かるめぎ No.40 2001.08.25

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会報『かるめぎ』の過去号を、旧サイトから、順次こちらにアップしていきます。この機会に、過去の『かるめぎ』を通して、守る会の歩みを知っていただければ幸いです。

帰国事業公判

歴史的な第1回公判の日(7/27のドキュメント)

かるめぎNO.40 帰国事業公判

第1回公判に多数の傍聴者

 金幸一さんが、朝鮮総連を訴える裁判の第1回公判が7月27日、東京地裁527法廷で三輪和雄裁判長のもと行われた。傍聴席の40席は満員で、あらかじめ確保していた20枚の傍聴券では足りず、一

般傍聴席で傍聴する原告側支援者もあったほどだった。一方、総連側は10枚確保したようだが、実際に出席したのはその半分にも満たず、裁判そのものを無視する姿勢がうかがえた。総連側弁護人も

主任格の床井茂弁護士が欠席、3名が出席しただけだった。公判では裁判長から原告側に「時効」に関して説明を求めるコメントがあったほか、次回公判を9月14日(金)午前11時に東京地裁527法廷ですることを決めた。

「時効は債務不履行訴訟なので問題ない」と藤森弁護士

 当日夜には都内で報告集会がもたれ、40名の支援者が集まった。集会では、藤森弁護士から公判までの、裁判所との交渉経過が話され、朝鮮総連の住所の確認や、支援団体のあり様まで問い合わされたという。また時効の問題では、交通事故などの民法上の不法行為を争う3年間ではなく、契約不履行を問う、「原告が権利行使できるようになったときから10年」というのにあたり問題ない。つまり、日本への渡航を止められていた金幸一さんが再び日本にもどれた 1995年からでも6年しかたっておらず、裁判が可能であることを知ってからでは1年しかたっていないからである。

 また参画契約といった訴訟の中身については裁判長から質問がなかったのでむしろ理解を得ているのではないか、と語った。そして帰国事業とのかかわりを否定する総連からの答弁書については、40日間の教育、朝青などが新潟までの移送を受け持ったことなどで世話をした事実は否定できない、このための具体的な資料と証拠をできるだけ集めたい、と協力を呼びかけた。

 萩原遼共同代表からは、「大変、大きな手ごたえを感じた」と感慨が述べられた。そして、金幸一さんという原告が見つかり、藤森弁護士から時効の壁を破る民事訴訟の契約の概念が提案されたという、裁判にこぎつけるまでの経緯が紹介された。また帰国事業は日本政府の責任とする総連の言い分に対しては、「帰国事業は日本人の援助なしには成功しない」との金日成首相の演説、「帰国事業は我々がおこした運動」とした韓徳銖議長の演説、総連の第15回拡大中央委員会(1958年10月8日~10日)でも帰国事業の推進が決まっていたことからも総連のかかわりは明らかと反論した。さらに「言わば総連は旅行代理店にあたる。現地の危険についての注意事項をお客に知らせ、安全処置をとる義務を怠っていたと言える」などと分かりやすく説明した。

「総連関与は明らか」と原告の金幸一さん

 金幸一さんは、「帰国にあたって40日間、総連愛知県支部で教育を受けたし、金日成総合大学に行けることになっていたのに、夜寝ていてもナンキン虫が落ちて来るような、とても人間の住む所ではない北朝鮮の雄基の工場にやられたのはおかしい」。そこで「脱出を決意、10月下旬、左腕を骨折しながらも凍てついた38度線を歩いて突破した」。その後、「日本に行って在日の人に北朝鮮の話をするつもりだった」が、韓国当局にとめられた。今は「死ぬ前に北の話をしなければならないという心境だ」と打ち明けた。

「次は私も原告に加わる」と金民柱共同代表

 金民柱共同代表は、「在日の気持ちと金幸一さんの気持ちが一致した。勇気ある決断を讃えたい。必ず続く人が出て来るだろう、私も続く。また帰国事業では、金のある人の子弟が狙われた」と裁判の意義を評価し、支援を表明した。

 また最近、北から帰還した同じ帰国者であるAさんは、「帰国者は口では言えないほど苦しんでいる。北は人間を踏みつぶし、努力も出来なくさせる。総連は良い写真で『地上の楽園』を宣伝して、反対派を行かせた」などと発言した。

 ある参加者からは、「総連という組織は法的には幽霊団体で、法人格がなく組織としては財産も所有できず、傘下団体の長の個人所有になっている。今回の裁判では総連とは何なのかが日本で初めて法律的に争われる。また人権団体としてふるまっているが人権蹂躙は日常茶飯事である。」などという発言もあった。

 さらに別の参加者は、「一般の日本人には『朝鮮人同士』の争いとしか映らない。日本人の責任も訴えていく必要がある。帰国運動を応援したいわゆる進歩的文化人の道義的な責任は問える」とか、「みな勝手に帰国したのだろう、と言われると一面ではその通り。人権が保障されていれば北から逃げる必要はない。では、なぜこういう問題が起きるのか、北で人権が損なわれている事実を説明する必要がある」と提案した。(佐倉 洋:運営委員)

人権蹂躙で総聯を訴える裁判 小川 晴久 共同代表

 1959年12月から1984年までの25年間に日本から北朝鮮に移住した9万3千人の「帰国者」ほど悲劇的な人たちはいない。希望に燃え、または説得され、総じて祝福されて帰国した人たちであった。ところが結果としてとんでもない国に、彼らを送り込んでしまったのである。今だからハッキリ言えるのであるが、送った側(祝福し、説得して)は大変な調査不足であった。明るい面しか見ず、暗い影の面を見る目を持っていなかった。

 帰国者および帰国事業(運動)の悲劇は、帰国者の大半が帰ったあとの1967年から北朝鮮が唯一思想体系をもつ全体主義国家に変質したことによって決定的になった。唯一思想体系(金日成の思想だけを知ればよいというイデオロギー)に抵抗したものは山の中の強制収容所に送られたが、多くの「帰国者」が受難した。1979年から家族訪問ができるようになったが、北を訪問した親族は北で見聞したことは日本で口外しないという誓約書を書かされ、口を封じられた。「帰国者」を人質にとられたためである。朝鮮総聯は今日まで人質政策に加担し、家族訪問者の選別を行ってきた。帰国者の状況が日本に伝わらず、その状況が一向に改善されない半分の責任は朝鮮総聯にある。なぜなら帰国者と日本にいる家族の人権擁護のために働く責務(総聯の綱領第3条参照)を全く放棄し、北朝鮮権力の出先機関になり下がってしまっているからである。

 残念ながら総聯も朝鮮赤十字会も人の生命をなんとも思わない金日成・正日親子を絶対化する北朝鮮と体質が同じになってしまった。第1回公判の夜の報告集会で強調されたことの一つは、総聯には人権がないということだった。日本国内の人権侵害とは闘いながら、北朝鮮(「祖国」)内部の人権抑圧と闘わない、このような組織に堕してしまった総聯を帰国者とその家族の立場に立って告発する裁判が始まったのである。これは内政干渉ではなく巨大な人権闘争である。

守る会の総力をあげて闘いぬく裁判 萩原 遼 共同代表

 朝鮮総連のおこなった「帰国事業」の責任を問う歴史的な裁判は7月27日におこなわれました。予想された総連の大傍聴団もなく、1人か2人の偵察員を送りこんだ程度でした。

 原告の訴状にたいする被告朝鮮総連の答弁書も逃げの姿勢が目立ちます。あろうことか「帰国事業」は日赤に委託した日本政府の事業であったという詭弁で逃げをはかっているのです。これが詭弁であることの一例をあげましょう。徐万述第1副議長(現議長)が1999年12月14日、帰国実現40周年記念在日本朝鮮人中央大会でおこなった記念報告です。

 裁判の中で総連の詭弁は事実に即して完膚なきまでに反論されるでしょう。

 6月4日に原告金幸一さん、原告代理人の藤森克美弁護士が訴状を提出して以来、新聞やニュースで知ったという人から強い反響が寄せられています。「待ちに待ったこのときを迎え胸が熱くなった」というのは、息子を帰国させ40そこそこで簡単な病気で死なせた80歳をこえた老父。息子の無念をはらしてほしいと切々と訴えています。私たちもなにかお手伝いしたいと私の自宅に電話を下さったのは元民団中央本部の事務総長をされた呉敬福氏。80歳ですが、ご夫妻で7月27日夜の支援集会にご出席下さいました。

