朝鮮戦争時の韓国人拉致被害者 目的や被害人数が帰国事業似ている『日本語訳国連北朝鮮人権報告書』P279-P283

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北朝鮮人権問題

※韓国人拉致被害者について、『日本語訳国連北朝鮮人権報告書』より抜粋。文中の番号は、書籍中の引用元を指す番号。この投稿上では無視してください。

1・拉致など強制的で不随意的な失踪の時期と種類

⒜ 1950~1953年 朝鮮戦争中の韓国市民の拉致

848. 朝鮮戦争中、北朝鮮軍は朝鮮南部から数千人の人々を北部に連行した。1950年6月25日から1953年7月27日の休戦協定調印までの朝鮮戦争の間、38度線の南側に住む民間人の北部への誘拐と移転は、市民の拉致である。これらの被害者は朝鮮戦争拉致被害者と呼ばれることが多い。


849. 朝鮮戦争中、捉えられ、北部へ強制移動させられた韓国市民の数は正確には知られていない。しかしながら、8万人から10万人に及ぶと推測される【1283】。戦争中に拉致された韓国市民の所在と現況を特定する市民社会組織、6・25戦争拉北人士家族協議会(KWAFU)は、数年にわたる集中的な調査の後、その調査機関、韓国戦争拉北事件資料院(KWARI)の行った調査を基に、9万6013人の朝鮮戦争拉致被害者の記録を収集した【1284】。これらの記録は、韓国政府と拉致直後の被害者家族団体とが集めた拉致被害者の詳細なリストに基づいて作られた。他の情報源と被害者家族などの目撃証言もこのリストを補完した。

850. 拉致は広範囲にわたって組織的に行われ、国策に沿って計画的に実施されたことを示している。KWAFUが提示する9万6013人のリストは、拉致が、北朝鮮の社会主義国家基盤の建設と維持に役立つ農地開墾や建設などの技術作業に経験のある若い男性を集める計画的作戦であったことを示している【1285】。調査委員会に提供された情報は、個々の拉致被害者について下記の数値を明らかする【1286】。

帰国事業の目的の一つに労働力不足解消があったがそれと同じ。

851. 拉致は朝鮮労働党の兵士によって実行された。兵士達は、ほとんどの場合、尋問のために拘留するとの条件で市民を彼らの家や職場から連れ出したが、帰宅させなかった。

 ソウル公聴会で、キム・ナムジュ[Kim Nam-joo](男性)は、調査委員会に、ソウル特別市中心部、忠チ ュンムロ武路の電気技師だった彼の父親が拉致された時のことを語った。市民を装ったふたりの男がキムの父親の電気店に入って来て、父親がいないかと尋ねた。キムの父親が出てくると、3人の朝鮮人民軍将校は父親を連れ去り、再び帰ってくることはなかった。しばらくして北朝鮮政府関係者がキムの家にキムの兄を探しにやって来たが、捕まえることはできなかった。キムは調査委員会に次のように語った。

こうして、一度は幸せだった私たち家族は崩壊してしまいました。……過去に経験した苦しみは60年経っても未だに消えません。私たちは今でもあの苦しみの中で生きています。私は今も思い出して泣いています【1287】。

852. 実践的なスキルと専門性が狙われた多くの若い男性に加えて、医療、法律、管理の訓練を受けた熟練専門家たちを狙った拉致もあった。韓国の治安機関と情報機関に勤める人たちも狙われた。6・25戦争拉北人士家族協議会(KWAFU)によると、2919人の公務員、1613人の警察官、190人の司法関係者と弁護士、424人の医師が拉致被害者に含まれていた。

 拉致された警察官の息子であるチェ・ガンソク[Choi Gwangseok](男性)は調査委員会に、彼の父親は標的とされることを恐れて、自分が警察関係者であることが分かる制服などすべてを隠していた、と語った。しかし、その努力にも関わらず、彼の父親は捕えられ、二度と家族と会うことはなかった【1288】。

私の父は、ご存知のとおり、治安部の所属でした。警察のようなものです。父は私に父の制服と関係書類を地下室に隠せと言いました。……私は地下室にいて、書類と制服を隠していました。その時、父と父を探しに来た共産党員との話し声が聞こえました。彼らは私の父に一緒に来いとい言っていました。彼らは父を連れ去りました。私が最後に父を見たのは、父が、私の祖母である彼の母に別れの挨拶をしている時でした。私が父の声を聞いたのはそれが最後でした【1289】。

 北朝鮮国外に生存するおそらく最後の拉致被害者であるパク・ミュンチャ[Park Myung-ja](女性)は、朝鮮戦争時、彼女が働いていた病院の半数のスタッフと北部に連れて行かれた時の経験を話してくれた。パクは、ソウル国立大学病院の北朝鮮軍による占拠のことと、咸鏡南道の咸興市に病院を設立する目的で病院のスタッフの半数が拉致されたことについて、調査委員会に語った。

