かるめぎ No.31 2000.02.15

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会報『かるめぎ』の過去号を、旧サイトから、順次こちらにアップしていきます。この機会に、過去の『かるめぎ』を通して、守る会の歩みを知っていただければ幸いです。

(旧サイトより転載:http://hrnk.trycomp.net/archive/karu31go.htm)

なくせ!強制収容所 救え!北の囚われ人 「守る会」・東京フォーラム報告 99年12月5日  小川晴久(共同代表)

北朝鮮の山の中の強制収容所の廃絶を求める

 東京国際フォーラムは、昨年12月5日(日)午後1時より4時半まで国会議事堂近くの星陵会舘で開かれました。当日会員や友人を始め200名の方が出席してくださって、お陰様でこのフォーラムは成功したと思います。この場を借りて、参加してくださった方、全国で成功を願い、声援してくださった方々に厚くお礼を申し上げます。

帰国者の2割が強制収容所へ

 フォーラム(実質は講演会)は当会の共同代表でもあり、弟さんを強制収容所で殺されている金民柱さんの講演から始まりました。「帰国者と強制収容所」と題した、当日出席者に配布されたペーパーでは、帰国者の約2割が強制収容所に捕われたという持論の根拠を初めて明らかにされました。

 実際の講演ではもう一人の北に渡った弟さんの手紙を披露されました。まだ今は語れないが、生き残って歴史の証人としてすべてを語りたいと認(したた)めてある手紙です。決して公表してくれるなという弟さんのこの手紙を、民柱さんはこの手紙を集会で読み上げてしまわれたのでした。弟さんを犠牲にするかもしれない最高の証言をこのフォーラムの成功のためにして下さったのでした。

北の強制収容所で殺された弟について講演する金民柱・共同代表

二番手は『北朝鮮脱出(上・下)』で知られる安赫氏です。

 彼はこの三年間、自己の体験をもとに強制収容所の映画を作らねばと考え、映画人やシナリオ作家らを説得し、懸命の努力を感けてきました。今世紀中にクランクインしたいと数度目のシナリオの完成に取り組む忙しい中で、なぜ映画なのか、その想いを切々と訴えました。

 今回の東京フオーラムには、フランスからピエール・リグロ氏、アメリカからスザンナ・ショルテ女史とハリー。ウー氏が出席してくれましたが、12月1日から3日までソウルで開催された「北朝鮮の人権と難民問題ソウル国際シンポジウム」に招かれ、その帰途、東京フォーラムに参加してくれたのでした。

在仏アルメニア人の帰国運動

 ピエール・リグロさんは、昨年3月10日フランス知識人24名(当初は21名)が初めて北朝鮮の人権問題に関して見解を表明した声明の立役者で、ヨーロッパでの北朝鮮強制収容所間題の第一人者です。『社会史評論』の編集長をしています。リグロさんはナチの収容所、スターリンの収容所、北朝鮮のそれを比較されたのですが、講演の冒頭で1947年に起きた在仏アルメニア人の故国への帰還運動を紹介し、在日朝鮮人の北朝鮮への帰国運動との類似性を語ってくれました。私達には全く知られていない史実でしたので、聴衆の耳目を引きました。故国(アルメニア社会主義共和国)に帰ったアルメニア人たちは帰ったことを後悔し、1956年フランスの首脳がアルメニアを訪問したとき、フランスの国旗(三色旗)を揚げてフランスへの再帰国を訴え、90%の人が再びフランスに帰ることができたといいます。

 北朝鮮帰国事業との違いは、北朝鮮ニ渡った人たちは日本に戻ることができていないのに、フランスから帰国したアルメニア人たちは90%がフランスにカムバックできている点だといえます。資本主義国から社会主義国への民族大移動は、日本から北朝鮮への帰国事業だけでなかったことがこれでわかりました。希望者を再びフランスに帰したアルメニア社会主義共和国の指導者の方が、北朝鮮よりももっと共産主義者として度量があったと言えます。リグロさんはとても興味深い史実を私達に紹介してくれました。

アメリカで奮闘するショルテさん

 四番手の講師スザンナ・ショルテ女史は昨年4月22日、アメリカ上院小委員会で北朝鮮強制収容所に関する初めての公聴会を実現するために尽力された方で、防衛フオーラム財団の会長の職にあります。ショルテさんはアメリカで頑張った今日までの活動を述べ、これからアメリカは何をすべきかを述べたあと、次の言葉で挨拶を閉じました。「私たちは行動する必要があります。私たち誰もが人権を尊重する日本や韓国や米国のような自由の国ではなく、北朝鮮に生まれたかもしれないのです。

 私たちにはこれらの人々を助ける必要があります。」ショルテさんは熱心なクリスチャンです。とても明るい50歳前のまだ若い方でした。この女性がアメリカの議会を動かそうと大奮闘しておられるのです。

スライドで訴えるハリー・ウー氏

 最後の講師は労改(ラオカイ)の廃絶のために闘っている有名なハリー・ウー氏でした。

 かれは用意したスライドを上映しながら、ご自分が直接中国に行って撮った労働改造所の実態を示す写真を紹介しつつ、解説を加えました。特に圧巻は6・4天安門事件で捕らえられた一青年の公開処刑の写真でした。この青年は学生たちが広場の自動車を焼き討ちしたとき、加勢したかどで逮捕されたというのですが、逮捕されたときの聡明な顔だちのあどけない写真、野外の処刑場に連行される写真、ひざまづかされている写真、銃殺された写真が次々と披露されていました。

 今目前で銃殺されたような臨場感溢れる効果抜群のスライド写真でした。会湯は瞬間息をのんで沈まりかえりました。ハリー・ウー氏は、また労働改造場で我々が飲んでいるかもしれないクーロン茶まで作っていることを語ってくれました。無償強制労働による製造です。身の囲りの安い中国製品に注意してほしいと、彼は訴えました。強制収容所(労改)の生産物であるかもしれないからだと言います。中国には、強制収容所である労働改造所が全国に1100個所(推定)もあると言います。労働者が主人公である社会主義国で、強制収容所が無償の強制労働の生産場となっていることは許すことが出来ません。「労働者が主人公である社会主義」とのスローガンは撤回すべきです。

東京宣言と3つの決議

 東京国際フオーラムは5人の講演のあと、一つの声明と3つの決議を採択しました。 声明とは、北朝鮮の山の中の強制収容所の廃絶を世界に訴える東京宣言です。3つの決議とは中国の労働改造所に関する特別決議、村山訪朝団と北朝鮮との合意に関連した、日本政府と日本赤十字に対するものです。(別掲)

 東京国際フオーラムは以上のように成功裏に終わりましたが、事前に寄附をお願いする余裕もなく、全体としてかなりの赤字を出しました(諸経費百万円)。

 「生命と人権」の次号(冬号)を、東京国際フォーラム報告集を兼ねたものとして考えています。全国の会員の皆さんはこの報告集を求めていただく形でカンパを仰ごうと思います。よろしくお願い致します。

採択された宣言と決議 北朝鮮の山の中にある強制収容所の廃絶を求める東京国際宣言

 人権とは、人間が人間らしく、尊厳をもって生きる権利であるが、北朝鮮では人権の最低条件たる生命の保全、身体の自由すら保障されない由々しき時代が続いている。

 北朝鮮では反革命分子は政治的社会的生命を失った人間のクズとみなされ、山や中の強制収容所(政治犯収容所)に送られ、死の強制労働が課せられている。そこが人間であることをあきらめなければ生きられない文字通りの生き地獄であることは、強制収容所の生き証人の詳しい手記と証言で明らかにされている。

 裁判もなく、しかも家族ぐるみで収容される。通信の自由がないため、誰が囚われているのかわからない。わからないため、その中では一切の人権が剥奪され、その生命は国家保衛員の恣意にゆだねられている。余りにひどすぎる実態のため、囚人の生き証人は家族を犠牲にしてまで、世界に訴えるべく脱出したのである。

 これは北朝鮮が18年も前に批准した国際人権規約(自由権規約)第10条「自由を拘束されている者にも人間の尊厳は守らなければならない」に完全に違反している。

 このような山の中の恐ろしい強制収容所だけでなく、北朝鮮には脱北者問題、離散家族(日本からの帰国者含む)の再会問題、被拉致者の原状回復問題など人権問題が山積しているが、これらすべてに共通する特徴は、人間の生命をなんとも思わない生命軽視の一語に尽きる。しかもこの生命を逆手にとった人質政策をあらゆる面で行使し、この蛮行が世界に知られることを封じ込めているのである。

 北朝鮮当局はチュチェ思想によって人間の生命を政治的社会的生命と肉体的生命の二つに分け、前者を失った者は人間のクズであり、人権は保障しなくてよいと考えている。しかし、この考えは人権とは何かを全く理解しないものであり、世界人権宣言やその具体化である国際人権規約の精神を真っ向うからふみにじるものである。しかも北朝鮮は後者の国際人権規約を批准しているのである。これは自国国民と世界の双方をあざむく欺瞞そのものである。この欺瞞の上に今だに北朝鮮当局は北朝鮮には政治犯も政治犯収容所も存在しないとまっかなウソをついている。

