かるめぎ No.38 2001.05.01

会報『かるめぎ』の過去号を、旧サイトから、順次こちらにアップしていきます。この機会に、過去の『かるめぎ』を通して、守る会の歩みを知っていただければ幸いです。

「第8回総会」開かれる  

 北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会の第8回総会が、4月7日午後、東京文京区のシビックセンターで開かれ、およそ20人の会員の出席のもと、これまでの活動の総括をふまえて2001年度の活動方針を決定しました。

 総会はまた、朝鮮総連の韓徳銖議長の死去(2月21日)にさいし「韓徳銖の死去と“帰国事業”」と題した声明を採択しました。

 総会は今年度の共同代表および運営委員13人を選出(別項)し、閉会しました。

 総会に先だち4月7日午前、地方からの会員もまじえて各支部の交流会が開かれ、各地の経験が交換されました。

<2001年度新役員>(50音順)

・ 共同代表 小川晴久、金 民柱、萩原 遼

・ 運営委員 川崎孝雄、金 国雄、佐伯浩明、佐倉 洋、宋 允復

       高柳俊男、谷川 透、長崎敬一、八木 隆、山田文明

2000年度活動報告と総括

1.どんな活動をしたか

1)日本人妻里帰り(第3陣)に際しての行動

・ 2000年9月12日(火)夜、成田空港での出迎え要請。会員3名、横断幕とチラシを準備するも、メンバーが少なかったため空港警備員に阻止される。

・ 9月17日(日)宿舎であるオリンピック青少年記念センター正門前で意思表示。雨の中、会員10名で横断幕を掲げ、チラシ(「旧態依然たる里帰りを批判する」)を配布、日赤職員にはアッピールできた。

2)朝鮮総連はじめ諸団体への要請活動

・ 5月11日(木)午前11時~。去る4月9日の総会決議を持って総連本部に出向き手渡そうとするも全く応対せず、正門前でシュプレヒコール抗議。JR飯田橋駅頭でチラシまき。参加会員7名。

・ 7月2日(日)北朝鮮人道支援国際NGO会議、7月3日(月)日朝国交促進国民協会設立講演会で要請-北朝鮮の強制収容所に目を向けてほしい旨の要請文(チラシ)を配布。7月2日会員2名、7月3日会員1名で。

3)12月8日第2回北朝鮮人権難民問題ソウル国際会議に参加。

今回の主題は脱北者難民問題だったが、守る会から小川共同代表、朴春仙さんが参加、強制収容所廃絶の重要性を訴える。

4)学習会・講演会

<東京>

・ 7月15日(土)「金英達さん追悼学習会」帰国者テノール歌手・金 永吉(永田弦次郎)の経歴研究と朝鮮総連研究を中心に(報告:小川晴久氏)

・ 9月16日(土)「日朝国交交渉と北朝鮮の人権」「アメリカの国家戦略と南北首脳会談及び日朝交渉」(講師:萩原 遼氏)、「人道援助のあり方について」(講師:川島高峰氏)、「北朝鮮難民 金龍華氏のあいさつ」(講師:金 龍華氏)「日朝交渉と過去の精算」(講師 谷川 透氏)

・ 12月1日(金)講演討論会「南北頂上会談への大いなる疑問-帰国事業と朝鮮総連の責任」   (講師: 金 民柱氏)

・ 2001年3月3日(土)第1回 北朝鮮人権市民大学「北朝鮮学入門」(講師:朴 龍鎬氏)

<大阪>

・5月20日(土)第11回関西支部講座「済州島蜂起、朝鮮戦争、そして朝鮮総連を生きた私の半生から、今考えること」(講師:金 民柱氏)

・7月16日(日)第12回関西支部講座「在日70年運動と生活体験から21世紀の在日を考える」 (講師:梁 永厚氏)

・9月9日(土)第13回関西支部講座「米国取材報告アメリカの北朝鮮戦略と南北首脳会談」(講師:萩原 遼氏)

・11月25日(土)第14回関西支部講座「吉林の新聞記者が見聞きした北朝鮮と脱北者の現在」(講師:延 日氏)

・2001年3月10日(土)第15回関西支部講座「報道写真家がとらえた離散家族再会の現場、そして南北の日本人妻たち」(講師:山本将文氏)

<東海>

・12月2日(土)金 龍華さん、朴 春仙さんを招いて話を聞いたのち夜、「帰国事業」(講師 梅村雅英氏)の学習を行なう。(一泊合宿)

5)街頭行動(駅頭チラシまき) 5月11日 飯田橋駅頭

6)会報『かるめぎ』(No.33~37)を発行。 今年度の『かるめぎ』は東海支部の金国雄氏が中心となり制作、印刷と発送は関西支部にすべて担当していただいた。編集委員会と編集体制がしっかりし、誌面も充実した。

7)『生命と人権』の刊行。英語版はソウルの市民連合との共同編集で、No.15~18がソウルで刊行(守る会は毎号、分担金を払う)。日本語版は今年度から不定期刊となりNo.14を8月、No.15を4月(近刊)に刊行。

8)「守る会」インターネット・ホームページを愛媛の会員・福本正樹氏が引き続き開設。

9)中国・四国支部の結成。2001年3月25日、愛媛県松山市で設立。運営委員4人(支部長・八木 隆氏、事務局長・池田正彦氏)と活動方針(重点-中国・四国とまたがるためITを利用した支部活動を行なう)を決める。

2.問題点

 事務所の管理がひき続き不十分で、守る会への問い合わせに十分対応できていないことが最大の問題である。

情勢

1.帰国者のおかれた状況

 帰国者の状況に大きな変化はみられない。すなわち、帰国者本人の場合は資本主義の日本から戻ってきた信用のおけない者ということで、また日本人妻(夫)の場合は日本人の血が流れている汚れた者ということで、低い「成分」(階級)にランクされ、差別されている。帰国者の2割が強制収容所に送られたという見方もあり、収容所送りの比率が異常に高い。2世、3世と世代が下がると、姜哲煥氏のように祖父が「政治犯」として強制収容所送りになったのに連座して、年端もいかない子供までが収容所に送られるといったケースがある一方、なかには上級の学校に進学して専門職につくようなケースも無いわけではない。ともあれ、帰国者が置かれている人権状祝は全面的に改善されなければならない。また、この問題を離散家族問題としてもとらえ、帰国者が日本へ自由往来できるようにすべきである。この場合、「国交が回復されなければ、帰国者が北朝鮮から日本に来ることなどありえない」と考える必要はない。日本の肉親が北朝鮮に行って帰国者に会っているように、帰国者が日本に来れるようにすればいいのである。

 他方、帰国者は、日本に残った家族・親戚から送金を引き出すための「人質」として利用されている。80年代に入ってからは、強制収容所にいる帰国家族の安全のための献金という名目で、財力のある在日朝鮮人から個別に資金をむしり取る「一本釣り」が始まった。近年は、日本の身内に金を要求する目的で帰国者家族を逮捕するというひどいケースが増えている。容疑はなんでもよい。逮捕しておいて釈放条件として金を要求するのである。(『週刊文春』99年8月12日号、櫻井よしこ「北朝鮮『闇送金ルート』の驚くべき実態」、元朝鮮総連幹部・朴日好氏の証言より)

2.北朝鮮の国内状況

 北朝鮮は国連人権小委員会で国内の人権状況について追及され、一度は脱退を宣言して退席したが、その後また同委員会に舞い戻ってきている。しかし、12ヵ所の強制収容所を設けて数万人の「政治犯」を収容し、その脅迫で国全体を「格子なき牢獄国家」と化しているという人権抑圧の状況には何の改善もみられない。

 1995~98年の飢饉では300万人以上の餓死者がでたといわれ、クーデターも発生したが(1995年に第6軍団の一部が起こした蜂起未遂事件)、以後、アメリカ、中国等の食糧援助、石炭提供などもあって、北朝鮮経済は少なくとも国中が飢餓状態という状況は脱したと言われている。

 脱北者は飢饉の後も大量に出ている。問題は、中国が取り締まりを強化し、捕まえた朝鮮人を北朝鮮に送り返すところにあり、その結果は悲惨なことになる。また、中国その他の国を経由して韓国にたどりついた脱北者に対して、「太陽政策」を掲げる金大中政権が冷たい「北風」で対応をしていると伝えられるのも、気掛かりである。

 金大中政権は最近、「太陽政策」の批判に対してなりふりかまわず弾圧をするようになった。97年に亡命した黄元朝鮮労働党書記が昨年11月に論文を発表して、北朝鮮の軍事的脅威を指摘しつつ金大中大統領の「太陽政策」に警鐘を鳴らしたところ、国家情報院(KCIAの後身)は彼に、政治家・ジャーナリストとの面会禁止、講演・出版の禁止、情報院の敷地内の「安全家屋」からの立ち退きを命じたり、また最近は、「太陽政策」に批判的なジャーナリストに対して大掛かりな身辺調査を行なうなどしているが、これは民主主義の名を冠した独裁ではなかろうか。統一ならなんでもよいとして、金正日軍事独裁の顔色をうかがうかのような金大中大統領の最近の姿に、韓国でも批判が強まっている。

