『北朝鮮の記録 訪朝記者団の報告』経済について 読売新聞社 秋元秀雄

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書籍/映像紹介

 本稿は、1960年に新読書社から発行された「北朝鮮の記録 : 訪朝記者団の報告 」を紹介しています。帰国事業当時「38度線の北」同様、大きな影響を与えたと思われる訪朝記事です。現段階でのコメントはつけません、一つの歴史的資料としてお読みください。

経済について

読売新聞社経済部 秋元秀雄

『北朝鮮の記録 訪朝記者団の報告』P75

三年前と今日の朝鮮

 ついこのあいだ、金日成大学を卒業したばかり、という感じの金河燦さん、国家計画委員会の総合計画局員といういかめしい肩書きにも似ず、じゃんじゃんと〝偉大なる社会主義建設の勝利〟を語りつづけている。
 「わが国における社会主義建設が革命的向上をなしているのは、社会発展の客観的要求からくるものであります。その物質的、精神的基礎は何か、労働者の熱誠と創造力、そして党と政府の適切な処置……」。
 あと二日で一九六〇年を迎える、という十二月三十日の午さがり、宿舎平壌ホテルの三階の会議室で、私はこの人と向かいあっていた。むずかしい化学方程式を日本語でスラスラと説明するほどの腕前を持つ。通訳の朴哲さんと三人で。
 「党が最初に打った政策は、一九五六年十二月の中央委員会全員会議で示されました。経済部門の指導方法を決定的に改善すること、とくに増産と節約のスローガンを打ちたて、あらゆる予備を動員させることにした。この決定にもとずいて金日成首相同志は、直接、各地の工場、農村に出向き、労働者、農民と予備の動員、生産性の向上について話し合ったのです。かくて労働者の創造力は……」
 話はかぎりなく続けられていく。要するに金さんの説明によると、一九五七(昭和三十二)年にたてられた第一次五ヵ年計画は、わずか二年半で達成してしまい、いま北朝鮮は、六十一年度(三十六年度)から繰りあげて開始される第二次五ヵ年計画の準備をととのえる〝緩衝期〟を迎えている、というのである。とにかくずいぶん時間がかかった。人民経済発展の概括からは始まって、第一次五ヵ年計画の推移、そしてその結果えられた人民の物質文化の向上。
 たとえば人民学校から大学にいたるまで、生産教育につながる夜間大学まで含めると、全国に学生は二百五十万人もいる。だから国民のうち四人に一人は学校へかよっている計算になる、ところまで説明を聞くのに、いうに三時間半の時間がかかってしまったのだ。なんともいき詰まるような思いで、私も背中にびっしょり汗をかいている。聞き終わって、金さんとニッコリ顔を見合わすと、金さんも額に玉の汗を浮かべていた。通訳の朴さんも、大変な《重労働》に苦笑しながら。
 「一服入れましょうか」
という。緊張に張りつめた室内が、やっとほぐれて、私たちは熱い紅茶をだまって飲みはじめた。閉めきった部屋の寒暖計は摂氏二十四度にもあがっている。煙草をひとくち大きく吸い込んだままソファーにもたれて、私はフト窓の外をふりかえってみた。三日寒さが続けば、つづいて四日暖かいという三寒四温型の大陸性の気候は、丁度四温に入っている。とはいえ、今年の平壌は例年よりも、とても暖かいようだ。窓ごしにみえる大同江に張りつめた氷も、四、五日前からずんずんととけ出している。いつしか私は三年前の北朝鮮を、もうろうとした頭の中で思い出していた。
 昭和三十一年の十月、北京で、戦後はじめて日本商品見本市が開かれたとき、亡くなった大阪商船の相談役の村田省蔵さんが、この見本市の総裁をしていたので、私は社命をうけ、村田さんのおともをして中国へやってきた。十月六日から北京西部の中ソ友好会館でフタをあけた見本市は、予定どおりの会期を終え、つぎの会場上海に移るまで、半月ほど暇ができたので、にわかに思いたって一人で、北朝鮮を訪ねたことがある。中国の国家通信新華社の呉学文、丁拓両記者(戦後二度、日本に来ている)に見送られ、前門の旧北京駅を発車した平壌行きの国際列車。ひろびろとした広軌道の客室――四人一組のコンパートに、北京での公用出張を終え平壌に帰る一人の朝鮮人と同席した。――こんなことが走馬灯の画のように思い出されてきたのだ……。
