『北朝鮮の記録 訪朝記者団の報告』重工業をめぐる話題 読売新聞社経済部 秋元秀雄

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書籍/映像紹介

 本稿は、1960年に新読書社から発行された「北朝鮮の記録 : 訪朝記者団の報告 」を紹介しています。帰国事業当時「38度線の北」同様、大きな影響を与えたと思われる訪朝記事です。現段階でのコメントはつけません、一つの歴史的資料としてお読みください。

重工業をめぐる話題

読売新聞社経済部 秋元秀雄

『北朝鮮の記録 訪朝記者団の報告』P105

煙の出ない石炭 ー特色ある製鉄技術ー

 金属工業省が直接に管理している清津製鋼所と金策製鉄所、そして黄海製鉄所の三つが、北朝鮮の製鉄部門のカナメといえるだろう。だいたい北朝鮮の重工業は、咸鏡道の北部海岸線と、馬息嶺につながる西海岸の中部平野に集まっているが、この三つの製鉄所も金策、清津が北部海岸線、黄海が中部平原にどっかりと腰を下ろしている。この地方こそ、かつて朝鮮で生活をしたことのある日本人技術者にとって、忘れることのできない郷愁の地である。
 朝鮮動乱のさなか、われわれは東京で、金策はどうなっただろうとか、黄海製鉄所は三十八度線に近いから、大分ひどくやられたのではないか、あるいはまた三菱系の会社にいる技術者は、清津製鋼所の回転ガマは、疎開してあるんだろうな、などと、わがことのように心配しているのを、よく耳にした。
 だが、実際に現地へやってきて、日本でこういう噂が絶えないというのはただ単に日本人のもっている郷愁がそういわせているのではない、ということをはっきり知ることができた。事実、日本の八幡製鉄所でも、富士製鉄、日本鋼管、川崎製鉄といった大どころの製鉄会社の技術者たちは、みな、北朝鮮の三大製鉄所について、いろいろな資料をとりよせ、目を皿のようにしているのだ。 
 何故だろう。日本の技術者はどうして欧米先進国の製鉄技術もさることながら、北朝鮮の製鉄に注目しているのか、それには深いワケがあったのだ。まずとりいそぎ三大製鉄のあらましを紹介してみよう。
 清津製鋼所は、動乱で戦前六基あった回転炉が、全部破かいされてしまったが、昭和二十九年から復旧作業にとりかかり、三十年に回転炉四本を、動かすことができるようになった。その後三十二年に一本、三十三年にもう一本なおし、今度いってみたら戦前のとおり六本の炉が回転をしていた。そして目下、二本増設する計画で土台の基礎工事を進めていたが、このうちの一本は三十五年度中に動き出す予定だといっていた。直径三・六メートル、長さ六十メートル、傾斜二度の炉は、七十秒ごとに一回転しながら、一日に八十トンから百トン近い〝粒鉄〟を生産している。さあ粒鉄というのが問題である。日本人に粒鉄といっても、一般の人は全然見当がつかないであろう。銑鉄とちがうし、鋼塊ともちがう。いわば朝鮮の製鉄を特色ずけるものとして、各国の製鉄技術者の注目の的になっている。くわしくはあとから登場するので、この隣りにある金策製鉄所に目を転じよう。、
