『北朝鮮の記録 訪朝記者団の報告』住宅建設と市民生活 共同通信社社会部 村岡博人

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 本稿は、1960年に新読書社から発行された「北朝鮮の記録 : 訪朝記者団の報告 」を紹介しています。帰国事業当時「38度線の北」同様、大きな影響を与えたと思われる訪朝記事です。現段階でのコメントはつけません、一つの歴史的資料としてお読みください。

住宅建設と市民生活

共同通信社社会部 村岡博人

『北朝鮮の記録 訪朝記者団の報告』P119

クレーンの街

 朝鮮の街を歩いていたる所で目についたのは建築用の資材を持ちあげるクレーンだった。
 平壌駅におりると、すぐ目の前の右手に出版センターを建設中のクレーンが立ちならび、駅前の人民軍通りを真すぐ大同江の方に向かってゆくと、スターリン通りとぶつかる右角で、建坪二万八千余平方メートル、高さ四十八メートルというオペラ劇場の建設工事が行われていた。戦争の被害が比較的少なく、朝鮮の京都とでもいえそうな町、古い名所古跡を多く残して居る開城でも労働者アパートをたてるためのクレーンがいくつもみかけられた。平野の真中の農村や北の港町の清津も例外ではなかった。仲間の一人が朝鮮名物はクレーンだといっていたが、朝鮮中クレーンの立っていないところはないといってよいかもしれない。
 
  いまさきまでもたっていた三階建の建物がアスファルト道路にぶっ倒れ
  なかばやきただれた街路樹は
  腰を折られて地べたにでんぐりかえり
  太陽さえ黒い煙のむこうで
  血のように、どす赤く燃えている朝鮮!
  爆撃のために雀さえいなかった朝鮮!
 
 趙基天氏は戦争中作った「朝鮮はたたかう」という詩の中で、むごたらしい破壊をえがき、この地から都市と村とを探すことは徒労だと呼びかけたが、朝鮮戦争は〝ノコギリ戦争〟といわれるほど戦線がいったりきたりしたので、その被害もわれわれの想像をこえるものがあったようだ。平壌についていえば五十五万二千発の爆弾で原っぱにされた。人口一人当り一発の爆弾が落とされた勘定だ。それを短期間に復興し、このごろでは戦争直後に建てた応募住宅の建てなおしにまで着工しだしたのだから忙しいわけだ。
 一九五八年七月モスクワで国際建築家会議が開かれた時、ヨーロッパの代表がその建築の速度の早さを疑ったという話をきいたが、私も東京に帰って高層建築の立ちならんだ写真をひろげた時、何人かの人から「表通りは立派だけど裏はどうなんだ」という質問をうけた。表ばかりきれいでウラはゴミゴミしているとことの多い東京のことを考えれば無理のない質問かもしれないが、朝鮮の町には表も裏もなかった。町に出て地図を買いたいといった時、案内してくれた人に朝鮮ではまだ町の様子がどんどん変わっている最中なんで地図を作っていないんですと説明されたこともあった。朝鮮人自身でさえ何ヵ月も町を離れていると様子が変わっているのにびっくりするそうだ。
 建築のテンポがとくに急激に高まったのは一九五七年、朝鮮労働党中央委員会の十月総会が、組立て式建築方法を広く採用するように呼びかけてからだった。日本ではやり、、、の住宅公団アパートなどにくらべると若干、中の造作など作りが雑な感じもしたが、積み木細工でもやっているかのように、出来あがった壁をクレーンで積みあげていくスピードには驚いた。「地震がないのでつぶれる心配はない」とのことだったが、最近は一世帯分十四分で造れるということだった。勿論外側に色をぬったり、床をつるつるに磨くような余ゆうはまだない。
 われわれ訪朝記者団の案内役をつとめてくれた労働新聞国際部長の田仁澈さんは戦後三回家を変えたといっていた。一間から二間、いまは三間と台所付きの家にいるが、職業同盟(日本の労働組合に当る)では四間のアパートを提供してくれるといっているそうだ。「見にいったんですがね。陽当たりが悪いんで移るのをやめにしたんですよ、そのうちにもっといいのが出来るようになるだろうと思ってね」田さんはこういっていたが、事実住宅の室は年々向上しているようだった。
 「これは一九五七年」「これは五八年」「これは昨年建設されたものです」と説明された建物をみてゆくと、外側はほとんど変りないが、一世帯あたりの部屋数が二つから三つにふえ、浴場施設が付属するといった調子で年ごとに住宅事情の好転してゆく様子が感じられた。

カラすぎる食物の由来?!