年恰好からみれば、この朝鮮人は日本語がわかるはず、とおもいながらも、いきなりこの人に日本語ではなしかける勇気がなかった。飛行機の上から遠く地平線までみえる広大な華北の平原を、汽車はだまって走りつづけている。夜中の午前二時、瀋陽(昔の奉天)にて停車した。汽車はこれから一挙に南下、鴨緑江をはさむ国境の町、安東へ向かうわけだ。初めてみる朝鮮、あの動乱にあけた北朝鮮、新しい仕事に向かう興奮で眠られぬまま、私は安東で予想される出国手続の準備などをはじめていた。同室の朝鮮人は私があけ閉めするトランクの物音に、フト目をさまし、ニッコリ笑ってまた眠りこんでしまった。夜が白々ろあけはじめたころ、この人はむっくりベットから起きあがり、ベット・ランプをたよりに旅行日記をつけていた私に、突然大きな声で〝お早う〟と日本語で話しかけてきた。逆に私の方がすっかりはにかんでしまい、蚊のなくような声で〝お早う〟と返すのが、精一杯。
 ベットにどっかりと坐りなおし、「朝鮮は初めてですか、あなた読売新聞の方ですね」と話しかけてくる。
 「私も子供のとき、東京にいたことがあります。戦争で東京はどうなりましたか、下町に住んでいましたが、聞くところによると本所、深川あたりは、ひどくやられたそうですね……」
 やっと落ちつきをとりもどした私は、彼に戦時中の東京の模様を話してやるとともに、こんど一人で朝鮮を訪ねることになったいきさつを、ひととおり説明してやった。この人の名は金茎善さん、平壌市の体育指導委員会に勤めている公務員である。安東の税関で一時間ばかり停車したとき、金さんは私に
 「これから鴨緑江をこえ、いよいよ朝鮮に入るわけですが、なにかお聞きしたいことがありますか」
と親切にたずねてくれた。そこで私は
 「お国の事情は、平壌についてからゆっくりうかがうつもりですが、ただ一つ心配のタネがあります、朝鮮人の対日感情です。半世紀にわたって日本は圧政をしてきましたから」
さっきからこの人に、聞きたいと思っていたことを、思い切ってきり出してみたのだ。ところが金さんは〝ああ〟どのことならと軽く返事をしたまま、しばらく考えこんでから
 「なにも心配はいりません、あなたが新義州(安東の対岸、朝鮮の国境)の町に入り、そこから四時間、平壌に着くまで汽車の窓から町や村をみれば、すべて分かります」
とナゾのようなことをいう。しかたがない、いわれたとおりにしよう。新義州のホームには朝鮮対外文化連絡協会から通訳の金正翼君が出迎えにきていた。あとは同室の金さんのいうとおり、汽車の窓から走りゆく朝鮮の村々を、私はくいいるように眺めてみた。
〝すごい〟、こうとしか形容できない。停戦が成立して三年もたっているのに、線路の両側には、三メートルおきぐらいに爆弾の跡が、大きく残されており、橋という橋は原形をとどめないほど、破かいされている。おそらくいまみている山河も、大分かたちが変わってしまったのだろう。そして田や畑、小高い丘には、赤さびた戦車が、いまなお腹をむき出しにひっくりかえっている。あの戦争が、いかに厳しくむごたらしいものであったか、私ははっきりみてとったわけだ、フィルムを何本も詰めかえながら、夢中で走り行く動乱の〝ツメ跡〟をカメラにおさめていた。
 〝すべてが分かりますよ〟と金さんのいった意味が、なんとなく分かりかけてきたような気がする。それでもきいてみた。
 「金さん、いくら朝鮮んがあたらしく生まれかわった、といってもひところは対日感情は悪かったでしょう」
 彼はだまってうなずく。
 「しかしこの戦争があまりにむごたらしかったので、対日感情は、すべて対米悪感情にすりかわってしまったのかもしれない、つまり三十五年間にわたる日本時代の悪い記憶が、わずか三年の戦争で、すっかりホコ先をかえてしまった。こう考えるのは日本人のご都合主義でしょうか」と問いかけてみた。金さんは
 「いやとにかくあの戦争はひどすきました。そしてはっきりいえることは、対日感情は極めていいということです」
 ――こんなやりとりまでが三年前の朝鮮の印象とともに、静かに思い出されてきたのだ。フトわれにかえって、私は窓の方へ歩いていった。三年前同じこのホテルの窓からみた大同江の岸辺には、川上から船で運ばれてきた赤いレンガが山と積まれていた。そしてレンガは、どしどし労働者住宅の建設現場に運ばれ、レンガを舟から下ろす労働者の叫び声が、このホテルの部屋まで聞こえていた。平壌の町がひと目で見渡せるモランボン(牡丹台)にあがってみても、労働者住宅、政府庁舎はまだらに建設が急がれていた、それでもまだ半分以上も空き地だった。清津へ行っても咸興、開城を旅行しても、空き地だらけ、市民の生活も、やっと〝食〟だけが最低線を保証された、というのが三年前のいつもかわらぬ北朝鮮の姿であったのだ、そしていま窓から見下ろす大同江の岸辺には、敷石をはりつめた美しいプロムナードが遠く大同紋、練光亭までつづいている。