 緩衝期にぶつかり、目下工場の設備やら工員の数を第二次五ヵ年計画にそなえ、どのような規模にしたらよいか、幹部が集まって研究中なので、工場の敷地とか、工員の数は、ついに教えてもらえなかったが、千トン高炉が二基、景気よく煙をはいていた。また黄海製鉄所にいったとき、八百トン高炉が、これまた景気よく出銑している真最中であったが、金策と黄海のちがいは製品の製造段階にある。つまり黄海の方は銑鉄から厚板、薄板、丸鋼、帯鋼、型鋼まで一年間に十三万トンほど一貫してつくる設備をもっているが、金策は高炉で銑鉄を流し出すだけ、あとはこの銑鉄を貨車に積んで、地方の鋳物工場へ送り出している。こういうちがいがあるわけだが、ここにまた注目されるような共通点が一つある。それは両方とも、銑鉄をつくるときコークスに鉄鉱石の粉鉱を十五%から二〇%ぐらいまぜあわせてつくった「鉄コークス」というのをひとまずつくり、これで銑鉄をつくっていることである。これも日本ではやっていない方法だ。粒鉄といい鉄コークスといい、さきほどもいったように、これが北朝鮮の製鉄におおいに特色をもたせているのである。
 それなら朝鮮はどうして、こんな変わった鉄の作り方をしているのか。はっきりいうと石炭がないからだ。いやそんなことはあるまい。戦前、日本は朝鮮からレン炭や豆炭につかう石炭をたくさん輸入していたではないか。さんきんも韓国から豆炭を輸入しようとしたら、突然韓国が、日本には石炭をうらない、といい出して業者はずいぶんこまってしまった経験があるではないか。事実はそのとおりだが、石炭は石炭でも朝鮮の石炭は無煙炭といって、煙のでない石炭なのである。レン炭や豆炭用には、火をつけてぼんぼん煙が出たんでは困る。そのかわり石炭が燃えるとき、そんなに大きなエネルギーを出さなくてもいい、とざっとこんな具合なのである。ところが炉の中で鉄鉱石をとかし、鉄分をとり出す石炭は、煙が出ても強い粘結力、エネルギーをもったものでなければならない、これが朝鮮の山にはないのだ。みんな中国からカイラン炭とか双鴨炭を買ってきてつかっている。
 黄海だけで月に五万トン以上のカイラン炭が大同江から運ばれてきていた。原料炭を全部、外国に頼らなければならない、というところに朝鮮の製鉄所のいちばん大きい悩みがあるのだ。逆に言えば〝石炭の節減〟これが製鉄技術者の第一目標になっている。そうした環境から生まれ出てきたのが、粒鉄であり鉄コークスなのだ。粒鉄とはどんなものか、まずこれを説明しよう。どこの国でも鉄をつくる順序は大抵きまっている。高炉に鉄鉱石を入れる。そして粘結炭をもやしてつくったコークスを、この中に入れて溶剤を加えて火をつけると、下の蛇口からドロドロに溶けた鉄分が流れ出てくる。これが銑鉄だ。ところがこの銑鉄には、鉄のモロサのモトになる炭素分が、まだ三・四%から多いものは四・三%も含まれている。そこで銑鉄をもう一度製鋼炉に入れて、炭素分が一・五%ていどにおちるまでやきつくして、鋼のかたまりをつくるわけである。だが、朝鮮にはコークスをつくる粘結炭がない。そこで現場の労働者や技術者が集まって、よりより相談したあげく、回転炉の中にまず鉄鉱石をいれて、そこへこれならどこを掘っても出てくる無煙炭を吹き込んで、特殊な溶剤をいれてやくことにした。そして出てきたものが、ブツブツになった鉄のかたまり、いわゆる粒鉄である。チェコスロバキア、ポーランド、西ドイツ、ソ連などで試験的に、こまこれをまねてつくっているが、回転炉をとおるだけで粒鉄には炭素分が一・五%も入っていない、というデータがでている。
 鉄コークスも、コークスをそのままもやしたのでは勿体ないから、最初からこれに粉鉄をまぜあわせてから、もやす、これも粘結炭の節減をねらった技術である。
 粘結炭がないことは、日本でも全く事情が同じである。日本の製鉄技術者が、郷愁をこえて粒鉄や鉄コークスに目をつけているのは、じつはこうした理由がひそんでいたのである。

