かるめぎ No.42 2002.01.01

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会報『かるめぎ』の過去号を、旧サイトから、順次こちらにアップしていきます。この機会に、過去の『かるめぎ』を通して、守る会の歩みを知っていただければ幸いです。

各代表の年頭の挨拶

年頭のごあいさつあけましておめでとうございます 金民柱

1955年に朝鮮総連が結成されてまもなく半世紀になろうとしています。同胞の生活と権利を守ることを旗印に結成されたが、今日、はたして総連が在日同胞に役立つ組織であったのかどうかきびしい検証が必要です。

とりわけ、金幸一さんを原告とする帰国者裁判では、朝鮮総連は「帰国運動は日本政府がやったことでわれわれには責任はない」などと主張しているのは、きわめて心外です。在日同胞をたぶらかして北朝鮮におびき寄せた総連の責任は重大で、ことしもこの問題を掲げてたたかいます。

今年もご支援をお願いします。

2002年、新年のご挨拶を申し上げます。 関西支部 山田文明

明けましておめでとうございます。昨年は困難な経済状況が続きましたが、皆様からは多様なご支援ご協力をいただき、ありがとうございました。関西人の大らかな性格を体現した関西支部は、庶民的な取組みを地味に行っていきます。関西支部講座を開催して勉強を続ける他、韓国に脱出した帰国者との連携を強化し、また帰国事業に道義的責任がある諸団体とも会談を進めていきたいと思います。引き続きご支援下さい。

2002年、新年のご挨拶を申し上げます 東海支部事務局長 金国雄

昨年は帰国者裁判が東京地裁ではじまり世論へ、この問題への認識と関心を喚起させる歴史的な年となりました。その意義は帰国事業そのものを問うことのみならず、北朝鮮での人権抑圧解決へ向けた大きな一里塚でもありました。

またアメリカでも「北朝鮮人権委員会」が発足しました。縁あってアメリカでショルテさん、南さんに表敬訪問の挨拶をさせていただくことができ、それぞれに活躍する場所は違っても、ともに手をたずさへ、北朝鮮の人々を救う人道、人権の大道を歩んでいる事の誇りを強く抱きました。

今年の2月には、東京において「北朝鮮の人権と難民問題に関する第3回国際会議」の開催が予定されております。このような人権の普遍性を求め築いていく流れが、世界の奔流となりつつあることも「守る会」会員の皆様のたゆまぬ努力とご理解が大きく寄与しているものと信じております。さらなるご協力を賜ります事を切にお願い致します。

また東海支部では、今後とも人との出会いを大切にまた、会員相互を結びつけるネットワーク充実を心がけ、どこへでも出かけていく事を目指したいと思っております。少数精鋭ですが、各自の持ち味を生かし、「守る会」への寄与をさらに心がけていく次第です。

今年も皆様にとってよい年となります事を、お祈りし新年の挨拶とさせていただきます。

平成13年を振り返って 中国・四国支部 福本正樹

守る会の中国・四国支部は、平成13年3月24日結成されましたが、その前日芸予地震があり、参加した会員を驚かせたことを思い出します。

支部は設立されましたが、会員は各県に分散していて組織的活動は容易ではありません。広島での李先生の講演に参加できず残念でしたが、14年は支部としての講演会や学習会に積極的に参加していきたいと思っています。

会の発行した季刊誌『生命と人権』をオンライン出版する計画は、全16冊の正誤確認に手間取り大幅に遅れていて、申し訳なく思っています。責重な資料が埋もれてしまうことのないように頑張らねばと思うのですが、日々の雑用に追われていました。冬休みに努力して完成にこぎつけたいと思います。会のホームページについても、もっと役に立つよう工夫を凝らし、自由に活用できるようにしていきたいと思います。また、メールの活用も大きな課題です。これを使って会の主張を広めることができると思います。

ITは社会の流れで、私の勤務する学校でも各教室でITが自由に使えるようになりました。会員の皆様もITを用いて更に情報交換を進めましょう。会の活動の進展のために微力ながら頑張りたいと思います。

今年も宜しくお願いします。

フォラツェンさんと文さんの後に続いて 小川晴久一守る会共同代表一

アメリカでの同時多発テロ以来北朝鮮の問題が陰に隠れてしまった感があり、口借しく思っていましたが、北朝鮮も実はテロ国家であることの認識やアルカイダとも関係をもっているとの指摘もあり、またテロ国家への資金源を断つ関連もあって、東京朝銀への手入れがなされ、北朝鮮問題への関心が徐々に蘇ってきました。

10月初北朝鮮問題の第3回国際会議を東京で開きたい旨の要請がソウルの市民連合からありました。12月初旬ヨーロツパでの開催を追求していたのが、同時多発テロその他の事情で不可能になり、2ヵ月延ばした2月でもよいからという内容でした。

