かるめぎ NO.27 1999年6月号

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会報『かるめぎ』の過去号を、旧サイトから、順次こちらにアップしていきます。この機会に、過去の『かるめぎ』を通して、守る会の歩みを知っていただければ幸いです。

(旧サイトより転載:http://hrnk.trycomp.net/archive/karu27go.htm)

1999年度「守る会」第5回総会報告

 今年1999年は帰国事業40年、そして「守る会」5周年の節目に当たります。今年の総会は4月17日午後杉並区阿佐ヶ谷地域センターて行われました。運営委員川崎孝雄さんの司会て始まり、小川共同代表から昨年の活動報告と今年の活動方針の提案が行われ、討論のあと採択されました。総会参加者は「守る会」の5年間の店動に自信を傑め、今年も意気高く活動することを誓いあいました。総会の後、萩原共同代表の記念講演があり、夕方5時から近くの西荻窪て記念パ←ティーか開かれました。

守る会98年度活動報告と総括  共同代表 小川晴久

1 どんな活動をしたか

① 守る会の活動の二本柱てある帰国者の人権確立(自由往来ほか)と強制収容所の廃止 実はこの
二つは一つのことであるが、につき98年度は2つの大きな集会に取り組んだ。

 10.17 「帰国者 家族を励ます音楽と証言の集い」
   (関西支部主催、エルおおさか)450名参加
 12.12「世界人権宣言50周年 磯谷季次さん追悼
       北朝鮮の人権問題を考えるタべ」
   13 一帰国事業と強制収容所-  
   (四谷区民ホ-ル)150名参加

②講座 学習会も東京と大阪で以下のように取り組んだ。

 [東京]北朝鮮人権講座(全5回)

 6.13 「北朝鮮人権問題と国際法」 佐倉洋
 7.13 「アメリカの有力雑誌に載った強制収容所からの声」小川晴久
 8.29 「北朝鮮の人権回復に向けて」 佐伯浩明
       (韓国仏教本部難民調査報告書の紹介他)
 9.19 「拉致問題と家族会の結成」 兵本達吉
 10.24 「曽浩平一家の手紙を読む」 三浦小太郎

[大阪]関西支部講座(全6回)

 6.13 「私の体験した朝鮮人運動」①  梁永厚
 7.25 「   同     」②
 8.29 「在日コリアンの民族差別と生活」鄭早苗
 9.26 「とこへ行く 北朝鮮新体制」  萩原遼
 11.28 「戦後の在日朝鮮人運動と私 路線転換(1955年)
       から総連からの離脱(1968年)まで-」 梁永厚
99.3.7 「『黄長燁回顧録 金正日への宣戦布告』その戦略と戦術」
         一訳者 萩原遼さんを囲んで一

③街頭行動(チラシまき)の開始
    デモ行進(耗各)8月29日
    チラシまき8月29日 9月19日 10月24日 11月21日
         99年2月20日 2月21日 計6回

④9月7日共同記者会見「民主無窮花」ら8団体の共同声明を発表し、
  守る会も「金正日軍事委員長就任に際し国内外に訴える」
    声明を発表(早稲田奉仕園にて)

⑤金龍華氏亡命申請支援(5-6月)
   北朝鮮脱出者生活・保護基金を守る会から分離(5用28日の運営委員会
で決定カルメキ22号で発表)

⑥カルメギの発行 No20-26号と『生命と人権』の発行No7-10

⑦インターネットの開設

⑧『守る会の5年間冊子』の刊行準備中

問題点

1 98年活動方針の「2」のうち「亡命者の手記の英語版(ダイジェスト版を含む)の刊行」と「3」の「国会議員・日赤・外務省・政党・人権NGOなとへの働きかけ、カルメギや『生命と人権』への寄贈なとどかして」か実践できなかった。
2 運営委員会の若干の弱体化と事務局体制未確立
3『生命と人権』の編集体制未確立と普及か不十分てであったこと

総括

 日本人妻の里帰りもたった二度、わずか20数名で中断してしまい、北朝鮮内部の食糧危機は進行するばかりで、脱北者の増加が強制送還措置にも拘らず伝えられています。しかるに守る会では昨年5月28日の運営委員会で、前年度から守る会の一ブランチあった北朝鮮脱出者生活・保護基金(通称 脱北基金)を会から分離し、両者は別組織となりました。

 その理由は、帰国者の生命と人権を守ることを主眼とする守る会の中で脱北者の比重か高まっていくと、一つの会で両者を担う余裕がない、あくまて会の本来の目的に忠実であろうというものでした。私達の運動の出発点は帰国者の強制収容所における受難(行方不明者も含め)でしたし、会名の「生命」(いのち)を守る意は、帰国者の強制収容所からの救出ないしは、人の生命を簡単に抹殺する強制収容所の廃絶を求めるものであったので、出発点=原点に戻るとは収容所に結びつく帰国者の人権迫害に反対する運動ということです。真実を話したら収容所に入れてしまうぞ(証言者自身、また証言者か在日であれば北の家族を)という人質政策と闘い、強制収容所を世界に告発する運動てす。
 一昨年秋の日本人妻里帰りの一部実現以来、帰国者全員の自由往来を求める声が高まりましたので、帰国者の生命と人権を守る活動は、帰国者の自由往来を求め、人権状況を改善する運動と強制収容所の廃絶を求める運動の二つとなりました。元々両者は一つてあったし、本質的には一つてす。昨年度の活動は基本的にこの二つの柱を中心に展開されました。
 特筆すべきは会の「のぼり」(旗)をつくり、駅頭でのビラまき活動(街頭行動)を始めたことです。また韓国の市民連合と共同で出している季刊誌『生命と人権』が10号まて刊行されたことです。
 守る会の活動は二つの柱に整理され、すっきりしたのですが、事務局体制か確立せず、事務所の留守番電話の処理が遅れています。『生命と人権』の編集と普及態勢も確立していず、総じて任務分担が確立していない弱点が残りました。新年度は早急に改善する必要があります。

