帰国者からの手紙 かるめぎ NO.21号〜28号まで

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帰国事業
新潟から出港する帰国船のソ連のクリリオン号 1960年5月19日 撮影小島晴則

かるめぎ過去号に掲載されている帰国者からの手紙を、読みやすいよういくつか抜粋して再録します。

帰国者からの手紙 かるめぎ NO.22 1998.07.01

 80歳をこえた母に「強行軍」させるなんて、かわいそうお姉さん!ここではお母さんはじめ、みな無事にすごしています。お母さんは、もう年のせいで体を動かすこともつらく、耳も遠くなり、大声で話してやっと聞こえるようです。

 お姉さんがお母さんのことを思っていろいろ援助してくださるのに、わたしがお母さんをちやんと見てあげられなくて、年老いたお母さんがぼうっとすわっているのを見ると本当に胸が痛みます。

 その年老いた体でつらい「強行軍」をしていかなければならないなんて、お母さんが本当にかわいそうです。

 兄弟たちもみな歯をくいしばって生きています。お柿さんがあれだけわたしたちのことを思って助けてくださるのに、こんなにも生活が苦しいなんて面目ありません。

 昨年11月に送ってくださった送金も3分の2しか受け取れませんでした。それでもそのお金でいままでお粥でも食べながらどうにか生活を維持してきましたが、みんながあまりにもつらそうにしているので、機会をつくることができたわたしがお柿さんに連絡することになったんです。

 お柿さん!各方面からここの情報を聞いていらっしやることと思います。いまはどんなことをしてでも生きていかなくてはいけないのですが、わたしたち兄弟には「元手」が無いためにどうすることもできません。

 お姉さんからの援助でどうにかやっていこうとしたのですが、今回の送金もあまりにも少しづつ(一回に3000円)しかもらえないため、その時その時食べるのがやっとの状態で、なにもすることができません。

 お姉さんが電話で手紙に具体的に書くようにとおっしやつたので、このように書きますが、お柿さんも理解して読んでください。

 そして、お姉さん!どうにかして甥や姪たちといっしょにこの「強行軍」がおわるまで援助してくださるようお願いしたいと思います。

 わたしたち兄弟全員がお姉さんだけをたよりに生きていかなければならないなんて、本当に申し訳なく思っています。

 お姉さんがわたしたち兄弟の「生命線」と同じなんです。お姉さんがわたしたちを助けでくださらなかったなら、ここにいる兄弟みんなが死んでいたはずです。

お姉さん!今日はここまでにします。   1998.5.10

妹◯◯より

引用元URL:https://hrnk.net/kalmegi022/#toc16

帰国者からの手紙 食にもこと欠くなかで、母の還暦祝いが頭が痛いです かるめぎ NO.23 1998.07-08号

(あいさつ部分省略)
 こちらから電話を一回かけるのもほんとにたいへんです。こんども電報をうけとって母が電話しようと平城というところに歩いて行きましたがピョンヤンに行って電話するより10倍も高いためお金がなくもどってきました。

 ピョンヤンには勝手に出入りできず何日も努力してみましたが、やむなく◯◯が自転車に乗ってやっと電話をかけてもどってきました。

 おばさん、来年5月9日陰暦がわたしの母の還暦です。こちらに来られる気持ちはありませんか。おばさんが歩くのがたいへんだということはわたしたちも知らないわけではありません。しかし(日本にいる)おばさんたちはいくら苦しいといっても兄弟たちがたがいに支えあっていきていますが、こちらには身近な人ひとりなく、病気の夫をかかえ子供7人を育て苦労ばかりの母です。おばさんが、足が大変とは言え、母に会う最後となるでしょう。

 わたしたちも子供の義理をまもって還暦祝いをりっぱにしてあげたいと思いますが、思うばかりで、きょう食べることもたいへんで心配ばかりしています。

 おばさん、荷物を送って下さる気持ちがおありならできればナイロンの花柄ふろしきでダンボールを送って下さい。いまきびしい生活をしているわたしたちにはどんな物でも助かります。できれば冬服、毛の下着、同じもので送って下さい。寒く、お腹がすいて、冬がほんとにたいへんです。

 おばさんにふさわしくない、いやな話ですが、昨年電報を受け取り待っていたところ、生活があまりに苦しくて、手紙を仲介してくれた家からお金12万¥借りて使ったところ毎日のように借金の督促で、母は頭を痛めています。日本ではこのくらいの金はたいしたことのない金でしょうが、わたしたちには全家族が10年稼いでも払えない金です。そんなわけで、おばさんが可能ならすこし助けて下さい。たいへんならむりに送らなくてもけっこうです。

