かるめぎ No.32 2000.04.01

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会報『かるめぎ』の過去号を、旧サイトから、順次こちらにアップしていきます。この機会に、過去の『かるめぎ』を通して、守る会の歩みを知っていただければ幸いです。

(旧サイトより転載:http://hrnk.trycomp.net/archive/karu32go.htm)

第6回総会を大きく成功させよう 4月9日 東京で

 「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」の第8回総会が4月9日午後飯田橋で開かれます。1994年以来丸6年の年輪を重ねて、ことしはますます着実な成長をとげつつあります。

 ことしは新たに名古屋の会員を中心に東海支部が4月2日に発足します。これに励まされて四国支部や東北支部、九州支部も生まれそうな状況です。愛媛の会員の福本正樹さんの協力で会報「カルメギ」がホームページで見られることになりました。3月現在のアクセスは約1万件で、インターネットを通じて「守る会」の影響は広がっています。

 ソウル留学中の大学院生の東昇平さんが、「守る会」のソウル駐在員を引き受けてくれました。

 日朝国交正常化交渉も4月から始まります。日本人妻の里帰りや拉致された日本人の原状回復なども議題にのぼっています。在日朝鮮人帰国者の自由往来要求もこの機会をとらえて強く求めていくことが、今年の大きな課題です。

 金正日政権の軍事優先政策が多数の餓死者や難民を生じさせており、不満を言っただけで強制収容所にいれられ、中国に脱出した人もまるで動物のように捕らえられ国内に引きたてられ、過酷な処罰を受ける人権の無法地帯の北朝鮮の情勢をみつめつつ「守る会」をいっそう大きく強くしていくために、会員の皆さん、総会にご参加下さい。

日時:2000年4月9日(日)午後1時―5時
場所:シニアアワーク東京 セミナー室1号
東京都千代田区飯田橋3-10-3
TEL(03)5211-2307
最寄駅 JR中央線飯田橋駅 徒歩7分
地下鉄飯田橋駅 徒歩7分(東西線、有楽町線、南北線)

「守る会」7年目のいま思うこと 共同代表 萩原 遼

ペリー報告への怒り

 昨年10年12日に発表されたクリントン政権の、対北朝鮮政策、いわゆる「ペリー報告」を読んで驚くとともに、あらたな怒りがこみ上げてきました。

 金正日政権は倒さないことにした、この政権はこれからも存続する、故に金正日を交渉相手とせざるを得ない、かいつまんでいえばこんなことをいっています。

 これではまるで“国体護持”を保障してやったものではないか!300万人を餓死させた殺人政権、ミサイルと核で周囲をおどかしながら貢物をもってこさせる恐喝政権、こんな政権に非難どころか、これから食糧・重油などを与えて支えていくというのです。

 アメリカがこうした政策をとる以上、金正日政権はまだ相当長持ちするだろう、私たちの運動も相当の長期戦となり、腹をすえて取りくまざるをえなくなったなあ、というのがその時の感想でした。

アメリカはおびえている

 この弱腰ともみえるアメリカの政策はなぜなのか?イラク空爆やユーゴ空爆のようになんでも武力でのりだしてくるアメリカが、北朝鮮にたいしては妙におよび腰です。この理由はいくつかあるでしようが、以前から私は、対ソ脅威論にかわる対北朝鮮脅威論が必要だ、だからアメリカは本気で北をつぶすようなことはしないだろうと考えていました。

 しかしペリー報告に接して、それだけではない、アメリカは本気で北朝鮮を怖がっているという印象を持ちました。金正日の特攻機的自殺攻撃におびえている、おびえの焦点は3万7千人の在韓米軍の存在である、という考えに傾きはじめています。直接アメリカの各界を取材してみないとたしかなことはいえませんが、いまの段階の私の仮説です。

 米地上軍のいる竜山基地はソウルのどまん中にあります。北側のスカツド・ミサイル基地の新渓から72秒でミサイルの雨が降りそそぎます。瞬時に3万7千人の米軍は消えてしまう。もしそうなればベトナム戦争に匹敵する大損害です。

 当然米軍は反撃し、北もめちゃくちやにやられるでしょうが、どちらが持ちこたえられるかとなると、穴居民族のように朝鮮戦争後50年間トンネルばかり掘ってきた北の方が有利です。韓国の人口4千5百万人のうち2千万人がソウルとその周辺の首都圏に住んでいます。地震のない韓国は耐震構造でない高層ビルが立ち並んでおり、変電所、原子力発電所、水道などのライフラインも集中しています。もし北の自殺的攻撃があれば、たちまち2~3百万人の死傷者がでると、アメリカと韓国も認めています。        

太陽政策は、ご機嫌とりに変質?

 この米韓のおびえがペリー報告を生み出したのではないか、というのが私の考えです。もしそうなら、いまの状況もうなづけるのです。というのは、この一月未に私の翻訳で出た黄長樺氏の二冊日の本『狂犬におびえるな』のために昨年黄氏と数回ソウルで会いました。そのたびに韓国政府の態度がどんどん悪くなっているのです。この私の一文も当然すぐ関係者も読むでしょうから、それを意識してあえていいますが、黄氏の言論を抑えこもうとしているのです。

 黄氏は、宥和ばかりを主張して結局ヒトラーの侵略を許した当時のヨーロッパ各国の例をあげて、たんなる平和のもの乞いをきびしく戒めています。これがいまの韓国政府は気にいらないのでしょう。

 黄氏の本を日本で出版するための出版契約書にサインをもらうため昨年6月ソウルに行き、政府関係の建物の中で黄氏に会いました。政府関係者ははじめから遠慮して別室に引き揚げていました。

 契約書を黄氏に渡した時、別室から係りの者がさっととびだして来て「それは待ってください」というのです。このタイミングのよさ。瞬間に私はピョンヤン特派員時代の悪夢を思い出しました。さすが同じ民族だなあ、やることは同じだなあと。

 黄氏は係りの者になぜだと尋ね、二言、三言やり取りする中で「生意気なことをいうなッ」と私の目の前で50歳位の男性を叱りつけました。これが昨年の6月です。

 「出版は市民としての権利である」というのが黄氏の持論です。私と同じ考えです。妨害する権利など誰にもありません。本は出版されました。

 巻末に私の黄氏へのインタビューをつける予定で、昨年12月にまた訪韓しました。しかし黄氏の口はいっそう重くなっていました。インタビューはできたものの、会見記は結局掲載できませんでした。

 太陽政策とは、戦争によらず平和的に相手を変質させて目的をとげる政策だといわれています。誰も反対できない結構な政策です。しかしこれが、運用しだいでは、相手のご機嫌とりの土下座政策になる側面を持っています。いまの金大中政権の下僚たちは、どうやらそちらの方に重きをおいているようです。ペリー報告がそれにいっそう拍車をかけています。

黄長燁氏の主張に理あり

 黄氏の主張も広い意味では太陽政策です。戦争にたよらず平和的に北を改革・開放に導くことを主張しています。

 韓国政府とどこが違うのか。北の人民の覚醒をうながし、かれらの力で改革・開放をやりとげるというのが黄氏の主張ですが、韓国政府にはその視点がほとんどない。

 食糧支援をするときでも北の人民にははっきりと、南の同胞からの贈物だとわかるように板門店を通って陸路で運べと黄氏はいっています。

 しかしやらない。金剛山観光に9億ドルの金が金正日政権に渡るそうですが、ドルではなく韓国のウォン貨で渡せばよい。そうすると韓国の物資の購入に当てられるから、結果的には韓国の情報が密閉された北の人民にも届く。
 これは別の人の主張ですが、黄氏の考えと同じく、北の人民の目覚めを促すという立場に立っています。遠いようでも、これしかないと私も思います。

粘り強く帰国者、日本人妻、北の人民との連帯を

 北の人民の覚醒をうながし、かれらの力で金正日政権を倒し、改革・開放に道を開くために守る会のこれからの活動は大きな分野が開かれています。あらゆるルートで北の人たちに情報を届けること、かれらを励ますこと、物心両面で支援することなどです。

 そのために10万人の帰国者(いまでは三世の時代で五十万人ともいわれています)をもつ在日の家族の役割はたいへん大きいと思います。年間一万人の在日朝鮮人が北を往復しています。在日朝鮮総連を支えている朝鮮人はこの日本に住んでいます。

 いくらでも働きかけは可能です。帰国者・日本人妻とかかわりのあった日本人は百万人単位で住み、いまもなんらかの関心をいだいています。

 「帰国者の運動には発展性がない」という意見もありますが、私の考えは逆です。大いなる発展の余地があります。紙数のつごうでここではふれませんが。

 私がいま鼓舞されている動きは、年間二百万人という韓国への観光客です。またNHKのハングル講座の視聴者が二十万人。60年代、70年代を思えば隔世の観があります。これらの人たちは朝鮮半島を身近に感じ、なんらかの意識の変化があるはずです。北の実情に目を向ける人も出てくるでしょう。