 財政問題で課題があるとすれば、『生命と人権』の英語版刊行の負担金は会の財政でまかなっていますが日本語版刊行の赤字分は特定個人の寄付に頼ってきたことです。今後とも日本語版を独自に編集することも含めて刊行していくならば、強制収容所の廃絶を主題とする季刊誌だけに会の財政でまかなうべきだという強い意見が編集委員から出ていることを付記します。

99年度活動方針

1 帰国者の人権を確立し、自由往来をかちとる活動
 ①昨年の「出でよ100万人の証言者」運動を今年も進める。そのために帰国者(教え子など)の消息を尋ねる運動をおこす。
 ②今年は帰国協定成立、帰国船出港40周年にあたるので「帰国事業シンポジウム」を8月21、22日に開催する。映画「海を渡る友情」などを上映する。
 ③朝鮮総連指導部の責任を今年は具体的に追求する。

2 強制収容所の廃止をめざす活動
 ①『生命と人権』既刊10号をセットにして活用する運動(当面100セット)
 ②収容所体験者の手記を読み,読んてもらう運動をおこす。とくに良心的知識人たちに。(弓削達氏の一文を示して)
 ③3月10日フラノス知識人21名の声明 4月22日米上院公聴会に励まされ、これに呼応する運動をおこす。12月の人権週間に東京て実質味のある国際フォーラムか開けないか追求する。
 ④安赫氏か推進している強制収容所を映画化する運動を支援する。

3 上記の2つの課題をすすめるための具体的活動
 ①日赤、在日朝鮮人、韓国人諸団体、政党、人権NGOなどへの働きかけをする。
 ②学習会活動。帰国事業関係、強制収容所関係に分けそれぞれ別個に行う。俊者は『生命と人権』収容所体験者の手記ソルジェニィツェンの『収容所群島』なドを活用。
 ③街頭活動(隔月位に駅頭でビラまきをする)
 ④地方での講演会活動は当面 仙台、高知、福岡、佐倉なと。
 ⑤北朝鮮の人権問題と取り組む国内外の諸団体と連帯する。
 ⑥『生命と人権』の刊行
 (1)英語版をひき続き「市民連合」と共同で刊行
 (2)編集委員会を確立する。日本語は 独自編集も積極的こ試みる。
 ⑦カルメギの刊行。編集委員会体制を整え、隔月刊行を確保する。
 ⑧リベルタ出版本の刊行を年度内に目指す。
 ⑨事務局体制の確立、運営委員会強化、部門別専門委員会の設置

活動方針についての若干の説明

 ノドン、テポドン試射と有事立法化 朝鮮有事を回避せんとする軟着陸路線(太陽政策)と人道支援、食糧危機の進行と脱北者増と強制送還。
 北朝鮮における人権状況の改善のきざしは見えず、軍事体制(核・ミサイル開発等)を強化し、西側から援助や支援を引き出す強盛大国化路線を金正日政権は歩んでいます。

しかし、
1 昨年8月19日付け国連人権小委員会の2度目の対北朝鮮人権状況改善要求決議12月
2(12/10アジア人権会議12/24リベラシオン紙)における姜哲煥氏のパリでの訴え、
3 去る3月10日のフランス知識人21名の声明(フイガロ紙)、4月22日米上院外交問題委員会下のアジア太平洋問題小委員会での公聴会の実現など、移動の自由と強制収容所での蛮行(生命破壊行為)の中止を求める国際的な声がヨーロッパ・アメリカで挙がり始めていることは私達を大きく励ますものです。
 これに比し、日本社会では、恐怖の北朝鮮社会を根底において支えているのが強制収容所であるとの認識が遅れています。フランスの知識人声明に相当するような声明が日本の知識人の間から出ていないことが何よりの証拠です。

 国連人権小委の2度にわたる決議が呼びかける移動の自由を阻んでいるのも、帰国者の自由往来を阻んでいるのも、すべて「忘却の穴」と恐れられる強制収容所の存在です。
残酷な人質政策一つとっても明白です。
 日本でも早く強制収容所に各界が目を開くように、収容所体験者の手記を読む運動・読んでもらう運動を興したいと思います。
 フランスの知識人に呼応するような知識人声明が生まれるように、守る会が10冊まで刊行した強制収容所の存在と実態を世界に訴える季刊誌『生命と人権』を活用して、働きかけていきたいと思います。
 その実践を通してフランス、アメリカ、韓国などすでに動き出した人権運動家とも連帯して(共同の声明や会議など)国際世論の声を高めるのに貢献していきたいと考えます。

 今年は帰国協定が締結されて(1959年8月13日、インドのカルカッタにて)、また新潟から最初の帰国船が出て、40年に当たります。長い歳月が流れました。人質政策を打ち破り、帰国事業とは何であつたのか、その歴史を正確につかむ必要があります。学習会を重ね、8月にシンポジウムを開き、その成果を本にまとめる課題も掲げます。

