かるめぎ NO.26  1999.04.01

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 会報『かるめぎ』の過去号を、旧サイトから、順次こちらにアップしていきます。この機会に、過去の『かるめぎ』を通して、守る会の歩みを知っていただければ幸いです。

(旧サイトより転載:http://hrnk.trycomp.net/archive/karu26go.htm)

堂々結成5周年!

 ことしの総会は4月17日、東京です。
 5年前の1994年2月20日、「北朝鮮帰国者の生命いのちと人権を守る会」は結成されました。これをぶち壊そうとする朝鮮総連の暴力分子50人ほとの怒号と暴力のなかで誕生しました。「一年ももつまい」といわれたなかでこの5年間着実に発展しています。
 意義ある5周年にあたることしの総会を会員のみなさんの力で大さく成功させて下さい。
                 
とき 99年4月17日(土)
   総会 午後1時~3時
   記念講演 3時半~4時半
    「帰国事業とは何であったか」 
      共同代表 萩原 遼
場所 東京・阿佐ヶ各地域区民センタ←
    TEL 03(3314)7211
   (JR中央線阿佐ヶ各駅南口下車2分)

  5周年記念パーティーを開きます。
 総会と記念講演がおわって午後5時から会場近くでささやかな記念パーティを予定しています。参加希望者は4月10日までに0424(23)3972まで電話またはFAXでご連絡ください。

世界はまだ、北朝鮮強制収容所を知らない 世界人権宣言50周年を迎えての12.12集会報告

 会員の皆さん、今年は北朝鮮はどうなるか、いろいろ想いを馳せたと思います。どうして収容所を中心とする人権情況が改善される事態が生じないのかという想いを抱きつつ。

 最近の特徴は内部での飢えの深刻さ(レンクの紹介によるビデオ)と脱北者の一層の増大(10万名にのぼるという朝鮮日報の報道)それゆえの食糧支援の新たな動き、等に集約されると思います。こうした事態の中で私たち守る会はどんな活動をすべきなのかを改めて考えさせられる年です。それをハツキリさせる意味でも、昨年末にとりくんだ12月12日の集会のご報告をしておきます。

 「世界人権宣言50周年、磯谷季次さん追悼一北朝鮮の人権問題を考えるタベー帰国事業と強制収容所-」という主題の下に、暮の忙しい時期に150名近くの方々が集まって下さいました。昨年改築なったばかりの立派な四谷区民ホール、演壇脇には91歳で亡くなられた『わが青春の朝鮮』の著者磯谷季次さんの遺影と豪華な洋蘭が飾られました。4人の講師のお話(3頁以降参照)はそれそれ求められたテーマに沿って個性豊かなものでした。

 世界人権宣言50周年を迎えて世界がもっとも心配し心を痛めなければいけないのが、北朝鮮の山の中にある強制収容所の存在であることを訴えることができて、本当によかったと思います。同じ日パリでも姜哲煥氏がヨーロッパで初めて強制収容所の実態を訴えていたことを後で知りました。12.12集会はどうしても開かれねばならなかった集会でした。

(小川晴久)

12.12集会の発言 巨大な拉致であった帰国事業 }萩原 遼(共同代表)

 私が「朝鮮」と出合ったのは、大阪の夜間高校に通っていた十八歳のとき、済州島から密航してきた少年と机を並べたことからでした。尹元一(ユン・ウォニル)というその同級生と親しくなり、おたがいに家に泊まりに行くようになり家族ぐるみのつきあいとなりました。
 当時の在日朝鮮人は圧倒的に北朝鮮を支持する左翼でした。尹も朝鮮総連系の子供たちのかよう西今里中学に在学中に一1952年6月の吹田事件に参加していました。私や尹の恩師であった夜間高校の広瀬武成先生も阪大在学中に吹田事件に中心的なオルグの一人として参加した日本共産党員でした。
 十八歳の私に朝鮮と共産党が同時に飛び込んできて、結局これが私の生涯を決定し、六十歳をこえた今もこの二つが両肩にずっしりと乗っかっています。朝鮮と共産党はいわば私を育ててくれた両親のようなものです。

 尹は1960年4月折からの帰国運動の波に乗って北朝鮮に帰りました。私は彼の影響で朝鮮半島と日本の友好の架け橋となろうと、大阪外大朝鮮語科に入り本格的に朝鮮語の勉強をめざしました。その後赤旗記者になり北朝鮮に特派員として派遣されたときは尹との再会に胸をふくらませていました。

 ところが、「地上の楽園」といわれた朝鮮民主主義人民共和国は、実は怖ろしい地獄でした。金日成思想以外はすべて「雑菌」と呼んで敵視し、監視と密告に人々はおどおどとおびえる恐怖社会でした。
 はじめはそんなところとはツユ知らず、日本の感覚のままに天真爛漫にふるまっていた私も、恐ろしい現実にふるえあがることになりました。そしてついに「日本から潜入した公安のスパイ」の烙印を押されて追放処分となりました。朝鮮労働党は、日本共産党の特派員すらスパイにしたてる異様な組織です。在日朝鮮人の帰国者がどれほどひどい迫害と恐怖の中で生きているか、私は垣間見ることができました。

 このときの私の体験が、あの帰国事業とは一体なんだったのかという強い疑問を抱かせました。
 1988年末に「赤旗」を退職してフリーになってからアメリカに行き、三年間かけて膨大な160万べ一ジの北朝鮮の文書(アメリカが朝鮮戦争時に奪取したもの)を読み、まとめたものが、今回出版された『北朝鮮に消えた友と私の物語』(文芸春秋)です。

 くわしくはこちらをお読みいただくとして、結論から言えば、帰国事業は巨大な国家的拉致であったのです。この国家的犯罪を主導したのが金日成と在日朝鮮総連議長の韓徳銖です。金日成と韓徳銖が共謀して在日朝鮮人達動の主導権を自派で奪い、在日朝鮮人を、「地上の楽園」の甘言でおびきよせ、十万人もの人たちを帰国船に乗せたのです。
 金日成らのいうところの「雑菌」にまみれた在日の人たちが生きていける国ではありません。少しの不満でももらせば収容所送りです。
 十万人の大多数がなめた巨大な悲劇を明るみに出すこと、拉致を共謀した金日成、韓徳銖一派に正当な懲罰を加えることを私は訴え続け、戦い続けるつもりです。

 ちなみにこの『北朝鮮に消えた友と私の物語』の本の印税は私たちの守る会の運動に全額寄付されます。      
(この後特別報告として十二・十二集会の二日前に日本人記者としてはじめてソウルで黄長燁氏に単独インタビューシタ荻原氏がそのさわりを報告しましたが、すでに黄氏の回顧録『金正日への宣戦布告』に収められているので割愛します。)

12.12集会の発言 弟を収容所で殺されて 金民柱(共同代表)

 私の弟は1962年6月26日第93次船で帰りました。これはかなり早い時期に属すると思いますが、この段階で7~8万人の人が北に渡った時期だと思います。私の周囲では、1962年に弟泰元が、そのあと64年にその下の弟が、また姉の子供2人が66年以降に学校で集団で帰らされるときに帰りました。