 なぜこのようなウソをつかなければならないのか。それは北朝鮮の恐怖の体制を根底において支えるのが強制収容所であるからである。自国民を黙らせ、海外からの訪問者に沈黙を守らせる人質政策が完璧に機能しているのも山の中にある強制収容所のためである。ここを突き崩していかなければ、北朝鮮の人権状況の改善は一歩も進まない。食糧不足の改善など北朝鮮の自立も実現しない。国民の自由な創意性を阻んでいるのは、チュチェ思想であるが、チュチェ思想を国民が批判できないのは強制収容所があるためである。北朝鮮の人権を抹殺しているのも、国民の創意性を抑え込んでいるのも、すべては山の中の強制収容所の存在である。世界はこの強制収容所に目を開かなければならない。

 しかし世界はまだこのことに気づいていない。強制収容所の実態が知られていないからである。収容所の四人の生き証人の手記や証言は急いで各国語に訳されなければならない。収容所の実態を広く知らせる他の方法(絵や映画)も追求されてよい。

 生命と自由を愛する人々よ!まず北朝鮮の強制収容所の実態を知ることから始めようではないか。今世紀の後半が生み出し、今や世界最大の人権抹殺場となっている北朝鮮の山の中の七つ(推定)もの巨大な強制収容所を今世紀中に廃絶するために。

 人間の生命をかくも粗末に扱う金正日政権を人間の名において厳しく批判し、全世界の世論に強く訴えるものである。

1999年12月5日

日本政府に対する特別要求決議

 村山訪朝団は人道問題は日赤にゆだね日朝交渉に入るという立場を12月3日に表明した。今月14日は第一次帰国船が新潟から出発して40年目を迎える。帰国者は最初から北朝鮮で監視対象にされ、推定で二割近くが強制収容所に入れられ、行方不明者も多い。

 横田めぐみさんをはじめとする被拉致者の家族は、小渕首相の約束が実行されることに目をこらしている。日本人妻たちとともに在日朝鮮人の帰国者たちも自由往来を切望していることに目を向けるべきである。

 日本で初めて開催された北朝鮮の強制収容所の廃絶を求める「東京国際フオーラム」の名において、我々は人道問題と国交交渉を切り離し、後者を先行させることに反対する。我々は被拉致者の一刻も早い原状回復と日本人妻の里帰りの再開とともに在日朝鮮人全帰国者の自由往来の早期実現を強く求めるものである。

1999年12月5日

日本赤十字に対する特別要求決議

 40年前の今月14日、新潟から帰国船が清津に向けて出港した。帰国事業40年を迎える今、村山超党派訪朝団は平壌で、人道問題は両国赤十字に委ね、日朝国交交渉を先行させることに合意した。人道問題は食糧支援問題だけではない。それには日本人妻の里帰りの再開や被拉致者の原状回復だけでもなく、それを希望するすべての在日朝鮮人帰国者の日本との自由往来の実現や、強制収容所に消えたと思われる行方不明者の探索も当然含まれる。

 まさに40年前に、帰国事業を実現させた合い言葉が世界人権宣言第13条の「すべての人間の出入国・移動の自由」であったことをもう一度想い起こす必要がある。ことに日本赤十字社は40年を迎える帰国事業の日本側担当者であった事実にかんがみ、帰国者の生命と人権を守り、日本との自由往来の実現を追求すべきである。

1999年12月5日
北朝鮮強制収容所の廃絶を求める
東京国際フォーラム参加者一同

労改問題に関する特別付帯決議

 北朝鮮の中にある強制収容所の廃絶を求める東京国際フオーラムに中国の労働改造所(通称Laogai)の廃絶のために闘っているハリー・ウー氏の参加をえたことを我々はよろこび感謝している。労改で一九年も辛酸をなめたハリー・ウー氏の体験と調査によれば、人間以下の条件下で一日十数時間も無償の強制労働で炭鉱、農場、工場で働かせている労改が全国いたるところに11,000ケ所も存在しているという。

 北朝鮮の山の中の七つの強制収容所が世界でもっともひどい強制収容所であることを知り、その廃絶を求めてここに集まった我々は、中国の労改に対して次のことを表明する。

一、人間以下の条件下で無償の強制労働を強いる労働改造所は廃止されなければならない。

一、近く国際人権現約(自由権規約)に加入するときく中国政府はそれに違反する労働改造所の諸条件を急いで改善しなければならない。

一、我々はハリー・ウー氏の訴えに深く耳を傾け、中国の労働改造所の実態につき、より理解を深めていく。

 最後にハリー・ウー氏の今回のスピーチの中の次の一節に賛意を表し、この特別決議の一部とする。

「我々は北朝鮮の強制収容所や教化所そして中国の労改のような抑圧的な機構に反対し、収容所の壁とフェンスの向うで沈黙しているすべての人々にその声を届けるため、あらゆる努力を傾けなければならない。世界は収容所の壁の向う側の多くの無実の犠牲者の著しみを認識しなければならない。さらに、それらのひどい機構に終止符を打つために、その認識を建設的な外交的努力に転化しなければならない。それが我々の希望である。」 

ハリー・ウー

1999年12月5日

北朝鮮への沈黙を破ろう フランス知識人のアピール(第2弾)

 2000年1月25日フランス下院の集会室において、アンリ・プラグニョル議員(民主連合)と国際人権協会フランス支部(リグロ氏)が主催した集会で披露され支持をえた、ストックホルム集会(1/26-28)に向けたフランス知識人の声明(第2弾)です。ソウルの市民連合経由で届きました。原文の仏文から訳したものです。(訳小川晴久)

2000年1月26日から28日まで、ホロコーストを想起するためにストックホルムに集った、国や政府の指導者たちへのアッピール

 あなたたちはショアー、アウシュヴィッツそれにナチの絶滅収容所を永久に忘れまいと決意しておられます。私たちも全くそのお考えに賛成ですし、私たちのからだは参加していませんが、私たちの思いはここに参加しています。

 北朝鮮に生じていることに沈黙を続けているとしたら、今はアウシュヴィツの犠牲者たちを追悼することはできないと私たちには思えます。この国は恐怖(テロル)と死が支配する10ケ所ほどの強制収容所を隠しています。

 その上、全体主義国家の狂気が襲っているのはここに拘留されている者だけに限りません。この国はここ数年間に100万から300万の人々を飢餓で殺しています。この数字はナチによる何百万人ものユダヤ人虐殺の数に匹敵します。たしかに北朝鮮指導者の狂気は人種的なものではなく、彼らはガス室ではない手段で彼ら自身の国民を殺しています。しかし、この違いは北朝鮮をより小さな地獄に引き下げてはいません。

 ホロコーストと北朝鮮の飢餓は、少なくともひとつの共通点を持っています。犯罪が行なわれているこの瞬間にも諸国家が等しく沈然していた/していること、その沈黙は犠牲者たちを全くの絶望の底に見捨てていることです。

 各国と政府の指導者の皆さん、どうか全世界に向かって語ってください。この許しがたい事態を、繰り返させないために、沈黙を破るために、北朝鮮の今日そのものである死の収容所を解放するために、あなたたちはどんな手段を講じようとしているのかを。

第一署名者:アラン・ブザンソン、
ダニエル・ブッシェ、クローデイ・ブロイエル、
ジャク・ブロイエル、ステファンメ・クルトクワ、
ジル・ドロンソロ、アンドレ・グリュックスマン、
ヨエル・コテク、アンリ・プラグニヨル、
サピーヌ・ルノーサビニェール、ピエール・ソグロ、
アンドレ・セニク、 ガイ・ティシエ、
イリオス・ヤナカキス。(14名)

コッチェビ放浪記(みなし子の浮浪児)第3回

北朝鮮で両親が餓死し、中国に脱出した10歳と8歳の兄妹の物語
(韓国誌「月刊朝鮮」99年9月号より)

(イム・チョルは10歳、妹のイム・ソヨンは8歳。炭鉱技師の父と元芸術団の踊り子だった母の四人暮らし。貧しいけれど幸せな日々だった。チョルは科学者に、ソヨンはアナウンサーになるのが夢だった。)

母の死

 お母さんはほんとうにきれいでした。妹のソヨンは、かわいくてしっかりしているといって、幼稚園の三百人の子供たちの中でいちばん人気があったんですが、心根がお母さんに似たんです。

 お母さんは、歳が35歳でも30歳に見えると、みんな言いました。そんなお母さんがお父さんもいないのに寝込んでいるのだから、明るかったぼくの家の中はいっぺんに暗くなるようでした。

