かるめぎ NO.22 1998.07.01

 会報『かるめぎ』の過去号を、旧サイトから、順次こちらにアップしていきます。この機会に、過去の『かるめぎ』を通して、守る会の歩みを知っていただければ幸いです。

(旧サイトより転載:http://hrnk.trycomp.net/archive/karu22go.htm)

北の地に消えた(?)天才歌手 永田絃次郎(金永吉)とその一家

 オペラ「蝶々夫人」のピンカートン役で聴衆を魅了した天才歌手永田絃次郎(本名金永吉キム・ヨンギル)。彼を愛し、差別の壁をこえて結ばれた日本女性北川民子さん。60年代のはじめ四人の子供を連れて帰国船に乗つた。希望に燃えて。
 しかしそこに待つものは強制収容所でした…‥‥‥。

 帰国者の悲劇を象徹する永田絃次郎とその一家を本誌はこれからもとりあげていきたいと思います。今回はその第一弾。小川晴久氏に一文と年表をまた永田一家と親交のあつた小沢知子さんから子供たちからの手紙を提供していただきました。   (編集部)

まえがき 小川晴久

 日本人妻第三陣里帰りが中止になった。北朝鮮当局のこの決定は、日本人妻里帰り問題が、金正日らによって極めて政治的道具として使われていることを、完膚なきまでに立証した。
 この措置に強く抗議する意味でも、日本人妻の里帰りを求める先頭に立ち迫害を受けたと思われる北川民子さんに焦点をあて、彼女の憤りと無念の思いの万分の一でも代弁してみたい。それは3年後の里帰りの約束を信じて北に渡り、里帰りできずに他界した多くの日本人妻の思いでもあるだろうからである。

 北川民子さんといっても、その資料は極めて限られている。彼女はお母さん(北川はな)と一緒に1938年結婚当時、東京都の日本橋に住んでいたこと、(RENK第14号,金英達「金永吉(永田絃次郎)の真実」),原節子のような感じの人であったこと(’98.9.12記者会見での、子供さんたちと交流のあった小沢知子さんの証言),北に渡ってから目をわずらっていたこと(子供さんたちが小沢さんにあてた手紙参照),北に渡ってから食事を作る際キッコーマン醤油を求め、批判されたこと〔呉基完「北送船一第4回歌手金永吉のその後」「韓国新聞」、(民団新開の前身)1968年10月15日号〕ぐらいであるが、

 金永吉氏が帰国に際して『婦人画報』(中央公論社,1960年10月15日号)に寄せた「永田舷次郎よ、さようなら」の一文から、妻民子さんについて述べた貴重な一節を紹介する。

「日本人に対する最高の感謝は、私の妻の北川民子にむける。……私と結婚することにも大きな抵抗があった。それは勿論、私が朝鮮人だったからだ。音楽の好きな妻は、昔から私の仕事の高い理解者だった。私と結婚できなければ、親子の縁を切ってもかまわないという決心を示してくれた…。」

 生きておられるなら、今年81歳(金永吉氏とは10歳年下)、苛酷な山中暮らしをさせられたとすれば、81まで生き延びるのは難しいかもしれない。しかし、4人の子供さんたちは50代で、生きている可能性はある。日本人妻北川民子さんを顕彰する必要がある。日本国内でその親族さがすと共に、北に渡った子供さんたちの消息をぜひつきとめねばならない。    (小川晴久)

英子さんからの手紙

 こちらは、7月の中頃から、8月の中頃まで、ものすごい暑さですが、今頃は急に涼しくなって来ました。やはり大陸続きなので、気候なども、寒い時と暑い時の差があります。7月の7日から、15日間、日本海側の方に、野営に行って来ました。野営と言っても、何から何迄そろっている所でした。そこは、各学校から1、2名行けて、私は帰国者なので、優先的に行かしてくれました。大変に面白い所でした。

 8月15日(朝鮮解放独立記念日)には金日成広場で、私達は花たばを持って“万歳!万歳”なんて言って行進しました。私は少年団(ピオネール)に入っています。だから、そういう行進も1ケ月前から猛練習でノビてしまいました。

 所で言葉の方は、と言うと、和美姉さんが一番上手になり、後の3人はマアマアと言った所で、どうにかこうにかやっています。賢ちゃんは、音楽大学の専門科に今度の9月から入り、私は、舞踊学校の予備科に9月から入ります。康子姉さんは、劇場の朝鮮舞踊部に入って毎日練習しています。劇揚といえは8月15日の日に、大劇場が出来上がり、父も、そこに入って毎日通っています。客席も広いけど、玄関のホールがとても広い劇場ですが、ちょっと、昼間は暗いくらいです。日本では今、オリンピックが始まっている事でしょう。日本から持って来たラジオで夜だけ聞いていますが、余りよく聞こえません。

 母も、こちらに来てから目を悪くしているので、宜しくとの事です。

 さようなら  (北川)英子         1960.8.29

カムバック! 北川さん、永田さん一家 ~小沢知子さんの訴え~

62年以降、無言になってしまった
  森田(金永吉)一家   小沢 知子

 62年7月、英子さんからの便りが最後。その問も、何通か抜けていて、不穏な国だから没収や不通もあり得ると思っていた。
 来た手紙には、「母の日が悪いのでビタミン剤を送ってほしい」とか「捨てるものが何もない」という一文が強く印象に残っている。

 北朝鮮に渡った当時のお子さんの推定年齢は、登和美さん(21)、康子さん(18)、賢三さん(16)、英子さん(13)くらいであろうか。
 父親の絃次郎さんは物静かで繊細、母親の民子さんも地味で耐えるタイプの人。お子さんたちは、おふたりの人柄を引きつぎ、かつ際立った秀才揃いだった。

 たまたま近くに住んでいて、永田家が北に波る前の短かい交流だったけど、「手紙をちょうだい!」「手紙をちょうだい!」が私の耳に今でもこだまする。

金永吉・北川民子年表

金永吉キム・ヨンギル・北川民子さん略歴)
 北川民子さんは藤原歌劇団で活躍したテノール歌手金永吉(キムヨンギル/日本名・永田絃次郎)氏の妻。

1909年(M42)9月7日 金永吉氏,平家南道中和郡(平壊の南近郊)に生まれる。

1928年(S03)平壌(ピョンヤン)の崇実専門学校卒業後、音楽に志を抱いて日本に渡る。

1929(S04)陸軍戸山学校軍楽隊に入学。(2000人中15人という難関を3番で突破)