 この4人の中で強制収容所あるいは教化所(刑務所)を体験していないのはただ一人です。一番後に帰った姉の子供(69年あたりに帰った)は、帰ってまもなく高等学校に上がり、人民軍に入ったお陰で強制収容所や刑務所入りはなんとか避けられました。

 泰元だけが犠牲になったわけですが、彼は日本の公安のスパイ、手先ということで殺されています。あちらから届いた手紙の中では、「兄貴が公安の手先であるから、北に情報収集のために兄弟
達を派遣した兄金民柱のお陰でみな殺されたんだ」という話が方々から入ってきます。これは全くのデッチ上げであります。

 どうして泰元が収容所に入れられるようになつたかといいますと、彼は帰ってまもなく清津の少し上にある北青園芸高等学校(かなりの秀才の入る学校と言われた)に入り3年間勉強して、それから金日成総合大学に入ります。専攻は地球物理をやりました。1968年に学位も取ったそうです。68年の手紙以後消息が1年に1回ずつになります。それまでは1月に1回ずつ届いていたのが…。

 そして最後の手紙が1973年の年賀状です。年賀ハガキに、しばらくの間地方の学校に赴任が決まったというのです。どうして研究者が地方の人民学校(小学校にあたる)の教員になるのか、若干
私は疑問に思ったのですが、それ以後ばったり音信は途絶えました。
 たまたま私の遠縁にあたる兄が北に行くというので探してもらいました。彼は弟に会えたのですが、この学校に赴任すると一生出て来れないらしいと言うおかしな学校だつたのです。しかし自分(兄)は入れたと言っていました。牛乳びんの底のような分厚いレンズをしていたから、おまえめがねでも買って送ってやれと言われました。当時は完全統制区域とか革命化区域とかの区分はなかったようです。それが私が疑問を持ち始めた最初でした。

 その後私は朝鮮総連のいろんな高級幹部(たとえば李珍珪さん)に頼んだり、北から来る代表団に彼らの宿舎であった帝国ホテルのロビーに待ち構えて何度もアタックして弟の所在を確認しよう
と努力してきました。
 総連幹部達が帰ってきて言うには、特殊任務を帯びて地方で学習を受けているらしいと言うものでした。ラチがあかないので、私はやむなく正式に朝鮮総連に弟の生死の確認をしました。

 その時の新宿支部長を通して回答が口頭でありました(私は文責回答を要求したのですが)。「個人の生死については国家は責任がない。これは身寄りか近所の人に頼んで生死を確認したほうがよい。だから朝鮮総連は一切関わりがない」と。
 彼の死亡を最終的に確認したのは1990年でした。今生きている下の弟から手紙が来て1978年に強制収容所の中でベラグラ病で死んだと。

 弟たちが帰った1962年当時、日本がもう少し経済的に豊かであったなら、彼らは帰らなくてもすんだと思うのです。私は新潟まで行って「絶対に帰るな」と説得したのですが、弟は勉強がしたいんだと言って、振り切って帰りました。

 実はこの建物(四谷区民センター)は大変なつかしい所です。私は1967年の暮れに日本に密入国していますが、弟がそれから2年位して、私を追うように密入国してきました。できれば大学にでも入ろうと、二人してここの図書舘で勉強しました。朝、おもてで待っていて開館と同時に上がってきて、一日暮らしてまた帰っていく。ほとんど365日、休館日以外は通いました。当時は貧しくて、この近くにもバタヤ部落がいっぱいありました。貧しくて弟と昼も食べられなく二人して本を読んで、一日この図書舘で過ごした当時を思い出しました。
 

12.12集会の発言 古代ローマの奴隷よりも悲惨 弓削 達(歴史学者)

 正直に申し上げますが、私は今回小川先生のお勧めで初めてこのような本(姜哲煥・安赫著『北朝鮮脱出』上『北朝鮮脱出』下)があることを知り、やっと読みおえたところです。私がこの種の分野で初めて読んだ本です。
 ところがこの本を読み始めて、すぐに気分が悪くなりました。20世紀の今どき、こんな世界が地球上にあるのかという率直な疑問であります。犯罪の内容もわからない。強制労働のきついこと、労働の質の点でも、時間の点でも、まことに筆舌に尽しがたい。労働のきつさに反比例して、食事も甚だしく悪い。少ない。生きのびるためにカエルやヘビ、ネズミをたべる。彼らはたえず監視され、密告も日常茶飯事です。その制裁たるや、徹底的になぐる、ける、棒でたたく、その他あらゆる暴力をふるわれる。

 もう一つ大きな特徴はすべてが賄賂とその高で動くという社会(収容所の内も外も)であるということです。みのがせないのは、これだけ彼らを痛めつけておいて、役人たちはどこでも、「今お前たちが許されて生きておれるのも首領さま(金日成のちには金正日)のお蔭だそ」とことあるごとに説教していることです。

 今年は世界人権宣言50周年です。この二冊の手記を読んで私は先ずその第3条を思い出しました。人はみな生命、自由および身体の安全を守る権利をもつ。次に第4条、人は誰も奴隷にされたり、奴隷の状態に置かれたりすることはない。この3条、4条がこうも北朝鮮で白昼公然と破られていることを知らなかったことへの自らの無知に対する憤り、これが最初の実感的なショックです。

 私は歴史家(古代ギリシャ・ローマ史研究)ですので、古代ギリシャ・ローマの奴隷と比較してみました。「人が自然に反して他人の財産になること」というのが奴隷または奴隷制の定義です。彼らは必ず他者(個人、国家)の所有物ですから売買の対象となる。あるいは解放されて自由人となることもある。ですから厳密な法的規制の下にあり、主人は奴隷の身体を守ることに深い関心があります。無茶に殺したり、たたいたりしない。ちやんと生命を守る。
 これに反して北朝鮮の収容所の場合、被収容者の法的規定が全く明らかでない。裁判も行われていない。収容所の役人の恣意(勝手なやり方)がオールマイティーになっている。彼らがもっている法的権限もさだかではない。彼らは感情にまかせ私利に従って被収容者を処分し、しばしば生命を奪うのです。

 こうしたことが、現代のことでなく、遠い古代のことであるならば、またこれが日本のかつての植民地のことでないならば、こんなに我々の胸を痛めることもないであろうと思います。

12.12集会の発言 恵まれた日本に住む者の責任 小川晴久(共同代表)

 世界人権宣言の前文には4つの自由(言論の自由、信仰の自由、恐怖からの自由、飢餓からの自由)がうたわれていますが、北朝鮮は今やこの4つの自由のすべてを欠いた国になってしまいました。世界広しと言えどもこのような国は北朝鮮だけではないかと思います。つまり世界人権宣言からもっとも見放された人々が北朝鮮の人々、とりわけ強制収容所に囚われた人々だと思います。その意味で、世界人権宣言60周年を記念するとき、もっとも想起されねばならぬのが北朝鮮の強制収容所の問題です。