 いま守る会は千人の文化人・知識人に支援を訴えたのをはじめアピールを各地に送り、支援とカンパを呼びかけています。20万円のカンパを下さった方など、これまでにない大きな手ごたえを感じさせます。守る会としても山田文明事務局長を本部長とする裁判推進本部を設置し、総力をあげて支援することを決めました。いよいよこれからです。どうかよろしくお願いいたします。

原告金幸一さんの訴状に対する被告 在日本朝鮮人総聯合会の答弁書(要旨)2001(平成13)年7月27日

第1 答弁にあたって

 本件訴訟は、訴訟の形を借りて、被告在日本朝鮮人総聯合会、ひいては朝鮮民主主義人民共和国(以下「共和国」)に対する誹謗中傷を目的としたものであることは、訴状の記載の上から一見明白である。

 原告の権利主張を裏付ける法律構成については「帰国契約」または「参画契約」に基づく保護義務違反という、趣旨不明かつ荒唐無稽なこじつけを展開する。しかも原告が帰国したとする日付(1961(昭和36)年6月12日)から本件訴訟提起までに既に40年の歳月が経過しており、消滅時効が既に完成していることから、原告の本件請求は主張自体失当のものであることは、訴状の記載内容自体から、明白である。

 すなわち、本件訴訟は、原告の権利実現を意図したものではなく、訴訟を提起し、これをマスコミを通じて宣伝することそれ自体を目的とした、「ためにする訴訟」、政治的な宣伝のためにすることを目的とした訴訟である。

 言うまでもなく、我が国の裁判所を、このような政治目的に利用(悪用)することは、裁判制度の目的に反するものであり、許されるものではない。

 被告は、まず第一に原告(及びその支援者ら)のあまりに露骨な政治的意図を指摘するとともに、御庁がこのような原告の政治的意図に利用されることなく、実体上の審理に立ち入ることなく可及的速やかに、原告の本件請求を早急に却下もしくは棄却することを望むものであり、特にここにその旨表明するものである。

第2 在日朝鮮人の帰還事業について

== 略 ==

第3 本案前の答弁

1 本案前の答弁の趣旨

 原告の訴えを却下する。訴訟算用は原告の負担とする。との判決を求める。

2 本案前の答弁の理由

(1)原告の本件請求は、法律上の争訟に当たらない。

 本件訴訟は、形式的には原告被告問の「帰国契約」または「帰国契約」上の義務違反を理由とする債務不履行に基づく損害賠償請求の形を取ってはいる。しかし、その実質は、原告が共和国に帰国したことを含めて、多数の在日朝鮮人が共和国に帰国した「帰国事業」そのものの是非についての判断、さらには共和国における帰国者の処遇の是非を争点とし、その点に立ち入らずして原告の請求の当否は判断することができず、しかもその価値判断それ自体が、訴訟の帰趨を左右する不可欠の核心的部分となっている。

 ところが、そもそも原告が問題とする在日朝鮮人の共和国への帰国事業は、我が国政府が、居住地選択の自由その他人道上の理念に基づいて、日本赤十字社に委託して行った我が国政府の事業であって、その是非を審理し判断する権限は、司法府たる裁判所には、もともとない。

 また、共和国における、その国籍を有する帰国者の処遇についても、同じことが言え、我が国の裁判所にはもともとそのような外国の内政問題について審理しその是非を判断する権能は、ない。

 したがって、本件訴訟は、形の上では損害賠償請求の形式をとってはいるものの、その実質は我が国政府が日本赤十字社に委託して行った帰国事業そのものの妥当性及び共和国における帰国者の処遇の妥当性について、裁判所の政治的価値判断を引き出そうとするものに他ならないが、このような訴えは、もともと裁判所法3条にいう「法律上の争訟」に当たらない。

 ゆえに本件請求は、本案の審理に立ち入ることなく、直ちに却下されるべきものである。

(2)被告は、帰国事業の事業主体(実施者)ではなく、帰国事業に関する本件訴えについては、被告適格を有しない。

 在日朝鮮人の共和国への帰還事業は、先に歴史的経緯を概観したところから明らかなとおり、我が国政府が、「基本的人権に基づく居住地選択の自由という国際通念に基づいて処理する」(閣議了解第1項)として、赤十字国際委員会に仲介を依頼した上で、日本赤十字社に実施を委託して行った、政府事業である。

 したがって、帰国事業の事業主体は、政府及びその委託を受けた日本赤十字社であって、被告ではない。被告にはある特定の人物を帰国させる権限などはなかった。すなわち、帰還希望者は日本赤十字社の定めた様式による帰還申請書を自ら提出しなければならず、帰還希望者は、日本赤十字社が赤十字国際委員会の助言の下で組織、運営する、公平な帰還希望者の登録機構に登録の上で帰還手続を取ることとされており、被告その他第三者が帰還者の決定に関与する余地が全くなかったことは、制度上明白である。ただ単に被告は、専ら帰還希望者の側に立って、帰国の早期実現等を求める運動を推進・展開したに過ぎないのである。

 ゆえに、帰国事業に関連する訴松である本件訴松においては、帰国事業の主体ではない被告は、そもそも被告適格を有しない。被告が帰国事業について何らの法的責任をも負う地位にないことは、閣議了解からカルカッタ協定、さらには日本赤十字社への政府の業務委託という一連の歴史的経緯から明白な動かし難い事実である。

 そもそも、共和国への帰国者達は、「基本的人権に基づく居住地選択の自由」の行使として、各自がその意思で帰国を選択して帰国したのである。自らの権利の行使として帰国した原告が、その権利行使の結果についての責任を被告になすり付けようとするのは、お門違いと言うほかはない。

 本件訴訟は、帰国事業の事業主体(実施者)ではない被告に対して帰国事業に関する責任を問おうというものであり、そもそも失当な訴えである。直ちに本件訴えは、却下されるべきである。

金幸一さん裁判の支援課題への御協力に感謝とお願 山田文明 事務局長

 帰国事業に関する朝鮮総連の資料のご提供をお願いします。

 朝鮮総連は、この訴訟は政治宣伝のための裁判であり、しかも時効が成立していると述べ、実質審理に入らず、棄却することを求めています。本格的な論戦を避けようとしていることが明白です。そして、帰国事業が人道的な立派な事業であったと主張するどころか、それは日本政府の事業であり、朝鮮総連としては責任を問われる立場にないと主張しています。

 しかし、朝鮮総連が組織を挙げて影響下の在日コリアンを説得し、帰国の意志を固めさせ、準備の教育や財産の処分などについても深くかかわり、帰国事業の実質的な動力源となって推進したことは隠しおおせることではありません。帰国へのレールを引き、列車を走らせたのは日本政府、日赤、北朝鮮政府、北朝鮮赤十字であるが、その仕組みを要求し、さらに人びとを説得して決断させ、その列車に乗りこませたのは紛れもなく朝鮮総連でした。このことを一層明確に立証していくために、朝鮮総連が帰国運動にかかわった具体的な内容、姿を示す資料があれば、ぜひご提供ください。

*この裁判に関する情報を中心に、韓国語・英語・中国語でもホームページを立ち上げ、広く世界にアピールしていく準備をしています。すでに、翻訳作業もすすみ、9月始めには実験版の外国語版HPをご覧いただけると思います。これについてもボランティア応援団を募集します。

*7月に1000名の文化人・知識人に対して帰国者裁判の支援を訴える文書を郵送したところ、ただちに御協力くださった方が何名もありました。今後は、全国会議員への働きかけなども検討していきます。

*年内を目標に、帰国事業とこの裁判を説明したブックレットを作成したいと考えています。分かりやすく、しかも高い水準の内容に仕上げたいと思います。皆さんの知識と資料と経験をお貸しください。

*藤森弁護士を先頭に、特別弁護団はそれぞれ身銭を切って資料収集と分析に努力しています。皆様のご支援、御協力をお願いいたします。

守る会の帰国者裁判推進本部長に山田文明事務局長を決定! (守る会全国運営委員会、7月14日)