千里馬(チョンリマ)経済の登場

最初の復興発展三ヵ年計画

 自動車で平壌から約二時間、黄海北道松林市にある黄海製鉄所を訪ねたとき、私はここの副支配人の李芳根さんに、きわめて無礼な質問をあびせかけてしまった。
 「副支配人さん、この製鉄所の原料の手当のことなんですが、石灰石の山が三キロメートル離れている、というのはいいとしても、ここで使う鉄鋼石の山は百キロメートルも離れている。どうしてもっと鉄鉱石の山のそばに製鉄所をたてなかったのですが」
 李さんは、
「戦争でこの製鉄所も、ひどくやられました。だからここを復旧させるとき、実はそうしたことも考えたのですが、何しろここには高炉の土台がまだ残っていましたから」
と笑いながら答えてくれた。どうせ新しくたて直すなら、ちゃんと原料供給という立地条件を考えてたてればよいのに――ハラの中でこう反ぷくしてみたが、私はこのとき、ハッとあることに気がつき、そしてこれはえらいことを聞いてしまった、といまさらながらにくやみいってしまったのである。この製鉄所ばかりでない。清津にある清津製鋼所、金策製鉄所、興南の化学肥料工場、またこのあいだ見学してきたばかりの威興の竜城機械工場、みんなひとつの共通点をもっている。それは例外なくみな海岸線にそってたてられているということだ。しかもいずれもがかって日本が建設に手をつけた工場である。日本人はどうして立地条件を無視して海岸に工場をたてたのだろうか。その答えははっきりしている。朝鮮から原料――地下資源をほり出し、これを朝鮮の工場で半製品にかえて日本に運びこみ、完成品に仕上げるには、半製品工場は海辺にあった方がずっと便利だからである。それでいまでも北朝鮮の重工業基地は、東海岸と西海岸の南部に集中している。朝鮮人が最初から計画をたて、自分の手でつくった重工業なら、決して海岸にばかり工場をたてなかったはずだ。セメント工場は、石灰石の山の上に、製鉄所は鉄鉱石の山のフモトに、当時世界の話題をさらった鴨緑江の水豊発電も、もっと朝鮮の使いやすい場所にダムをつくったはずである。破かいまぬがれた黄海製鉄所の第一、第二高炉の土台も、こうした考えで日本人がつくったものである。それを臆面もなく私は、どうして鉄鉱石の山の傍に工場をたてなかったのか、などと質問をしてしまったわけだ。帰えりの自動車の中でも、このことがくやまれてならなかった。と同時に、改めて朝鮮の経済と産業について昔をふりかえって考えざるをえなくなったのである。
 解放前、つまり日本時代の朝鮮の経済を朝鮮人はこういう表現で説明する。「長い間、朝鮮を植民地として支配してきた日本は、朝鮮をいつまでもたちおくれた農業国にとどめておき、食料と原料供給基地として、また商品販売市場として、日本本土の経済に完全に従属させた。日本は朝鮮で原料を略奪し、本土に半製品を供給させるためにの若干の工業と、軍需工場を建設しただけで、朝鮮に必要な機械設備や、軽工業製品の大部分は、全的に日本本土経済に依存するようにした。民族資本の発展は極度に抑圧され、技術水準はたちおくれ、民族技術者の成長もはなはだしく制限された。」この終果ママ、たとえば機械工場は東海岸にあったが、朝鮮人はそのころベアリングの作り方を知らなかった、というのである。かつて朝鮮で工業を経営した日本人、いまわれわれの周囲には、こういう人たちがたくさんいるが、朝鮮人のいう原料の略奪、民族資本の抑圧について、異議は唱えても、この事実、つまり結果的に日本人が、朝鮮の産業を地理的にたいへん偏ぱなものにしてしまった、ということは認めざるをえないのではないだろうか。
 三年にわたる激しい動乱からたちあがって、朝鮮の産業経済を復興させようとしたとき、朝鮮人は、まずこうしたハンデキャップを背負ったまま出発せざるをえなかったのだ。停戦が成立した昭和二十八年の六月に開かれた労働党中央委員会の第六次全員会議で、まず焼跡の整理をしよう、破かいした工場のたて直しを急ごう、そして打ち出された最初の三ヵ年計画、正式には「戦後人民経済復旧発展三ヵ年計画」も、じつはたいへん困難な計画であった。戦争の被害について国家計画委員会は破かいされた企業所の数は八千七百余棟、灰じんに帰した住宅は六十余万戸、その総面積は二千八百万平方メートルに達した、また五千余ヵ所の学校、一千余ヵ所の病院、診療所、二百六十ヵ所あまりの映画館や劇場が、地上から姿を消してしまった。損害程度を金で換算すると日本円で六千三百億円にもなる、と説明していた。戦争というもう一つのハンデキャップを背負い、〝重工業を優先的に発展させながら、同時に軽工業と農業を発展させる〟という難事業に向かったわけである。建設がはじまるやいなやソ連から十億ルーブル、中国から八億元(旧人民券)の援助がとどいた。そしてこの三ヵ年、計画も予定より四ヵ月早く完成したという。最終年度の昭和三十一年末現在の工業総生産額は、計画がすべりだした二十八年に比べ二・八倍にふえたし、農業の分野においても平南かんがい工事(かんがい面積四万町歩)をはじめ、大規模なかんがいや河川の修理工事が実を結び、穀物の生産高も、日本時代の最高水準より八%も上回った。という報告が出されている。私が前に北朝鮮を訪ねたのは、丁度この三ヵ年計画が終った三十一年の十一月であった。

話題をよんだ第一次五ヵ年計画 

 焼あとの整理、工場敷地の整地も終え、本格的な住宅や重工業の建設準備がととのったので、朝鮮はいよいよ第一次五ヵ年計画を昭和三十二年度からとりかかることになった。計画のあらましは、三十一年に開かれた労働党の第三次全国大会に提案され、計画の終る昭和三十六年までに、工業の生産額を三十二年の二・六倍に、農業のみのりを二倍に、そして労働者の所得を一・五倍に引き上げて、国民の衣食住の悩みを根本的に解決する、という方針がきめられたのである。そして各部門ごとに、例えば重工業のうち鉄はいくら、セメントはどのくらい、綿布はなんメートルなどと細かい生産指示計画が現場に示された。
 私はこの細かい計画数量を、その後中国をへて日本に帰ってきてから知ったのだが、指示量をみてびっくりしてしまった。それはたしかに、この計画どおりにことが運べば、昭和三十三年を迎えると、人口一人当たり電力は八百二十キロワット・アワー、石炭は七百三十九キログラム、銑鉄は四十二キログラム、鋼鉄は三十九キログラム、化学肥料は四十九キログラム、セメントは三十四キログラムにも生産があがり、肥料やセメントなどは完全に日本の実績を越えてしまうことはよくわかる。だが、あの朝鮮――三ヵ年計画をやっとやり終えたばかりの北朝鮮が、一挙にこういう水準まで、力を引きあげることができるだろうか。
 たとえやりとげたとしても必ずどこかに無理がおこるに違いない、という気持ちを強くした。さっそく私は、東京にいる貿易会社の中堅幹部や、経済団体の研究熱心なひとたち数人で構成している中国、朝鮮問題の研究会で、私の卒直ママな意見をつけて五ヵ年計画の概要を討議してみた。この研究討議は五、六回つづけられたが、程度のちがいああっても、みな結局は私の最初の印象どおり、〝五ヵ年計画はあまりにもぼう大でありすぎる〟という点で一致したのである。その後の三十三年の春、この研究会のメンバーからD通商社のⅠ君、T商会のS君の二人が、相ついで北朝鮮に出かけていった。われわれはこの二人が三ヵ月ばかりたって帰国するや、さっそく、〝五ヵ年計画〟の現段階について、話を聞く会を開いたが、二人の印象では、とにかく計画は予定どおり、いや部門によっては予定以上に建設が進んでいるというのだ。
 信じられない。表面的には進んでいるようにみえるが、どこかに、この計画にズサンな点があるのではないだろうか。こういう議論を会うごとに一年ばかりつづけているうちに、昨年の夏、S君は、突然商用ができて、あたふたと二度目の訪朝に羽田をとびたっていった。