 お母さんの病気は、あまり食べていないのに重い肉体的負担からきた結核でした。流行性の結核ではありませんでした。移らない結核だそうです。それでも30kgもの重い石炭をいつも担いで歩いて、脇腹に水が溜まりました。やっと歩いているお母さんと一緒に炭鉱病院に行っても薬がありませんでした。薬は市場でも売っていましたが、とても高いんです。ペニシリンやマイシン注射を一本買おうとすれば、家族みんなが十日間食べるトウモロコシの粉を買うことができました。

 食べ物も買えないのに、お金がなくて高い注射を買えずに、お母さんはただ寝て患っているだけでした。ぼくはお母さんがいない時、いつも泣いていました。

 しかしぼくがこんなふうに座っているばかりだと、お母さんは冷たい部屋の中に寝ることになると考えて、ぼくがお母さんの面倒を見ないと死んでしまうと考えてありったけの元気を出しました。十里離れた炭鉱に行って石炭も運び、山に行って食べられる草は全部摘んできて茹でました。

 鉄臼で草をつかなくてはならないのに、お母さんもぼくも力が出なくて臼の棒をいっしょに握って臼をひきました。そんな時、お母さんは「小さなおまえにこんな苦労をさせるお母さんを許しておくれ」と言って、涙をぽろぽろ流しました。ぼくもいっしょに涙を流したけど、決して声を出して泣きませんでした。

 お母さんとぼくが流した涙のまざった草餅兼草雑炊を、ぼくたち家族は三カ月間食べて暮らしました。一日三食じやなくて、二食ずつ食べました。

 七歳だったソヨンはずっとお母さんのそばに座って、熱があるお母さんの顔を冷たい水で冷やしてあげました。三カ月間病んだお母さんは、1998年6月4日に息を引き取りました。

 「チョル!ソヨン!お父さん、お母さんはおまえたちを育てられずに死ぬけれども、かならず生きて立派な人になりなさい。チョル、お父さん、お母さんのかわりにソヨンを絶対に生かせなさい。おまえたち二人は離れずにかならずいっしょに生きなくてはいけない。そしてお父さんが死んだのかも調べなさい」

 お母さんは涙でいっぱいになった目でぼくとソヨンを見ながら、ぼくたちをしっかりと握りしめました。

 「お母さんが死んだら、ソヨンをぼくがどうやって育てるの、お母さん」、ソヨンもお母さんの最期を気付いて、お母さんの顔に小さな手をのせて泣きながら言いました。 

「お母さん、死なないで。ごはん食べなくてもわたし生きられるよ」お母さんは頷いたようでしたが、目を開けたまま息を引き取りました。

死んだお母さんの口に草雑炊を

 近所の人たちは死んだお母さんを家の隅に寝かせて、布団を剥いで覆いにしました。ぼくは妹といっしょにその横で夜遅くまであまりにも泣き過ぎて、ソヨンもぼくものどが枯れてうめき声しかでませんでした。

 夜が明けるまでぼくの家でいっしょに寝ていた人たちは、朝になるとちりぢりに出ていきました。親切なとなりの家が持ってきてくれたどんぶり一杯の草雑炊を、ソヨンはお母さんの口に入れてあげようとがんばっていました。ぼくは胸がつぶれそうになって、泣きながらソヨンの手を引っ張ると、ソヨンは泣きながら「お母さんお腹空かしているよ。わたしたちだけが食べてどうするの」と言って、開かないお母さんの口を開けようとしてありったけの力を込めていました。やっと妹を引き離して、ぼくがソヨンを抱きしめると、ソヨンもぼくを力いっぱい抱きしめて泣きました。

 「お母さんはこれからもご飯を食べられないの?」

 「死んだのにどうやって食べるの?」

 「そうしたらわたしもこれからは食べない」

 「おまえは本当に心配させるんだから。そうしたらお兄ちやんも死んでしまうよ」

 ようやくソヨンはおびえるようにぼくを見て言いました。

お母さんの死顔に化粧をしてあげて

 「お兄ちやん、死なないで。お兄ちやんが死んだらわたしはどうしたらいいの」

 ぼくは首を振って死なないとなだめました。お母さんの顔をずっと見ていたソヨンは言いました。

 「お兄ちやん、お母さんの顔に化粧してあげようか。お母さん口紅塗りたいって言ってたよ」ぼくは領きました。食器棚の中を探して、使ってなかった新しいどんぶり三つを取りだしたぼくたちは、市場に行きました。

 生前にお母さんが口紅は高くて買えないと言っていたものをどんぶり三つで替えようとすると、若いおばさんは替えてくれませんでした。それで、おばさんが使っていたものでもいいから替えてくれとねだると、そのおばさんは手提げかばんの中から半分ほど使って折れた口紅を出して替えてくれました。

 家に帰ってきたぼくがどうしたらいいのか困っていると、ソヨンはお母さんが自分を化粧してくれたとおりにお母さんの口に口紅を塗ってあげました。

 また、お母さんの頬にも紅を塗って小さな手のひらでそっと撫でてあげると、お母さんは本当にきれいでした。ぼくたちがお母さんの前に座って髪もといであげているところに近所の人たちが入ってきました。

 「おまえたち、死んだ母さんの前でなにをいたずらしているんだ?」

 ソヨンは生意気に大声で言いました。

 「いたずらしてない。お母さんをきれいにしてあげるんだ」

 みんなは胸がつまるといってまた泣きました。

 「こんなしっかりしたこどもたちを産んどいて。泣かせるんだから」

 この日の午後でした。お母さんを埋める棺を探しに行った近所の人たちが、棺がないといって何も持たずに帰ってきました。

 ぼくたちの家の中で相談している話では、炭鉱ではみんな死んだ人をかますに包んで埋めているんだけど、そのようにしようということでした。

 聞いていたぼくは大声で叫びました。

 「うちのお母さんをかますで埋めないで。台所にある食器棚でもつぶして棺を作ってください」

 「食器棚をつぶしても、棺の半分も作れないよ」

 それでもぼくは、お母さんを木棺に入れてほしいと言い張りました。しかし村の人たちは、板がひとつもないと説得しました。しかたなく寝ていたぼくはふと考えました。

 「うちのお父さんとお母さんがかぶっていた布団にお母さんを包んで埋めてください。そうすればお母さんが喜んで、よく眠れるでしょう」

 ぼくの言うことに気付いたソヨンは、お母さんがかぶっていた布団をつかみだして、お母さんの死体の横に持って行こうとありったけの力を出しました。

 ぼくたちが頼んだとおり、村の人たちはお母さんの遺体を布団に包んで土に埋めてくれました。布団に包まれて、掘った穴の底に静かに寝ているお母さんの遺体に、ぼくたち兄妹は土をひとつかみずつ撒きました。

 その瞬間、ぼくと妹はどれだけ足を踏みならして泣いたかわかりません。みんなが埋めた土を掘って、「お母さんを埋めないで」といってスコップを持った大人たちの腕にすがりついて哀願しました。

 幼いぼくたちだけが残された家の中は寂しくて仕方ありませんでした。ぼくは何も食べずに横になって、そのまま死んでしまいたいと思いました。でもそうはできませんでした。ぼくが死んだらソヨンも飢え死にしてしまうからです。 (訳 金永玉)

「守る会」第6回総会、4月9日(日)東京で開催

 1994年2月、朝鮮総連の暴力分子数十人の妨害の中で誕生した「守る会」は、満6年を迎えました。「この会は絶対つぶしてやる」という反対勢力の圧力にもかかわらず、着実に拡大しています。第6回総会をさらに大きな発展のステップにするため会員のみなさんの

ご協力をお願いします。

日 時  2000年4月9日(日)午後1時~5時

場 所  シニアワーク東京 セミナー室1号

東京都千代田区飯田橋3―10-3  TEL(03)5211-2307

(JR飯田橋駅東口より徒歩7分。駅を出たところに大きな看板あり)

「守る会」東海支部、結成へ

 今般、北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会「東海支部」を結成することになりました。北朝鮮現体制によります国民の人権侵害に対しまして反対し人権擁護、確立に向けた闘いに、いつもご助力を頂いております会員の皆様には心よりお礼を申し上げます。

 今回、心ある協力者のお力添えを持ちまして「守る会・東海支部」を設立する事となりました。今後とも「守る会」会則に則り、帰国者問題を通して、北朝鮮国民(帰国者を始め)の人権確立・擁護を求め活動を行っていきますので、何とぞよろしくご協力のほどお願い申し上げます。つきましては、早速ですが結成総会及び記念講演会を下記の通り行いたく思いますのでご案内申し上げます。

敬 具 2000年2月15日
北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会
東海支部結成準備事務局
金国雄 拝

日時   4月2日(日曜日)
総会   午後1時~2時15分
講演会  午後2時30分~4時30分
講師   小川晴久(共同代表・東京大学教授)
     『守る会発足と北朝鮮強制収容所』
     萩原 遼(共同代表・大宅ノンフィクション賞受賞作家)
     『北朝鮮現代史における帰国者の運命』

場所   名古屋YWCA l階・105会議室 (052)961-7707(代表)
     名古屋市中区新栄町2-3
     地下鉄 栄五番出口東へ徒歩3分
*講演終了後、懇親会を催します(参加費3千円)
連絡先  〒488・0044
愛知県尾張旭市南本地ヶ原町2・114
  金国雄
tel&fax(0561)54-4590