 こちらから一度も助けることができず手を出して負担をおかけするばかりで、申し訳ありません。なんとかして負担をおかけするまいとしても、あまりに生きていくのがしんどくて面目ないと知りつつもお願いするのですから、おばさんも怒らずに寛大に理解して、すこし助けて下さい。

1998.6.19 甥◯◯拝

花柄のふろしきでをダンボール送って下さるとわたしたちの生活に大変助かります。どうかお忘れなく

 ひところ割合かんたんにかけられた電話が最近厳しく制限されていることもこの手紙から良く分かる。(編集部)

引用元URL:https://hrnk.net/kalmegi023/#toc17

第5回東京学習会報告 胸うつ曺浩平(チョホピョン)さんの手紙 三浦小太郎(守る会運営委員) かるめぎ NO.26  1999.04.01

 去る10月24日、喫茶ベラミにて第5回東京学習会が開催された。報告者は三浦。テーマは「曺浩平一家の手紙を読む」。参加者は15名。
 曺浩平一家の事件は、御存知のように守る会が最初の 集会以来取り組んできたテーマである。1962年に帰国後、67年以降音信不通となった曺浩平氏、日本妻である小池秀子さんも70年代以降行方不明となり、その後の一家の運命は今だ誰にもわからない。北朝鮮政府の「曺浩平はスパイ罪で逮捕され、一家を連れて脱走、抵抗したので全員射殺した」という、全く信じがたい私知らずの報告があるばかりである。

 この事件の一次資料である曺浩平氏一家から日本の実家にむけて送られた数々の手紙は、北
朝鮮帰国事業の悲劇を伝える典型的なまとまった資料として、貴重このうえもないものであったが、現在までまとまった形で公開されたことはなかった。学習会は、現在入手できる限りの手紙を全文コピーして配布し、主だった点を読みながら北朝鮮で曺氏一家をむかえていた現実がどのようなものだったかを考えていく形式でなされた。
 曺浩平氏の帰国直前の手紙によれば、当時の在日にとって、「北朝鮮」がいかに希望を与えたかがわかる。特に、学費無料、モスクワ大学への留学ができる、等々はおそらく浩平氏にとって最も魅力的なものだった。「ノイローゼになるほど考え」て出した「帰国」という結論が一家にとってあれほどの悲劇になろうとは思いもよらなかったであろう。

 曺浩平氏は科学者であり、北朝鮮では帰国当初から比較的優遇された立場にいたことが手紙よりうかがえる。しかし、現実は62年の帰国当初から日本で考えていた現実よりははるかに厳しいものだった。
 当時から秀子さんからは日用品、浩平氏からは莫大な量の書物や研究器具を送ってくれという手紙が相次ぐ。科学者として、充分な研究が出来ないいら立ち、そして実家からの荷物が自分の所に完全に届かないことへの困惑が語られる。曺浩平氏は「長寿研究の仕事」(おそらく金日成のための長寿研究所)や、日本から届く医学、科学書籍の翻訳のための手紙からも推測される過酷な労働の中で(一度に数十冊の本、しかもかなり基礎的なものから専門的なものまで、様々な分野のものを送るよう頼む手紙がひっきりなしに送られている。)秀子さんには子供が生まれ、ベビー服、毛布、ミルク、それどころか布ならば何でも送って下さいという、まさに必死の思いでの手紙が届いてくる。

 67年9月、浩平氏の有名な手紙「浩平一家は満身創痍の形、出るのは苦笑とため息だけです」、73年の秀子さんの手紙「私も子供達3人と4人暮らしになって6年になります」をもって、一家のその後は今もなおわからない。

 北朝鮮政府の「スパイとして逮捕され、脱走しウンヌン」が、恥知らずなウソであることは明らかである。我々は望みが少しでもある限り、一家の救援と北朝鮮の虚偽報告をあばくことを持続していかなければならない。そして、この手紙は北の厳しい検閲の中でも少しでも北朝鮮の実態と一家の苦境を伝えようという必死の思いがこめられている。又、そのような状況下でも最後まで希望を失わず、科学者として自分の力で何とか未来を切り開こうとした若き在日知識人と、苦しい生活の中でも礼節を失わず、恨み事の1つも言わずに耐えた日本人妻の人間ドキュメントとしても貴重なものである。