1930年(S05)バリトン歌手として第一線で活躍していた下八川圭祐氏に師事,バリトンからテナーに育成。

1933年(S08)芸名永田絃次郎で時事新報社主催第2回音楽コンクールの声楽部門に入賞(34,35年も連続2位)。

1936年(S11)三浦環(たまき)主演のオペラ「蝶蝶夫人」でピンカートン役に抜てきされ、一躍有名になる。

1937年(S12)2月国民歌謡「朝」空前のヒット盤となる(キングレコード)。

1938年(S13)永田絃次郎氏,北川民子さんと結婚

1939年(S14)北川はな、民子の母娘と婿養子縁組し、北川家の内地戸籍に入籍し、「北川永吉」となる。

1942年(S17)NHKの嘱託となり,愛馬進軍歌,愛国行進曲などの軍国歌謡を歌う。

1945年(S20)米軍の爆撃で自宅全焼(5月)8月15日、日本敗戦。北川民子、夫永田絃次郎に帰国を勤めるが、もう少し様子を見ると、帰国を思い止まる。永田絃次郎、日本の敗戦とともに民族的自覚が芽生え、一家をあげて朝鮮集落の枝川に引っ越す。

 金永吉名で、在日朝鮮人達盟(朝連)の各種大会で独唱、演奏指揮。朝連の朝鮮中央芸術団のリーダーに迎えられる。一方藤原歌劇団にも所属し、永田絃次郎の名で出演。

1952年 4月28日サンフランシスコ講和条約発効。永田舷次郎、内地戸籍のため日本国籍を喪失せず、以後確定的に日本国籍となる。

1960年1月21日「金永吉さよならリサイタル」九段会館で開く。世話人100人の盛大なもの。「緑の窓」(竹久夢二作詩、佐藤長助作肋)、「荒城の月」グノー作曲「ファウスト」、マイヤベール作曲「アフリカの女」など、こころゆくまで歌う。

1960年1月29日 第6次船〔998人(朝鮮人933人、日本人65人)〕が帰国。日本人65人の中に金永吉一家6人(北川永吉、北川民子、長女・登和美、次女・康子、長男・資三、三女・英子)も含まれていた。

 芝田孝三・申性淑一家4人も一緒だった。このよしみで両家は、平壊で親しく交際する。(兄・芝田弘之氏談)           

1960年1月31日 清津港の埠頭歓迎式直後に金永告、イタリア歌曲「オオソレミオ」をイタリア語で歌う。当局、これに激怒し中央党に報告。

1960年2月末、または3月 帰国者独唱会選曲で大いにもめ、妥協の形でイタリア歌曲「オオソレミオ」、「私に伝えて」など2、3曲が許される。独唱会は大いに成功し、「オオソレミオ」が若い学生、青年たちの間に流行する。当局、慌てて取り締まりに入る。

 虚脱感が金永吉一家をおそう。以後憂鬱な雰囲気が家庭に充満し日本に戻りたいという気持ちが高まる。金永吉氏、離婚しか妻子を日本に戻す方法はないと考え党幹部に報告する。拒否され、以後日本人妻と子どもたちへの学習指導が始まる。これとともに一家は沈黙する。       

1961年6月25目 角圭子さんの証言『鄭雨沢チョン・ウテクの妻』で共和国政府が日本人妻の帰国を後回しにする事を望んでいることが分かる。

1961-2年 北川民子さん、里帰りを求める運動の先頭に立つ。

1962年 芝田孝三さんもこの運動に脇力し取り調べを受ける。

1964年10月7日 芝田孝三さんスパイ容疑で20年の刑で収容所へ。

1960年代中頃 金永吉氏収容所送りになる。(一説ではある地方都市で起きた帰国者への不当な処遇に抗議行動をとろうとしたため)

 妻子も地方送り(一説では炭鉱送り)になったと言われるが詳細は不明。

1990年 黄竜水氏が勝湖里スンホリ政治犯収容所から出所するまで金永告氏は健在であったと証言(1994年アムネステイ報告参照)

注)経歴の作成に当たって角圭子氏、とくに金英達キムヨンダル氏の永田絃次郎研究および、資料提供によるところが大きい。記して感謝する。〔経歴作成者・小川晴久〕

人道主義のリトマス紙 ~北朝鮮の日本人妻里帰り中断に思う~ 金民柱

 3月中旬頃に実施されると言われていた第3次日本人妻里帰りが延び延びになっていたが、6月9日になって北朝鮮は、第2次の際の日本での「非道徳的行為」に、日本人妻たちが自らの訪日申請を取り下げたと発表した。

 いったい「非道徳的行為」とは何を指して言っているのか理解に苦しむが、1次、2次を通じて日本人妻一行が成田を離れるまで」北朝鮮の社会安全員と思われる随員によつて厳しく監視されながら(どうしたことか日赤の職員までも彼等に協力して)、あたかも北の暗黒社会の延長でもあるかのような気の抜けない故郷訪問だったのにである。

 日本での接待について言うなら、北朝鮮政府が日本人妻の里帰り費用を金的に負担してから文句があるなら言うべきであって、何から何まで貴方任せの里帰りをさせておいて何をか言わんやである。賊反荷杖(朝鮮のことわざで、盗人たけだけしい-編集部注)とはまさにこのことである。

 日本人妻とはいえ、今ではれっきとした共和国・公民である。北朝鮮に渡って以来30数年間、共和国の成員として想像に絶する差別と虐待の中にあっても必死に朝鮮人になろうと呻吟してきた人たちである。日本人妻にこうした苦しみを与えている北朝鮮の措置にたいして私も在日の一朝鮮人として私ずかしい限りである。
 北朝鮮政府は60余万の在日朝鮮人をどう見ているのであろうか。北朝鮮での日本人妻たちへの差別は、そっくりそのまま在日にはね返ってくるのだということを知っているのだろうか。

 解せないのはどうしたことか、こうした一連の北朝鮮政府の行為について朝鮮総連が一言も発言しないことである。恐らくこれからも日本に永住するであろう総連傘下の同胞は北朝鮮のこうした傍若無人の行為に注意を促すべきであろう。

 とまれ、これまで我々「守る会」が主張してきたとおり、(特に97年7月19日に発表した「北朝鮮在住日本人妻の里帰りについてのわれわれの立場」[カルメギ14号参照])北朝鮮に生存する全日本人妻の人数、配偶者とその家族の実態をすみやかに調査して明らかにすべきである。     