北朝鮮の厚顔な言い分に反論する 佐伯 浩明(運営委員)

 昨年11月17日、朝鮮中央通信が「『人権宣言』発表で反日感情は極度に」と題した論評記事を流した。

 ここでいう『人権宣言』は、7日前の同月10日に、人権派弁護士の中平健吉氏、カトリック枢機卿の白柳誠一氏、ジャーナリストの櫻井よしこ氏、私の四人が呼びかけ人となり、賛同者名簿とともに発表した「北朝鮮民衆のための人権宣言」とみられる。宣言は、強制収容所の閉鎖、日本人拉致者の解放、日本人妻を含めた在日北朝鮮帰国者の里帰り、密告体制を基礎とした抑圧政治の廃止と、北朝鮮にかかわるあらゆる人権問題の改善を求めたものだ。これに対して、朝鮮中央通信評論は別項のように、「これは、人間を最も専重するわが共和国の人権政策に対する露骨な挑戦、労働党の懐の中で誇らしく生活している共和国人民に対する悪辣な冒涜で、到底許せない犯罪行為である」と、批判した。

 私は、同宣言を起草した者として、朝鮮中央通信の評論員に訴える。「もし、評論が事実ならば、人間の専厳を奪うような管理所(政治犯強制収容所)も、教化所(刑務所)も必要ない。国民を国内外に自由に移動させ、大砲に変えてバターを与えるべきだ。そうすれば、飢餓の苦しみに北朝鮮国民は置かれないで済むはずだ」と。

 同紙は「周知のように共和国政府は人々の日と権を法的に、実践的に確固と保証しており、全人民は人間の尊厳と権利を存分に行使して一つの睦まじい大家族を形成している」と論評している。

 しかし、現実に北朝鮮からの亡命者は、強制収容所の元虜囚も、収容所警備隊の運転士も、そして何よりも、肉親を強制収容所の苛酷な拷問で殺された在日朝鮮・韓国人も、すべて異口同音に、強制収容所内――それは時として政治犯を奴隷として扱う強制農場であったり、鉱山労働所であって、法の保護が無く、廃人同様になるほどの虐待を受けるなど、人権が全く専重されぬ実状を生々しく証言している。

 なぜ、このような酷い仕打ちが可能なのかと言えば、「人間の専厳と権利」が普遍的に保障されていないからだ。唯一の例外は、金日成、金正日体制に忠誠を誓う限りにおいて保障されるのであって、体制に逆らったり、不満や批判を述べた掛合は、確実に収容所送りとなる。

 このことは、1995年6月24日付労働党機関紙「労働新聞」掲載の評論「真の人権を擁護して」(スンジエスン・ロヨン)が「人民大衆に真なる人権を保障しようとするならば、それを侵害する反動的で反革命的な要素を徹底的にたたき潰さなければならない。反動分子達に制裁を加えるのは、人権の敵の策動から人権を守るための、、正々堂々とした主権行使である」と論じている。

 こうして、北朝鮮当局からにらまれた弱き人々は弁護を受けることもなく、収容所に送られ、飢餓と拷問の苦しみにあえぐことになる。

 同評論はまた「反革命分子達について言えば、その者達は徹頭徹尾人民の利益に背反した反逆者、売国奴達であり、人権を蹂躙した人間のクズどもだ。こんな者に人権という言葉は当たらない」と述べている。

 こうした論理こそが、スターリンによる収容所列島の惨劇を産んだ。世界の共産主義体制下では例外なく、強制収容所の悲劇が続出した。

 同じ過ちを繰り返している金日成、金正日体制は一体、敵対者や国民を何百人粛清したり、公開処刑にすれば気が済むのだろう。一体、何百万人を餓死に追い込めば、ミサイル開発を止めるのだろうか。どうか、評論員の方々に心あるならば、祖国北朝鮮の惨状に真実の目を注ぎ、世界の人々と共通した人権政策を採っていただきたい、と要請する。

 同人権宣言は、さる3月10日に「フイガロ」紙に載った「北朝鮮ある悲劇」と題したフランスの知識人による人権宣言と、同20日付朝鮮日報に載った「北朝鮮住民の人権保障と脱北難民擁護のための知識人宣言」と題した韓国の各大学の学長や知識人による人権宣言に触発されて起草された。私と人権活動家の三浦小太郎の二人で起草したしだいである。

 もちろん、正式な文ができあがるにあたっては、他の三人の呼びかけ人と、北朝鮮の人権問題にかかわってこられた「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」共同代表の小川晴久東京大学教授、ジャーナリストの萩原遼氏、大阪事務局長の山田文明大阪経済大学助教授。「北朝鮮難民救援基金」メンバーでジャーナリストの加藤博氏、李洋秀事務局長、「救え!北朝鮮民衆/緊急行動ネットワーク(RENK)」の李英和事務局長、金英達代表らの手を経た。

北朝鮮の人権解放を求める国際社会

1999年
(11月)
11日 産経新聞モスクワ特派員電によると、北朝鮮から豆満江を渡りロシアに不法入国しようとしたグループが極東沿岸地域で拘束された。男性5人、女性1人、乳児1人。「惨めな生活を強いられている。食べていく金もなく、多くの子供が毎日死んでいる。北に戻れば死を待つだけ」と述べた。

15日 ベルリンで米国北朝鮮高官協議再開。北のミサイル発射に伴う協議凍結後初の会談。米はカートマン朝鮮半島平和協議担当大使、北は金桂寛外務次官。19日に一旦終了した。

18日 北朝鮮女子刑務所体験者の李順玉さん(52歳)、崔東哲さん(32歳)母子が、李順玉さん招請実行委員会の招きで初来日し、参議院議員会館で記者会見し、北の人権解放を訴えた。「お前らは人間じやない、しっぽのない獣だ」といって虐待された体験を語った。刑務所は「人権の死角地帯」であり、収監者は6000人。日本人妻もいた。多くの人は日本からの仕送りを党幹部や保衛部の幹部にわいろとして渡すことを拒否したために収監された」と述べた。二人は20日、労働スクウェアー東泉ホール、21日大阪府中小企業文化会館でそれぞれ講演し、23日帰国。

18日 ベルリンの米国大使館で米朝協議が再開。北朝鮮によるミサイル発射の一時凍結表明後の初協議でカートマン朝鮮半島和平協議担当大使と金桂寛外務次官が話し合った。19日(日本時間20日早朝)夜に終了。核問題。米朝関係など全分野が議題。

(12月)
1日 韓国ソウル市で、「北朝鮮同胞の生命と人権を守る市民連合」(尹玄代表)と朝鮮日報が共催して、北朝鮮の人権問題を話し合う初の国際シンポジウムが開かれ、日韓米加仏英中など世界9ケ囲の代表が参加した。日本からは「守る会」の小川晴久共同代表、佐伯浩明運営委員、〔北朝鮮難民救援基金」の三浦小太郎事務局長代行、RENK」の金英達代表、高英起運営委員、「日本人を救出するための全国協議会」の西岡力事務局長らが出席した。大会は最終日の3日、強制収容所と脱北難民保護のための「ソウル宣言と行動計画」を採択して成功裏に閉幕した。(雑誌『正論』2月号に詳報)
 「宣言」は、北朝鮮の支配体制に挑戦し罪状を明確化する・強制収容所の崩壊と脱北難民の出入国を許可する法案作りの呼びかけ・中露両国が、脱北者を難民認定し、NGOが食料を届けるよう認可するよう求める・暴圧的な政権を終結させるために、各国政府が政治的、経済的圧力を行使するよう求める。
 「行動計画」の柱は、北の人権問題に世界的規模で注意喚起・人権問題を学術的に推進・NGOの国際ネットワークと専門家の育成・収容所廃止と難民の人権保護を金正日総書記に要求・中露を含む各国に脱北者の難民認定と保護を要望・国際社会が北に普遍的人権の適用をするよう主張する・国際人権ネットワークの拡大強化・各国政府への働きかけ・政府とNGOに情報協力・第二回国際会義人の参加――の10項目。