 例えば、一九六〇年の平壌の住宅建設計画は面積にして六十七万余平方メートル、これによって東平壌の寺洞と建設中の第二大同橋を結ぶ区間に、巾八十メートルの東大院通りが生まれ、その両側に八階ないし十二階建の高層文化住宅が千三百世帯建設される。これには塔式住宅を配合して建物の美感をます予定だ。住宅ばかりではない。十四の技術学校と人民学校、機械大学をはじめとする四つの大学幼稚園、託児所のほか十ヵ所の浴場、一日一万着を洗える機械化された七ヵ所の洗濯所を新設するのも一九六〇年の目標だ。
 朝鮮労働省は一九五九年十二月一日から四日間、中央委員会の拡大総会を開いて一九六〇年の国民経済発展計画などを討議した。総会は金日成首相が提案した、一九六〇年を「緩衝期」として来年から第二次五ヵ年計画にとりかかるための準備期間とする方針を採択した。そして緩衝期の中心課題は「これまでの、とくに一九五九年度の計画遂行において一部の経済部門にあらわれた緊張をとき、弱い環を強化して人民生活をいっそう向上させること」であると指摘した。今までは「最大限の増産と節約」というスローガンでがんばってきた。在日朝鮮人を迎え入れるだけの余力も出来たし、ここらで一息、「今年は勤労者の住宅と文化厚生施設を大いに建設しよう。主食と副食物及び大衆消費品の生産をあらゆる方法で増大させ、その品種をいっそう多くし、製品の質をたかめることによって大衆が要求する各種の消費品を円満に供給しよう」というのが、一九六〇年を迎えた朝鮮の目標だった。
 いわゆる三十八度線、軍事境界線をはさむ非武装地帯まで耕している平和里農業協同組合で、李福淳委員長も語っていた。「この村は戦争の終るのがおくれたのでまだワラぶき屋根の家があります。しかし今年の八月十五日にまたきてみて下さい。きっと全部がカワラぶきになっていますよ」彼の表情は確信にみちていた。
 金日成首相も帰国者を前にして語っていた。「ここにきて富者になったと考えてはいけない。しかし働いて食べて住んでゆくにはいい条件がある。第一に失業者はいない、飢えている人もいない、野菜や肉はまだ不足しているが党はこの問題の解決に力をそそいでいる。
 よく働きよく闘えばよく食うことが出来る。住宅にはいいものもあるし悪いものもある。これまでは人々をほら穴から引上げるのが当面の任務だったが、今ではせまいながらもみんな住む家が出来た。この厳冬でもこごえ死ぬ人はいない――」首相はそっちょくに「まだ野菜や肉類が不足している」といっていたが、われわれが旅行者の眼でみた限りでは、戦争直後の日本のように配給所に列を作るというような極端なものではなかった。日本でもまだ副食品まで配給制だったころラジオがよく「きょうの入荷はスケソウダラ〇〇貫……」といったような放送をしていたのを覚えている人も多いと思う、私は朝鮮でそのことを思い出した。いたるところでこの魚、朝鮮名でいえばメンタイ(明太)にお目にかかったからだ。平壌では天びん棒の両側に何十尾もぶらさげてはこんでいる人を見かけたし、農業協同組合の食料品販売所でも山と積まれているのを見た。生のままでは食べきれないのだろう。咸口の町では日の当たらない場所の板べいにぶらさげて干してあった。朝鮮では冬はほとんど雨が降らないし、盗んでゆく人もいないので夜も外に出しっぱなしにしておいて〝凍干〟させるということだった。味がよいわけではないので、ホテルの食卓ではメンタイの卵――タラの子以外にはお目にかからなかったが、質よりまず量が要求されている現在の朝鮮では、どこの家庭でもたくさんたべているようだった。
 東京では朝鮮料理といえば焼肉ぐらいしか食べたことのなかったものにとって、本国での正月料理は色々と珍しいものが多かった。中国料理の水ぎょうざに似た「マンド」、もち米に干し柿、栗、ナツメ、松の実、蜂蜜などをまぜて赤飯のようにふかした「薬飯」など十数種類も食卓にならべられた時にはどれから手を出そうかとまよったほどだった。ただ困ったことには大部分がカラすぎた。最近は日本人でも愛用者の多い朝鮮漬「キムチ」(沈菜)にしても、ちょっと赤い所を口に入れると飛びあがるほどカラかった。
 病院を見学した時、心臓病の多いことをきいたので、「刺激物をとりすぎるためではないか」ときいてみたがはっきりした回答はなかった。「朝鮮人の食物がカライのは過去長い間圧迫されていた時代わずかな副食物でごはんをたべねばならなかったから自然辛いものをとるようになったのではないか、そのうちに肉や野菜がもっと豊富になれば食生活も改善されてうくだろう」と案内係の朝鮮人記者の一人はいっていた。
 日本にいる時にも、貧困の中で腐った肉でもたべねばならなかった在日朝鮮人がいわゆるホルモン焼きを考案したということをきいていたが、過去の朝鮮と切りはなしては考えられない日本の責任を思い出される言葉だった。キムチは朝鮮では四季を通じて日常の食卓になくてならないものとされているのだろう。宴会や酒席にも必ずならんでいた。下痢のため病院に入院した仲間の一人は、「医者に刺激物はとらないように」と注意された直後、看護婦さんの運んできてくれた食ぜんにキムチがあったといいい、「あの程度のカラさは刺激のうちにはいらないのだろうかね」と笑っていた。それほどキムチは朝鮮人の食生活と切りはなせないもののようだった。