3.北朝鮮をめぐる国際情勢

 1995~96年の北朝鮮の飢饉の時期と、その後しばらくの間、北朝鮮の体制の危機が深まり、われわれの間でも北朝鮮国家の自動崩壊を心待ちにするところがあった。しかし北朝鮮はなんとかこの時期をしのぎ、軍事独裁と人権抑圧の体制を温存して今日に至っている。「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る」ことを課題とする私たちは、こうした状況下で、今年の運動方針を立てていかなければならないわけだが、この間、大きな変動のあった北朝鮮をめぐる国際情勢について、見ておく必要がある。

 話は1993年にさかのぼる。85年に「核不拡散条約」に調印し、それまで国際原子力機関(IAEA)の査察を受け入れてきていた北朝鮮は、同国が申告していなかった施設2ヵ所への「特別査察」を要求されて、強硬に拒否した。いわゆる核開発疑惑である。北朝鮮は核不拡散条約からの脱退すら宣言し、1年以上にわたって緊張が続いた。そして1994年3月、南北実務者会議で北朝鮮の代表が「ソウルを火の海にしてみせる」という爆弾発言を行なったのである。

 国連安保理では、北朝鮮に対する原料や製品の輸出入、外交関係の中断などの制裁措置が検討され米国は戦争の準備に入った。これが日本に波及したものが「新ガイドライン」であり、最近の「周辺事態法」である。

 98年8月末、北朝鮮は長距離ミサイル「テポドン」の実験をする。少し軽い弾頭を積んでなら、アラスカやカナダにまで到達する飛行距離をもっていた。クリントン大統領は核兵器とミサイルの双方をカバーするような広範な妥結を模索して、ペリー前国防長官を平壌に派遣した。その結果、アメリカは、ミサイル実験の一時停止と引き換えに、制裁措置のほとんどを緩和させることに同意した。しかし米国議会がこの合意に納得せず、米朝交渉は2000年3月に中断されてしまった。

 金正日総書記が一番望んでいたのはアメリカとの平和条約の締結だったといわれる。1953年の「休戦協定」は暫定的なもので、朝鮮戦争はまだ完全に終わった形にはなっていないということもある。また、朝鮮半島の正当な政権は北朝鮮であり、その北朝鮮が朝鮮を代表してアメリカと交渉する形にしたいということもあるだろう。それがだめになってしまった。そこで事態を打開するため、金大中大統領がかねてから提案していた南北首脳会談の実施を受け入れることにしたわけである。このようにして、2000年6月、南北首脳会談が開かれた。 南北首脳会談によって、金正日の思惑どおり対米交渉の膠着状態が解け、クリントンは制裁措置の緩和を実施するために必要な国内の支持を取り付けた。そして金正日は自分の代理人として趙明録国防委員会第一副委員長をアメリカに送り、クリントンはオルブライト国務長官を平壌に送った。しかし事態はここで止まってしまった。クリントンの訪朝はなかった。オルブライトは、合意が難しいと考えたわけである。

 どこがネックになっているのだろうか。それはいずれも軍事的な問題である。日本と駐留米軍をターゲットにできる中距離ミサイル・ノドンの生産と配備の停止について、また北朝鮮が38度線近くに展開している戦車などの戦力――それは朝鮮戦争で北が南になだれ込んだ時の陣形に似ている――の引き上げについて、検討が進まないのである。

 金大中のほうは、軍事はわきにおいて、経済的な交流だけを進めているから、話はかなりスムーズに進んでいる。200を越える韓国の企業が、平均賃金が韓国の10分の1の北朝鮮の既存の工揚に、原材料と一定の機器を提供して、アパレル、テレビなどの消費材を発注し、製品を韓国市場と、一部∃ーロッパ、中国、ロシアに輸出している。そのほか、南北間をつなぐ鉄道の再建、ロシアから北朝鮮を通って韓国に至る天燃ガスのパイプライン、現代建設が協力する形の開城投資特別区の開発、(イタリアの)フィアットと韓国の企業が提携する形の自動車生産等の話が進んでいる。

 ただし、破綻に瀕している現代建設に、それが南北和解に貢献しているからという理由で膨大な国家資金をつぎこんだり、韓国経済全体が失速しているのに南北和解の話ばかりしているということで、金大中の支持率は低迷をきわめている。

 そこに、アメリカの新大統領・ブッシュの政策の明らかな変化がある。ブッシュは、何がなんでも北にすり寄っていく「太陽政策」に、はっきりと不快感を表明している。

 また、日朝国交交渉もしばらく開かれない状態が続いており、こちらも冷めてきているといってよいだろう。

 こうした最近の情勢を見ると、北の軍事的脅威を過小評価し、狡猾で政略的な対応に迎合するばかりの「太陽」フィーバーは、もはや過ぎ去りつつあると言っていいのではないか。

 ひたすら事態の推移に押しまくられるのでなく、じっくりと腰を据えて作戦を立て、それを実現していくことができる環境が整ってきたといえよう。

2001年度活動方針 

1.帰国者の人権を擁護・確立し、自由往来をかちとる活動

1)韓徳銖の生前に帰国事業の責任を追及できなかったのは残念であるが、彼の死を一つの契機として、帰国事業の責任を総連に対して追及する。対総連裁判にもとりくむ。

2)帰国者が人質としてとられ金づるにされている事実や、帰国者問題は離散家族問題でもあることを国際的にアピールしていく。とくに韓国政府、日本政府に再会の実現を促す。

3)在日帰国者が一部脱北、難民化しつつあるので、日本への救出と日本社会への定着のために、できる努力をする。

4)帰国事業40周年に当たって、ひきつづき帰国者の実態調査につとめ、帰国者の生の声(手紙)を集めて、原案を改善して懸案の本作りを実現させる。

5)中国政府、国連に脱北者を難民として認定し、保護するよう呼びかける。

2.強制収容所の廃止をめざす活動

1)強制収容所体験者の手記を読み、かつ読んでもらう運動を進める。

2)ソウルでの2回の国際会議の成果であるフレンズ・ネットワーク(北朝鮮の人権状況改善のための国際協力と、そのための情報提供体)に参加し、またそれを活用して、国際社会に訴える。『生命と人権』(英語版)作りにひき続き参加する。

3)第3回の国際会議をヨーロッパで開催できるよう努力し、それに参加する。

4)安赫氏が進めている強制収容所を映画化する事業を支援する。

5)姜哲煥、P・リグロ『平壌の金魚鉢』(フランス語版)の日本語版刊行に努める。

6)姜哲煥氏を日本に招き、各地で訴えてもらう。

3.北朝鮮人権市民大学(講座)の開催

 毎月1回の割合で北朝鮮の人権抑圧の実態をとりあげ、その全貌を明らかにする。国内のマスコミや各界にアピールしていく。12月の人権週間に北の人権問題にとりくむ他の市民組織にも呼びかけ、集約的なシンポジウムを開催する。

4.具体的行動(集会、その他)と結合して、駅頭・街頭活動を行なう。

5.支部建設。東海、中国・四国支部結成に励まされ、東北(仙台)、九州(福岡)で支部結成をめざす。韓国(ソウル)支部を具体化する。

6.『生命と人権』の刊行と普及

1)英語版を、韓国の市民連合と共同で、ひき続き刊行する。アメリカ、フランスを含めた共同刊行をめざす。

2)日本語版は独自編集にし、不定期のタブロイド版にする。フレンズ・ネットワークが発信する国際的なとりくみを機敏に国内紹介していく。編集委員会を確立・強化する。

3)第15号までの『生命と人権』(日本語版)のバックナンバーを普及し、活用する。

7.『かるめぎ』(機関誌)の発行。隔月刊を確保する。

8.守る会のホームページを活用する。

9.守る会を紹介するパンフまたはリーフレットを作り、会員拡大につとめる。

10.日赤、朝鮮総連、日本政府、政党、人権NGOなどに働きかける。フレンズ・ネットワーク(韓国の市民連合が当面の事務局)が提供する情報をも活用し、かつ連帯する。

11.事務局態勢、運営委員会の強化、部門別専門委員会を作る。

韓国の北韓人権市民連合のユン・ヒョン理事長からのメッセージ

祝辞

 北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会の年次総会に際し、謹んで連帯のあいさつを送るものでございます。

 守る会と市民連合が協力関係を結んでから、いつしか5年たちました。その間、北朝鮮の人権改善をめざす連帯の輪はアメリカ、ヨーロッパと広がりました。アメリカでは、民主主義財団(NED)と防衛フォーラム財団(DFF)が北朝鮮政府に人権改善を求めるよう政府と議会に精力的にはたらきかけています。一方、ヨーロッパではフランスの知識人たちが中心になって「北朝鮮人民を助けるヨーロッパ委員会」を結成、熱心に世論喚起につとめています。最近、ドイツ政府が北朝鮮と国交を結ぶ条件として外交官、国際人道団体職員、ジャーナリストたちの移動の自由の保障を求めたのは、かれらの活動の結果ではないでしょうか。もし近いうちに、ヨーロッパでの国際会議開催が実現されたら、北朝鮮の人権問題に対するヨーロッパ人の関心は一挙に高まるでしょう。

 今までの経過から見て、この運動の発展はひとえに日韓両団体の緊密な協力にかかっていると言えます。では、お互いにより一層がんばりましょう。総会のご成功を心から祈ります。

2001年4月6日 社団法人 北韓人権市民連合

         理事長 ユン・ヒョン

中国・四国支部 誕生!!