 そして日本人妻全員の無条件の里帰りを実現させるべきである。
 もうこれ以上、日本人妻問題を政治的な取引の材料にしてもらいたくない。日本人妻の里帰りは時間との闘いでもある。余命幾ばくもない高齢者ばかりである。日本人妻の里帰り運動は北朝鮮が真の人道主義を重んじる国なのかどうか、リトマス試験紙にかけられていると言える。

季刊誌 生命と人権

※2020年12月現在、販売しておりません。

A5版48ページ 500円 【英語版・韓国語版もあります】
創刊号(96秋)アリ・ラメダの手記(79年北朝鮮強制収容所の実態を世界で初めて明らかにした)/他

第2号(97新年)北朝鮮体制とのつながりから見たソ連強制収容所の本質(加藤哲郎)/他

第3号(97春)特集・北朝鮮脱出者問題在ロシア北朝鮮脱出者に対する強制送還の違法性(金明基)/他

第4号(97夏)特集・北朝鮮帰国事業 凍土の北朝鮮に殺到した在日朝鮮人(李 洋秀)/他

第5号(97秋)特集・北朝鮮側の人権概念 人権はあまねく、連帯は力強く(佐伯浩明)/他

第6号(97冬)特集・国連人権小委の対北朝鮮決議 国連人権小委の対北朝鮮決議関連諸文書/他

第7号(98春)特集・北朝群の女性の人権状況 蹂躪された幸せ呼ぶ花たち(小川晴久)/他

  定期購読者募集中(送料込み1年3000円) お申し込みは、守る会まで

当会の出版物は、ミニコミ取り扱い書店の‘‘模索舎”(東京都新宿区新宿2-4-9/ ℡03-3352-3557)にも、すべてそろえてあります。
  どうぞ、ご利用ください。

ああ 清津へ 帰り船を!帰国者 家族を励ます 音楽と証言の集い

10月17日 1時30分 開場
エル・おおさか

魂をゆさぶる国際派大型歌手 ※朴聖姫さんプロフィール

 上智大学外国語学部フランス語学科卒業。パリ大学ソルボンヌ留学。1986年、東京での第1回リサイタル『漂白』では、クワトロリンガル(4カ国語を話す)歌手として注目を浴びる。

 88年、第2回リサイタル『いま光を裕びて』、90年、第3回リサイタル『裸にさせて』と活動の幅を大きく広げた。93年から96年まで3年間ドイツ・フランクフルトに滞在。

 朴さんの作詞、中村八大作曲の「ああ清津へ」は在日帰国者を正面から歌って絶賛を浴びている。
 現在発売中CD収録の自作オリジナル第一作の「森よ誇っておくれ」はひそかなブームとなり、ロングセラーを続けている。

シャンソンを中心としたノンジャンルの大型国際派手として、その活躍が大いに注目されている。
 「ああ清津へ」と「森よ語っておくれ」は朴さんのCD『帰ってきましたコンサート』におさめられている。   連絡先 ピーエスプラン03-3465-9697

関西支部が結成されて2年

 関西支部が結成されて2年になりました。今年の秋には帰国者の問題を掲げて千人規模の集会を開きます。

 昨年11月と今年1月の2回、日本人妻の里帰りがおこなわれました。しかし北朝鮮に帰つた在日朝鮮人たちには日本の家族・親族を訪ねることも、墓参りも認められていません。

 一部の日本人妻の里帰りに終わらせることなく、在日帰国者ならびに日本人家族の親族訪問と里帰りを実現することは切実な人道問題です。

 私たちの会は今年この問題を各界に働きかけ、その実現のため全力をあげて取組む所存です。

 今回の音楽と証言の集いはそのための一環となるものです。会員のみなさん、支援者のみなさん、ぜひお力をお貸し下さい。

北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会・関西支部

10月17日(土) 1時30分開場 エルおおさか 会場エル・シアター(エルおおさか)
大阪市中央区北浜東3番14号京浜電車「天満橋駅」下車 西へ200m

お二人のデュエットも楽しみ

 歌手の寺井一通さんは、96年5月の「浩平さん一家『銃殺』事件真相究明の夕べ」に出演していただいて以来、守る会ではおなじみの方です。守る会のためにみずから作詞作曲された「風」や「妹からの手紙一北朝鮮で死んだ兄へ」で、私たちの運動にあたたかいご支援をいただいている方です。

 朴聖姫パク・ソンヒさんの「ああ清津へ」を京都のコンサートで聞いた在日の守る会会員の女性が感動で涙を流して「ぜひ大阪にもお呼びしたい」と強く希望し、今回の公演となりました。

 寺井さんと朴聖姫さんとは、ぐうぜんにも上智大学外国語学部フランス語学科の先輩後輩の関係です。お二人のデュエットも楽しみです。

“人間賛歌”に燃える熱い歌手 ※寺井一通さんのプロフィール

 1948(昭和23)年長崎県生れ。上智大学在学中にシャンソンに魅せられ、音楽の道へ。ヒューマン・ドキュメンタリー・ラブソングと銘打ち、様々な人たちの声にならない叫び、言葉にならない悲しみを受け止めて創作し人間賛歌を歌い続けている。
 現在約400曲のオリジナルを創作し、アルバム数は23作品。全国各地でユニークなコンサート活動を行い、月例コンサートとして、1980年より始めた新宿・「家路」での「紫陽花の集い」(毎月第4水曜日)も16年目を迎えている。
 長崎では毎月9日を「ながさき・うたの日」とし、平和の歌声を響かせている。また有機農法での小麦や米作り、八朔作りにも励んでいる。

 1996年には帰国者を取った「妹からの手紙一北朝鮮で死んだ兄へ」を作曲し、大きな感動を呼ぶ。また守る会のために作詞作曲した「風」がある。

「妹からの手紙」は寺井さんのCD「愛・家族・明日」に収められている。連絡先 寺井一通音楽事務所       0474・77-6672

一日も早い南北統一を  匿名希望

 1987年の大韓航空機爆破事件で、北のスパイとして、捕らえられた金賢姫キム・ヒョンヒの手記を読み北朝鮮にたいへん興味をもちました。

 それ以来、崔銀姫チェ・ウニ申相玉シン・サンオクの『闇からの谺』、姜哲煥・安赫の『北朝鮮脱出』など何冊かの暴露本を読みました。そして、それらから知る北の実状から、今の時代にこんな国があっていいのかと、強い怒りを感じるばかりです。まるで、日本で言えば終戦直後以下の生活が今でも続いているなんて、信じることができません。

