朝鮮総連に対する北送された在日朝鮮人の怨嗟の声『北朝鮮脱出 地獄の政治犯収容所』より

北朝鮮人権問題

帰国事業で北送された、在日朝鮮人の朝鮮総連に対する恨みの声を『北朝鮮脱出〈上〉地獄の政治犯収容所 (文春文庫)』から紹介します。

ここに来て早くも三回目の元旦を迎えた。近所の帰国同胞で、日本にいた頃から知り合いのおばさんたちがあいついでやって来た。祖母と近所のおばさんたちは、はじめ静かに挨拶をかわしていたが、時間が経つにつれ声が大きくなった。

「私たちは完全に騙された、騙されたのよ。こんなばかげたことってある? 汗水流して稼いだ金はみんな朝鮮総聯に寄付して、あげくのはてに、こんな苦労をするなんて……」

祖母と同じ済州島生まれの金順蘭おばさんも、床を叩きながら痛哭した。

「それは何もかずちゃんばかりじゃないよ。私たちみんなが騙されたのよ。こんなにうまうまと手玉にとられるなんて……」
「誰だい、地上の楽園なんて言ったやつは」
「韓徳銖のやつ、殺してやりたいよ。あいつがどれだけ私たちをそそのかしたか。そうじゃない? 京都にいる同胞のところへやってきて、祖国に帰ろうなんて、どれほど熱心にすすめたことか」
「今思うと、韓徳銖くらい悪質なやつはいないよ。あいつが元凶なんだ。あいつはどうやって罪のつぐないをするつもりかしら」
「私はなんとしてでもここを出て、もう一度日本に行きたい。韓徳銖のやつを八つ裂きにせずにはおかないよ」

韓徳銖は一九五五年、金日成が直接指名した朝鮮総聯の議長であった。そうした事実を何も知らない朝鮮総聯京都支部の同胞は、大した闘争経歴もなく、有名でもない韓徳銖が議長をしていることに不満をもっていた。そうしたことが今になって問題になるとは、夢にも考えられないことであった。私の祖父をはじめ多くの帰国同胞は、その問題のせいで反動とみなされ、ここに入れられる運命になったのである。

「そういえば、昨晩は金日成、金正日の肖像画に挨拶した?」
「私に、それはできないわ。はじめは意味もわからずにやったけど」
「だからといって、行かないわけにもいかないんじゃない」
「そうね。へたなことをしてトウモロコシの配給をとめられたら、飢え死にするんだから」
「もう死ぬ日も遠くはないのだし、自尊心を捨ててまで生きてもしかたがないわ」
「何も自分が生きたいわけじゃないわ。私が考え違いをしたため子供たちをここへ連れてきて、こんな苦労をさせているのが、申しわけないからがんばってるのよ。だからここから出る日までは、土を食べてでも生きなくちゃ」
「うちの夫はどこで何をしているのやら……」

祖母の思いは祖父のことにおよび、他の人々も離れ離れになって、生死もわからない家族に思いをはせ、しゅんとした雰囲気になった。

「生きているのか、死んでいるのか、消息だけでも聞けたら、気が晴れるのに……」
「あの韓徳銖とか亡徳銖とかいうやつ、きっと雷に打たれてぶっ倒れるよ……」
「私たちははめられたのさ。よかれと思って共産党に入ったのに、家が滅ぶなんて……」
「怒らなくちゃ、もっと怒るのよ。騙されたまま人生を終えるなんて……」
「実を言うとね、私たちが帰国船に乗る決心をしたことを聞いた民団(在日本大韓民国居留民団)幹部の金という人が、うちの人を訪ねてきたことがあるの。その人が言うのには、北朝鮮に行ってもおそらく食べるものはなく、戦争の準備ばかりするだろうからやめなさいと諌めてくれたのよ。だけど私は、そんなはずはないと押しきって来たの……」