 3月25日(日)、松山総合コミュニティセンターにおいて、中国・四国支部が誕生。前日の芸予地震のあおりで交通機関がストップなどで、参加者は決して多くとはいえない人数でしたが、共同代表・小川晴久さんをはじめ、関西、東海支部のメンバーも駆けつけられ、多彩な人たちでの発足となりました。

 まず、設立準備委員の福本正樹さんから簡単な経過とこれからの活動として講演会、学習会、懇談会の開催を中心としながら、ITを活用した情報交換など、積極的な活動を展開していこうと提起。

 つづいて支部長・八木隆、事務局長・池田正彦、事務局・福本正樹、松浦照雄を役員として選出しました。

 萩原遼共同代表の記念講演では、現在、アメリカで94年当時の米国国務省担当官による米・朝交渉秘録を含めた回顧録がたくさん出版されており、それらを見ても朝鮮半島問題に日本がどっぷり組みこまれており、(これらのことはさらにアメリカにおいて調査・研究したいとのこと)ガイドライン体制において、当時よりさらに危険な状況が増幅していること。

 金正日は内外の危機を乗りきるため「核」対決を最大の交渉の道具とし、南北会談以降もそのスタンスはまったく変っていない。2002年のワールドカップまでに日朝国交樹立を――との論調があるが、それらの多くは北朝鮮の人権問題を事実上棚上げしており、もっと長期的な視野で見ていく必要があることなどが指摘されました。

 また、萩原遼+趙博記念トークでは「南北会談への期待感が単なるデモンストレーションにすりかえられ改めて失望感が生れてきている」現実を二人のたくみなはなしの中でうきぼりにされました。

 趙博さんの記念ライブでは「一本の鉛筆があれば人間の生命と私は書く」(一本の鉛筆)などしっとりとした歌から、ロシア民謡・中国語・韓国語、はてはフィリピン風「君が代づくし」の趙博流スタイルの歌まで、短い時間楽しむことができました。(文責:池田正彦事務局長)

今後とも中国・四国支部をよろしく!

 推されて、中国・四国支部の代表になりました。私は在日朝鮮人の帰国運動に関わり、晩年になり心を痛めています。この間、3回の里帰りのみで日朝往来が果たされていません。

 多くの帰国者が老境にあり、里帰りを望んでいる事と思います。早急な国交は望めそうもないが、人道問題として帰国者の往来を実現したいものです。まず実情を知る、知らせる活動から取組をと考えています。ご支援を。(支部長:八木 隆)

中国・四国支部結成の支援に感謝

 3月25日、支部が結成されました。これにより、講演会や学習会など個人では困難なことが開催され易くなりました。支部の会員は各県に分散していますので、これを結ぶのはITが最も効率的と思います。

 会には、小川・萩原共同代表、関西・東海支部の会員に駆けつけて頂き、予想以上の盛り上りで、こちらも感激しました。準備した者として深く感謝いたします。支部結成の総会は、地震のせいで少し少ないかな思いましたが、実質的な討議が出来たのではないでしょうか。

 それにしても、50年に一度の地震が起こった時、道後で会員の方々と会うとは、まさに奇遇です。一生忘れられない思い出となりました。これからも微力を尽くしたいと思います。(福本正樹)

「にぎ田津に船乗りせんと月待てば潮もかなひぬ今はこぎ出でな。」

 万葉の歌人額田王はかつてにぎ田津(熱田津:松山道後近辺)から出航したことがあった。潮の流れをじっくりと見極めたあと、今がチャンスとばかり船出したのであった。一説によると彼女は朝鮮半島に向けて航海したとある。

 2001年3月25日、『北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会』の中国・四国支部が松山で旗揚げした。南北両首脳会談後、南北問題はすでに解決したかのような幻想が蔓延し、北朝鮮人権問題を取り上げるのは少数派で私たちには旗色が悪いようである。この出航は無駄であったのだろうか? 少なくとも好機を逸したのであろうか? いや、決してそうではないのだ。大多数の人々が北朝鮮の為政者に惑わされているだけに、今こそ真実を知っている『守る会』が新支部を船出(結成)するのは意義深いことなのだ。今後の航海を祈ります。

 末筆ながら、中国・四国支部結成式では日本全土から多数の方にご参加していただき誠に有り難うございました。紙上にて御礼申し上げます。(松浦照雄)

新たに事務局体制決まる

「守る会」新体制

 事務局長 

  山田文明さん (大阪経済大学助教授・関西支部)

 事務局次長 

  川崎孝雄さん (会社員・関東)

 事務局次長 

  金 国雄さん (公務員・東海支部)

4月30日の第1回運営委員会で決定!

 「守る会」の今年度第1回目の運営委員会が4月30日午後、東京都文京区のシルバーセンター会議室で開かれ、新たに「守る会」事務局長に山田文明氏、事務局次長に川崎孝雄氏と金国雄氏が選らばれた。今回は萩原遼共同代表から事務局と運営体制の抜本的な改革案が示され、これについて検討を重ね、人事面の改革のほか財政上の理由で韓国市民連合発行の英語版『生命と人権』誌への編集協力金については、これまでの年間40万円を10万円に減額することなどを決めた。

会費ならびにカンパになにとぞご協力ください!! 守る会事務局長 山田文明

 私どもの「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」の活動への日ごろのご支援に厚くお礼を申し上げます。

 私どもの実務体制の不備によりまして会費ならびにカンパを集めることが適時おこなわれず、いろいろとご迷惑をおかけしておりますことを深くおわびいたします。

 今年4月の第8回総会を機に事務局長および事務局次長を決め、実務をとどこおりなくおこなうことを決意いたしました。

 財政事情のひっ迫のため、年6回の会報『かるめぎ』の発行、その他の催しの開催などの活動にもさしさわりが生じております。

 近々、実務の整理に全力をあげ、個別に会費の請求をさせていただきますが、とりあえず今年度の会費5000円、あるいはこれまでの未納の会費の納入をなにとぞよろしくお願いいたします。あわせてカンパのお願いをさせていただきます。いかほどなりともご協力いただけましたならありがたく存じます。振込用紙を同封いたします。

 今年度から会費、カンパを確実にいただくよう努力することを重ねてお誓いしまして、ご協力のほどなにとぞよろしくお願いいたします。

同胞を金日成親子に売り渡した男 元朝鮮総連中央本部幹部 洪吉童

 ある94歳の老人が2月21日午後8時20分飯田橋の逓信病院で息を引き取った。その名前は韓徳銖。生命維持装置で維持されていたその体は火葬されたとき骨の形状が残らなかったという。彼もまた金日成親子と共にいつの日か朝鮮民族と在日同胞によって歴史的審判を受けなければならない人物である。

 多くの運動家は始めのうちは清新な気持ちと正義感を持って改革の道に臨むのであるが権力の甘い蜜を吸うやいなや初心を忘れ堕落していくことが多い。在日本朝鮮人総聯合会(以下、総連)のドンとして死ぬまで君臨し続けた韓徳銖もまたそのような人間の一人であった。

偽りの「輝かしい経歴」

 総連が発表した彼の経歴によると、彼が生まれたのは1907年2月18日で、その出生地は韓国の慶尚北道慶山郡安心面東湖洞である。そして日本に来たのが1927年で翌28年に日本大学の芸術科に入学したとなっている(中退)。彼はよくまわりの人たちに音楽家を夢見て日本にやってきたと公言していた。

 1945年までの彼の民族運動家としての経歴はほとんど記されたものがない。ただ残されているのは彼が熱海―丹那トンネル労働争議に関係していたという事実と偽りの「輝かしい経歴」だけである。

 総連の発表によると彼はそこで「懲役2年執行猶予3年の刑を受けたのをはじめ数十回の逮捕や拘留にも屈せず在日同胞の民族的尊厳と生存権を守るために戦った」ことになっている。これが精いっぱい誇張した彼の解放前の「輝かしい経歴」である。

 数十回という逮捕拘留もまゆつばものであるが(通常数十回というとき40~50回を意味するのだが、1ヶ月1回としても大変な数字であり、こうした状況下ではとうてい正常な労働は出来ないと思われる)それにもまして不思議なのは日本人労働者も含めた労働争議で戦うことがどうして「在日同胞の民族的尊厳と生存権を守る」ことになるのかということである。

 総連が発表した精いっぱい美化された経歴の中にもこのような矛盾点が浮かび上がってくるのだが、彼の創氏改名にも素直に応じる経歴はすでに多くの人たちによって暴露されている。