 食糧難のニュースを見ただけでも、人々の苦しい生活がひしひしと伝わってきます。私たち日本人は、たいへんに恵まれた生活をしています。食べ物も着る物もありすぎてありがたみが感じられなくなっています。そのお菓子一箱でも北の子供たちに分けてあげれたら...とお菓子をつまみながらそのニュースを見ているのです。

 今年の始め頃、テレビであるニュースを見ました。日本の訪問団が北朝鮮を訪れた際に、食糧不足が続く子供たちのために、餅つきをして餅を食べさせるという内容のニュースでした。私は最初とてもいいことだと思い見ていました。しかし、見ていてだんだん悲しくなりました。場所はピョンヤンです。ピョンヤンと聞いたとき、金持ちの労働党の子供かな?と思いました。着ている服もとてもきれいな布地の服で、祭りでもないのにこんなキラキラの服をきるなんて...と思いました。

 北朝鮮は、外国向けに自分の国を公開するときは、絶対に精一杯着飾って、いい部分だけしか見せません.これは本当の北の姿ではありません。ピョンヤンでなく地方の貧しい子供にあの餅を食べさせてあげれたら...おそらく訪問団もそう考えていたことでしょう。しかし、そんな貧しい土地を見せることは、絶対にしないでしょう。

 日本がいくらかの米を援助して、本当に末端の人まで配給してもらえるのでしょうか?

 私は、一日も早く誰かが金正日を打倒し、(労働党員が自分たちの誤りに気づきもっと人間らしい心を持って、一人でも多くの人民を救おうという気持ちを持てば、全員一致団結して、金正日に立ち向かいクーデターでも起こせると思います。)一日も早く南北が統一されたらと願ってやみません。

 金正日自身は人前では資本主義国家を批判しているのに、資本主義と全く変わりない生活をし、贅沢ざんまいしているのです。一国のトップでありながら人民のことを何も考えない人に国を任せることはできません。「首領さまのおかげ」と祈る人々の気持ちを踏みにじっているなんて、許せません。人民のカで生活できる金正日こそ「皆様のおかげで今日の食事ができます。」と反対に頭を下げて当然です。

 私たちがやきもきしていても力になれることはありません。しかし、北には奴隷生活をしている人が多くいることを国連に訴えることはできるでしょう。もうこの事実は秘密にしておくことはできません。多くの亡命者は事実を語っているのです。北の言うデッチアゲではないのです。国連が北朝鮮の中に入り、国の隅から隅まで視察することはできないのでしょうか? 自分の意志でなく第三者により北に連れられてきた人を助けることはできないのでしょうか?

 私はたまたま日本人に生まれたのです。そしてあなたはたまたま北朝鮮に生まれたのです。国を選んでこの世に生まれたのではありません。同じ人間だから、国がちがってもおなじレベルの生活をしていてあたりまえです。 
 あなたの国が、本当の‘地上の楽園”になる日を待ってやみません。
一日も早い南北の統一を夢見て...

北朝鮮の人権状況と「守る会」

拉致日本人と在日帰国事業

 1997年10月4日 拉致日本人の救出を求め、家族と支援者らが東京都港区の友愛会館で「北朝鮮に拉致された日本人を救出する会」を結成。連絡先事務局は東京・三善法律事務所内。TEL03-3432-4051。

10月7日 在日朝鮮人帰国事業で、受け入れ責任者だった元北朝鮮副首相補佐官、呉基完オ・ギワン氏が亡命先のソウル市で産経新聞の取材に応じ「帰国事業の失敗は当初から明らかだった」と証言。事業が有利に運ぶように日本のマスコミに知識人工作を行い「一部記者に北朝鮮に有利な統計数字などを書いた資料を金塊とともに渡した」と語った。

10月8日 スパイ罪で服役中の元北朝鮮工作員、辛光沫シン・グアンスによる大阪の中華料理店員、原敕晃はら・ただあきさん誘拐事件を裁いたソウル地裁判決文の全容が産経新聞紙上で明らかに。

11月12日 与党訪朝団、朝鮮労働党の金養建キム・ヤンゴン国際部長らと会談。労働党は日本人拉致で「拉致疑惑は虚偽のでっちあげであり、全くでっちあげのためのでっちあげだ。これ以上取り上げないでほしい」と発言。

11月14日 与党訪朝団、森喜朗自民党総務会長と金容淳キム・ヨンスン朝鮮労働党書記の会談。日本側は、日本人拉致について「北朝鮮とは関係がないとした上で、一般の行方不明者について調査する」と北朝鮮側が会談内容をまとめた文書で述べていると発表。

北朝鮮の報道文書では「日本でいわれている行方不明者は純然とした捏造であるが、日本側の切実な提起を考慮して一般行方不明者と同じ調査を行うことができるよう話した」とある。

11月14日午後 与党訪朝団、帰国後、国会で記者会見し、北の行方不明者調査方針について「誠意ある回答があった。・・・拉致された日本人の帰国が一番大事だ」と語り疑惑追及を後回しにする考えを示す。

1998年2月4日 外務省の阿南惟茂あなみ これしげアジア局長は自民党外交関係・日朝小委員会問題合同部会で、昨年11月から今年1月にかけての日朝非公式脇議で、北朝鮮側が「国内にいる日本人行方不明者」として、7、8人の名前を伝えたことを述べたが、日本側が求めている7件10人と一致しなかったと発言。

3月26日 元北朝鮮工作員で韓国へ亡命した安明進アン・ミョンジン氏が来日、産経新聞のインタビューに対し、北朝鮮に金日成政治軍事大学で「7人の拉致された日本人を見た」と語った。この中の一人は7件10人には含まれぬ北海道在住の男性と証言。年齢30才代半ば。電気製品の配達をしていたという。日本の調査当局は一年前の事情聴取で調査したが、該当行方不明者はいまだ見つかっていない。

3月31日までに 朝鮮中央通信は、拉致日本人の家族らによる救援署名活動について「無益な騒ぎ、日本がそれで得るものはない」と表明。

4月8目 外務省の阿南惟茂アジア局長は参議院外交・防衛委員会で、レバノン政府が1978年に拉致された自国の女性4、5人を北朝鮮政府に談判の上、翌秋連れ戻したことは事実、と表明。