金順蘭おばさんは体を震わせ、身の上を嘆いた。私は話を聞くのも辛くなって表へ出た。

〈鳥になれたらいいな。日本にも行き、また祖母の故郷・済州島にも行けるのに……〉

北朝鮮脱出〈上〉地獄の政治犯収容所 (文春文庫)』 P158-160

北朝鮮脱出 上・下』姜哲煥、安赫著

在日同胞を地獄送りにした、韓徳銖初代総連議長。

数々の証言から、総連内部の権力闘争に北送事業(=北朝鮮帰還事業)を利用し、自分に反対する人間を北朝鮮送りにして抹殺していったことが明らかになっています。

 さらに帰国運動の最も重要な面は、金日成と現在も朝鮮総連議長の韓徳銖との親方の利益に根差した在日動員の陰謀であったこと、結果金日成は労働力と技術者を得、さらに現在に至るまで人質政策によって帰国者を利用し続け、また韓徳銖は金日成から朝鮮総連議長のお墨付きを得ると同時に、自分より遥かに運動面でも思想面でも実績のあった在日運動家を、次々と北に送り込む為に帰国運動を利用したきた事を述べ、さらに新事実としてある北朝鮮からの女性工作員と韓との間に明らかに関係が有ったこと、金日成が帰国運動を利用することとなった側面には、当時の在日朝鮮人が外国籍のまま日本政党に参加していたという根本的矛盾が有り、そこを付け込まれた事などの様々な問題を提起された。

https://hrnk.net/kalmegi029/ 『帰国事業開始から40年 映画と講演の集い開催』より

大阪の民族教育を支えた朝鮮学校の恩人と言える校長先生も総連内部の権力闘争の犠牲となり、北送され、その後スパイ容疑で拷問の末、殺されています。

  謹んで先生のご冥福をお祈りいたします。
 どうして先生が殺されなくてはならなかったのですか!
 先生は、「反党分子」「スパイ」との汚名をきせられ、保衛部の監獄で 独裁者 金正日に殺され帰らぬ人となられた。
 この憤りをどう抑えたらいいのでしょうか!
 大阪の古い活動家や同胞のなかで、先生を知らない人はいません。
 先生の教えを受けた私たちは、いつも満面の笑顔で「おお、達者かね」と声をかけてくださった、今は遠い先生とのあのころを懐かしく想いだします。
 先生に近かった人びとは先生を先輩と呼びます。また、ある人たちは「ソンセンニム」、「校長先生」と心をこめて呼びます。
 学校経営のために飛び回る先生の古カバンのなかには、手形がいっぱい詰まっているというので、人びとは親しみを込めて「手形先生」との別名で呼んでいました。
 先生はみんなから慕われる闊達で包容力のある教育者でした。
 みんな先生が大好きでした。私が民族運動の専任活動家であった一九七一年の初めごろでした。
(中略)
 金炳植は、居もしない「宗派セクト」(注=北朝鮮の言う反党反革命の分派のこと)を摘発するのだといって、大阪総連の活動家会議で「朝鮮労働党史の反宗派闘争」の部分を読み上げ、「これと同じ輩がここにもいる。韓鶴洙お前はちやほやされているが、まるで古ゾウキンのように、あっちに付いたりこっちに付いたりの小者じゃないか」と叩いた。先生は身動きもせず演壇を見続けておられた。私はあのときのことを今でも鮮明に覚えています。
 あにはからんやその年九月、先生は「教育者代表団」の一員として北に追放され、戻らぬ人となられました。

恩師・韓鶴洙先生をしのんで ~韓鶴洙先生は拷問で殺された~
韓鶴洙先生一家。一番右側が先生本人。

朝鮮学校の教育の最大の問題点は、こういった事実をまったく教えていないことでしょう。

教育援助金に感謝せよと教えても、北送された40年代、50年代の朝鮮学校の一番苦しかった時期を支えた在日一世、二世たちが北朝鮮の収容所でどのような目にあったか。

それが分かる『北朝鮮脱出 上・下』のような著書を必読本にせずして、朝鮮民族の民族教育とは言えないでしょう。