第3回全国運営委員会の報告

 7月14日、東京でのシンポジュウムのあと夜9時半から緊急に全国運営委員会を開き次の事を決定しました。

1.運営委員会の中に帰国者裁判推進本部(仮称)を設置する。

    本部長 山田文明さん  本部員 全運営委員。

2.守る会としてこの裁判に全力をあげて取り組む。

会費納入と裁判支援カンパのお願い

 たびたび「かるめぎ」紙上での会費納入のお願いをしております。多くの方よりカンパを含めてご入金いただきました。厚くお礼申し上げます。守る会の活動も「帰国者裁判」「『かるめぎ』の充実」「多言語ホームページ作成」など活発化し発展しています。その活動を支える裏づけとして豊富な人材と財政の健全が非常に重要です。今年の総会でも財政の建て直しが最重要課題と運営委員の皆さんにも強く認識されました。今年1年を「守る会」組織基盤健全化を目指す年とさせていただき「かるめぎ」毎号に会費の納入とカンパのお願いをさせていただきます。

東京の郵便振替口座番号 00140-4-718645

関西の郵便振替口座番号 00920-7-134220(裁判支援カンパはこちらへ)

会費はどちらの口座に振り込まれても結構です。

*振込の目的(会費、カンパ)を用紙に記入のうえ振込みください。 また、いろいろとお手伝いをお願いできる方を求めております。パソコンシステムに精通される方、翻訳(韓国・朝鮮語、英語、中国語など)のできる方、原稿、テープおこしのできる方など人材を求めています。手伝っていただける方は各支部までご連絡下さい。

資料から読み取る「帰国事業」 金国雄:編集部

 まえから個人的に行なってきた考察(『楽園の夢破れて』&『朝鮮-その北と南』比較考察)の関係上、手元の資料をもとに少しばかり「帰国事業」への理解の助けにと、また、どのような資料が特別弁護団にとって参考となるのかを考えてみたいと思います。

 現在、争点となっている一つに「総連の被告としての適格性を問う」という点があります。今回の総連の答弁書から、その点に関する部分を2、3ひろってみましょう。

 「被告にはある特定の人物を帰国させる権限などはなかった」、「ただ単に被告は、専ら帰還希望者の側に立って、帰国の早期実現等を求める運動を推進・展開したに過ぎないのである」、「帰国事業の主体ではない被告は、そもそも被告適格を有しない」

(答弁書要旨参照)

 まず、北朝鮮の歴史書『朝鮮全史』第29巻第10章の記述を見てみましょう。

 1958年10月8日から10日まで行われた在日本朝鮮人総連合会中央委員会第15回拡大会議は、(中略)祖国への帰国運動をより広範にくりひろげるよう、在日朝鮮公民全体に呼びかけた。

 その後、在日本朝鮮人総連合会は、中央をはじめとして県本部、支部、分会に帰国対策委員会を組織し、10月30日を「帰国アピールの日」と定めて帰国実現のための闘争を積極的にくりひろげた。

(中略)

 1959年1月24日までに、総連中央帰国対策委員会に帰国申請をした同胞だけでも、11万7千余人に達し、この外に数多くの同胞も帰国を希望している。

 このように、すべて総連の主導で帰国運動が展開されたのです。

 つづいて『日本と朝鮮(愛知版)』(日朝協会愛知県連合会 2001年4月229号)のなかの「故郷はどこ 幸せはどこ ある在日二世の半生(26)」を見てみましょう。(抜粋)

帰国の熱気ほとばしる 金宗鎮

 そんな時、1959年6月に朝・日両赤十字社ジュネーブ会談で在日朝鮮人の帰国協定に仮調印される。私の祖国への進学希望が現実となる道が開かれた。私と弟(名城大学3年生在学中)はすぐさま帰国の申請を行った。

 校長から私の祖国進学が発表され、同僚達から祝福された。

 帰国準備が順調に進んでいたある日、突然県本部のペ教育部長が会いに来た。

 「現場の教師の帰国はまかりならぬ」とのことである。朝鮮語を話せる教師が絶対数で不足しているから、君の任務はここで教え、ここで学ぶことだ。これは本部の決定でもあると言った。

 私の帰国は中止されたが、弟はそのまま帰国することになった。

※金 宗鎮(キム・ジョンジン)1936年生。朝鮮大学校卒。愛知県朝鮮中高級学校校長等、教職30余年。現在総連傘下「在日本朝鮮人社会科学者協会(社協)」東海支部会長。(引用者)

 ここでは在日朝鮮人の帰国可否の権限を一部であれ総連が握っていたことが読み取れます。

 次に当時としても非常に重要であったはずの子弟に対する朝鮮語教育から『朝鮮語会話』(朝鮮語研究会 朝鮮青年社〈総連傘下〉1973年11月30日、65年発行の本の改訂版)より総連の帰国事業に関係する重要な部分を掲載します。

※朝鮮語の対訳(日本語)部分から抜粋

19) 民主主義的民族権利

 2.チョソン人民の敬愛する首領キム・イルソン元帥さまが、海外に住む同胞をいつも慈父の愛情で見守ってくださり、かれらをしっかりと保護してくれる共和国政府があり、首領が結成してくださった総聯組織があるからですよ。

 3.在日同胞の民主主義的民族権利を守る活動についてお話ししてください。

 4.総聯は在日同胞の民主主義的民族権利を守る事業を自己の重要な事業として闘争しています。これらの事業には共和国公民権を守る事業,在日同胞の子弟を真のチョソン人に教育教養する民族教育を発展させる事業,在日同胞が祖国に帰るための帰国事業と,祖国に自由に往来することのできるようにする事業,同胞たちと同胞商工人たちの生活権と企業権を守る事業など,多くの事業がありますよ。

 5.総聯は,在日同胞たちのすべての民主主義的民族権利を守るために,ほんとうに重要な仕事をしていますね。

 6.そうです。総聯は敬愛する首領の教えと共和国政府の政策にしっかりと依拠して,こうした事業をりっぱにやりとげて行くため,たゆまず努力しているのです。また総聯はこのような事業とともに,チョソン人民の最大の民族的宿願である祖国統一を一日も早くなしとげるための事業と,日本人民をはじめとする平和を愛好する世界各国人民たちとの友好親善を深める事業もねばりづよくやっていますよ。

 どうでしょう。ここではズバリ、帰国事業を総連の重要な事業として闘争していると述べられています。

 最後に帰国事業史にのこる古典文献、寺尾五郎氏の『朝鮮-その北と南』(新日本出版社 1964年7月25日第6刷、初版は1961年12月15日)から次の一節を紹介し筆をおきます。

 「わたしがある地方で講演会をやり、在日朝鮮人に向って、北朝鮮の実状を話したあと、質疑応答で、あれはあるか、これはあるか、ときかれた。 そのとき、主催者であったその地方の総連の委員長は、わたしをさしおいてまで、熱心に質問に答え、そんなつまらんことを心配するな、祖国にはなんでもあると昂然と答えた。その夜、わたしの旅館にその委員長は単身でたずねてきて、実は、帰国させた娘から、こういう手紙がきているのだが、ほんとうにそれらはないのだろうか、送ってやった方がよいのだろうか、ときくのである。」


「帰国者裁判を伝える各紙の報道」は画像のためここでは省略します。

<(毎日新聞 8月10日付とAERA(アエラ) 2001年8月13-20日(NO.36)>


帰国者からの手紙

「帰国した息子から」日本の老母に届いた 今年3月8日付の手紙(手紙原文(朝鮮語)は画像のため省略します。)

<翻訳文>

お母さん、お元気ですか遠い地で老いた体で元気にしておられますか!