五ヵ年計画と向かいあう

 四ヶ月ばかりさきに出かけたS君を追うようにして、私も十二月十二日の夜中、羽田を飛び立った。六日間もかかってやっと北京の新僑飯店(新僑ホテル)にたどりつくことができた。明日は平壌か、よしまっさきにたしかめたいのは、五ヵ年計画だ、これをはっきりたしかめない以上、いまの朝鮮問題はなにもわからない。
 在日朝鮮人の祖国帰還、この大ニュースが日本の新聞にはじめてのったとき、私の頭の中にはみるみるうちに深い〝疑念〟のかたまりがひろがっていった。在日朝鮮人総連合会は、帰国希望者は数十万人といっている。よしこれが半分としても十五万人から十七万人もの在日公民が朝鮮に帰えっていく。受け入れて住まわせる住宅はできたのだろうか。また帰国希望者は青年層に多いときいている。もう大学はそんなにできあがったのだろうか。新聞や雑誌が、あらゆる角度から「帰国問題」を論議しているなかで、私はひとり〝現実〟を気にやんでいた。そしてこの疑問は、あしたはいよいよ朝鮮と言う北京までたどりついても一向に去らなかったわけである。ホテルのロビーで煙草を買っていたとき突然うしろから〝おーい〟と肩をたたかれた。真黒に雪やけしたような懐かしいS君が突ったっている。私と入れ違いに日本へ帰る途中だという。
 「五ヵ年計画はどんなだ。四ヶ月もいたからはっきりつかんだろう」
 さっそく部屋につれもどして開口一番こう聞いてみた。
 「まあとにかく、ここまできた以上、俺からはなにもいうことはない。現地でたっぷり研究してみろよ」
 こころ憎いまで落ちつきはらっている。
 それから十日ばかりたって、私は平壌のホテルで金河燦さんと向かいあってすわっていたのである。私の質問『社会主義建設のテンポがひじょうに早いことはよく分かったが、いくらなんでも五ヶ年でやろうと考えた計画が、二年半で完成したなんて、どうしても信じられない。ぶしつけな質問で恐縮だが、これは計画そのものが、最初から過小でありすぎたか、あるいはどこかズサンな点があったのではないですか。はっきり納得させてもらいたい』――朴さんの通訳が進むにつれ、金さんの顔は〝待ってました、恐らくそうくるだろうと思っていた〟といわんばかりに大きくうなずいて、五ヵ年計画の〝奇跡〟を熱情こめて話し出したのである。