 以上の、根は一つの二つの活動(課題)を推し進めていく上で改めて私たち守る会の立場(共通の精神)を確認しておきたいと思います。二つの課題の大きさを思うとき、また北朝鮮の人権抑圧が人権侵害という生やさしいものでなく巨大な生命破壊(Mass Death)と形容されてもいい程の
ひどいものであることに鑑み、国内外の良心の声を結集する必要があります。
 そのためにまず、人道と人権、生命尊重の立場にしっかり立ちたいと思います。世界人権宣言やその具体化である国際人権規約を貫く人権の思想に依拠し、そこからたえず学んでいきたいと思います。
 二つ目は、帰国者の大半が在日朝鮮・韓国人であることに鑑み、戦前の36年にわたる植民地支配と戦後(解放後)の今日までの南北分断の歴史に対する理解をたえず深めていく立場です。
 第一は自由を希求し、生命を愛する人間の立場(ヒューマンな立場)、第二は歴史の理解を通して相互理解を深め、各自が自らを高めていく歴史的立場です。残酷な人質政策を打ち破り、強制収容所という巨大な密室での人道に反する蛮行をやめさせる闘いを通じ、この二つの立場は統一されると考えます。人間としての良心に立って、二つの課題・活動に雄々しく取り組みましよう。 友人たちに声をかけあって。

各団体からの祝辞と連帯のメッセージ

社団法人北韓同胞の生命と人権を守る市民連合理事長  尹 玄 氏

 北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会の創立五周年を迎えて謹んでお祝のことばを申し上げます。私たち日韓両国の市民団体が北朝鮮の人権状況について国際社会に働きかけるキャンペーンを始めてから3年たちました。
 キャンペーン開始1年後の一昨年にはスイス・ジュネーブで開かれた国際連合人権小委員会が人権状況の改善を求める決議を採択して私たちを狂喜させました。
 北朝鮮に対しついで昨年の同小委員会では、国連人権委員会がこの問題に取り組むよう勧告する決議が採択されました。
 3年目の今年に入ってからは、この働きが一段と活溌になりました。3月10日、フランスの著明な知識人21名は声明を出して政治犯収容所の廃止などを北朝鮮当局に強く求めました。
 4月22日には、アメリカ上院外交委員会東アジア小委員会で北朝鮮政治犯収容所に関する公聴会が開かれます。
今や北朝鮮の劣悪な人権状況は世界の関心事になりつつあります。目標達成は遠い将来のことでしょうが、これまでの成果だけでも同慶の至りです。
 これからは国際ネットワークの輪をもっともっと広げて、ピョンヤンに届くほど“政治犯収容所の鉄門を開放せよ!”と叫び続けましょう。総会のご成功をお祈り致します。

北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会1999年度総会 御中
      1999年4月17日

民主無窮花  代表幹事 金 正 日 氏

 前略、春の歌が聞こえております今日この頃ですが、守る会の皆さん!お元気でしようか?
 結成5周年、誠におめでとうございます。今日まで、数々の出来事を乗り越えて頑張って来られた皆様方に、絶大なる声援と拍手をお送りいたします。
 駆けつけてお祝い申し上げたい気持ちですが、私共の宋純鐘会長が体調を壊し、いま、一歩も留守に出来ない状態です。お許しを願って欠席とさせていただきます。「正義は必ず勝つ!」の信念で頑張りましよう。
 どうか今後も貴会の成果を祈願し、結成五周年、重ね重ねおめでとうございます。バンザーイ!

1999年4月5日
(編集部注:宋会長は4月6日逝去されました。
謹んでご冥福をお祈りいたします)

「北朝鮮による拉致」被害者家族連絡会代表  横田 滋 氏

 北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」結成五周年記念講演と記念パーティーのご盛会おめでとうございます。「守る会」のこれまでの活動に心から敬意を表します。「被害者家族連絡」と活動の内容は若干異なりますが、北朝鮮政府から弾圧されている人々を守る、救出するという目的は一緒です。「守る会」の益々の発展をお祈り申し上げます。
 

5周年記念講演 巨大な拉致であった帰国事業 共同代表 萩原 遼

 このほど大宅賞をいただきましたが、これは帰国したあの10万人の人達が私に筆を取らせたものです。ご協力下さった在日の方々に深く感謝します。
 72年にピョンヤンヘ赤旗特派員として出向き、ついでに高校の同級生で、私を朝鮮半島に目を開かせてくれた友人であり、1960年に帰国した尹元一の消息をたずねました。
 一人であちこち動き回り、帰ったところ、朝鮮労働党国際部から、特派員がよからぬ行動をしていると注意がありました。これがその後「スパイ」の疑いをかけられ、1年間であの国を追放される原因となるのです。
 私はまだ日本共産党の組繊がありましたが、組織もコネもない在日の帰国者だったらどうなったでしょうか。
 1993年11年7日の神田パンセでの帰国者の家族による証言集会に、チラシを見て参加しましたが、これが小川先生たちと面識になるきっかけでした。この集会の3カ月後に結成された守る会に、私も創立メンバーとして加わり、在日帰国者の悲劇をなまなましく知ることになりました。このことをどうしても書こうという気持ちが次第に高まってきました。

 10万人の帰国者の悲劇はそもそもの源はどこにあるのか。この疑問に明快な示唆を与えてくれたのが共同代表でもある金民柱さんでした。
 96年の愛知の「帰国者を助ける会」集会での金民柱さんの講演録に「帰国者の悲劇は金日成と韓徳銖の陰謀である」と述べられており、重要なヒントになりました。
 金日成と韓徳銖はどこで結びついたのか、色々さがし歩きレンク代表の金英達氏から借りた公安
調査庁の資料の中に、金日成と韓徳銖を結んだのは「南信子」であると書かれております。
 南信子とは、金日成が日本に初めて放った海外工作員だったのです。この女性が、獄中14年非転向を通し釈放された金天海などを差し置いてまだ当時はペーペーで無名の韓徳銖に目をつけ、金日成に報告し、金日成は韓徳銖を重要幹部に抜てきするわけです。
 1949年6月25日に結成された「祖国統一民主主義戦線」というこの組織で、百名余の中央役員のうち日本からは韓徳銖だけが選ばれています。金天海や朴恩哲やあの当時の堂々たる先輩幹部を無視して韓徳銖が選ばれている、ここから金日成と韓徳銖の陰謀の発端が始まります。