突然のことでもあり、とまどいもありましたが、別項の通り、日本実行委員会を作り、とりくむことになりました。このとき私を励ましたものの一つに9月末に結成されたという北朝鮮人権アメリカ委員会の創立宣言がありました(別項)。ショルテさんから送ってもらったものですが、一読してとてもよくできているのに鳶きました。副委員長になったJ・レンドラーさんやショルテさんらの認識の結晶ではないかと深い感銘を受けました。アメリカの独立宣言にも匹敵する北朝鮮人権改善のための世界宣言だと直感しました。これを2月の国際会議の精神にすればよいと思いました。

そのあともう2つ私を励ますものに出会いました。ーつはフォラツエンさんの2冊目の本『北朝鮮を知りすぎた医者-国境からの報告』(草思社1・11・1刊)。もう1つは『涙で描いた祖国-北朝鮮難民少年チャン・キルスの手記』(風媒社1・10・25刊)とキルス家族救命運動本部事務局長、文国韓氏との出会いでした。フォラツェン氏は「ヒツトラーの残虐行為のあと、地球上で二度とこのようなことが起きないよう努力すると誓った」ドイツ人として北朝鮮の人権抑圧が止まない限り、ドイツの精神に学んで、2月の国際会議を成功させ、一日も早い強制収容所廃絶のために頑張り、帰らないという決意を語り、必死に訴えています。文氏はまずくて北の忠誠階級が見向きもしないパンを作って北の飢民に渡す構想を語ってくれました一この2つの本を広めたいと思います。

第3回北朝鮮の人権と難民問題国際会議

第三回 「北朝鮮の人権と難民問題国際会議」開催のお知らせとその意義について 小川晴久(日本実行委員会委員長)

【経過】
フォラツェン氏が北朝鮮の人権保護をめざす国際的なNGOを早急に作らなければならないと最新の著作で訴えているように、それをめざして一昨年、昨年と2回ソウルで国際会議が開かれた。このたび第3回目の国際会議が今年(2002年)の2月9目、10日と東京で開催されることになった。主催は今までの2回の国際会議を主催し、第3回目も主導的に準備を進めてきた韓国の北韓人権市民連合と12月1目に結成された目本実行委員会であり、後援は今までの2回のソウル国際会議を財政と広報面で支えたアメリカの国立民主主義基金(NED)と朝鮮日報社である。NEDはアメリカ議会内に設置されている団体で民主主義の振興のため毎年世界の100以上の団体に資金援助をしている団体である。今回の国際会議も韓国の市民連合が申請をし援助を受けて実施するが、その額だけでは不足なので、日本実行委員会も独自にカンパを募らねばならない。

【日本実行委員会】
日本実行委員会は12月1目現在、「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」、「救え!北朝鮮の民衆/緊急行動ネットワーク(RENK)」、「拉致被害者家族連絡会」、「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会」の4団体と有志が参加している。日本実行委員会の委員長には小川晴久(守る会)、事務局長には三浦小太郎氏(東京RENK)、副委員長は参加団体の代表が当ることになった。

【意義】
今国際会議開催の意義は以下に示す4つのセッションの課題に示されるが、北朝鮮の人権問題のすべてをとりあげ、その早期実施をめざして世界はどのように力を結集しなければならないかを討議し、明らかにするところにある。

(1)北朝鮮は1999年12月国連人権委員会に2回目の人権報告書を提出しているが、それが額面通り実施されていれぱ今日のような惨状はありえない。国連人権委員会の中に特別報告官を設置し、彼や国際人権機関が自由に北朝鮮内に入って調査できるようにしなければならない。

(2)中国政府が難民条約に違反して難民を北朝鮮に強制送還しているのをやめさせ、オリンピック開催国にふさわしい国になるよう世界の声を結集する場でもある。

(3)被拉致者の現状回復、韓国抑留者の送還、日本からの帰国者の自由往来の実現のため、その実態を世界にアッピールする場でもある。

(4)また昨年9月末に結成されたアメリカ委員会の創立宣言の内容を共有し、フォラツェン氏の訴えと共に、共同行動を一挙に強める意思確認の場である。第4回の国際会議は今年(2002年)12月初旬パリで行われることが内定している。それにつなげる意味でもぜひ成功させねばならない。

【お願い】
日本実行委ではぺ一パーの英文やハングルからの、また英文への翻訳、当日の通訳、外国からの出席者の出迎えなどボランティア協力者を求めている。チラシもポスターも多数用意している。活用してほしい。

事務局の連絡先はTEL・FAX03(3262)7473、またカソパも東京三菱保谷支店1377689生命と人権基金あてにお願いしたい。

国際会議プログラム 日程2002年2月9~10日 

会場 韓国YMCAスペースY

【2月9日(土)】

開会式(9:30~10:30)

基調講演M.ノーランド(アメリカ委員会)