工作機械の〝子生み運動〟

 「これははじめとてもむずかしい任務だと思いました。あなたがいうまでもなく一九五六年当時の朝鮮に、この計画を五年以内に完成せよ、と命令するのはきわめて困難であることは知っていた。しかも最初の三ヵ年計画のときはソ連はじめ社会主義兄弟国家から、物質的な援助がかなりあったが、こんどは全く自分の力でやる以外にない。しかしすでに達成した成果にもとづいて、また労働者の熱誠と創造力は、この難かんを見事のりこえたのです……」
 例の調子で、この若い愛国者は、資本主義の国からやってきた新聞記者をなんとか説得しようと、大きくヒザをのり出してきた。
 大声をはりあげながら政治闘争にあけくれる日本の労働者をみなれているわれわれは、ただひたむきに心血をそそぐ北朝鮮の〝労働者の熱誠〟を理解するのはむずかしい。現場で直接こうした労働者と接してみるとすなおに理解できることであるが、これが五ヵ年計画の奇蹟を生んだのだ、といっても、これをすなおに理解できる日本人は少ないだろう。
 だからここでは五ヵ年計画は、いかに指導されてきたか、この経過をたどってみた方がよいと考える。まず最初に労働党が手をくだしたのは〝経済予備の総動員〟と、これにつながる〝生産性の向上〟である。わかりやすくいうと、各工場現場にある余力をまず探し出せ、そしてこれを有効に活用することを考えて、労働者一人当りの生産能率を、おおいに高めよ、という意味だ。私が三年前に朝鮮を去った直後、つまり昭和三十一年十二月に、平壌で労働党の中央委員会全員会議が開かれ、ここで五ヵ年計画が翌年から開始されるにあたり、現場の指導方法を決定的に改善する手だてが検討された。この結果五ヵ年計画の内容を大きく特徴ずける〝予備の総動員〟がきめられ、ただちに金日成首相ならびに党、政府幹部の地方視察がはじまったわけである。
 いったい、予備の動員というのは、具体的にどんなことをしたのだろうか。
 帰国第二船を出迎えに清津へ行ったとき、私は前に一度訪ねたことのある清津製鋼所を、おとずれてみたが、顔見知りの労力英雄の称号をもつ支配人、朴容泰さんが、こんな話をしてくれた。
 ――ここの製鋼所は、普通の製鉄所と違って無煙炭と鉄鉱石を回転炉で溶かしながら、粒鉄を作る(このことはのちに重工業の項でくわしく報告する)ので、非常に熱管理が大切である。ところが現場では、炉の中へ原料を送り込む段階で、だいぶ熱源のロスをやっていた。昭和二十九年以来、三十一年、三十二年と毎年のようにこの現場に金日成首相がやってきて、その都度現場の労働者と熱管理の議論をしたあげく、問題のロスをはっきり指摘され、いまでは効率がぐんとハネあがったという。――
 「これは本当なのです……」
 こういって朴さんは私を回転炉の方へ連れていってくれた。もちろんこのときも、一人の現場の労働者が、このロスを改善するため現場の中から予備を動員した創意を生み出し、これが生産性の向上に極めて役立った、ともいっていた。
 レンガ積みの労働者住宅の建設が、これまた労働者の着想から生まれた創意――レンガ積みブロックで、ぐんと前進したのも、この頃である。五ヵ年計画の予定によると、昭和三十三年度中に平壌だけで七千世帯の労働者アパートが建つことになっていた。これを今日では、どこの建設現場でも採用しているレンガのブロック積みに切りかえたため、二万世帯分の住宅が年度末をまたないで完成したという。労働者の創意工夫の奨励が鳴物入りで全国に拡まっていったのだ。
 清津からの帰りみち興南の肥料工場に、全炳彩副支配人をたずねていった。たしか硝安工場でアンモニヤ酸化の白金触媒をみていたとき、金鋌雲副技師長が揚酸ポンプのわきにおいてあった旋盤を指さして、
 「この旋盤は、ここの工場でつくったのですよ」
と教えてくれた。
 「えっ、肥料工場で旋盤を組みたてた。材料は?」
 「材料はこの工場のあちこちにある、つまり予備をかき集めたのです」
 どうも額面どおりには受けとれない、というような顔をしていたら、金さんは、いま全国にひろがる〝工作機械の子生み運動〟の話をしてくれた。
 朝鮮には工作機械がとても足りない。昨年あたりから懸命に国産化をはかっているが、それでも足りないので、一部チェコスロヴァキア、東ドイツなどから輸入もしている、そして一台の旋盤でも研磨盤でも、工場に送られてくると、その現場がたとえ家具の工場であろうと、紡織工場であろうと、さっそくその工作機械と、同じ工作機械を現場の余備をかき集めて必ず一台組みたてることにしている。そしてできた機械は、すぐに他の現場に送ってやる。するとこれをうけとった現場でも、また一台同じ機械を組みたてる。つまりつぎからつぎへと工作機械が子供を生んでいくママというのである。
 そしてレンガブロックの採用も、子供を生む工作機械も、これらは最初の計画には、全然入っていなかったことである。いわれるとおり第一次五ヵ年計画は、たしかにぼう大な計画であった。しかし計画がすべり出すと、予想もしていなかった労働者の革新的な創意がつぎからつぎへとあらわれ、これがいつのまにか五ヵ年計画推進の軸になった。だから建設は千里の駒にのったように、急ピッチで進み、五ヵ年計画を二年半で超過達成する、という〝奇跡〟が誕生した、と朝鮮人は信じているのである。

緩衝期とはなにか? ー工業と農業の不均衡ー

 五年でやろうと思っていたことが、二年半でできてしまった。あとは一体どうするのだろうか、こういう疑問をもつのは当然だ。つぎの第二次五ヵ年計画のすべり出しを早める以外になかろう。しかしいくら実施の時期をくりあげるといっても、第二次計画には第二陣としての準備が必要だ。だからせいぜいくりあげたとしても一年がいいところ。昭和三十七年からはじめる予定を三十六年に、つまり来年にするのが精一杯である。とすればそれまでの一年半に、じっくり第一次計画の反省と第二次の準備を固めよう。そしてこの期間を〝緩衝期〟と名付け、それぞれに任務を与えることにした。これがいま北朝鮮のどこの工場にもかかげられている「緩衝期の任務を達成しよう」というスローガンの由来である。
 計画のくりあげ達成、ということ自体、資本主義の国では、それこそメッタになりことなので、つぎの段階へ進むため、クッションの時期をもうける、などというのは、どうもわれわれにはピンとこなかった。
 だが、ここで私の関心をひいたのは緩衝期の任務の中に特筆されている、「工業と農業の不均衡是正」の問題である。ひとくちにいうと、重工業の発展を優先的に進めてきた結果、第一次計画のしめくくりをしてみたら工業が農業とり、ぐんと進みすぎていた。このままにしておくと農村んで一番大切な、農耕機械化などが計画どおりにいかない心配がある。だから進みすぎをため、おくれをとりもどす、アンバランスの是正がぜひとも必要である。これは緩衝期の重要な仕事であるというのだ。
 工業と農業の不均衡、これは北朝鮮だけでなく隣りの中国でも、ソ連でも社会主義国家には、程度の差こそあれ、共通した悩みになっているようだ。ただ穀倉地帯が南半分にあるため、農村の水利化、電化をとりあげ、食糧自給に〝とどめ〟をさすという意味で、農村の機械化をやらざるをえない北朝鮮にとっては、ただ単に国際的に共通な悩みなどと、のんきなことはいってられない。すでに農村機械化の基本方針として、政府は昭和三十五年度中に平壌周辺と黄海南道、平安南道の農村を完全機械化する。その他の地方は、これを追っかけて、一、二年内に畜力を機械にかえる、と打ち出している。
 そうかといって農村が発展充実するまで、つまり機械化がうけいれられるようになるまで、工業の建設を休むというわけにもいかない。
 農業と工業の関連は、社会主義計画経済にあっては、より密接なつながりをもっている。たとえば紡績工業を発展させるためには、どうしても原料の綿花が豊富にいる。農業がこれまでのような手法で営まれておれば、結局、紡績工業への計画的な原料供給が、おくれをとることになる。また食品加工工業を発展させるためには、十分な肉と野菜が必要である。これは畜産業の発展と不可分の関係にあり、飼料の確保が根本である。この面からどうしても、農村の機械化が大きくクローズアップしてくるわけだ。逆にみれば、農耕機械の農村への供給が、間に合っていない、ともみることができる。とすれば同じ機械工業の中でも、農耕機械と一般機械との間に不均衡が存在していることになる。だからひとくちに不均衡といっても、内容はとても複雑である。
 これをどう解決するか、北朝鮮経済の最大の課題といえよう。