 もうひとつはインターネットの急速な普及です。「守る会」のホームページに一万人以上の人たちが接しています。またインターネットを通じた友人グループが「守る会」に入って大きな活躍をしています。これらの人々を中国語で「網友(マンユー)」というようですが、このマンユーをどんどん広げていけば、きっとよい結果が生まれると思います。

 こうした力を組み合わせていければ、私たちの活動もかならず北の凍土に伝わり、春風となって新しい芽ぐみをもたらすと思います。

帰国者とその後 ~安否調査に向けての提案

 在北朝鮮被爆者の支援が日朝政府間で話し合われようとしています。その人数はこれまでに分かっているだけでも約1,300人です。これら被爆者の実態調査を日本政府も提案しています。

 1959年以降の帰国事業での帰国かどうかは別にして、この人たちはもちろん帰国者です。帰国事業で帰国した人数が約9万人。この9万人の帰国者のその後の実情についての全体像の報告は、北朝鮮政府はもとより、朝鮮総連からも日本政府や日赤からも出されていません。

 一部が在日の家族や北を脱出した人たちの証言などにより次第に明らかになってきていますが、まだ行方不明者もたくさんあります。

 「守る会」ではかねてから証言者運動による追跡調査をすすめ、日赤にその実態調査を依頼していますが、これまでに納得できる返事はありません。「みんな元気に、楽しく暮らしています」というような隔靴掻痒にもならない、木で鼻をくくったような返事がかえってくるだけでした。

 確かな情報と言えば、わずかに公に一時帰国が認められたごくごく一部の日本人妻についてだけです。

 その余の約6千人と言われる日本人妻はもとより、朝鮮籍の帰国者についての安否調査には未だに手がつけられていません。

 「守る会」では、帰国者のその後についての調査をすすめる運動を、独自に推し進めています。とはいえ、一民間団体が9万人にも及ぶ人たちの調査をすすめることなど不可能なことです。ましてや二世、三世の性代となっているなかでこの9万人にのぼる帰国者のその後を正確に知るなどということは不可能です。

 しかし、不可能と言って取りかからない限りこの9万人の人たちの足跡は歴史の闇の中に埋もれていくことになります。この空白を埋めるために、
 ①数は少ないですが、脱北者の証言や手記
 ②脱北帰国者の手記 
 ③帰国者からの手紙
 ④親族訪問者の情報
などで少しでも足跡を明らかにする作業にとりかかるほか手はなさそうです。
 それはまさに沙漠の砂を手の平ですくうに等しい作業ですが、しかし始めなければ足跡は砂の中に消えていくだけです。

 そんなことで「守る会」としては、このたびの「カルメギ」で再度この問題を提起し、日本と北朝鮮政府当局・赤十字に求めるとともに、会員や読者のみなさまからもご意見や情報を求める作業を始めることになりました。その調査項目としては例えば、
①帰国者氏名
②性別
③年齢、生年月日
④現住所
⑤朝鮮での本籍
⑥現在の職業
⑦帰国年月日
⑧帰国船便(第○○次船)
⑨日本での居住地、職業など
⑩帰国後の住所の変遷 
⑪帰国後の職業の変遷
⑫既に死亡した湯合には死亡年月日
⑬現在の家族関係
⑭帰国した家族・親族の消息

などがのぼっています。このうち⑩や⑪や⑫は個人のプライバシーにかかわり、取り扱いには厳重な注意が必要です。信頼だけがこの作業を成功させるでしょう。もちろん匿名でも可でしょう。

 いずれにしても9万人以上にのぼる帰国者の足跡を辿り、歴史の空白を埋める作業は読者の方々の協力なしには成功できません。どうかご意見、情報を「守る会」あてにお寄せください。(この提案の稿は、運営委員会の決定をもとに何人かの委員でまとめたものです。佐倉記)

朝鮮総連中央の唖然とする帰国事業観 -1999.12.13朝鮮新報の社説を知って- 共同代表 小川晴久

 今年最初の「守る会」の運営委員会で、共同代表の金民柱さんから帰国事業40周年を迎えた朝鮮総連の新聞「朝鮮新報」の社説を紹介され、一読して空いた口がふさがらなかった。末尾の一段である。一言どうしても言わなければならない。


「朝鮮新報」社説 母の国への帰国実現 1999.12.13

 明日14日は在日同胞たちの朝鮮民主主義人民共和国への帰国の道が開かれたときより40周年となる意義深い日だ。1959年12月14日に第一次帰国船があらゆる困難に打ちかち、新潟港を出航したのである。

 日帝植民地時期に日本に強制労働、強制徴用で引っぱられてくるか、生きる道を求めて海を渡った朝鮮人たちは200万人を数えた。彼らは祖国が解放されるや大部分が朝鮮に帰った。
 しかしアメリカの南朝鮮強占(軍事占領一訳注)を主たる理由とする祖国の政治的、経済的混乱などで帰国を考慮していたが、1950年に起きた朝鮮戦争によって帰国の道が完全に断たれてしまった。日本に残った同胞たちは虐待と蔑視、差別と虐待をたえず受けていたのみならず、この上なく甚しい生活苦にあえいでいた。

 当時は同胞たちの70%は慢性的な失業状態にあって、仕事があったとしても、日本人がいやがる苦しい肉体労働以外になかった。貧困をものともせず子供たちを勉強させたものの迎えてくれる職場などないなど、在日同胞たちの前途は実に索莫たるものだった。

 そのような中で驚くべき速度で復旧建設がなされていく北半部の様子を聞いた同胞たちは、アメリカの植民地として苦しみ、ひきつづき混乱状態にあった南朝鮮ではなく、北半部に帰国しようと、当時首相であられた金日成主席に直接手紙を送り、日本当局に強力な要請運動を展開した。その結果多くの困難と紆余曲折があったが、人道主義の原則で帰国事業が実現され、今日まで実に約10万人が帰国した。

 当時は「資本主義から社会主義への民族の大移動」として世界が驚嘆したように、南半部出身が多く、また資本主義社会で生きてきた在日同胞たちが、社会主義朝鮮を母の国ととらえ、生きがいのある道を選んだことは、世界の歴史にも類例のない出来事だった。
 また帰国問題とは、在日同胞が自分の祖国に帰っていく単純な問題ではなく、日本が過ぎし日に朝鮮民族に負わせた不幸と苦痛を清算する一環として提起された。

 特に帰国事業は主権国家の海外公民としての堂々たる権利を行使するのかどうなのかを判定する重大な問題であった。

 帰国した同胞たちはこの40年間ほぼ皆が思う存分勉強し、自分の知恵と才能を発揮して、国家と社会の主人として新しい生を享受してきた。祖国に根をおろし喜びも悲しみも祖国の人々と共に分かちあいながら生きる帰国同胞たちの今日の堂々たる姿は、帰国事業の正当性をよく証明してくれている。


 2ケ月前に初めてこの社説を朝鮮語の原文で読んだ時、末尾の一段に驚嘆し、激しい憤りを禁じ得なかった。帰国者が帰国したこと自体を深く後悔し、死を含むあらゆる苦労してきたことが、数々の証言で今日では100%立証されているのに、40年前と全く変わらない認識。
 黒を白といい含める全くの虚りの描写。忠誠階級に属する一部の帰国者の描写としてもその心情を理解しない虚偽の総括。私は日本人妻里帰りに際して北当局(金容淳)が出した3年前の談話(1997.7.16)の日本人妻の現状規定を思い出した。

 「彼女たちは、自身はもちろん、その子女まで希望、素質、能力に沿った高等教育を受け、安定した職業につき、国家と社会のあらゆる物質・文化的恩恵をうけつつ張り合いに満ちた幸福な生活を享受している。彼女らは、朝鮮民主主義人民共和国を幸福な今日だけでなく、明るい未来が保障されている母なる国と考えている。」

 これが3年前の北朝鮮当局による、日本人妻たちの全員の規定である。その偽りと「朝鮮新報」の社説の規定は瓜二つである。わずかな違いは後者の規定が「ほぼ全員」とわずかな例外を認めていることである。いずれにしても真っ赤な偽りである。この社説を許してはならない。

