かるめぎ No.29 1999.10.01

会報『かるめぎ』の過去号を、旧サイトから、順次こちらにアップしていきます。この機会に、過去の『かるめぎ』を通して、守る会の歩みを知っていただければ幸いです。

帰国事業40周年 第2回映画と講演会

 帰国事業40周年を記念する第2弾として、10月23日、映画と講演会を開きます。8月21日の第1弾も大きな感動を呼び、意義ある催しだったと好評でした。
 今回は、多くの方々のご要望にこたえて、埼玉県川口市を舞台にした吉永小百合主演の名画「キューポラのある街」を、ゆかりの川口市で上映します。友人知人お誘い合のせの上おこしください。
 崔殷範氏の講演にもご注目ください。

映画と講演

いま振り返ろう!!40年前を
北朝鮮に渡った在日朝鮮人9万人余と日本人妻6千人を
そして思い起こそう!この人たちの現在を

と き:10月23日(土)午後1時~5時
ところ:川口産業会館 埼玉県川口市栄町3-7-1
      」R川口駅前(京浜東北線)
整理責:1,000円
映 画:「キューポラのある街」
    (吉永小百合主演1962年作品)

講 演:崔殷範氏元大韓赤十字社国際部長
    (現東大大学院客員研究教授)
  「帰国事業と韓国赤十字社」

 四十年前の一九五九年十二月、北朝鮮に帰ろうという在日朝鮮人の第一船が新潟港を出たことをご存知ですか。
 以来、九万三千人の在日コリアンと六千人の日本人妻が北に向かいました。この人たちはなぜ北を目指したのか?そして今どんな状況に置かれているのか。講演と映画が、私たちの理解を大きく助けてくれるでしょう。
 講師の崔殷範氏は、大韓赤十字社で約三〇年仕事をされた方で、帰国事業には最初から反対の立場の方です。
 また、映画「キューポラのある街」は吉永小百合が演じる少女ジユンの友だちの在日朝鮮人少年少女が北朝鮮に帰国する話が出てきます。川口が映画の舞台で、川口産業会館も映画に登場します。

 主催:北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会

帰国事業開始から40年 映画と講演の集い開催 三浦小太郎

 去る8月21日午後1時より、千代田区の韓国YMCA・アジア青少年センターにて、守る会による帰国事業40周年をふりかえる映画と講演・パネルディスカッションの集いが催された。参加者は約100名。

 1959年に新潟港を初めて帰国船が北朝鮮を目指して旅立って以来、現在まで9万3千人(日本人配偶者6千人を含む)が「帰国」した。
 この40年を振り返って、改めて今、帰国事業とは何であったのか、いま苦しんでいる帰国者たちに対し、われわれは何が出来るのかを再確認するための集会であった。

 まず、小川共同代表の挨拶で開会が宣言され、最初は1960年政策の映画「海を渡る友情」(望月優子監督)が上映された。

 この映画は在日朝鮮人を父、日本人を母に持つ少年を主人公に、少年が帰国事業の高まりの中で自らの出自を知らされ、かって何も知らずに同じクラスの在日朝鮮人をいじめていたことに苦悩し、一時は自暴自棄となるが、やがて良心的な教師や周囲の励ましの中で立ち直って行き、朝鮮民族であることに誇りを持って行く流れと、北朝鮮への帰国を望む父と反対する母とがやがて和解し、一家が北朝鮮に旅立って行く過程とを描いた作品である(当時の朝鮮総連はこの映画撮影に全面的に協力)。

 この映画は現在ビデオにもなっていないし、恐らく内容から見て今後もなるとは思えない。当時の時代の雰囲気を見るうえでは大変貴重な作品だったと思うが、現在の目で見ると、帰国に反対する母親の意見が、誠に残念ながら痛ましいはどに正しく、私個人はやり切れない気持ちにさせられた。
 尚、脚本の片岡兼氏は他にも在日朝鮮人をテーマにした幾つもの良質な作品を残した方だが、今年5月にお亡くなりになったという。ご冥福を祈ると共に、今、ご自分のこの作品をどのように思いながら世を去られたのであろうか。

 続いて、映画を引き縦ぐ形で高柳俊男(運営委員、法政大学教授)が、映画の解説と、当時北朝鮮が在日にとってどのような存在だったのかを、朝鮮戦争後の在日にとっての「祖国の再発見」というテーマで語った。
 特に同氏は、現在の目から単純に帰国運動やそれに関わった人達を悪と決めつけるべきではなく、時代状況への丁寧な分析が必要なこと、同時に日本人の側は、日本の在日差別が逆に北朝鮮を輝かさせたという事実に目をふさいではならないことを述べ、このような問題を扱うときにどうしても陥りがちな、「悪玉」を名指して攻撃することに熱中して、帰国運動の本質を多面的に見ることから遠ざかる恐れを指摘された。

 次に萩原遼共同代表から、この映画は始めて見たが、自分が若き日々間近に見た帰国運動を思い起こさせる貴重な映像だったと感想を述べた。
 さらに帰国運動の最も重要な面は、金日成と現在も朝鮮総連議長の韓徳銖との親方の利益に根差した在日動員の陰謀であったこと、結果金日成は労働力と技術者を得、さらに現在に至るまで人質政策によって帰国者を利用し続け、また韓徳銖は金日成から朝鮮総連議長のお墨付きを得ると同時に、自分より遥かに運動面でも思想面でも実績のあった在日運動家を、次々と北に送り込む為に帰国運動を利用したきた事を述べ、さらに新事実としてある北朝鮮からの女性工作員と韓との間に明らかに関係が有ったこと、金日成が帰国運動を利用することとなった側面には、当時の在日朝鮮人が外国籍のまま日本政党に参加していたという根本的矛盾が有り、そこを付け込まれた事などの様々な問題を提起された。

 ここで格闘家で在日3世でもある前田日明氏の発言がビデオで流され、その後、萩原、高柳、そして急遽参加となった帰国者で北朝鮮からの亡命者、オ・スリョン氏も参加してのパネル・デイスカッションが会場からの質疑を受ける形で行われた(司会は会員の三浦)。

 午後5時、佐伯浩明運営委員の、人権運動がすべてのイデオロギー対立や国境の壁を越えて行かなくてはならない、日本の文化人もマスコミも、我々市民運動も人権擁護の重要さをもっと訴えて行こうという閉会宣言によって集会は閉じられた。
 今年は帰国運動40周年を記念する形で、今後も10月12月と三回に亙ってこのような集会を開催する予定。帰国者の悲劇は今も尚継続中である。北の独裁体制のもとこの悲劇が続く限り、帰国運動は歴史のかなたに追いやられてはならないのだ。

99.8.21 帰国事業40周年シンポジウム集会

 萩原遼、高柳俊男、呉寿龍氏の対談から、映画「海を渡る友情」の上映のあと、上記三氏の対談が三浦小太郎氏の司会のもとにおこなわれました。

萩原遼、高柳俊男、呉寿龍氏 三氏対談

司会 本日の会場から質問が寄せられています。これにそってパネラーにディスカッションをしていただきます。まず萩原先生から、帰国事業は金日成と韓徳銖の陰謀であったと、萩原先生の著書『北朝鮮に消えた友と私の物語』に基いて要旨を述べてください。