国営企業の採算 ー財政収入と支出ー

サービス満天、国営そば屋

 西平壌をモランボン(牡丹峯)にそって左へ折れたところに「国営平壌第一めん屋(オク)」と言う国営のそば屋さんが一軒ある。夕方になると、冷めんや朝鮮料理をサカナに、酒によった労働者や公務員たちの、楽しい歌声が流れてくる。前にいったときは、この家の先の方に箕林閣という大きな国営のそば屋があったが、今度きてみると、これを上回る立派な国営そば屋ができていたのだ。
 国営なので、支配人以下、従業員はみな国から月給をもらっており、店の採算も、この程度に客が回転していたらさぞ楽だろう、と言う想像がつく。真白な作業服に、白い帽子を被った女の従業員が、こちらから頼んだ酒や料理を手ぎわよく運んでくれるが、このお嬢さんたちは、めっぽうあいそがいい。なにを聞いても親切に教えてくれる。それでいて非常にういういしさが残っている。日本人記者団に一番人気の集まったのは、この店だ。ここの従業員たちは、生活の心配がない。またわけもなくクビになる心配もない、とすればあいそをよくしていた方が、とどのつまり自分も楽しいにちがいないわけである。オンドルのきいた二階の部屋で冷めんをたべながら、私はフトこんなことを考えていた。
 一万人の労働者が一日に三十万平方メートルのキレ地、一万枚のメリヤスのシャツなどを縫っている平壌紡織工場も国営。一日の労働を終え、友達や家族が楽しく、しかも料金をぼられる心配もなく冷めんをたべられる第一めん屋も、そして箕林閣も国営である。
 開放直後、北朝鮮には若干の私企業が存在していた。それがあの動乱で、すっかり灰にされてしまったため、たとえ設備や店の一部が残ったものも、再び自分たちだけの力で私企業を起こすことができなくなってしまった。だからいま北朝鮮では、国のどこかに、工場がたっても、商店がポツンと店開きをしても、みな国営である。
 北朝鮮は〝社会主義の実験室〟とよくいわれる。建設にあけくれる朝鮮人にとっては、実験室だなんて冗談じゃない、こちらは少くも真剣なんだ、というかもしれないが、こうした面からみると北朝鮮の社会主義建設は、全く青写真どおり進めてゆける強みをもっていることはまちがいない。とにかく地上に、なにがたっても国営だ。
 国営企業というのは、一体どんな仕組みで国とつながっているのだろうか。

月給を下げられた社長さん

 金属工業省直轄の清津製鋼所の社長室で、北朝鮮では支配人室という――。朴容泰支配人と張鐘九技師長と私は三年前におとずれた、この工場の印象を話しあっていた。
 そのころ朴支配人は、まだ現場の一労働者であった。第一次五ヵ年計画をくりあげ達成するのに、朴さんはおどろくべきエネルギーと創意を、政府から与えられた〝増産と節約〟の至上命令にそそぎこんだ。そしてある時期、彼はこの工場の全労働者をひきずって計画目標の達成に努力をかたむけた張技師長は、朴さんの功績をたたえてこういう。昭和三十三年九月、労力英雄の称号をもらった朴さんは、全労働者に押されてこの工場の支配人になったのである。それまでただニコニコ笑いながら自分の話をきいていた朴さんは、すかさず『そして現場にいたとき百五十円近くとっていた月給は、とたんに支配人の月給百二十円におとされたのです』とチャチャを入れたので、ドッと大笑いになった。
 だが、これは笑いごとではない。労働者より社長の方が手取りが少ない。これはまあわかるような気がする。たとえ月給が下がっても朴さんには支配人という新しい生きがいもあろう。それにしても支配人の月給とか、労働者の月給、これは一体だれが、どんな基準できめるのだろう。働きすぎて体が弱れば、どの工場にも栄養食をたんと食べさせ、ゆっくり休養をとらせる夜間休養所、などという贅沢な設備までもっている。国営企業というのは、そんなに儲かるものなのか、清津製鋼所のやりくりを朴さんと張さんにきいてみた。
 まず年度の終わりになると、工場の幹部が集まって、翌年の生産計画をたてる。ここまでは資本主義の私企業と同じである。工場の設備や労働者の能力などを考え、生産計画がきまると、これをただちに金属工業省へ送りとどけ、工業省はこれを調査研究したうえ、さらに国家計画委員会と合同で、検討する。
 この間、朴さんや張さんは政府によばれてこまごまと計画案を説明するわけだが、これでよし、となると、国からその計画を達成するに必要な運転資金と設備資金が下りてくる。そしてこの資金で茂山(モサン)からいくらでも鉄鉱石を、どのくらい買え、出来た粒鉄は、どこの鋳物工場へ一トンいくらで売れ、鉄鉱石をとかす粘結炭は、中国の開らん、双鴨から、これだけ回わしてやる、などという詳細な生産指示書が与えられるという。そのうえ指示された製品の販売価格には、ちゃんと適正利じゅんが含まれているので、工場はもちろん、政府の方でも四半期ごとに計算をしてみると、この工場にいくら利じゅんがたまったか、あらかしめわかるようになっている。もちろん利じゅんは支配人や労働者の月給、その他生産に必要な経費を全部払ったうえでの利じゅんだ。
 さあ、その利じゅんはどうなるか、資本主義の国なら、さしずめ企業の内部保留とか、株の配当金とか、いろいろ使い途があるが、そこは国営企業、まず財政省がその大部分を徴収する。その残りは一定の率がきめられてあって、工場に「企業所基金」として積立てが認められる。そしてこの基金は、支配人の考えひとつで、労働者に時計とかラジオなどの賞品(註、重工業の項でくわしくのべる)を買ってやったり、夜間休養所のような厚生設備のもと手に使えるようになっている。
 結局、ノルマを達成し、それ以上の実績をあげれば、それだけ政府の徴収金もふえるし、その分だけまた労働者の実質賃金もふえる、という仕組みになっているわけだ。
 しかもどこの工場も五ヵ年計画で与えられた生産量は、みな達成してしまい、その後もどしどし生産をつづけているので、いま財政省には全国の国営企業から、わんさと金が集まっている、こんな計算も成り立つわけである。平壌のもどってさっそく財政省の予算局員、徐東寛さんにあって、国営企業からの〝あがり〟をきいてみたら、ことし政府は全体で二十三億二千五百万円(朝鮮円一円は日本円百五十円)の収入をみこんでいるが、このうち九五・三%は、こうした社会主義経理体系から入ってくる、という驚くべきふところ具合を教えてくれた。九五・三%というと政府が予定している全支出、住宅の建設から工場の拡張費、帰国者を迎える費用など二十二億八千百万円の大部分にあたるわけだ。――だから朴さん、たとえあなた月給が下がっても、もってメイすべきであろう。