創氏改名にも素直に応じる

 まず、彼が丹那トンネルの工事現場で民族の尊厳を守ってきたと言っているが、彼が西原という日本名で創氏改名を行なっていたことはすでにノンフィクションライター・萩原 遼氏の調査によって白日の下にさらけ出されている。そればかりか当時の彼の私生活についても日本人女性と暮らしていたという伝聞さえ存在している。40半ばで朝鮮人女性、林秀蓮氏と結婚しているが、この晩婚はこうした伝聞が確かではないかと思わせる。

 彼の解放前の経歴がこうであるため一時彼の活動を朝鮮民主主義人民共和国(以下、共和国)で映画化しようとしたのであるが立ち消えになったようである。さすがの韓徳銖も日本では経歴を隠せても捏造は難しいと思ったのであろう(共和国では金日成親子がいかようにも歴史を捏造できるが日本ではそうはいかない)。

 こうした彼の経歴は、当時の在日同胞運動家の中では誇れるものでなかった。それ故、権力志向の強い彼が(彼が朝鮮労働党から批判されるときはいつも個人英雄主義者という罪名であった)主導権を握るためにはどうしても後ろだてが必要であった。その後ろ盾こそが金日成である。金日成と彼の対面は韓徳銖が密航船に乗って平壌に赴き非合法的に行われたと言われている。

在日に幻想をふりまく

 彼も多くの社会運動家同様、総連結成時には民族心と使命感を持って運動を展開したと思われる。

 総連結成時までの在日朝鮮人運動(在日朝鮮統一民主戦線時)で主導権を握っていたのは日本共産党の民族対策部に属する人たちであった。彼らの多くはマルクスの階級闘争論を絶対化してスターリン主義に傾倒し、民族的利害を階級的利害の下においた。彼らは日本の労働者階級の闘いによって日本の革命が成就してこそ在日朝鮮人の真の解放がえられると主張し、一国一党の原則を盾に日本共産党の下に在日同胞の組織を従属させようとした。こうした主張に加え暴力革命論による極左的運動は一般の在日同胞の生活に多大の被害をもたらした。

 韓徳銖はこうした状況の転換を図り、民族主義を前面に打ちだすとともに総連を結成し、その運動を社会主義国(共和国)と金日成に結びつけることによって社会主義に対するロマンと英雄伝説のロマンという幻覚興奮剤を在日同胞に与え、彼らのエネルギーを再結集することに成功した。彼の功績を強いて探すならこの過程で解放後在日同胞が築きあげた民族教育を活性化させ、在日同胞の民族主体性を取り戻させたことであろう。

総連を金日成と韓徳銖の私物に

 しかし、この民族主義的傾向は民主主義と人権の思想に裏打ちされていなかったために、総連組織を金日成を「神」とあがめる組織に変質させたばかりか、その財産を彼らと自らの私物に作り替えていった。

 1959年12月の「帰国事業」から始まる総連系同胞の金日成親子に対する隷属化の過程は韓徳銖が金親子の手先として働いた民族と在日同胞に対する背徳の歴史である。彼の死後残されたものは在日同胞に対する負の遺産と彼個人の不正蓄財の遺産だけである。

 現在総連の影響下にある同胞数は赤ん坊まで入れて9万名程度にしかならず(最盛時は50万人以上)、機関紙朝鮮新報の発行部数は8000部にも満たない(朝鮮大学校生もふくめて)。

 また、在日同胞の宝物である民族教育も民主主義教育が抜け落ち、金日成親子を崇拝させる教育になり果てただけでなく、科学性はおろか現状認識すらまともに出来ない状況になっている。学生数も最盛期の数分の一にまで落ち込み、その経済基盤は朝鮮信用組合の崩壊と相まって存亡の危機に直面している。

どうやって250億円もの個人財産が?

 これに反して韓徳銖の個人財産は増え続けバブル時には250億円を越えたと言われている。丹那トンネル工事の一介の貧乏労働者が、いかなる錬金術でこの莫大な富を増やしたかについては今のところ明らかにされていない。

 また、その住まいも東京都内の高級住宅地にある500坪の大邸宅である。この邸宅はあの有名な黒澤明監督の「天国と地獄」の撮影に使われたといわれる豪邸であり、彼の姪婿で総連の第一副議長であった金炳植がその全盛時に買い入れたものである。そのあまりの豪華さから社会運動家の住まいとしては、特には在日同胞の指導者の住まいとしてはふさわしくないとして関係者から強く反対された邸宅である。彼は、ここで朝鮮大学校卒業生たちを「革命」の名のもとに召し使い同然に使い、最高級車のベンツを運転手付きで乗り回し、主治医付き食事係付きの大富豪のような生活をしていたのである。組織の末端では生活費も支給されず生活苦に喘いでいる活動家が多数いるというのに。

 こうした事実だけをとってみても彼が在日同胞を心から愛し、在日同胞のために一身をなげうった人間でないことは明白である。

(以下次号)

韓徳銖の500坪の大邸宅 韓徳銖の死を悼むわけにはいかない 萩原 遼

 二月二十一日に韓徳銖氏が死去し、各界から弔問客や花輪がおしよせ盛大な葬儀であったそうだ。死はだれであれ痛ましいことであり、哀悼の意を表するのは社会通念上あたりまえのことである。

 しかし政治家の死は、たんなる個人の死とはちがう別の評価がある。韓徳銖は在日朝鮮人運動の指導者であり、九万三千人の在日朝鮮人を「地上の楽園」の虚偽宣伝によって北朝鮮に送りこんだ犯罪行為の当事者である。ヒットラーが死んだからといって花輪をもって駆けつけるだろうか。中には狂信者もいようが大多数は冷ややかに黙殺するのが世間の常識ではないだろうか。

 私は彼の死をワシントンで聞いたが、ヒットラーやポルポトや東条英機の死と同じような感情で聞いた。

 大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した拙著『北朝鮮に消えた友と私の物語』は、韓徳銖に懲罰を加えるために書いたものである。私の親友である韓国からの密航少年尹元一(ユン・ウォニル)も、社会主義祖国建設の夢を託して勇躍北朝鮮に渡った。しかし、この四十年近く消息はない。おそらく収容所で餓死したか、衰弱死か、あるいは銃殺か撲殺か、非業の死であったことは想像にかたくない。尹元一は十万帰国者の悲劇の象徴である。尹のように何万人もの帰国者が悲惨な死をとげた。その死のすべてを明らかにすることは私の生涯の課題である。

 在日コリアン十万人の悲劇の総責任者は韓徳銖である。先の拙著で私は「あまりに遅きに失したとはいえ、韓徳銖一派の犯罪行為に審判を下すときがきた」と書いた。韓徳銖を安らかに眠らせてはならない。

〈謄本の説明〉

 守る会会員の町村伯夫さんから韓徳銖の500坪の大豪邸の謄本が編集部に寄せられました。以下は町村さんによる説明です。

謄本1 韓徳銖の住む大豪邸は新宿区中落合壱丁目。昭和43年2月24日に取得している。広さは1652.89平米(500.87坪)

謄本2 この大豪邸の元の所有者は相馬正胤。所有権移転により「株式会社 朝陽商事」(韓徳銖のかくれみの)が取得した。

謄本3 株式会社朝陽商事の履歴事項。この会社の役員は韓徳銖のほか、韓貞淑、韓慶姫、韓宝和、韓鳳姫などあきらかに韓徳銖の子女とみられる人物が名をつらねており、ファミリー会社の体裁を装っている。

声明 韓徳銖の死と「帰国事業」

 いわゆる「帰国事業」は1959年12月より1984年まで実施されたが、その間におよそ10万人近い在日朝鮮人が北朝鮮へと帰国した。

 「社会主義国、地上の楽園」「資本主義国から社会主義国への民族大移動」といった朝鮮総連と日本のメディアの宣伝に拐されて、夢にまで描いてきた「祖国」へと帰国した。異国暮らしのせいか在日にとって「祖国」とは特別の響きを持っている。しかも「同胞愛と人道主義的施策」、衣食住の保障は言うに及ばず、職業選択の自由、大学に学びたい者は全て無償で保障し、力があれば更にモスクワなど外国へ留学させるといった甘い言葉で帰国させた。

 これらは全て、金日成と韓徳銖の謀略によるものである。しかるに北朝鮮での現実はどうか。これら帰国者の中から行方不明者が続出しているばかりか、スパイ等の嫌疑をかけられ強制収容所送りにされたり処刑された人も無数にいる。今日まで何とか生き永らえている人たちからも、日本にいる家族や肉親に、北での生活の窮状を訴えながら援助を乞う手紙が殺到している。10万人近くの帰国者の誰一人として本心から“幸せで暮らしています”と書いて寄こす人はいない。

 このような北朝鮮の実情を、もっとも良く知っているのが朝鮮総連である。金日成や金正日には莫大な貢ぎ物を贈りながらも、死線をさまよっている帰国者への救援活動は一度たりとも行なわれていない。

 北朝鮮においてこれまで「スパイ」、「不純分子」等といった罪によって処刑された帰国者は亡命者たちの証言によるならばおよそ7,000人に達しているという。犠牲者の大半は韓国から日本に密航して来て北へ渡った人たちといわれる。