 この1949年6月というのは重要な年で、この年3月4日に金日成と朴憲永が二十数人のお付きを連れモスクワを訪れ、スターリンに朝鮮戦争をおこしたいので許可してほしいと承認を取り付ける。さらに金日成はそのあと毛沢東を訪れ、朝鮮戦争をして南半分を解放したいのだが、それにつき貴方がたの兵員を私たちに回してくれないか、と要請する。
 ここから中国人民解放軍の中の朝鮮族の兵士3万人が1949年の夏頃から密かに中国人民解放軍の軍服や備品を新義州など国境で朝鮮人民軍の物に変えて北朝鮮各地に入ります。これが1949年の6月以降の段階です。

 つまり朝鮮戦争の本格的準備ですね。この時期に韓徳銖が中央委員に選ばれる ということに重大な意味があります。
 日本共産党派の在日朝鮮人が朝鮮人達盟の指導権を握っていたのを金日成が自分の手に奪い返すという表れが韓徳銖の抜てきであります。

 もう一つ重大な事は1949年6月1日ですが、金日成側に喰い込んでいたアメリカのスパイによつて北の動きはみんな把握されていて、マッカーサーの部下である諜報謀略の責任者ウイロ-ビのもとに全部情報が集まり、ウイロービは朝鮮戦争は確実であると分析し、いつ起こるかを解明するために、6月1日にソウルに米軍のスパイ機関としてKLO(韓国連絡事務所)を設置します。
 コードネームは8240部隊で数十人から始まり最盛期は3万人のスパイがいました。これが金日成の動きをことごとく把握しており、金日成が朝鮮戦争を起すのを知りながらやらせたのでした。そこに1949年6月という重大な意味があります。
 ここから金日成と韓徳銖の結託が始まったのですが、その中でもう一つ事態を複雑にしたのが日本共産党の極左冒険主義です。1950年6月25日、朝鮮戦争は既定の事実のように勃発します。北から仕掛けたこの戦争については拙著『朝鮮戦争』という本で述べていますので省略しますが、この6月25日に起こった朝鮮戦争に対する在日朝鮮人の怒りはすさまじいもので、ある在日のオモニは「ムギルルチュシヨ.ミジェルルサチュギゲツタ」と叫び、つまり(武器を下さい、米帝を撃ち殺してやりたい)と叫びます。これが当時の在日朝鮮人の本当の叫びだったのです。
 このオモニは米軍の朝鮮出兵に反対する、名古屋の大須グランドの集会に幼児を背負い結集し、官憲に弾圧され逮捕され投獄されます。
 そして苦労して育てたその子が大きくなり、あこがれの共和国へ帰国してスパイ容疑で殺されていく。こんな悲劇があっていいのでしようか。

 たしかにあの当時の在日の人達の行動は極左冒険主義でしたが、祖国の人民がアメリカ軍の無差別爆撃にさらされ殺されていく、美しい山河がアメリカ軍のナバーム弾で焼かれていく、これに対する怒りで日本からの軍事物資を止めろ、日本からの弾薬を止めろという切実な朝鮮人民の訴えから出た行動です。

 それを十把ひとからげにお前らは日本共産党の指示に従って祖国のためではなく、日本革命のために活動した分派分子である、つまりセクト分子=宗派分子、これは同時にスパイを意味しますが、韓徳銖はこうしたレッテルを貼り、これを奪権の切り札にしたのでした。そして結成されたのが朝鮮総連です。
 ここから日本共産党に属していた在日幹部のポストを奪いとって次々と北朝鮮に送りほば全員が殺されています。金天海も、朴恩哲は日本人の奥さんもろとも殺されています。その他の在日の幹部達もほとんど殺されています。彼は自分の権力の奪還のため、自分に批判的であった民対幹部を一掃したわけです。

 その結果金日成と韓徳銖が始めたのが帰国事業だったわけです。「地上の楽園」「祖国はすべてを用意している」と宣伝しました。私もそういう雰囲気の中で高校、大学へ行き、尹元一も喜び勇んで帰国しました。おそらく強制収容所で殺されたと思います。

 帰国者の運動は発展性のない運動だという意見もあります。送り出されたアボジやオモニ達も70
才・80才と高齢で、あと数年生きられるかどうかでしよう。しかし私が思うのには、帰国者も今は三世・四世の時代になっており40万50万の人がいるでしよう。
 いずれあの国が崩壊すると、その内の30万の人達が日本にUターンしてくると、日本政府もそのように説明しており、今国会で審議されている「周辺事態法案」もそういうことを念頭に置いております。
 この人たちが帰って来る時、問題の深刻さは中国残留孤児の比ではありません。その時に、日本は不景気なのにそんな連中が30万人も来たらどうやって抱えていくのか、洋上で追い返せと極端な意見がかならず出てくる。そのためにも帰国者とは甘言で騙されて連れて行かれた破害者であり、犠牲者であることを国民に理解してもらう。
 日本人にも良心のある人はおり、理性ある判断をする人は沢山います。在日の人達もただ暴論を甘んじて受け入れる弱々しい存在ではないことは私もよく知っています。私もそれらを展望しながらこの本『北朝鮮に消えた友と私の物語』を書きました。
 広範な人々にこの本が読まれ、帰国者の問題は根が深く、たんに戻ってくる人達を追い返すという問題ではなく、日本もアジアの中で生きていくなら、この問題を理性的に解決しなければならない。
 そうしなければ私達自身が本当にアジアの一員として生きて行くことが出来ないという事がわかっていただける日がいつか来る事を私は確信しています。