金属を削るのに油は要らぬ ー機械工業の水準ー

 正月を平壌のホテルでおくり、一月の中旬に東京へ帰ってきたが、あれから二ヵ月ばかりの間、私はずいぶんおおぜいの在日朝鮮人と話をしてきた。呼ばれて北朝鮮の話をしにいったこともあれば、わざわざ私をたずねてくる人もある。こうした機会を通じいろいろの質問を、いろいろの層の人からうけたが、その中で一番、関心をもたれているのが、祖国の機械はいったいどの程度のものであるか。〝祖国の機械工業の水準〟はどれくらいか、ということだった。これには私もきわめて意外の感をにうたれてしまった。自分の国の国産機械が、どのていどの実力をもっているか、これに無関心の者はいないだろう。しかし会う人ごとに、といっていいほどこの質問が出るとは、思ってもみなかったことである。ある在日公民は、「あなたは、ものによってはもう国際水準にある、などといったが、とうていそんなことは信じられない」と立場がいれかわったようなことを聞く人もいた。
 「ものによっては国際水準にある」このことはまぎれもない事実だ。成興市の郊外に、国立竜城機械工場を訪ねたときの話をしよう。この土地に戦前、日本の野口系の会社が、きわめて小規模の機械工場をここにたてたが、すぐ終戦となり、その存在は当時朝鮮にいた日本人でも、あまり知らなかったほどの工場である。ところがここ二、三年のうちに、この工場の名はだんだん日本にも知られるようになってきた、どうしてであろう。
 ソ連や東欧諸国が全部無償で、素材から組みたてまでの一貫設備を、ここに建設してくれたからでもない。製鉄から鉱山関係、鉄道用、化学工業用からセメント用の機械にいたるまで、大型発電機を除いたら、なんでもつくっている、という万能工場であるという点でもない。ここの鋳物の素晴らしさと、朝鮮がほこる超硬切削工具の実力が、この工場でいかんなく発揮されている、という二つの事実が注目されているのだ。
 朝鮮には鋳物につかう優秀な砂があることは、古くから日本でも知られていた。しかし戦前は、これが十分に開発されないままほおっておかれたのである。それをこの工場の技術者が、みごと探し出し、いまここには黄海南道の夢金浦、成鏡ママ南道の利原羅興などから、硅酸分八〇%、アルミナ分のほとんどない理想的な鋳物用の砂が運こびこまれている。この結果、戦前一段式であったこの工場の鋳鋼法も、多段式にきりかわっていたし、鋳物工場の電気炉、溶解炉から流れ出る鋼塊で、コンプレッサーからタービン、汽関車、貨車の車輪までどしどし鋳造できるようになったのである。
もうひとつの関心――。
 それは豊富な特種鋼資源にものをいわせ、北朝鮮はここ四、五年来、非常に硬質の切削工具をつくり出しているということだ。ところが、一部これは外国にも輸出されているので、日本の業者もこの工具を、すでに手に入れてつかっている者もおり、この関係から〝朝鮮バイト〟の名は、ようやくわが国でも、その名を知られ出したのである。竜城でつかっている高速旋盤はソ連製であったが、これにはめ込んであるバイト(切削工具)は国産バイトだ。これはどこの国でもそうだが、ふつう加工素材にバイトをかけて金属を削るときは、バイトの歯こぼれを防ぐため、切削面に上から油を注ぎかけるのが常識である。ところがよくここの現場で注意してみると、たいていのものは注油することなく、直接バイトをかけている。
 私は機械の止まるのをまって、そっとバイトの歯を調べてみたが、むろんなんともなっていない。これはおどろくべきことである。全炳漢支配人は、「製品はまだまだ国際的水準に達していない」とけんそんしていた、事実、現場で組立て中の八百馬力のエアーコンプレッサー、二百馬力巻き揚げ機、千五百馬力減速機、シャフトから各種圧延機などをみても、製品としてはまだ荒けずりの点はあるが、朝鮮人が自分の手で全く新しく開拓した鋳物と切削工具の水準は、十分国際的水準と認めてよいだろう。