6月5日 北朝鮮赤十字会スポークスマンは日本人行方不明者調査につき「遺憾にも日本側が探している不明者10人は一人も授し出せなかった」と発表。

橋本龍太郎首相は「北朝鮮側の対応はとても受け入れられるものではない。政府として今後、引き続き、本件がわが国国民の生命の安全にかかわる重要な問題との認識に立ち、北朝鮮側の真剣な対応を求めていく」と表明。

北朝鮮の従軍慰安婦・太平洋戦争被害者補償対策委員会スポークスマンは「日本はこれ以上、何の証拠も事実資料もない『拉致不疑惑』にしがみつくべきでなく、朝鮮とアジア人民を前に自己の犯罪的な過去を清算すべきだ」と語る。

6月9日 北朝鮮赤十字会スポークスマンは日本人妻里帰りについて「日本側が引き続き、第三次の在朝日本人女性らによる故郷訪問事業に人為的な難関を生じさせている。在朝日本人女性らが、自らの日本故郷訪問の申請を取り消した」と発表。

この人にきく ゴーサナンダ師

 ゴーサナンダ師は、カンボジア和平実現のため、宗教的精神をもって国内外で活動された功績をもって、このほど庭野平和賞を受賞された。以下、東京の立正佼成会本部で行われた受賞式後の記者会見内容の一部をお伝えする。

(参考URL:マハ・ゴーサナンダ師 第15回 1998年 受賞者 カンボジア

記者
記者

カンボジアにおいて虐げられた人々の救済活動に邁進した情熱はどこから発しているのですか。

マハ・ゴーサナンダ師
マハ・ゴーサナンダ師

「平和と人々の幸福を願っての活動でした」

記者
記者

ポルポトの大虐殺はなぜ止められなかったのですか。

マハ・ゴーサナンダ師
マハ・ゴーサナンダ師

「カンボジアの人々は元々、フランスの植民地になるずっと前から仏教徒、僧侶でした。ポルポトもシアヌーク国王も共に仏教徒です。ポルポト政権は私の存在を知っていました。仏教の五戒にあるように、ポルポト政権に、人々を殺さないように訴えてきました。それで政権下のある人々は私の活動に憤慨しました。しかし、ポルポトは第一の戒めの殺すなかれに始まる五戒の精神を忘れてしまったのです。彼らは私の話を真剣に聞いてくれなかったのです。今、なぜ彼らが大虐殺をやったかと問われれば、共産主義が一番の理由だと思います」

記者
記者

ポルポトに弾圧されたとき、どういう思いだったのですか。

マハ・ゴーサナンダ師
マハ・ゴーサナンダ師

「われわれはいつもダルマ、法を支えに生きてきました。必ずこの暗闇の後には光がやってくると信じておりました」

記者
記者

虐殺を止められなかったことで無力感を感じませんでしたか。

マハ・ゴーサナンダ師
マハ・ゴーサナンダ師

「すべては縁でつながっています。私がこちらに来たから、記者の皆様がここにきている。私がカンボジアに帰ったら、記者の皆様も帰ります。お釈迦様は法を悟ったとさ仏陀になりました。すべてのものには原因と条件があります。それがなくなれば元に戻ります。この世は空であり無常無我です。すべて起こっていることは空であると受けとっています」

記者
記者

北朝鮮の強制収容所には二十万人の人々が囚われていて、拷問と飢えと極寒によって死に瀕しています。しかし、北朝鮮政権は人々の救済と人間の尊厳を取り戻す呼びかけに対し「国家主権の問題であり、内政干渉だ」と反発しました。宗教者はどのような態度をとるべきとお考えですか。

マハ・ゴーサナンダ師
マハ・ゴーサナンダ師

「世界が私の家であり、世界の人々が北朝鮮の人々も含めて私の兄妹であり、私の姉妹です。虐げられている兄妹姉妹を助けることは私の義務です。私は毎日、菩薩の誓いである四弘誓願・つまり衆生無辺誓願度、煩悩無量誓願断、法門無尽誓願学、仏道無上誓願成を通して、北朝鮮の人々も含めて社界の兄妹柿妹のために祈りを捧げております」

記者
記者

宗教対立などこの世の対立・構想を解消するには何が必要だとお考えですか。

マハ・ゴーサナンダ師
マハ・ゴーサナンダ師

「机を四つの柱が支えているように、仏教には四つの無限のこころがあります。一つは慈悲、慈しみのこころです。二つには悲しみの心です。三つには喜びの心、他人の幸福を喜ぶ心です。四つには捨てる心、すなわち平等ということです。この慈・悲・喜・捨の四つの心を常にもち続けることです」

(文責 佐伯浩明)

帰国者からの手紙

 80歳をこえた母に「強行軍」させるなんて、かわいそうお姉さん!ここではお母さんはじめ、みな無事にすごしています。お母さんは、もう年のせいで体を動かすこともつらく、耳も遠くなり、大声で話してやっと聞こえるようです。

 お姉さんがお母さんのことを思っていろいろ援助してくださるのに、わたしがお母さんをちやんと見てあげられなくて、年老いたお母さんがぼうっとすわっているのを見ると本当に胸が痛みます。

 その年老いた体でつらい「強行軍」をしていかなければならないなんて、お母さんが本当にかわいそうです。

 兄弟たちもみな歯をくいしばって生きています。お柿さんがあれだけわたしたちのことを思って助けてくださるのに、こんなにも生活が苦しいなんて面目ありません。

 昨年11月に送ってくださった送金も3分の2しか受け取れませんでした。それでもそのお金でいままでお粥でも食べながらどうにか生活を維持してきましたが、みんながあまりにもつらそうにしているので、機会をつくることができたわたしがお柿さんに連絡することになったんです。

 お柿さん!各方面からここの情報を聞いていらっしやることと思います。いまはどんなことをしてでも生きていかなくてはいけないのですが、わたしたち兄弟には「元手」が無いためにどうすることもできません。

 お姉さんからの援助でどうにかやっていこうとしたのですが、今回の送金もあまりにも少しづつ(一回に3000円)しかもらえないため、その時その時食べるのがやっとの状態で、なにもすることができません。