 最後に一言申し上げます。私はこの本の中で帰国事業は巨大な拉致であったと始めて提起しました。勿論これは「守る会」の共同見解ではありませんが、私は一人のジャーナリストとして、あえて提起しました。巨大な拉致であり犯罪なら全員を一度日本に帰さなければ解決になりません。そのためには船を出してもいい、何千万円かのお金がかかるでしよう。真剣に取り組めば日本の国民の間からカンパも集まると思うのです。
 北朝鮮が日本にミサイルを向けていると云う人達もいますが、日本に家族・親類を持つ帰国者数十万人の人たちが日本にミサイルを打ち込むような事を考えるでしょうか。
 私は帰国者は日朝友好の架け橋になる人たちだと思っているのです。この人達は日本にとって大切な人々でこの存在を忘れないようにしなければと思います。かならず日本に恵みをもたらしてくれると確信をもっています。この人たちと連帯することが大切であり、私達はあなた方の事を決して忘れていないのだと声をあげつづけることが大切だと思います。

 私の敬愛するロシアの詩人、プーシキンが、圧制に抗して立ち上がり、シベリヤに流刑となった人々を歌った詩があります。今なお北朝鮮の地で苦しみにあえいでいる全ての帰国者の方々にこの詩の一節を送り、私の話を結ばせていただきます。

愛と友情が暗いとびらを通じて
君たちのもとにとどくだろう。
いまわたしの自由の声が君たちの
苦役の牢獄にとどくように。
重い鎖は地のうえに落ちて
牢獄は崩れ 戸口で自由が
よろこびにみちて君たちを迎え
兄弟がつるぎを漬すだろう。
 

萩原遼さん 大宅壮-ノンフィクション賞おめでとう  小川晴久

 去る4月13日、萩原遼さんの最新作『北朝鮮に消えた友と私の物語』が今年の大宅賞を受賞し
た。前作『朝鮮戦争』で大宅賞の最終選考ベスト4入りを果たしているので、受賞は時間の問題だったかもしれない。3年余にわたるアメリカ公文書舘での彪大な一次資料の精査。前作も巨大な朝鮮戦争の解明を果たした作品だっただけに、前作で受賞しても一向におかしくなかったが、今回は今年40年目を迎える帰国事業を主題にした作品だけに私たち守る会にとって格別のよろこびがある。
 さまざまな困難をのりこえて実現した帰国事業一これ自体一つの大きなドラマであった。祝福して送り出した帰国者たちを待ち受けていた受難の実態は、鄭箕海さんの手記『帰国船』で今白日の下にさらされたが、しかし、この40年の歳月は残酷である。当時はこの事業を推し進めた人たちは他界しているか、第一線から退いており、その歴史がますます遠のいていくからである。

 帰国者とその家族はむごい人質政策のため真実を語れないでいる。そのような残酷さとむごさの閉塞状況を打ち砕くべく本書が現れた。私たち60歳以下のものは本書によって帰国事業を生み出した歴史を知る手がかりを得ることができたのだ。
 まず本書をよみ、金日成と韓徳銖の陰謀説を吟味し、次に関貴星著『楽園の夢破れて』や鄭箕海著『帰国船』を再読して戦後史と帰国事業全体をとらえようではないか。年輩の方は各自の自分史を引っさげて補足しつつ。

 帰国事業40年を迎える今年、前記のような使命をもつ本書が大宅賞を受賞したことに天の配剤を覚える。萩原遼さんが渾身の力をふりしぼって引き寄せた賞であるが、無念の思いで他界した帰国者、今なお北で坤吟する帰国者の思いが引き寄せた賞であるかもしれない。本書の受賞をわがことのように受けとめ、活用と普及につとめようではないか。心からお祝いを申しあげたい。

(毎日新聞4月22日付け朝刊)

 「わたしは語らねばならない。」序章にそうある。
 在日朝鮮人の親友の運命に自分史を重ねて描いた。「地上の楽園」を信じて朝鮮民主主義人民共和頭(北朝鮮)に帰国したその友を、のちに「赤旗」の平壌特派員となった著者が訪ねるのだが…。綿密な追跡取材と記憶の束で、北朝鮮の「闇」に迫る。ある選考委員は評した。「命をかけて書かれたものの迫力がある」
 受賞の翌日、東京・紀尾井町の文芸春秋本社。社のエライさんにお祝いの言葉を浴びせられて恐縮の体だったが、すぐにいつもの人なつっこい笑顔に戻って「近くにうまいラーメン屋がありますねん」。担当編集者氏は「大宅貰作家なんですから、もっといいもの食べましょうよ」。そこが萩原さんの真骨頂である。
 「朝早く、新聞で見た大坂の在日のおばちゃんが電話で『オメデトウ」と言ってきてくれた。うれしかった」
 大坂外語大朝鮮語料の1期生である。実は記者は出来の悪い後輩なのだが、一つ覚えていることがある。韓国人客員教授がテキストとして使った李朗時代の詩歌集「竜飛御天歌」の影印本があった。荻原さんが平壌で入手したものだった。ジャーナリストでありながら、文学への思いは立ち消えることはなかった。
 ワシントンの国立公文書館で米軍略取文書160万枚を3年がかりで読破して朝鮮戦争の真相をあぶり出した。執念の人である。だが、その情熱の源には、高枚のころ読んだ萩麻朗太郎の「郷愁の詩人与謝照村」の影響があった。
 「文章の力、論理の力で通説をひっくり返すことのおもしろさを知ったんです」