第1セッション北朝鮮当局の第2回人権報告書の吟味(10:30~12:30)
報告者国境なき医師団(仏)、フォラツェン医師(独)ほか、亡命者の証言、ビデオ上映(14:30~15:30)

第2セッション中国における北朝鮮難民の現状(15:30~17:30)
報告者RENK、“よき友たち”(韓国)、北韓市民連合ほか

レセプション(17:30~20:OO)

【2月10日(日)】

第3セッション被拉致者、抑留者、帰国者問題(9:30~12:30)
当事者・家族の証言 横田 滋ほか報告者

(韓国)ヒョ・マンポ(慶北大教授)、ユ・ジェクン(国会議員)(日本)西岡カ(救う会)、高柳俊男(守る会)

第4セッション行動計画報告者ジャック・レンドラー(アメリカ委員会副委員長)発言世界の各NGO(1O数団体)代表

決議採択

閉会式(17:00~17:30)まとめユン・インジン(高麗大学教授)

北朝鮮人権アメリカ委員会創立宣言

2001年9月24日

北朝鮮における人権の否定は、もはや無視できないほどの恐ろしい不正である。何10年も北朝鮮の国民は、全体主義のシステムの中で生活を強いられてきた。その体制は余りに閉ざされ、厳格に統制されているので、彼らの生活環境は何1つ外の世界に知られていなかった。人権組織と国際的なメディアはともにこの国に接近する手がかりを欠いていた。イデオロギーの固い壁と一触即発の防御によって隔てられた、2つの朝鮮間の厳しい対立は、北朝鮮の孤立化と国際社会の沈黙を強めた。国際社会は朝鮮半島の政治を支配している過敏な安全保障の問題に専ら関心を集中してきた。

1995年以来、100万人以上の北朝鮮人が飢えと病気で亡くなった。また、数10万人以上の人々が、国境を越えて中国に脱出した。この人間的破局(大災害)によって、北朝鮮を外部社会と隔てていた沈黙の壁に初めてひびが入った。行動は制限されているが、人道援助チームの働き手たちは、北朝鮮の抑圧の実際を目撃するようになった。

一方、北朝鮮脱出者たちの証言は、北朝鮮における絶えざる恐ろしい人権虐待の実態を生々しく伝えている。加えて、ピョンヤン政府は経済援助と食糧援助を必死に追求しつつ、カナダ、オーストラリア、EU連合のほとんどの国を含む多くの国々と国交を締結するに至った。壁のひび割れが大きくなるにつれて、北朝鮮の体制当局はもはやこれ以上その抑圧のシステムを隠すことはできなくなり、人権組織と民主的諸政府の厳しい目に少しずつ従わざるをえなくなっている。

その時が来た。この抑圧に反対して声を挙げる時が。国連によって規定された人権の基準が、世界のどの国の人々にも適用されるように、北朝鮮の人々にも等しく適用されるべきだと主張する時が来た。重要なことは、北朝鮮は、市民的政治的権利に関する国際規約(訳注=自由権規約、B規約)と経済的社会的文化的権利に関する国際規約(訳注=社会権規約、A規約)を共に批准しているのである(訳注:1981年9月に)。それゆえ、北朝鮮は自国の市民と国際社会にこれらの文書の規定を実践する責任を負っており、これらの人権基準を破っている政策と行動を説明しなければならない。北朝鮮は今まで国際的な協定を一貫して破ってきた。しかしこれ以上市民に対するその基本的義務を侮辱することは許されない。

北朝鮮の人権に関して広まっている情報は、完全でないが、もっとも深刻な関心を引くに十分過ぎるほどである。北朝鮮は世界で最も閉ざされ最も抑圧的な全体主義国家である。北朝鮮における基本的人権の否定は、特定の個人やグループに限られるものではなく、すべての国民に及んでいる。

政府は人々を意のままに拘留し投獄する。家庭から連れ去り、直接監獄に送る。司法上の再審理は存在せず、刑事裁判制度は政府の命令で機能する。

国民は、政府によって管理された、指導者を賛美することだけを目的とするメディアによる宣伝攻めにさらされている。人々が接することのできるラジオは、政府の放送だけを流している。広場の拡声機は政府の放送番組のみを放送している。思想教育は隣組組織と各レベルの学校で支えられている。すべての北朝鮮人の意見は国家保衛部によって傍受されており、盗聴器が多くの家庭で使われている。子供たちは両親を密告するよう奨励されている。自主的な集会は許されず、すべての組織は官製であり、政府によって管理されている。

職業総同盟は労働者の意見を調査し、労働要件と規則を強化するのに使われてきた。信仰の自由はなく、あらゆる芸術は先の指導者金日成と今の指導者金正日の神話を促進しなければならない。