 今日の集会はどうしても開かれねばならぬ集会であります。私をこの運動に取り組ませているものは、北朝鮮当局と朝鮮総連のむごい人質政策と、ひどすぎる強制収容所の実態です。私たち守る会の活動も

①人質政策に抗して帰国者の人権を守る戦いと
②地獄のような強制収容所の撤廃、

の2つが重要だと思います。   

 私は今日ここで日本が人権条項で非常に恵まれている国であることを強調したいと思います。世界人権条約を知らなくても間に合うくらい、人権条項に恵まれた憲法を私たちは持っています。しかし世界人権宣言あっての日本国憲法であることを戒能通孝かいのう みちたかさんが1949年『世界』の6月号に寄せた「暴力と人権」という一文で私はこのほど教えられました。

 今でこそ日本国憲法の人権諸条項は世界人権宣言を想起しなくてもそれ自体の確かな存在感を持って私たちの意識の中にありますが、敗戦直後の憲法制定当時はまだまだ新憲法は「紙に書かれれた文書」にすぎなく、憲法の精神から縁遠い当時の為政者達はそれを蹂躙しがちで、彼らをしばる強力な枠が1年遅れて制定された世界人権宣言であったといいます。世界人権宣言は生まれたはかりの日本国憲法の実行を迫り、それを守る守護神のように逞しい存在であったと言えましょう。

 戒能さんに促されて世界人権宣言を見てみると、逞しい条項があるではあわませんか。第29条第1項です。「人はすべて、その人格の自由で完全な発達をその内にあってのみ期し得るような社会に対して義務を負う」と。戦前のような社会はそれを守る義務はないことになるし、自由が保障されている現在の日本社会にあっては、その自由は断固守る責任と義務があるという、このような規定が世界人権宣言にあることを知ったのは、とてもうれしいことでした。

 また私たちは60周年のこの機会に、H.G.ウェルズが世界人権宣言と日本国憲法第9条の生みの親であるという浜野輝さんの主張にも触れて、世界人権宣言にもっともっと目を開くべきです。
 私が申し上げたいことは、人権が国境を超える以上、こんなに人権条項に恵まれてる日本に住む者は、北朝鮮の強制収容所の廃絶に取り組む責任が人一倍あるということです。北朝鮮のミサイルの脅威に対しては、世界の目を、そして国民の日を強制収容所に向けることによって、収容所の存在をなくしていけば、その脅威を除くことができること、したがってミサイルには人権の思想で対処するのが一番正しいことを強調したいと思います。

  最後になりましたが、『良き日よ来たれ』という本を書き、私たちの先頭にたたれた磯谷季次さんの遺志を継いでがんばらねばと思います。磯谷さんは『良き日よ来たれ』を書き、自らの名著『わが青春の朝鮮』を救い不朽の書にしました。磯谷さんとともに歩めたことを幸せに思います。

北朝鮮の人権抑圧 欧米で救済行動の萌芽

 日本では「北朝鮮民衆が言論、結社の自由や圏外への移動の自由を奪われ、かつ密告と強制収容所、食料配給制度により、軍事独裁政権下におかれて苦しんでいる」との認識が急速に広がっている。しかし残念ながら、大量餓死が伝えられる今日でも、即、民衆救済め直接行動には結びついていない。

 だが、ナチスのユダヤ人虐殺とスターリン型の強制収容所の悲劇を体験した欧米社会では、北朝鮮民衆を圧政から救済するために、急速にその知識を広げ、具体的行動に動きだそうとしている。
 昨年十二月十二日、パリで「アジア民主主義者会議」(仏国際関係研究所員ら主催、アムネステイー後援)が開かれ、九歳で北朝鮮の強制収容所(管理所=強制労働農場)に入れられた元在日の亡命者、姜哲煥(カソ・チョルファン)青年が悲惨な公開銃殺や強制収容所の実態を告発した。氏は「北朝鮮か民主化される前に収容所の人々を救い出してほしい」と訴え大きな拍手を浴びた(同十四日付『朝鮮日報』)。

 また同じ十月十四日から三日間、ポーランドの首都ワルシャワでは、世界四十四力国五百人の有織者が参加した「国際人権会議」が開かれ、韓国で北朝鮮同胞の救済に立ち上がった「北韓同胞の生命と人権を守る市民連合」代表で韓国メソジスト派牧師、尹玄(ユン・ヒョン)氏が、金正日政権の人権政策の非道さを実証的に祈え、参如者の共感を呼んだという。
 氏は訴えた。「この問題は…人権以前の人道上の犯罪を北朝鮮がしているという問題なのです。世界はそのことをあまりにも知らなさすぎる。(昨年)三月にジュネ-ブで開かれた国連人権委員会でグロープ・ヨーロッパ連合(EU)代表が『北朝鮮の人権問題、すなわち政治犯収容所問題や南北離散家族問題、言論弾圧を見過ごすわけにはいかない。真剣に取り組むべきだ』と訴えた提案が討議されることを切望します」と。

 大会ではベラルーシの前大統領、ポーランドの上下両院議長、NATO(北大西洋条約機構)事務総長、ロシアの原子物理学者、サハロフ博士の未亡人、エレーナ女史らが声明を読み上げ、日本と違い人権問題への欧州の関心の高さをうかがわせたという。

 一方、米国では、北朝鮮の女囚刑務所(教化所)体験者で、同じく韓国に亡命した李順玉(イ・スンオク)さんら一行が温かく迎えられた。彼女の訪米報告書「教化所そこは生き地獄だった」 (『北朝鮮フォーカス五月号』)には米国民のヒューマニズム精神の発露を感じさせる。
 李さんらは米上院東アジア太平洋小委員会のクレイグ・トーマス委員長らに招かれ、国際人権赦免委員会、国際記者協会、ボルティモア連合長老教会などを回った。米国防外交政策財団招待講演には米上下両院議員、米海兵隊司令官ら二百五十人も参加した。

 日本では昨夏北朝鮮工作員の安明進(アン・ミョンジン)氏が講演のため来日したが、由由党などを除き国会議員の反応は冷たかった。しかし、米国民はどこでも李さんの訴えに熱心に耳を傾けた。
 李さんは「何事も隠し通せない。真実は必ず証明される。今まさに北朝鮮刑務所・収容所の人権問題が国際社会で取り上げられるときがきた。待ち望んでいたときがきた」とトーマス氏に語っている。
 彼女は―①北朝鮮への食料医薬品支援時には収容者解放の付帯条件を②刑移所と収容所の現地査察を③米議会で北朝鮮の人権聴聞会の開催を切望―とトーマス氏に訴え、同氏は「北の人権問題の実態を明らかにしてくれ感謝する」と述べ、聴聞会開催に尽力することを約束している。