文 夕刊編集部 鈴木 啓磨
写真 写真部 近藤 卓資
高知県生まれ.筆名の由来は曽良の句
「ゆきゆきて倒れ伏すとも萩の原」.62歳
 

『文芸春秋』一九九九年六月号より転載 受賞作 北朝鮮に消えた友と私の物語  文芸春秋刊 萩原遼 朱鷺の遺言 中央公論新社刊 小林照幸 財団法人日本文学振興会

選考経過
 第三十回大宅壮一ノンフィクション賞選考委員会は、四月十三日午後六時から、東京銀座の「松山」で開かれました。選考委員会には、立花隆、西木正明、深田祐介、藤原作弥、柳田邦男の選考委員全員が出席されました。一時間半に及ぶ討議の結果、頭書の通り受賞作が決定いたしました。

候補作は、次の五篇でした。
1 小林昭幸「朱鷺の遺言」(中央公論新社刊)、
2 岸宣仁「税の攻防」(文芸春秋刊)、
3 入江曜子「貴妃は毒殺されたか」(新潮社刊)、
4 向井万起男「女房が宇宙を飛んだ」(講談社刊)、
5 萩原遼「北朝鮮に消えた友と私の物語」(文芸春秋刊)。
 これらの作品は平成十年中に刊行された作品および応募原稿の中から予選を通過したものです。

受賞のことば  萩原 遼

 一九三七(昭和十二)年二月高知県生まれ。六七年大阪外国語大学朝鮮語科卒業。六九年から「赤旗」記者となり、一年間、平壌特派員として勤務。その後フリーランスに.九二年までの滞米中、国立公文書館で朝鮮戦争を研究。著書は『朝鮮戦争』(文芸春秋)、『ソウルと平壌』(大月書店・文春文庫)等がある。
 受賞のきまった翌朝早くから、朝刊で知ったと次つぎに電話が鳴り始めました。その一人、在日朝群人の年配の女性は「おめでとうございます。私たちのことがこんなに===」といって言葉がとぎれました。泣いているようでした。私以上に喜んでくれる人がいることに、あらためて賞の重みを実感しました。
 四十年前、「地上の楽園」の言葉に魅かれて希望に満ち北朝鮮への帰国船に乗った十万人近い在日朝鮮人と数千人の日本人妻の悲劇。そこは地獄でした。電話の女性も苦労して育てた三人の息子を帰国させ、二人がスパイ罪のぬれぎぬで殺されています。
 『北朝鮮に消えた友と私の物語』は、そうした人々が書かせたものです。この人たちの苦しみを万分の一でも共有できたことを幸せに思います。そして、苦しみを乗りこえ、北朝鮮の民主化のために営々とした努力をつづける在日朝鮮人の戦いに連帯するために私もまた書き続けます。

北朝鮮の強制収容所を解体せよ! 世界の声

 北朝鮮の強制収容所は、いまや地球上に残されたもっともいまわしい反人道の標本となっています。金正日政権の失政による大規模な飢餓と経済の破綻にたいする国民の不満を恐怖政治で押さえ付けるものです。北朝鮮当局の人権揉欄行為にたいし、もはや黙ってはいられないという声が世界の各地で高まっています。

 3月10日フランスの知識人21人が「フイガロ」紙上で「北朝鮮 ある惨劇」と題する声明を発表しました。これに呼応して3月20日には韓国の知識人78人が、北朝鮮住民の人権保障と脱北難民保護を訴える宣言を発表しました。さらに4月22日にはアメリカ上院で北朝鮮の強制収容所問題などで公聴会が開かれました。この際に、北朝鮮の人権問題を鋭く注視してさたスザンナ・ショルテ女史が冒頭あいさつをおこないました。

 以上の3点を紹介します。韓国の宣言は『正論』編集部の了解を得て、同誌99年6月号から転載しました。他の2点は、それぞれの原語の文書を「守る会が訳出したものです。(カルメギ編集部)

米上院公聴会でのショルテ女史の冒頭挨拶(1999年4月22日)

 議長、委員の皆さん、私は上院、下院のスタッフのために防衛と外交問題に関する教育プログラムを推進している非営利財団、防衛フォーラム財団(DFF)の会長、スザンナ・ショルテです。私はあなたがたがこの小委員会のために招いた証人たちを紹介するために若干の説明をこれからいたします。
 
 ここ数年、北朝鮮政治犯収容所を暴露するために収容所の生存者を議会、政府人権団体のリーダーたちに引きあわせる努力を私たちはしてまいりました。トーマス・クレイグ上院議長、北朝鮮政治犯収容所に関するアメリカ議会最初の公聴会をあなたが今日聞いて下さったことに関して、どれだけ多くの人が感謝しているかをお伝えしたいと思います。
 あなたがしていることのお陰で、議会、政府、そしていつの日か数万の無実の人々の苦しみを終らせるであろう報道機関に、これらの収容所の存在を知らせる(のに役立つ)プロセス(手続き)が始まったのです。

