の物語(韓国誌「月刊朝鮮」99年9月号より)

(イム・チョルは十歳、妹のイム・ソヨンは八歳。炭鉱技師の父と元芸術団の踊り子だった母の四人暮らし。貧しいけれど幸せな日々だった。チョルは科学者に、ソヨンはアナウンサーになるのが夢だった。)

食べ物を求めて家を出たお父さん

 一九九七年三月でした。家の中の売れるものは全部売ってトウモロコシに替えて食べてしまうと、もう食べ物を工面する方法がなくなって、お父さんもお母さんも切なそうにしていました。

 ある日、お父さんが炭鉱の仕事から帰ってきて、お母さんと相談しました。炭鉱で石炭の生産を中止したので、食糧を探しにいく人は行ってもいいといわれたとのことでした。お父さんは黄海道にいる親戚の家にトウモロコシをもらいにいくと言いました。この時のぼくたちの家の状況は、お父さんが食糧を探しにいかないといけない状況でした。

 咸鏡南道新市に住んでいた母方のおじいさんとおばあさんがたがいに支えあいながら、食べ物がないのでいっしょに住もうと僕たちの家にきたんです。
 そうでなくても食糧が足りなかったぼくたちの家は、家族が増えて草粥も茶わんに半分ずつしか食べられなくなりました。それなのにおじいさんとおばあさんの食べたいものはとても多かったんです。さばやカレイも食べたいし、豚肉も食べたいと毎日小さな子供みたいに駄々をこねました。

 その時お父さんがお母さんに、「お年寄りたちは栄養状態が悪くなっているからもうこの先何カ月ももたないようだから、食べたいものをなんでも食べさせるように」と言いました。

 それでお父さんが市場に石炭の入った背のうを背負って行って魚と替えて、僕たちにも食べてはいけないと言って、おじいさんとおばあさんだけに食べさせました。そうするとぼくたちの家の状況はだんだん大変になってきて、どうしようもなくなってお父さんが米を工面しに出ていくことになったんです。お父さんは三月二十五日に家を出て、高原駅前に行きました。

 お父さんが家を出るとき、お母さんは途中の食事として新聞紙に包んだ草餅十個を空の背のうに入れました。ぼくと妹は、「お父さん、お米をいっぱいもってきてね」と頼んで、お父さんを見送りました。お父さんは背のうの中から革餅をふたつ取りだしてぼくと妹の手に握らせて、お母さんの言うことをよく聞くようにと言いました。

おじいさんとおばあさんの死

 ところが、これがお父さんとの生き別れになるとは思いませんでした。一カ月たってもニカ月たっても、お父さんは帰ってきませんでした。家では食べるものが全部なくなって、家族中が草だけをゆでて食べるようになりました。妹のソヨンは毎日通りに出て、草餅を食べている子供たちをうらやましそうにながめながら指をくわえてよだればかり垂らしていました。

 ぼくも勉強する気がぜんぜん起きませんでした。それなのにお母さんが食べられそうな草やトウモロコシの芯を拾って一日中加工しているのをみると、家から持ちだせそうなものはありませんでした。ぼくは八歳の子供だったけれども、お父さんの代りにしかたなく石炭の入った背のうを背負って石炭を運ぶようになりました。学校はもちろん行けるような状況ではなかったので行く気にもなりませんでした。ぼくのように家庭状況のせいで学校に行けない子供たちがたくさんいたので、あまり悲しくはありませんでした。

 お父さんが帰ってくるまで、苦労しているお母さんを手伝って、ぼくがお粥を炊くための石炭を運ばなくてはいけないという考えだけで一日中頭がいっぱいでした。
 石炭の入った背のうは、ぼくの家から十里離れた炭鉱の坑内に入って採ってこなくてはなりませんでした。無煙炭だから顔や服はいつも真っ黒で、あまり食べていなかったせいか、力がまったくでませんでした。それでもその時ぼくがどれだけありったけの力を使ったのか、十歳の今のぼくでも持てないような十kgにもなる石炭を午前と午後の二回ずつ背負っていました。

 それでもお父さんは帰ってきませんでした。お父さんが家を出て数カ月後の一九九七年六月、ぼくの家に来ていたおじいさんは、草粥もなくなって満足に食べることができなくなって六十一歳で亡くなりました。おばあさんもすぐに亡くなりました。

お母さんまで病に倒れて

 ぼくと妹は別に涙も出てこなかったから泣かなかったけど、お母さんは悲しそうに泣いていました。お母さんが、死体を埋める棺を工面してほしいと、ぼくの手を引いて炭鉱に三回も行ったけれど、板がないときっぱりと断られました。
 おじいさんとおばあさんの死体を五日間も部屋の隅に置いたままにしておくと、死体の腐ったにおいで吐き気がして恐かったです。
 気の毒に思った村の人たちは、お母さんと相談して朽ちた板で建てたぼくの家の納屋を壊して棺をつくりました。見るからに粗末な穴がたくさんあいた棺の中におじいさんとおばあさんの死体を入れると、穴からのぞかれているようでした。恐くなってぼくと妹は逃げまわっていました。
 その日ぼくたちは、お母さんが、長い髪を切って替えてきた米の餅を本当にひさしぶりにふたつずつ食べました。お供えの餅でした。

 その後でした。保衛部(秘密警察)からの保衛員と安全部(警察)からの安全員たちが連続して僕の家に訪ねてきました。来てはお母さんにむかって、「やい、おまえのだんなはどこに行ったんだ」と言ってひどくののしりました。またある日は呼びだされて聞かれたそうです。お父さんが行方不明になったから居場所を教えろとのことでした。食べるものがなくて毎日草を摘んで、トウモロコシの芯についた粒を臼でひかなくてはならないお母さんなのに、あの人たちはことあるごとに時間のないお母さんを立たせてののしったり、引きずっていったりしていじめました。