萩原遼 帰国事業とは徹頭徹尾だましの手口で行われました。私の友人尹元一が帰国したのは日本での就職差別が一つ、もう一つは北に帰国したらモスクワ大学へも留学できるという夢があったからでした。しかし帰国した大多数の青年の夢は裏切られ、炭坑や農村に追いやられたのでした。
 呉寿龍さんも荒地の開拓地へ流されたのでした。
 なぜ帰国者に「我が祖国は戦争が終わりいく年も経っておらず、若者の力が必要である。在日の青年も北の人民と苦労する覚悟があるなら帰国して助けてほしい。非常に困難だが、しかし働けば立派な社会主義祖国を建設できる」と本当のことを言わずに美辞麗句を言ったのか。これが陰謀であったことの最大の理由です。
 第2のだましの手口は、帰国したが夢破れて失望した人々にUターンを許さなかったことです。刑務所の中に閉じ込めているのと同じことです。日本に戻ってくる術をすべて奪ったのです。呉寿龍さんの体験でも北朝鮮の港に着いて、タラップを降りた瞬間「だまされた」と思った帰国者が大多数だったのです。
 帰国者を受け入れる北側の迎接副委員長だった呉基完氏(65年韓国に亡命)に、私はこの間ソウルで会ってきましたが、99パーセントの人は祖国帰国を後悔した、6割以上の人が炭坑や鉱山、農村に回されたといっていました。
 なぜ当初から労働力が必要だといわなかったのか。日本に帰りたいという帰国者は収容所に送り込み、恐怖で沈黙させた。1955年までの共産党民対や朝連、民戦指導部の人たちはそれなりに、歴史認識の出来る人たちで、いまの総連指導部のように必ずしも金日成一色ではなかった。
 いまの総連議長の韓徳銖が指導権を握ってからは、当時の幹部を日本共産党に属し火炎瓶闘争をした極左冒険主義の宗派(スパイ)であったと汚名を着せて北朝鮮へ送り処刑させたのでした。そして韓徳銖が嘘八百を並べて帰国事業を始め、北のひどい実態がもれないように、帰国者や日本人妻の一時帰国を許さない。
 70年代になり、在日からの親族訪問が始まりましたが、功労メダルをもらった総連幹部の父親が訪朝して自分よりも老いた息子に会い、乞食のような生活をさせられていることに怒って、そのメダルを便所に叩き付けた人もあります。北が崩壊すれば、いずれUターンしてくる日がきます。その人たちから地獄のような詳細が明らかになるでしょう。私の陰謀説もきっと証明されます。 

司会 帰国事業とは労働力がほしかった金日成と、韓徳銖による誤った情報によりもたらされた悲劇であったとまとめられるでしょう。帰国し韓国に亡命した呉寿龍さんからお話していただきます。

呉寿籠 40年の長い年月が過ぎました。自分は1934年に神戸で生まれ育ち、両親は日帝時代に南朝鮮から日本に来ました。大戦が終わり、8・15解放の希望の中で朝鮮人連盟ができ、大極旗を振り活動しており、同胞の中で目先が利く者は儲ける者もおったが、みんな生活は不安定で日本政府の民生保護を受けているものも多かった。
 私が思うには金日成は在日同胞を味方にしないと朝鮮の発展はないと先を読んで、これを機会としたのです。 神戸の大橋の川沿いに(朝鮮部落の)市場があって商売人だからお金は持っているが、バラック立てでした。韓徳銖は悪いやつで、これを写真にとって、在日同胞はコジキのような生活をしていると金日成に報告したのです。そして金日成は在日同胞はコジキのような生活をしているから、暖かく迎え入れましょうと北の住民に宣伝したのです。
 自分は帰国して勉強しようと1962年の第88次船で帰国しました。招待所(帰国者の仮宿所)での二日間の教育のときだまされたと金日成の写真を破ったりした人もいました。帰国者が酒盛りで政治不満を言ったり、仕事をサボっても、まだ当時は、あの人たちは資本主義的な教育を受けてきたからだ、と寛大でした。67、68年ごろから問題にされ、突然、夜中に家族が山奥の僻地へ連行されたり、強制収容所へ入れられたりすることが頻繁におきました。
 私もどうなるかと不安になり、それで、一生懸命に仕事をするようになりました。帰国者は63年ごろまでは平壌に住め、それからは炭坑や農村に配置され、私は開墾農地に回されたのです。韓国は70年代から経済が発達しましたが、北は貿易が封鎖され経済が崩れるようになり、90年ごろから配給が止まり白いご飯はなく、とうもろこしご飯でした。闇市には何でもありました。日本から仕送りがあるものは生活も良いが、ないものは現地の人よりも苦しい生活でした。
 妻は帰国したくなかったが、総連の幹部の兄の説得でその兄だけを残し、家族で帰国し、農村に配置され、そして私と結婚したのでした。帰国者は着物もいいし、家具や調度品も良いものだし現地の人も日本は発達していると理解したようです。
 帰国者には日本よりも強い差別があります。鴨緑江の近くへ移住しましたが、余りにも生活が苦しいので息子が亡命を計画しました。失敗したら死のうと長いかみそりを持ち中国に波り、第三国を経由して95年3月に韓国に着きました。総連に騙されて、青春も何もかも金日成に踏み潰されたのです。
 いま北朝鮮には日本人妻は五、六百名が生きているようです。全員里帰りさせてあげなければなりません。北はミサイルを開発しているが、戦争をする経済的余裕はなく、世界中から食料援助を引き出すためです。
 日本政府は強い態度で北朝鮮政府と交渉して全員の里帰りを実現させてあげるべきです。韓徳銖は人をだまして北朝鮮へ送っておいて反省が何ひとつない。総連の多くの幹部も、はじめは北の政情を知らなかったでしょう。手紙が来て、親族訪問ができるようになって北の内情を知っても、北朝鮮は金日成や金正日のおかげですばらしいと言っている。
 いまからでもいいから帰国者や日本人妻の全員の里帰り実現のために努力すべきです。万景峰号が日本に来るたびに、里帰りの日本人妻を乗せてきたらいいのです。あなたたちと同じ日本人の血が流れているではありませんか。私も96年に日赤を訪れてこのことを訴えたのです。

司会 きびしい総連批判でしたが、帰国事業にたずさわった人々の問題について高柳先生からお話をお願いします。

高柳 帰国事業の責任について考えるとき、当時は善意だったのでしょうが、この様な結果になって、その後の歴史について考えるとき、帰国事業に関連した人々、推進した政党、日朝協会とかは責任なりを考えてもいいと思うのです。当時の姿勢に問題があったとかではなくて。きょうの映画「海を渡る友情」で見たように、総連は最大の当事者であり。それ相当の措置を行うべきだと思うのです。
 三十周年のときは歴史上まれに見る偉業とか、帰国者は幸福に暮らしているとか、全面賛美のパンフレットを出し配布しましたが、四十周年の今年をどう迎えるのでしょうか。当時としてこうなると思っていなかったが、それは違うと分かった時点でやるべき事をしなければならなかった。日本人の私が差し出がましいですが。
 路線転換で総連が結成されてからの、最大の課題は在日朝鮮人の権利を擁護することだったのではないでしょうか。だんだんと出先機関化し北朝鮮にだけ顔を向ける。本国政府に言うべきことはきちんともの申すこともできて良いのではないでしょうか。