 世界的法制史家である故・朝河貫一エール大学名誉教授は名著『日本の禍機』(講談社学術文庫)の中で米国民の優れた特色を記している。「その一つは米人が自由進歩をねがえる弱者に対する同情これなり。こは実に自国の強大と由由とを信ずるの深厚なるによりて、他の圧制を脱せんとする後進者を庇護するを好む無意識の傾向によること多かるべし」
 アメリカ建国以来のピューリタン精神のなせる技だろう。故キング牧師は「人間愛は何の見返りも期待しない。わきでてくるような愛です。私は何よりもよりよい世界に関心をもっているのです。私は正義に関心を抱いているのです。兄弟愛を心にかけているのです。真実に関心があるのです」(『キング牧師』岩波ジュニア新庫)と説いている。

 米国や欧州の人権、人道上の運動は、政治家、ジャーナリスト、宗教者を問わず、キリスト教神の優れた担い手によってはぐくまれている。
 実際、李さんらの昨年二月の訪米がきっかけで米国の代表的政治季刊紙『ジャ-ナル・オヴ・デモクラシー』の共同編集者はソウルに飛び、強制収容所体験者にインタビュ-し「北朝鮮収容所からの声」を特集した。7月はソラーズ米上院前東アジア太平委員会委員長もソウルを訪れた。
 こうした国際世論の高まりをうけ、ジュネーブの国連差別防止・少数者保護小委員会は同8月、北朝鮮に人権改善を促す決議を賛成十九票、反対四票の圧倒的多数で採択し、「リベラシオン紙」など仏の主要新聞は、北の飢餓と人権問題を大特集した。

 古来、日本人は仁義にあつく、慈悲心に富む国民である。内村鑑三や新渡戸稲造のような優れたキリスト者も生んだ。海ひとつ隔てた地で弾圧に苦しむ民あれば、日本人はどうしてこれを放置できようか。  (さえき・ひろあき)

※北朝鮮の人権抑圧に抗議する世界の世論の広がりをまとめた佐伯浩明氏(守る会運営委員)の論文を転載しました。(平成11年2月9日付け産経新聞東京本社版夕刊)

高まる北朝鮮人権批判

1998年
10月14日~16日までワルシャワで世界44カ国500人の有識者が参加した「国際人権会議」が開かれ、「北韓同胞の生命と人権を守る市民連合」の尹玄代表が強制収容所囚人や南北離散家族の救済、言論弾圧の是正を強く訴えた。

11月12日 横田滋さんら拉致日本人家族ら3人が日弁連人権擁護委員会の藤原精吾委員長に救済申立書を手渡した。

12月1日 月刊『正論』に元日本共産党国会議員秘書の兵本達吉氏が、新たな拉致凝惑2件の調査結果を寄稿。拉致の疑いが濃いのは、富山県朝日町の高校3年生、水島慎一さん(昭和42年2月の失踪時18歳)と、埼玉県川口市の銀行員、新木章さん(同52年5月時28歳)。

12日 パリで「アジア民主主義者会議」(仏国際関係研究所研究員ら主催、アムネステイー後援)が開かれ、北朝鮮強制収容所の体験者で元在日の青年、姜哲煥が「北朝鮮が民主化される前に収容所の人々を救い出してほしい」と嘆願。

15日「救え!北朝鮮の民衆/緊急行動ネットワーク」(RENK)が記者会見して、北朝鮮での隠し録りビデオを公開。中国への亡命青年、安哲さん(26歳)が決死の潜入で飢えた孤児たちの姿を撮影。事務局長の李英和関西大学助教授に、北朝鮮政権の非道と孤児の救済を訴えた。

18日 国連本部は北朝鮮など15カ国に対する1999年の緊急援助アピールをジュネーブで行った。世界食料計画(WFP)が国際児童基金(UNICEF)と欧州連合(EU)と協力、生後6カ月から7歳児までの1800人の北の子どもを対象に行った調査では、栄養不良の子は全体の16%。12カ月から24カ月に限ると30%にのばり知的発育の阻害や発育不全め恐れ。

24日 朝鮮労働党機関紙「労働新聞」は、2日の朝鮮人民軍総参謀部スポークスマン声明に関連して「万一、日本が朝鮮侵略戦争に足を踏み入れた場合、日帝侵略者と右翼反動勢力に対する積もり積もった恨みと怒りを併せて報復攻撃を加えるであろう」と警告。

26日 月刊『正論』2月号でパリに本部を置く「国境なき医師団」作成の北朝鮮難民実状報告書全文が紹介され、孤児の集団凍死など北朝鮮の惨状が明らかに。

29日 韓国の「北韓同胞の生命と人権を守る市民連合」(尹玄代表)は、
北朝鮮から中国への脱出者が中国当局により大量に強制送還されているこ
とが明らかになり、江沢民主席に送還中止の嘆願書を送ったほか、韓国
政府も国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に実情調査を依頼。

1999年
1月4日 時事電の伝える韓国統一院の調査によると、北の国内には300から350の自由市場が常設されている。取引価格は米で公式価格の937倍から1125倍にのぼる。市民は穀物の6割、生活必需品の7割を市場から購入。

6日 産経新聞によると、北朝鮮の劇映画に出演した美人女優の金恵英(キム・ヘヨン)さん(28歳)が父母や妹とともに中国経由で韓国に亡命し話題になっている。金さんは「北では庶民はいつも食べ物を求めるのに対し、外部情報の入る上流階層は自由を求めている」と語る。

9日 月刊『文責春秋』2月号で「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」共同代表の萩原遼氏が黄長燁ファン・ジャンヨプ朝鮮労働党元書記にインタビュー。黄氏は金正日総書記につき「徹底した利己主義者」と断言。

21日 朝鮮労働党機関紙「労働新聞」は「もし米帝とその追従者が戦争を挑発するなら わが人民と革命武力はその機会を逃さず、挑発者らを火の海に投げ込み、灰にしてしまう」と強調。

28日 産経新聞報道によると、北朝鮮出身者らによる「同和研究所」が「失郷民」1200人に行った世論調査では、回答者847人のうち金大統領の太陽政策について「反対」ないし「修正すべき」が73.1%で賛成の25.1%を大きく上回った。南北統一の展望は「金正日体制が内部矛盾などで倒れたとき」が47.3%と最大。
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29日 ソウル発産経新聞電。中朝国境地帯で韓国関係者が行った現地実態調査報告書(尹汝相・韓国政治発展研究院研究委員)によれば、同地帯では10代以下の子ども難民が増えている。飢餓難民は98年に入って急増、推定10万人。うち1万人は長白山(白頭山)の森林地帯に隠れ住む。

29日 聯合ニュースによると、国家情報院は、北朝鮮で政権が発足した1948年からこれまでに韓国に亡命した人のデータを初公開した。亡命者の総数は964人、うち201人が死去、20代が400人と最多。98年は72人が亡命。

2月1日『黄長燁回顧録 金正日への宣戦布告』(荻原遼 訳)が文芸春秋より翻訳出版された。

20日 韓国の洪淳瑛外交通商相が北朝鮮は「包容政策を受け入れるたろう」と見通したことについて、北朝鮮の労働新聞は「包容政策は形を変えた反北対決政策て、実現不能の妄想」と批判。