無駄のない支払い

 北朝鮮の百五十一円で、中国の百五十円が交換されている。だから中国円と朝鮮の円は、ほぼ同じ値打ちに扱われている。その中国円で、私が昭和三十一年の十二月上海へ行ったとき毎月七百円も、手取りのある工場の経理さん(日本でいう社長さん)にたくさん出会った。
 経理の月給としては百五十円ていどであり、これで十分に暮らしがなりたつのに、この人たちは月給のほか政府から、株の配当金が何百円と入ってくるのだ。社会主義国家と配当、これは一見ムジュンした話のようであるが、中国政府は上海を中心に根強く生きてきた。買弁的な資本主義を、社会主義的に改造するため、その過渡的手段として「公私合営」という企業の経営形態の看板が大きくかかげられている。
 公私合営とはなにか、ひとつ具体的に説明しよう。ここに革命前に民営の煙草工場があったとする。そこの経営者が政府に公私合営を申し入れると、さっそく政府のお役人がやってきて、この工場の資産を評価査定をする。そして、今後、この工場は国家のものとして組み込まれ、運転資金から設備資金まで全部、国が面倒をみることになるわけだが、この新しく生まれ変わった公の工場の経営に、それまでいた工場主は政府の評価した〝私〟の資産をもって参加し、依然として社長の肩書きをもって残るばかりでなく、毎月政府から資産に見合った「定息」つまり利益の配当をうけるわけである。だから煙草の工場や綿布の工場、マッチの工場などを三つも四つも持っていた社長さんは、新中国で七百円から八百円もの月収をえているのである。
 納得づくの革命を原則としている以上、中国としても、これは止むをえない措置ではあるが、社会主義のあるべき姿、という点からみると、これら旧資本家たちへの定息の配当は、きわめて無駄な支出ではないだろうか。この制度も近く中国では、旧資本家たちの自発的な意志として廃止される、ときいている。これはあの広い中国のことだから相当の金額に達するにちがいない。
 北朝鮮にはこれがないのである。さきほどもこの点にふれたが、北朝鮮はすべてが国営だ、。旧資本家や地主に社会主義経理の中から配当を払う必要がないのである。
 社会主義計画経済の立場からいえば、これは大きな特徴であり、北朝鮮経済の最大の強味ともいえるだろう。