酒とタバコと

 工場見学をした時、「昼食は工員さんと一緒に食堂で」と希望したのだが、「お客様にそそうがあってはいけない」と白いテーブルクロスのかかった別室で御馳走されたのは残念だったが、そばやにいきたいという希望はかなえられた。暮れの一日、平南第一麺屋という〝国営のおそば屋さん〟へ行った。建物は古風な朝鮮式の二階建てだった。国営の商売になると売り上げが自分の収入に関係なくなるせいか、お客扱いがぶっきらぼうになることもあるようだが、「このそば屋は女給さんたちのサービスがよいことと、料理がうまいことで有名だ」という説明をききながら二階へ上がった。なるほど忘年会でもやっているのか、酒を飲み歌を歌っている人々など、どの部屋もお客さんが一ぱいのようで人気のほどがうかがわれた。黒いチマ(スカート)に桃色のチョゴリ(上衣)という制服姿の可愛いお嬢さん方が、おしぼりをもってきてくれるのも悪い気はしなかった。真ちゅうの器に銀のはしという昔風な食器を使うあたりも、なかなか工夫をこらしているようで、一番上に真赤にのっていたからしをはしでどけてから食べた平壌冷麺の味も忘れがたいものがあった。
 朝鮮語にソンジュ・フーミョン(先酒後麺)という言葉があるそうだ。われわれもここで大部酒をすすめられて飲んだ。〝にんじん酒〟といって、朝鮮人参のエキスをアルコールでうすめたような強い酒で、もちろん火をつけると燃えだした。日本の酒とちがってちょっとぐらい飲みすぎても頭が痛くなることはなかったが、われわれ記者団の中には酒に弱い者もいて、〝不老長寿の薬だ〟と無理にすすめられるのには大部困っていた。その中の一人がある宴会の席上でこういった。
 「われわれは東京にいる時、北朝鮮というところは自由のない生地獄だときかされていた。
 こちらにきてもう大部たったがどうみても生地獄とは思えなかった。しかし私は今夜朝鮮に自由のないことを発見した。酒からの自由がない」、朝鮮人もまじえてこの皮肉たっぷりな挨拶にはヤンヤのかっさいが起こった。だが相手もさるものすぐ立ってやりかえしてきた、「日本人記者のいうことは本当だ、酒からの自由がなくていけない。その意味で乾杯しましょう」。もちろんこの機智にとんだ応答に宴席は再び大笑いとなった。酒からの自由を求めた仲間はこの日から宴席を途中でソットぬけ出すようになった。「朝鮮では酒の席からぬけるのに奥さんがこわいからなどといったら笑われて相手にされないけど、お客さんがシッポをまいてソッと逃げる分にはいっこう失礼にならないんですよ」と朝鮮人記者に教えられたからだった。朝鮮でも日本同様新聞記者はよく飲むらしく、私もアニ・アニ・ペクチャ(いやいや百杯)という言葉をおぼえるくらいすすめられて〝にんじん酒〟を飲んだ。酒はこのほかしょうが酒、こうりゃん酒、ぶどう酒など種類は豊富で、そう安くはなかったが百貨店にも山と積んで売っていた。もちろん自由販売で、夜などアパートの下の食堂でイッパイやっている労働者の姿をみかけたものだ。
 煙草についていえば二十本入り八十銭のモラン(ぼたん)から十五銭のズンサン(増産)まで九種類ほどあったが、中では三十五銭のコンソル(建設)というのが一番売れていたようだ。いずれも健康の問題を考えてニコチンでもぬいたのか〝軽い〟というのが同行記者の一致した感想だった。
 平安南道の立石農業協同組合で朴竜女さんに会った時、解放前地主の所に住み込んで働いていたという彼女は、当時のことを思い出し、「あのころは主人のお膳の上の山もりのごはんからのぼる湯気をみて、いつもうらやましく思っていたものでした。それがいまは自分のものになったんです。おぜんに向かうと死んだお母さんに食べさせたかったと思って――」と語りながら、目に涙をためていたが、今では北朝鮮だけで自給自足出来るだけの米がとれるようになり食生活もだんだんほうふになってきているようだった。