22日 韓国政府は臨時閣議て3月1日の「三・一独立運動」記念日にちなみ政治犯など8,812人の特別赦免を決めた。金大中大統領就任一周年の25日に実施。1958年以来服役していた禹ヨンガク氏(71人)ら北のスパイら17人の非転向組も含む対北融和措置だ。

26日 北朝鮮亡命者による本格的組織「脱北者同志会」かソウルで正式に発足した。黄長燁氏を名誉会長 黄氏の秘書役の金徳弘キム・ドコン元労働党資料研究室副室長を会長にして有力亡命者200人が大会に参加した。北朝鮮住民支援、国際連帯、人権救済を訴える。黄氏は「月刊朝鮮」3月号て朝鮮総連か金正日体制を支えているとしてその解体を主張。

3月1日 北朝鮮の洪水被害対策委員会スポークスマンは韓国での北朝鮮人口250万一300万減少報道につき「デッチあげだ」と否定。
 横田滋さんら拉致被害者が 小渕恵三首相に、娘、息子たちの救済を直訴。首相は「あらゆるルートを通し、力の限りを尽くして努力してゆきたい」と約束した。
 韓国統一研究員か発行した「’99北韓人権白書」は、海外拉致者や北朝鮮へ亡命した韓国人34人か政府犯収容所に収監されていると指摘。北の経済・食糧難については「住民の最小限の生存権すら脅威にさらされている」と強調。結核患者は300万-400万人と推定している。またここ2、3年間で毎年50万人から80万人が栄養失調などて餓死していると指摘。

9日 韓国国家情報院は、北朝鮮への拉致者など抑留中の未帰還韓国人454人の名簿を初公表。朝鮮戦争の休戦後、北に抑留された者は3756人、うち3302人が帰還している。未帰還者は漁民407人69年の大韓航空機ハイジャック事件の乗務員、乗客12人、海水浴中の高校生5人、海外拉致者10人。韓国軍捕虜は470人のうち231人が生存、大部分は咸鏡北道ハムギョンプクトの炭鉱地帯に抑留中とみられる。
 
10日 仏フイガロ紙、北朝鮮問題について知識人21人による声明を発表。北朝鮮指導部の独裁体制を批判し、北朝鮮住民のために「その援助が国際社会の統制を得られるようにするために、すみやかに国際会議の開催を求める」と要求。北朝鮮強制収容所の廃止も求めた。

11日 高村正彦外相は産経新聞のインタビューに対し、ペリー米政策調整官が10日の外相との会談で、日本人拉致問題の解決に向けて「全面的に協力する」と発言したことを明らかにした。

16日 北朝鮮の地下核施設疑惑をめぐる米朝協議は最終合意に達し、カートマン朝鮮半島平和協議担当大使、金桂寛外務次官がニューヨークの米国連代表部で合意文書を交わした。
①北朝鮮の金倉里施設への米国の立ち入りを許可、米代表団を今年5月に招待。追加訪問も認める。
②米国は両国の政治、経済関係を改善する措置を取る。
                           
19日 金炳洙・延世大総長、金鎮鉉ソウル市大総長、李御寧・梨花女子大教授ら韓国の有力知識人75人による「北朝鮮の人権保障と脱北難民保護のための知識人宣言」が発表された。「北の住民が経験している飢餓と人権蹂躙の惨状は座視できない。北の災難は自然災害ではなく制度的失敗と人為的誤りによるものだ」と批判し、北朝鮮民衆救済に向け国際会議の5月中開催を呼びかけた。

23日 能登半島東方沖と佐波西方沖の日本海領海内に不審船(第2大和丸と第1大西丸にそれそれ偽装)がいるのを海上自衛隊が発見し、防衛庁と海上保安庁は航空機と艦船で追跡したが、不審船は停止命令を無視して逃走した。
 政府は24未明、自衛隊法82条に基づく「海上警備行動」を初めて発令。哨戒機P3Cと護衛艦により不審船を追尾し、警告射撃、爆弾投下を実施、停船を求めたが、不審船は午前六時過ぎ防空識別圏外に逃走し、北朝鮮領海内に入った。

北の友人と連帯すること 『北朝鮮に消えた友と私の物語』を呼んで 大須 昭一(守る会会員・関西)

 萩原遼氏(元赤旗平壌特派員)の新著『北朝鮮に消えた友と私の物語』(文芸春秋刊、98年11月)を読んだ。
 この書は萩原氏の高校時代から現在まで約四十年に及ぶ同氏と朝鮮半島出身の人々とのつな
がりを描いたノンフィクションだ。萩原氏は1937年生まれで、大阪の天王寺高校定時制に通っていた頃、済州島出身の密航少年尹元一(ユン・ウォニル)と出会い、彼との邂逅により朝鮮半島への関心を持ち始める。やがて尹元一は北朝鮮へ帰国し、萩原氏は赤旗記者となる。

 その後、平壌特派員となった萩原氏は尹の消息を尋ねるが、その過程で北朝鮮社会の異常な情況にとりかこまれ、ついには平壌を追放されるに至る。平壌で萩原氏は尹の消息を追ったものの出会えず、尹の消息は依然として知れない。強制収容所で既に死んでいる可能性も高い。

 この萩原氏と尹とのつながりを一方の軸として、この書はさらに済州島4・3事件、朝鮮民主主義人民共和国の成立過程、朝鮮戦争、そして在日朝鮮人の帰国運動などの史実の解明を織り込んでいく。

 朝鮮半島の歴史や現実についてあまりにも無知な私にとって、これまで抱いてきた素朴な疑問の数々一北朝鮮社会の実像、その政権の由来、朝鮮戦争のいきさつ、帰国者運動の実態、などについて多くを教えられた。
 それ以上に、著者である萩原氏と朝鮮半島のおよそ四十年に及ぶつながりをたどることを通して、極めて浅薄ながら同じく朝鮮半島に思いを寄せる一日本人として、私は大いなる感銘を受けた。この百年間、日本及び日本人は朝鮮半島とその人々に対して深い罪業をなしてきたが、一方で萩原氏のような日本人も確実に存在したのだ。

 しかし、この物語は悲痛だ。筆者の萩原氏に朝鮮への関心を抱かせ、深い友情を結んだ尹元一は
北朝鮮へ帰国した後、消息が途絶えた。そして強制収容所で死を迎えている可能性も高い。そして尹元一が収容所へ送られることとなったのは、ひよっとすると萩原氏が平壌時代に尹の居場所を探したことが原因だったのかも知れぬというのだ。

交響曲の短調にも似て

 印象的なのが、この物語の始めと終わりに登場する福間浩子という女性だ。彼女はこの書の始めには萩原氏が定時制高校時代に所属していた合唱団のピアノ弾き、そして萩原氏とフォークダンスを踊る女生徒として描かれる。やがて彼女はある在日朝鮮人と結婚して北朝鮮に日本人妻として渡る。そしてこの物語の終わり近くには日本人妻里帰り第二陣の団長として再登場する。