私たちは基本的人権が意図的破壊されている3つの広大な分野に特別の注意を喚起したいと思う。

1)政治的監獄と強制労働所(laborcamps)の制度
北朝鮮は常時20万人(推定)を擁する政治的監獄と強制労働所を持っている。1人の家族員の政治的偏向を理由に、しばしば子供を含む家族ぐるみが収容される。囚人は獣(けだもの)扱いの条件下で、強制労働に従事させられる。拷問は日常茶飯事である。多くの囚人が飢えと病気で死んだ。また、多くの他の囚人はしばしば子供を含む群集の前で公開処刑された。過去30年間で40万人の囚人が収容所で亡くなったと推定されている。

2)飢えと食糧その他基礎的必需品への接近否認の問題
北朝鮮の飢饉がもたらした恐るべき人命被害は、社会の隅々に平等に及んでいない。北朝鮮政府は住民を忠誠度によって分類しているが、被害は全人口のほぼ3分の2を占める“敵対”ないし“動揺”階級の間で最も激しい。これら見放された階級に属する人々は、子供たちを含め、食糧だけでなく、住居、医療ケア、雇用、教育への平等な接近(享受)を否認されている。このことは食糧が必要に応じてではなく、国家への忠誠度を基礎にして供給されているとの人道援助組織の苦情を裏書している。いくつかの援助組織が実際に食糧供給への政府の妨害(と軍隊への援助物資の流用疑惑)と医療手当てを必要としている子供や大人たちに自分たちの医師を接近させないことに抗議して朝鮮から撤退している。

3)中国に脱出している難民の苦境
1990年代初期の飢饉の開始と共に、数10万人の北朝鮮人一彼らの多くは栄養不良の女性と年配者と子供たち一が祖国を逃れ、ほとんどが国境を越えて中国の東北地方の吉林省と遼寧省に入った。

許可なく国を離れることは北朝鮮では犯罪とみなされている。それは強制収容所の腕曲な言いまわしである教化所で最低7年間の懲役または死刑に当たる。中国は1951年に難民条約に加盟していながら、これら脱出者を難民と認定することを拒んでいる。その反対に、北朝鮮人をかくまったり助けたりした中国人に、彼らの年収に相当する罰金を課し、北朝鮮国家保衛部の役人と一緒になって脱出者の逮捕と北朝鮮への送還に当たっている。

アムネスティの最近の報告によれば、5千人の北朝鮮人が2000年の3月わずか1ヵ月だけで吉林省の図們橋から強制送還されている。同数の脱出者が他の越境所からも送還されている。同報告書によれば5万人から30万人の脱出者が中国に依然滞在している(ロシアやモンゴルにもそれよりは少ないが脱出している)。彼らのすべてが恐怖の中で生活しており、多くの女性が生きるために売春を強制されている。

北朝鮮内部の状況に関して我々が知りうる情報はなお不完全なものであるが、北朝鮮の人権は世界のどの国にも見られないほどひどく破壊されていると結論づけるに十分である。

※1この悲劇に対処する危急の第一歩は北朝鮮の状況の真実の姿が世界に明らかにされるように情報の封鎖を打ち破ることである。

※2そのために人権組織と人道援助組織は危機の全貌を調査するために北朝鮮国内への接近が保障されねばならない。以下のような他の手段も講じられなければならない。

・自由な援助組織が飢餓救援を最も必要としている人々に届けることができるよう、そして彼らが助けようとする人々にその援助が届いたことを立証できるように、北朝鮮当局に圧力をかけること。

・北朝鮮への他の経済支援が、上述した人権(強制収容所問題)と難民保護と飢餓支援の3つの危急の問題での意味ある改善を条件としてなされることを要求すること。

・許可なく国を離れる行為を犯罪視することや、強制送還された者を厳しく罰することを止めるようピョンヤン政府に圧力をかけること。そして中国政府に脱出者を強制送還してはならない政治難民として認定するよう要求すること。

・彼らの強いられた孤立に終止符を打つため、北朝鮮住民に情報を提供する新しい道を発見すること。

・北朝鮮の人々と交流し、接する多くのチャンネルを開発すること。

・南アフリカの労働者と市民を保護するために適用された※3サリバン原則に似た経営法を開発するよう、北朝鮮に投資する企業を励ますこと。

・今日まで北朝鮮とつきあうに当たって、平和と核軍縮を推進しなければならぬという関心が、人権擁護よりも優先してきた。このような関心は今なお主流である。しかし、北朝鮮が世界から孤立し、自国民と敵対している(at war with its own people)全体主義国家である限り、そのような(安全保障のみの)関心は満足な対応を北朝鮮から引き出すことはできない。北朝鮮の人権を促進し、隣国と世界に徐々に自らを開くよう促す好機が今や存在する。この目的に向かって我々はここに集まったのであり、不断の努力を傾けることを我々は誓う。

もっと情報がほしい人はデボラ・リャン・フェントンさんに連絡してほしい。hrnk_org@}hotmail.com

(2001.11.26小川晴久訳)