 お母さんは黄海道の親戚の家に手紙を書いて、人づてに消息も知らせて頼んでみましたが、そこには来なかったそうです。だからお母さんにどうやってお父さんの居所がわかりますか。近所の人たちの推測は、人を殺す飢えた列車で死んだとか、どこかでお腹がすいて倒れたとか、てんでに予測をしました。

 お父さんのことを考えると、お母さんの気力は尽きました。つぎつぎにおそってくる不幸に、毎日草を摘みに出かけて精神的打撃と肉体的負担が大きくのしかかっていたお母さんは、床に伏せって患いはじめました。それでもぼくと妹が、お父さんはいつ帰ってくるのかと尋ねたら、「もうすぐ帰ってくるよ。おまえのお父さんはいいお父さんだよ」と言って頑張って笑っていました。

 ぼくもお父さんのことを思っていつも憂鬱で、お父さんが行った遠い空をうつろにながめてばかりいました。そんな時は、弁当箱に草餅や草雑炊を持って炭鉱に出勤し、帰ってくる時はかならず二つずつ残しておいてぼくと妹の口に入れてくれた、ひげのぼさぼさしたお父さんの姿が思い出されました。(訳・金永玉)

北朝鮮の人権解放を求める国際社会

1999年
(9月)

21日
 在日朝鮮人総連合会(朝鮮総連)は、総連中央委総会拡大会議を開き、今後の活動方針を提示したが、大幅な改革は見られず、「同胞の権益を守る」「民族性を守る活動」との方針が出された。空席の副議長(複数)には、南昇祐・国際局長が就任する人事。

25日 北朝鮮の白南淳外相は、ニューヨークの国連総会で、1992年の金永南首相兼外相以来、7年ぶりに演説し、米国に対し、経済制裁の全面解除を求め、米朝高宮協議が行われている間は、ミサイル再発射は行わないとの方針を改めて示した。また、白外相は同日までにイタリア、スイス、デンマーク、オーストリア、マレーシア、シンガポール、カンボジア、フィリピンの各外相と会談する積極外交を展開した。

10月5日のマニラ報道によると、白外相はフィリピンのシアゾン外相会談で国交正常化を提案した模様。

28日 白外相はニューヨークの外交問題評議会で講演し「食糧とエネルギーの不足は深刻で依然克服されていない。外部からの援助を必要としている」と述べた。

30日 韓国日報によると、中国国務院傘下の研究所の報告書によると、北朝鮮にはすでに金正日打倒の反政府組織が存在し、中朝国境の延辺地域では、脱北者がその支援のための「反金正日革命基地」建設を宣言し活動しているという。

(10月)
5日 中国の唐家王施外相は91年の銭其深外相以来、8年ぶりに北朝鮮・平壌を訪問した。6日には中朝国交樹立50周年を迎えて、唐外相は金永南最高人民会議常任委員長と万寿台議事堂で会談したほか、中朝首脳の祝電交換が行われ、労働新聞は記念論説を発表。

6日 米上院は2000年会計年度(1999年10月-2000年9月)の海外援助法を可決した。北朝鮮に供与される重油供給予算は政府要求の5500万ドルを割り込み3500万ドルに押さえた。うち来年6月までに支出できる1500万ドルは南北対話の実現、北朝鮮の核合意順守が確認されたときに限って認められる。残り2000万ドルは6月以降、地下核施設への二回目への査察が実現することなどを条件に支出が許される。下院も5日に同様の法案を可決。

7日 産経新聞特派員電によると、韓国紙が、金正日総書記が韓国の財閥、現代グループ創始者の鄭周永名誉会長との会談で「南側の暮らしがよくなったのは、朴大統領が推進したセマウル運動のおかげだ」と述べた、と報じ話題になっている。

9日 産経新聞の報道によると、9月に北朝鮮の農業事情を視察した沖縄のEM研究機構の一行によると「北朝鮮の今年の作柄は大豊作のようだ。稲はたわわに実り、コメ、小麦など穀物が500-550万トン、ジャガイモなどイモ類は10万t以上の収穫が見込まれる」という。国際食糧農業機関(FAO)は、1998年の穀物生産量は348万トンと推計、北朝鮮の最低ラインの必要量は穀物460万トンと推定。米(60万トン)中などの援助も預かっている模様。

10日 産経新聞特派員電によると、北朝鮮スパイ容疑で逮捕された金永煥(36歳。季刊誌『時代精神』編集委員、7日に釈放)が検察の調べに反省文を書いて話題。この中で、金氏は1991年に金日成主席と会い、スパイ教育を受けたことを認めた。北権力者の腐敗、経済的疲弊、利用主義的態度に失望。反省文は「人民が世界で最も自主性を抑圧されている。金正日政権は南北民衆の敵であり、民族第一の課題は金正日政権打倒である。北の住民が貧困と飢えに中あえぎ、世界最悪の人権のでイヌやブタに劣る扱いを受けている状況に目をむけず、それを妨害してきたことは、歴史と人類に対する大罪であり、北の同胞に謝罪する。今後金正日政権打倒上北の民主化に全てを捧げる」。

12日 ペリー連絡調整官は上院外交委員会東アジア・太平洋小委員会で証言。「1994年の米朝核合意がなければ、北はこれまでに約50個にのばる核兵器に相当するプルトニウムを生産していただろう」と推定値を述べた。「戦争が起きれば、米国、韓国。北朝鮮各国の将兵と民間人数十万人が死亡し、数百万人の難民が発生する可能性が高い」と推測。