 新しい離散家族が生まれているのである。朝鮮総連は帰国者を送り出した張本人である以上、これら帰国者たちの悲惨な運命に全的な責任を負わねばならない。すみやかに全帰国者の実態を調査し、日本や韓国にいる家族に知らせるべきである。一刻の猶予も許されない。今年中に調査されないとするならば、朝鮮総連は帰国者の遺家族や全在日朝鮮・韓国人、そして心ある日本人からの糾弾を免れないことを銘記すべきである。

 韓徳銖は「帰国事業」の日本における最大の責任者であった。韓徳銖は死去(2001年2月21日)したが、それによって「帰国事業」の責任を免れるものではない。我が会は改めて朝鮮総連に以上のことを強く要求し、声明とする。

2001年4月7日  第8回総会

北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会

読者の広場 「かるめぎ」への熱き想い 瀬戸浦太郎

 山口県内の一会員として、三月末の中国・四国支部結成式に出られず残念でした。そこで金国雄氏に連絡、拙宅に来訪を願ったところ、当日(25日)夜、萩原共同代表、浅井氏共々来宅、初対面ながら歓談は夜半まで尽きませんでした。翌日市内巡り、スカイラインからの瀬戸内海の眺望に歓声が上がったことでした。萩原共同代表には朝鮮半島情勢を中心に疑問点の数々をお聞きし、収穫の多いひとときでした。

 北東アジアのガンとも云うべき北朝鮮。米国が「ならず者国家」とするのも当然で、ヤクザが国家を乗っ取ってしまったと云うのが正解ではないでしょうか。デフォルト国家、数々のテロ、スパイ活動、強制拉致、数百万人の餓死、そのおぞましさは枚挙にいとまがありません。そしてその矛盾を隠す為の徹底した情報統制と鎖国、血も凍る弾圧。

 この国の解放を一日も早くと願っても金正日が二千二百万人余の国民を人質にとっていて手の出しようがなく、国民との接点を持つ事も出来ません。

 日朝交渉の経過にもこの国のセコさがよく現れています。徹底した物乞い外交、何らかの援助があれば交渉のテーブルに着くが出すものは実質的にゼロ、南北首脳会談もほぼ同様のありさまです。

 当然の権利である北朝鮮帰国者の日本への自由往来にも応じない。この国に対しては断固たる姿勢が必要です。対抗手段としては悪の温床とも云うべき万景峰号の日本寄港の制限、北朝鮮系金融機関への公的資金援助の停止、朝鮮総連の活動の規制等打つべき手はいろいろあるはずです。国連総会の場さえ使ってする日本非難の罵詈雑言に対してはハッキリと抗議する必要があります。

 キノネス氏の「北朝鮮・米国務省担当者の交渉秘録」で著者は国際的な問題の解決は「孤立化と対決ではなく、関与と交渉にある」と述べていますがこれも場合によりけりです。テロや強制拉致が問題視される金正日を相手にして一体何が生れるのでしょう。日朝の国交樹立も百年か二百年後で結構と腹をくくる事です。今のままでは賠償金を支払っても金正日ら為政者の私腹を肥やすだけの話です。

 ブッシュ政権になったアメリカにまともに相手にされなくなった北朝鮮は韓国に再度アプローチしてくることでしょうが、ノーベル平和賞ほしさに朝貢外交的太陽政策をとってきた金大中も後二年、この後はもっとまともな大統領が出現する事を期待します。

 北朝鮮帰国者の日本への自由往来を実現し、人権を守る事は厳しい道のりです。しかしその道は食糧支援や微笑外交では開けてこないというのが今までの経過からくる教訓です。日本がタフなネゴシエーターになり、いかにしてこの「地上の裸苦怨」たる「凶勢怠国」(注:北朝鮮のいう軍事大国の“強盛大国”のもじり――編集部)に迫るか、本当に頭の痛い課題です。

本部・支部だより

<東京本部>

第1回北朝鮮人権市民大学

 「帰国事業と朝鮮総連の結成と韓徳銖議長をめぐって――韓国の北朝鮮学教科書『北韓学概論』をもとに」 元朝鮮総連中央幹部  朴龍鎬先生

「韓国での北朝鮮研究」

 いま韓国では北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)についての分析研究が相当に進んでいます。この本は『北韓学概論』というソウル・文佑社発行の大学生用教科書です。大学教授と統一問題専門家が分担執筆しています。90年9月に初出版したのを金正日体制への移行を確認したうえで、99年9月に改訂増補しています。もう一つの本は『朝鮮総聯研究』第一巻と第二巻で、日本の専修大学中退・記者経験のある田駿が書いたものです。これは72年3月と8月にソウル・高麗大学出版部亜細亜問題研究所がそれぞれ出版しています。この二つからも分かるように、いま韓国では北朝鮮や在日朝鮮人問題の研究は相当進んでいるとみて間違いないです。

「在日朝鮮人をどう見るか」

 一番大事なことは朝鮮総連との関係です。この教科書には書いてないですが、朝鮮総連のおかげで北朝鮮も元気であると言われています。総連結成前後は北朝鮮から援助をもらっていたと私は見ています。総連は金日成主席と韓徳銖議長の共同謀議の組織ではないのかということです。

 総連は民族教育をやって点数をかせいだが、帰国事業でまずいことしたという人がいますが、この点を明白にしてみたい。韓徳銖が86年5月に書き下ろした本である『主体的海外僑胞運動の思想と実践』(未来社)はそのために役に立つと思われます。また私の手元には金日成主席が死去してから出た本と金正日総書記が最近出した本があります。それは97年11月に平壌で発行されている『金日成 在日朝鮮人運動の強化発展のために』(1)と(2)と2000年1月の『金正日 在日本朝鮮人運動と総連の任務』の三冊です。これらの本を読めば総連がどういう組織であるのか、北朝鮮が総連組織と活動家、そして在日朝鮮人大衆にどうのぞんでいるのかが大体分かると思います。で、その金日成主席の(1)の一番初めの論文は46年12月に出ている『在日100万同胞に告ぐ』というものです。二番目が48年の12月です。48年の9月に朝鮮民主主義人民共和国が創建されています。その時、慶祝使節団を前にしての論文がそれです。三番目の論文は朝鮮戦争停戦協定談判中の52年12月に韓徳銖が北朝鮮に送り込んだ連絡員に対してのものです(この事実は韓徳銖の前記著作にはふれられていない)。その時、金日成首相(当時)はその連絡員に対し、在日朝鮮人は日本共産党の使い走りをしないで、朝鮮革命のために一生懸命働けと言っています。日本の法律を重視して、尊重せよとも言っています。しかし、『在日100万同胞に告ぐ』で強調しているのは、日本人の指導のもとに日本民主化のために闘えと言っています。朝鮮革命のために闘えと言っているのは、韓徳銖が送り込んだ連絡員に対してからのことです。

 文献によれば朝連のころは、南朝鮮労働党がまだ健在だったし、指導者には朴憲永や呂運亨がまだ頑張っていました。ですから金日成首相も在日同胞にああしろ、こうしろとは言っていません。朝連の2回か3回目の大会時に、だれを議長団に推薦すべきかで問題になったとき、まず呂運亨、二番目に朴憲永、三番目にやっと金日成の名が出るくらいでした。朝連時代にはまだ金日成は問題にもなっていなかったんです。

「韓徳銖議長の訃報で思うこと」

 私の見方では当時は、金日成も在日同胞にどうしようという考えもなかったと思います。韓徳銖について言えば、南北の政府が出来ていない時期だから金日成の名前をはっきり言っていないし、呂運亨が首相になるんじゃないかと、『民主朝鮮』誌の座談会で発言しているくらいなんです。実際の統一戦線体をなしていたのは朝連の時代だけじゃないかと思います。朝連はソウルに事務所を置いていたし、分担金まで払っていた位です。金天海(キム・チョネ)は獄中で17年間も非転向で頑張ったが、釈放直後の発言を見ますと、天皇制をやめろなど極左的な発言ばかりしています。

 総連が結成されたのは55年5月です。韓徳銖が金日成首相に連絡員を送ったのは52年12月でしたが、その年の4月に白秀峰のペンネームで、民戦批判の論文を発表しています。民戦ができたのは51年1月です。朝連・民青が強制解散させられたのが49年9月で、あくる年の50年6月に朝鮮戦争が起こり、祖防委や祖防隊がつくられ、民戦が結成されています。民戦の第2回大会では共和国死守が主張されています。ですからこの時には民戦に代わる組織をつくることが決まっていたとみるべきです。

 韓徳銖自身は49年の夏頃に北朝鮮に密航で行っています。ということは50年代の初め頃には何か新しい組織をつくらなければだめだ、在日朝鮮人を日本共産党の指導下においていてはだめだということで準備をしていたと思われます。で55年6月に突然朝鮮総連ができたのではありません。総連という新しい組織をつくるためのレールの上を新しい組織をつくるための列車が走っていたと言えましょう。韓徳銖はどうしたのかと言うと、金天海とか朴恩哲とか日本共産党派とうまくいかないので、民主朝鮮社の社長で文化事業にかかわっていました。そして、金日成首相に取り入って、自分の気に食わない人物が北朝鮮に行くようにもっていったのです。「統一日報」の20001年2月27日付けの韓徳銖の訃報によると、朝連結成当時、仲の良かった李錫寅論説委員(当時外報部次長)は韓徳銖部長(当時)とは話があうし、いい人だと尊敬していたが、総連ができてからある集会に行ったところ、“排撃”されたので訣別したと書いています。以上の事実から言えることは韓徳銖自身、当初から主体思想に心酔していたとは考えられないし、途中から金日成主席や金正日総書記べったりにくらがえしたと思われます。