5日「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」が主催して東京・星陵会館で北朝鮮強制収容所の廃絶を求める東京国際フオーラムが開催された。「守る会」共同代表の金民柱氏が、1962年5月26日の第93次船で帰国した弟の泰元さんらを例にし、北の抑圧体制を批判。とくに9万3千人の帰国者の20%は強制収容所に、3割は教化所(刑務所)にそれぞれ入れられたと推定値を報告した。
 強制収容所体験者の安赫氏は「私が体験した耀徳収容所は映画『シンドラーのリスト』よりもっと残酷な世界だった。人間らしく生きることを収容所囚は毎日夢見ている。シンドラーに触発され映画作りを思い立った。スクリーンを通して収容所の廃絶を目指したい」と訴えた。
 北の人権解放を求めた99年3月10日の仏知識人声明の起草者で『社会史評論』編集長のピエール・リグロ氏は、ナチとソビエトと北朝鮮の強制収容所を比較し、政治犯の家族は一緒に収容されるアジア的特徴をもっている。また、グラーグとナチの収容所は閉鎖されたが、北の収容所はまだ残っている。われわれの研究は冷たい学問であってはいけない」として、廃絶を目指した様々な試みをするよう訴えた。
 ハリー・ウー(呉弘達)氏は、中国の労働改造所(ラオカイ)など共産国家の収容所と比較し「共通の政治的、イデオロギー的な基礎のために、全ての共産主義国の全てのグラーグ型の収容所は、類似の特徴を帯びています。共産主義のイデオロギーは『労働を通しての改造』というモデルを維持していることです。それは本質的特徴であり、強制労働は反対派の抑圧と政府の利益のために使われる」とその廃絶を訴えた。
 米防衛財団のスザンヌ・ショルテ女史は「世界は北朝鮮の人々のために何をなすべきか」と題して昨年4月の上院公聴会実現を報告し、今後の施策として、亡命者の証言の有効活用、直接監視ができないすべての援助の停止、国連も同調し、食料配布への監視を認めるよう主張。北朝鮮が外部世界を学べるよう創造的な政策を示す脱北難民の保護と認定、国連と各国に北が国際規約を守り、人権問題を常に上程する北の罪のない人々の救済のために行動せよ――を挙げた。
 同フォーラムでは、人道問題を日赤に委ねて日朝交渉に入るという村山訪朝団の立場表明を受け、在日朝鮮人帰国者問題が、1959年の12月14日に第一次帰国船が新潟港から出航して以来、40周年を迎えたの機に「被致者の原状回復、日本人妻の里帰り、在日朝鮮人帰国者全員の自由往来の早期実現を強く要望する」とした「日本政府に対する特別要求決義」を採択した。また、「日赤は40周年を迎える帰国事業の日本側当事者だった事実に鑑み、帰国者の生命と人権を守り、日本との自由往来の実現を追求すべきである」とした「日本赤十字社に対する特別要求決義」も採択した。

5日 拉致日本人家族の横田滋さんら5家族が新潟市で集会を開き、村山富市元首相を団長とする訪朝団が拉致問題を「行方不明者の再調査で納得し、何の罪もない子供たちを連れ出しておいて、人道問題は両国の赤十字に委ねるとは何事だ」と語り、代表団の方針に抗議した。

10日 親北朝鮮の左翼学生運動を主導してきた学生運動OBたちによる、金正日政権打倒を目指す「北朝鮮の民主主義と人権実現のためのネットワーク(NKネット)」(趙赫代表)がソウル市内で結成された。

9日の産経新聞のインタビューに対し、趙代表は「北朝鮮で起きている極度の政治的抑圧と民衆の政治的抑圧と、精神的、肉体的死に、これ以上沈黙することはできない。北の民主化なしには朝鮮半島の平和も期待できない。左右を問わず、すべての勢力が手を結び、金正日政権の孤立化と独裁体制の終息に立ち上がるべきだ」と語っている。

13日 韓国のNGO「北朝鮮難民支援委員会」は国連欧州本部で記者会見し、国連難民高等弁務官事務所や国連人権委を14日に訪れて、脱北者を国際法で定められた難民と認定して、支援の対象とする要望書を手渡すことを明らかにした。同会によると、現在、中国北東部に滞留している脱北者は10万人で、内、中国当局に逮捕されて北朝鮮に強制送達された難民は1997年に約5700人、昨年は6000人に達し、死刑や厳しい刑罰を祝せられているという。

25日 ラジオプレスによると、国営朝鮮中央通信は24日、1990年代が、北にとって厳しい試練のときだったと認める異例の記事を配信した。「旧ソ連といくつかの社会王義国で資本主義が復活し、朝鮮経済の各領域で困難を創出した。電力や原料など設備と物資不足のため、経済のあらゆる領域で生産が維持できなくなり、消費物資の需要さえ満たすのを不可能とした」として、現状は朝鮮戦争ですべて廃墟となった戦後の時期よりさらに悪化していると報道。

27日 横田滋さんら拉致日本人家族と支援団体が、河野洋平外相を訪ねて、拉致問題で進展がないならば、食料支援を行わないよう強く求めた。

29日 朝鮮中央通信と平壌放送は、日本人研究者の「スギシマ・タカシ(60歳)」をスパイ行為で拘束したと発表。元日本経済新聞社の杉嶋岑氏と見られ、平壌のホテルに足止めされている。31日付け産経新聞朝刊によると、杉嶋さんは、元共産主義者同盟赤軍派議長の塩見孝也氏(58歳)を団長とする「自主日本の会」の代表団とともに訪朝した。ビデオで撮影禁止場所を撮ったり、「よど号」グループとの会話も小型テープレコーダーで録音していた。日本人逮捕は1983年の第十八富士山丸の紅粉勇船長以来。

2000年
(1月)
2日 朝鮮労働党機関紙『労働新聞』、軍機関紙『朝鮮人民軍』、青年組織機関紙『青年前衛』の3紙共同社説は「労働党創建五十五周年の意義深い今年」は、思想重視・銃重視・科学重視路線を堅持し総進軍を進めるべき」と述べ、帝国主義の思想・文化的浸透を防ぐための闘争に言及するなど思想重視が目立った。金正日総書記の指導力をたたえ、「軍優先政治」「強盛大国建設」は従来通り。

4日 イタリアの国営テレビは、イタリアと北勧鮮が国交樹立で合意したと報じた。同国は昨年9月、ニューヨークで外相会談を行っていた。G7では初。韓国は歓迎と反応。

4日 朝鮮中央通信によると、3日付け『労働新聞』は「北朝鮮に融和戦略は通じず、そこから米国と日本が得る物は何もない。北朝鮮が米朝、日朝関係を改善するために革命的立場と自主的立場を譲ることは絶対にない」と強調した。

4日 日本時間5日未明、瓦力防衛庁長官とペリー政策調整官がサンフランシスコで意見交換。

8日 韓国赤十字社の鄭元植総裁は、国際赤十字社・赤新月社連盟や赤十字国際委員会に書簡を送り、中露国境やロシア当局に拘束され、中国に引さ渡された脱出者一家七人について、人権保護のために影響力を行使するように要請。一家は韓国行きを希望していた。

12日 中国当局は一家7人を北朝鮮に強制送還した。

13日 韓国国会は金大中大統領が指名した朴泰俊首相の任命案に同意した。これを受けて、大統領は内閣改造に着手した中で、洪淳瑛外相を更迭し、新しい外交通商相に李廷彬国際交流財団理事長を任命した。「一家7人の亡命失敗の責任を問うたもの。

15日 一家7人の韓国受け入れ失敗に強い抗議デモが行われるなど韓国世論が、金大中政権の政策に反発。韓国政府は国家安全保障会議を開いて対策を協議した。7人についてロシア当局は一時、ビザを発給した。

16日 河野洋平外相は、NHKの討論番組「日曜討論」に出演し、日本人拉致問題について「筋を通さないといけない。主権にかかわる極めて重大なものだ」と述べた。食糧支援については「先方が話し合うためのテーブルにつくことが何よりも最初。何を担保、てこにできるかが大事」と述べた。

18月 韓国の国策研究機関「統一研究院」はこのほど「北朝鮮人権白書2000」を発行し北の入権抑圧状況をまとめて発行した。白書によると、1953年の朝鮮戦争休戦以降、北に拉致された者3756人。うち454人が依然、抑留状態にある。政治犯収容所では、1986年に咸鏡北道穏城の「12号管理所」で、抑圧に不満の政治犯による暴動が発生。監視の保衛部要員を襲撃し、その家族数百人を殺傷したために、出動した警備隊と衝突し、五千人以上が射殺された。政治犯の秘密処刑や生体実験が行われた。障害者は強制的な永久不妊手術が行われている。

この人に聞く 佐倉 洋さん(51歳)(「守る会」運営委員)

 佐倉さんは、これまでアフリカ難民間題にとりくんできた専門家。一九八〇年代にケニアにあるスワヒリ語学院に留学、通算で三年余現地に滞在した経験を持つ。夫人も同じ学院の同窓生。そのなかで北朝鮮の問題に目をむけ、現在は守る会の運営委員です。共著書に『アフリカ難民』(ほるぷ社)など。

――アフリカ難民問題にかかわるきっかけはケニア滞荏中ですか。

佐倉 そうです。そこでルワンダの難民と出会って、支援の活動を始めたというわけです。

――朝鮮問題との出会いは?