(11月)
2日 朝鮮日報は、咸鏡北道穏城で10月11日頃から暴動が発生、軍隊やヘリを使って鎮圧した模様。北京特派員が中朝両国を往来する消息筋の話として報道。

2日 松谷蒼一郎官房副長官は、記者会見で昨年8月のテポドン発射以来、実施していたチャーター使運行停止の制裁解除を発表した。

10日 中平健吉弁護士、白柳誠一枢機卿、ジャーナリストの櫻井よしこさんらが呼びかけ人となって、北朝鮮の人権改善を求める「北朝鮮民衆のための人権宣言」が54人の賛同者名簿とともに発表された。
 宣言は
①北の大量餓死は自然災害ではなく、朝鮮労働党の一党独裁、全体主義体制の弊害にある。独裁を排し、人権尊重と政治の民主化などを求める
②強制収容所の閉鎖
③脱北者を難民と認定し、関係国と国際機関に保護を求める
④拉致者の拘束を解き、南北離散家族に出入国の権利を認めよ
⑤北朝鮮民衆に集会、結社、言論、信仰の自由を認めよ
⑥3月10日付けフイガロ紙掲載と、同20日付け朝鮮日報掲載の北朝鮮の人権問塵の解決のために国際協力を呼びかけた人権宣言を支持
⑦以上の目的実現のためにわれわれはあらゆる努力を重ねることを誓う-の7項目。
 賛同者は上記各氏に稲盛和夫京セラ名誉会長、柿沢弘治元外相、音楽家・李洋秀、朴春仙、曹幸、奥平康弘東京大学名誉教授、小川晴久東大教授、ジャーナリストの萩原遼、加藤博、佐藤勝巳の各氏ら。

11日 産経新聞モスクワ特派員電によると、北朝鮮から豆満江を渡りロシアに不法入国しようとしたグループが極東沿岸地域で拘束された。男性5人、女性1人、乳児1人。「惨めな生活を強いられている。食べていく金もなく、多くの子供が毎日死んでいる。北に戻れば死を待つだけ」と述べた。有刺鉄線による傷も。

15日 ベルリンで米国北朝鮮高官協議再開。北のミサイル発射に伴う協議凍結後初の会談。米はカートマン朝鮮半島平和協議担当大使、北は金桂寛外務次官。19日にいったん、終了した。

18日 北朝鮮女子刑務所体験者の李順玉さん(52歳)、崔東哲さん(32歳)母子が、李順玉さん招請実行委員会の招きで初来日し、参議院議員会館で記者会見し、北の人権解放を訴えた。「お前らは人間じゃない、しっぽのない獣だ」といって虐待された体験を語った。刑務所は「人権の死角地帯」であり、収監者は6000人。日本人妻もいた。多くの人は日本からの仕送りを党幹部や保衛部の幹部にわいろとして渡すことを拒否したために収監された」と述べた。
 二人は20日、労働スクウェアー東京ホール、21日、大阪府中小企業文化会館でそれぞれ講演し、23日帰国した。

この人にきく 李美代子さん(守る会・関西支部)

 日本でいちばん在日コリアンが多く住む大阪・鶴橋。そのど真中の鶴橋本通にある韓国料理店「アリラン食堂」。最近では「守る会」関西支部の溜まり場と化しつつありますが、いつも笑顔であたたかく迎えてくれるお人が、この方。何十人もの客を手ぎわよくさばくベテランのホール責任者。でも「シッタン・アズンマ」(食堂のおばちゃん)と韓国語でいう方が似合いです。

 「四十の手習い」で本格的に韓国語の勉強を始め、十年前、韓国語弁論大会で銀メダルを取った努力家です。

――韓国語をとても熱心に勉強しておられると聞きました。

李 私の両親は朝鮮から日本に渡ってきた一世ですが、私たち子供が学校に上がるようになると、意思疎通ができなくなり、朝鮮語を使わなくなりました。日本語ばかりの生活でした。自分の国のことばなのに、話せないことがとても情けなく思っていました。

――ご両親は、戦前に日本に?

李 そうです。北九州で採石工として働いていました。母も同じ所で働いていました。埃が立ちこめるところでの仕事で、父は塵肺にかかりましたが、当時は労災もない、貧しくて病院にもいかれず苦しんで、いまから二十年以上前に六十六歳で亡くなりました。

――苦労が多かったのですね。

李 私を含めて子供が七人もいて、私が真ん中です。その後大阪に移ってきて私は二十一歳で結婚しましたが、夫が遊び人で、家を出たままとうとう帰ってこなくなり、四人の子供を女手一つで育てました。いまはみな成人しましたが。

――韓国語の弁論大会で二位にはいられて、よく頑張りましたね。

李 韓国青年商工会議所が主催した雄弁大会です。「私の夢」と題して、失っていた民族性をとりもどしたい、自分の国のことばで話したい、自己を確立したい、といった日頃思っていることを五分間の持ち時間で話したのです。二位にはいって本当に嬉しかった。

――いまは後進の指導にあたっておられるとか…。

李 「韓国語で話そう」というサークルをつくつてその主宰者をしています。もう十年続いています。

――私たちの「守る会」のことはどこで知られたのですが。

李 テレビや本などを通じて知っていました。でも、どこに申し込んだらいいのかわからなくて…。そこへ萩原先生がうちのお店に来られたので。私は以前に、ある人から先生の『ソウルと平壌』を貸してもらって読んでいたのですよ。その人から『朝鮮戦争』も読みなさいとすすめられました。

――それはどうもありがとうございます。

李 そんなわけで、「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」に関心はありました。私のできることはほんのささやかなもののですが、せめて心だけでも参加したいと思っています。

――いえいえ、いつも私たちの憩いの場を作っていただきまして……。
みんな「アリラン食堂」にくると仲間に会えるのが楽しみだと。
わたしもその一人ですが。これからもよろしくお願いします。

(きき手 萩原 遼)

