刑務所にあふれかえる在日同胞
价川女子刑務所には、帰国した在日同胞も数多くが収監されていた。
帰国者の中でも、日本の親戚が少しずつでも送金してくれる家は、生活状態がそれなりによかったが、そうでない人々は帰国したとき持ってきた品物を売り、食料品(コメ、肉、油、卵)と換えて食いつなぐしかない。しかし、手持ちの品も数年後には尽き果てて、北朝鮮の人々と変わらぬ貧乏生活を送るようになる。
そのため帰国同胞の女性は生活難を克服するために、手持ちの日本円を元手にちょっとした商売に手を出す。日本から送金のある帰国同胞も同じである。彼女たちは、日本の親類から送られた円で闇の物資を買い、売りさばく。こうして闇取引法に引っかかり、刑務所に入れられた帰国同胞が、私かいた当時でも約二百五十名にも上っていた。
とくに一九八八年、金正日が資本主義に染まるからと闇市場を徹底的に取り締まるよう通達を出した当時は、在日同胞が刑務所にあふれた。闇商売を行なっていたのは大半が在日同胞で、多いときには毎日、四十~五十人もが刑務所に送られてきたほどだ。そして、ピーク時にはその数は六百名近くにも達した。何と价川刑務所の女囚約二千人のうち、三分の一近くが在日同胞で占められていたのだ。
新義州から来た李正順は、夫とともに帰国した。保衛部に突然、夫を連れて行かれ、あちこち消息を尋ねて回ると、どうやら夫は反逆罪で政治犯収容所に幽閉されたらしい。
「お前の夫は党に反対する策動をした。夫を待っていても無駄だ」と言われたそうだ。資本主義社会の日本にいただけで目をつけられるのは、帰国同胞も同じである。
清津から来た裵文順や金策から来た車英玉は、日本から夫について北朝鮮に帰国した後、夫が病死し、寡婦になってしまったケースである。
彼女たちも商売をした罪で、刑務所につながれた。車英玉は崔姫淑の公開処刑を目撃して精神に異常をきたし、どこかに連れて行かれたのか行方不明になった。しばらくして聞いた話によると、精神病院に入れられて電気治療(拷問)中に死んだという。
金清河という三十二歳の男性は、財閥級の金持ちの叔父が日本に住んでいると話していた。叔父は民団(在日本大韓民国民団)系だったので、北朝鮮当局は彼を朝鮮総聯(在日本朝鮮人総聯合会)に転向させようと、工作を企んだ。そこで、金清河は叔父を説得するという密命をおびて日本に向かった。
叔父と会った席上、彼は「北朝鮮は楽園だ」と一応は語ったが、同行した保衛員の目を盗んで「生活が苦しくて大変だ」と実情を暴露してしまった。その事実が発覚して、北に帰るや道警察に引っぱられた。結局、彼は「民族反逆者」に仕立てられて電気拷問を受けた末、一九八九年十月頃に命を失った。
一九八九年秋、帰国事業三十周年を迎え、収監されていた在日帰国同胞は恩赦を受け、監獄から釈放された。それでも釈放後いくらもしないで、再び逮捕される人が多かった。
いつも北朝鮮の上層部のやり口は同じである。表面上ではきれい事ばかりを並べ立てる。だが、その裏では、常に卑劣な現実が進行している。北朝鮮ではかくも欺瞞に満ちた行為が続けられているのだ。
『北朝鮮 泣いている女たち―价川女子刑務所の2000日 (ワニ文庫)』P245-248
※トップ画像は『北朝鮮全巨里(チョンゴリ)教化所―人道犯罪の現場』より、一番近いイメージの絵を引用。