私たちもお母さんのおかげで健康でいます。

お母さんの手紙を●●月末に受け取り、持って来てくれる人をいまかいまかと待ち続けましたが、●●月たった今もまだ現金を受け取れずにいます。どうしたことなんでしょう! 誰にお金を頼んだのか……

お母さんがその人を訪ねて聞いてみて下さい。

今はお金が一銭もないので暮らしがとても大変です。

お金を送る場合は、これからは東京便で送らずに国際郵便局に行って「書留で送って下さい」と言えば、正確に1週間以内に私が受け取ることが出来ます。

日本も不景気なのに毎回、年老いたお母さんに負担をかけて本当に申し訳ありません。この息子がこうやって死なずに生きているのも、すべてお母さんのおかげだということをいつも心の底から感じています。

妻も亡くなり私のもとを去りましたが、生前はいつもお母さんのありがたみについて話していたし、また、いつになったら孝行息子のようにお母さんに苦労をかけることなく喜ばせることが出来るだろうと口癖のように言っていました。

もう家に女手がなくなったので、大変なことがひとつやふたつではありません。息子ももう大人になって歳が●●歳になったので結婚させてあげなくてはと思い、婚約式を行いました。

お母さん、この息子が嫁もなしで一人いることを痛ましく思い、●●にいる義母が妻の葬儀を行い、その時から今まで私の世話をしてくれていますが、もう80歳になるのでとても大変なようです。こうやって私の世話をしてくれるといっそう力になって頼りになります。義母も年のせいなのか、息子を結婚させて一緒に静かに暮らすつもりです。

息子の嫁さんになる女の子は心もやさしいし、女らしい子です。

息子も親孝行で、心から私の面倒を見てくれ、これからは息子を頼って生きていこうかと思っています。こうやって今ひとりになってみると心寂しくて、お母さんのことがしょっちゅう思い浮かびます。お母さんももう高齢なので私に会いに来るのは大変だと思います。次はいつ来られますか。

お母さんが元気なうちにこの息子のために来てくれれば、嬉しいしありがたく思います。力ももっと湧くし…

では、お母さんが来られるのを指折り待ちながらペンを置きます。

くれぐれも健康でいてください。さようなら。

〈編集部注〉

 60年代はじめに帰国し、いまは50歳台後半になった息子から日本にいる80歳をこえた母親にあてた手紙です。日本からの仕送りでかろうじて命を長らえていると書かれています。母親はいまも祖国訪問で北朝鮮を訪れ息子に品物やお金を届けています。息子は手紙では書けない北朝鮮の実情を訴え「ここは地獄や、ほんまの地獄や」と語ったそうです。『かるめぎ』のために息子からの手紙を提供して下さいました。


「人権年表」

<人権年表> 『北朝鮮からの亡命者が急増』(2001年5月~2001年8月)

2001年(5月)

 31日 韓国国家情報院は、北朝鮮の住民12人がこのほど生活苦から中国経由で韓国に亡命したことを明らかにした。労働者、人民学校(小学校)の教師、学生らで1997年から1999年までの間に亡命した。

(6月)

 15日 米国議会調査局は米国政府が北朝鮮をテロ支援国家に指定していることについての報告書『北朝鮮テロリズム・リストからの除去?』を作成した。ブッシュ政権が、日本人拉致事件と、よど号乗っ取り犯人保護について「拉致と赤軍派保護が解決されるまでは指定を解除すべきではない」とする日本政府の立場をこれまでよりも重視することになる」と明らかにしている。

 22日 韓国国家情報院によると、朝鮮戦争中、北の捕虜となり、鉱山労働者として生活してきた元韓国軍兵士、イ・ヨンソクさん(69歳)が息子(34歳)ら12人とともに、中国経由でこのほど韓国に亡命した。イ氏は今年4月に北朝鮮を脱出した。

 25日 北朝鮮を脱出し、1999年末にロシア沿岸地方でロシア当局に身柄を拘束され、中国を通じて北朝鮮に強制送還され、世界的に人道問題だとして報道された7人のグループのうち、生き延びて、再脱出を図った朴忠日氏(23歳)が、産経新聞とのインタビューに応じた。朴氏は8カ月間、強制収容所に入れられ拷問を受け、今年4月、再脱出を図り「北朝鮮難民救援基金」に保護された。朴氏は「証言を通じて、北の実情を知ってほしかった。非人道的扱いを受けている北朝鮮の人々を救ってほしい」と訴えている。(産経)

 26日 このほど東京に届いた北朝鮮の労働党機関紙「労働新聞」は、南北共同宣言の発表1周年に当たり、同宣言の5項目合意を改めて掲載したが、宣言の最後の「金大中大統領は、金正日国防委員長がソウルを訪問するよう丁重に招請し、金正日国防委員長は今後、適切な時期にソウルを訪問することにした」との部分が省かれていた。

 26日 中国に潜伏中の北朝鮮の住民7人が北京の国連難民高等弁務官事務所に難民認定申請をした。韓国への亡命を希望しており、キム・ボンス氏(48歳)ら男性4人、女性3人で親族関係にある。チャン・ギルス君(17歳)は北の惨状を絵に描き、韓国のNGOの大会で展示されたことで知られている。韓国の外交通商省の崔成泓次官は中国の武大偉韓国大使に「中国政府が慎重に人道主義にのっとった上で、7人の自由意志で居住地が決定されるべきだ」と伝えた。中国は健康問題を理由に出国に同意、7人は29日、中国を出てシンガポールに到着、30日、韓国の仁川国際空港に到着した。29日の朝鮮中央通信によると、北朝鮮外務省スポークスマンは「UNHCRの不公正で内政干渉的な行為は絶対に許されない」と非難した。

(7月)

 6日 韓国国家情報院によると北の住民25人がこのほど韓国に亡命。咸鏡道や両江道の住民で親子・兄弟連れの5家族。職は労働者、外貨獲得指導員、学生、無職。

 13日 韓国国家情報院によると、北の住民14人がこのほど亡命した。咸鏡道や両江道、南浦市の住民で労働者、農場作業員、学生、無職者。亡命者は264人となった。

 21日 イタリアのジェノバで開かれた先進国首脳会談は午後、「地域情勢に関する声明」を発表、朝鮮半島に関しては韓国の包容政策を支持する一方、「人道・安全保障問題を含む国際的懸念への建設的対応は、地域の緊張緩和、北朝鮮の国際社会への統合にとって不可欠」とうたっている。

 27日 パウエル米国務長官は韓国を公式訪問し、金大中大統領との会談で、大統領が「米国が北朝鮮を支援し、国際社会の場で助けてやることが必要だ」と述べたのに対し、長官は「北朝鮮に『いつでも、どこでも対話をしよう』と提案するとともに、協議では条件なしにあらゆる議題を扱えることを伝えた」と応じた。また、韓昇洙外交通商相との会談では「対話再開に条件はないが、協議では核もミサイルも人権問題も話し合わねばならない」と釘をさした。

 27日 ソウル在住の元在日朝鮮人、金幸一さん(59歳)は、「『北朝鮮は地上の楽園で金日成総合大学に行ける』と言われたが、北朝鮮での暮らしは、党や隣人らによる厳しい監視の下、生涯、労働党の命令通りに休みもなく働くだけの生活の強制だった」として、日本から北への帰国事業を推進した在日本朝鮮人総連合会に550万円の慰謝料などを求めて訴えを起こし、東京地裁で第1回目の口頭弁論が開かれた。同訴訟は「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」の萩原遼共同代表が進めていた。

 29日 英国の初代駐北朝鮮大使のジェームズ・ホー氏が、産経新聞の野口裕之特派員とのインタビューに応じた記事によると「日本人拉致問題は日本にとり極めて重要な問題」と、北朝鮮側に善処を求めていたことを明かした。北からは未回答。

(8月)

 4日 ロシア公式訪問中の金正日総書記は、クレムリンでプーチン露大統領と会談し、共同宣言の「モスクワ宣言」に調印した。骨子は ①両国関係の強化 ②ABM制限条約は戦略的安定性と戦略核削減の基礎 ③ロシアは南北朝鮮の対話継続と北朝鮮と日米との国交正常化を支持 ④北朝鮮の在韓米軍早期撤退要求とロシアの理解を確認 ⑤北朝鮮のミサイル計画が平和的性格であることと、各国の安全保障の権利の確認⑥シベリア鉄道と朝鮮半島の鉄道連絡計画の実現段階入りを確認。ブリチコ露大統領府副長官が、総書記は大統領に「2003年までのミサイル発射を見合わせる意思を再確認した」ことを明らかにした。