【訳注】

※1これ以下が7つの課題の指摘である

※2北朝鮮の内部状況は多くの亡命者の証言によってすでに明らかにされている。それらの貴重な数々の証言【守る会の“かるめぎ”、レンクの機関紙、救援基金の機関紙、韓国の市民連合のニュースレター(日本語版あり)、姜哲煥・安赫・安明哲・李順玉、その他多くの亡命者の単行本、証言】を集約し、整理、分類し、1冊の北朝鮮人権侵害白書を作ることである。各自が手作りで作ることが望ましい。私たちの周りに貴重な証言が今や氾濫している。どんな証言にも沢山の人々のいのちと死が込められている。

少なくとも日本杜会ではこれらの資料は今や十分すぎるほどある。欧米社会や他の地域で知られていないとすれば、貴重な証言が英語その他の各国語に翻訳されていないだけである。北朝鮮内部の状況は今日ではすでに外部社会に暴露されている。金正日はすでに裸の王様である。

※3サリパン原則 黒人としてGeneral Mortors(GM)の最初の重役となったレオン・サリバン(牧師)によって、1977年に南アフリカのアパルトヘイトに対抗する手段として提唱され、すぐにアメリカの14主要企業に支持された、黒人への差別の撤廃を求める6つの原則から成る倫理網領

(佐倉洋氏調べ)。

アメリカ 北朝鮮人権委員会委員名簿
委員長フレッド・アイクル元・国防部次官レーガン政権時代(1981-1988年)
政務担当次官(MIT工科大学教授学者出身)スイス生まれ
◎副委員長ジャック・レンドラー 元・アムネスティ米国支部長
オーロラ財団首席理事
書記スーザン・ショルテ
財務オギチャン 前・米カトリック大学教授
執行局長ドップラー・リャンペントン 米・平和研究所(USIP)人権担当官
モートン・アプラモウィッツ 前・カーネギー国際平和財団代表
リチャード・アレン 前・ホワイトハウス国家安保補佐官
ロバーツ・バーンシュタイン 人権運動家出版人
ニコラス・エバーシュタット 米・企業研究所(AEI)研究員
◎カール・ガーシュマン 国立民主主義基金会長
ヘレン・ルイーズ・ハンター 作家
ジェイムス・リリー 元・駐韓駐中大使
◎マーカス・ノーランド ※国際経済研究所(m)研究員
ジョン・シャトウック 前・国務省人権担当次官補(クリントン時代)
スティープ・ソラーズ 前・下院議員

(◎印=第3回会議参加予定者提供=東亜日報2001.10-27記)

第3回北朝鮮人権・難民国際会議の基調講演者 マーカス・ノーランド氏はこんな人 聞き手 萩原遼

クリスマスの飾りつけの豆ランプがきらめくワシントンの中心街デュポンサークル。マサチュセッツ大通りに面した6階建て、ガラス張りのしょうしゃなビルが国際経済研究所です。ここの首席研究員のマーカス・ノーランド氏が12月8目、自分の研究室でインタビューに応じてくれました。広い作業机のうえは資料だらけで、とても忙しそうでしたが、にこやかに迎えてくれました。ノーランド氏は、来年2月9日から東京で開かれる第3回北朝鮮人権・難民国際会議の基調講演者です。まだ42歳の若さですが、アメリカの第1級の北朝鮮研究者の一人です。これまで埼玉大学と東京大学でも客員研究員をしたこともあり、日本研究者としても知られています。

一番新しい著書は共著で『日本叩きの時代は去った』。「実はその件で、10月に日本でのシンポジウムに出席してきたんですよ」と、一面全部をつぶして報じた産経新聞(10月29日付け)のコピーを見せてくれました。とても忙しいが来年また日本に行くのが楽しみだと言いました。

― 第3回国際会議での基調講演では、主にどんなことを主張されるつもりですか?

答 9月11日の大きなテロの日、ちょうどその日にアフリカのルワンダの友人がワシントンに来ました。よく晴れた夕空を眺めながら彼は「ああ無事でよかった」といいました。私も同感でした。

基本的な人権を否定する限り私も友人も無事に生きることはできない、世界中が人権を尊重するまではけっして安全ではないということを実感しました。

― そのことが北朝鮮にそっくり当てはまるわけですね。

答 もっとも鋭い形で現れています。恐らく1OO万人かそれ以上の北朝鮮の人々がいつ終るとも知れない飢誰のなかで死んでいます。いまでは北朝鮮の3分の1の人口が国際援助によって命を永らえているのです。こんな悲劇は、世界に二つとない独裁体制だけがなしうることです。こうした人権抑圧にどう対処するのかが話し合われるでしょう。私も問題提起します。

― たとえば?