「韓徳銖議長と帰国事業」

 先にも言ったように韓徳銖は北朝鮮に密航しています。当時、活動家は自分の庭のように日本と北朝鮮を往来していました。日本が米軍の占領を離れて独立したのは1952年だから、それまでは取り締まれなかったと思うんです。

 59年12月に帰国事業が始まっていますが、帰国事業、つまり在日朝鮮人を北朝鮮復興の労働力に使うことは、金日成主席の腹づもりであったと思われます。帰国事業は運動としては57、58年頃から始めたわけですけれど、話としては総連の結成のときか、それ以前からあったと思われます。ですから在日朝鮮人の組織を南の影響下から北の影響下に組み入れるかということになったし、それにふさわしい組織をどういうふうにしてつくるかが問題になったと思うのです。

 外国から北朝鮮を訪問するお客が、最近、自分の国でも総連のような組織を自分たちの国にも作りたい、北朝鮮は日本に総連のようなうらやましい組織をもっていると称賛していると金日成主席や金正日総書記は自慢たらしく言っています。これは逆に言えば、総連のような組織は他の国ではつくれないということなのです。中国の華僑も世界に何千万人と出ていても、総連のような組織をもっているという話を聞いたことありません。つくろうとしてもつくれないのです。

質疑応答
「北朝鮮と総連の関係、参政権や学習組」

A:在日朝鮮人は本国の参政権があるから、日本の参政権はいらないという話があるんですが。

朴:北朝鮮の選挙を日本でどのようにするんですか。そんなものはありませんよ。どこの選挙区か分からないじゃないですか。で、韓徳銖がどのように北で評価されているかは、韓徳銖何とか大学というのがあることからも分かります。商工人の場合、いくら北朝鮮に献金すればどういう勲章がもらえるかとか、いくらだせば国旗勲章の何級に値するかとか言われています。私たち活動家は金がないですから、総連の中でただ働くだけです。金日成主席や金正日総書記は朝鮮総連が前衛組織でないと言っていますが、現実に総連には朝鮮労働党員がたくさんいて、彼らはみな「学習組」に入っています。「学習組」の組員になっています。

「韓国の北韓学者の北朝鮮人権批判」

小川:ご紹介いただいた『北韓学概論』についてなんですが、この本の目次をざっと見ると、北朝鮮の政治や経済政策、対外政策とか、北朝鮮の政治を見るうえで参考になると思うわけです。しかし、韓国の学者は北朝鮮の人権については関心がないんですよね。まして、強制収容所については全然書いていない。北朝鮮の人権については72年の社会主義憲法に人権条項もあるんですが、反国家分子とか反革命分子とされると一切除外されて、収容所送りとなる。そういう乱暴なことが行なわれているのに対し韓国の学者たちはもっと関心を持つべきであると思うんですが。

朴:確かに経済、社会、文芸体制についてはふれていますが、人権問題については一つもふれてないですね。

「日本人妻をめぐって」

朴:今年の「かるめぎ37号」に日本人妻のことが書かれていましたが、韓徳銖が「日本人妻を送ったらだめだ」と言っていたというのは御存じでしたか。[注]

小川:それはまず金日成の指示があってではないですか。永田弦次郎の妻たちが三年後の里帰りを要求してデモまでした。そんなやっかいな日本人妻は送らないように、と指示したという。角圭子さんの『鄭雨沢の妻』にも出て来ますね。

B:召還というか、逆島流しと言っているんですが、政敵を帰して、収容所に放り込むことがあるらしいですが。

朴:それは南の手先であるとかスパイとか罪をなすりつけなければだめですよね。

[注] 帰国事業と関連して<日本人妻>を帰国させるな、と韓徳銖議長が発言している。出所:『朝鮮総連研究』第二巻(ソウル、高麗大学出版部 1972年8月刊、田駿著)発言日時場所:1960年11月26日~11月29日まで開かれた第24回中央委員会。韓徳銖議長は報告の中の(3)総括部分で次のように述べている。「日本人妻を帰国させているが、これは後に回すべきである。祖国は建設に奔走しており、日本人妻を教育する時間がなく、また異民族が多く入国することは困難な問題であることを考慮すべきだ」(356頁)以上のほか「帰国事業」関連発言は次の通りである。(355~356頁)「(イ)帰国者に対する教育事業が不十分である。帰国したものがどんな職業に合うかと思ってその職場に送っても仕事をできぬ場合が多い。(ロ)貧困者を優先的に帰国させねばならぬにもかかわらず、地方では総連に多く寄付した者を優先的に帰国させている。これは民団に逆宣伝の口実を与えることになる」

<佐倉洋 運営委員>

「北朝鮮人権市民大学」第3回講座のお知らせ

「北朝鮮による日本人拉致問題の真相と最近の動き」

兵本達吉氏(拉致された家族の会代表世話人)

日 時:6月3日(日)

午後1時10分(1時開場)~5時

場 所:文京区シビックセンター

区民会議室4F

シルバーセンター実習室

東京都文京区春日1-16-21

TEL03-5803-1113

<関西支部>

 第15回関西支部講座 3月10日

 アジア各国にすむ朝鮮民族を精力的に取材してこられた報道写真家の山本将文氏をお招きした第15回関西支部講座は「離散家族再会の現場、そして南北の日本人妻たち」と題し、3月10日(土)、大阪経済大学にて行われた。

 山本氏は1949年大阪生まれ。これまでに「ヒロシマ・ナガサキ 韓国の被爆者たち」「中国の朝鮮族」「サハリンの韓国・朝鮮人」「済州島」「朝鮮民族」「戦争の忘れもの―残留コリアンの叫び」などの著書を発表してこられた。講座では氏が撮影したフィルムをスライド上映しながら、朝鮮民族の現状を話していただいた。

● 南北離散者の再会 (2000年8月15日~18日・ソウル)

 「韓国側の離散家族は号泣し、なかには卒倒する人もいた。一方、北からの家族はおしなべて涙を流すことなく、たんたんと再会する人が多い。朝鮮民族は感情がぐっと表に出る民族なのだが」「北の人たちはほとんどが選ばれたエリートであり、それに、南に亡命しないようマンツーマンで厳しい警護をされている。ホテルでマスコミ向けの再会の場がもたれたが、そこでもドアのところで北の幹部が目を光らせており、家族たちが話すたびに『制止』を入れる。北の家族は幹部の顔色を伺いながら半世紀ぶりの面会をする」「韓国から北へ向かう家族はドル(一人あたり千ドル上限)、金の指輪、ネジまき腕時計なども持てるだけ持った。これは在日家族が北へ持っていくものと共通している」

● 北朝鮮の日本人妻

 韓国や中国、ソ連の朝鮮民族を取材してきた山本氏は空白の地である北朝鮮を取材するために入国を申請した。「朝鮮総聯が言うには、北から来る偉い人にあって、あいさつすることが、訪朝を実現する上で大事」。結局は一年かかり、90年の旧社会党主催の「日朝友好親善の船」に乗ることに。当初の約束ではベンツ一台と通訳がつき、一カ月にわたって自由に撮れるということだった。ところが「元山についたら、車も通訳もない。訪朝団のバスで通常の観光コースを回っただけで帰国の日となった。約束と違うと抗議すると、『今回撮ったフィルムを見てから、取材許可を出す』と、検閲のようなことを言われた。期待をもたせ喜ばせておいて、裏切る。これが北のやりかたか」「船には日本人妻の母二人もいた。ひとりは北海道の人で、面会のOKが出ていたにもかかわらず、舞鶴出港まぎわに『共和国に行っても娘さんに会えない』との連絡が入った。このひどい仕打ちに、総聯と社会党に抗議したかったが、やめた。」「団体行動のとちゅう、見張りを振り切って単独行動を試みた。農村に入って農家を撮ろうとすると、農民が家に戻り、着替えて出てきた」「その後も北取材を何度も申請しているが、許可が下りない。(北と総聯を批判する)張明秀氏の本に写真を提供していることも影響しているのか」

● 朝鮮族(中国)の北朝鮮観

 「朝鮮族はもともと北朝鮮を故郷とする人が多く(日本、サハリンの朝鮮人と対照的)、心情的にも金日成を支持していた。これが変わったのがソウルオリンピックだ。テレビはソウルの街並みを映し出す。映像はウソをつかない。すべてが平壌とちがう。これで北から南に志向が変わった」「朝鮮族はこれまで楽に北に出入りしてきた。80年代ごろから、行商で入った人たちからいろいろな話が出てきた。『便所には青い便がいっぱい』――草をたくさん食べているからか。賄賂を拒否した行商人が、しょっぴかれ、出てきたら顔が変形してきた。このような伝聞から、朝鮮族のあいだで憤りが強まった」