東京 星陵会館における 2000年3月12日第8回北朝鮮人権問題学習会 報告黄長燁氏の近著『狂犬におびえるな』を読んで 小川晴久

 去る1月末に黄長燁氏の金正日への宣言布告の第2弾『狂犬におびえるな』が同じ萩原遼氏の訳で世に出た。3部構成で第1部が「北朝鮮の人権問題」であったので一読したところ、すぐにも学習すべき本と判断し、3月12日(日)に星陵会館で学習会を開いた。講師は訳者の萩原氏と私の2人で24名の参加者があったのがうれしかった。

 「太陽政策のもとでの本書の意義」と題した萩原遼氏は、金大中政権の太陽政策の下でそれによる黄長燁氏への縮めつけがこの2年間で一段と強化されている事実を知った。
 また開城の上の新渓(シンゲ)のミサイル基地をはじめ休戦ライン沿いに1900門の長距離砲などが配備されていて、有事の際にソウルに駐屯するアメリカ軍3万7千名の生命を確保できないと判断したことが金正日政権を事実上承認するペリー報告(99.10.12発表)の本質であったと分析した。

 食糧支援は民衆にまわる可能性の高いトウモロコシ(中国の食糧支援はすべてトウモロコシ)で板門店からトラックでという黄長樺氏の提案は参加者の関心を引いた。

 私の報告は「唯一思想体制=首領絶対主義体制移行の要因」と題するもので、1961年第4回労働党大会で金日成体制が確立しながら、なぜ1967年に唯一思想体系を提起し、金日成の絶対化(神格化)をはかる必要があったのか、その必然性と要因をどう理解するかという問題を改めてたてたものであった。

 私は本書から、朝鮮戦争における中国の参戦とスターリンの死を契機に北朝鮮におけるソ連の影響力の低下が始まり、金日成はスターリン批判が自己に向けられるのを、朝鮮革命重視という主体思想を打ち出すことでうまくかわしていった過程、

 1958年から黄長燁氏も理論書記の一人として動員され、「金日成選集」の大々的な改作が行なわれた事実(“スターリン万歳’’をすべて削除)、1959年金日成親子と一緒にモスクワを訪問したとき、金正日にモスクワ留学を勧めたが、平壌を長期に離れることはもってのほかという当時の17歳の金正日の反応を紹介し、当時から後継者になる意思をハツキリもっていたエビソードの紹介など貴重な事実をいくつも学んだ。

 また上記主題の移行の要因として、複数のパルチザン指導者を自分一人にしぼる必要と、1964年に始まるベトナム戦争に呼応して1967年3月に金日成が第2の朝鮮戦争ともいえる「革命の大事変」を説き、首領の唯一指導確立の必要を説いたとする和田春樹説、革命伝統を民族の全歴史にひろげ、金日成の唯一性の格下げをはかった甲山派系朴金喆との対立とみるソウルの李鍾爽説を和田春樹氏の著書『北朝鮮一遊撃隊国家の現状』(岩波書店1998年)から紹介し、第3の説として金正日が1959年から後継者をねらっており自ら後継者となるため金日成の絶対化を押し進めたと解釈できる本書の説を黄長燁説と位置づけてみた。

 なお金昭平氏から、1960年頃までは北朝鮮は比較的まだ健全であったのではないか(『朝鮮哲学史』を根拠)という私の見解に、1958年に総連系民族学校の教科書の墨塗り(改作)が行われた事実をご自身の体験として語り、健全であったのは1957年までと考えるべきではないかというとても貴重なご指摘があった。1958年から1960年までの千里馬運動期の解明(歴史の掘り起こし)がとくに必要である。

第10回関西支部講座(3月4日・大阪)<在日コリアンと人権思想> 講師 朴斗鎮(パク トゥジン)氏

 朴斗鎮先生は、大阪市生野区で生まれ育ち生野高校から朝鮮大学校政治経済学部を卒業後、同学部で7年間、教員をされた経歴をもたれ朝鮮青年同盟出身のいわゆる“総連のエリード”であった方です。

 昨年『北朝鮮 その世襲的個人崇拝思想』(社会批評社、税別1,600円)を書き下ろし話題を呼んでいます。執筆動機は、朝鮮大学の優秀な教え子を北朝鮮に帰国させており、その中には銃殺された生徒もおり、「嘘」を教えたという自己批判のつもりで書き下ろしたそうです。

 1976年に大学辞職後、金日成主義のマインドコントロールから脱するのに、10年程要したそうです。

 この「在日コリアンと人権思想」、は、その内容をふまえ、在日コリアンと日本人の運動の進むべき方向を政治思想史的観点から解明され、2時間余り講演されました。  (以下、講演の要旨です)

なぜ、人権が在日コリアンにとって大事か

 在日コリアンは、「1民族3国民」になっている。朝鮮、韓国、日本の各国籍をもち、3か国の憲法のもとに生きている。従って「愛国」(ナショナリズム)では、統一できない。自由、平等、民主主義をベースとした民族で統一するしかない。

 韓国にも、東学党の運動(1800年代末)という自由と民主主義の蜂火となったものが存在する。マルクスは、「すべての富は、労働が生みだす。しかし、人間はなぜ財物に支配されるのか?」と人間疎外論」をとなえ、ヒューマニズムの立湯に立っていたが、その方法論「万国のプロレタリアートの団結」にロマンを抱き、ここから、レーニン、スターリンによる「階級独裁論」に至り、その究極の悪結果が、北朝鮮の金日成・金正日体制である。

 人権は「法律」であるが、社会の現実の進展より10~20年程遅れており、未来をみる観点に欠ける点があり法的解釈に留まっている。ここに、人権思想を学ぶ運動の必要性がある。

 韓国に、「“まさか、まさか”が、人を殺す」という諺がある。金正日は自分の民族の200万人を“まさか”によって餓死させでいる。

 人権思想は、どんな勢力、総連も攻撃できない世界の世論の支持がある。民主主義は、教育程度が、一定、上がらなければ育たないが、在日コリアンが自由、平等、民主主義の人権思想に習熟することができるなら、幸福になれる。

総連について

 民族利己主義を標榜。総連綱領第一条は、「我々は、全ての在日同胞を朝鮮民族の真の祖国である朝鮮民主主義人民共和国の周りに総結集させ、愛国愛族の旗のもとにチュチェ偉業の継承、完成のために献身する」とのべているが、なぜ北が「真の祖国」なのか。

 民族教育を主張するが、他の民族教育を排除しているだけでなく、金日成主義で毒した。組織防衛のため、日本の教育を受けさせない。修学旅行の宿泊先で、日本の学校進学希望者に対し学校側は徹底的に批判する。日立の朴君の就職差別事件にたいする闘いを支持したのか?なにひとつしなかった。指紋押捺反対運動。デモーつしていない。

 帰国者の日本への自由往来はやらず、莫大な資金の運び屋となっている。

 韓徳銖議長(92歳)について。民族主義の代表者といわれているのに、戦前は日本帝国主義のいいなりになって西原某と創氏改名していた。60~100億円の預金があるといわれている。

(文責 岩崎嘉郎会員・高知市)

韓国の新組織「北韓の民主主義と人権実現のためのネットワーク」 趙赫代表・李スンギュ研究室長インタビュー インタビュア:守る会ソウル駐在員 東 昇平

 「北韓の民主主義と人権実現のためのネットワーク」創立大会が昨年12月10日開催された。これに私自身も出席した。それをふまえて3月18日、代表の趙赫氏、研究室長の李スンギュ氏にインタビユーした内容を要約し、掲載することとなった。
 今回のインタビューば守る会のためにわざわざ時間を割いて頂き実現したものであるが、紙面の関係から割愛部分が多くなってしまったごとをお詫びしたい。

東:まず、簡単に個人的な経歴を教えていただけますか?