 およそ四十年の歳月を経て再会した彼女は、「わたしの夢は共和国で完全に花開きました」と語る北朝鮮当局の幹部らしき人物として萩原氏の前に姿を見せる。
 その福間浩子の来日とともにもたらされた尹元一の消息とは、萩原氏が特派員として平壌に赴任していた頃に尹が姿を消したかもしれぬという悲痛な情報だった。
 彼女の存在はまるで交響曲の第一楽章に軽やかに登場した主題が、終楽章の終わり近くになって突然、深い哀しみを湛えた短調に転調して再びたち現れるかのような強い印象を与えずにおかない。この現在進行形の物語も短調のしらべのまま終結するのだろうか。

私にも北朝鮮留学生との友情が

 この書を読んで私は、かつて知り合った二人の北朝鮮出身者の記憶を呼び起こされた。私はかつて中国に留学していた頃、数人の北朝鮮からの留学生と知り合う機会を得た。外国人留学生は普通、留学生だけの特別な寮に住むことになっていたが、彼らだけはさらに別の建物に住んでいたり、同じ建物であっても住む階が違っているなど隔離されていた。そのうえ北朝鮮国内から監視役の人物がともについてきており、なかなか接触の機会が持てなかった。そんな雰囲気の中、ひとりの留学生・梁哲浩(リヤン・チョルホ=仮名)君はどのような理由からか私の隣部屋に約三カ月住んでいて、何度か私に日本語の個人教授を頼んできた。

 当時、迂闊にも北朝鮮に対する積極的関心がなかった私にとって、初めて接した北朝鮮出身者だった。金日成総合大学卒の秀才で、明るくて快活だった。彼もやがて本国に帰ったが、その後韓国人留学生とつき合っていたとの理由で収容所に送られたとの噂を聞いた。

 そして中国語の語学クラスで席を並べた金明文(キム・ミョンムン=仮名)。彼は私にとって
の「尹元一」かもしれない。やはり金日成総合大学を卒業した理系のエリートだった。金と知り合った頃の私は、それまでの直接または間接の知識で北朝鮮の留学生とみだりに接することはいけないということを覚えはじめていた。チョルホ君の噂を聞いていたからかもしれない。一度、授業を欠席した彼にプリントを届けるという理由で彼の宿舎を訪れたことがあった。チヨルホ君の部屋もそうだったが、璧には金父子の写真が飾られている。
 いま思えば無邪気だったことこの上ないが、私は金にどうしてそんな写真考飾るのか、仮に金日成が優れた人物であったとしても息子に世襲させるのはおかしいのではないか、などといまから思えば冷や汗ものの危険な質問をした。彼は金正日があらゆる才能に恵まれるたぐいまれな人物であると力を込めて説明した。彼が本心からそう言ったのか、それとも本当は疑念を持ちつつもそういわざるを得なかったのか、当時もいまも私には判断がつかない。

 いずれにせよ、私の質問は罪だった。その時、あの「監視役」が部屋をノックした。私は身の潔白を証明するかのように、同級の日本人留学生であること、彼にプリントを届けるために訪れた、との来意を懸命に告げた。
 教室での彼は始終、私に親切だった。ここでは詳細には立ち入れないが身の上話や幼い頃の話も聞かせてくれた。部屋を訪れたあの日には引き出しから中国では貴重なマイルドセブンを探し出しては私に勧めた。そんな彼に私は強い親近感を抱いていたものの、部屋を訪れることはそれ以後避けていた。

 しかし私も留学を終え中国を去る日が来た。すでにクラスが離れていた彼に、どうしてもお別れが言いたくなり再び部屋を訪れた。金は突然の来訪者を快く受け入れ、私の帰国を心底から惜しんでくれた。「ちょつとまって」と言っては零下二十度にもなる冬の戸外へ飛び出して行った。戻ってきた彼は、ビールとソーセージを抱えていた。おそらく彼にとっては貴重だったと思われる外貨で買ってきてくれたのだ。その二人だけのささやかな送別会のぬくもりはいまも忘れない。

金芝河救援運動は日本人の誇り

 私は一九六九年(昭和四十四年)に生まれた。七〇年代の朴大統領時代の独裁のことは記憶になく、長じてから書物で知った世代だ。光州民衆蜂起(一九八〇年)も当然ながら記憶にない。金芝河キム・ジハの名前すら知らない。当時、独裁政権下で呻吟するこの詩人に対し、日本で支援の輪が大きく広がったということも、最近になって得た知識だ。そのような私にとって、かつて韓国の民主化を支援した多くの日本人の存在は、同じ日本人である私にとっても誇りうるものだ。

 そして、その金芝河の詩を渋谷仙太郎、井出愚樹いでおろぎのペンネームで翻訳し、日本に紹介し、金芝河
支援の原動力となったのが萩原氏だった。その萩原氏は現在、金大中政権が誕生するなど相当の民主化を果たした韓国の現状を見据えつつ、いまは北の金正日軍事独裁政権との闘いに残りの人生を賭けておられる。
 闘い、人生を賭けて、との表現は誇張ではない。かつては特派員時代の平壌で当局から迫害を受け、そしていまは北朝鮮民主化支援の活動にかかわる中で朝鮮総連から実際に暴力を受け、総連幹部はテロの予告さえ口にしているというのだ。

無関心もまた罪では

 これまでの様々な経験から私は、無知、無関心はあるいは罪ではないかと思うようになった。知
っていて黙っているのはさらにひどい犯罪だとも思う。現在の私はすでにかつてのような無知ではない。
 しかし一市民に過ぎないわたしに何が出来るのであろうか。あるべき方向性は、北朝鮮当局、そして金正日政権を支えている総連の主流に対しての批判だと思う。かつて七〇年代に韓国民主化を支援したように、いまこそ北朝鮮の酷い民衆抑圧の情況から人々を救い出す活動に連帯すること。それはかつて朝鮮半島を植民地化した日本人の末裔としての責務だとも思う。

 知識としてしか七〇年代のことを知らない私にはよく分からないが、かつて北朝鮮の情況があまりにも不明瞭だった当時、南の暗黒独裁に対する反動から、北朝鮮を賛美あるいは美化してしまった良心的知識人もいたと聞く。萩原氏自身、何も知らなかった昔に北朝鮮に対して親近感を感じていたことを吐露している。氏の言葉で言えば「善意のウロコで目が曇っていた」ということだ。

 とはいうものの、北朝鮮に対する批判的活動にはしばしば疑問符が投げかけられる。ある友人は二つの点から疑問を投げかけた。ひとつは、北朝鮮への批判は孤立する彼らを追いつめることになりかねず「窮鼠猫を噛む」情況に追いつめかねないというもの。そしてもう一つは「北朝鮮批判は8チャンネルで木村太郎がいつもやっている」というものだ。