佐倉 留学していた学院の星野労樹校長との出会いからです。星野校長から戦前、金九さんや呂運亨さんと会った話、いとこの主人である金斗鎗さんが北に帰国して粛清されたこともあつて、強く北朝鮮を批判していました。アフリカの著名な政治家たちに、金日成は偽物と北の実態を伝え、国連で北朝鮮支持にまわらないように促していました。もう一人、ナイロビの国際会議に来ていて出会った相馬信夫カトリック司教の影響で、日本でカトリック正義と平和協議会の韓国委員会に参加して 韓国・朝鮮の歴史の学習会に参加したりしていました。十九八七年に韓国を初めて訪れオリピック前の都市開発て立ち退きにあう人々を取材したこともあります。

――守る会のことはどこて知ったのですか。

佐倉 発足のときの総連の妨害による会の混乱の記事を見てからです。その後本郷て開かれた会に出ました。九四年の春頃でしたか。しかし、ルワンダの例の大虐殺か起きて現地にボランティアに行ったりして九五年に帰国しました。浪人後、日韓の専門誌「フリーライフ」の編集室長になりました。ちょうど北朝鮮の飢餓問題が起きアフリカにかかわっていた救援団体や国連も北朝鮮に目を向けました。

――帰国者の問題ではどうお考えてすか?

佐倉 帰国者については帰国そのものか間違っていたというよりも、帰国後、海外を含めて移動の自由が奪われたこと、北の失政の犠牲になってしまったことか大きいと思う。日本人妻ばかりてなく、帰国者の自由往来では日本での関心を大いに喚起したい。

――最後におっしゃりたいことは?

佐倉 朝鮮半島の専門家てはない私にどれだけこの問題にかかわる必然性があるのか分かりませんが、あくまて一人の人間としてかかわっていきたいと思います。何時の日か、陸路で38度線を超えて、そのままアフリカまて行けたらという思いもあります。チマ・チョゴリ事件など日本国内の差別も問題ですが、北の人権抑圧に声をあげないのはどうでしょうか。北への人権批判は、いわゆる反共的な姿勢とも異なっていいはずです。難民やミサイルへの恐怖で援助するというのも身勝手です。北朝鮮のふつうの人の思いを大切にすることが必要ではないでしょうか。

(聞き手 荻原 遼)

映画と講演・パネルディスカッション 大阪12・18集会「今振り返ろう!40年前を」

 在日朝鮮人の帰国第一船が出てから、ちょうど40年。当時の関係者が一堂に会して、講演と映画、パネルディスカッションを行いました。主催は北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会・関西支部。

 講演は帰国第一船が出た1959年、北朝鮮で受け入れにあたった迎接委員の呉基完氏(65年韓国に亡命)。映画は、帰国運動をテーマに1960年に作られた『海を渡る友情』(望月優子監督)。なおパネルディスカッションでのパネラーの発言要旨は、次号の『カルメギ』に掲載予定。

呉基完氏の講演

 1959年12月14日、976名の在日同胞を乗せて新潟港を出た帰国船には、中に日本人妻も相当ふくまれていました。そして16日午後4時に北朝鮮の清津の港に着きました。

 あの時私は、在日同胞たちの受け入れ事業をする「迎接委員会」という、委員長は金一・第一副委員長で、私は彼の補佐官をしていたので、私も迎接委員として清津港に出向いていました。

粛清の時期に帰った帰国者

 先ほど映画『海を渡る友情』でも出て来ましたが、59年当時は日本も今より、経済面とかいろいろな面で遅れた時代じやないかと思われました。北朝鮮は尚のこと、一番つらい時期があの時でした。政治的にそうだし社会的にもそうだし、政治的には金日成に反対する反対派、南労党、延安派、ソ連派の人たちが金日成に対して反対というわけで、ほとんど全部、粛清した時期があの時期。その最高時が59年。あの時期3年間、北朝鮮人民たちの思想改造運動事業を行った。

 私も含めて、誰もが、毎日自己批判をしながら、お前の思想は金日成を支持するのか、反対するのか、白か赤かが問われた。金日成を支持するということになれば助けられるし、反対と出れば容赦なく全部粛清、粛清というのは、処刑或いは炭坑とか山奥に追放する、色々な事を含めて粛清という。とても不安な時期があの時であった。

 経済的には、58年8月に金日成の名前で「社会主義的改造は終了した」という声明を出した。社会主義改造というのは、個人的に商売をしたり出来ないで国家経済になる。だから市場なんか全部無くしてしまつた。国家が徹底的な配給シネテムに改造する時期でもあった。にわかに食料が無い、肉など買うことが出来ない。経済的にどん底に焔る時期が帰国の始まった時期だった。

 社会的には心理的な動揺が起こって(どんなになるかという不安)いた。そんな時期に同胞たちが「祖国に帰りたい」という、帰国運動を始めた。金日成首相も初めは安易に受け入れなかった。「ややこしい事になったあ」というわけです。

 共産主義者の立場は、北朝鮮は日本を「敵」とみなしている。だから敵国の中で共産主義運動をするのが筋、日本の中でその運動をしないで帰国運動を始めたいう事は望ましい事でない、という立揚でした。

社会主義の宣伝に利用

 帰国運動が本格的になったので、北朝鮮では「仕方がない」しかし受け入れる場合には何とかプラスを出さなければならない。

 その第一のプラスが、「資本主義の社会から社会主義の社会への民族の大移動」これは政治的プロパガンダ(宣伝)として、大きな利益を得た。世界中に「ざまあ見ろ!資本主義社会で公平に生きられないという在日同胞たち」が一人二人でなく、何十万も帰って来る。世界に効果的に宣伝する好材料となった。

 これは、社会主義がそれくらい優秀な偉い社会で、日本の資本主義社会というのは、腐った悪い社会、非人間的な社会だから、在日同胞は朝鮮人という民族的な差別を受け、ひもじい生活に耐え切れなくて、祖国に帰ってこようとしている。これは受け入れなければならないと北朝鮮人民に宣伝したわけです。

 私たちも貧しい、ひもじい生活をしているけれども私たちよりも日本で貧しい生活をしているのではないかと。だから祖国に帰って来るのではないかと。心から歓迎しようじゃないかという雰囲気が人民たちの間にあふれて来た。

 そして第一次帰国船が新潟を出港し、清津港に着いた。私たちの迎接委員は、ソフト(中折帽)を被っている(北朝鮮では当時、局長以上に配給されて使用できた。幹部の印)。埠頭に並び、そのあとに二千名余りの人民が並ぶ。北朝鮮では命令一つで一時間後に10~100万人でも動員することは、わけも無い。

 日本で乞食みたいな人が帰って来る。歓迎するために花束を持って来る。(冬で花などないから、-紙で作る)在日朝鮮人が日本からどのようにして帰ってくるのかな)、と。

 12月と云えば、北朝鮮では本当に寒い。16日はみぞれが降っていて、清津港に動員された人たちは「私たちと一緒に幸福な生活を送ろうじゃないか」と待っていたのでした。

 船が近付くにつれて、船の甲板に立ち「金日成万歳」と帰国者が唱えている。後で分かったんだが、帰国者たちは朝鮮総連の宣伝により「地上の楽園」だと、みんなが平等に、とても幸福に暮らす「地上の楽園」と信じて帰って来る人たちであった。

『三八度線の北』のうそ

 これも後で分かったのだが、寺尾五郎という人が『三八度線の北』という本を日本で出版、前に朝鮮を訪問した時、金日成にも会ったんですが、どういうわけか、その本を読む限り「地上の楽園」かも知れないという考えを持つような内容で書いている。私もあの本を後から読んだのですが、本当に80-90%が全部ウソ。それは仕方がないでしょう。訪問者が来れば平壌では必ず良い待遇をする。帰る時は念を押す。「日本に帰ってから北朝鮮の悪口を言ってはならない」と。そして北朝鮮の実情を知るような事は全然見せないで「私たちが作った統計に従って書きなさい」という。北朝鮮が渡した統計資料に基づいて書いたのが『三八度線の北』です。特に在日朝鮮青年たち、大学生たちは「金日成総合大学」に入学できると、そしてソ連にも留学でき、思い切り学問もできて、社会主義逮設に役立ちたいと。率直に云って「金日成総合大学」に入学できたのは朝鮮総連幹部の子供で、他は労働者として配置した。朝鮮労働党の意思がそうだから、私たちも仕方なくそのように配属した。

「そんなはずでは」双方が仰天

 帰って来る人たちは勘違いをしていたのです。船が見えるように近付いて来たら、私たちは前に並んでいて彼ら帰国者の表情を、埠頭に集まった北朝鮮の人たちも「帰ってきたのは間違いではないか」「あわれな貧乏人なはず、何かの間違いでは」というのを私たちも感じた。

 船の上でも下でも仰天して「これは何かの間違いだろう」と。タラップを降りて来た若い人達は「参ったなぁ。こんなはずじゃない」と日本語で話し合っていた。私は日本語を話すのは難しいけれど、聞く事は出来た。そのような言葉を吐く者に「おいお前、今なんと言ったか、まあ今日は初めてだから大目に見てやるが、今後そのような話を口にした時は覚悟しておけ」と言った。あの時は埠頭で歓迎会を開くように計画されていたが、あのような状況では歓迎会どころではない。そのままバスで招待所に向かった。