司会 萩原先生へ、朝連時代に在日朝鮮人が日本共産党に属していたが、在外公民がその国の政党に属していた不正常さについて。

萩原 1945年8月16日の解放で朝鮮民族は新しく生まれ変わったという、朝鮮民族の誇りの点から、どこの国の共産党にも属する必要はなかった。コミンテルンの規約に一国一党の原則があって日本に住む朝鮮・中国人は日本の党に入るべきであると、中国で活躍する朝鮮人は中国の党に加入すべきであるという国際共産党の規約があってこれがそのまま戦後まで、しかも敗戦から5年、10年たってもなおかつ生き残って、在日朝鮮人共産主義者が日本共産党に属していた。これが大きな問題をはらんでいたと思うのです。
 この問題もまず在日朝鮮人のほうから総括しなければならないと思うのです。そして日本共産党も事実を明らかにすべきだと思います。日本共産党に在日朝鮮人がいたという非正常性をきちんと総括すべきだと思うのです。1953年当時の日本共産党は反吉田、反再軍備、反アメリカの三反闘争でしたが、在日はこれに反李承晩の四反闘争を主張した。ところが共産党は「民族的偏向」だとして、反李敢晩をはずさしたのでした。双方が真撃な話し合いを行い真実を明らかにして、そゐ総括をきちんと行うことがまず求められていると思います。

司会 高柳先生へ、当時、朝日新聞を始めマスコミがどうしてあんなに動いたのか、マスコミや日本人までが正しいと思えたのか、その見解を。

高柳 たしかに新聞や雑誌に見る帰国事業に関する報道はたくさんあります。反対よりは好意的に見るのが大多数です。帰国事業は59年に始まり14年間行われますが、在日に対する報道としてはかつてない報道です。
 マスコミも戦後も戦前の差別感はそのまま持ち越しており、第三国人が闇市を牛耳り日本の経済を混乱させているとか、共産党と朝鮮人が一緒に悪い事をするとか、迷惑論で早く帰ってくれとの認識が出ています。好意的なものは、日本に在日朝鮮人が大勢住んでいることへの思いがあり、そこへ帰国事業で、日本人の意識というもののポイントになります。
 1955年の路線転換で、朝鮮民主主義人民共和国にすべてを捧げるのだと、自分たちには祖国があるのだと生き生きとした視点を持つようになり、帰国事業を推進した力は人道的、社会主義思想と人間的な生き方への共通性があります。
 しかし支援・協力した人たちや組織の中には、やっかいもの払いという意識があった部分もあると考えるのです。槍玉にするわけではありませんが毎日新聞は社説で「われわれは朝鮮人の抵抗に手を焼いている。帰りたいなら帰ってくれたほうが助かる。」と述べています。

司会 これからの方向について萩原先生、ひとこと。

萩原 いまや北朝鮮は帰国者の親族が帰国した北の家族に品物、生計費を送っても横取りされて、ほとんど届かない状態です。
 根本的な改革がない限り解決は難しいと思うのです。いずれ金正日政権は打倒されるでしょう。楽園の夢破れて日本にUターンしてくる家族も出てくるでしょう。このことも念頭に置く必要があると思うのです。すでに日本に上陸希望の情報も入っています。
 守る会は小さな組織ですが、Uターンする帰国者の受け入れを積極的にやる必要があります。日本の人たちへの説得や各自治体への働きかけはもちろん、ですが、守る会としても、過疎で廃校になった学校を宿舎にさせてもらい一時の宿舎を設ける仕事など、いまから準備をしてもいいと思うのです。私も残された人生をそのために微力を尽くすつもりです。 

前田日明氏 ビデオ発言(要旨)

――おじさんが北で行方不明ということですね。

前田 小さい頃遊んでもらったおじさんです。父親世代の人たちでは、70年代の終わり頃に、「向こうで実はこういう生活をしているらしいよ。下っ端の人間はヒエかアワしか食えない」というのが話題になった。80年代になると実際に行って見て、「わあ、なんだこれは」という。ですが、こちらで人間的な差別を味わうと、そんな所でも帰りたくなる。

――北が大変なことがわかっても、本人の生命がかかっているのでそれを証言できない。

前田 日本の戦後教育はこと自由さを教えることについてはあきれるくらいだった。そういうところで染まった人が北の主体思想をやっているところとは合わない。あげくのはてに中朝国境地帯のような辺境の地に飛ばされる。へたすると強制収容所、もっとひどいと、いろいろでっちあげられて処刑されたりする。ちょっとそれは複雑な気持ちでね。
 私のおじいさんは李朝最末期の軍人で抗日ゲリラに参加して、捕まって逃げたりして、日本に来たんですが、北朝鮮好きじゃなかったみたいです。韓国や北朝鮮だったら同じ血の流れた人間に対して、日本人が俺達にやっているよりもっとひどいことをするだろうと言っていた。

――北朝鮮の政権については。

前田 中朝国境地帯もひどい話じやないですか。北朝鮮を脱出した7歳や10歳の子どもが凍った地面に頭をすりつけ助けてくださいと言っているという。それでも中国の公安当局が北朝鮮にむりやり引き渡しているんでしょ。在日の一世二世がなぜこういうことを黙って見ていられるのか、よく分からないです。

――「在日」に対しては

前田 朝鮮学校作ったといっても、この国にいる「在日」が金を出し合って作ったんじやないですか。自分たちは独立独歩で生きてきたんですよ。「在日」は今、消極的で、中途半端ですよ。日本国籍とったら新井将敬みたいに日本の国政にかかわらなけりゃだめですよ。先祖代々の名前を誇りにして韓国籍や北朝鮮籍でもいい。だったら韓国の国政にかかわらなきやだめですよ。
 戦前は併合で日本人としてきた。そして、子孫が恥ずかしいい思いをしないようにと日本人以上に危ない最前線に行けと言われた。私の親戚にも特攻隊員がいた。しかし戦後、日本の都合で「外国人だ。帰れ」となっても、李承晩が受け入れなくて、大村の収容所に入れられた。
 「在日」は、こんな仕打ちをされてもニコニコしている。「在日」はお人よしだ。みな天国にいけますよ。自分たちは日・韓・朝に借りはないんです。「在日」であることに誇りを持たないといけない。一つにまとまらなければだめですよ。

*   *   *   *   *

(文責:佐倉)小川共同代表、宋、金、佐倉の四運営委員が8月13日、在日三世の元プロレスラ―前田日明氏を訪ねました。病気加療中の御尊父の容態が悪いにもかかわらず、氏は1時間15分も時間をさいてくれました。

二次会をビヤホールで 呉寿龍さんこ夫妻も参加

 8.21集会のあと、御茶ノ水駅近くのビヤホールで二次会が開かれ、20人はどで楽しくもりあがりました。
 これには呉寿龍と、夫人の金初美さんにお孫さん2人もいっしょに加わり、2人の孫娘ちゃんは「おばあさん(金初美さん)から教わった」と「夕焼け小焼け」など日本の歌を日本語でみごとに歌い、大きな拍手をうけました。