趙赫:私は順天(全羅南道)出身です。1982年に高麗大学に入学し、「愛国学生会」を結成しました。当時は主思派(チュサパ。北朝鮮の主体思想を信奉するグールプ)の学生サークルが地下で結成され、全国各地の大学にありましたが、それを全国レベルで統合した組織がほしいというのが私の希望でした。

 もちろん非合法活動とみなされますが、86年頃から金日成の著作や北の放送を聴取するようになりました。

 しかし、86年に韓国当局から手配され、8年間の逃亡を経て、94年に逮捕されました。結局、裁判では執行猶予5年を受け、公民権を制限されるだけですみましたが。ですので、昨年(99年)に正式に赦免されたということです。

李:趙代表より生まれは少し早く、出身は群山(全羅北道)です。73年に延世大学に入学しました。私の家が熱心なキリスト教信者の家庭で、マルクス主義との葛藤で悔んだものです。
 維新体制(朴正ヒの軍事独裁体制)が発足したばかりでしたから、大学入学当時は反独裁運動に力を注ぎました。80年に光州事件の示威活動で拘束され、教導所(刑務所)に行かされました。

東:ネットワーク創立に関わったのは『時代精神』編集委員の方々が中心の様ですが。

趙赫:現在は事務所も一緒です。ネットワーク独自の機関紙としては『月刊Keys』を発刊し、会員を中心に配布しています。

(東註:『時代精神』は月刊の雑誌。チュサパを離脱した元の学生運動の活動家らが加わっている。『月間Keys』には北朝鮮関係のニュースもよくまとまっており、年会費5万ウォンを支払った会員には無料で送付される。また、ネットワークの基本的な方針については『北韓民主化運動に先立つ26問答』というパンフレットを配本し、支援者確保に努めているようである。)

東:韓国には他にも北朝鮮問題に対応する民間団体がたくさんありますよね。

李:それは反共団体でしょう。われわれはむやみに反共を唱える団体とは違います。そして、やり方としてはデモや非合法的な主張をするものではありません。金大中大統領の太陽政策にも一理あると思うのです。
 つまり、改革開放のチャンスを与えることも必要だと。もちろん同時にそれが人権問題とリンクしなくてはならないですけどね。

 国際社会の圧力も必要であるということです。それには現状を分析し、まず首領絶対国家の「首領」をなくすのが優先であって、そのための後方支援ができる韓国側の意識変化と、国際社会の支援を促すことに重点が置かれます。

東:まだネットワークが発足して3ケ月ほどですが、具体的な活動は?

趙赫:454人が北に拉致されたと韓国当局から発表されています。実際はもっと多いはずですが。その家族の集まりを組織し早期解決を目指すべく、活動を開始しました。さらに現在、中国に逃避してきた北韓の某大家族を支援しています。そして何よりも、それらの活動を円滑に進められるような状況作りが必要です。
 ネットワーク創立後2年間ほどは、韓国世論、国際社会に呼びかけることに集中し、国際的なネットワークにしたいですね。
 韓国国内の「北韓人権市民連合」や「北韓の同胞を助ける会」などの団体とは良い関係を保っています。また、南に亡命した黄長燁氏の考え方とは、北に対して「反発」を連呼するのではなく、民主主義革命を促すという点などで共感する部分も多いですね。

東:最後に「守る会」に一言お願いします。

趙赫・李:北韓は首領絶対制に固執していますから、それに反対すべく日韓の連帯を強化したいですね。日韓には利害関係の共通点が多いのです。今後もお互いに支援しあうとともに連帯を深めて行きましょう。

東:本日はご多忙の中、ありがとうございました。

(東注:ネットワークの創立大会は、一部の人々が熱心なのに対して、一般参加者が多くはなく、失礼ながら「盛大」とは言えない印象を受けたが、一般世論を喚起し、支援者を獲得することに力を注いでいるようで、今後の活動が大いに期待される。)

北朝鮮の人権解放を求める国際社会

1999年
(12月)
23日 韓国の有力紙朝鮮日報ニューヨーク特派員電によると、国連高官筋の話として、北朝鮮で食料支援の救援活動を展開している国連の世界食糧計画(WFP)や各国NGOなど21の組織は11日、平壌で声明を発表し「北朝鮮当局によって救援計画が引き続き制約を受けており、これは人道的支援の検証において、深刻な妨害になつている」と指摘した。 

さる10日、英国の支援団体「Oxfam」の要員6人が北朝鮮当局の妨害に抗議して全員撤収したことをきっかけにしている。同団体は、飲料水の浄化活動を担当し、貯水池の水質試験を許可されず、非衛生的な飲料水地域への接近も拒否された。

2000年
(1月)
7日「北韓同胞の生命と人権を守る市民連合」は、ロシア政府が、北朝鮮難民一家7人を中国に引き渡した行為について、国連難民高等奔務官事務所(UNHCR)、国連人権高等弁務官事務所(UNHCHR)、国際赦免委員会などに宛て、「難民認定された彼ら脱北者が、北朝鮮に送還されないように努力せよ」とのアピール文を一斉に発送した。

18日 「救え!北朝鮮の民衆/緊急行動ネットワーク(RENK)」は、中国政府が11日に、ロシアより引き渡された北朝鮮難民一家7人を北朝鮮に引き渡した行為に対し、東京の中国大使館に抗議行動を行い、中国の江沢民国家主席に宛てた抗議と要請文を大使館側に手渡した。

 内容は「韓国かロシアに亡命したい」と嘆願したにもかかわらず、7人を引き渡した行為は《貴国自身も批准する難民条約の精神を踏みにじる行為である》と抗議した。

 また、同時に《一、7人が、そのことによっていかなる迫害を受けることもないよう、貴国政府から北朝鮮政府に対して強く要請していただきたい。 二、国境を越えた北朝鮮住民を不法滞在者とする現在の政策を転換して、強制送還の恐怖から彼らを解放し、難民としての適切な保護を加えていただきたい》と要請した。

23日 北朝鮮による日本人拉致疑惑について、全国各地の地方議員が東京・港区芝の「友愛会館」に集まり、「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための地方議員の会」(会長、土屋敬之都議)を発足させた。

 代表発起人には土屋敬之都議、真鍋貞樹小平市議、古賀俊明都議。設立総会に先立つ「拉致された日本人を救出するための全国協議会」は同じ会場で合同会議を開き…全国会議員に拉致問題についてのアンケートを実施し、結果を公表する。4月30日に日比谷公会堂で第2回国民大集会を開く…を決めた。

28日 韓国各紙がパリ発で伝えたところによると、フランスの知識人約100人はナチスのユダヤ人大量虐殺犠牲者追悼日である27日を前にした25日、北朝鮮の人権状況を糾弾し「北朝鮮で起きているできごとに対する沈黙を破ろう」との声明を発表した。

 声明は社会評論誌ピェール・リグロ編集長、フランス民主連合のアンリ・フラニヨル議員らの手になり、スウェーデンのストックホルムで26日―28日に開催されたユダヤ人犠牲者追悼の国際大会にも送られた。各国指導者や記者団に関心を訴えた。

 声明は北朝鮮における人権弾圧を「反人類的な犯罪」と規定し「全体主義国家の狂気は強制収容所だけが被害に遭うのではなく数年の間に100万一300万人を飢え死にさせた」とし、北朝鮮とユダヤ人大量虐殺は「犯罪が進行しつつある瞬間に国際社会が沈黙しているということで共通点がある」と述べている。

30日 日朝関係筋によると、日朝国交正常化交渉のための日朝課長級協議が北京市内で開かれた。梅本和義北東アジア課長、北は金哲虎(キム・チョルホ)日本担当課長が出席したもよう。拉致問題で「北朝鮮に前向きの対応は見られなかった」もよう。

(2月)
3日 フランスの哲学者や歴史家、作家が2日付の仏紙リべラシオンに「北朝鮮に対する沈黙を破り、死の収容所を解放しよう」という声明文を発表した。

 呼びかけ人は、新哲学派の旗手、アンドレ・グリュックスマン氏や『共産主義黒書』の共著者で歴史家のステファン・クルトワ氏、韓国研究家、ピエーロ・リグロ氏、ジャーナリストのオリビェ・トッド氏らフランスの知識人18人。

4日 北朝鮮の趙昌徳副首相が、建設中の軽水炉建設工事の遅延に対して、米国に補償を要求し「もし、米国が自己の義務を果たさず、わが方に対する圧殺政策を継続するなら、わが方はわれわれ式に進まざるを得なくなるであろう。そのときには後悔しても遅いであろう」と語った。

9日 平壌発のイタル・タス通信によると、北朝鮮を公式訪問中のイワノフ・ロシア外相は平壌の万寿台議事堂で白南淳外相と会談し、両国の良好な友好関係を確認する「友好善隣協力条約」に正式調印した。
 ソ連時代の友好協力相互援助条約に明記されていた「軍事同盟」条項の継続は見送られた。10日の同通信によると、自動介入の前段階で「迅速に連絡を取り合う」と規定した。また「軍事・安全保障面で互いに利益のある分野で協力を行う」となっている。

10日 大阪市の中華料理店員、原敕晃(ただあき)さんを北朝鮮に拉致した実行犯で、恩赦で釈放された辛光沫(シン・グァンス)元服役囚(70歳)に、内縁関係にあった京都市在住の朴春仙さん(62歳)がソウル市内で面会したさいに、
辛元服役囚は「秘密をしやべったことは許されない。すべて国のためにやったことだ。私のことを公にしてもらっては困る。国も困る」と告白した。

この人にきく 長谷川由起子さん 大阪外大講師 関西支部

 長谷川由起子さんは大学で朝鮮語を専攻し、韓国留学も経験した標準ソウル語の達人。関西支部を引きたてる明るい性格にファンも多い。
 関西で韓国語を教え、四月からは九州でも仕事を始めます。長谷川さんの行動範囲の広がりは守る会の広がりに通じることと思います。