 お姉さんが電話で手紙に具体的に書くようにとおっしやつたので、このように書きますが、お柿さんも理解して読んでください。

 そして、お姉さん!どうにかして甥や姪たちといっしょにこの「強行軍」がおわるまで援助してくださるようお願いしたいと思います。

 わたしたち兄弟全員がお姉さんだけをたよりに生きていかなければならないなんて、本当に申し訳なく思っています。

 お姉さんがわたしたち兄弟の「生命線」と同じなんです。お姉さんがわたしたちを助けでくださらなかったなら、ここにいる兄弟みんなが死んでいたはずです。

 お姉さん!今日はここまでにします。   1998.5.10

                     妹◯◯より

《編集部注》カルメギNo.19(2月号)にのった帰国者の手紙の続編。日本に住む柿のAさんが、寒い冬を少しでもあたたかくのりきってほしいと帰国した妹に昨年暮れに6万円送金したが、当局にとり上げられた。98年から月1万円づっ渡すとの約束だったが、今回の手紙で月3000円(日本円)しかもらっていないことが記されている。むごい措置である。

6月13日第一回東京学習会 報告  金 鉄雄

 98年度第1回学習会は運営委員の佐倉洋氏がレポーターでした。

(講演要旨)現在人権概念は元々西欧市民革命に根差すもので人道、人権問題が政治的に利用されたり、無視されない中で発展して来たものですが、アジアではこの歴史が無いのですね。第二次世界大戦後国連に人権機構が設置され複雑化する中でシステムの調整の動きがあるわけです。               

 アメリカ、欧州、アラブ、アフリカには地域の人権条約が有りますが、アジアには有りません。NGOはアジア、アフリカまでたくさん来ています。1991年韓国と北朝鮮が国連に加盟し、1997年8月21日に人権小委員会が北朝鮮の人権抑圧を決議採択をしましたが、8月25日に北朝鮮は脱退宣言をしました。

 国連評議会廃棄(脱退)は参加加盟国全ての同意が必要であるとしており、従って北朝群はこの国際規約に基づく市民的政治的権利条項の拘束を受けています。1998年4月14日国連人権委員会で北朝鮮について「良心囚、労働による再教育(収容所)家族の分離などの監視、表現の自由の抑圧」などにつき言及し、これに対し北朝鮮は自国の人権問題の改善に取り組む姿勢を全く見せず、国家主権の専厳を主張しこれを侵害することは出来ないとしています。一部の新興国家がこの姿勢に同調しています。

 Euの北朝鮮への言及は、北朝鮮の人権問題を改善しなさいと言う人道上の問題で、例えば領土を割譲しろと言うような国家主権への侵害ではありません。北朝鮮の異常な民衆支配の現状が問われており、民主主義、人権の原則が無く国内での内部解決が出来ない状態です。国連憲章第7条に人道的救済権と介入義務、強制措置が定められています。
 北朝鮮に同調する新興国について考えるとき、70年代の韓国が一つの教訓となります。経済発展に伴う社会変動の中で人権問題の改善が問われているのです。北朝鮮は欧米の個人の市民的自由権利の思想とは対極に有る「核心層、動揺階層、敵対階層」という身分制社会であり、中世的、封建主義的な東洋的家父長制国家であり、アジア社会のもつ一つの問題であります。

 ここでレポーターは、北朝鮮の主体思想はマルクス主義を利用、悪用したものとして指摘しましたが、私(金)はこの点には疑問が有ります。
 主体思想はむしろ西欧中世神学の「御父(金日成)、御子(金正日)、聖霊(主体思想)」の三身一体論に近いもので、社会主義の衣(企業、土地の国有化、配給制度)をまとった擬似宗教国家(特に1970年代以降の個人崇拝の強化、「教祖」による国民の身体、人格の完全支配)であると思うのです。その意味でも前近代的な国家であり社会です。

 講演後、休憩時間を挟み参加者による討論会となりました。「中国文化大革命は意識的に敵を設定し抗争させることによって共産党権力の支配秩序を保った。」「ファシズムは歪んだ社会であるが、敵対階級に憎しみの全てをぶつけよというマルクス主義の行き着く先が北朝鮮国家である。」「それは人間の持つ憎悪の情念を政治的に利用しているだけでマルクス主義とは関係ない。むしろ一部の宗教の持つ異教徒への迫害や報復の原理に近いものだ(例えば戦中日本では鬼畜米英を唱えたが、日本はマルクス主義社会であった訳ではない)。」「ジャック・ロッ・シ氏は、社会主義の実態は強制収容所であるとおっしゃっていました。」 

 このように意見は活発にかわされましたが、北朝鮮がマルクス主義国家であるのか否かに集中し、文化人類学的視点が無かったことから今一つ本質に迫ることに欠けていたように思います。

第2回の東京学習会のお知らせ

1、日時;7月18日(土曜) 午後2時~5時
2、場所;喫茶「ベラミ」3階集会室(JR日暮里駅東口前)
            telO3(3801)5545
3、テーマ;アメリカの有力雑誌に載った強制収容所からの声(アメリカでの取り組みのスタート)    講師;共同代表  小川晴久

第3回学習会は8月22日(場所、時間同一)を予定しております。学習会は会員同士の交流の場でもありますので、ぜひ積極的にご参加ください。

第1回関西支部講座 「私の体験した在日朝鮮人運動」講師:梁永厚(ヤン・ヨンフ)先生(現在大阪女子大、関西大等の講師)

(個人史の部分の要約)

 私は1930年生まれです。もうすぐ古稀70歳を迎えますが、自分の歩んできた道を、きちっと頼みておかねばならない年齢になったと思っています。青年のころは、未来を目指して仕事をしたと思います。人間、青年のころは未来を目指し、壮年になるとリアルになり、いよいよ古稀に追ってくると過去をどう整理するかということでしょうか。

 過去をふり返るといろんなことが、何か満ち潮のようによみがえってきました。私の青年時代の20年は民戦や朝鮮総連の仕事をしました。そこでやったことと、後半の20数年と、これが一貫して繋がったかというと、繋がっていないわけです。また総連では主として、教育を担当したので、小さい子供から、高等学校の生徒まて、自分が、どんな労響を与えてきたのか、自分の総括をやろうとすると、実に重たい問題としてのしかかってきます。

 当時は、北への帰国運動があって、教え子の中でも一定数の人が帰っていきました。その人達が北で本当に幸福なのか。日本で自分は何でもものが言える、お金さえあれば何でも買える。いわば‘のうのうと‘生きている。整理の仕様が実に難しいとの思いを持っています。また、自分のやって来たことを糾さねばならないとの思いで過去について書くのですが、‘今になって自分のやって来たことに悪口を言うのか’という攻撃を受けることもあります。