量では豊富になった衣料

 今年の一月国家計画委員会の中央統計局が発表したところによると、一九五九年度の穀物生産高は三百四十万トン、野菜の生産量は前年に比べて四十三万トン増加、果物も一一二パーセントに増加した。販売量の面からみても一九五八年に比して、食用油は一七一パーセント、水産物は一〇九パーセント、醤油は一四八パーセント、野菜は一八六パーセントと増加しており食品の流通額が全体で一二八パーセントに増加していることからも食生活の充実ぶりがうかがわれた。
 衣料事情の面でも前年にくらべるとその好転ぶりはめざましいものがあるようだ。質のいいものを作るのはこれからだが、全体としてもう不足しないだけの量を揃えることは出来るようになったという印象をうけた。清津であった女性同盟の幹部の人は「昔はきたきり雀だったのが、最近はやっとみんな外出用、普段着、作業着と別々にもてるようになった」と語っていた。
 ちょっと関心をひかれたのは日本からの帰国者の方が町を歩いている朝鮮人婦人よりも派手な服装をしている人が多いことだった。自分からのものを節約してまで親切にしようとしている迎える側の人々に複雑な気持ちを与えるのではないかと考えたからだが、この予想は見事にはずされた。
 「日本の風俗がそうなっているかよく知らないけど服装や髪の形などは本人の自由です。私たちにはハイヒールより健康的な美しさを持つ靴があると思うし、パーマネントをかけても前髪だけはきれいになでつけておいた方が美しいと感じている人が多いんです。」しゃべっている様子に日本からきた人が派手な服装をしてけしからんというようなせまい考え方は、ほんの少しも感ずることは出来なかった。
 日本の社会での考え方、感じ方が朝鮮では通用しないということはよくあることだ。例えば帰国者が持っていった電気冷蔵庫や洗濯機についての考え方にしてもそうだった。帰国者は日本流に「まわりの人が使うようになるまで自分だけぜいたくをしないでしまっておこう」と考えるが、まわりの朝鮮人は「その考え方は間違っている」と指摘する。「電気器具で家庭労働を軽減するのはぜいたくではなくてわれわれの目標だ、低い方にあわせていないで使える人から使わなくては進歩しない」これが社会主義なのかもしれない。はじめはとまどう帰国者たちもすぐに電気洗濯機や冷蔵庫を使う方が正しいことに気づくだろうと感じさせられた。
 よく社会主義というと「自由がなくて息がつまりそうだ」という人がいるが、衣生活に関する限り朝鮮は中国以上に自由な感じだ。昔どおり黒い丸いカンムリを頭にのせ、まるで日本の大和朝廷時代の絵に出てくるような白装束をした老人がいるかと思うと、背広にソフトというスマートな青年もいる。中国のように工人服一色といった劃一的かくいつてきなところはすこしも感じられない。婦人の服装になるとさらに色彩が豊富になり、形も長いチマに短いチョゴリという朝鮮服から、セーター姿まで色とりどりで、これも中国風なズボン姿はあまりみかけなかった。
 清津紡績工場を見学した時、せっかく作業服が支給されているというのに、朝鮮服をきたまま働いている女工さんをみかけたが、案内してくれた朝鮮人記者は「女性というのは自分をきれいにみせたがるんでね、彼女等は朝鮮服の方が自分に似あうと信じているんですよ」といって説明してくれた。彼女らのおさげにした長い髪には赤い髪かざりタンギ(リボン)が結ばれていた。
 朝鮮の婦人服の歴史は古く高句麗の時代(紀元前三七ー紀元六八年)からいまのようなチマとチョゴリがあったようだが、最近は洋服のスカートのように丈のやや短い、ひだのある筒形のチマもはやっているようだった。これは軽快で、活動には便利で経済的だからだろうが、これからも民族衣裳のもつ伝統的な美しさを生かしながら社会主義的な生活様式にあわせた色々な変化が起こっていくことだろう。
 昨年の主な衣料の生産高は織物が一億五千八百万平方メートルで、前年の一四四パーセント、靴下類が千七百万足一〇五パーセント、肌着類が九百二十八万一千万で一二八パーセント、まだ豊富だとはいえないかもしれないが、全国の学生、生徒に夏服、大学および高等専門学校の学生にはオーバーも無料で支給されていた。