 ―守る会との出会いのずっと前に、朝鮮語との出会いがありますね。

長谷川 「なぜ朝鮮語を」とよく聞かれます。高校時代の二つの出来事が、もともと外国語が好きだった私を朝鮮語に向かわせました。
 一つは、高一の時、文通を始めた石川県の男の子が在日朝鮮人だったことです。それまで同じ学校に姜君や崔君などがいましたが「変わった名前」と思っただけでした。文通は毎週便箋七・八枚にもなり、その人の経験を語る内容に強い衝撃を受けました。

―高校時代の影響は強烈ですね。

長谷川 もう一つは、高三の時、政治経済の先生が話してくれた中に、金大中さん拉致事件や、福岡の崔昌華牧師の一円訴訟の話がありました。「チェ牧師」と発音することを申し入れておいたのに、NHKは「サイ牧師」と発音して報道したことに一円の損害賠償を請求した事件です。
 こんなことから韓国・朝鮮について疑問と関心を持つようになりました。こうした経験が大阪外大の朝鮮語を選択することに結びつきました。

―卒業後はすぐに韓国に留学されたのですか。

長谷川 すぐにではありません。外大の朝鮮語の講座が大阪の中之島であり、私が講師をしているときに生徒であったのが今の夫ですが、卒業後すぐ結婚し、子供が二人できたことや夫の病気などで、留学の機会は訪れませんでした。
 そんな時、知人から韓国語の通訳をたのまれ、その場でプロの通訳の仕事ぶりを見て刺激を受けました。その後、和歌山市が済州市と姉妹提携するとき、通訳として市長に同行して通訳を務めましたが、レセプションのときの気の利いた会話をうまく表現することはとてもむずかしく、韓国の生活を体験する必要があると痛感し「留学したい」と夫に言うと意外とすんなりと了解してくれました。そこで三歳と五歳半の子供二人を連れて、八八年に一年間の留学生活を送ることになりました。 

―子連れ留学ですか。えらいですね。
帰国後は朝鮮語のプロの通訳を目指したのですか。

長谷川 留学から帰国してガイド試験に挑戦しながら、ジョア・ハングル研究所をつくり、部屋代だけでも得ようと韓国語を教え始めました。九一年に大学院にすすみました。

―催しの度に司会役を担当されるなど、守る会関西支部で
活躍されていますが、守る会との出会いは。

長谷川 30年ぶりに開かれた外大朝鮮語科の同窓会で先輩である萩原さんと出会い、98年に守る会の新年会に参加したのが始まりです。
 学生時代は典型的なノンポリでしたが、八〇年ころから北朝鮮社会には二面性があると感じ、大韓航空機爆破事件などで疑問が拡大していきました。守る会に入会して帰国者の家族から想像を超える生々しい実情を聞き、事の重大さを知りました。

―四月から九州産業大学の国際文化学部に勤務されるそうですが。

長谷川 九州は韓国、中国との距離が近いせいか、両国への関心はきわめて強いと感じます。朝鮮語とともに朝鮮の文化の教育にも力を入れ、朝鮮半島のいかなる事態にも適切に対応できる人を育てたいと思っています。

(聞き手 山田文明)

コッチェビ放浪記 (みなし子の浮浪児) 第4回 北朝鮮で両親が餓死し、中国に脱出した10歳8歳の兄妹の物語(韓国誌「月刊朝鮮」99年9月号より)

(イム・チョルは10歳、妹のイム・ソヨンは8歳。炭鉱技師の父と元芸術団の踊り子だった母の四人暮らし。貧しいけれど幸せな日々だった。チョルは科学者に、ソヨンはアナウンサーになるのが夢だった。)

妹にうどんを食べさせる

 お母さんが死んで、お父さんのいない家の中に、よそよりももっと大変な飢えが襲ってきました。摘んできた草だけを食べていると、顔や足、指がバンパンに腫れて元気がなくなりました。ソヨンがずっと寝ていたいと言うのですが、「そうやって寝ていると、起き上がれなくなってお母さんみたいに死んでしまうよ」と言って、ぼくは無理矢理起こして連れて歩いたりしました。

 穀物を少しでも食べさせなくてはいけないと考えて、ぼくたちは水洞区炭鉱の市場によく出かけました。そこで売っているトウモロコシのうどんを物乞いしたり、ソヨンといっしょにどんぶりを運んだり、ほうきで周りを掃いたりする使い走りをしながら食べ物をもらって食べたりしました。

 一日中お使いをすると、夕方に売れ残ったうどん一杯をもらって分けて食べました。

 これも順番が来ずに、ある日ソヨンがお腹がすいて市場の隅で起きあがれなくなりました。見るに見かねて、ぼくは泥棒をしようと決心しました。

 うどんを売るおばさんのそばでしばらく頼んでもなにもくれなかったので、他の大人たちにうどんを売る隙を見て、一杯をさっと持って逃げました。しかし十歩も行かないうちにおばさんに捕まったぼくは連れ戻されでしまいました。

 うどんを食べていた二人の大人が、ぼくを「この孤児め」、「泥棒猫め」と言ってひどく殴りました。ぼくは殴られながらも、ソヨンを助けなくてはならないという思いや、うどんのどんぶりを服の中に注ぎました。

 うどんの汁は全部下に流れてしまいましたが、具はベルトにひっかかって服の中に残っていました。

 殴られた後、あふれる鼻血を片方の手で押さえて、もう片方の手でうどんの入ったお腹を握りしめてソヨンのところに戻ったぼくは、元気がなくて目を閉じて寝ているソヨンを揺り起こしました。

 ベルトをほどいて、お腹からうどんを一本一本取りだしてソヨンの口に入れてあげるとおいしそうに食べました。ソヨンは全部食べおわった後、たくし上げたぼくのお腹についた汁と麺までぜんぶなめてしまいました。

 あの日、ぼくがこうやって泥棒をしなければ、ソヨンを飢え死にさせたのは確かです。

妹を勉強させる

 ぼくたちをもっと苦しめたのは、石炭を取ってくることでした。ぼくの家と炭鉱は一里ほど離れていて一時間ほど歩かなくてはならないので、炭鉱から石炭を運ぶことはあまりにも大変でした。

 食べ物も探さなくてはならないのに、石炭まで工面しようとすると、どれから始めたらよいのか本当にわからなくなりました。一度に15kgずつ二日に一度は運ぶので、ぼくの肩からあざは消えませんでした。  

 あまりにも痛くて、妹まで連れて石炭を運ぶのですが、女の子だからなのか5kg運ぶのがやっとでした。そのうえ妹の肩にまであざができて、ぼくが石炭を担ごうと言うと泣くようになりました泣きながらも担がないとは一度も言いませんでした。

 その年の九月から他の子供たちは勉強を始めるのに、ぼくたちは勉強出来ずに食べ物を探してまわらなくてはならなかったので、勉強したかったんです。

 ぼくはそれでも人民学校に二年通ったので、教科書だけ読めば自分で勉強出来たけれども、妹のソヨンはまったく学校に通えなかったので、大変だと思いました。

 妹を勉強させようと決心して学校を訪ねて、一年生の先生に会って妹を勉強させてほしいと頼みました。お母さんが死んだことを知っている先生は、ぼくを見て偉いと言って、学校に来させなさいと言いました。

 ぼくは自分が担いでいたビニールのかばんにぼくが使っていた本を入れて、ソヨンを学校に連れていって教室に座らせました。そしてぼくが勉強していた三年生の教室に入ってみました。

 ぼくが勉強していた三年生は三クラスありましたが、ぼくたちのようにお腹がすいて子供たちが勉強しにこないので、ひとつの教室にみんなが集まって勉強していました。三年生は九〇名いましたが、二〇名しか学校に出てこないので、先生たちは気が気でないと言っていました。だから三、四年生がひとつの教室に集まって、一、二年生がひとつの教室に集まって勉強しました。

 ぼくは前の担任の先生を紡ねて、三年生の教科書を貸してほしいと頼みました。妹を勉強させなくてはならないので学校には出てこれないけれど、自分で絶対復習すると言うと、先生はぼくを胸に抱いて泣きました。

 そして、自分で勉強してでも、将来かならず立派な人にならなくてはいけないと言って、教科書五冊を持ってきてくれました。

 本当にありがたいその先生を、ぼくは永遠に忘れることはできません。こうやってソヨンを勉強させることになると、九歳の子供でもお父さん、お母さんになったようでとても良い気分でした。