12月ソウルで初の民間国際会議 ―中間報告とカンパのお願いー 小川晴久

 去る9月2日ソウルの市民連合代表の尹玄さんからFaxで大略以下のようなソウル国際会議の開催案が送られてきました。

日時:1999年12月1日(水)~3日(金)
主催:北韓人権市民連合、朝鮮日報、高麗大学国際大学院
場所:高麗大学国際大学院国際会議室
日程   12月1日 午後 基調講演 アラン・ブザンソン(仏)
             ブロウンバック上院議員(※交渉中)
12月2日 午前 第一主題発表:政治犯収容所体制の性格
        「主体思想と政治犯収容所の関係」小川晴久
        「ドイツ、旧ソ連、北朝鮮、政治犯収容所の比較」ピエール・リグロ
        「中国労働改造所と北朝鮮政治犯収容所の比較」ハリー・ウー(交渉中)

      午後 第二主題発表:北朝鮮難民/脱北者問題
        「在中国北朝鮮難民の実態と解決策」ヂヤン・ジョン・エ
        「在ロシア北朝鮮難民の実態と解決策」 アムネステイー(交渉中)
        「在東南アジア北朝鮮難民の実態と解決策」タヒル・バビル

12月3日 午後 NGO会議 今日までの活動報告と今後の活動計画
               決議案採択と声明文発表一記者会見
          (注)日程内容に変更の可能性あり

 ソウル大会が具体化する契機となったのは、フランス知識人21名声明の署名者から1人、アメリカから上院議員クラスを1人招いて基調講演をしてもらうという構想を知って韓国の有力日刊紙 朝鮮日報社が主催団体に入ることになったこと、もう一つ最近完成した高麗大学国際大学院の国際会議場のこけら落しに会場を提供してよいという高麗大学国際大学院の協力があったこと、の二つです。
 私が強調したいのは、この国際会議にこぎつけたのは市民連合の力であって、世界で初めて北朝鮮の強制収容所と難民問題で民間のNGOが国際会議を開催するに至ったということです。韓国の民主化が着実に前進していることのあかしでもあります。

 この点を高く評価すると同時に、民間が切り拓いているだけに財政問題を解決しなければなりません。同時通訳料が意外とかさむらしく、これも含め市民連合は守る会に対し応分のカンパを要請してきています。ご協力いただける方は守る会の郵便振替口座(口座番号00140・4・718645)までお願い致します。国際会議と注記下さい。

対北朝鮮政策を見直した米ペリー報告書と人権

1999年
(6月)
『月刊朝鮮』6月号で、韓国の学生組織「救国学生連盟」議長で、親北朝鮮派が主導する韓総連(韓国大学総学生会連合)の理論的リーダーだった金永換(36歳)が、インタビューに答えて「金正日政権打倒」を掲げるに至った経緯を語った。(邦訳は月刊誌『正論』10月号)。金氏は季刊誌『時代精神』をより所に「鋼鉄」のペンネームで、北朝鮮の人権問題を真っ向から批判している。同氏を中心とするグループはこれまで「主体思想派(主思派=チュサバ)」と呼ばれ、主に親北路線で韓国学生運動をり一ドしてきた。

(7月)
26日 朝鮮中央通信によると、北朝鮮外務省スポークスマンは、談話を発表し「われわれは、米国を百年来の宿敵とは見ようとはしないし、米国が共和国の自主権と選択の自由を認め、善意をもって対するならば平等と互恵の原則にのっとり米国と関係を発展させようと思っている」と述べた。

(8月)
7日 南北朝鮮と米中両国との四者協議出席のため、ジュネーブを訪問中の北朝鮮の金桂寛外務次官は「我々にミサイルを撃つなと言うのなら、そうならないように、われわれへの敵視を止めるべきだ」と述べ、ミサイル発射問題では「発射するしないは主権に関する問題であり他国と取引する問題ではない」と述べた。

9日 平壌発新華社電によると、北朝鮮の金鎰喆(キム・イルチョル)人民武力相は8日、訪朝した中国人民解放軍代表団と会談した。中国側団長の羅斌(ラ・ヒン)国防省外事弁公室主任(少将)は、張万年・中央軍事委員会副首席ら中国の軍首脳のメッセージを伝え、「血で固めた」中朝友誼という、最近、中国側では控えてきた表現を織り込んで北朝鮮側の姿勢を評価した。中台関係が反映したものとみられる。

10日 朝鮮中央通信によると、北朝鮮は日朝関係の3原則とする声明を発表した。①日本は対朝鮮圧殺策動を放棄せねばならない。②日本は朝鮮人民に過去のすべての罪業について誠実に謝罪と補償をせねばならない⑨日本が再侵略野望実行のため口実を探し最後の力の対決へと出てきたなら、われわれもそれに相応する対応策を選択するしかないーとしている。 声明は「日本の対朝鮮政策百年発表犯罪史」として日本支配時代の歴史を「血なまぐさい人間虐殺蛮行」「人類歴史の空前絶後で最大の罪悪」と非難。戦時中の徴用動員なども「ら致・強制連行六百万余人」「従軍慰安婦20万人」と数字を羅列。

21日「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」が帰国運動40周年を迎えたのを機に東京・韓国YMCAでシンポジウムを開催した。同会代表の萩原遼氏が朝鮮総連議長の韓徳銖氏の犯罪性を告発したほか、映画「海を渡る友情」が上映され、帰国運動時の光景が再現された。日本海を渡った在日帰国者が地上の楽園ならぬ地獄の暮らしを強いられていたことに、改めて人権改善の必要性を訴えた。

27日 韓国・連合ニュースによると、韓国統計庁の「北朝鮮人口推計」では、北朝鮮の97年の平均寿命は男性が59.8歳、女性が64.5歳で、93年当時に比べて男性が3.8歳、女性が4.8歳それぞれ縮んだことになる。

29日 産経新聞が報じたところによると、全国に32ある北朝鮮系朝銀信用組合のうち、13信組について、各自治体が過去に北への不正送金などがなかったかどうか検査に乗り出した。試算では1兆円規模の公的資金の投入が予測される。

(9月)          
2日 中国の武大偉・駐韓中国大使はソウルで記者会見し、増加する脱北者について「大多数は親せき訪問など通常の往来だ。残っている者がいても彼らは(北では)、政治的制限は受けておらず、難民ではない。国連難民高等弁務官事務所も難民に認定していない」。脱北者は20万人にのぼるといわれているが「これは中国と北朝鮮の問題であり、両国はその処理能力をもっている。問題を複雑にする方法はよくない。第二次世界大戦後の国際関係を変えようとする動きがあるが、国家主権より人権が優先されるといった新干渉主義は警戒しなければならない」と述べた。

4日 産経新聞の報道によると、金正日総書記が98年10月初め、秘密指令を出し、朝鮮労働党中央委員会に在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総達)の改善を行う委員会が設置されていたことが判明した。総連を同胞の利益保護重視に変える試みのもよう。

12日 ベルリンでの北ミサイル発射問題を話し合う米朝高官協議は、今後の交渉縦続、両国関係の改善、北東アジアとアジア・太平洋地域の平和と安全に寄与する肯定的な雰囲気を保持する努力の必要性などで合意した新聞声明を発表し、6日間の日程を終えた。発射停止は明言されなかったが当面の危機は回避された。

15日 韓国・連合ニュースなどが報じたところによると、韓国政府はペリー米政策調整官の対北政策見直し報告書の内容を自国記者団に明らかにした。朝鮮半島問題の解決に向け、中長期的には北朝鮮から核とミサイルの開発計画を中止する確かな保証を得、日韓両国や北朝鮮と協力し、朝鮮半島の冷戦終息を図るべきとしている。「韓国と日本関連」項目では1991年に著名された南北基本合意履行と南北離散家族の再開実現日本人ら致問題解決が必要と指摘。生物・科学兵器問題も多国間の懸案として扱う必要がある一としている。