 6日 ロシア経済通商省当局者は、北朝鮮が抱える対ロシア貿易債務の9割までが、北朝鮮の労働者らによる無報酬か低賃金の労務提供で決済されていることを明らかにした。人権団体「ヒューマンライト・ウォッチ」(本部・ニューヨーク)は「労働者の監視に警察が関与していれば、ロシアは奴隷労働を禁止した国際法違反」と警告している。貿易統計は、ロシアの北朝鮮に対する輸出額は5460万ドル(約68億円)。北朝鮮からの輸入額は5040万ドル(約63億円)にのぼり、このうち9割は帳簿上、労働力提供だという。「国際アムネスティ」(本部・ロンドン)は、昨年1年間にロシアで働いた北朝鮮労働者数を4000人規模と推定している。労働者は慢性的労働力不足に悩む極東、シベリアで農業、森林伐採、土木工事に従事している。同団体が1996年時点でまとめた報告書によると、森林伐採現場で働くようになったのは1967年。現在は1995年の露朝木材伐採協力協定に基づく。(読売)

佐伯 浩明 運営委員

第3回北朝鮮人権市民大学 「北朝鮮による日本人拉致問題の真相と最近の動き」 兵本達吉さん(拉致された家族の会代表世話人)

 最近、東大の社研の和田春樹先生が、岩波の雑誌『世界』で連続、拉致事件というのは、一部の人たちによるアンチ共和国策動ではないかという趣旨の文を書かれたわけです。未だにそういう人が絶えないので、嘆かわしい、と思わざるを得ません。

拉致事件が公になり

 雑誌『正論』の1999年1月号に経過を書いたことがありますが、78年に3組のアベックが日本海の沿岸から拉致された事件が起こっていると報道された。新聞記事をたよりに現地へ行っても近所の人は知らないというし、ほんとに大変でした。

 当時の行方不明になった話は、78年7月31日に中央大学法学部3年生の薫さんが夏休みで帰っていて、近所の化粧品店に勤めるガールフレンドの祐水子さんとデートするというので、近くの柏崎の海岸(図書館)まで行くといって出かけて、そのままスーといなくなった。

 地元の警察は、まず、溺れたのんじゃないか、若い男女のことだから結婚を両親に反対されて家出したんじゃないか、暴力団に連れ去られたんじゃないか、暴走族に山の中にひっぱって行かれたんじゃないかとか、一つ一つをしらみつぶしにつぶしていくんですが、心当たりが出てこないんですね。

 福井県小浜市の浜本さんも、東京から尋ねてきて追い返すのも気の毒というので、行方不明になった経過を一から話してくれました。トラックの中に、運転免許証も貯金通帳も残されてあった。これでは家出であるわけはない、と地元の警察署長も言っていました。

 小浜の沖合いに当時、正体不明の貨物船が停泊していたという情報があって、柏崎でも地元の漁師が同じことを言ってました。新潟県とか能登半島あたりでは韓国・朝鮮人の漁師が船に乗ってパスポートも何も持たずに上陸して近所のスーパーで生鮮食品とかを買って出入りしていて、これで近代国家と言えるのかとびっくりしたほどです。

 鹿児島県の増元さんと市川さんという男女が行方不明になった姶良(あいら)郡姶良町の吹上浜に行ってみたんです。鹿児島県警はこの事件については2人が家を出てから吹上浜に行くまで、分刻みで調べていた。

調べていくにつれ

 国会図書館の新聞雑誌館で78、79年ごろに外国で同類の事件が起きていないか調べてもらったら、78年ごろを中心に、北朝鮮が外国人をあっちでもこっちでも拉致したという事件があったわけですね。それまではわたしは社会主義者で、北朝鮮は社会主義国だからそんなべらぼうなことはやるわけはないと思っていました。

 88年3月26日に共産党の橋本敦参議院議員が参院予算委員会でとりあげました。当時、国家公安委員長の梶山静六さんが、「北朝鮮による拉致の疑いが濃厚」ときっぱりとした答弁をしました。

可 哀 想 な ケ ー ス

 そのとき、安明進アン・ミョンジン氏が金正日政治軍事大学で、20年前に日本人を目撃したことがあるというので、その年の11月に行方不明の日本人の写真を持って行って見せたんです。そのときに石高さんが『金正日の拉致指令』という本を書きましたので、1996年に雑誌『現代コリア』に4ページ位の随想みたいなものを書いたのです。その中に石高さんが韓国の政府高官から聞いた話として、日本の海岸で13歳の中学生の少女が工作員と出会って北に拉致された事件を書いたんです。

 その少女は放課後のバドミントンの練習の後、帰宅途中、双児の兄弟があってうんぬんという話をはじめて聞いてびっくりしたんですが、新潟の当時の状況を知っている人がそれを知って騒然となったと言います。

 ある人が新潟日報の記事を送ってくれて、『金正日の拉致指令』の話と似ていたんです。電話をし事情を話したら連絡してくれて、国会に飛んで来られました。双児の兄弟というのは、めぐみさんの下に双児の兄弟がいらっしゃるという。

実 態 に つ い て

 80年に宮崎県の日南だったと思います。北朝鮮の工作員が5名捕まった事件がありました。その問題についてはしゃべるなと言われていたんですが、もう時効になっていますから話します。

 新婚旅行で有名な日南海岸にゴムボートで上陸してくるという事前の情報が宮崎県警にあったんです。拉致事件では7件10名と言ってますが、交信記録を照合すると、78年8月15日には鹿児島の沖で外国の船との交信記録があったとか、新潟の蓮池さんのときも交信記録があったとか、彼らは確実なものを持っているのです。ですから警察庁に資料を公表してくださいと個人的にも国会でも迫まったんですが、あの世界は闇につつまれた世界ですから公表しようとしない。ですから東大の和田先生のように兵本が勝手なことを言っているだけで証拠もないじゃないか、なんて言う人が現れてくるんです。

 それから安明進氏が日本に来たときに会いまして、彼は拉致されている場所についても具体的に場所を述べていました。平壌近郊の龍城地区にある通称、妙香山地区と外養山地区と金剛山地区の3ヵ所に分散して収容され集団で生活させられている。まわりは鉄条網で2重に遮断されていて、一般の人が入れないようになっている。

 韓国の政府関係の人と拉致問題を話していて、拉致されてまだそこに居ますよという。韓国の安企部がでっちあげたんじゃないかと言いますけれども、韓国の政府関係者は、拉致された家族には人道上、気の毒な事件で同情はするけれども、あくまでも北朝鮮と日本との2国間の問題だから巻き込まないでくれという態度をとっていました。それからまた北朝鮮の拉致問題など存在しないと言いながら水面下で穏やかに解決する方法があるんじゃないかみたいなことを言ってくるものがいるんですよ。警察庁のいろいろな捜査官とも話をしましたが、「捜査官の立場から言わせてもらえば、200%黒です」と断言した捜査官もいました。

(6月3日の講演内容を編集部で抜粋しました)

金相玉さんに捧ぐ

金相玉さんのご逝去を心から悼みご冥福をお祈りいたします 萩原 遼 共同代表

 中国・四国支部結成にご尽力下さった金相玉氏の突然のご逝去を知り、おどろきのあまり言葉もありません。ことし三月の中国・四国支部結成のとときはあれほどお元気で、そんなそぶりすら感じさせなかっただけに、ただおどろくばかりです。

 金相玉さんは遠く愛媛にお住まいのためそれほどひんぱんにお会いする機会はありませんでしたが、私がワシントンで取材に入るようになった昨年五月、愛媛在住の歌人・朴玉枝さんの歌集『身世打鈴』を送って下さいました。

 それを機会にアメリカと松山間で文通を重ね、昨年十月に中国・四国支部結成準備会のはこびにとなり、松山で再会しました。このときも息子さんの俊熙さん(歯科医)はじめ朴玉枝さんら七~八人の在日の方がたを誘ってお集まり下さり、支部結成に大きなはずみとなりました。

 いただいた何通かのお手紙の中に記されている金相玉さんのこれまでの歩みをご披露します。

 金相玉さんは一九三五(昭和十年)年生まれ。愛媛県の宇和島で高校まで過ごし、その後上京して苦学しながら朝鮮師範学校に学び民族教育に青春と人生を捧げてきました。師範学校在学中の一九五五年五月に朝鮮総連の結成大会が浅草公会堂で開かれ、これに参加しました。卒業後は民族学校の教師を勤め校長の職にあった一九七三年はじめ、金日成の「主体思想を絶対化する活動」に反発、また金正日の後継に反対したため、当時、総連内で権力をふるっていた金炳植に「宗派分子」(反革命分子)の烙印を押されて不当な配転を受けそれを拒否して辞職。以来、総連とたもとを分かって反金日成・金正日の活動を続けてきました。