“北の人々に真に必要なのは自由と人権” 『北朝鮮脱出』の著者 姜哲煥の怒りの手記 韓国誌『時代精神』1999年3,4月号より転載

 1995年夏、友人の安赫氏とともに「守る会」の招きで来日し、北朝鮮の強制収容所の惨状を証言した姜哲煥の一文を翻訳紹介します。この中で北朝鮮民衆にたいする韓国国民の無関心ぶりや、いわゆる民主化運動の活動家たちが北の野蛮行為にはこぞって口をつぐんでいる現象が率直に指摘されています。また日本の「守る会」との接触や北に家族を持つ在日の人たちの心情についても感動を込めてふれられています。 (カルメギ編集部)

 分断国家に生きるわが民族の痛みは、引き裂かれて生きている離散家族や、北朝鮮で生まれて生きるすべての北朝鮮住民にいまなお続いており、その痛みは独裁者のために解決の兆しが見えない。
 反面、南側の人々の北朝鮮問題に対する認識は、同じ民族でありながらも同胞の痛みを満足に理解できず、飢え死にしていく人々に対し、乞食にコメでもすこし投げてやればすべてが解決すると錯覚しているようで、もどかしいばかりである。私がこのような一文を書くことになったのは、苦痛を受けているわが北朝鮮住民たちに何がもっとも必要なのかを、ともに考えるためである。

 二度と思いだしたくもない北朝鮮政治犯収容所での生活と、韓国に渡ってきて感じた点を述べたい。

北送された在日同胞の運命

 私は、一九九二年八月に友人の安赫(アンヒョク)とともに死線を越えて大韓民国へと渡ってきた数少ない幸運な北朝鮮の人間である。私の家族は、分断国家の悲劇をそのまま体験した家族だと思う。祖父母の故郷は南側の済州島であり、父の故郷は日本の京都、私の故郷は平壌である。三代にわたって、生まれた場所がすべて異なる。私の家族の悲劇は、朝鮮動乱のためでなく、北の宣伝にだまされて日本から北へと渡ったその日から始まった。

 祖父は幼い時に日本に渡り、自力でパチンコ屋を開いて多くの金を儲けた。祖母もやはり幼い時に日本に渡り、紡績工場で働きながら日本共産党員になった。解放後、祖母は朝鮮総連の創立メンバーとして朝鮮総連京都支部の女性同盟委員長をしながら、祖父も祖母の影響を受けて朝鮮総連京都支部の商工会会長をするようになった。日本でも何不自由なく暮らしていたため、当時貧しい人々が熱をあげて北送船に乗り込んでいた時も、私の家族には北に行く名分はなかった。しかし朝鮮総連組織の粘り強い説得によって、とうとう私の家族は莫大な財産を北朝鮮政府に献納し、祖国建設に貢献しようという決心のもとに家族全員が北送船に乗った。

 祖母は日本での功績を認められ、北に行って最高人民会議の代議員(注、国会議員)となり、祖父も平壌商業管理所の副所長として平壌市の高級邸宅で最高の待遇を受けた。しかしある日、祖父が突然行方不明になり、家族の不幸が始まった。その当時、北の宣伝にだまされて北に渡った在日同胞の数は十万人に達し、彼らの相当数がスパイの嫌疑を受けて行方不明となり、その家族は政治犯収容所に監禁された。しかし私はその当時、北で生まれてよい環境で育ったため、北朝鮮に対して別に悪い感情はなかった。

【このあと一家ぐるみの逮捕、燿徳(ヨドク)収容所への移送、収容所での獣のような生活、苦しい労働、公開処刑の現場、収容所から十年ぶりの釈放など、姜哲煥氏の生々しい体験がつづられている。これらは同氏と安赫の共著『北朝鮮脱出(上下)』(文春文庫)に記されているので省略する。】

北朝鮮脱出 上・下』姜哲煥、安赫著

韓国への脱出と期待、たちまち幻滅

 私が死なずに収容所から出てこれたのは、日本にいる親戚のおかげのようである。当時、北送した在日同胞の日本にいる親戚たちが、巨額の金を送金するかわりに北朝鮮にいる家族たちの確認を要求し、これによって収容所にいる多くの在日同胞出身者が釈放された。もちろん私たちは、親戚たちから金を受け取るどころか、金を受け取ったという紙切れひとつだけぽいと渡された。ともあれ親戚の助けによって、私たち家族は収容所に入れられてから十年ぶりに奇跡のように釈放された。

 しかし、社会生活を始めても政治犯のレッテルは影のようにつきまとい、身の毛がよだつ監視は片時も去らなかった。友人たちと偶然に韓国放送を聴くようになったのだが、それが発覚し、これ以上北にいても殺されるか、死ぬまで収容所にまた入れられて一生を終えるしかなかった。どっちみち死んでしまうのならいっそ逃げて死のうと考え、友人の安赫といっしょに北朝鮮脱出と中国入りに成功し、辛苦の末に韓国に来れた。

 私は韓国への脱出の成功によって、今まで私が抱いてきた一生の願いがかなうだろうと確信した。

 同じ同族であり、今まで知られていなかった収容所の実態が世に知られれば、韓国はもちろん、全世界で北朝鮮の人権改善のための画期的な機会が来るであろうと期待した。
 しかしこの期待は、最初の記者会見の場から崩れはじめた。ある記者が、「いまあなたたちが話していることは、安企部の命令によるものではないのか?」と言うのである。私は胸が破れそうだった。今この瞬間にも、収容所の中で悲惨に死んでいく人たちを思うと、記者だろうがなんだろうが、みなぶち壊してしまいたい気持だけだった。学校生活を送り、また韓国社会で暮らしながら現実に接するたびに、私の希望は徐々に遠ざかり、主体思想を勉強する学生たちとの言い争いもうんざりするだけだった。

新しい生の希望、日本の「守る会」との接触

 そうしたある日、元気の出る知らせが日本から届いた。過去に韓国の民主主義運動を支持していたある日本の教授を主軸として、在日同胞と日本人たちが「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」をつくって活動を始めた。そして私と安赫を日本に招待し、直接証言を聞き、死んでいく同胞たちのために大きな行事を行った。韓国に来てはじめて、私はこの世に生まれてやるべきことをやるようになったなあと思い、収容所に囚われている人々のために、私が何かできるようになったことを天に感謝するばかりであった。