15日 対北政策を見直す「ペリー報告」が米議会に送られた。米政府、議会とも全容は明らかにせず。

17日 クリントン米大統領が対北朝鮮制裁緩和策を発表した。主な内容は①軍事盈び軍事転用可能な製品を除く、ほとんどの物品の輸出入許可②農業、鉱業、石油、木材、セメント、運輸、社会基盤(道路、港、空港)観光などの分野への投資規制の緩和⑨個人及び商業目的の送金を両国間で認める④空港・船舶の商業運航の許可⑤北朝鮮資産の凍結は継続。 

 ペリー政策調整官(前国防長官)は国務省で記者会見し「暗雲は去った」と述べ、国交正常化を目指す対北政策見直し報告内容の実現に強い自信を示した。①北朝鮮が崩壊するとは考えるべきではなく、むしろ協調していくことが必要②北が核・ミサイル開発を放棄するなら、米国は北朝鮮と国交正常化に進むべき⑨北がミサイル・核を放秦しない場合は、国家の安全を守るための行動を起こさねばならない、などと述べた。

17日 救え/北朝鮮の民衆/緊急行動ネットワーク(RENK)は、国連難民高等弁務官東京事務所に、北朝鮮から中国への越境者による難民認定による人道的な保護を求める書面と約260人の著名を提出。

18日 小渕首相は午前の記者会見で、米国の北朝鮮に対する経済制裁の緩和決定を支持する意向を表明。北のミサイル発射の凍結が確実になれば、日本も北に対する措置を解除する可能性があることを示唆した。

24日 北朝鮮の朝鮮中央通信は、外務省スポークスマン談話として「米朝協議が行われている間はミサイルを発射しない」と伝えた。また、談話は米国の経済制裁解除を「全面的なものではないが、敵視政策をやめ、関係改善に向かおうとする米国の政治的意思の反映として評価する。こうした措置は、朝米間の懸案を協議を通じて解決できるようにする肯定的な雰囲気を整えることになると考える」と歓迎した。

この人にきく 金鉄雄さん(49歳) 運営委員

――金さんのお生まれはどこですか?

金 三重県の津市で、一九五〇年八月三十一日に生まれました。朝鮮戦争の最中でした。父は一世ですが、義理の母は二世です。地元の日本の小、中学を終えました。

――高校のとき、北朝群帰国を考えたと聞きましたが…。

金 日本の定時制高校に通っていたときです。私にとってあまりいい思い出のない学校でしたが、ある日本人の男の教師が、「君は朝鮮人だから朝鮮人の学校に行きなさい。それがいやなら北に帰って社会主義の建設のためにがんばりなさい」と強くすすめました。

――それでどうしました?

金 北朝鮮は社会主義国家ではあるが、まだ国家が存続して支配している。そういうところでは人間抑圧があるから、私は、国家が死滅したら帰国します、と答えました。

――いやな生徒だなあと、その先生は思ったでしょうね。

金 私にとってもいやな教師でしたよ。

――結局、帰国しないことになったのですか。

金 北朝鮮のことは何もわからないし、行って日本に戻ってこれなかった時、どうなるのか、という疑問がありました。

 ――守る会に入ったきっかけは?

金 「統一日報」の、集会案内で守る会を知り、関心をもっていました。一九九五年に開かれた姜哲煥、安赫さんお二人の来日講演会に参加したのがはじめてです。それ以来、一連の学習会に参加しました。いつのまにか守る会の活動家になってしまいました。

 ――帰国者を守る運動については、どうお考えですか?

金 在日の人たちは、日本の植民地にされたという経緯などから準国民待遇を受けるべきだと私は思っているのですが、その人たちがおおぜい祖国の北部に移住して、こんな悲惨な結果になってしまいました。日本人妻や帰国者全員の里帰りを早く実現させてあげたいです。もっと若い人たちが関心をもって活動してほしいと思います。

――そのためには金さんも結婚を考えてもいいのではないでしょうか?
個人的なことをいってすみません。      

金 相手から何も連絡ない…。でも神様からの祝福だけは信じています。

(きき手 萩原 遼)

コッチェビ放浪記(みなし子の浮浪児) 北朝鮮で両親が餓死し、中国に脱出した10歳と8歳の兄妹の物語 (韓国誌「月刊朝鮮」99年9月号より)

 イム・チョルは十歳、妹のイム・ソヨンは八歳。炭鉱技師の父と元芸術団の踊り子だった母の四人暮らし。貧しいけれど幸せな日々だった。チョルは科学者に、ソヨンはアナウンサーになるのが夢だった。
 ところが何年か前からぼくたちの夢が壊れはじめました。家の米とトウモロコシが全部なくなっても、配給所は食糧をくれませんでした。お母さんはぼくたちにトウモロコシ粥を炊いてくれながら、毎日配給所に行って配給を待っていました。十日ほどたってやっと、前に配給されていた量よりもとっても小さな米袋を持って帰ってきました。

 お父さんは炭鉱労働が大変なのもあったけど、あまりちやんと食べられないからいつも元気なく帰ってきました。
 お父さんが友達とお酒を飲むこともすっかりなくなってしまいました。お父さんは家に帰ってきたらただ寝ているだけで、お母さんが山や野原に出て草を摘んでトウモロコシの粉に入れてお粥を炊いたりして苦労していました。お粥を炊くとお父さんとぼく、ソヨンに一杯ずつ食べさせて、お母さんは半分だけ食べていました。それでもぼくとソヨンはあんまりお腹がすかなかったけど、お父さんとお母さんは大人だからなのか、ぜんぜん元気がなくていつも憂鬱な表情をしていました。

 ぼくより小さなソヨンはそんなことも気付かずに、幼稚園から帰ってくるといつまでもぺちやくちゃとしやべっていました。幼稚園で習った踊りを踊ったり、歌を歌ったりしながら家中をうるさくしていました。お父さんとお母さんは無邪気なソヨンの踊りと歌を見ながら、前はいっしょに歌も歌って踊りも踊ったのにと、ただ笑うだけでした。 

 朝に幼稚園に行く時になるとこソヨンはお母さんにおやつを作ってほしいとねだりました。お母さんは前のように小麦粉やトウモロコシのチヂミを焼けずに、家で食べている草にトウモロコシの粉を入れて臼でついた草餅を毎日二つずつ新聞紙に包んでくれました。
 それでもソヨンは喜びました。他の子供たちはおやつを持ってこれないのに、自分は毎日持っていける、「うちのお母さんがいちばん」と言って自慢しました。

 その後、配給所があまりにも配給をくれないから、お父さんは仕事に行けずにお母さんといっしょに草を摘みにいくようになりました。夕方暗くなっても帰ってこないお父さんとお母さんを待っている時、ぼくはソヨンといっしょに茹でておいた草を固く絞って、少しずつ噛みながら家の外で待ち続けました。

 こんな日が多かったけど、お父さんもお母さんも死んでしまった今になって考えると、あの時が本当に懐かしいです。お父さんとお母さんが草をいっぱいに入れた背のうを背負って家の前に現れると、ぼくとソヨンはとても嬉しくてぴょんぴょんぶら下がりました。