 一週開か十日くらい招待所で「今までどんな生活をして来たか、思想的立場、財産はどのくらい持ってきたか」などと取調べをしたのが、あの一週間だった。部屋の割当ては家族単位で、四、五名で一つの部屋に入れた。

 金日成首相から「帰国者は初めてだから特別に待遇を良くしろ」という指示で、当時米なんか常食としてない状況で毎食米の飯を出し、肉汁、鱈子などで、あいまには菓子や果物を出した。

 朝鮮では誕生日など特別にしか出さない「レンガ菓子」。堅いからそんなあだ名の菓子を間食として与えた。驚いた事にはこれを放り出す子供たちがいた。私たちが一年に一、二度しか食べない物を何という事か、出鱈目な社会で育った人だから一年位は大目に見てやれと。

 四階のビルに住まわせていたが、夜に各戸を私たちが訪問し、扉を開け「何か不自由はないか」と聞いて廻った。

 一家族で大きな声を出して泣いている。祖国に帰って来た感激で泣くのは分かるが、それにも程がある。今後は泣くなと。するとすすり泣いている。

 財産を相当持って帰った者が第一船で帰って来た。乗用車は三十名ばかり、オートバイは数知れないくらい持ち帰った。朝鮮総連の幹部が「地上の楽園」だから自転車なんか恥ずかしいから持って帰るな、当時北朝鮮では自転車は尊いものでした。

 小さい子供たちは「母ちゃん、家に帰ろうよ」と、母は「今から家はこっちだよ」と話す。子供はなおも「いやーいやー、家に帰ろう」と。私たちも心が痛みました。あの子たちも今は四十代の後半でしょう。

日本人妻の運命~検徳鉱山事件

 日本の国籍を捨てないでいる者が1,800名位あるという話です。日本の国籍を捨てて、国した日本人妻もいる。二、三か月位すれば、日本にかならず里帰りするという朝鮮総連の宣伝を信じて40年、今まで実現しなかった。昨年に第2次まで十余名が里帰りしただけです。ても絶対に悪口はいわない。金日成、偉大な金日成の宣伝をする自信がある人が、その多くは労働党の党員が選ばれている。そして何ヶ月か訓練して、これならば安全だといえる人たちばかり十何名を里帰りさせた。北朝鮮の悪口、生活実情などは全然語らなくて、北の宣伝だけをするようでしたが、それを選ぶ条件として必ず、北朝鮮の特別な部門で働いている幹部を子供に持つ親です。私の知る限りでは全面的、里帰りは絶対に無いと断言します。どうして断言するかというと、日本人妻たちの里帰り問題が特別に提起された事件があります。63年か64年の頃に、検徳鉱山問題が起こった。この鉱山は露天堀で、2万名くらい働いている大きな鉱山で、帰国同胞もそこに何百名か労働者として配置した。日本人妻も相当含まれていた。検徳鉱山は特別に先進的な鉱山で、金日成が度々現場指導に行く対象となっている。帰国事業の真最中に現場指導に行った。露天鉱山だから地上で掘っている。その指導最中に女たち20名くらいが突然、金日成の前に集まり「私たちは日本から帰って来た日本人妻です。日本に里帰りするように許可して下さい」と訴えた。

 裏表のある金日成は笑いを浮かべながら「そうか、里帰りを必ず実現するように取計らう」と約束。現場から帰ってきて、あとで「けしからん」となった。次の日彼女らは何処かへと連れて行かれた。

 日本人妻が(北朝鮮に都合の悪い内情を)なにも言わないという自信がつくまで、全面的な里帰りは絶対にありえない。日本から仕送りのない帰国者は、北朝鮮の人民たちよりもひどい生活をしている。北朝鮮の人民たちに何らかの影響を与えると「不平不満、反党分子」となり、平壌郊外に帰国者を特別に収容する「特別収容所」が設けられたことがある。「帰国事業」は帰国の同胞はおろか、日本人妻の人生をも完全に狂わせたのです。

(中見出し・文責 関西支部 八木隆)

「在日の不幸」の原点 石高 健次(朝日放送報道プロデユーサー

 昨年暮れ、大阪市内で北朝鮮帰国事業四十周年の記念集会が開かれ、一本の劇映画が上映された。事業開始の翌一九六〇年に制作された「海を渡る友情」だ。

 食堂を営みながら慎ましく暮らす一家が迷いながらも北朝鮮への永住帰国を決意する。在日朝鮮人であることを初めて明かし、希望に燃えて北朝鮮へと向かうところで映画は終わる。

 私のすぐ後ろの席に、帰国者の兄を八五年スパイ容放で銃殺された在日朝鮮人女性がいた。会場に灯りがともって旧知の彼女と目が合うと「みんな、騙されたんやね」とポツリと言った。

 その顔に出口のない悔しさがにじんでいた。会場の誰もがすすり泣いていた。そのとき私が強く感じたのは、人間とはこうまで幻想の虜(とりこ)になってしまう存在なのかということだった。少なくともあの時代の在日は…。それによって人生を破滅にいたらしめることになる幻想に突き進んでいった帰国者たち。

 日本での差別から逃れ、社会主義祖国を建設するとは、それほどまでに魅力的なものだったということなのか。

 集会には当持北朝鮮政府におって帰国者受け入れの実務賀任者だった人物が亡命先の韓国から招かれ、圧殺について講演した。帰国者九万三千人.当時の在日コリアンの実に六人に一人だ。その2割近くが行方不明だという。

 地上の楽園といわれたその国で、言いたいことを言えば収容所に入れられ、拷問で殺され、今も飢えている。もうひとつ、帰国者の悲劇の奥深さは、彼らが未だに人質であるということだ。日本人拉致事件では、スパイが帰国者の写真や手紙を懐に日本へ潜入、身内脅してして犯罪に加担させている。また、在日の多くが生活物資を送り続けているうえに、北に対して言いたいことも言えないでいる。 会場にいた初老の男性が私に言った。「あの帰国事業が在日の不幸の出発点なんです」

 事業の主体となった総連は、行方不明者の調査を本国に要請すべきだ。

「私も人間としてなにかしたい」一主婦から「守る会」への手紙 小野美智子

 はじめてお便り申し上げます。

 萩原先生の『ソウルと平壌』『北朝鮮に消えた友と私の物語』、黄長燁先生の「回顧録」、「続編」の『狂犬におびえるな』、それから同じ文芸春秋社の文庫で『帰国船』『闇からの谺(上)(下)『北朝鮮脱出(上)(下)』『今、女として(上)(下)』『忘れられない人』等の読者です。

 先日それらの本をもう一度読み返していましたら巻末に「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」のある事を知りました。『帰国船』の中に電話番号がのっていました。さっそく連絡しましたが留守番電話のテープが流れたので、私の番号と、「私でも人間として何かできるでしょうか」と吹きこみました。二週間たちますが電話がかかってこないので、文塾春秋社に聞きましたら、手紙を必ず萩原先生に届けてくださると言ってくださったので、失礼かと思いましたがどうしても私の小さな声であってもお伝えしたく、萩原先生がお忙しい方だと承知していますが書いている次第です。

新聞は伝えるべきことを伝えない

 北朝鮮のことはテレビ、新聞などでほとんど報道しませんし、しても米朝会談を少し伝えるくらいですね。李英和先生がだいぶ前にテレビで伝えてらした事もありましたが。

 私は共産主義も社会主義もよくわかりません。まして国と国との利害関係も首をかしげたくなる事ばかり。ようするに真実をふみこんだ形で伝えてこない。どの報道機関も似たりよったり。批判を受けても、今、伝えるべきことを正しく分析して伝えるメディアが無いことが残念です。新聞「赤旗」なら少しわかるなと思い一月から読んでいますが他紙よりは国民の声を取り上げているなと思う所です。

 ではどうやって知るかと言うと本しかありません。私の読んだ本はどれも真実を伝えていると思いました。この問題(北朝鮮の事)を対岸の火、他国の事とどうしても思えませんでした。

 理由は少し長くなりますがお付き合いくだされば幸いです。
 私には何人かの在日の朝鮮、韓国のお友達がいます。それと私の幼い頃親切にして下さった朝鮮の女性の記憶がそうさせるのだと思います。

 私は昭和二十八年生まれの今年四十七歳の主婦です。およそ四十年前、小学校二年の夏休みだったと思います。鹿児島の家と土地を処分し、職を求めて長崎へ一家でたどりついた時の事です。長崎の港に一ケ月ほど住んでいました。住所が決まらないので滞在していたと言うほうが正しいのですが、父は職さがしに、母は住まわせてくれる家をさがしに出掛けて、長女の私と二人の弟は夕方まで港近くで遊んでいなければなりませんでした。毎日三人でかたまっているのをふしぎに思ったのか、おばさんが「トコカラキタ」「カアチャン、イナイネ」と言いました。それも最初は聞きとれないので何度も「エツ」と聞き返して答えました。