答 これから北朝鮮と外交関係をもとうとする国は、国交正常化の過程で人権間題が中心的課題であると言うことを押し通すべきです。また非政府組織のメンバーは、北朝鮮の内部と接触を広げることです。個人であれ、グループであれ、組織であれ、政府の統制の外にいる人たちとの接触を広げることです。これはすでに始まっていますが、いっそう拍車をかけるべきです。

― 9月に「北朝鮮人権アメリカ委員会」という組織が誕生し、ノーランドさんもメンバーのおひとりですが、この団体は何を目的にしていますか?

答 創立宣言(5~7ぺ一ジに全訳)に書いていますが、人権抑圧がどの国よりもはなはだしい北朝鮮にたいし、強制収容所、飢餓、脱出難民の3つの問題を中心にその改善を迫るつもりです。政治団体ではないので政治活動はやりませんが、必要な資料や報告を用意し、議会や国民の関心を高める活動をやるつもりです。お金も集めないと。

ところで、これにたいし北朝鮮が、11月5日の朝鮮中央通信でコメントを出したのをご存知ですか。

― いいえ、知りません。アメリカに来て英文資料に追われてあまり北朝鮮の情報を見てないので。

答 じゃー、あとで探してメールで送ります。そのコメントの最後の部分に注目してください。(アパートに帰るとすでに届いていました。最後の部分はこうです。「人間のあらゆる権利がもっとも正しく保障されており、人民大衆の自主性がもっとも完壁に実現しているわれわれ式社会制度をつぶそうとする米国の試みは卵で岩をこわそうとする無謀でこっけいな試みにすぎない。米国は『人権』圧力騒ぎがわれわれには絶対に通用しないことを肝に銘じ、軽挙妄動してはならない」)

― 北朝鮮について、いまどう考えておられますか?

答 ことし4月にカナダのオッタワで開かれた集まりに文書を発表しました。「シナリオ北朝鮮の今後の5年」という題ですが、まだスケッチの段階です。(そういってA4の用紙9枚の英文草稿をいただきました。その場でざっと目を通しましたが、4つのシナリオを立てています。中国、ベトナムのように改革が成功する現在のようにその場しのぎの政策で切り抜ける北のエリートの間で体制内改革が行われ金正日は祭り上げられる大衆が立ちあがり体制崩壊に発展する一という4つをあげて、それぞれに分析を加えています)

― 私にとってもたいへん興味深い内容です。あとでくわしく読ませていただきます。早く1冊の本にまとまるといいですね。国際会議でのご活躍を期待しています。

ノーランド氏の略歴,
1959年3月生まれ。ジョンズ・ホブキンフ大学で博士号取得。国際経済研究所の首席研究員のほか大統領府総経済顧問評議会の首席コンサルタソトなど。埼玉大学で1988年から89年まで教鞭をる。96年に東京大学社会科学研究所の客員研究員。主著『Avoiding Apocalypse The Future of the two Korea』大災厄の回避一2つのコリアの将来)のほか共著、編著書多数。

第4回 金幸一さんも出席 帰国者裁判公判

「陳述書」の提出で証人採用へ

金幸一さんが帰国事業の責任で朝鮮総連を訴える裁判の第4回公判が東京地裁527法廷(三輪和雄裁判長)で12月21日午後4時から行なわれた。今回は金幸一さんも参加したが、陳述の機会はなく、証拠の確認と次回までに証人の陳述書を提出することが要求されただけだった。傍聴者は約20人でほとんど原告側だった。次回は3月1日(金)午前11時から行なわれる。

裁判後行なわれた藤森弁護士による説明では、被告側は“原告は韓国亡命後の言論活動をしており、訴訟の機会もあり、時効が成立しているのではないか”としている。このことに対しては、金幸一さんのパスポートの取得でさえ1995年になってやっとできたのであり、若干19歳で北にわたった金さんに裁判に訴えるなどのことを求めるのは無理がある。また塵肺訴訟なども弁護士との出会いから時効を算定しているとした。ほかに金さんは自由意志で北に行ったのではないかとすることに対しては、果して北の真実の情報が十分に提供されていたのだろうか、ウソの情報しか与えなかった総連の責任はまぬがれないとした。

「生命をかけて亡命者のために尽くしたい」と金幸一さん

裁判後、文京シルバーセンターで北朝鮮人権市民大学が開かれ、改めて金幸一さんの挨拶と藤森弁護士の報告があった。ここで藤森弁護士は帰国協力会のKさんの証言として、新潟の日赤センターにも総連の関係者が出入りし、帰国事業を事実上取り仕切っていたのは総連であることが明らかにされました。ほかに北にわたり「地上の楽園」ではない北の実態を『楽園の夢破れて』という本などで総連幹部に伝えた呉貴星こと関貴星さんの報告を総連は無視した責任があるとした。また時効関連では戦後補償裁判の浮島丸事件や花岡事件では債務不履行構成となって和解勧告が出されたりしているとした。