 これらの収容所で死んだ推定40万人の北朝鮮の人々、現在囚われている20万人、そして今朝私たちの目の前にいるこれらの収容所の生存者、これらすべての人々に代って私はお礼をいいます。
 またこの委員会のために、そしてアメリカ社会のためにこれらの収容所に関する資料を提供して下さった北朝鮮政治犯を助ける市民連合(ソウル)と北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会(東京)、そして駐米韓国大使 李ウォンヒ氏の助力に感謝を申しあげます。

 アメリカ政府とアメリカの報道機関が多大な関心を示している北朝鮮の問題は、食糧事情と北朝鮮の核開発能力に関する関心の二つです。しかしながら北朝鮮の政治犯収容所は、北朝鮮との政治討議の中で、またアメリカのマスコミの交流の中ではきわめてわずかな注意しか引いていません。
 しかし金正火のスターリニスト体制が北朝鮮人民に行使している二つの方法による締めつけの中でこれらの政治犯収容所は主要な役割を果たしているのです。すなわち政治犯収容所は彼の体制へのいかなる反抗も打ちくだき、人間を奴隷にして安い労働力を供給しています。

 私は人類の歴史上でおきた奴隷売買、ホロコースト、スターリンの収容所、今コソボで起きている民族浄化のような人間の人間に対する非人道の恐ろしさを過小評価するつもりはありません。

 しかし北朝鮮の政治犯収容所で起きていることは人類史における最悪の人間虐待の実例の一つになっていることを私は皆さんにお伝えしたいと思います。この北朝鮮体制がその国民のためにこしらえたものはナチの死の収容所や共産主義者の収容所に匹敵する恐ろしいものです。

 これらの囚人たちは、北朝鮮体制を維持するための輸出品を製造する強制労働に従事させられています。彼らは余りにも少ない食糧と睡眠できたない狭い小屋に住んでいるので、彼らは歩く死人のようです。

 家族の一人がいわゆる犯罪を宣告されるとその家族全体がこれらの政治犯収容所に送られます。これらの犯罪には外国放送をきくことや食糧事情に不 平をいうこと、金正日への尊敬をキチンと表明しないこと、また天の神への信仰表明などが含まれています。
 これらの無実の北朝鮮市民が一旦投獄されると収容所警備員は彼らはもはや人間ではないという理由で彼らを“尾っぱのない獣”とよび、そのように扱われます。
  彼らはさらに化学兵器や細菌兵器、医学実験や兵器実験のモルモットにも供されています。収容所で妊娠した女性は強制避妊させられます。収容所内のクリスチャンは月ごとに集められ殴打されたり処刑されたりします。

 北朝鮮にこのような収容所が存在するのではと、長い間西側社会で疑われていました。しかし私たちが北朝鮮社会に入ることが出来なかったため北朝鮮内で虐待行為が犯されていることを私たちは確かめることができませんでした。
 今や私たちは知ることができます。北朝鮮市民が外に出てきたのです。あなた方が今朝その証言をきくことになっている勇気のある三人の方たちのような生存者によって、これらの収容所内部で行われていることを私たちは今や確認することができるです。

 本日の上院公聴会が私たちに行動するよう導くこと、アメリカ合衆国上院がこの問題に関心を集中し続けること、アメリカ政府の政策立案者たちが北朝鮮に関する討議や北朝鮮との討議の中でこれらの収容所についての討議を含めること、マスメディアがこの記事を報道しこの暴虐について西側世界をより教育することを、以上のことを私は熱烈に望みます。
 その時にはじめて私たちは北朝鮮政治犯収容所でおきている人間の不幸と苦難に終止符を打つことができるのです。

 私は三人の証人を皆さんに紹介するのを光栄に思います。北朝鮮から亡命したこれら三人の生存者は恐怖の収容所について自己の体験にもとづいたユニークな全体像を与えてくれるでしよう。
 李順王さんは1987年11月から1992年12月まで价川刑務所に入れられていました。投獄前に彼女の意志に反したいつわりの宣告に服従しなかったため14ケ月拷問を受けました。
 安明哲氏は1987年5月から1994年9月まで7年間、政治犯収容所で警備員として勤務しました。姜哲煥氏は祖父がスパイとして逮捕されたため、9歳の誕生日の1ケ月前に投獄されました。1977年8月から1987年月まで耀徳強制収容所の囚人でした。
 議長、ありがとうございました。

北朝鮮、ある惨劇 フランス知識人21名の声明 1999.3.10 仏フイガロ紙にて発表

(翻訳:共同代表 小川晴久)

 我々が数十年間見慣れて来た共産主義は、地球上の殆ど全ての地で、死滅したか瓦解中である。
 しかし、その崩壊は悲惨な苦痛そのものである。北朝鮮体制の苦痛は誰も無関心でいることは出来ない程の恐怖を伴っている。
 我々は北朝鮮に約15万人を収容している強制収容所があること、また公開処刑や指導者の人格に対する宣伝と精神錯乱的崇拝があることも知っている。我々は全ての表現の自由、情報の自由、集会の自由、交通の自由がそこでは廃止されていることを知っている。
 我々は北朝鮮の動向が東アジアの平和を圧迫している脅威に心を痛めている。
 しかし我々は最早我慢することが出来ない、食糧不足と医療手当の不足から実に多くの人々が死んで行くことに。我々は最早耐えられない、この様な状況に責任のある平壌の特権層(ノーメンクラトウーラ)が贅沢品を輸入しているのに、娘たちがわずかな食糧のために両親たちによって中国に売り渡されていることに。
 北朝群の指導者たちは、彼らの国の悲惨な状況に責任がある。告発されるべきは近年の干ばつや洪水ではない。それは無効さを至るところで立証している計画経済と中央集権的な方法や全人民を毎日肉体的精神的抑圧に従順であるよう麻痺させている政治路線とかたくなに結び付いた、金正日の北朝鮮政府の怠慢である。
 我々署名者は、北朝群国民の運命に関する国際会議の速やかな開催を提案する。それは死の危険の中にある国民のために、国際社会によって管理された効果的な援助の条件とはなにかを明らかにするものである。
 北朝鮮の経済生産方式と政治路線とは、飢餓を生み出すものであり、今日まで北朝鮮国民を援助するために払われた諸外国、国連NGOの多くの努力を無にするものであった。北朝鮮政府に変わっておこなう援助は、こうした経済生産方式と政治路線を放棄させるものでなければならない。
 北朝鮮は、今後その国民に食物を与えることに全力を傾けなくてはならない。それゆえ,隣人を脅かすミサイルのような複合兵器の生産を放棄しなければならない。
 北朝鮮は強制収容所の閉鎖を約束しなければならない。幾万、幾十万もの男女や子供の殉教者をこれ以上出してはならない。北朝鮮政府の正当な唯一の闘いは、国民の飢餓の解消に向けられるべきであって、決して国民自身に向けられてはならない。