 「お腹がすいたろう」と言って、お母さんは台所でトウモロコシの粉をまぜて、お父さんは臼を持って、その横に座って「トン、トン」と餅をついていました。餅をついたお父さんが、不器用な手で餅をちぎってぼくとソヨンの口に次々と入れてくれたのが、なぜあんなにおいしかったのかわかりません。

 ところがその時、お父さんは職場でものすごく叱られることになりました。お母さんと一緒に草を摘みに出かけて、仕事に行けなかったからです。職場から人が迎えにきたのに仕事に来なかったといって、家の前に引きずりだした後、ひどく殴りました。お母さんが泣きながらその人たちを止めて、やっとお父さんは殴られなくなりました。

 ぼくは小さかったけどあまりにも腹がたって、お父さんを殴った人たちを睨みつけて、そのうちの一人の顔をはっきりと覚えました。ぼくのクラスにいるキョンマンの叔父さんだったんだけど、ぼくは絶対に復讐しようと決心しました。そして数日後にゴム鉄砲を作って夜にその人の家に行って、二枚の窓ガラスを撃って粉々に壊して逃げました。

 お父さんは職場に引っぱられていって、ものすごく叱られてきました。その次の日からはお母さんが一人で草を摘みに出かけて、お父さんは職場に出勤しました。お父さんは仕事から帰ってくる時、いつも重い石炭の入った背のうを持ってきて、ぼくたちはそれを使ってお粥や草餅を作って食べました。

 台所のかまどにくべる石炭は無煙炭でしたが、真っ黒な粉炭でした。手のひらにつくとちやんと消えません。

 家族で草粥だけを食べ続けていたら、ぼくとソヨン、お父さんやお母さんみんなすっかりやせてしまいました。お父さんは顔に頬骨がくっきりとびでて、お母さんは目が谷間のように落ちくぼんでしまいました。ぽっちやりしていたソヨンの顔と手は、おばあちやんみたいに細く棒みたいになり、ぼくの足も細くなって気力もなくなってすぐに地べたに座り込みたくなりました。
 お父さん、お母さんはぼくたちを食べさせようとして、家中にあるたんすやミシン、新しい布団も売ってお米と替えました。前は明るかった家の中は、かけ布団だけが部屋の隅に置かれていてなんにもなくなり荒れはててしまいました。いま、あるおじさんの質問に答えながら、ぼくが絶対に言いたいことは、お父さん、お母さんがいた時、ぼくの家族はどんなに良かったか知らないだろうということです。

 中国でいま食べている米のご飯も、お父さん、お母さんが茶わんに盛ってくれた草粥よりもおいしくはないです。僕の家は一間で、お父さんとお母さんが真ん中で、その横にぼくと妹が寝ていたけど、いまは蹴ってしまった布団をかぶせてくれるお父さん、お母さんはいません。

 眠っている時に夢で目が覚めると、いつも妹しかぼくのとなりにいなくて、「ぼくがこれからはお父さん、お母さんなんだ」と考えて、妹の布団もしっかりかぶせてあげたりします。 ぼくの妹のソヨンも、夜おしっこをしたくて起きてから布団に入る時、ぼくに布団をかぶせてくれるんだけど、小さな子がお母さんみたいで、そんな時は妹にわからないように布団の中で泣いたりします。(続く)

(訳 金永玉)

第9回関西支部講座のご案内 済州島蜂起、朝鮮戦争、そして朝鮮総連を生きた私の半生から今考えること

講師 守る会共同代表 金民柱

日時 1999年10月17日(日) 午後2時~5時

場所 大阪経済大学  G館 G33教室

    大阪市東淀川区大隈2-2一8

    阪急京都線 上新庄駅下車 徒歩10分

大阪市バス 井高野車庫行き 大阪経大前下車すぐ(便利です)

(大阪駅前、扇町、天神橋筋五丁目、天神橋筋六丁目などで乗車できます。)

(資料)大ゆれの朝鮮総連指導部 本国からもきびしい批判

 帰国者・日本人妻が北朝群で苦しんでいるのにそ知らぬ顔の朝鮮総連がいま大揺れに揺れています。本国からも政治闘争はやめてもっと同胞に顔を向けた活動をせよとさびしく批判されるありさまです。金正日政権の引き回しの結果、ゆきづまったもので、自業自得ですが、重要な動きなので資料として紹介します。(カルメギ編集部)

毎日新聞 1999年(平成11年)8月4日 総連、政治より互助活動を金正日総書記が指示 「北」追随批判、組織防衛図る

 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の金正日総書記が、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)に対し、北朝鮮追随の政治活動を改めて、在日朝鮮人の互助組織としての活動に重点を移すよう指示していたことが3日、明らかになった。従来の方針を大転換させる改革案て、朝鮮労働党担当者の頭越しに指示を伝達するのも異例だ。総連関係者によると、一般の在日朝鮮人の間では、この指示は好意をもって受け止められているという。

 在京の日朝関係筋などによると金総書記は四月下旬、総連の徐万述第1副議長と平壌で会談した際、指示を伝えた。
 金総書記はこの中て、韓国籍や日本国籍を取得する人が続出して衰退する総連の現状に強い不満を表明し、組織防衛のため「在日同胞のための活動」に重点を移すことを指示。「(金総書記自身から)批判を受けるくらいの改革」を提案するよう求めたという。
 北朝鮮に盲従する総連の姿勢に対しても「(総連機関紙の)朝鮮新報は、いつミニ労働新聞になったのか」と強く批判した。
 同時に、「在日同胞としての立場を有効に活用しなければならない」と語った。
 金総書記は、また、日朝国交正常化が実現すれば日本から100億㌦の正常化資金を獲得できるのて、日朝正常化は重要だと指摘。総連は、そのための道筋を作るため、本国の日本批判に盲従せず、調整役を務めることを求めたという。    【澤田 克己】

1999年(平成11年8月6日) 毎日新聞 論説ノート 総書記の指示を公にせよ 朝鮮総連

 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の金正日総書記が、今年4月末に在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)に、日本の社会での在日朝鮮人の共生を強調し、教育や金融機関などの改革を指示していた事実が明らかにされた。この報道に歓迎の声を寄せた在日朝鮮人は少なくなかった。

 朝鮮総連関係著や平壌に近い筋によると、金正日総書記は朝鮮総連の徐方述第1副議長と単独で会見し、朝鮮総連が自身の指示をないがしろにしてきたことを批判したという。
 会談には、朝鮮総連担当とされる金容淳書記と姜柱一労勧党部長は同席を認められなかった。これまでは必ず同席していた2人がはずされたのは異例である。

 朝鮮総連の改革について、金正日総書記は次のように語ったといわれる。

▼学校の教室ごとに金正日総書記と金日成主席の写真を飾る必要はない。職員室にあればいいではないか。生徒にチマチョゴリでの登校を強要する必要はない。
▼北朝鮮が日本政府を批判するときに、総連も同じように日本を批判する必要はない。むしろ北朝鮮と日本の間に立って、関係をよくするように努力すべきだ。
▼日本にいながら、私(金正日総書記)から批判を受けるくらいの改革がどうしてできないのか。総連の改革については、すでに1986年に指示を出したはずだ。
▼日朝正常化は、北朝鮮にとって非常に重要だ。日本との友好親善の道筋をつけるのが、祖国に対する貢献である。
▼「朝銀」(在日朝鮮人の信用組合、経営危機に直面)問題は、ウミを出し不正を正せば日本政府も対応してくれるはずだ。
▼私にウソの報告をあげていたことは知っている。党の幹部も、正直な報告をしなかった。私は、それを検証できるルートを日本に持っている。