 ぼくは勉強する妹にちゃんと食べさせようと、精いっぱい頑張りました。一生懸命頑張って三年生の教科書を全部理解するようになったぼくは、勉強しに学校に通う友達とつきあって助けてもらおうと考えました。

 その友達は、ほとんどの父親が炭鉱の党活動家か、安全員(警察)、保衛員(秘密警察)たちでした。だから彼らの家には米やトウモロコシが少しあると計算したのでした。

午前中に石炭を背負って家に持ってきて、午後は家で復習する友達を尋ねました。そこで彼らがよくわからない数学の問題や作文を教えてあげた後、「おまえの家にあるトウモロコシを一握りだけくれないか」と頼むと、友達はみなお母さんに隠れてぼくのポケットにトウモロコシを入れてくれました。

故郷を離れておばあさんの家に

 しかしこれも長くは続きませんでした。ぼくはまた市場や山に行って、食べ物を探してさまようようになりました。妹も午前中は勉強をして、午後はぼくを手伝っていっしょに市場に行って物乞いをしたり、山に行って草を摘んできたりしました。

 石炭を採りに炭鉱の中に入って、警備員につかまって殴られることもたくさんありました。警備員たちは、ぼくがお父さんもお母さんもいないから許して欲しいと言っても無慈悲でした。

 つかまって殴られた日は腰と足が痛くて、しかたなく石炭を持てずにびっこを引きながら家に帰りました。そんな時は、妹のソヨンが木をひろってきたり、隣の家から石炭をもらってきました。

 そして去年の十一月頃、炭鉱でぼくたちを高原郡にある「孤児院」に送ろうと討議しました。しかし、ぼくが九歳で、妹は七歳なので、あまりにも幼すぎるといって、孤児院が受け入れてくれませんでした。

 家が足らなくて困まっていた炭鉱では僕たちが家に住んでいるのを見て、咸鏡北道セビョル郡にいるおばあさんの家にぼくたちを連れていって、炭鉱が家を所有することに決めました。

 出発する時にお母さんのお墓をたずねたぼくたちは、市場でもらったうどんを一杯供えました。ぼくが「お母さん、絶対にまた来るから、それまで待っていてね。ソヨンはぼくがちゃんと面倒見るから」といって思い切り泣きました。

 ソヨンといっしょに心を込めて草を抜いて、土もととのえてお墓をきれいにしたぼくたちは、見知らぬ北の地に出発しました。家の台所にあった鉄の壷をトウモロコシパンと交換して途中の食事を用意したのに、弁当はいっしょに行く叔父さんがなぜか持ちました。

 列車で五日間かかるという話を聞いて、叔父さんは毎回ひとつのパンを切ってぼくとソヨンにくれました。自分は毎回パンを三つも食べているのに。パンもぼくの家の釜と交換したものなのに、本当に腹がたちました。

 列車に乗って三日目、ソヨンがあまりにもお腹が空いたと言うので、ぼくはソヨンといっしょに歌を歌い乗客を楽しませて食べ物をもらいました。

 咸鏡北道セビョル郡のおばあさんの家に行くと、そこも食べ物がありませんでした。おばあさんも毎日草とトウモロコシの芯を粉にしたものにトウモロコシの粉を混ぜたお粥を食べていましたが、それも一日に二回しか食べられませんでした。

 ぼくはおばあさんを手伝って、山に行って薪を拾ったり草を摘んだりしました。とりあえずおばあさんに頼ることになったので、ぼくたちは「コツチェビ」や孤児にはならなくてすんだんです。

(訳:金 永玉)

パネルディスカッション 帰国事業を問い返し課題を考える 99.12.18大阪集会

 前号(NO.31)のカルメギで紹介した昨年12月18日関西支部主催の「いま振り返ろう!40年前を」集会のパネル・ディスカッションの部分を掲載します。この日は韓国から呉基完氏をメイン・ゲストに、各界の人々の参加を得ました。
 朝日放送の石高健次プロデューサーも自作のビデオ作品「楽園に消えた人々」をもって駆けつけて下さいました。また帰国運動を扱った映画「海を渡る友情」(1960年)が上映されました。(編集部)

●司会 萩原遼(「守る会1共同代表・作家」 
各界の方々に多数お集まり下さいまして、パネラーの先生方にお礼申します。
まず「私と帰国事業」あるいは「帰国運動」を一言づつ話していただきたい。

最大の原因は帰ってからの問題 金英達(キム ヨンダル 朝鮮現代史家、関西大学講師)

 当時はほとんど知らなくて、大学に入ってから学んだ。帰国事業は在日朝鮮人にとって、最大の悲劇であった。

 私は私なりにどうして帰るようになったか考えると、萩原先生は10万人の悲劇は「金日成と韓徳銖の陰謀」であったと、北朝鮮に10万人を引き入れた原因になったといわれた。先ほどのビデオで新潟の張明秀さんは「日本政府と日本赤十字の陰謀」といわれた。

 なぜ帰ったか、外国人にたいする差別、朝鮮人にたいする蔑視で、日本社会・日本人にたいする反発がバネになったのでは。帰国がはじまって2年間にどっと帰るわけですから、まだその間は破綻がなかった。

 故郷に帰るなら、在日朝鮮人の98%が韓国出身だから。もう一つの原因は、当時の南朝鮮は軍事政権で韓国への帰国は、職をさがしてくれるわけでなく、自己責任であった。北朝鮮は仕事を保証するという。日本で希望を失った人が李承晩政権に受け入れられなかつたと云う責任もある。最大の原因は帰ってからの問題であった。

教師として、帰れといった責任を負って 梁永厚(ヤン ヨンフ 在日朝鮮人運動史家・関西大学講師)

 私が関わった事でお話したい。映画にもあったが、40年前の12月14日帰国第一船が出航した。当時私は51年に学校を出て、朝鮮学校の教師をして8年目でした。

 担当した約300の子供のうち40人くらい帰っている。年に何回か、帰ってない子供に会う機会があるが、教え子に「先生は『帰ることは良い事だ』といった」と言われ責任を感じます。重い課題をかかえています。

 私は40数年教師をやってますが、この責任をどう負うかという思いにかられ、定年も間近ですが悲愴です。悲愴な思いを背負ってこの責任を果たさなければと思い、老いにむち打っています。

司会 崔殷範先生は59年大韓赤十字にお入りになりました。
先ほど金先生から韓国の政府、当時の李承晩政権の対応の話があったのですが、
現場におられてどうでしたか。

南より北に夢を求めたのは当然だなあと 崔殷範(チュウムボム 元大韓赤十字社国際部長・東大大学院客員教投)

 59年に大韓赤十字に25歳で入社し、軍事政権下ではあったが、在日韓国人に対してはもっと積極的な政策をと赤十字は繰返し提言していた。

 朝鮮戦争の前から北朝鮮が共産主義政権をつくり、人民の人権とか生命に対してあまり酷いので、それに反対する人が250万人も、北から南に逃げて来ました。

私も48年に南朝鮮に逃げて来た。朝鮮戦争の最中でも、南に100万人逃げて来ている。これらみんな含めて韓国政府が経済的にあまり支援できなかった。

 先ほどの映画を見ると強力な朝総連の下で日本にいる韓国人が、南より北に夢があるという感じを持ったのは当然だなあという感想をもった。

司会 次は八木 隆さんに。

「楽園」という認識を与えた一人として 八木 隆(元日朝協会大阪府連常任理事・「守る会」会員)

 59年の帰国運動がはじまった時、私は日朝協会大阪府連の事務局をやっていました。どうして在日朝鮮人の問題に関わるようになったか、当時私は趣味で劇団に関係しておりました。

 その時分に石井獏門下生の崔承喜さんが、北朝鮮に帰られて舞踊団をつくっておられました。彼女を日本に招こうと招請委員会が作られ、私の関係していた劇団も参加しまして、そんな関係で日朝協会の仕事をすることになりました。10年近く日朝協会の仕事をしておりました。

 在日朝鮮人の帰国という点では、感激を持って活動していました。朝鮮戦争から10年たらずの問に何十万人も受け入れる国という、ー当時は社会主義に多くの青年が夢を抱いていましたから、韓国の軍事政権下の状況と比べて「楽園のようだ」は是認していました。

 その後いわゆる「主体思想」の問題が出て来ましたが、その害悪を知ったのは帰国が始まって10数年してからでした。建国途上の国で、当初は帰国者が何が足りないと日本の家族に漏らすことは当然ありうると考えましたが、本質的な問題を含んでいました。

 必要なことは、少なくとも「地上の楽園」と云う認識を与えた日本人の一人として、それを回復する事業をやることだと思い「守る会」に参加しています。

司会 梁先生、ご自身教職にあって教え子も帰国されております。
最近の若い世代は帰国がはじまった当初の事情など知らないのですが、
当時の在日朝鮮人の置かれていた立場を一言。