金幸一さんは最近の北からの亡命者の話を聞くと状況はもっとひどくなっている。帰国者専用の収容所ができたりしている。まだ希望しているが韓国に亡命できていない人も多い。また北に家族が残っているために裁判で訴えたくてもできない人も多い。たまたま自分は単身で行ってすぐに韓国に逃げたので家族も親族もいないから訴えられる。これからも韓国で生命をかけて亡命者のために尽くしたい、などと語った。

小川、萩原両共同代表の話

この日、滞在中のワシントンから急遽帰国した萩原遼共同代表も挨拶した。米国では9.11後の騒ぎも沈静化してテレビも娯楽番組も流しているが日本のテレビの方がテロ報道に熱をあげていて驚いた。しかし、ブッシュ政権の北朝鮮政策は就任以来それまでクリントンの政策を踏襲していたが、9月11日で変わった。北朝鮮の細菌兵器についてもあからさまに警戒感を表明して、今後は金正日との対決姿勢を濃厚にしていくだろうなどと語った。

また小川晴久共同代表からはフォラツェン医師の近作『北朝鮮を知り過ぎた医師一国境からの報告』(草思杜刊)が紹介され、収容所で亡くなった人の遺体は埋葬せずに道路材の中に混ぜるなどとの衝撃的な事実も報告されているようだ。また2月の国際会議の内容も紹介された。

さらに参加者の中から韓国政府の現在の情報統制が異常に強くなっている事実も明らかにされたこれに対しては韓国の中堅層からも批判があがっており、いわゆる太陽政策の堅持派との確執が強くなっているもようだ。(佐倉洋)

この人に聞く ジャンボ 地方公務員 東海支部 聞き手 金国雄

守る会入会のいきさつ

僕がこの会に入るきっかけとなったのは、今東海支部の事務局長をしている金国雄さんと同じ職場に配属になったのが始まりです。職場の同僚と言っても百人ちかくもいる職員のなかで一緒に仕事をすることもほとんど無かつたので話をする事もあまりなかつたのですが、偶然仕事後、市内にむかうバスに乗った時に会い、お互いスキーが趣味である事を知って、その後、一緒にスキーに行くことが多くなり、その時に自分は在日で北のために活動していることなどの話を聞きました。

それからしばらく北朝鮮民主化活動の話を聞いたりしていました。ある時「長野に旅行に行かないか?」と誘われて行った時に萩原遼さんと知り合いました。でもその時もまさか自分が守る会に入るなどとは思わなかつたのですが、それから暫くたって今度は奈良の萩原さん宅で.の焼肉パーテイーに一緒に行かないか?と誘われて行ったら、知らない間に守る会東海支部を立ち上げる話になっていて、それに僕も参加を求められました。それが入会のきっかけです。

~私、が願う事~

僕がこの会に入会するまでは北朝鮮がどんな国なのかまったく知りませんでした。日本の隣にあって長い国名で、金日成という人がいて、ソ連や中国の仲間で杜会主義だということくらい。北の人もソ連や中国と同じような暮らしをしているものだと漠然と思っていました。過去に帰国事業なんて事があったのもこの会に入って初めて知りました。でも知れば知るほど悲しい国だということがわかりました。今どき、あのような個人崇拝の独裁的な国も他に無いでしょう。早く民主化されて基本的人権が守られる国になって欲しいと願います。

いつになればあの国の人々が呪縛から解き放たれて自由になるのかわかりませんが、時代に合わない国は立ち行かなくなっていつかは倒れるものと思っています。そんなときが早く来る

ことを願っています。そして旅行好きの自分としてはいつか北朝鮮を自由に歩き回ってみたいと思います。

詩二編

『まなざし』

あなたには幸福と感じる事が幾つありますか
あなたが大勢で暖かい鍋を囲むとき
思ってください飢餓に苦しむ人達のこと
あなたが寒くてコートを羽織るとき
少し気にかけてください凍える人達のこと
あなたが灯りのともる家で家族と過ごすとき
ふと心に留めてください抑圧された人達のいることを
あなたもそしてあなたも関心を寄せてください
あなたの微笑を少しください
あなたの暖かい心を少しください
そして海を隔てたお隣の国北朝鮮をみつめてください
悪しき行為は人の目を避け残虐に行なわれます
一人が三人に次に十人やがて大勢のあなたが注視し続けることが
苦しむ人々を救う事につながるのですから

『さっぽろの空から』(季節のたより)

石狩川の支流はもう凍り始めました
じきにワカサギ釣りの頃となります
冷たい北風がサラサラとした真っ白な雪を
舞い上げていきます
日が差せば雪はキラキラと輝き
そこらじゅうにダイヤモンドの粉を撒いたよう
来年二月は「さっぽろ雪まっり」
世宗太王(セジョンデワン)と光化門(クァンファムン)
の雪像を見ることができるでしょう
歴史に名を残した国王
秀吉の侵略から幾度となく焼失の憂き目にさらされた
光化門……
また朝鮮史をひも解いて見たくなりました