 昨年六月の金大中・金正日両氏の南北首脳会談の直後にいただいた便りにはこう書かれています。

 「頂上会談後の流れを見ますと何かがちょっと狂っている。何かがおかしい様に思えてなりません。溺死の淵に陥った狼を助け食物を与えると元気を取り戻し助けた人を食い殺そうと豹変するおとぎ話を思い出しております。太陽・融和政策は唯一正しい選択であり政策なのでしょうか。疑問が湧いてきます。朝鮮民族の不幸な歴史はまだまだ続きそうです」

 こういう方にこそまだまだ大きな仕事をやっていただきたかったという無念の思いがまたこみあげてきます。しかし逝かれた以上どうすることもできません。思い出の中で先生と再会するしかありません。金相玉先生、これまでのご苦労に心から敬意を表するとともにご冥福をお祈りいたします。

八木 隆 中国・四国支部代表

 松山の金相玉(キム・サンオク)さんが七月一九日逝去されました。

 中国・四国支部結成に参加され、二八日大分の旅先で発病。アメリカ・ロサンゼルスで外科医をしておられるご子息のもとで肝臓ガンの手術をされました。帰国され療養をしておられましたが、三カ月後に不帰の客となられました。

 先生は長い間、四国朝鮮初中級学校の校長を務められ退職された。その後は事業のかたわら、愛媛県在日同胞商工人経友会の代表として活動。九八年九月に北朝鮮の最高人民会議が金正日を国防委員長に選出したのに対し、北朝鮮の民主化を求める在日コリアン八団体の「共同声明」発表に参加。(民団新聞一九九八年九月九日参照)

 共同声明は北朝鮮の民主化、帰国者と日本人妻たちの自由往来の実現、金正日の退陣要求などでした。

 教え子が北朝鮮に帰国。その子供達の音信不通や収容所の実態を知るにつけ、人生の最後の仕事として北朝鮮と朝鮮総連の民主化を願って「守る会」にも参加され、志なかばに先生も予期しない逝去となられました。享年六六才でした。

 これから先生の豊かな経験と知識をおかりして「中国・四国支部」の発展をと考えていたやさきの訃報でした。先生のご冥福をお祈りいたします。

金 国雄

 金相玉先生と東京駅の待合室で初めてお会いしたときのことをいまでも鮮明に思い浮かべることが出来ます。それは北朝鮮建国50周年にあたる3年前(1998年9月7日)のこと。「軍事独裁政権に反対する声明」を東京で在日が共同で発表したときのことでした。昨年の支部設立準備会で久しぶりにお会いし旧交を温め、さらに力をあわせ闘って行くことを誓ったことが忘れられません。ご冥福をお祈りいたします。

読者の広場

誇りと勇気とやさしさと 伊勢本 洋子

金日成将軍は ツツジが好き
ツツジよ もっともっとあかく咲け
ああ ツツジよ もっともっとあかく咲け 
(北朝鮮のうた)

 なんということだろう。新しい日本の夜明けを信じて夢見た一九六〇代の末、そのころ十代の私(達)は、確かにこの歌をうたっていた。何度でも歌っていなければ、今になって思い出す訳もない。社会主義への憧れ、そして「朝鮮民主主義人民共和国」への連帯。

 日本の親から生まれておらず、もし私の祖国が“帰国船”の行く先にあったなら、輝く社会主義祖国建設のために生きようと思ったであろうか。そうだと思いたい(思わせてほしい)。ならば、銃声と共に消された幾多の命の無念さは、私のかなしみ。

 肉親をうばわれ、生死もわからない在日の人びとの日常の苦しみは、帰国を支援した関係各所の身を切る痛み。 私達が夢見たものは、人間を解放する社会であり、奴隷の社会や監獄の国家などではなかった。何が間違ったのだろうか。二一世紀の時代に、もうどれもこれも言い逃れや忘れた振りをしているような場合ではない。

 一日も早く、北で苦しむ人びとにやわらかな光が射し、日本では誇りと勇気とやさしさを持ち合わせた広範な人びとが、新しい二一世紀の日本の夜明けをめざす大きなうねりをつくり出していく。 七〇年代に青春を埋めたものの一人として私は、そのことを今、何より大切なことと思いたい。

(「かるめぎ」読者) 東京広告代理店勤務 裁判第一回公判を傍聴。同日夕の報告集会参加。

アンニョンハシムニカ 北村勇人(会員・関西支部)

 「かるめぎ」読者の皆様、私は奈良県の北村勇人(はやと)という者です。萩原先生の本を読み感銘を受けて出版社に手紙を出し連絡をいただいて今回、「守る会」にさそっていただきました。

 わたしの身内、友人には在日朝鮮(韓国)人はいませんが、80年代後半から韓国・朝鮮に興味と愛着をもって両国に旅行にも行きました。 わたしは40才で親兄弟妻子のいない独り身、36年たつボロ家に住んでおります。しかし、朝鮮関係の本100冊、ドキュメントビデオなどいろいろとあります。近くの守る会の会員さんとできれば今後の「守る会」のいろいろな活動や朝鮮・韓国の問題について話しあい、楽しく文化研究などをおこなって行きたいと思い、私のボロ家を守る会の「奈良支部」または「日朝・日韓友好親善研究所」として皆様との親睦の場としたいと思っていますのでよろしくおねがいいたします。 また本日、「かるめぎ号」と「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」と書いた車に脱着できるマグネット・プレートを作りました。関西支部の催しや用事に呼ばれて行く時にはマイカーにつけて「守る会」をアピールするつもりです。

<遼さんからのひとこと>
 先日、北村さんの家に一晩とめてもらいました。二階に三間、一階には五部屋もある大きな家にビデオや本がいっぱいでした。JR法隆寺駅から歩いて二〇分ほど。奈良にも守る会の有力な足場がまたひとつ広がりました。

「この人に聞く」 聞き手・金 国雄 松浦 照雄さん(高校教諭)

―― 北朝鮮との出会いは? ――

 不純な動機による出会いでした。(笑)大韓航空機を爆破した美しきテロリスト、金賢姫です。まるでボンドガールのような彼女の美貌に導かれるままに彼女の著した『いま、女として(上下)』を読んだことがあります。

 これが私と北朝鮮との初めての出会いでした。それまでは北朝鮮は本当に遠い国でした。本のなかで大韓航空機の爆破は金正日の指令であったと証言しています。彼女はその爆破を民族の悲願である南北統一事業の一つとしてなんの疑いもなく実行しています。

 金賢姫の美貌もさることながら、北朝鮮の極端な情報鎖国と特異な社会に驚愕しました。その後、北朝鮮関係の本を読みあさるようになっていました。現在までに100冊近く読破しました。

―― 北朝鮮に訪問されていますね。 ――

 1997年8月6日から12日まで滞在しました。北朝鮮の首都平壌は美麗な街ですね。北朝鮮を見限って南に亡命した多くの北朝鮮の亡命者でさえも平壌の美しい町並みを誉めています。私は韓国からの官費研修生に日本語を教えていたこともあるのですが、反共のその韓国青年も昔から語り継がれた平壌の美しさを口にしていました。そういうことで私はいつのまにか平壌を一目みたいという気持ちになっていたのです。

―― 実際の平壌はいかがでしたか? ――

 建物が密集して建設されていないし、商業用の看板やネオンサインなどは一切なく、ビルもおとなしい色でほぼ統一されているので日本の都市のようにごちゃごちゃとはしていない。けばけばしくもない。すっきりとした街でした。また緑も豊かで、森の中に建設したようでした。公園都市という名前がぴったりでした。平壌市民の朝は清掃から始まります。午前6時にはホウキとチリトリを持った老若男女が自分の住んでいる高層アパートの周りや歩道や観光地にまで出向いて丁寧な掃除をしていました。