● シベリアの伐採労働者

 ハバロフスクから数百キロの極寒の森に、外貨獲得のため北朝鮮から送られた木材伐採の労働者がいる。金日成の万寿をねがう塔、住居の丸太小屋には金父子の写真、それに思想教育所など、まさに「小さな北朝鮮」。「労働者の中には日焼けもせず力仕事の手もしていない人間がいる。安全部の監視員だ」「あるロシア人の車掌の証言。

 北の労働者とケンカして彼らの『収容所』に入れられた。独房は高さ1m30cmほどで、立てない。監視窓。そこで3日3晩すごした。夜な夜な悲鳴が聞こえた」「ロシアの税関員などの証言。死人が冷凍車で北朝鮮に運ばれる。中には生きた人間もいた。血で『助けて』と胸に書いた人。足が壊死した人も。長時間縛られるなどした痕らしい」「シベリアに送るには、妻子もちの労働者がいいという。決して裏切らない」「労働者たちは『祖国のために働いている』と公式発言をするが、目に輝きがなく、生きていない」

● 北が民主化されなければ

 このほか、サハリンの残留コリアン、中央アジアの朝鮮人、韓国の被爆者、韓国に住む日本婦人などの話が続けられた。多年にわたる取材から山本氏は「朝鮮人のちらばる地域は南北朝鮮、日本だけではない。また本国の北をはじめとして、サハリン、中央アジア、中国など、不幸なことに社会主義国が多かった。移動の自由すらなく、中国では文革での苦労もあった。自由にものが言えない。しかし旧ソ連も中国も少しずつ民主化してきた。残りは北だけだ。北がもう少し自由になれば、離散家族の悲劇も少しは軽くなり、多くの問題が解決する。朝鮮半島の分断には日本の歴史的責任が大きい。しかし現状では、民族の苦しみを軽減するには北の民主化しかない」としめくくった。

<坂元正三 関西支部>

第16回関西支部講座 4月21日 萩原遼氏講演

どうなる朝鮮半島

 昨年の南北首脳会談以来マスコミの偏った過剰な報道によって、一般には朝鮮問題はもう解決したんだと誤解されて、関心は低下してしまっているが、実際はなにも解決していない。

 アメリカと北朝鮮の過去10年間の関係を調査しようと渡米した。アメリカでは研究機関、国務省、国防総省、CIAなどにレベルの高い研究者がいて想像以上に綿密な研究がなされていることを知った。研究への助成金のおかげで論文数が多く、日本では出版できない厚い専門書が出版されている。彼らと意見をたたかわせ、また可能な限りアメリカの持つ情報を収集したい。当初の予想よりずっと時間がかかりそうで、あと約一年はアメリカで勉強する事になるだろう。アメリカ滞在中に特に以下三つの疑問に答えを見つけたいと思っている。

1.1994年の北朝鮮核疑惑とは何だったのか? アメリカは金正日におびき出されたのか?

 このとき米朝は開戦の一歩手前であったことが「ペリー回顧録」につづられている。北朝鮮が「ポスト冷戦期の生き残りのために核開発をアメリカのスパイ衛星に見せつけて挑発した」ともいわれている。きわめて近距離内に二百万の南北の軍隊が対峙する朝鮮半島では、奇襲を受けた場合在韓米軍に10万人ともいわれる損害が予想される。在韓米軍は金正日の人質も同然なのである。アメリカも簡単に金正日の挑発に乗ることはないがアメリカが戦争を決意した場合、核兵器の使用もその選択肢に含まれ、朝鮮半島だけでなく周辺諸国に莫大な被害をもたらす。

 一方北朝鮮の側は1994年の核戦争瀬戸際の米朝対決を含め軍事優先政策によって大戦争に匹敵する300万人の餓死者を出すことになった。自国民の生命を顧慮しない政策は犯罪だ。

 この94年危機を巡る北の政策決定を明らかにしたいというのが私の第一のテーマである。

2.金正日は金日成を殺したのか?

 94年の軍事対立は金日成とカーター元大統領の会見によって回避された。金日成はこの時さらに金泳三との南北首脳会談を提起した。南北の緊張を緩和し、南からの援助を得て経済の建て直しを決意したことは明らかだ。92年から食糧状態は悪化していた。このとき南北会談に反対したのが金正日だ。南からの援助を受け入れれば自分の地位は維持できないからだ。

 この対立の最中に金日成が死ぬ。医師団を乗せたヘリコプターが悪天候のため墜落し手当が遅れたと発表されているが、事実だとは思えない。金日成は常に医師団を伴って移動していた。どうして悪天候下に医師団がヘリコプターに乗り込むことがあるだろうか。口封じに医師団も殺したのではないか?

 この問題も究明されるべき重要なテーマである。

3.2000年6月の南北共同宣言とは何だったのか?

 鳴り物入りでもてはやされたが、その後の動きを見ると統一にも交流にもつながっていない。金大中がノーベル賞欲しさに演出したのではないかという見方が出てきている。クリントンの思惑もある。

事実を掘り出したい。

今後の朝鮮情勢について

 南北双方の軍の引き離し、10万人単位の軍縮と10万人単位の離散家族再会・往来がなされなければ南北和解とは言えない。これが実現する見通しは残念ながらきわめて少ない。

 しかし本国の動きに関わりなく在日朝鮮人は南北の区別なく協力すべきだと思ってきた。昨年来の協力事業はよいことだと思う。

 日朝国交回復については、拉致者、在日朝鮮人帰国者および日本人妻の問題を解決することが必要だ。帰国者はだまされて北へわたったのだからいったん日本に帰る権利がある。

<山口 修 関西支部>

<東海支部>

伊予紀行

「活動のなか、いまだ青春のまっただなか」

 ようやく春の兆しが見えてきた3月23日、私ことジャンボと、金国雄さんの二人で、中国・四国支部設立総会に参加するため愛媛県松山市へ出掛けました。何分、時間はあるがお金のない2人なので、青春18キップを利用して鈍行の旅と洒落込もうということで、名古屋駅12時54分発の列車に乗り込みました。車中で乗り合わせた人たちとのふれあいの旅。

「カプセルホテルに日本を見た」

 今夜は岡山で一泊しようと決めた私達は、駅前にあるカプセルホテルに宿を決めました。カプセルホテル初体験の私は、狭いスペースにテレビやラジオ、照明のスイッチが実に機能的に収められているのを見て「実に日本的だなぁ」と、一人感動しました。実際寝てみるとこれが結構快適で寝相が悪くない人には十分、快適だと思いました。

「ふるくは朝鮮通信使もたどった瀬戸内の海の街道をのぞみつつ伊予路へ、そして守る会を通して知った友人を訪ね」

 翌朝、瀬戸大橋を渡る列車に乗り、四国へ渡りました。去年夏の土佐旅行は車だったので眺めがよかったのですが、列車は橋桁の中を通るので、たくさんの鉄骨が邪魔でそれほどではありません。しかし線路の隙間から真下の海が見えるので、海面からの高さがよくわかりました。

 四国に入ってから信号故障で30分ほど到着が遅れましたが、無事に松山に着きました。愛媛在住で会員の松浦さんの出迎えを受け、一緒に昼食を取った後、松浦さんの案内で市内観光に出掛けました。

「生まれて初めて体験する大きな地震」

 夏目漱石と正岡子規が同居していた愚陀仏庵や、子規が上京するまでの17年間住んでいた子規堂、坊ちゃん列車などを見学して山上にある松山城に向かい、見終わってリフトで下山しようと並んでいる時、なんか地面が小刻みに振動しているので「リフトが古いのでガタガタ振動するのかな?」と思った矢先、縦に大きく揺れだしそこではじめて地震だと気づきました。後に芸予地震と呼ばれるものです。あまりの揺れに上からガラスが降ってきたので屋根が崩れるのじゃないかと思い、金国雄さんを置いて一人逃げました。身の危険を感じると友情も何も無いなと思いました。揺れも収まり下山したら、瓦や古いビルの外壁などが崩れているのがあちこちで見えました。道後温泉の今夜の宿所に着いた時も、宿の壁にはヒビが入り、楽しみにしていた道後温泉もお湯が濁ったため休止になっていたり、お土産物屋さんの陶器やガラス製品が崩れて割れていたりの被害で大きな地震だったと感じました。

 地震の影響で列車が止まったために遅れていた人たちも一人を除いてなんとか到着し、前夜祭が始まりました。小川・萩原両共同代表、関西、東海、広島、高知、地元愛媛の会員が集い、皆で飲んで楽しい宴会でした。

「みなの手づくりの支部」

 翌日、中国・四国支部設立総会及び萩原遼さんの記念講演会、趙博さんの記念ライブと萩原さんと趙博さんのトークショーなど行なわれました。(その模様は別の記事で紹介されていますのでそちらをご参照ください。)

 総会も無事終わり、東海の私達と萩原さん、今回、中国・四国支部の事務局長に就かれた池田さんの四人は、愛媛在住の中国・四国支部事務局の福本さんに車で送って頂いて三津浜港に行きました。そこで広島に帰る池田さんと別れ、三人で山口県の柳井港にフェリーで向かいました。