総連に物を言わねば 梁永厚

 「もはや戦後は終った」と経済白書に書かれたのが1955年。日本は戦後10年にして復興の基礎を終え「戦後は終った」となった。しかし在日朝鮮人の実情というのは、植民地時代からの続きでみんなその日暮らし的な生活をしていた。

 収入は末端の下請けに入って、安いコーヒー程度。結局、長時間で稼ぐ、一日12時間働くのは当たり前。職業も日本人と全く違っていた。大阪の生野は戦前はゴム工場が多かった。戦後はヘップサンダルが主流になった。
 ヘップサンダルはベンゾールを使うので、職業病も早くから生まれた。

 そんな生活で、子供の将来を実現しようと思えば「勉強」という課程を経ねばいかん。55年頃は子供の将来について全く見通しがなく、真っ暗でした。

 そこへ北朝鮮から57年4月9日に「教育援助費奨学金」を贈ってきた。これは在日の大学生、高杖生に「ここに祖国がある」という感情を与えた。

 大学を卒業しても日本での希望はなく、これが帰国の動機になった。みんな貧しかった、この貧しさからどう抜け出すかが帰国につながった。私もその中で片棒をかつがされた。当時の朝鮮総連の宣伝はなかなか堂に入ったものでした。老人にも呼びかけ「ご老体、北に帰っても生きられる人やな」と引っぱり込んだ。

 北や朝鮮総連にものを言うと、いろいろ足を引っぱる人がいる。私は帰った人にもう一度会いたい。もう一度会ってお互い苦労はしたけれど、良かったなあと言えるようにしたい。でないと申し訳ない。

 北朝鮮の金正日や韓徳銖などは別にして、朝鮮総連に関係している人みんなに「ものを言う」これを一人でも二人でも増やして行きたい。総連の活動家はものを言えない、そんな活動家が「北の実態をつぶさに見て」「人質をとられているから言えない」を破りたい。木の根を食べてでも主張したい。

 朝鮮総連に対し、北に帰った人の家族は力になってくれ、帰った人に会いに行きたいと要求する。これは政治ではない、人権です。

司会 石高さんから一言。

朝鮮総連が縛られている、これが一番難しい 石高健次(朝日放送プロデューサー・報道部長)

 先ほどビデオも上映したのですが、総連がどう対応したのか、取材したのが7年前。「総連が自分で送り出しておいて、あんたらどないしているのか、それは絶対知りたい」と。総連中央にぶつけた。すると対応が変化していった。

 最初はこういった。「帰った10万人は、すべて幸福に暮らしている。日本人のマスコミが、どうのこうのというな」と。名前を出しても良い人の名をあげ「こういう人がいるのだ」と迫った。「探す義務があるのではないか」と。肉親が行方不明になったといっているのだからというと「実は何人かは行方不明がある」となった。

 全体でどうなのか教えてくれというと「分かりました」という。3週間待った末に電話すると、居留守を使う。結果として、それ以上聞けなかった。

 がんじがらめに朝鮮総連幹部がしばられている。これが問題解決に一番難しいところではないかと思う。

司会 呉基完先生、帰国者が10万人も帰りまして、
北朝鮮にとってプラスであったのでしょうか、マイナスであったのでしょうか。

政治的にはプラスで、他はマイナス 呉 基完(オ ギワン 元北朝鮮政府の帰国者迎接委員、現大韓放送協会専門委員)

 政治的にはプラスでしょう。でも他の面ではマイナスが多かった。先ほど「10万人も受入れる国、楽園ではないか」という話があったが、逆に北朝鮮の立場では、受入準備がほとんどできていない状態で「帰国運動」が始まった。

 だから初めは100~200名あるいは、500~1,000名くらいなら何とか受け入れできるが、朝鮮総連本部からの報告によるとすでに何万名もの希望者があり、希望者が多いから数万名に達するという報告が来たんですが、本当にびっくり仰天した。

 これはただ事ではない、冗談じやない。こんなに多くの人をどうして受け入れるかと。初めは平壌で受け入れることもしたんですが、後は特別な人を除いて全部地方に配置した。

 第1船から第20船が来るまでくらいは何とかできたんです。例えば私が住んでいた二階建てのアパートは平壌ではトップクラスのアパートですが、そのアパートも一戸達てに引越しさせて、帰国者を受け入れる。

 「お前は布団を持って来い、お前は何々」と準備をさせたわけです。私も座布団を提供した。このようにして裸で帰って来ても、次の日から生活をするような準備を整えるというわけで、初めはそれができた。

 何千何万名が帰って来るとただ事ではない、と地方にふり向けた。地方では「ハーモニカの家」という長屋で、部屋一つに台所一つだけ。それがずっと続いている、この家に入れる。これらは朝鮮戦争の時期に建てた家で雨が降れば家の中に降るくらいです。それもなくなって、帰国者たちを待遇するという立場にない。

 これらの面から見ればマイナスが大きい。特に北朝鮮の人達に与えた心理的な影響は深い。例えば平壌市内で、帰国者が背広にネクタイでバスなどに乗れば「これは帰国者だ」と誰にも分かる。だからはじめのうちは、帰国者に対する待遇を良くしろという金日成の命令があったから、誰もが立ち上がって席を譲った。

 それが一年二年のうちには「何だ『チョッパリ(日本人への蔑称)』のくせに」という。それが北朝鮮の人々に与えた影響は「乞食のような生活をして来たはずの在日朝鮮人が、実はこんなに生活水準の高い人ならば、日本の一般的な人達や、日本に住んでいる在日朝鮮人の生活水準はもっと高い」これじゃ何年経っても追いつくことが出来ない。

 では日頃いっている社会主義社会とは何か。「貧乏暮らしを強いる社会か」これが帰国者たちから受けた北朝鮮の人達への影響、マイナス面。その他にも多いんです。

司会 先生がおっしゃるような事があるから、
帰国者を絶対に外国に出さない、こういう状況があると思います。
大韓赤十字で国際赤十字とも接触しておられる崔殷範先から

世界人権宣言は出入国の自由を保障している 崔殷範

 萩原先生の講演の中で「朝鮮総連の責任」の問題がありました。帰国を制度化したのは、日本赤十字と国際赤十字委員会の二つで「個人の自由意思」を確認する。そんな役割をした。

 その時に引用した世界人権宣言で「出国の自由」を尊重した。出国というのは、戻る自由が一緒にセットになっている。59年の交渉は出国の自由だけを交渉した。出国した国に戻る自由はない、とは無責任です。

 当時は北に夢があると帰った人が「地上の楽園」と思って帰っても、結果として間違っていた場合、国際人権条約で保障されている自分の国に戻る自由、権利も保障する責任は国際赤十字にもあるということです。結果の原因となった、その原因を排斥する義務がある。日本赤十字と赤十字国際委員会が原因を作ったからには、戻れるように働きかけなければならない。

司会 先ほど梁永厚先生から、その責任を自分も背負い、
負うべきものは負わねばならないと言われた。
村山訪朝団が行き、明日北京で日朝赤十字の予備会談ということも含め、
日朝国交正常化の話の中に帰国者の話は出なかったといわれている。
帰国者問題をどうするのか、金英達先生から。

北の体制に役立つ国交正常化は問題だ 金英達

 日本政府が北朝鮮との正常化交渉の中で、日本国籍を持っている人の問題ではあるが、日本人妻6,000人の中、日本国籍を持つ人は1,800人くらいいる。

 国籍の問題は、当時の韓国の国籍法を前提にしている。正常化交渉は日本国籍を持ったものだけを相手にして、日本国籍を離脱した者は日本国民でないから相手にしないのでは、筋が通らない気がする。

 問題は帰国してからですから、結局は北朝鮮の朝鮮労働党体制を一刻も早く倒す。現体制の維持に役立つような日朝国交交回復、正常化は問題だと思う。

司会 日朝協会の元大阪府連常任理事・八木さんが
壇に上がってもらえるなど本当にまれなケースです。一言。

帰国にはいろんなおもわくがあった 八大 隆

 この前「北朝鮮から里帰り」で10人ほどの日本人妻が里帰りをしましたが、あるテレビで放映していた番組で「在日朝鮮人は厄介者だから帰してしまえ、何億円かの財政の節約になる」と、日赤の副社長クラスが論文を書き持論であったと。

 日赤のなかにそういう雰囲気があったと思います。現在の日赤の担当者は「個人の考えだろう」と、否定していましたが。

 日本赤十字社の責任も追及して「労をとれ」と帰国者の家族や縁者がまずやる必要があると感じます。もう一つ、帰国に協力した日本人の問題。日朝協会や帰国協力会の構成団体などに提起をして、やってくれと協力を求めることです。