国旗勲章〝千九百人〟 ー脅威の復興、肥料工業ー

 北朝鮮の工場で、これほど動乱でメチャクチャに破かいされた工場はないだろう。記者団がこの工場を訪ねたとき、事務所には全柄彩副支配人をはじめ金鋌雲副技師長、工務部長の任基宰さんから経理部調や硫安、硝安、運輸、硫酸部門の各責任者が、おおぜいでわれわれをまっていた。金柄彩さんの話によると、この工場には、労力英雄が副技師長の金鋌雲さんのほかにももう一人いる。そして国家から業績を認められて国旗勲章をもらった労働者が千九百人もいる、という。そして彼等が、いかにして労力英雄になり、また勲章をもらったかという話になったら、全さんは得意このうえもない、という楽しそうな顔でしゃべりまくっていた。
 ところが話が、三年間の戦争におよんだ途端、全さんは勿論、同席していた人たちはみな一瞬顔つきがかわってしまった。それはあまりにも、ひどかったからだ。動乱が開始された昭和二十五年の八月一日に、アメリカのB29が百機も、この工場の上空にあらわれ、四時間にわたって爆弾をおとした、と全さんがいったとき、副技師長以下、工場の人たちはみな大きくうなずいた。そしてその後三年間、毎日のように爆撃をうけ、しまいには艦砲射撃までうけた。小型爆弾は計算に入れず、大爆弾と艦砲射撃だけで、この工場は六平方メートルに一個の割で爆弾をあびたそうである。しかも二ヵ月間この地方は国連軍に占領され、それでも残っていたわずかの設備は、これで根こそぎ破かいされた。とにかく完ぷなきまでにやられたわけだ。それだけに生産再開まで、ずいぶん時間がかかったという。昭和三十年の八月になって、やっと硫安の生産が再開され、第一次五ヵ年計画をむかえ、ソ連の十億ルーブル無償援助の一部で、戦前はなかった硝安工場をふやしたり、いまでは過燐酸石灰を合わせ、化学肥料の生産高は、全国の七〇%を占めるほど復旧したわけである。そして硝安工場へ行ってみたら、袋詰めにされた硝安には中国行きのスタンプがどしどしはられ、輸出の花形にのしあがろうとしていた。話を聞くまでもなく、現場をひとまわりしただけで、よくまあここまで復旧させた、ということはひと目でわかる。まだ工場の隅には、爆弾でやられたままの工場が、そのまま残っており、その右の方に新しくつくり直された硫安工場が、きわめて対象的に向かいあっている。これでは勲章をもらった労働者が千九百人いても、ちっとっもおかしくないわけだ。
 そして、成興ママ市と興南史を結ぶ街道に、新設された化学工場の本格的な可動はあと一、二年ということだが、この化学工場とお互いに原料や製品を交流しあう時期がきたら、またひとつ大きく発展することだろう。すでに金鋌雲さんを中心に、ことしから熱源に石炭のガス化を実現しようとしており、これが軌道にのればアンモニヤ系の肥料の生産は、またぐんとふえるはずである。