 北に家族や友を送った在日同胞たちは、わたしたちに劣らず北の実情をよく知っており、北に家族がいる多くの人々のうち、相当数が政治犯収容所へと連行され、死亡したり、行方不明になっている状態であり、彼らの心情は私たちと変らなかった。
 多くの方々が、私たちの手を握り、涙を流しながら、金日成父子の残虐性に身を震わせていた。北でまだ生き残っている人質がいるため、公表は出来ないが、行方不明になった息子を思うと怒りで眠れないと言ったあるおばあさんの姿を見ながら、無念に死んでいった私の祖母の姿がふっと浮かんできたりもした。
 直接北に行き、北の実情を目で確認し、家族が収容所に連行されて生死すら確認出来ない在日同胞の、金正日政権に対する怒りは、同胞の著痛にはほとんど無関心な韓国の人と非常に対照的だった。

 私たちは抗議のため朝鮮総連本部を訪問し、収容所の撤廃と北朝鮮の人権改善をせまった。同胞たちが密集している大阪で大規模な集会とデモを行い、北朝鮮が人権躁欄行為を一日も早く中断して民主化することを声高く叫んだ。気持がすっきりし、残されている家族と収容所に囚われている人々のために何かやりとげたという考えに、生きる希望のようなものが感じられた。

韓国民主化運動家たちの二重性

 事実、韓国での私の適応生活は、最初はいったい何がなんなのかよくわからない、そんな日々だった。大学の近くで金日成をたたえる歌が聞こえてくるかと思えば、まだ韓国の人権も問題が多いのに、北朝鮮人権問題まで自分たちが論ずることはできないなど、運動家の学生たちの答えは、確実に分断の壁を実感させた。そんな彼らたちにあの悲惨な収容所を見せてやりさえすればそんな声は出てくるわけがないのにもどかしいばかりであった。

 私は人権という単語は知っていたが、実際にその単語が具体的にどのようなものか理解出来なかった。私がはじめて踏んだ中国の地で、旅行証なしで好き勝手に汽車に乗って他の地方に行く時や、自分たちの指導者である鄧小平をはげしく非難するのを聞いた時、これが旅行の自由であり、物のいえる自由ではないのかと感じた。韓国に来てからは、中国とは比べものにならないまた別の自由が経験できた。

 韓国でも過去に暗い軍事政権の時代があり、多くの民主闘士たちが命をかけて今の大韓民国の民主主義をつくったと聞いた。
 事実、このような民主化運動をした人であるほど誰よりも人権蹂躙の痛みをよく知り、生地獄である北朝鮮の人権問題を解決し、民主化するために誰よりも大きな関心を持つだろうと期待したが、なぜか大部分の民主化運動家たちは、蜜をなめた蜂のように北の人権に対して何も言わなかった。

 北朝鮮で生きてきた私たちの立場から見た時、こうしたことは、過去に民主化運動をした多くの人々の純粋性に疑問を抱かせ、なにかの名分や自分の利益のためではなかったのかという考えしか湧いてこない。普遍的な自由と人権を北朝鮮住民に、北で生まれようと南で生まれようとまったく同じ人間であり、彼らの人権もまったく同じものさしによって解決されねばならないと私は考える。

 北朝鮮政権は世界のどこにもないような世襲独裁国家であり、五十年の長期独裁を維持するためにどれだけ多くの人々が犠牲になったかについては、小さな子供でもわかることである。私たちはこれ以上北の人権躁欄行為に対して黙って見過ごしてはならない。北の殺戮蛮行を見過ごすことは同じ同胞としてぬぐえぬ罪悪を犯すことだと考える。

 最近政府の太陽政策によって、無条件に北を包み込み、米でもなんでも飢えた同胞に持っていってやればすべて解決するかのように錯覚する人たちが多い。
 ある日突然、なぜ北朝鮮住民があのような乞食の群れと化し、なんの罪もない人々が裁判もなしに収容所に連行されて死ななくてはならないのか。
 今日の北朝鮮を作った金日成父子に対する憎悪を抜きにしては、なぜ私たちが北朝鮮住民を助けなくてはならないのかという真情が生まれるわけはない。一、二回コメを持っていったからといって、北朝鮮住民が飢餓から脱け出せるのならどれだけいいか。

 しかし今日の北朝鮮体制がそのまま維持されている以上、乞食の物乞いは永遠に続くだろう。太陽政策を実施するからといって、韓国で北朝鮮の人権問題について言及できない理由はなにもない。政策は政策であり、もっとも基本的な問題である人間の人権問題については、当然北朝鮮当局に強く要求しなければならないと考える。

 北朝鮮の金正日はなぜ好き勝手に人々を殺すのか。想像を絶するアウシュビッツ収容所のような北朝鮮の収容所では、今のこの瞬間にも罪のない人々に対する殺戮蛮行が依然として行われているのに、韓国ではほとんどの人々が無視し、この問題について胸を痛める人がいない。
 今後統一され、私たちが北の惨状を直接目で確認することになった時、いったい彼らに対して韓国の人々がなんと言うのか、それが気がかりである。

 飢えた北朝鮮住民たちにとって、コメももちろん重要だが、根本的に彼らを助ける方法、すなわち人権問題の解決がもっとも重要だと考える。真に人権を考える人ならば、人を大切にする人ならば、北朝鮮の人権問題の解決に積極的に乗り出さねばならない。とくにその中でも、今まで韓国の民主化運動をおこなってきた人々が、より懸命に努力しなければならないと思う。 (訳・金 永玉)

 著者の姜哲煥氏は1968年平壌生まれ。1992年韓国に亡命。現在会社勤務。
1995年夏、守る会の招待で安赫氏とともに来日。北朝鮮収容所の悲惨な実態を広く訴えた。