私たちは山岳地帯を抜けて行きました。私たち㆐㆐医師、看護婦、事務員たちは、皆、とても疲れていました。足はクタクタでした。疲れた者は出てくるようにと彼らは言いました。手を上げて出て行った人たちは殺されました。とても恐ろしかったので彼らに従うほかありませんでした。私たちの足は弱っていました。私たちが歩行を止めないよう、彼らは私たちを殴り続けました【1290】。

853.6・25戦争拉北人士家族協議会(KWAFU)が調査委員会に提出した病院の資料は、拉致が自然発生的に起きたのではなく、北朝鮮の中央レベルが特定した労働と技術を獲得する目的で実行されたことを示している。北朝鮮の文書には特定のスキルと専門性を持った人々を求める内容が書かれている【1291】。たとえば、北朝鮮が韓国に侵入する直前の1950年6月6日に、民族保護省が朝鮮労働党に出した緊急要請では、技師、薬剤師、医師のような人材を必要としていた【1292】。韓国政府からの追加資料と、以降、開示された外国政府の戦時期の電報では、これらの外国政府に戦争中の市民の拉致が知られていたことが詳しく述べられている【1293】。たとえば、機密指定を解除されたロシアの書類は、北朝鮮駐在のロシア大使が、ソウル市民を北部の農場に移送する決定を述べた1950年7月17日付けの北朝鮮の書類を翻訳し、1950年8月17日付けでそれをロシアに送った事実を明らかにしている【1294】。

854. 戦時下の拉致の主要な目的は、労働力と専門家を動員しながら、同時に南部の能力を枯渇させることであった、と信じられている。戦争による北部の人口喪失と、独立初期の北朝鮮政府の迫害による国民の大量脱出のため、北部では労働力と専門家の必要性が増していた【1295】。日本から独立し、38度線以北に北朝鮮を建国した後、新設社会主義国家は、私有財産を占有し、土地所有者、知識人、宗教的な人々など新国家に脅威となりうる人々に対して厳しい行動に出た。結果として、そうした大量の人々が南部に逃れ、突然の労働力不足が起こったのである。拉致は、南部に混乱と混沌をもたらし、熟練専門家と若者の不足により戦後の復興を困難にし、拉致を自発的脱走として描くことで社会主義的な夢を広めることにも役立った。1949年8月5日(朝鮮戦争以前)に発表された報告書は、「(南の)反共産主義集団を、北部に連行することによって、分断し破壊する」【1296】との北朝鮮の国家政策を示している。

855. 休戦協定は、両サイドの司令部に対し、1950年6月24日以後に境界線を越えた市民が望む場合には、彼らの故郷への帰還を許可し、それを援助するよう指示した【1297】。国際法も、武装対立中に拘禁された市民の本国送還を諸国家に義務付けている【1298】。これらの義務が課されているにも関わらず、1950年6月24日以前に境界線の南側で生まれ、朝鮮戦争終了時に北部に居住していた市民の中で、南部に帰還することに対して援助をうけた人は誰もいない。朝鮮戦争以降、北朝鮮は一貫して、戦争時の拉致を否定し、多くの人々が自発的に北部にやってきたと主張している【1299】。たとえば、2013年6月30日に、金正恩は、北朝鮮の公式新聞である労働新聞を通じて次のようなメッセージを送った。

現在の傀儡指導部(韓国政府)傘下における(朝鮮戦争拉致被害者)騒ぎは前任者の挑戦をはるかに越えている。……脱走者に関して言えば、彼らは強制されて脱走したのではなく、彼らの政治的信念と再統一への望みと民族的意識によって、愛国的にして英雄的な行動にでたのである【1300】。

856. 1956年、北朝鮮は、国際赤十字委員会を通じて、「避難民」と呼ばれていた朝鮮戦争拉致被害者の安否を報告するよう求められた。当時提示された7000名の名前のうち337人の情報だけが渡された【1301】。それ以上の拉致被害者の情報開示の要求に対し、「拉致」と「拉致被害者」との呼び方を排除するようにとの要求が返ってきた。2012年、6・25戦争拉北人士家族協議会(KWAFU)は、国際赤十字委員会に安否が不明な朝鮮戦争拉致被害者9万6013人の名前のリストを渡して、詳細にわたる拉致被害者の安否を明らかにするための協力を要請した。現在まで、北朝鮮からの返答はまったくない。拉致発生からの時間の経過を考えると、朝鮮戦争拉致被害者の多くが生存しているとは考えがたい。このリストは国連強制失踪作業部会(WGEID)にも渡された。しかし、北朝鮮からの協力が得られないために、作業部会は何も確認できていない。

日本人拉致被害者に対する不誠実な対応とまったく一緒。

北朝鮮が昔から変わっていないことがよく分かる。

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