 朝鮮総連の「正直さに欠ける」態度については、多くの思い出がある。毎日新聞が、北朝鮮の経済困難を初めて報じた70年代中ごろには「そんな事実はない」との組織的な抗議が押し寄せた。一昨年、「朝銀」の経営危機を報じた際にも「そんなことはない」と連日抗議に来た。しかし、その後の経過は報道が間違いなかった事実を証明した。
 こうしたことが重なると「朝鮮人は正直さに欠ける」との感情が広がりかねないのである。
 だが、ワシントン特派員時代に出会った北朝鮮の許鍾次席国連大使は、韓国での友人と同じく決してウソをつかない正直な外交官だった。私は改めて、朝鮮人への敬意を抱いた。

 金正日総書記の指示は、北朝鮮の統治方法をそのまま日本社会に持ち込むやり方は間違いであるという考えである。北朝鮮への絶対的な服従が、日本の社会ではむしろ新鮮人への評価を失わせているとの判断である。
 金正日書記の指示の全容は、まだ明らかにされていない。

資料 朝鮮総連内部からも意見書

 「関東地方同胞有志」などの名で朗鮮総連に提出されたハングル「意見書」全文の日本語訳は次の通り。

在日本朝鮮人総連合会 中央常任委員会
韓徳銖議長あて
意 見 書

 今日世界は、二十一世紀に向かって国際的な視野で思考し行動することを要求しています。一国の範囲で保障される平和も、繁栄も、地球環境もありません。
 われわれ在日同胞は国家相互間の平和的な環境においてのみ生活の安定を維持することができます。

 ところで昨年八月、共和国で〈人工衝星〉が発射された後、われわれはかつてない困難を経験しています。また、再発射の可能性が報道されてから、事業と生活においては厳然と巨大な混乱と障害が造成されています。

 こうした状況においてわれわれは自らの立場と見解を明らかにし、われわれの運命を左右する問題に対する組織の見解を聞くため、この意見害を上げる次第です。

1、〈人工衝星〉発射に関連して
 われわれは核兵器をはじめとする武力に、武力をもって問題解決をみようとする共和国の姿勢に、憂慮を禁じられずにいます。
 われわれは代を次いで日本で暮らしており、今後も暮らさなければなりません。在日同胞が住む日本に向かって<ミサイル>を発射するということが事実なら、われわれは断固としてそれに反対するでしょう。
 われわれは今日まで祖国と組織を信じて生きてきた人間です。その有り難さを誰よりもよく知るがゆえに、祖国と組織のための仕事に心血を傾けてきました。ために血と汗を流して集めた金も組織に捧げ、民族教育を守るためにはだしになって取り組み、日本人との事業を粘り強く繰り広げてきました。
 半世紹にわたって積み上げたこうしたすべての成果が、一朝にして水の泡となってしまう深刻な事態は、決っしてわれわれが望むところではありません。

 共和国が自主権を行使して<ミサイル>を発射するのであれば、われわれは学校事業をはじめとするすベての総連事業から手を引くという悲しい選択をしなければならないでしょう。

 われわれは、わが総連組織が最後までわが在日同胞を守ってくれる組織であることを固く信じます。

2、1999年8月4日毎日新聞報道に関連して
 われわれは総連組緑に網羅された人間として、在日同胞の行くべき道を左右する重大な問題を、日本の新聞紙上で初めて知ることになった、この現実に衝撃を受けています。

まず、1、この報道は事実ですか?
2、事実なら、なぜわれわれはそれを知ることができずにいるのですか?
3、その改革案が事実であるなら、組織の立場は何であり、具体的な方途は準備されているのですか?
 われわれは、これに関する明確な答えを聞きたいのです。

 われわれは一世同胞たちの意を縦ぎ、同胞社会を揺監(ゆりかご)として生きてぎました。われわれはどんなことがあっても、子女たちに民族教育の広場を保障してやらなければなりません。彼らには真の自由と平和が約束された未来を譲り渡さなけれはなりません。

 われわれにとって最も恐るべきことは、困難な現実ではなく、われわれ内部に造成された不信感と分裂の危機です。これを一つの心、一つの意思をもって打破するために、誠意のある迅速な対処を心から望みます。

資料 「2000年第2次朝鮮戦争」 (著 朴甲東氏) 掲載了解済み

 それから、彼は私に一枚のリストを見せた (次ページ)。
 私は目を疑った。それは在日同胞の貴重な寄附金で建てた幼稚園、小学校、中学校、高等学校、それに朝鮮大学校、出版会棺、朝鮮新報社まで担保にして、朝鮮総連が総額六百九十二億円を借り入れしていることを示すものだった。これはピョンヤンの指示なしにはできないことである。
 この金はどこへ消えたのであろうか。これを見る限り、朝鮮総連傘下の不動産は形骸だけで、中味はすでにどこかへ消えてしまっているのである。
 本国の意向一つで総連の財産などいかようにでもできるのは、ひとつには北朝鮮の船舶が自由に日本に寄航しているからである。

はじめての外国・韓国・ハングギダ!韓国歴史探索ツアーに参加して 武田裕司(関西支部)

 今回、ひょんな事から韓国に行くことになりました。ドキュメント作家・萩原遼氏は「ソウルには何十回と行ったが、ほとんど取材でろくに観光もしたことがない」そうで、はじめて会ったその日に「一緒に行こう」と誘われ、職場で組合活動をいっしょにやっているKさん、Hさんも、萩原氏の本を読んでいたので二つ返事でOKという運びとなりました。

 「言葉も分からないし、外国で迷子になったら、ホテルに帰れるかどうか心配だ。」という私の不安に対して、氏日く「大丈夫、ダイジョウブ。朝鮮問題の専門家がたくさん行くのだから」と。当日、関西空港へ集合したのは、私の職場の3人と萩原氏とその友人・Yさんの5人だけ。「たくさんのの専門家はどうしたんだろう」と思いながら、プサン観光ホテルに着くと、そこには若き日の萩原氏「憧れの人」鄭早苗先生(大谷大学教授)と、今回はじめて里帰りする在日のKさん2人が出迎えてくれたのでした。

 はじめて行った外国でしたが、韓国の景色・歴史・風土に私は「ほとんど何も感じなかった」というのが率直な気持ちです。同じような顔をした人がいて、田舎の風景も街並みもほとんど日本とそっくりなのですから。では「つまらなかったのか?」というと、とんでもない、アッという間に過ぎ去った、楽しい旅行だったのです。

 とにかく、食べ物がおいしい。食卓には山のように料理が出て、みんな柿色調の同じような色をしているのですが、唐辛子味噌をつけて食べると辛いのやら甘いのやら分からないなんとも言えない味がして、特に野菜はおいしく「なんぼでも食べられる」のでした。これでは「韓国の歴史探索ツアー」が「韓国肥満ツアー」になりそうな気配です。

 「食う」こと以外に興味を持ったのは、通訳のガイド嬢です。最初の3日間は“播さん”という八代亜紀そっくりのお姉さんで、大阪弁が分からなくて苦労した彼女は、福岡放送の「ダウンタウン」の番組で大阪弁をマスターしたという、その名の通りジョークもバンパン飛ばす身長172センチの大柄で粋なお姉さんでした。