 学習会には、市民連合代表尹玄氏も訪れ、ヨーロッパでの活動の報告とともに、この手紙のさらなる分析と研究をすすめる提言をされた。

引用元URL:https://hrnk.net/kalmegi026/#toc17

帰国者からの手紙 かるめぎ No.28 1999.08.01

 〇〇子さん! 貴女の忙しくもあるが楽しい夏休みの報告を読んでおりますと日常忘れがちだった遠い昔がなつかしく思い出され、私も一緒に貴女の行事に参加させて項いたような楽しさを感じたものです。

 実は今の私は死ぬことを許されないがゆえに生きているだけなんです。〇〇子さんもいろいろな方面から北朝鮮のニュースを聞いておられるでしょうが外国との交流が切れ、国内資源の制限された経済状態の為、労働者はほとんど出勤するだけで遊んだ状態ですし生産物がないだけに給料も6月から遅配です。大人ばかりの6人家族で何ヶ月も一銭も収入のない生活を〇〇子さんは想像がつきますか?もし、くれたとしても大の男が一ケ月働いて闇タバコ2個分にしかならないのです。こんな訳で若い者たちは悪いことにばかり頭を使い幹部たちは袖の下ばかりねらうので、袖の下の使えないものは一歩も身動きがつきません。

 それだけではありません。食生活においてなくてはならないお米の配給は月に2回(15日分)するのですが、その配給さえも2ケ月分遅配し人民たちは口では言えないくらい喘いでおります。私もその中の一人ですが配給所の待合室で前の晩から来た順に番号と名前を記入し列を並ぶのです。いくら夏とはいえ夜中はやはり冷え込みます。他の人たちは地べたにビニールを敷いてその場に寝込みます。“草木も眠る丑三つ時”となると私もなんとなく眠りに追われますがどうしても神経が寝つけません。そんな時輝く夜空を見上げておりますと底冷えがし、体全体からこみ上げる涙が二筋のほほを伝い流れる時の苦しさ、空しさ、悲しさと空腹を何にたとえれば、〇〇子さんは理解することが出来ましょうか?

 家には夜が明けても何も食べるものがないだけに家にも帰れず座り込んでいると目の前がぼうとしてきます。完全な栄養失調と知りながらどうすることも出来ないんです。50の峠を超えた今になってキャベツをゆがいてマヨネーズ、ケチャップ、ソ─ス、バターは何もなく唯しょうゆにつけて食事代わりにしたのも生まれて始めての事です。一日三食が人間生活の法則なんですが私など一日二食が常識になりました。こんな苦しい中でも誰一人として不服を口にする人はありません。“もの言うに口寒し”で、一言でも口走るなら二度と明かみを見ることのない始末になります。それが独裁の持つ特権です。ですから私はすべてをしんぼうの一言で持ちこたえて一生懸命内職にむちを打って来たのですが自分の体のほうが先にやられ生活に何の足しにもならない体になってしまったのです。

 これだけではありません。実は25歳になる娘(二番目)が生死の境を彷復よっているのです。原因は栄養失調からくる腸炎なんですが胃から下が全部悪いらしいんです(特に大腸炎)腸の中の脂肪分が全部ぬけ切り何を食べても直通するのですから食事法に気をつけ栄養分を十分に取ってやらねばならないのですが今の状態で、お米を見たのが4ケ月前のことだけに手のつけようがありません。娘自身も自分が先あまり長くないものと思いながらもかえって私を元気づけるかのごとく何のグチもこぼしません。

 でも時にたまりかねて“お母さん!何かあまくおいしいものが食べてみたいね”と言われる時、母としての役割を果たせない自分が子供の前で大きな罪を犯している人間の様な恐ろしさを感じ子供の顔をまともに見ることが出来ません。

 この世に女として生まれ一度も花を咲かせることなく淋しくこの世を去るお話を、映画や小説などでよく見たことはありますが自分が直面してみるとどうしてよいか迷います。

 〇〇子さん!こんな時、私はどうすればいいのしょうか?

 この手紙は1992年9月5日付けで昔の日本の高校のクラスメイトにあてられた、帰国した在日朝鮮女性からのものです。この人は高校卒業まもなく北朝鮮に渡り、30年あまりたって50歳の峠を越したと記されています。現地で生まれた娘が25歳になっています。
 1992年にすでに配給が2ケ月も切れ、給料は6ケ月も遅配している状態だと記されています。闇市と賄賂が横行する無政府状態がすでにこのころから生まれていることを伝えておりきわめて貴重な内容です。母に心配をかけまいとしてグチひとつこぼさない栄養失調の娘さんのけなげな姿が涙を誘います。

引用元URL:https://hrnk.net/kalmegi028/#toc20

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