 平壌は多くの意志が交差して建設された街ではなく、1組の親子の意志によって作られているようです。それは大洞江が流れる広大な平原をキャンパスにして思うがままに絵を描くように建設された都市です。それだけに各建造物の配置はよく街全体の“調和”がとれていますが、それは大地も人民も個人の所有物であるから可能なのだと思います。

―― 平壌では自由に出歩けたのですか? ――

 宿泊していた高麗ホテルを出た途端に通訳の青年が付いてきました。案内するということでしたが、監視をしているようでした。しかしながら早朝には監視も行き届かないので一人でホテルを抜け出して朝の散歩を楽しむことができました。平壌市内を歩き、そこに住む人々の生活をかいま見れば、平壌は善良な市民が生活を営む美しい公園都市であって、報道されるような邪悪な世界とは全くかけ離れた世界でしたが、多くの脱北者が証言するように、あの美しい平壌の私達の視界の届かぬ裏側はがらりと変わる風景が存在するのかも知れませんね……。

―― 平壌訪問の前と後で変化したことがありますか? ――

 もっと北朝鮮関係の本を読むようになりました。また北朝鮮の日本課に書籍を贈ったり、「守る会」のような組織にカンパするようになりました。北朝鮮でお世話になったガイドさんが北朝鮮には辞書がないというので、国語辞典、漢和辞典、外来語辞典、英和辞典、和英辞典、日韓辞典、韓日辞典などや「平壌十五号官邸の抜け穴」などの書籍を送りました。平壌で「平壌十五号官邸の抜け穴」についてガイドさんと話題になったときに、ガイドさんが読んでみたいからその本を送ってほしいと頼まれていましたが、その後二転三転し最終的にはいらないということでした。しかしながら彼はそれらの本に大変興味があったようでした。私も送っていいものか、送らないほうがいいのか迷いました。

 「守る会」にカンパするようになったのは、北朝鮮の書籍を読み、北朝鮮の人民の苦悩を知りながら、北朝鮮訪問の旅を楽しんだわけですから、何もしないでいるということができなかったからです。

詩 二 篇 小野 美智子

 『希望を胸に』

待ちましょう

待ちましょう

眩しい朝の光があなたを照らす日のきっと来る事を

夢を語る日のきっと来る事を

夜の明けない日がないように

暗い世が永遠に続かない事をあなたも私も知っている

待ちましょう

待ちましょう

希望の灯を消さないで心にいつも燃やしましょう

色鮮やかな朝の国

百年まえ イザベラ・バ-ドも見た麗し朝鮮

北も南も無かった頃の風物詩

夜のしじまに糊付けの砧の音は今もするだろうか

待ちましょう

待ちましょう

チャンダンノリで歌い踊る日のきっと来る事を

願いましょう

待ちましょう

 注:チャンダンノリ=拍手をつけておどる踊り

『自問自答』

問うてみる 自分自身に

何故北を想うのか

それは

同情も、哀れみも当らない

私は恋うるように北を想う

何故なのか問うてみる

静かに静かに心に問うてみる

それは

まだ見ぬ肉親への募る想い

その感情に似ている

南には往ける

南からは来られる

北へは往けない

北からも来られない

北に本当の意味での自由はまだ存在しない

往こうとしてゆくことの出来ない所

それ故に北を書く

時間が止まったかのように無気味な静けさ

だが

そこにも人は確かに生きているのだ

声を聞きたい

手を取り合いたい

言葉が通じずとも目で話せるはず

何十年離れて暮らそうと

心が通じる親子のように兄弟のように

人の心に封印できはしない

新しい時代を共に歩きたい

想いは増幅するばかりで止めようも無い

支部だより

<関西支部> 第17回講座の報告

 第1回公判のあった翌日の7月28日(土)、原告金幸一氏、弁護士の藤森克美氏をお招きして第17回関西支部講座が開かれた。会場はいつもの大阪経済大学の教室。前々回に講師としてお招きした写真家の山本将文氏が金・藤森両氏の語る様子を撮影しながらの緊張感あふれる講座となった。写真はアエラ誌(8月13-20日号)に掲載された。

 東京から戻ったばかりの山田文明事務局長は、前日の法廷でのものものしい警備の様子などを報告。責任逃れの言い訳に終始した総聯に対して「帰国事業には、誇大宣伝など、善意と人道に反する要素が当初からあった」と指摘した。

かるめぎNO.40 <関西支部> 第17回講座の報告

●だまされた10万人のために総聯の謝罪を

 この日が関西では初めての公開の席となる金氏は帰国当時の様子を仔細に語った。

 「愛知県岡崎支部の総聯幹部だった父の勧めで帰国した。初めは1959年に帰国するつもりだったが、北から『コメを送れ』などの手紙が来るようになった。『北へ行かない』というと父が怒った」、「だまされたと思ったのは清津に着いてすぐだった。お菓子、タバコ、みなへんな味がした。夜は南京虫に悩まされて眠れない。金日成大学へ行きたいと言っても、雄基の機械工場へ行けと。工場で出されたトウモロコシが喰えた物ではなかった。子供らは菓子やラーメンが欲しいと泣いていた」。

 「2か月経ったころ、この現状を在日の人に伝えねば、と思った。北の幹部たちは『在日は日本で日本人にいじめられている。乞食が来る』と宣伝していた。しかし実際に来た在日は、北の幹部よりいい服を着ていた。トランジスタラジオ、腕時計、みんな北では見たことのないような物ばかりだった。」

 「北からの脱出を考えて零下20度の中を歩き出した。2日目に怪我。腕を折った。昼の12時ごろ、38度線からスピーカーの音がした。李美子の歌だった。夜でなく昼に着いたからよかった。だから警備兵に撃たれなかった」。

 「わたしが38度線を越えたニュースが日本でも流れた。それで母は総聯の人にいじめられた。わたしが日本に帰れば総聯に殺される。やくざがカネで。そんなのがなんぼでもいる」。

 「黙ってたらだめだ。今までだまされた10万人のために、きっちり裁判し、勝って総聯の人が謝るようにしなければならない。カネが問題ではない。在日の人が北でもいじめられ、日本でもいじめられ、同じ民族なのに、どうしてあんな悪いところに行かすのか」。

●帰国を勧誘した総聯自身の資料が決め手だ

 次に演壇に立った藤森弁護士は、金氏の体験を法廷に出すための法律論を丁寧に解説した。

 「この裁判には時効の壁が大きい。金さんは61年6月9日に新潟港を発っているから、既に40年が経過している。交通事故などを扱う『不法行為』では時効が過ぎて使えない。『債務不履行』としてなら権利行使期間が10年ある。金さんは95年に初めて日本に入れるようになった。これを使うことにした」。

 「総聯は法廷で『帰国事業は朝赤と日赤の協定であって総聯は関係ない』と主張した。しかし、実際は猛烈な勧誘をして帰国を決意させている。教育もした。ここに『帰国契約』という契約が成立していた。旅行代理店のようなものだ。これを立証したい。帰国契約からは、調査、説明、保護の義務が生じる」。

 「『不実の告知』というものがある。うそをついたらいけない。重要事項の不告知がそれで、すべてを開示して、北は大変貧しく身分差別もあると言った上で、その上で行くなら自由意志だけれど、大事なところを隠して『地上の楽園』と言った。これは事実を曲げたことだ」。

 「この総聯と帰国者との間の『契約』をこちらが立証できれば有利になる。総聯が帰国者にサービスの提供をした証拠、『帰国の手引き』みたいな募集要項のようなものがあればいい。できるだけ、当時の生の資料が欲しい。総聯自身の出したものが一番いい。総聯が帰国を奨励した証拠。これで帰国契約を立証し、債務不履行で追及できる。一次資料だ。証言では弱い」。

 藤森弁護士の解説を受けて、「朝鮮新報」(朝鮮語版)の当時のもの、各地の朝鮮関係の図書館などに資料がないか、などの意見が出された。とにかく当時の一次資料の発掘が重要との認識が会場にひろまり、今後の課題として共有された。

(坂元正三:関西支部)

<東海支部> 東海支部から役員3名が初公判を傍聴

 7月27日、東海支部の事務局長、金国雄さん、資料調査委員の梅村雅英さんと私・ジャンボの3人が、金 幸一さんの朝鮮総連を相手に起こした民事裁判を傍聴するため東京は霞ヶ関にある東京地裁に出かけました。