 後の2日間のガイド嬢は、本で日本語を覚え、NHKのBS放送を聞いて勉強した“金さん”という小柄なお姉さんです。この人の日本語はまったく韓国なまりがなく、きれいな標準語で、私たちがいかに乱れた日本語をしやべっているかを実感させられるほどすごくリッパな日本語なのです。そうなると運転手さんとしゃべる韓国語までもやたら美しく聞こえてくるので、そんなことから私は韓国語に興味を感じるようになりました。

  プサンから慶州、安東、なんとか温泉からソウルに行き、その間、民俗村や歴史博物館、おっぱいを連想させる古墳群、独立記念館などを見学。マイクロバスの中では韓国古代史の専門家、鄭先生が講義をして下さいましたが、私がすぐに、チヤチヤを入れるので話があっちに飛んだり、つまづいたりで、あまり身につきませんでしたが、先生の眼鏡からひかる瞳がとても可愛く、笑顔が素敵だったというのが講義の感想であります。

 韓国旅行から帰ってきて、私はさっそく本屋に出かけました。『金さんのはじめての韓国語』(飛鳥出版社)を買い、1時間かかる自転車通勤の間にテープを繰り返し聞き、発音し続けたのです。だんだん面白くなってきて、『アンニヨンハシムニカ ハングル講座』のテレビも見てテキストを読んでいます。

 「高校時代、英語がなかったら俺の人生はもっと明るいはずだった」と、外国語にコンプレックスと敵意を持っていた私ですが、いまではトイレの中でもハングルを唸なっています。

 こうした毎日が2ケ月ほど続き、(とはいっても、「学校までは、時間どれくらいかかりますか」ハツキョカージ シガニ オルマナ コリョヨなどという、取るに足らない内容ですが)ぜんぜん意味がわからなくても、ハングルを追いかけて、とにかく発音しているとなんとなく韓国の風景などが思い出されてきて、旅行しているような気分になるから不思議なものです。しばらくこの病気は続きそうです。(編集部注・見出しのハングギダは韓国だの意)

7月24日東京学習会報告 主体思想の評価について  小川晴久

 私の報告の趣旨は、いわゆるチュチェ(主体)思想を1966年8月の大論文「自主性を擁護しよう」(労働新聞)以前とそれ以後にわけ、前者を自主性の思想、後者を唯一思想体系とし、後者は金日成神格化(隷従)と強制収容所体制の思想、前者は自主性(小国としての、また民族としての生きている思想であることを論証することにあった。

 私は20代後半(大学院生時代)に読んだ前記論文「自主性を擁護しよう」を忘れることはできない。今でもある感銘をもって、私の記憶に焼きついている。今回久しぶりに読みかえしてみたのであるが、私の心の記憶は根拠のあるものであった。論文の見出しを列挙するだけでも感じとっていただけるであろう。

一、自分の頭で考えなければならない。

二、自分の力を信じるべきである。

三、マルクス・レーニン主義は行動の指針である。

四、他人の経験を機械的にまねてはならない。

五、民族的誇りをもたなければならない。

六、自主的民族経済は自主性の物質的基礎である。

七、たがいに自主性を尊重すべきである。

八、自主性を堅持しながら反帝共同闘争を強化しよう。

 「共産主義者は思想的にだれにもしばられてはならない。思想的に他人にしばられては、自分の頭で考え、独自的に行動することができない。また、自分の考えでもって生きるべきであり、確固とした主体性の意識をもたなければならない。共産主義者はけっして他人の笛に踊ってはならない。」(第一節より)

 第一節からのこの引用を読んだだけでも、金日成の思想だけを知ればよいという後の唯一思想体系とは異質も異質の思想であることがわかる。大国主義のソ連と中国の両者の激しい論争の中で懸命に生きる小国朝鮮の労働党が、自主性を命としていた態度が鮮やかに伝わってくるし、後のチュチェ思想(唯一思想体系)のような尊大な態度はない。あくまでもマルクス・レーニン主義に忠実であった時期のものである。

 自分の頭で考えなければならないという主張が私の記憶の中に生き続けていたのであるが、今回注目したのは、第五の「民族的誇りを持たなければならない」のくだりであった。「祖国愛と民族的誇りがあってこそ、国の繁栄と人民の幸福のためによりよくたたかうことができる」とのべたあと、そのためには「自分の国の歴史とすぐれた伝統をよく知るべき」であることが強調されていた。

 ここに云う自国の歴史とすぐれた伝統とは、朝鮮の全歴史にわたるのであって、金日成のパルチザン闘争のみを「革命的伝統」とみる狭い立場ではない。1960年に世に出て、1962年に日本語版の出た『朝鮮哲学史』や、1963年に出て、1966年に日本語版の出た『朝鮮文化史』(上下の大冊)はそのすぐれた成果である。私は今回この方針が1955年12月28日の金日成演説「思想活動において教条主義と形式主義を一掃し、主体性を確立するために」の冒頭に出ていることを知って、ますます1966年の8月までと1967年6月以降をハッキリ分ける必要を感じ、そのことを強調した。階級闘争やプロ独裁の強調は1966年8月論文にも共通していることに注意すべきではあるが。 〔東京学習会報告(その1)は前号に掲載〕

お知らせ 『北朝鮮泣いている女たち』(KKベストセラーズ) 著者 初来日講演会 李順玉(イースンオク)さん・崔東哲(チェドンチョル)さん親子 北朝鮮の人権と女子刑務所の実態を語る

東京講演 11月20日(土)午後1時半
   労働スクェア東京ホール  TEL-03(5552)9131
   日比谷線八丁堀駅A3出口

大阪講演 11月21日(日)午後2時
   大阪中小企業文化会館  TELO6(6771)4096
   千日前線谷町九丁目駅下車

問い合わせ:李順玉さん招請実行委員会
 千葉県船橋市前原西一~―~二五~二〇一
 〇四七(四七ニ)二七五六(李洋秀)

 大阪府八尾市西山本町七~六~二四
 〇七二九(九〇)二八八七(山田文明)
 〇九〇八(五一二)七六一○(三浦)まで

李順玉さん講演会は皆様方のご寄付によって運営されております。寄付金の宛て先は、
(一口五〇〇〇円より)
郵便振替00lOO(7)141323   李順玉さん招請実行委員会まで。

北朝鮮 泣いている女たち―价川女子刑務所の2000日』李順玉著

編集後記

★ひどい暑さが続きましたが、さすがに朝晩は涼しい風が吹くようになりました。会員のみな様、お変わりありませんか。

★今号は、8月21日におこなわれた帰国運動40周年の映画と講演を中心にしました。10月23日の第2弾もご支援下さい。

★パソコン入力に強力な助っ人が現れました。慶應大学院生のⅠ君。また翻訳に金永玉さんが加わってくれました。心強いヤングパワーです。 (遼)

★北朝鮮に関するニュースは今もマスコミにとびかっていますが、その多くは、テポドンの発射の有無など、軍事に関する話題や、米朝合意の評価や進展の具合等、外交・情勢分析がほとんどです。今、飢蛾と人権抑制に苦しむ帰国者と北朝鮮国民の姿をこそ、私達はこれからも訴えていきたいと思います。  (三浦)