守る会もついにホームページ開設 http://member.nifty.ne.jp/northkorea

2年分のカルメギ全文を収録

 守る会待望のホームページがこのほど開設されました。会員の福本正樹さん(教員)のご努力で、1998年度分と1999年はじめから10月号までのカルメギが全文収められました。11月23日現在のアクセス数は6166です。守る会の会報を多数の方々に目にしていただいたことは大きな意義のあることです。
 福本さんは「ホームページなので、”いつでも、だれでも、どこからでも”見ることができます。ヤフーからも検索できるインターネット新聞です。アドレスを教えるだけでカルメギを直接手渡さなくても読んでもらえるしプリントもできます。」と語っています。また「今年中に英文のホームページも作り始めたい」と大きな抱負を述べておられます。
      (「ヤフー」は日米ともに最大のホームページの検索機関です)

地獄の体験を経て、寛容の心に至った精神の輝き 李順玉さん親子来日講演記録 三浦小太郎(会員)

 11月18日、韓国より北朝鮮女子刑務所からの生還者・李順玉さん、崔東哲さん親子が来日、20日の東京八丁堀の労働スクェア、21日の大阪中小企業文化会館の2カ所で講演会が催された(入場者数は東京約110人、大阪150人)。

 李順玉さんの刑務所での体験は、著書『北朝鮮泣いている女たち』(KKベストセラーズ)に詳しいが、やはり実際に目前に聴く言葉は胸に詰まるものがあり、またご子息の崔東哲氏は、彼自身が北朝鮮強制収容所の警備兵を務めていたことから(なんと、かの安明哲の先輩に当たるという!)、収容所についての生々しい話を聞かせてくれた。

 1987年、警察署長の賄賂要求を拒絶して逮捕され、むごたらしい拷問の末(鞭打つ、水拷問、殴打などとても聴くに耐えない残酷さである)、罪を認めなければ、夫と息子に累が及ぶと言われてやむなく罪状認定書に署名。平安南道の价川刑務所に入れられる。強制労働、劣悪な環境と食事、公開処刑・・・まさに地獄絵図のような日々が女子刑務所の日常だった。

 そこでは多数の帰国者、日本人妻も収監されていた。中には、日本からの仕送りの品を闇市で売ったことが罪となって送り込まれた人もいた。いまもなお、ここ日本にいる帰国者親族は、飢餓状態にある帰国者を救おうと仕送りを続け、しかもその大半は本人には届いていないというのに、僅かに渡った荷物を売ったことが罪とされてしまうとは。北朝鮮当局の残虐な仕打ちと、帰国者の悲劇はどこまで続くのか。

 また、ある帰国者家族は夫が日本で民団だったためスパイとして捕らえられ、スパイであることを当局に告げなかった罪で、子供を含む家族もろとも収監された。刑務所内でも度々公開処刑が行われており、ある母親は、残された子供たちが飢え死にしないでいるかどうか心配だ、と一言漏らしただけで公開処刑を受けた。理由は、「母なる党を信じなかった」と言う罪だった。
 李順玉さんはいまも処刑の現場をまざまざと思い出すと言い、言葉を詰まらせていた。

 崔東哲さんは、北朝鮮で収容所の存在を知らない者は誰ひとりいない、自分自身警備員だったときは、どんなことがあっても、ここに入れられるようなことになってはいけないと思うだけだったと述べ、収容所の恐怖が国民を麻痺させていることを指摘した。また、1985年、逃亡を図って捕まった一家は、子供まで含めて全員が全収容者の前で処刑され、しかも収容者はその遺体に一人一人石を投げなければいけなかった。人間性をここまで追い詰め、踏みにじることは許されるべきことではない。

 李順玉さんは当初は、北朝鮮政府や自分を拷問した人々について復讐と怒りの心をもっていたという。しかし、韓国でキリスト教に接し、今は復讐ではなく、朝鮮半島の平和的統一と、いまもなお無実の罪で苦しんでいる人々の一日も早い救援のみを訴えたい心になっている、韓国の太陽(包容)政策を今のところ正しい選択だと考えていると述べた。あれだけの悲惨な体験をされた方が、それでも復讐心を乗り越え、寛容の心境をもち得るに至ったというところに、李順玉さんの、そして人間の精神の美しさを認めたい。

 会場では講演に先んじて、先の11月10日に記者会見にて発表された「北朝鮮民衆のための人権宣言」が読み上げられ、またダライラマ法王日本代表部の、カルマ・ゲレク・ユトク氏のメッセージも配布された。

映画「海を渡る友情」に思うこと 宋允復(運営委員)

 1967年生まれの私が、映画「海を渡る友情」を観るのは、8月21日の守る会の集会が初めてであった。1959年12月に帰国船第一便が新潟を出港して1年を経ずにこの作品が制作されており、帰国運動を応援する日本の人々の善意、熱意を窺わせる。

 帰国を決断するに至るまで、当初、主人公幸男の母(在日朝鮮人の男性と結婚した日本人女性)が抱いた帰国後の生活への疑念、懸念は、今振り返るとすべて的中していた。いや、現実ははるかにおぞましいものだったことを、私たちは知っている。

 帰国事業の推進に反対していた韓国は、大韓赤十字社を通じて、帰国事業は、共産主義者たちの奴隷労働計画に善良な人々を送り込む非人道行為だと激烈な非難の声明を発表した。当時はほとんど耳を傾けられなかったようであるが、事実はおおむねそのとおりだったと言ってよいだろう。

心配はやはり的中した

 私事ながら、私の親族にも、帰国運動が盛んだった頃、北朝鮮に帰りたいと訴えた者がいたが、祖母が「もともと暮らしにくいところだった。北はなおさらだ。三度も攻守を入れ替えた朝鮮戦争から十年も経たないのに、地上の楽園になっているはずもない。そんなに帰りたかったら、あなた一人で帰りなさい」と厳しく押し止めたという。イデオロギーや宣伝にくらまされない、生活実感に根ざした判断は結果として的確だった。