デパート風景

 おおみそかの日われわれ日本人記者団は駅前のデパートに入ってみた。がママ衣料品売り場には人がたくさん集まっていた。とくに子供の晴れ着がどんどんと売れていた。赤、黄、青といったはなやかな色のたてじまの「セクトン・チョゴリ」と赤いチマと一組で三十五円。決して他の物価とくらべて安くはないが、まず子供にきれいな着物をきせてやろうという親心がさっせられた。朝鮮のお金は昨年二月幣価切下げをやったので、現在は七・二円が一英ポンド(約千八円)にあたり、日本円に換算すると約百五十円だった。授業料は無料、病院の治療費も無料という国の物価と日本の物価をくらべるのはむずかしいっことだが、デパートでの値段票をならべてみると次のようになる。工員さんの平均月給が五、六十円ぐらいと思ってみてもらえばだいたいの見当はつくだろう。
 子供のワンピース四円五十銭、子供用わた入上衣十五円、クツ下九十銭、純綿二十八インチ巾一米四円、大人用の絹の上等な朝鮮服が六十円。背広上下百七十二円。Yシャツ十円、それに一番人だかりしているところをのぞいたら子供用のメリヤスのズボンを二円五十銭で売っていた。
 社会主義の国ならばどこでも同じだろうが、朝鮮の物価を日本と比較してとくに注目されたのは生活必需品の値段がべらぼうに安いのにくらべて、ぜいたく品とくに装飾品などがとてつもなく高いということだった。例えば六畳、八畳と台所便所付ぐらいのアパートで家賃が光熱費、水道料を含めて夏は一円二十銭、冬は二円四十銭、お米が一キロ八銭というのに対して、ケース入りの朝鮮人形が二百円、大きな刺しゅうの額が二百五十円といった調子だった。必需品に品物の種類ばかり多くするために単価があがり、消費者がそんをしているような日本のくらべれば平壌のデパートの売り場にならべられた品数ははるかに少なかったが、指輪(五円四十六銭)ブローチ(八円、二円二十銭)口紅(一円)クリーム(一円六十銭)などなどもならんでいた。バイオリン(四十円)カナキン=朝鮮の琴(六十円)など楽器や、サッカー靴(十八円)バレーボール(九円)軟式テニス・ラケット(二十円)などスポーツ用品がたくさんならんでいたのは、学校や職場でサークル活動がさかんなためだろう。
 駅前デパートは一階が食料品、二階がカバン、クツなど雑貨類、三階がオモチャ、人形、楽器、四階が衣類売場になっていた。平壌にはこのほかにもう二つのデパートがあるとのことで、制服をきた販売員は「商品種類は毎日のようにふえています。それに質も最近は目立ってよくなってきています」と確信を持って語っていた。
 「百万円のミンクのオーバーを着ている人がいるかと思えば、石炭界の不況で何十万人の失業者が出て黒い羽根募金が行われる日本とはちがいます。そりゃ日本人が見れば朝鮮人の生活はまだ中の下。あるいは下の上かもしれません。しかし、朝鮮人はみんながその生活に満足し、みんなが生活水準を向上させようと努力しているのです」。朝鮮人記者の一人はこういっていたが、ほんとうに朝鮮人はみな将来しあわせな生活がくることを知り確信しているため、現在の生活に満足しているようだった。
 「朝鮮人の生活が向上していることはなによりも事実が証明している」。私は何人かの工場労働者や農民の家庭生活について色々ときいているうちにこう考えるようになっていた。
 例をあげよう。奇洞炭坑で働いている呂孝弼さんの家庭は七人家族で長男は中学に、次男は人民学校に、その下の二人の娘は幼稚園にそれぞれかよっており、いちばん下の男の子は託児所の世話になっている。かれが自分の父といっしょにこの炭坑で働くようになったのは一九三〇年のはじめごろ、当時かれの父母と妹の四人が命をつないでゆくためには日に三キロの穀類が必要だった。そのためかれらは家庭総収入の九〇パーセント以上を食費にあてていたが、それでも自分の顔のうつるようなうすい粟のおかゆをすすらねばならなかった。いまではどうだろうか、最近の家計等から計算したところ収入に対する支出の比率は次のようになっていた。
 米代 四・七パーセント、燃料代 二パーセント、住宅使用料その他 〇・七パーセント、副食代その他 二三パーセント(これは市価に換算してのことで、実際は炭坑の副業農場から購入するのでもっと安い) 被服費 一五パーセント、それに家具代や文化用品代を一〇パーセント、合計してみても支出は収入の五五・四パーセントにしかなっていない。教育費や保険費はいらないし娯楽費を使ったとしても月収の二〇ー三〇パーセントは貯金出来る計算だ。
 平壌から南へ車で一時間ちょっとのところにある黄海製鉄所の製鋼工場につとめている秋祥秀さん(四九)の場合は、奥さんと十三才になる息子と三人暮し、月収はこの工場の平均賃金六十五円より高く約百二十円、支出をみると家賃は水道料、電気気ママを含めて二円、米代は十五日分で一円二十銭だから月に二円四十銭、副食費はお客さんがあった時などは五十円を越すこともあるが、平均して三十~三十五円、本代など文化娯楽費が月に四円五十銭、この冬は町に出て子供のものなど五十円ほど買ったが、毎月平均二十円から五十円は貯金する。
 「主人はお酒も少し飲みます。しかし貯金は出来るし、ソ連製のラジオもあるし、ヤギも一匹飼っているので乳をしぼることも出来ます。昔は、お金持ちのことがうらやましくて仕方なかったけど、いまはこれ以上何が要求出来ましょうか。幸福そのものです。貯金は、戦争中に失った家具を買い入れることに使おうと思っています」――奥さんは幸福そうな表情でこういっていた。