やさしかった朝鮮人のおばさん

 おばさんは聞いた後お菓子をいつも三人分くれました。いつも母に、知らない人に物をもらったり、ついて行ってはいけないと、きつく言われていたのでお菓子をもらう時躊躇したら、おばさんは私の手にギユーとおしこんで「タイチョプヨ、タイチョプヨ」とくれるのです。いつもくれるので母に言わないでいるのはいけないと思い伝えると、「ああ、それはたぶん朝鮮の人ね」「よかったね、明日いっしょにお礼に行こう」と母は言いました。朝鮮の人って、何のことだろうと思っただけでした。次の日おばさんの家(店のような)、小さな食堂のようでしたが、母がお礼を言って、田舎の荷物に有った、イモ焼酎をさし出すと「オクサン、イイヨ、イイヨ」と笑って受け取りませんでした。母がこんなものですみませんと言ったらやっと受けとってくれて、「ネェチャン、オオキ、メネ」(大きな日のことと思う)と言いました。私は目が大きいのを理由にいっも“ドングリの眼”といじめられていたので、おばさんの「大きな目ね」と言った言葉が素直に喜べませんでした。母が私の頭を少し押して、お礼を言いなさいと言うので消え入りそうな声で「アリガトウゴザイマス」と言ったのを覚えています。その時のようすを今もモノクロ映画のように思い出します。私が生まれてはじめて出会った朝鮮の人でした。

〝絶対に北には帰ってくるな〟と帰国者

 話は変りますが、総連傘下の金融関係に以前勤めていた、何人か仲良くしている人達がいます。彼や彼女たちに朝鮮、おもに古代朝鮮から李氏朝鮮までの話をしたら、「そんな歴史は習っていない」と言うので、私はどうして自分の国の歴史を知らないのかと聞くと、そう言う事は教えないし、金日成に関する革命の事から始まると言うので、金達寿さんの本とか、鳥越憲三郎著の『古代朝鮮と倭寇』、李方子著『流れのままに』を読んでみてはとすすめました。

 そのころから彼女、彼たちが北朝鮮に親戚訪問した時の話をしてくれるようになりました。

○案内人がいっしょに泊まって行く事。
○案内人の目と耳を避けながら「日本にいなさい。まちがってもこちら(北へ)に帰ってくるな」と言われた事。
○別れる時、いくらでもない砂糖(白くない)を買って渡すと、涙を流すおばさんの事。
○船で帰ってくる時の重い心の事。

 このような実状を私は一九八六年頃には知る事ができていました。でも何も出来ずにもう十年余の歳月が流れてしまいました。

 萩原先生の『ソウルと平壌』の中に有る朴聖姫さんの歌のように“あなたも、わたしも、もう若くなくで、あなたも、わたしも、まだ生きている”この歌詞が胸にささります。この問題に在日の人も日本人も決して日をそむけてはならないと思います。人間の心に、魂に訴えたいです。

 私の作った拙い詩二篇をお送りします。(2000年2月1日)

 
“沈黙の罪”
小野美智子

凍りつく
雪原の中 君がいて
囚われ人の 君がいて
吹きすさぶ
嵐の中 君がいて
うつろな瞳で 君がいて
飢餓の中 君がいて
アリランもとどかぬ場所に 君がいて
ぬくぬくと
飽食の中 僕がいる
罪人たるは君でなく
傍観する僕だろう
黙殺する僕だろう
今もなお
抑圧の中 君がいて
暗澹と声なき民の 君がいて
オフレコの下 君がいて
溢れ出るメディアの中 僕がいる
貧しき者は君でなく
迷走する僕だろう
沈黙する僕だろう

 
“願い”
小野美智子

窓を開けてください
ほんの少し
外を見せて下さい
ほんの少し
明かりをつけて下さい
ほんの少し
希望をもちたいの
声を出して笑いたいの
あの山の向こうに
あの海の向こうに
手を振る人たちがいる
窓を開けて
答えたいの

関西支部講座のご案内

 元在日朝鮮総連の朝鮮大学校で教員をしておられた朴斗鎮(パク・トウジン)先生をお迎えし、「在日コリアンと人権思想」と座して講演をしていただきます。

 「人権思想は人類共存共栄の世界基準である」「在日コリアンの人権運動の問題点と今後の課題」などを中心に、これまでの豊富な学識と実践を披露していただきます。

       記

とき 3月4日(土)午後2時~5時
ところ 大阪経済大学G館
大阪市東淀川区大隈2―2―8
阪急京都線上新庄駅下車徒歩10分
大阪市バス井高野車庫行き
   大阪経大前下車すぐ(便利です)
(大阪駅前、扇町、天神橋五丁目、
天神橋筋六丁目などで乗車できます。)

朴斗鎮先生略歴

・1941年大阪市で生まれる。
・生野小学校、生野中学校を経て、1960年3月大阪府立生野高校を卒業。
・朝鮮総連傘下の朝鮮青年同盟で2年間活動する。
・1966年3月、朝鮮大学校政治経済学部卒業後、朝鮮問題研究所所員として2年間在籍。
・1968年4月から1975年2月まで朝鮮大学校政治経済学部教員。
・その後(株)学芸堂書店、(株)ソフトバンクを経て経営コンサルタントとなり、現在朝鮮問題研究家を兼ねる。

著書『北朝鮮その世襲的個人崇拝思想

 -キム・イルソン・チュチェ思想の歴史と真実一

    社会批評社発行 TELO3-3310.0681

李順玉さんの手記の英語版が出来ました。

(邦訳版は「北朝鮮泣いている女たち」 取り急ぎご紹介致します。)

NEW RELEASE FROM LIVING SACRIFICE BOOK.COMPANY

Eyes of the Tailless Animals

Prison Memoirs of a North Korean Woman

By Soon Ok Lee

“At the moment the officer announced my release in front of the

prisoners, the eyes of all six thousand ‘tailless animals’ stared at

nle. Their eyes were telling me, ‘When you get out of prison, be

a witness for us. You qre,not going out just to live a better life,

but to tell about the real hell that exists inhere: Theywere

begging me to tell about their faith and all that they were

sufferillg. I can never forget the sight of those pleading eyes/I

On October 26, l986, Soon Ok Lee wa? en]’oying a peaceful

morning at work in Communist North Korea when her misery

began. As supervisor of the material distribution center, she was

summoned outside to speak to the bureau chief, but was quickly

s110Ved into a car and whisked to the train station. She did not

return to her family tllat night. In fact, she would not see her

husband alive again. Instead, she was taken to prison where she

endured six years of inhumane treatment. Soon Ok Lee learned

that her “crir11e” Was refusing to satisfy the greed of a

government officer.

Soon Ok Lee did not know the Lord. While in prison, she

witnessed the horrendous tortures and mass killings of the

Body of Christ, and could not understand why they stubbomly

refused to bend to the government’s demands to deny Christ.

Wouldn’t it save them from further persecution? She later came

Tn 11ndpT.stand tTlejT STeadfast fahtl after e.qCaPing to Sn11th Korea

where she found the Lord.

A mustiead for anyone desiring a, Slim-i)Se inside the pfis-on

system of North Korea A considered one of the most isolated

countries in the world.

Soon Ok Lee was born in 1947 to a privileged family in North Korea. She eagerly joined the

Communist Party and distinguished herself as a young woman by becoming the supervisor

Of the material distribution center. Despite her unwavering devotion to the Party,

greedy Communist officials had her imprisoned on trumped-up charges. She survived six

years of brutal treatment in prison, and, with her son, managed to escape to South Korea in

  1. Today Soon Ok Lee speaks on behalf of the persecuted church and on human rights

issues in North korea.

Trade Paperback $10.OO, 16O pp.

JSBN: 0-88264-335-5

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LIVING SACRIFICE

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A dt1/isioTt Of me Voice of thte Martyrs

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(800) 747-008S

?` Retailers, ask forext. l74.

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Fax: (918) 338-Ol89

Emai1: LivingSacrifice @ vom-usa. org

編集後記

●一年でいちばん寒い季節ですが、会員のみなさま、お変わりありませんか。2月1日発行の31号が2週間以土遅れましたことを心からお詫びいたします。編集の私が1月30日から一週間ひどい咳と熱でダウンしたことが、ご迷惑をおかけした最大の原因です。

●今号は、昨年12月5日の東京フォーラムの報告をはじめ、12月18日の大阪集会など、守る会の活発な動きの報告を中心に編集しました。

●東京フォーラムの報告集として各発言者の講演内容は『生命と人権』の特別号として4月上旬刊行の予定です。

●前号の30号は関西支部の会員により版下作りと印刷をすべて自分たちの手でおこないました。今号は関東の全員でパソコンによる版下作りを、印刷は東京都立多摩社会教育会館の印刷機をお借りし、5、6人の会員の手で格安の値段で印刷できました。ご協力に厚くお礼申し上げます。

●次号32号は総会をめどに正常通り4月1日発行をめざします。総会のために会のあり方その他でご意見を寄せて下さい。 (萩原 遼)

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