 前者の疑問に対しては、いまのわたしは残念ながら答えるすべを持たない。非常に探い問題をはらんでいると思う。追いつめてしまった結果、軍事的な暴発になってしまっては悲劇だ。しかし第二点について。木村太郎の番組をわたしは見たことがないが、確かに産経新聞や月刊「正論」、そして文春系のメディアで北朝鮮批判は頻繁に行われている。
 
 北朝鮮批判の言論の主な舞台がこのような保守反動系のメディアであることから、ある程度の偏見がもたれている現状は理解できる。私も自民党政権や財界の思想を体現するこれらフジ産経グループや文春の姿勢に対しては立場を異にするし、日本軍のかつての侵略の歴史に対する処し方では、彼らとはまったく違う視点を持つているつもりだ。
 しかし、こうも思う。立場を超えて大事なのはその報道の真偽だ。いかに反動的なメディアが舞台であったとしても、報道される内容が正しいならば、それは受け入れられなければならないと思う。

 また、フジ産経グループや文春について言えば、彼らは例えば南京大虐殺など日本軍の侵略の過去について居直り報道の姿勢を持つなど、日本の自己批判を欠いており、それゆえその北朝鮮報道についても広範な人々にまで支持が広がらず、ある種の胡散臭さを拭いきれないでいるのではないか。そのため北朝鮮批判について「良心的知識人」と言われる人たちからの積極的支援がなかなか得られないのではないか。批判は双方に行わざるを得ないと思う。

いつの日また会える?

 思えば、私にとっての尹元一である金明文はいまどうしているのか。二度と余えるとは思えないが、あの苛烈な社会で彼のような誠実な人物がどのように生きているのであろうか。彼の示した友情に対してわたしは何をすることもできないが、手をこまねいてもおれない。これからの生き方すべてを通してあの日の友情に応えていきたい。萩原氏の著書に接して改めてそう思った。

大須 昭一(守る会会員・関西)

この人にきく 高柳俊男(42歳)法政大学教授

 高柳俊男氏は、日本では数少ない帰国事業の研究者である。金英達キムヨンダル氏との共編著『北朝鮮帰国事業関係資料集』(新幹社)は、帰国事業発足時の関係団体の貴重な資料を収集したものであり、帰国事業について語るときの必読文献のひとつ。今回は研究者として、そして守る会の運営委員として活躍中の高柳氏にご登場いただいた。

・・・帰国事業の研究を始められたきっかけはどのようなものだったのでしょうか。

 高柳 帰国事業は1959年から84年まで、日本人配偶者や子供を含め9万3千人の人達が北朝鮮へ向かったという、在日朝鮮人の歴史の中でも大変重要な出来事だった訳ですが、今に至るまで実証的な研究がほとんどなされていないんですね。一方的な賛美か、もしくは内幕暴露的な批判に終わっていて、当時の社会状祝や国際関係を視野に入れた客観的な議論の狙上に登りにくい。でも、この問題はどうしてもきちんとした形で歴史上の位置付けをしなくちゃならないと思って、十数年前から少しずつ資料の収集を始めでいました。

・・・現在の北朝鮮しか知らない私のような世代には、
なぜ帰国事業が起こつたのか想像もつかない人が多いと思います。
当時の時代背景の再検討が必要ですね。

 高柳 私が学校で帰国事業について語っても、殆どの学生は、帰国事業そのものも知らないし、北朝鮮と言えば、飢餓の国とかテポドン・ミサイルとか、あるいは拉致事件とかの悪い印象しか無いわけです。帰国事業当時、在日にとっていかに北朝鮮が輝いて見えたかということを、当時の視点で追認識して見るという作業をしなければ、とても理解することは出来ないでしょう。
 そして、北朝鮮が光に見えたということは、逆に言えばこの日本が暗かった、在日にとって明るい未来がやってくるとは思えなかったという事です。経済的な問題、差別の問題、そして子供たちの将来の問題など。この両面を、当時の資料や映像などから浮かび上がらせて行く作業をしていきたいと思っています。

・・・その意味で、何か参考になるような映像や資料があれば教えてください

 高柳 有名なのは映画「キューポラのある街」でしょうが、これは帰国事業は一つのエピソードとして語られているだけで、帰国事業そのものを描いた作品としては、女優の望月優子さんが監督した教育映画「海を渡る友情」が貴重な作品だと思います。帰国事業が当時どのように受け取られていたかを知るうえで是非見ていただきたい作品ですね。

・・・守る会の運動には最初期から参加しておられる訳ですが、
研究者としてだけではなく、帰国者の人権運動にも参加された
お気持ちを聴かせてください。

 高柳 ちょうどこの守る会ができるころ、大泊保昭さんの『サハリン棄民』(中生新書)を読んでいたのですが、サハリンの問題でも、残された韓国・朝鮮人をどう救援するかという運動であったはずが、結局左右の政治対立図式に陥り、一方ではソ連に対する怒りを募らせて行き、また一方はソ連を悪く言うのは反共だという批判があって、結局運動内部の混迷や人間関係のもつれもあって救援も順調には行かなかった。この教訓を踏まえて行く必要があると思ったんですよ。

・・・帰国者の問題とも共通した点がありますね。

 高柳 たしかに帰国者の問題にも同じ構図があって、いわゆる進歩的文化人(これはわたし自身への自己批判も含めてですが)の欺瞞性、韓国の政治問題については発言するのに北の人権問題については口を閉ざす傾向がある。また逆の立場の人達は、それ見たことかと悪し様に、何の痛みも、かつての歴史への視点も無く北朝鮮を批判する。このどちらでも無く、今現在逼迫している帰国者、そしてここ日本で声も挙げられず、誰ひとり相談出来る人も無く、苦しんでいる親族の方々に少しでも力になれるような事が出来ればと思って、この会に参加しました。余り協力出来ずに申し訳なく思ってはいますが、この原点は忘れずにいたいと思います。

(聞き手、三浦小太郎)

「恨の絶叫」が北をおおう日 (在日コリアン・匿名希望)

 私は明治生まれの母親と二人暮らしで共に民団員です。他に兄姉は5人いますがみんな総連に属しています。この度「人権を守る会」に入会させていただきたくペンを取りました。

 私は昔から市の図書館を愛用し、いろんな本を読みました。北朝鮮関係のもの、脱出記なども読みました。何度もくり返し読みましたが、その度に金日成、正日親子の同族殺しに怒りを覚えます。
 最大の元凶、金日成は死にましたが、生まれてから一日も汗を流して働いた事のない息子の正日が後をつぎ、机の上で考えた事を実行し、国民から吸い上げた血税で日夜好き勝手なことをしています。
 かの映画監督、申相玉シン・サンオク氏は、金正日をバカではない、現実を見る目を持っていると云いましたが、それはとんでもないことです。彼はなんの能力もない小心者で親と同じ見栄っ張り、しかも、親を上回る人殺しです。親と同じで国民の幸福、さらに人権など眼中にありません。
 飢えと貧困に苦しむ人々は世界中に多数いますが、その上に自由がないというのは、地球上で今や北朝鮮だけではないでしようか。金日成は抗日時代に、日本軍の警備所や小部隊をおそうなどの小さな戦闘、抵抗運動は実際に行ったと思いますが、(諸説ありますが)、朝鮮戦争に失敗した後は権力の鬼と化し、傲慢と見栄っ張り、そして冷血な文字通り悪の権化になり果てました。再度の南侵統一を目論みましたが在韓米軍のため機会は来ず、南侵体制を守るため変質していったと思われます。以来今日まで統一すれば全て解決すると思い、戦争準備には金をかけるものの、経済問題、国民の生活苦などは後まわしにされてきました。