家事労働から解放された婦人たち

 市民生活について語るとき、みすごすことの出来ないのは、家庭労働を共同化することによって軽減し、婦人を家事から解放しているというであるママ。せんたく、食事、育児など一切を共同で処理することによって浮いた時間を婦人たちは生産や学習に使っていた。
 共かせぎの若い夫婦にとってどこでも問題になるのは赤ん坊のことである。年老いた母親でもいればお守りをたのむのだが――というわけで、老いも若きも男も女も働け働けという前に、まず託児所や幼稚園の建設を急いだ。だから都市でも農村でも働く人たちの集まっているところには必ず託児所があった。紡績工場のように女工さんの多いところではとくに施設が整備されていた。
 金策製鉄所の場合を例にとってみよう。この工場は託児所を三ヵ所にもっており、収容人員は千人、われわれのたずねたところは三十二室に約三百人の幼児をあずかっていた。保姆さんは五十人いた。保姆さんの資格をえるためには、中学を卒業したあと一年の専門教育をうけることになっており、保姆さんの養成所では各道(日本の県にあたる)ごとに一つ以上あるとのことだった。
 託児所の部屋はどこでも朝鮮式にオンドルで暖められているので、子供たちは男も女も同じ色のベビー服を一枚きただけでおしりは出しっぱなし、所長の崔凰淑さんは「この方がずっと衛生的なので――」と説明してくれたが、こどもたちがおしりを丸出しにして遊びまわっている姿は、床の下から暖めてくれるオンドル付の朝鮮の託児所でなければ見ることの出来ない風景だろう。室温は二〇度、厚着をしていたわれわれはちょっと汗ばむくらいの暖かさだった。
 壁に時間表がはってあったが、それによると、一日の日課は午前七時半から子供の受付開始、八次半から十時までお化粧、十時から三十分間、授乳および間食、十時半から二時間昼寝、十二時半から三十分間自由時間、一時半から授乳、二時から自由時間、二時半から一時間半睡眠、四時から着替えで五時半おかえりとなっていた。こうした一日あずけのほかに月曜から土曜までといった調子で、夜間もあずけっぱなしで親たちの都合のよい日に家につれて帰る制度もあった。八時間制の三交代で、一日中機械を動かしている工場の多い朝鮮では、こうでもしないと安心して働けないのだろう。託児所のあずかるのは生後三十三日から満四才まであとは幼稚園になる。
 平壌紡績工場で技師になるため勉強しているという若い夫婦にあった時、産児制限の話を持ち出してみたが、「託児施設がよく出来ているので、子供が出来たからといって仕事や勉強のじゃまになるなんていうことはありません。朝鮮では産児制限なんていうことは――」と軽く話題をそらされてしまった。
 「託児所の子供たちはどこへいっても、アブジ、アブジ」(おとうさん、おとうさん)とひとなつっこくわれわれ訪問客のそばによってきた。子供たちの頭の上には「わが国のつぼみたちよ、グングンと大きくなって新しい朝鮮の大きな柱となろう」という金日成首相の言葉が大きく掲示されていた。託児所は工場や農業協同組合の経営しているものが多かったが、子供たちの衣、食、住は政府によっても保障されているのだった。
 家庭生活の中で育児についで共同化の進んでいるのが目についてのはせんたくだった。平壌の町に立ちならぶ高層アパートをみた時、表にも裏にもせんたく物一つ、ふとん一枚ほしてないことに気がつく。日本のアパート群、いわゆる団地で、晴れた日など窓と言う窓からなにか干し物が出ている風景をみなれてきたわれわれには、ここには人が住んでいるのだろうかといぶかしく感ずるくらい、変化のない壁と窓が続いていた。
 想像される一つの理由として、零下十数度までさがる寒さがあった。ぬれた物など表に出したら凍ってしまうのだろうか――この疑問にあるアパートの入口であった一人の婦人が答えてくれた。
 「せんたくは下着まで全部共同のせんたく場に頼むんです。簡単なものなら朝、仕事にゆく時渡して、夕方帰る時には受け取れます。
 食事もお米を渡しておいて、アパートの下の共同食堂で家族そろって食べている人もいますよ」
 もちろん自分で、洗濯したい人は共同のせんたく場へ言って気のすむまでたたいてもかまわない(朝鮮のせんたくの仕方は太い棒でたたくようにする)。だがすこしぐらいの手数料を出しても期間の節約になるからたのむという人の方が自然に多くなっている。食事になるとまだ自分の家で作って、親子水入らずでたべたいと考えている人が多いようだが、若い人たちの間には労働日は共同食堂で食事をすまし、休日祭日だけ自分たちの家庭料理をたのしむという人もふえてきているとのことだった。農村の場合、まだ全部が平壌の町ほど共同化されているわけではなく、せんたくなど共同浴場とならんでたてられたせんたく場におかみさんたちが集まって、棒でたたきながらせんたくするときいた。しかしここでもチョゴリやチマの仕立てなど裁縫の仕事は共同化されていた。正月平安南道の立石農業組合を訪ねた時。村の中心部の丘の上に食糧品販売所や床屋さんとならんで建てられた、〝裁縫班〟の仕事場では、「みんなが遊ぶ時に私たちは忙しいんですよ」と元日から若い娘さんが三人、懸命にミシンを踏んでいた。