兵隊とおまわりさんが見当たらない

 また強みはもう一つある。どこの国でも予算に大きな比重を占める兵隊と巡査の〝かかり〟が、北朝鮮には非常に少ないのである。
 私は二度目の訪朝なので、北朝鮮のどこを旅行しても、逆に私の方が朝鮮人から〝三年前とどこが違っていますか〟と聞かれることが多い。その度に私は、『兵隊と巡査の数がずいぶん少なくなりましたね』と答えてやった。北京を飛びたった飛行機が、平壌に舞い下り、自動車で東平壌をつきぬけて大同橋を渡り、ホテルに着くまでのわずか、二十分の間、つまり私の第一印象がきざまれるコースだが、まっさきに私は、兵隊と巡査――北朝鮮では内務員という――が、目立って少なくなったことに気がついた。
 地方へ旅行するにつれ、このことはますますはっきりした。前にきたときは、まだ中国の人民志願軍が北朝鮮に駐留していたせいもあるが、南の軍事境界線附近には、兵隊がわんさといた。どこの駅を汽車が通っても守備隊の兵隊がホームにたっていたし、橋という橋には、必ず番兵が着剣して警備していた。
 町を歩いても街角には、巡査が附近に目を光らせていた。
 今度はそれがない。しばらくいるうちに他の日本人記者団もそれに気がつき、車で町を走っていても、どこかで巡査をみかけると、車の窓からカメラを出して、さも珍しいものをみつけた、といわんばわりにパチパチ写真をとり出す始末である。私は黄海製鉄所の帰えり途に動向の民主朝鮮(政府機関紙)の韓竜泳記者に、『ずい分少ないね』と聞いてみた。韓君は顔を窓の外に向けたまま『兵隊と巡査の数の多いのは、民主国家とはいえないね』と、ポッツリひとこと返事しただけ。そんなこのは分かっている。――私はそのときハラの中で「朝鮮人は、もう戦争も内乱も絶対に起きない、とほんとうに信じこんでいるのだろうか、」という疑念がわいてきた。平壌にかえりつくや、例の財務省の徐東寛さんにあってみた。いったい政府は兵隊と巡査の費用に、朝鮮でいう民族保衛費と行政費にどのくらい予算を計上しているのだろう。それをまずたしかめてみる必要がある。二人で国の財政支出の検討がはじまったわけだ。まず目につくのは経済部門や社会、文化方面への支出である。これは教育とか社会保険、科学振興費などが含まれているが、全体の八九・四%を占めている。昭和三十一年にきて調べたときは八七%であったはず。その後建設の規模はぐんとふくらんだし、学校の数もふえてきている。とすれば何か減ったものがなければならない。やはり民族保衛費と内務費の維持費をいれた行政費だ、三年前に支出全体の五・九%を占めていた保衛費は、昭和三十四年には二・八%に、行政費は六・一%が三・%四ママと、両方ともおおむね半分にへっているのだ。

二つの革命と金

 ほかの報告にもあると思うが、いま北朝鮮には、どこの職場へいっても、どんな山深い農村へいっても〝文化革命〟と〝技術革命〟という二つの革命のいぶきがふきまくっている。第一次五ヵ年計画は、北朝鮮政府の言をまつまでもなく、たしかに国民の衣食住を、根本的に解決した。このことは三年前と今日の朝鮮とを、実際に見比べてはっきりいえる。またこれによって朝鮮人は、想像もつかないほど自信をもったことも事実である。つぎの段階に対し、朝鮮人はいったい何を考えているのだろう。金日成首相にいわせると、社会主義のより高い段階、共産主義社会の入り口に、立とうとしているわけだが、われわれが今日の朝鮮をみて感ずることは、とにかく停戦以来のわずか六年間で、よく、この段階まで国力をひきあげた。ということだ。このエネルギーを支えている物質的な力は、なんといっても重工業である。そして重工業の中心は、いずれもかつて日本人が手がけたものであり、今日朝鮮人は、これを日本時代以上の水準に引きあげたばかりでなく、完全に生まれかわった朝鮮人の重工業として、打ちたてることに成功した。こういうことははっきり感ずる。
 第二次五ヵ年計画でねらうもの、つまり朝鮮の産業立地条件に完璧にマッチした、本格的な重工業を建設し、これに第一次五ヵ年計画で復興させた現在の重工業を結びつけることに成功したら、これまた金日成首相の〝人口一人当たりの生産量はアジア第一〟というアッピールは別にしても、朝鮮の国力を、われわれは全く無視できなくなるだろう。だから技術への神秘性を打破せよ、技術というものは神秘なものでなく、これは克服され自分の身につけるものである。という技術革命と、この精神生活を支える力を養う文化革命とは、いまこそ北朝鮮にとって、いちばん、大切な心構えでといえるあろうママ。兵隊と巡査が多いのは民主国家ではない、と韓君はいみじくも答えたが、これと戦争の可能性は別のものであるはずだ。これについて私はひとつの考え方をもっている。朝鮮人は、世界の中で、近代戦争を経験した唯一の民族といえる。そしてあの三年にわたる動乱で朝鮮人は、いろいろのことを学んだにちがいない。あるいはこういうことを学んだのではないだろうか。
 近代戦争というものは、いくら朝鮮が予算の一〇%も二〇%もかけて兵力を増強しても、いざ開戦となれば、ひとたまりもない。それほど規模も大きく、残忍なものである。不幸にして戦争がおきたら、そこには彼らのいう兄弟国家の友誼がある。朝鮮動乱の停戦も朝鮮人からみればひとつの友誼のあらわれであった。いずれ開戦ともなれば、友誼を信じよう。そのかわり、少なくとも平時においては、できるだけ人間を建設にふりむけ、最初の三ヵ年計画にあらわれたような兄弟国家への負担を、一日も早く軽くしよう。――こう考えて民族保衛費と行政費をへらしたとすれば、われわれは兵隊と巡査の少ない朝鮮を、額面通り信じられるような気がする。とにかくこうした強い政治の力というものが、私のような旅行者の生活の中にも感じられるのである。
 またあれだけ豊富に金が産出していながら、私が町で金をみたのは、ただの一回。平壌の臥山洞に新設された「工業および農業展覧館」の展示場に〝重要輸出品〟のレッテルをはって並べられているのをみただけ。あとは町を行く婦人の装身具には勿論、工芸品にも金粉すら使っているのをみたことがない、そしてちょうど、昭和三十五年の日本の朝鮮との貿易量を具体的にとりきめるため、平壌にきていた日本の貿易団体のA君に、朝鮮国際貿易促進委員会のある幹部は、『代金は金でお払いしても結構です』と真顔で答えたという。ここにもはっきり政治が感じられるし、また心憎いまでの能率の良さも感ずる。朝鮮の経済は、ここしばらくは文化革命と技術革命の二つの車輪に、強い政治力に引っぱられながら、第二次五ヵ年計画に向かって進んでいくだろう。

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