 地裁での原告側傍聴者に確保した傍聴券20枚はあっという間に無くなり、残りの傍聴券に数十人が並び裁判を傍聴できない人が出るなど、この裁判の関心の高さが感じられました。

 入廷時間が迫った頃、被告が「朝鮮総連」ということからかトラブルを恐れたのか裁判所の警備官が10人ほど現れ、大変緊張した中で裁判が開始されました。しかし、そんな物々しさとは裏腹に裁判は進み、今回の裁判の争点の一つである「時効」について、それを覆す根拠を書類にして提出するよう原告に求め、あとは次回の公判の日時を決め、たった3分ほどで閉廷しました。私は裁判を傍聴するのは初めてですが、こんなものなのかな? と、ちょっと拍子抜けしました。

 その後、東京弁護士会館のロビーホールに場所を移し、支援者集会が行なわれました。私はこの時初めて気付いたのですがマスコミの記者が何人か傍聴していたようで、担当弁護士の藤森さんの話に耳を傾けながらメモを取っていました。

盛況だった支援者集会

 そして夕方6時から文京シビックセンターで行なわれた支援者集会に参加しました。この集会にも40名ほどの人が集まり、会場の椅子が足りなくなるほどの盛況でした。まず藤森弁護士から裁判の今後の進め方が説明され、その後は参加者から証拠資料の収集方法などの意見や、朝鮮総連が過去、どのように帰国事業にかかわったかなどの証言もあり皆でこの裁判を何とか勝利に導こうという力強さを感じました。

 いよいよ、朝鮮総連に対する帰国事業の責任を追求するという画期的な裁判が始まりました。裁判は長くなりそうですが、勝敗の行方は正直、私にはわかりませんが、この裁判をおこなう事の重要性に歴史的意味があるので精一杯、支援していきたいと思います。皆さんの中で、この裁判に関する資料をお持ちの方や情報を知っておられる方は是非ご協力ください。

(ジャンボ:東海支部)

かるめぎNO.40 <東海支部> 支援者集会

<中国・四国支部> 強めたい会員間の交流

 会員の皆様、残暑が続きますがお元気でしょうか。今年3月に結成された中国・四国支部では、会員間の交流が少ずつ始まっています。

 支部長の八木さんは、北朝鮮問題を中心にした「わすれなぐさ」という新聞を毎月発行されています。これを「カルメギ」ホームページの支部連絡(現在未作成)に掲載する予定です。

 また、会員の中には、平和資料館を運営する方々がおられます。また,未入会の方にも短歌集を発刊して、朝鮮半島問題を詠み社会に訴える方もいます。

 こうした会員の力を結集するためには、相互の交流が必要なのですが、まだ十分な連絡体制が出来ていないというのが、現状です。

連絡網で最も便利なのは、IT(インターネットやEメール)です。会員の方でメールをお持ちの方は、アドレスを交換しましょう。

守る会の『生命と人権』をホームページに

 3月の支部結成会のおり、小川共同代表より『生命と人権』(全15冊)をいただきました。『生命と人権』をホームページに載せて、多くの人に読んでもらいたいと思っています。この冊子には、多くの労力と費用がかかっているとお聞きしました。実際読み取りの作業をしてみて、冊子作成の大変さを痛感しました。

 現在、読み取りの作業は終わりましたが、誤字等の点検をしています。何分相当な分量なので、かかる時間も予想以上です。出来れば8月中に作業を終えたいと思います。

 これを「カルメギHP」とは、別のホームページに掲載する予定です。これは、有料とする予定で、料金はいろいろな人と相談して決めなければなりません。多くの人に読んでもらって、守る会の経費の足しになればよいが、と思っています。この作業をする中で、本の内容をCDにすることが出来ることにも気が付きました。普通のパソコンでも、原稿をCDに焼くものが増えています。この方法によると、製本が不要になり、必要なものはCDだけということになります。CD1枚の値段は大変安いので、冊子など簡単な本の発行には適していると思います。製本が不要というのが魅力的ですね。

 会員の皆様で、『生命と人権』をお読みでない方は、是非、読んでみて下さい。内容は、会が総力を挙げただけあって、国内で第一級のものです。9月中には、読めるようにしたいと思います。皆様のこれからのご健闘を期待します。

(福本正樹:中国・四国支部)

「講演会のご案内」

「北朝鮮問題の現状と将来 北朝鮮留学と難民救援活動の経験をふまえて」講師 李英和(リ・ヨンファ)さん(関西大学助教授・RENK代表)

日時 9月29日(土)18時から

場所 広島市西区民文化センター

     電話 082‐234‐1960

主催 中国・四国支部

電話 082‐291‐7615(池田)

※ 志金 1500円


第2回公判を傍聴しよう!! 

第2回公判が9月14日(金) 午前11時から東京地方裁判所527号法廷(5階) で開かれます。

多数の傍聴をお願いいたします。 東京地裁は地下鉄丸の内線, 日比谷線、千代田線で霞ヶ関下車すぐ。


「第5回北朝鮮人権市民大学講座」

・「金幸一さんの裁判について第2回公判報告」 藤森克美弁護士(予定)

・「北朝鮮当局の人権報告について 参考:『生命と人権』誌第15号」小川晴久共同代表

  日 時:9月14日(土)

     午後6時15分(6時開場)~9時

  場 所:文京シビックセンター4F

       シルバーセンター実習室

  Tel 03-5803-1113

営団地下鉄丸の内線/南北線後楽園駅、

都営地下鉄三田線/大江戸線春日駅下車徒歩1分

主 催:北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会

   問い合わせ先:電話0424-23-3972(小川)

編集後記

◆ 猛暑のなか、会員ならびに『かるめぎ』読者のみなさま、お変わりありませんか。朝鮮総連の「帰国事業」の責任を問う歴史的な第1回公判が開かれ、大きな反響と関心をよんでいます。マスコミもとりあげています。その2つを今号で紹介しました。会員の間からも資料の提供や論文の寄稿があいついでいます。いまの財政状況から現行20ページ以上の増ページは困難で、残念ながら保留となっていますが、財政状況を好転させることによって「帰国者裁判交流欄」のようなものを設け、みなさまの熱意にこたえたいと思います。 (萩原 遼 ワシントンにて)

◆ 「日本にはどんなメッセージがあるの?」と主体思想の英語版を読んでいたウガンダ人学生が私に聞いた。駐在の北朝鮮大使がこの本を配っていたのだ。1986年のことである。この話をアフリカで反金日成の活動をしていた星野芳樹氏にすると、「いとこの星野君子の主人の金斗鎔氏は朝鮮総連の基礎を作った人だが、帰国して粛清されてしまった」と怒りをあらわにした。また友人の金大中氏が、「金日成のはプロの独裁。民主主義では何故いけない」と、南をまず民主化し、その空気で北の独裁を吹き飛ばす構想を語ったと話してくれた。金大中大統領には初志貫徹でやってほしいものである。(佐倉 洋)

◆ 「朴玉枝氏は7月19日に他界された金相玉先生のご友人。その朴氏の「歌集身世打鈴」には在日朝鮮人の苦悩が秘められています。「食卓はリンゴ箱なりわが夫と世帯持ちしは4畳一間ぞ」「朝鮮へ帰れと凄み銀玉をわれに投げつけし無頼もありき」と。金相玉先生は在日のご苦労を一言も口にされませんでしたが、不都合なことも多々あったと思います。金先生は明るくて、話しやすく、いい親父さんだなあ、という印象を残されたまま旅立たれました。ご冥福をお祈りします。(松浦 照雄)

◆ 教科書問題や靖国参拝問題と、日本・韓国・北朝鮮そして中国と東アジアの問題がクローズアップしてきました。これからも21世紀の未来を考え、守る会の活動をやって行きたいと思っています。(窪田 和夫)

◆ 9月下旬、2週間(9月25日~10月6日)ほど日本を留守にし、アメリカに行く予定です。次号にでも紀行記などの形でご報告を考えています。関係者の皆様には東海支部への連絡が取れませんが、ご了承のほどをお願いいたします。(金 国雄)

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