 さらにマスコミの責任は大きく、犯罪的だと思うんです。当時の帰国が始まってすぐ「朝日新聞」、共同通信を含め5社の新聞記者が北に招待され、帰国者や北朝鮮を報道した記事は「地上の楽園」だというものういった発言をし、著書をあらわしている。

 「地上の楽園」ではないというものは、当時反共宣伝をする目的とした出版社『全貌』社から出されていたので、反共宣伝として受けとめていた。マスコミの責任は重大であり、ここにも協力を求めることが大事だと思います。

司会 梁先生。在日の方々に、
これをやろうと呼びかけられるわけですか。

それぞれの立場、それぞれの会議が大事 梁永厚

 それぞれの立場、それぞれの会議で主張するというのが大事じやないかと思います。というのは存日で、自分の兄弟や親が北に帰って消息がつかめない。

 この点について8月4日付の毎日新聞は「朝鮮総連の第一副議長が金正日から直接指示を受けた」と記事にし大中央委員会をやっている。どういう事を決定したかというと「活動方法を転換しなさい」。在日の立場で活動する。今までは政治主義に走って誤っていた、と全国の幹部を集めてやっている。

 それなら帰った人の家族が心配でたまらん。物を送っても届かない。在日はまず、同じ在日の立場で朝鮮総連に「ものを言っていく」これが大事です。

司会 時間の関係で残念ですが、諸先生から出された問題や、
決意表明や行動提起やら、これからの私どもの運動に
充分反映させていただいて、40周年で運動が終るのでなく、
これが新たなステップにと思っています。
諸先生方に充分お話をして頂けなかったことをお詫びし、
終らせていただきます。長時間ありがとうございました。

(まとめ・文責 八木 隆 関西支部)

北朝鮮難民キム・ヨンファさん仮放免のお知らせと支援要請

 長崎県大村のセンターに収容されている北朝鮮難民、キム・ヨンファさんの仮放免がこの3月30日に行われることになった。

 さる3月6日に「キム・ヨンファさんを支える会・福岡(代表者・真砂友子)と弁護団の方から要請されていたもので、福岡、大阪、横浜、東京各地ですすめられた嘆願署名の効果もあったのか、3月23日に大村センターを訪れた弁護団(矢野正剛、稲村鈴代、松井仁各氏)にそのむね告げられた。

 ちなみに保釈金は50万円。キムさんは当面は拘禁症状による頭痛も出ている状態なので、療養につとめることになる。

 次の裁判は4月14日福岡地裁で行われ、本人尋問が予定されている。「支える会」では、今後の裁判ではキムさんの特別在留が認められるようにと強く要請している。また支援のカンパも要請されている。

(佐倉 洋)

次回裁判:福岡地裁 4月14日(金)本人尋問
「金龍華さんを支える会・福岡」
代  表:真砂友子(アムネステイ・インタナショナル福岡グループ)

事務局長:青柳行信(カトリック福岡正義と平和協議会)

連絡先:〒815―0074 福岡市南区寺塚1ー3ー46
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帰国者からの手紙

 本当のところ国のために、もっと多くの仕事をしようと思ってやったことがこのような結果に終り、あまりにも残念で、おれはどうして朝鮮に来てしまったのかと悔やまれ、自殺でもしてしまいたい気持ちです。

 兄さん、僕のこの切ない心情を誰が理解してくれるというのですか。分かってくれるのは兄さんだけです。一時も早く僕を助けて下さい。妻の立場が非常に苦しい状況に置かれてしまった今、統一されたその日になって兄さんに打ち明けようとしていましたが、今日このような立場に立たされてしまったからには、一部始終お話しすることにします。

 〇〇が外の空気を吸うことなく七八年二月にぺラグラ病で死亡したその原因について具体的にお伝えする時が来たようです。〇〇の死亡原因と僕が七二年七月二日から消えて七八年二月末に再び社会に出て来て生活するようになったことは、ほかでもなく次のような原因からです。

 兄さんが四・三蜂起に参加して仁川少年刑務所に収監されていた時、某牧師か宣教師が米中央情報局のスパイでしたが、その人の力添えで兄さんは日本に渡り、大学を卒業しスパイとして活動しながら僕と〇〇をはじめ多くの人を北に派遣したこと、〇〇と僕もスパイの任務を負って北へ浸透してきたスパイだとして、こちらの当該機関に逮捕されたのです。

 しかし僕は最後までそんな事実はないし、そんな行為を働いたこともないと主張し通したので生きて出てこられたのです。

 しかし、〇〇は僕のように頑張れず、自分はそのような任務を受けたと虚偽の練述をしてしまったために収監され、意志が弱かったために結局のところ病気で出てこれず、その中で死ぬことになりました。

 その中での苦しさ、そして精神的苦痛、あらゆる懐柔と欺瞞、拷問は口では言い表すことはむずかしく、こんな話しを家族には勿論、人に漏らすような時には、ねずみも鳥も知らないように殺してしまうので、話すこともできず今日までこの事実を兄さんにもお伝えすることが出来ませんでした。
 このことが公開されるとなれば僕をはじめ家族は勿論、〇〇の子供たち北にいる親戚一同皆殺しにしてしまいます。プロレタリア独裁の恐ろしさはまさにここにあります。

(中略)

 したがって兄さんが八七年七月に送って寄こした手紙で〇〇の死因について、祖国と総連がその理由を明らかにしなければ世間に公表するといったために、ここにいる僕たちがどれだけびっくりしたか知れません。

 この手紙の内容が公開されることになれば僕たちを一方的にねずみも鳥も分からないように殺してしまうので、どうか兄さんがおさえてぐっとこらえて下さい。再びこうしたことが繰りかえされることはないでしょう。

 僕が今日どうしてこの話をしているのかと言うことをよく理解しなければいけません。祖国に暮らしている僕としては、こうした精神的苦痛のため生活が話になりません。

 僕が生き残ることによって全ての事実が、斯く斯くなる証人者として残ることでしょう。

 兄さん。僕の心境を理解してくれるのは兄さん以外に居りません。兄さん僕が生き残っていなければならないし、そして必ず生きていたいのです。そして統一される以前にでも兄さんに会って全てのこと事実を話さなければなりせん。歴史の証人として統一のその日まで生き延びなければなりません。

(後略)

詩二編

 北の地に渡った在日帰国者と日本人妻に想いをはせて小野美智子さんから二篇の詩が寄せられました。(編集部)

雁よ
雁よ雁よ
かの地へ飛んで行ってはくれまいか
雁よ雁よ
翼をもつお前なら撃たれまい
闇夜に紛れ
飛んで行ってはくれまいか
囲いを超えて
伝えてはくれまいか
悲嘆に暮れる人々に
雁よ
どうか生きてと
必ず行くと
伝えてくれまいか
雁よ

声なき叫び
善良なる人を裁く時
殴打は憎しみを生み
更なる暴カは恐怖をつのらせ
抑圧は心を閉ざし人は永遠に黙るだろうか
いやしかし
軍靴の下に苦汁をなめようと
うず高く人の屍を積まれようと
人の尊厳は滅びず
誇り高き人間は叫びつづける
声なき声で
その声はうねりとなって世界に届くだろう
銃ロを向ける人よ
鞭打つ人よ
君らはやがて悪名のリストに載るだろう
永遠に
2000.3.9 小野美智子)

編集後記

●今号ももりだくさんの内容となり、4ページ増やして20ペ一ジとしました。
昨年12月の関西支部主催の「今、振り返ろう!40年前を!!」と題した集会でのシシポジウムは豪華な顔ぶれで中身も濃いものでした。紙面の許す限り詳しく紹介しました。

●帰国者からの手紙が公開されました。北の家族の命にかかわるような重大なのですが、「身内が大事だからといっていつまでも沈黙しているわけにはいかない」と公表を決意されました。深く敬意を表します。

●講演のテープおこし、インタビュー、投稿など、愛媛や高知、大阪、さらにソウルからも、多くの会員方のご協力がありました。厚くお礼申し上げます。編集部もよくがんまりました。23日から事務所に泊まり込んだり、朝から終電車まで何日も強行軍で編集、印刷、発送のすべてを自力でのりきりました。スタッフのみなさんにもお礼申しあげます。

●第6回総会は目前ですが、一人でも多くのご参加をお願いします。

●前回についで2度目の多摩社会教育会館での自前、手弁当の印刷を手伝いました。とても充実した気分です。この力を今後の会の活動にも生かしていきたい。(キム・チョル)

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