 朝鮮戦争で大量に失われた労働力の補充という本来の意図を隠蔽し、地上楽園の嘘で多くの人々を絡め取っていった欺瞞、当時蔓延していた社会主義への幻想。現地での経済的困苦にさらに悲惨の色を与えた根本的齟齬は、当時に思いをはせさせ胸を痛くさせる。この映画には「朝鮮人朝鮮人と言って区別する人は、いい日本人じやないと思います」「朝鮮人と言われるのが恥ずかしいと思うのは、崔君自身にも欠点があったかもしれない。人間に差別はないんだから自信をもっていいのにもたなかった」「子供にまでそんな気持ちを起こさせた日本人にも考えなくちやならない点があるんじゃないか」等々の台詞に表われているような、今も受け継がれている戦後日本の理想主義が反映していた。

 北朝鮮体制を支配していたのは、多分に憎悪と猜疑心に基礎する階級闘争論であり、差別であった。金日成が階級闘争論にいかに執着したかは、黄長燁氏の『金正日への宣戦布告』(文芸春秋)に詳しい。

 中国から北朝鮮に帰った者たちも出世は叶わず差別の対象となったが、資本主義の日本から渡ってきた在日朝鮮人とその日本人配偶者は当初より、潜在的スパイ分子、ないし資本主義の毒素を持ち込む警戒の対象であった。

 最近、北朝鮮を訪問した総連系の人に聞いた話だが、親族訪問に付いて回るお目付け役(案内員)の数が、去年は一人だったのに、今年は二人になったという。今年六月西海上で韓国、北朝鮮海軍の銃撃戦があった。北朝鮮は国内で韓国側の挑発を撃退したと報じた。ところが祖国訪問に来た在日朝鮮人が「北朝鮮はメタメタにやられてしまったんだ」と事実をしゃべり、それが瞬く間に広まったので、以降監視を厳しくしているのではないか――というのが、その総連系人士の推測だ。

北に及び腰の野中広務氏

 今、朝米、朝日とも政治レベルでの対話に進展の動きが出ているかに見える。訪朝団に加わる自民党の野中広務氏は「こちらが日本人拉致問題などを持ち出せば、向こうは植民地支配の三十六年間の話を持ち出して、不毛な議論に陥る」と人道問題への言及には慎重であるとのことだ。ならば、民間のわれらが、人権、人道面の切り口から北朝鮮の変化を促す活動をいっそう強く、多様に展開しようではないか。         

 北朝鮮が強制収容所の露顕、この問題に対する外部世界の関心に、いかに敏感であるかは、最近の北朝鮮の言動を見ても明らかだ。十一月十七日付の朝鮮中央通信(北朝鮮の国営通信社)は、同月十日に発表された「北朝鮮民衆のための人権宣言」に関し、「北朝鮮に政治犯はおらず、強制収容所も不要」で、「人権宣言はでたらめの捏造品であり、指示したのは日本政府」との論評を発した。

 誤解のないように申し上げておくと、先の野中氏の発言からも窺われるように、自国民の拉致問題にさえ、言及するのに及び腰だというのが、現時点での日本政府の姿勢であって、政治家の大多数もそうである。北朝鮮労働党と長年の友党である某党の元幹事長氏などは「北朝鮮の人権問題?あの国じや金正日のほかはみな人権を侵害されているんだろう」と呵呵大笑する有様で、人権宣言への賛同を求めると、「趣旨は理解し、賛同しますけどね、今私の名前が出ちやうとまずいんでね」とかわされる。他党のお歴々もおおむね同じ反応であった。

帰国事業にかかわった人たちに

 つまり、あの「人権宣言」に賛同を連 ねた方々は、亡命者の手記などを通じて北朝鮮内部で自国民に加えている虐待の一端を知って「いくらなんでもこれはひどすぎる」と憤り、ご自身の良心に基づいて賛同されたのであって、日本政府のご意向、ご都合など関係はないのであり、まして指示など一切あずかり知らぬのである。この個々人の良心の声が、北朝鮮流のボキャブラリーでは「反共和国圧殺策動」となるようなのだが、「人権宣言」は「自国民への虐待はおやめなさい」と言っているだけなのだから、速やかに改めればよろしい。

 帰国船第一便が新潟を出発して今年の12月で40年。帰国運動は多くの人々を塗炭の苦しみの中に送り込み、いまも北に親族を抱える総連傘下の在日朝鮮人は、累が及ぶのを恐れ、沈黙を守っている。罪の上塗りはほどほどにしなくはならない。そうした対応は決して祖国を愛することにはならない。

 かつて人道の名の元に帰国事業の実現に(善意で)関わった方がたは、いま往来の自由を実現するために、再び力を合わせていただきたい。

北の囚われ人にとどけ プーシキンの声 斎藤洋太郎(投稿)

 萩原遼さんの『北朝鮮に消えた友と私の物語』にプーシキンの詩が引用されています。金子幸彦訳のこの詩もすばらしいですが、私は上田進が1936年に訳したものに魅かれています。上田進『プーシキン詩抄』(1936)から訳と解説をご紹介します。

シベリアへ(1827年)

シベリアの鉱脈の底までもその誇にみちた心を持ってゆけきみたちの仕事や高い思想はあのままで消えてしまひはしない。
誠ある女性は不幸におち希望は暗い地下にもぐったされどやがて勇気と笑ひが眼をさましよろこばしい時がくるだろう。
愛と友情は暗い鉄門をとほりぬけきみらのところまでとどくだろう
一自由をうたふ私の声がきみらの独房までとどくやうに。
やがて重い鎖が断れ牢獄がくづれ-そして自由がいそいそときみらを出口に迎へ
同胞がきみらの手に剣をかへすだろう。