[この後、梁先生は戦後の在日朝鮮人運動の流れを詳しく
説明した後で、個人史を次のように述べました。]

 大阪民青学院という夜学があり、ここに入ったことが運動に参加した始まりです。昼間は関大の専門都へいっておりました。卒業後就職が不調で朝鮮中学校の教師となりました。寺子屋に毛のはえたような建物で向こうがわの透けて見える板壁という状況でした。 
 翌年、大阪で学校閉鎖後の再建にかかわりました。生徒奪還闘争とよび、生徒を日本の権力から取り返すんだという考え方でやりました。父母の支持を受け再開はできましたが、日本の法律は無視です。認可も受けておりません。認可を取らねば強制閉鎖されるということで、各種学校認可の書類を作りましたが書類を役所が受けつけないので無認可のままになりました。しかし日本の企業にも快く対応してもらい、順調な日々でした。

 次に行った中学は大阪市立です。朝鮮の生徒を受け入れるのに大阪市にも考えがあって、市立中学にあまり多くの朝鮮人生徒を受け入れたくないということで、朝鮮の生徒を受け入れる中学が作られました。朝鮮人中学の後に、土地はもともと大阪市のものですが、ここに市立西今里中学ができました。従って校長と先生の半分は日本の先生です。58年6月のことです。

 僕は文化部の主任であったので、朝鮮戦争の記念日にちなんで、玄関の黒板に、ローマの哲人の青葉『良い戦争よりも最も悪い平和を望む』をひいて「同族あいはむ戦争を繰り返すな」と書いたのですが、これが大問題になりました。

 朝鮮戦争は総連の中では正義の戦争とされております。僕は毎日残されて総括をさせられる、しかし僕には自己批判する理由がない。正義の戦争といわれてもそういう考え方もあるなとしか思えない。これで学校を辞めさせられたのですが、本気で正義の戦争を批判したのではない。
 と、間に入ってくれる人があって大阪朝鮮高校へ移りました。ここでは順調でした。

 62年4月に生野に新しく建てられた学校に校長で赴任します。田んぼの中に逢ったようなところで、運動場も泥んこでした。ここで外部の学生団体、ノンポリのクウェイカー教徒の団体でしたが、運動場工事を支援してもらったことから、同胞に依拠せず日本人や宗教団体に依拠したと、厳しい総括を受けさせられてしまいます。

 大阪の朝鮮学校はまだ認可を受けておりませんでした。日韓条約体制となり弾圧を受けることが予想されたので、認可のために努力しました。私がまた書類申請をやりました。学校のこととなると右の人も非常に協力してくれました。府議会、市議会にも民族教育の意義を訴えて認可を得ることができました。

 このころになると大阪の総連本部は私のよく知った人が幹部を占めるようになり、そこで本部の常任になりましたが70年に朝鮮総連中央に引き抜かれてしまいます。中央といっても事務だけです。当時は金炳植キム・ビョンシクが威勢をふるっていたころです。フクロウ部隊という手足となる私兵を抱えてさえいました。

 この時期に、金日成への贈り物事業、つまり金日成の還暦に贈り物を集める仕事まで担当しました。紫檀の家具やらベッド、室内運動具まで担当させられ嫌になりました。
 金炳植キム・ビョンシク韓徳銖ハン・ドクスとぶつかって北へ帰国させられてしまいます。いろいろな不正が明らかになりましたが、韓徳銖の総連私物化もひどいものです。

 設立当初の在日の権利を守るという活動ができず、73年初に総連を抜けました。

[ここで所定の時間が切れ、続きを次向の講座でお話して
頂くことになりました](文責:関西支部)

関西支部だより

 6月13 日の第1回関西支部講座では、20人近い参加者が、梁永厚先生の3時間にも及ぶ詳細な在日朝鮮人運動史に聞き入りました。休憩も取らずに長時間にわたって具体的事実を年代とともに説明された体力と驚くべき記憶力に、参加者一同、驚嘆と敬意を感じずにはいられませんでした。特に、在日朝鮮人総連合会の中枢部に関する、梁先生ご自身の経験にもとづくお話は、参加者にとって初めて知る貴重な内容でした。(いずれ発表できるようにいたします。)

 豊富な内容にとっては3時間でさえ短すぎて、端折っていただいた部分も多々あったため、「もっと聞きたい」という参加者の声に応えて、下記の要領でパートⅡをお願いすることになりました。関西の方はぜひご参加ください。

 今後の計画は以下の通りです。
第2回関西支部講座 7月25日(土)1時30分~4時30分
     講師梁永厚(ヤン・ヨンフ)さん   大阪女子大学、関西大学講師
   「私の体験した在日朝鮮人運動 パートⅢ」会場大阪経済大学E館7階

第3回関西支部講座 8月29日(土)1時30分~4時30分
     講師鄭早苗(チョン・チョミョ)さん 大谷大学助教授
   「在日の生活設計を考える(仮題)」   会場大阪経済大学E舘7階

秋の催し『ああ清津へ帰り船を-北に伝える歌と帰国者家族証言の集い(仮題)』
     日時10月17日(土)午後1時30分開場 場所エル・おおさか(天満橋)
     内容 Ⅰ部 寺井一通さん、朴聖姫さんの熱唱
        Ⅱ部 帰国事業に関わった人や帰国者家族の方からの証言

♪北朝鮮音楽界の二大パワー  高来れい

 韓国の新聞・雑誌の芸能欄を見ると、時々‘‘放送回数によるベスト10”というランキングが載っている。その週に各放送局でどのような曲が何回かかったかを集計しまとめたものである。放送に多く登場した曲が、現在の人気曲、話題曲であるといえるだろう。
 もし同様の調査を北朝鮮の放送に対し行ったら、どのような結果が出るだろうか。おそらく、歌謡曲スタイルの歌を専門に手がける普天墜(ポチョンボ)電子楽団、旺載山(ワンジェサン)軽音楽団の歌が上位を占め、続いて朝鮮人民軍協奏団の軍歌、行進曲風の歌が入るだろう。
 現在、北朝鮮の(公式の)ラジオ放送を聴いてみると、普天墜電子楽団、旺載山軽音楽団の歌が頻繁に登場する。その間を縫うように朝鮮人民軍協奏団の音楽が現れる。北朝鮮には、これらの楽団以外にも、国立民族芸術団等や地方の芸術団体が存在する。しかし、こうした芸術団体の音楽は殆ど放送には登場しない。