《署名者》
アラン・ブザンリン(哲学者、ソ連研究家);
ダニエル・ブシエ(朝鮮語学者);
クロデイ・ブロワイエル(中国専門家、妻);
ジャック・ブロワイエル(ジャーナリスト、夫);
ステファン・クルトワ(歴史家、『共産主義黒書』主任編集者);
ピエール・デツクス(元コミュニスト);
ジャンルク・ドムナク(中国専門家、政治学);
アラン・フインケルクロト(哲学者);
アンドレ・グリュックスマン(哲学者);
マリ・オルズマン(中国専門家);
ジヨエル・コテック(ベルギー人、収容所研究者);
アルチエール・クリゲル(物理学者);
マルク・ラザール(社会学者);
エマニュエル・ルロワラデユリ(歴史家);
ジャン・ルイ・マルゴラン(歴史家、『共産主義黒書』中国の部執筆);
ジャン・ルイ・バネ(歴史家、20世紀ドイツの共産主義研究、『共産主義黒書』執筆);
サビーヌ・ルノー・サブロニエール(ISHR(国際人権協会)フランス支部代表);
ピエール・リグロ(、ソ連強制収容所研究者、『共産主義黒書』北朝鮮の部執筆);
フランソワーズ・トム(ソ連研究家、有名な数学者の息子);
オリビエ・トッド(ジャーナリスト、ベトナム戦争に関する著作あり);
イリオス・ヤナカキス(東欧専門家)

 【 ご 案 内 】 ふるってご参加下さい.

6月の関東学習会  東 京

『帰国事業前史』 講師 高柳俊男氏
    日時 6月26日(土) 午後 1時30分~5時
    場所 喫茶店ベラミ JR日暮里駅東口前(Tel03-3801-5645)

街頭活動  東 京
帰国事業40周年を迎えてのビラまきにご参加ください
  6月10日(木)正午~1時 JR飯田橋駅 市ヶ谷寄り

近刊予告
 北朝鮮の闇に消えた若き科学者と日本人妻
     曺浩平・小池秀子書簡集 6月15日発行予定
        編集:曺浩平・小池秀子書簡集編纂委員会

 1959年に始まった北朝鮮帰国事業。「地上の楽園」「社会主義の祖国」等の宣伝に彩られた北朝鮮は、約10万人の帰国者にとって、まさに「凍土の収容所共和国」だった。
 当時東北大学の大学院生だった曺浩平氏は、1962年、日本人妻小池秀子氏を伴って北朝鮮へ「帰国」する。乏しい研究設備の中でも科学者として全力を尽くす日々を送るが、1967年、浩平氏は「哀れにも小生完全な廃人となりました。今や一家は満身創痍の形、出るのは苦笑とため息だけです。」との言葉を残して消息を絶つ。
 数年後、妻・秀子氏からの連絡も途絶えた。日本の家族に送った書簡集から、二人を待ちうけていた残酷な運命を知ってほしい。

 本書簡集をご希望の方は、下記までご連絡ください。
  〒136-0072 東京都江東区大島7-6-6  
  書簡集編纂委員:三浦小太郎まで、
  送料・資料代として1冊当たり500円分の切手をご郵送ください。

第8回関西支部講座  関 西

 『帰国運動の法的責任を問う』
          講師 藤森 克美 弁護士
        日時 6月27日(日)午後1時30分
        場所 大阪経済大学  G館  G33教室
             大阪市東淀川区大隈2-2-8
    阪急京都線 上新庄駅下車 徒歩10分
   大阪市バス 井高野車庫行き 大阪経大前下車 すぐ(便利です)

     連絡先 関西支部事務局 
           Tel&Fax 0729-24-2584 山田 文明

編集後記

★会員みなさん、お変わりありませんか。新緑の5月も過ぎ、はや6月の声を聞くようになりました。ことしも例年のように私の住む飯能には5月下旬からカツコーが鳴きはじめました。

★総会を成功のうちに終えました。今号は総会関係と、萩原共同代表の大宅賞受賞の関連記事、および北朝鮮の強制収容所と人権問題にかんする世界の声を中心に編集しました。そのため、「この人に聞く」や人権情報は割愛し、次号送りとさせていただきます。 (遼)

★帰国者の生命と人権は、守る会の5年間の努力にもかかわらず、今もおびやかされっづけています。この悲劇にここ日本で日本人と在日の方々が連帯して取り組むことこそが、21世紀のあるべき共生の世界をみちびくことでしょう。 (三浦)

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