 「昔はめんどりが鳴くと国が滅ぶといって女をいやしめたもんじゃ、それがいまでは――」板門店の近く、軍事境界線のそばの非武装地帯でニンジン作りをやっている朴大竜老人は、こういって婦人の地位の向上を感慨深く語っていた。日本の国会にあたる最高人民会議に二十七人の女性が進出し、一万三千二百九十九人の女性が各級地方人民会議の代議員として活躍しているということは、こうした日常生活の共同化などによって時間を得た婦人の生活の充実に裏付けられて初めて可能になったことではないだろうか。
 平壌紡績工場であった二十九才の織布女工朱炳成さんは労働英雄であり、最高人民会議の代議員でもあった。労働英雄という労働者として最高の称号を与えられたのは、一人で三十五台の織機を受け持つ多機台運動の先駆者だったからで、国家基準は十二台、現在の平均は二十台ぐらいだとのことだった。楽浪区域選出の〝議員さん〟としての役務は、この地区の人民生活の向上のために努力することで、働きながら人々の要求をくみあげて、最高人民会議の常務委員会に提起するのが仕事だといっていた。
 朱さんの月収は平均百二十円程度、昨年紡績工場の近くにある機械製造工場につとめている男性と結婚したが、夫の月収は五十円程度、「だんなさんを尻にひくようなこのはないですかねえ」と同行記者の一人がいったのには笑って答えなかったが、朝鮮人記者が、「ああいうようにえらい女性が多くなると家庭生活はどうなるんだろうな」とまじめくさった顔をしてみせたのにはこっちまで笑ってしまった。みんなが最低生活を保障されたうえで、「働きに応じてとる」という社会では、朱炳成さんのような例もそう珍しくないわけで、農村でも収穫が「家」に属さず働いた「人」にわけられるということが、女性の地位の向上に大きな意味をもっていた。「働きにおうじてとる」という制度はいわゆる家長制度にとどめをさし、封建的家族制度から女性を解放したのだった。
 いまでは女性が親の選んだ相手にいやいや嫁にいかされるというようなこともない。もちろん見合い結婚が全くなくなったわけではないが、労働を通じて性格なり生活態度をみてから相手をえらぶから職場での恋愛結婚が圧倒的に多い。
 「私たちが最初に知りあったのは一昨年のことでした」整紡修理工の林成奉君(二九)は奥さんの姜仁淑さん(二六)との結婚についてこんなふうに話してくれた。「私が夜間紡織専門学校を出て現場で働いているところへ、彼女は大学出の技師としてやってきました。正直にいって顔はあまりきれいでないけど、知識も多く技術もすぐれているし同僚たちの信頼もあつめていました。私ははじめから彼女の高い品性に心をひかれていました。そのうち二人で映画をみにゆく機会がありました。『平和への道』という題で、主人公は愛国的な活撥な男でした。かえり道、映画の感想をのべあっていた時、彼女は〝これから先あなたはどうするつもりですか〟ときいてきた。私はこの質問にちょっとめんくらったけど、〝すぐ自分はこの映画の主人公のように、大たんにものを考え、大たんに研究し、最短期間で技師になります〟と答えました。彼女は〝もしなれなかったら〟と反問し、私は〝職場で学習の条件は保障されているし、自分さえ努力すればきっとなれる〟と決意を語りました。この夜がきっかけとなって二人はたびたびあうようになり、一緒に映画にいったりクラブにいったりするようになりました。結婚したのは昨年のはじめです。」
 男女の交際は仕事や学習の場を通じて行われるだけでなく、映画やダンスなどクラブ活動を舞台とすることが多いようだった。どこの工場や農村でもたいていクラブか民主宣伝室という集会場を持っている。若い連中はみんな仕事が終わるとここへきて歌ったり踊ったりする。映画は毎日やっており四日ないし五日ごとに変わる。月に一回もみないというような人はほとんどない。料金は何回みても月三十銭。最近では天然色映画「春香伝」や抗日パルチザンの奮闘ぶりを描いた「未来を愛する」というのが人気を集めていた。ダンスは大きな輪を作って踊る大衆舞踊だが、フォークダンスとちがって最後まで選んだ相手とはなれずに踊っていられる。ただし「朝鮮の女性ははにかみやが多いんだよ」と朝鮮人記者が説明してくれたが、日本式の社交ダンス?にはお目にかかれなかった。娯楽の種類からいえば、タマツキ台ありピンポン台あり将棋ありという板門店休戦会談場の記者室が、私のみた中で一ばん完備した場所だったが、なにはなくても朝鮮人はよく踊り、よく歌うようだった。
 クラブの数は全国で三百。民主宣伝室は一五二千六百七十二ママある。このほか映画は七百五十五の常設館で見せるだけでなく、農村へは巡回映画帯が週に一度ぐらい、持ってまわっていた。