 ところで、普天一墜竜子楽団、旺載山軽音楽団は、北朝鮮芸術界のトップに君臨する万寿台芸術団系列の楽団である。この万寿台雲術団は、金日成、正日父子が直接指導する機関である。又、朝鮮人民軍協奏団は、その名が示すように軍の組織である。最近の「労働新聞」等、北の公式メディアを見ると、連日のように金正日最高司令官が人民軍の各部隊を訪問している記事が掲載されている。
 こうして見ると、ラジオ放送で中央党直属あるいは人民軍傘下の芸術団体の音楽のみが流されるのは、現在の金正日政権の夢を象徴しているのではないだろうか。すなわち、金正日総書記は中央党と人民軍で両脇を固め、北朝鮮に君臨しているのである。

 いや逆に、金正日総書記が中央党と人民軍に支えられているのかも知れない。連日、普天塗電子楽団、旺載山軽音楽団も人民軍協奏団も、金正日将軍を賛美し、党や国家、軍隊を讃える歌を熱唱している。しかし、普通の国の大衆音楽のように、一般国民の喜怒哀楽は決して歌わない。このことも、現在の北朝鮮という国家の姿を象徴しているようである。

 ◇「4月の春親善芸術祝典」開催◇ 北朝鮮の4月の恒例行事である「4月の春親善芸術祝典」が今年も4月8日から約10日間にわたって行われた。今年で16回目を迎える同祝典には、日本からな女性‘マジシャン引田天巧が参加し話題を集めたが、他に小笠原美都子を団長とする「日朝音楽芸術交流協会芸術団も」参加した。その他に、中国、モンゴル、キューバ、ロシア等の社会主義諸国、マダガスカル、ナイジェリア等のアフリカ諸国、フランス、フィンランド等のヨーロッパ諸国等60余国から800人が参加した。又、在日、在中国、在米の北朝鮮公民たちも参加した。
 もともと故金日成主席の誕生日(今年から“太陽節’’に制定された)にちなんで行われるようになった行事のため、内容も当然、金日成、正日父子や北朝鮮を讃えるものが大部分だが、各国のオリジナル内容の公演もあるため、北朝鮮の一般国民にとっては“合法的に’’外国文化に触れられる数少ない機会といえるだろう。

◇「リトルエンジェルス」平壌にて初公演◇ 統一教会傘下の少女民族芸術団「リトルエンジェルス」が5月4日、平壌にある蜂火蓋術劇場で公演を行った。各界各層の平壌市民の見守るなか、彼女たちは「農楽舞」のような民族舞踊や民謡「アリラン」、「焼き栗打令」等の他、北朝鮮の歌「口笛」等を披露した。初めて目にした南の少女たちの民族芸術に、観客たちは感嘆し、惜しみない拍手を送つた。

  〔編集部注〕
統一教会はかつての国際勝共連合と一体の組織。北朝鮮と金日成を敵として、その打倒のために活動していたが、今では北朝鮮の最大のスボンサーのひとつとなっている。リトルエンジェルスの公演のもようを5月5日付の「労働新聞」は写真付き三段で報じている。世の中変われば変わるものである。

《運営委員会報告》

 北朝鮮脱出者生活・保護基金を守る会から分離し、別組織とすることについて 5月28日の守る会第2回運営委員会で、守る会のなかにある北朝鮮脱出者生活・保護基金(以下生活・保護基金とよぶ)を分離し、別組織とすることを決定しました。賛成運営委員14人、反対一人、保留一人、欠席一人(意見不明)です。

 決定の理由は以下のとおりです。
1.生活・保護基金(責任者加藤博委員)は、北朝鮮から脱出し中朝国境やロシア国境地帯に流浪する北朝鮮住民の救援を目的にしていますが、これは本来韓国政府やキリスト教団体などがやる仕事であって、守る会のような小さな組織が担うには財政的にも人員面でも負担が大きすぎること。

2.守る会の目的は帰国者の生命と人権を守ることにあり、帰国者と日本人妻の一時帰国の実現をはじめ帰国者の安否調査、強制収容所に囚われている帰国者の生死の確認、その釈放要求や、帰国者にたいする北朝鮮当局の差別政策の撤廃要求などやるべきことが山積しています。また政府、国会、政党など関係横閑への要請や、宣伝広報活動などもいっそう必要になっています。これら守る会の本来の活動に集中することがいまもっとも必要とされていること。

3.加藤博氏が個人レベルでおこなっていた脱北者支援の活動を、昨年の守る会総会で会の専門部として活動することを決めましたが、一年間やってみて矛盾がでてきました。

 そのためこの際分離し、二つの組織がその目的達成のためにのびのびと活動できるようにし、協力しあえるところは協力することにしたはうがよいということで多数意見の一致をみました。反対意見の委員も多数の判断に従うとの表明がありました。

4.命がけで国境をこえてきた北朝鮮住民を救援することは人道上からも必要なことであり、今後も賛同する人たちでこの運動を推進していくためにも、生活・保護基金を分離し別組織とし、守る会は協力共同の関係を保っていくことを確認しました。これまでカンパを寄せてくださった方々やご支援くださった方々に厚く感謝いたしますとともに私たちの決定にご理解くださるようお廠いいたします。

以上

北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会 運営委員会

編集後記

▼ 猛暑の日々お変わりありませんか。今号も発行 がすこしおくれましたことおわびします。「流れる歳月」は筆者萩原の事情で今号は休みます。申し訳ありません。
 関西支部主催の在日中帰国者を励ます音楽と証言の集いの成功のためにカルメギも役割をはたしたいと思います。  (遼)

▼ カンボジアの仏教指導者のゴーサナンダ師をはじめ海外の宗教指導者を取材して思うのは、北朝鮮の人権問題に対して極めて率直に救済の必要性を主張することだ。食料支援しか言わない日本の宗教指導者と全く違う。何故か。深く考えなければならない。  (佐伯)

▼ タイトルその他を刷新しました。遅まきながら封筒も印刷しました。会自体もこれから大胆に、もっと民主的かつ行動的な市民団体に変革してゆかねばならないと思っています。皆様の批判的かつ建設的ご意見を、切にお待ちしています。 (川井)

▼ 悲劇のテナー、永田弦次郎氏の特集はいかがで したでしょうか。すべての芸術は自由な表現から生まれます。その「自由」が全く認められなかった国で、永田氏がどれだけ苦悩したか、胸のつまる思いが致しました。 (三浦)

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