〝特許料〟を払います ー労働者の給与体系と労務管理ー

 社会主義国家というのは、すべて平等が原則だから、いくらたくさん働らいたって、それほど働かない人と給料は同じだろう。こんな事を本当に思っている人もあるかもしれない。
 だが北朝鮮の労働者は、一軒の労働者アパートに、給料のちがった労働者がたくさん同居している。アパートは原則として職場のすぐそばにたてられるので、同じアパートには、これまた原則として同じ職場の人間が住む傾向が強いわけである。それでいて隣りの部屋の人は、五十五円をもらっているが、その向かい側の人は百二十円も月給をもらっている。その隣りは、また九十五円もとっている。しかもこの人は、工場から先月ラジオを給与の一部として買ってもらった。いったいこれはどうしたわけだろう。労働者の給与水準については、他の報告にもあるだろうから、ここでは給与体系について報告をすることにする。
 北朝鮮で〝あなたは月給いくらもらっていますか〟と聞くと、かならず名目賃金はいくらいくらです、と答える。となるとそれ以外に収入があるような感じをうける。事実それはある。つまり名目賃金というのは、業種によってちがうが、大体五十円から六十円ていどと全国的にきめられており、どんなに能率の悪い人でも、これだけは最低線として保証されている。そのほかに「都給制」とよばれる日本の過勤料に似た制度があるのだ。政府は各現場ごとにその月の生産指示量を割当てるが、その現場が非常に能率よく仕事をして、このノルマを達成してしまうと、このあと超過して生産した分に対し、一定の率で奨励金が出るようになっている。しかし一定の率で無制限に計算していくと、月給のトータルが実際には二百円にも三百円にもなる人が出てくる。同じアパートに住んでいて、これではあまりに差がついて、いろいろとさしさわりも出てくるおそれもあるので、現金で支給する額は大体、百五、六十円で、頭を抑え、これを超過した分は、支配人が四半期ごとに計算したうえ、月給だけではとうてい買えそうにもないラジオとか時計とか、高級なオーバー生地、背広とかを買って支給する賞品制度を併用しているのである。清津製鋼所へいったとき、例の朴容泰支配人が、ちょうど第四・四半期(北朝鮮では一~十二月を一年度としている)分の賞品として、六万円分(日本円で九百万円)の賞品を買い集めていた最中だった。だから朝鮮ではラジオをそなえ、日曜日など腕時計をはめて背広を着込んで家族連れで外出する労働者は、それこそ全く模範的な労働者であり、時計、ラジオは贅沢品というより、国家への忠誠のシンボルといえるわけである。
 さらに労働者には、もっと魅力的な収入の途が開かれている。生産性の向上や環境衛生の改善に役立つような発明をした者に、国が特許料を支払う制度が生きているのだ。社会主義国家と特許料、これはちょっと奇異な感をもつが、とにかく特許料が払われていることは事実である。朴支配人に、この話しを聞いたとき、私と同席していた清津の帰国公民迎接委員の許さん、また通訳の朴哲さんも、これはどうも初耳です、とばかり私と一緒に、じつに興味深く聞き耳をたてていたほどだ。
 朴支配人は『ちょうど昨日、政府から二百円のお特許料をもらった労働者が、この工場にいるから、その人の場合をお話ししましょう』といって、くわしくそのいきさつを語ってくれた。
 尹命満さんという三十八才の回転炉修理工が、その主人公であった。この労力英雄の卵は、かねてから回転炉のまわりにモヤモヤしているチリが気になって仕様がなかった。そしていろいろ青写真をかきながら研究した結果、ついに回転炉の集ジン装置を発明したのである。これまで回転炉から出るチリは、そのままサンドポンプで吸いあげて捨てていた。ところがこの中には鉄鉱石からでる鉄分や無煙炭の粉などが、まだたくさん含まれており、これがまたモヤモヤのもとになっている。そこで尹さんは、チリに水をかけて、ますこれがとび散らないようにして、さらにこれをチェーンコンベアでふたたび炉の中にもどすことを考えついたわけである。この考えが政府に建設的な創意として認められ、金属工業省は、この装置を早速二本の回転炉にとりつけることを命令し、一本につき百円、二本で二百円の賞金が、きのう尹さんの手もとに届けられた、という筋書きである。朴さんは、賞金といっていたが、立派に特許料といえよう。ただ資本主義の特許料と、ちょっとちがう点がある。資本主義国家の場合は、特許権というのは半永久的に個人所有が認められるが、朝鮮の場合はそうではない。現在、ある回転炉に、この装置がとりつけられた場合は、その炉が北朝鮮のどこにあっても尹さんに一本につき百円の金を払うが、今度政府が全く新しい工場を、どこか別のところに建設し、その回転炉に最初からこの装置をとりつける場合は、すでにその特許権は政府のものに帰属する、ここが根本的にちがうところである。

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