 今の北朝鮮の生活水準は、100年前とそれ程変わらないと思います。むしろ当時のほうが自由で、お金さえあれば何でも買えて腹一杯食べられただけましです。国民は教育のお陰で金日成、正日の正体にそれ程気付いていませんが、将来統一が成った時は北朝鮮全土に恨の絶叫が満ち渡るでしょう。しかしその時まで無実だったりささいな事で捕らわれた多くの人は苦しみ、殺され死んでいきます。
 金正日がこの先何年生きるか分かりませんが、北朝鮮は一日も早く滅ぼされなければならない国です。私は平凡で非力な人間ですし、北朝鮮のような国は外部の者にどうこうできる訳はありませんが、せめて心から苦しむ人々を応援し、あと数年間なんとか生き延びて欲しいと思っています。
 私の住む赤穂からも30数年前、かなりの人数の家族が帰国しましたが、その後の消息はさっぱり分かりません。帰国した当初に手紙が何通か来ただけです。あまり金持ちとか財産家の人はいなかったように思いますが、悲惨な生活を強いられて来たのではないかと想像します。
 

第5回東京学習会報告 胸うつ曺浩平(チョホピョン)さんの手紙 三浦小太郎(守る会運営委員)

 去る10月24日、喫茶ベラミにて第5回東京学習会が開催された。報告者は三浦。テーマは「曺浩平一家の手紙を読む」。参加者は15名。
 曺浩平一家の事件は、御存知のように守る会が最初の 集会以来取り組んできたテーマである。1962年に帰国後、67年以降音信不通となった曺浩平氏、日本妻である小池秀子さんも70年代以降行方不明となり、その後の一家の運命は今だ誰にもわからない。北朝鮮政府の「曺浩平はスパイ罪で逮捕され、一家を連れて脱走、抵抗したので全員射殺した」という、全く信じがたい私知らずの報告があるばかりである。

 この事件の一次資料である曺浩平氏一家から日本の実家にむけて送られた数々の手紙は、北
朝鮮帰国事業の悲劇を伝える典型的なまとまった資料として、貴重このうえもないものであったが、現在までまとまった形で公開されたことはなかった。学習会は、現在入手できる限りの手紙を全文コピーして配布し、主だった点を読みながら北朝鮮で曺氏一家をむかえていた現実がどのようなものだったかを考えていく形式でなされた。
 曺浩平氏の帰国直前の手紙によれば、当時の在日にとって、「北朝鮮」がいかに希望を与えたかがわかる。特に、学費無料、モスクワ大学への留学ができる、等々はおそらく浩平氏にとって最も魅力的なものだった。「ノイローゼになるほど考え」て出した「帰国」という結論が一家にとってあれほどの悲劇になろうとは思いもよらなかったであろう。

 曺浩平氏は科学者であり、北朝鮮では帰国当初から比較的優遇された立場にいたことが手紙よりうかがえる。しかし、現実は62年の帰国当初から日本で考えていた現実よりははるかに厳しいものだった。
 当時から秀子さんからは日用品、浩平氏からは莫大な量の書物や研究器具を送ってくれという手紙が相次ぐ。科学者として、充分な研究が出来ないいら立ち、そして実家からの荷物が自分の所に完全に届かないことへの困惑が語られる。曺浩平氏は「長寿研究の仕事」(おそらく金日成のための長寿研究所)や、日本から届く医学、科学書籍の翻訳のための手紙からも推測される過酷な労働の中で(一度に数十冊の本、しかもかなり基礎的なものから専門的なものまで、様々な分野のものを送るよう頼む手紙がひっきりなしに送られている。)秀子さんには子供が生まれ、ベビー服、毛布、ミルク、それどころか布ならば何でも送って下さいという、まさに必死の思いでの手紙が届いてくる。

 67年9月、浩平氏の有名な手紙「浩平一家は満身創痍の形、出るのは苦笑とため息だけです」、73年の秀子さんの手紙「私も子供達3人と4人暮らしになって6年になります」をもって、一家のその後は今もなおわからない。

 北朝鮮政府の「スパイとして逮捕され、脱走しウンヌン」が、恥知らずなウソであることは明らかである。我々は望みが少しでもある限り、一家の救援と北朝鮮の虚偽報告をあばくことを持続していかなければならない。そして、この手紙は北の厳しい検閲の中でも少しでも北朝鮮の実態と一家の苦境を伝えようという必死の思いがこめられている。又、そのような状況下でも最後まで希望を失わず、科学者として自分の力で何とか未来を切り開こうとした若き在日知識人と、苦しい生活の中でも礼節を失わず、恨み事の1つも言わずに耐えた日本人妻の人間ドキュメントとしても貴重なものである。

 学習会には、市民連合代表尹玄氏も訪れ、ヨーロッパでの活動の報告とともに、この手紙のさらなる分析と研究をすすめる提言をされた。
 

第7回関西支部講座のご案内「北朝鮮脱出者の救援活動と延吉現地調査の報告(仮題)」

講 師
その他
北朝鮮難民救援基金 加藤 博 さん
中朝国境地帯の難民現地調査参加者
北朝鮮脱出孤児たちの里親の方々
日時 5月9日(日) 午後1時から4時
場所 大阪経済大学  本館 第1会議室
     大阪市東淀川区大隈2-2-8 06-6328-2431
     阪急京都線 上新庄駅下車 徒歩10分
     大阪市バス 井高野車庫行き 大阪経大前下車 すぐ
連絡先 山田文明 Tel&Fax 0729-90-2887
 

編集後記

★もう桜の季節となりました。お元気のことと思います。さまざまの事情で発行が三カ月も遅れ、
深くおわびいたします。昨年12月12日の集会の報告を中心に編集しました。4人の報告者の力のこもった訴えをうけとめていただければ、と思います。4月17日の総会で新しい運動の方向も打ちだされます。ひきつづいてのご支援をお願い申し上げます。 (遼)

★昨秋、ワルシャワで北朝鮮の人権問題を討議する「国際人権会議」、冬はパリで「アジア民主主
義者会議」が開かれ、この三月には仏と韓国の新聞に同問題で国際会議開催を求める知識人声明が載った。北の人権改善を求める国際世論は確実に高まっている。 (佐伯)

★今年1999年は、最初の帰国船が新潟を出港してから40年目の年です。この40年間、北朝鮮で帰国者の身におこった悲劇を思う時、一日も早い人権回復と生命の救援を願わずにはおれません。
(三浦)

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