完備された休養施設

 日本では温泉にゆくのも一種の娯楽で、会社や村の団体旅行などで温泉にいって帰ってくると遊びつかれてくるような例も多いが、朝鮮の温泉場は徹底した休養所になっている。清津から汽車で四十五分ほど南へ行ったところに朱乙という町がある。日本の統治時代から温泉場としてしられたところだが、山あいの林の中を清流にそって上る道のあたりは奥伊豆の狩野川べりを思い出させる美しい景色だった。今ではここに温泉休憩所という国営の施設が建っている。ちょうどわれわれが訪れた時は冬の休所期間で増築工事をしているところだったが、所長さんの話では三月から十二月はじめまでの間に一万人以上の労働者が休養にやってくるということだった。冬の休所期間といえば冬こそ温泉場のかせぎ時だと考えている日本人には奇異に感ずることだろう。間違いではない、冬は屋外の運動が出来ず休養にきてもお湯に入って部屋でゴロゴロする以外にやることがないから積極的な休養にならないというのがその理由。朝鮮の温泉休憩所に入所した人はみんな規則正しい生活をおくることになっている。
 日課をきめるのは入所者で構成している生活委員会、夏は朝六時、秋は七時に起床、きょうの午前中は登山、午後は歌やおどりの競演、あすは建物別対抗の運動会……といった調子だ。お湯は豊富にあふれているが入浴の回数もきまっているし、昼寝も日課になっている。「夜八時間は寝ているし、はじめは寝付けないんですよ。だけど本でも読んでいるようなものなら、休憩所で働いているお嬢さんがやってきて〝いけません。いまは睡眠をとるべきです〟とおこられるんですよ」同行の朝鮮人記者はこういって笑っていた。
 客引きの番頭もいなければ厚化粧の女性群もいないが、酒は自由販売だしおみやげもの屋もあった。ただし飲んで騒いでクダをまくような人をみかけることはないそうだ。
 朝鮮ではすべての労働者が週末のほかに一年に二十四日間ぐらいの休日を与えられ、外金剛、雲山、陽徳、松興、信川など全国の景勝地に作られている休養所に入ることになっている。温泉も勤労者の明日の生活のためにあるのだった。
 日常朝鮮人はまだ一般に入浴の回数が少ない。このほかまだ頭の上に物をのせて歩く、食物がカライ、冠婚葬祭を派手にやるといった古い習慣など、否定すべき習慣も全くなくなったわけではない。こういうものは一朝一夕で変わるものではないのだろう。
 教育文化相の李一郷さんは「否定すべき習慣の多くは、勤労者たちが歴史的に強要されてきた生活水準の低さに起因しているものが多い」とそっちょくに認めていた。「社会主義建設は自覚した大衆の問題が基本的に解決されたこれからは、徐々に生活習慣も変わってくるだろう」とも語っていた。
 頭に物をのせて歩くのは健康上よくない。だがこれは交通手段、運輸手段と関連して考えねばならないというのが李教育文化相の考え方だ。現在平壌市内のおもな交通機関はバスだけ、乗用車はガソリン節約で一般市民は特殊な場合、例えば病人が出たとか、結婚式場からおよめさんが帰るとかいったような時にか使わない。バスもこんでいて、人々は停留所に列を作って待っている。そういう時に重たい物をはこぶのに「頭に物をのせてはいけない」といっても無理なこと。「今年から自転車も大量生産段階に入ったし、交通事情が緩和されるのも間もないだろう。そうしたら自然人々も重いものを頭にのせてはこばなくてもよくなるだろう」というわけだ。
 結婚式にしても、昔は三里さきの道まで酔っぱらいを寝かせなければ盛大でないといわれたのが、このごろでは食堂などで簡単に行われるようになった。入浴の習慣にしても政府は現在週二回入るように勧告しているが、もっとたくさんの共同浴場が出来て入りやすくなればみんな毎日でも入るだろう。なんでも頭から命令して強制的に変えさせることはかんたんだが、それをせず、まず条件をととのえ、下からの自発的意志によってゆこうというのが朝鮮式のやり方だ。
 第二次五ヵ年計画は朝鮮の社会主義建設にとって決定的な時期になるだろう。朝鮮人の市民生活の水準もその時には飛躍的に向上しているにちがいない。国営化。集団化という形式がととのったのに応じて、生活の奥深いところでも革命はすでに進行しているようだった。

北朝鮮の記録 訪朝記者団の報告

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