 「この詩はシベリアへの流刑に処せられた十二月党員たちに呼びかけたものである。十二月党といふのは、アレクサンドルー世の時代にあった秘密結社で、主として進歩的な思想をいだいた士官たち(その中に貴族も多かった)がその党員となってをり、専制政府の転覆と農奴制度の廃棄を目的としてゐた。1825年12月に蜂起したが、たちまち鎮圧され、中心人物が5人死刑に処せられ、あとはシベリアに流刑にされた」
 シベリアと収容所が重なり、圧制を打ち砕こうとする人民の声が聞こえてきます。自由への渇望は時を隔てても同じだと思います。

 『プーシキン詩抄』を翻訳した上田進は、ソヴェトで殺された杉本良吉の友人で二人は共同でソヴェト戯曲を翻訳しました。上田の名訳にはショーロホフの『開かれた処女地』(1936年)や『マルクス=エンゲルス芸術論研究』(1937年)、ソヴェト社会を風刺した『黄金の子牛』(1940年)などがあります。また、川端康成らとともに『農村青年報告』を監修しました。(1940-1941年)。上田は戦後病没。彼の岳父は文学者秋田雨雀であり、彼の弟は演劇評論家の尾崎宏次です。

北朝鮮民衆のための人権宣言 1999年11月

 今日、北朝鮮の民衆と、同国に拘留されている人々が遭遇している、餓死と人権揉欄の惨状は座視しえない段階にきている。これを放置することは、良心と人道に反する行為である。われわれは、ここに世界人権宣言にのっとり、北朝鮮の民衆が置かれた窮状を打破すべく、日韓両国及び世界の人々に向けて以下の宣言を発する。

1.われわれは、北朝鮮民衆の大量餓死は自然災害によるものではなく、朝鮮労働党の一党独裁、全体主義体制の弊害によると判断する。この悲劇を終わらせるためには、独裁政治を排し、人権尊重の精神に基づく政治の民主化、経済の改革、法の公正な適用を図らねばならない。

2.われわれは、強制収容所・刑務所における政治犯、良心囚、一般服役者が置かれている苦境を決っして見過ごしにはしない。苛酷な拷問と飢え、死に至るまでの強制労働といったあらゆる悲惨な人権状況に一刻も早く終止符を打ち、自由と人権・人道の光を当て、収容所の一日も早い閉鎖を求める。

3.われわれは、シベリヤや中朝国境を越えて中国に逃れた十万人とも推定される脱北者たちが、見知らぬ土地を彷徨して経験している恐怖と束縛に目を向け、日・韓・米・中・露の5カ国と国連及び国際機関が、脱北者の置かれた状況を理解し、一日も早く難民と認定し保護するよう要望する。

4.われわれは、日韓両国と他の国々から北朝鮮に拉致された人々や在日北朝鮮帰国者、また朝鮮半島の南北離散家族の抑圧と飢餓との闘いと望郷の念に耳を傾ける。こうした人々は拘束を解かれ、世界人権宣言にある出国の自由、すなわち墳墓の地に帰り、自由に往来する権利を認めるよう、北朝鮮政府ならびに関係諸国政府に要望する。

5.われわれは、強制収容所と食料統制で縛る抑圧体制から、すべての北朝鮮の民衆が一日も早く解放され、尊厳と権利において平等で、集会、結社、言論、信仰の自由と権利が保障され、叡知と創造性を積極的に発揮できる社会が来たらんことを強く願う。

6.われわれは、以上の北朝鮮人権問題の解決のために国際協力を呼びかけた、去る3月10日付けけフィガロ紙に掲載されたフランス知識人の宣言文、及び3月20目付け朝鮮日報に掲載された韓国知識人の宣言文の趣旨に賛同し、これを支持する。

7.われわれは、この北朝鮮現体制の人権躁欄に終止符をうつために、日韓両国の政治家・言論人・宗教者が自らの良心に従って先頭に立つことを願う。また、関係各国及び諸国際機関が、北朝鮮政府に対して自由と人間の尊厳の確立を図るよう働きかける事を求める。われわれは、以上の目的の実現のためにあらゆる努力を重ねる事をここに誓う。

 (カルメギ編集部注)「北朝鮮民衆のための人権宣言」は11月10目に発表され、小川晴久、萩原遼共同代表ら58人〔11月20日現在〕が署名しています。これに対し11月17日、北朝鮮国営の朝鮮中央通信が「悪らつな冒涜」「日本反動勢力の限度を超えた反共和国敵視策動」などと論評を加えました。次号カルメギで資料として紹介します。同時に、これに対する徹底的な反論を掲載します。

編集後記

★もう師走となりました。街路樹の葉もかなりまばらとなりましたが、おかわりありませんでしょうか。12月5日と18目、東京、大阪でそれぞれ大きな集会が準備されており、それに向けてカルメギも役割を果たしたいと念じています。帰国運動40周年の今年をステップに来年もまた意気高く私たちの運動を推し進めて行きましょう(遼)

★北朝鮮の人権解放を願う皆様の支援で、北の女子刑務所を体験した李順玉さん(52歳)と子息の崔東哲さん(32歳)のお二人を招き講演会を催すことができました(本文参照)。カンパをいただいた皆様に厚く御礼申し上げます。
 だが、取材にきた社は3,4社の状態で、全国紙はわずか1,2社のお寒い状況です。人道と平和を強調してきた戦後民主主義に大きな矛盾を感じます。(佐伯)

★李順玉さん来日時、一番尊ばれた食事は何とみそラーメン(と言うか正確にはそのスープ)でした。体が弱っておられる事もあってか、ご飯とみそ汁(もしくはチゲ)を少し食べれば十分のご様子。そう言えば安明哲さんもみそラーメンに唐辛子をかけたものを喜んで食べていました。(三浦)

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