「ここにも会員が!」

 柳井港では山口県在住で会員の瀬戸浦さんの出迎えを受け、車で自宅に向かいました。そこでは北朝鮮の話になりましたが、瀬戸浦さんも本などを読んで勉強しておられるようで、ここにも熱心な会員がいるのだなぁと感心しました。

 その夜は瀬戸浦さん宅に泊めて頂き、翌朝、瀬戸内海が一望できる高台へ行きました。その日はすごく天気がよく、瀬戸内海の青い海と、そこに浮かぶ島々がよく見えました。そこから見える海岸線に大きな工場が見え、そこは戦時中軍需工場で徴用された朝鮮の人々がたくさん働かされていたそうです。その後、瀬戸浦さんに駅まで送っていただき、下関へ向かうお二人と別れ、また鈍行を乗り継いで名古屋に帰りました。

「新たなる活動に向けて」

 翌日、金国雄さんも無事名古屋に帰った連絡を受け、そこで今回の伊予旅行も無事終わりました。最後に中国・四国支部設立に奔走された方々、当日総会に参加された方々におかれましては大変ご苦労様でした。突然おしかけた私達を快く歓待してくださった瀬戸浦さんご夫妻にお礼を申し上げます、本当にありがとうございました。

<ジャンボ 東海支部> 第2回 学習会&懇親会

日時 6月3日(日)PM 2:00~6:00

場所 東海支部(金 国雄宅)

講師 梅村雅英(東海支部)

●ドキュメント「戻らぬ船」ビデオ鑑賞

●帰国事業、オモニの証言

「帰国船に乗ることを

最後まで思い悩んでいた日本人妻」

●食事会

連絡先/TEL(0561)54-4590(金 国雄)まで

「この人に聞く」 聞き手・金 国雄 池田 正彦さん(中国・四国支部事務局長)

朝鮮との出会い

 僕は一九四六年生れであり、モロに団塊の世代です。小学生当時はどのクラスにも在日の子どもが何人かおり、当然友だちになりました。その中の一人は朝鮮名を名乗り(おそらく親は熱心な総連の活動家だったと思う)一家をあげて北朝鮮に帰国してゆきました。その当時、「祖国」という言葉が新鮮な響きをもってせまってきたように思います。というのも、自分たちの日本は、(たしか「祖国の山河に」という歌があったなぁ)祖国と呼べるような日本だろうかという疑問(今でもそうだが)と同時に、北朝鮮を「祖国」とキッパリ呼べる友人を心からうらやましく思ったからです。

 広島駅に見送りに行きましたが、旗が林立し、歌が響き、映画「キューポラのある街」のあのシーンそのものでした。まさに意気揚揚と祖国の建設に・…。僕は子ども心に「よかったなぁ」と思いつつ、残された僕たちは何かしら引け目を感じざるをえませんでした。

 それから高校時代には、朝鮮中・高級学校との交流(といっても補導部の先生からは政治的といわれ、交流そのものが妨害されるしまつ)、映画「千里馬」など、身近に在日の友人もいて、いつも胸の隅に「朝鮮」がひっかかってきました。

 昨年一〇月、萩原遼講演会を広島で企画したことが「生命と人権を守る会」に参加するきっかけとなったわけですが、直接的には萩原さんの著書を読み、この方のはなしを是非聞いてみたいということが動機です。

 『朝鮮戦争』には深い感銘を受け、『北朝鮮に消えた友と私の物語』では多くの疑問に体験的にこたえていただき、『旅のノート』では、日本の社会主義運動が慢性的にかかえている狭いセクト主義への痛烈な批判。僕がかかえていた疑問や問題点を一気に解きほぐしていただいたように思います。(そうなんだ! 北朝鮮問題というだけでなく、まさに日本の問題としてとらえるべきなんだ) それまでも、マルセ太郎さんとの親交、趙博さんとの出会い、映画「在日」の上映などを通じ示唆に富んだ多くのことを学ばさせていただきましたが、いずれにしても小学校の時、見送った晴れ晴れとした友人の顔がずっとつきまとってきたように思います。

 北朝鮮の「生命と人権」問題の早期解決は日本人としての良心が問われていることだと思います。多くの人にまず事実を知っていただくために、ささやかながら奮闘しようと決意しています。

―― 南北首脳会談以降に思う ――

 南北首脳会談以降、「総連」と「民団」との交流の機会もふえ、<統一>は目前だといったような幻想がふりまかれていますが、実際には一緒にパレードしたとかイベントをやったといった程度のことで、内実は何ら変わってはいないと思います。日本人の間にも、南北首脳会談熱烈歓迎の熱は一気にしぼみ、「ヨカッタ、ヨカッタ」もう終ったことととらえている人が多いのではないでしょうか。

 特に、北朝鮮帰国事業において、人道的立場から積極的に送り出した側は南北首脳会談如何を問わず、少なくとも自由往来くらいは人道的立場をもっと発揮し声高に主張すべきだと思います。さらに南北首脳会談が単なるセレモニーとして利用され、北朝鮮の重大な人権犯罪を隠蔽する役割を果たそうとしていることは非常に残念なことです。

―― こんな活動をしています ――

 十数年前、教職員組合が設立した「平和教育研究所」を辞し、現在、「広島ミニコミセンター」を主宰しています。といっても本の出版、編集、企画から芝居などの公演・イベントまで、一人の気軽さと好い加減さ(イイカゲンではない)で便利屋家業をつづけています。

 ちなみに、この間の計画をあげますと、

●「広島に文学館を――市民の会」プロジェクトの立ちあげ

●峠三吉・原爆詩集(孔版本の復刻)などの普及・宣伝

●一人芝居「会社やめたい人のために」企画・制作(十一月公演)

●マルセ太郎お別れの会

●広島ちんどん倶楽部・港まつりなどイベント参加

 などなど。脈絡のなさに自分自身あきれています。

 広島に「守る会」の活動を根づかせるためにがんばります。よろしくおねがいします。

編集後記

◆ 若葉の美しい季節となりました。おかわりありませんでしょうか。今号は第8回総会(4月7日)関連の記事を最優先でのせるため、人権年表、ワシントン便り、小野美智子さんの詩などいつものおなじみのものを割愛せざるをえませんでした。また財政事情から20ページをこえると郵送料が大幅にかさむため、増ページもままならなくなりました。なにとぞご理解下さり会費納入とカンパにご協力下さるようお願いいたします。私たちも可能なかぎり節約につとめ会員のみなさんによりよい『かるめぎ』をお届けできるようつとめます。(萩原 遼)

◆ 昨年の守る会の講演会でも挨拶された北朝鮮難民の金龍華氏が今年早々、奇跡的に韓国に再入国し、一年間の滞在ビザを取得した。九州を中心に粘り強く続いた支援運動に、韓国政府も心を動かしてくれたようだ。一方、脱北した帰国者が 定住しようとしているという。 北との環境のあまりの違いに教育も就職も、 生活全般でとまどっておられることだろう。帰国事業を糾弾する 「守る会」の立場からは、帰国者の受け入れでは手厚いものにし なければならないだろう。(佐倉 洋)

◆ 先日の中日新聞(4月30日付)のなかで『北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)が求めているのは、金正日体制の「死守」、この一点である。』との経済学者の渡辺利夫さんの記事が載っていました。ここにも事柄の本質を看破しておられる方がいることを知りました。またこのページの作成中にも「成田空港で金正日の長男(金正男)らしき人物が拘束された」とのニュースが流れていますが、真相の定かでない現時点ですが、先日読んだ萩原さんの訳著『北朝鮮はるかなり』の内容をおもわず思い浮かべました。

何が起こっても不思議でないのが北朝鮮の現状です。今回は、事務局次長の役割を担うことになり山田さん、川崎さんとも手を携え「守る会」組織基盤の健全化を図り北朝鮮での人権確立を求めさらなる「守る会」発展をめざしていくことになりました。私にとっても重要な一年となることでしょう。今後とも皆様のご支援を賜りますようせつにお願いいたします。(金 国雄)

遼さんの本が文庫になった! 5月10日発売

『北朝鮮に消えた友と私の物語』文春文庫(定価本体552円+税)

 1972年「赤旗」平壌特派員となった私は、大阪の定時制高校で席を並べた親友の尹元一を訪ねた。友は「地上の楽園」で幸せに暮らしているはずだった――。「突出する力作」(深田祐介氏)、「人を動かす力がある作品」(立花隆氏)。帰国運動の悲劇を描き満票で第30回大宅壮一ノンフィクション賞に輝いた記念碑的名作。解説

・深田祐介(文春文庫解説より)

 「帰国事業」を調べる上でも非常に貴重な文献です。多くの著作(遼さん)の中でも私の心に強く残り今もひもとく作品の一つです。また「大宅壮一ノンフィクション賞」授賞式に故人の金英達さんとともに出席できたことは、私にとっては貴重な思い出の一つになっています。著者のさらなる飛躍と活躍を願い。(金国雄)

北朝鮮に消えた友と私の物語