第6回 北朝鮮人権市民大学講座

同時多発テロと外柔内剛政策の行方 1999年4月20日教示を中心に 朴斗鎮(元朝鮮大学校教員) 11月16日 所:文京シビックセンター

はじめに

金正日の「外柔内剛政策」と1999年4月20日教示を理解するためには、昨年の南北首脳会談に至るプロセスを理解する必要があります。それは1994年10月のジュネーブにおける核問題に関する「米朝枠組み合意」からペリープロセスを経て南北会談にいたるアメリカの北朝鮮融和政策を北朝鮮が利用したプロセスです。

ちょうど去年の1O月にオルブライト国務長官が北朝鮮を訪問し、その直前に超明録という軍人が米国を訪問して反テロ声明を出したり、共同コミュニケを出したりして米国との関係改善の姿勢を見せましたね。この頃が北朝鮮の「外柔内剛政策」の絶頂期と言って間違いないでしよう。

この約6年間の対米関係改善戦術の中で出されたのが4月20日教示です。この教示が出された直後の5月25日から28日に米国の調整官ペリーが北朝鮮を訪問していることからもこのことがうかがえるのです。だからこのいわゆる4月20日教示は金正日が米国との関係改善がほぼ間違いないと考えた時点でしゃべっていることを念頭においてもらいたいのです。

彼はアメリカとの交渉で自信を深めたのでしょう。総聯が同胞からどんどん孤立していくのはやり方が下手だからそうなるのだとして「赤旗」をかかげる本心はそのまま出さず内に秘め、表面はソフトにして同胞を引きつけなければならないし、日本政府をはじめとした各階層とも総聯が「右傾化したのではないのか」と思うぐらいにしなければならないと当時の第一副議長であった徐萬述に指示したのです。これが4月20日教示の基本内容なのです。ここには権謀術数好きの性格が見事に反映しています。

表にできない「朝鮮労側党日本支部」

当時日本との国交正常化は経済問題を克服する上で非常に重要な意味を持っていました。特に朝銀の破綻内容がすでに金正日に報告されていましたので資金調達は総聯にあまり期待できないと。それではどこから調達するのか。それは日本からの賠償金しかないじゃないですか。これを金大中政権が後押しをしたため日本でもバスに乗り遅れるなという雰囲気がかもしだされた。

そういう時期に総聯はもっとうまく立ち回れと指示したのです。

この「内柔外剛政策」は北朝鮮の一貫した「統一戦線戦術」だったのですが、それが一層鮮明になったのは1990年代にはいってソ連をはじめとした東欧社会主義が崩壊してからです。特に1994~95年に最大の危機を迎え、内は「先軍政治」という軍国主義、外は対米関係改善を軸とした先進諸国との外交関係の改善という2大方針をとるようになってからだと思います。

総聯に対しても内と外を明確に分けることを指示しました。内部では「学習組」を通して「金正日崇拝思想」を強化し、外部には民族主義で「外皮」を纏うように指示したのです。

この「学習組」という組織は実質的には「朝鮮労働党日本支部」なのですが、これは公式の場には一切出てきません。勿論機関紙の『朝鮮新報』をはじめとした総聯の刊行物にも出てきません。総聯はこの「学習組」組織を通じてすべての組織を掌握しているのです。朝銀もそうです。朝銀の本店が総聯中央で各都道麻県の朝銀は支店ではないかといわれるゆえんはここにあるのです。一般同胞との関係では民族的な面を全面に出して、最近では同胞の気を引くための就職センターを作ったり老人介護を強調したりしてポピュリズム的傾向を強めているのです。

この傾向は今年5月に開かれた総聯19回大会に明確に現れました。

「太陽政策」、どのように評価すべきか

金大中政権の「太陽政策」は南北交流を促進する面では前進もありましたが北朝鮮の外柔内剛戦術に利用された面が少なくありません。この点については歴史が証明していくものと思っています。「太陽政策」の問題点はいろんな角度から語れると思いますが、私が最も問題だと思うのは民主主義の原則よりも民族主義の面を、それも北が主張する民族主義に合わせすぎたということです。だから北の首領独裁に基づく民族主義も韓国の民主主義者やわれわれが主張する民主主義に基づく民族主義もなにか同じ民族主義のようになってしまったということです。

こうした区別ができない人たちは統一をただ民族的な側面だけでとらえ民主主義の原則をなおざりにした結果、南北共同宣言に異を唱えると民族反逆者のように、はなはだしくは金正日の独裁を批判することが統一に反対しているかのように主張する人たちまで現れました。しかし、これもほんの1年前までで今ではそのような主張は影を潜めるようになりました。

同時多発テロ事件以後の米日の対北朝鮮政策の行方

その最大のきっかけは9月11日に起こったニューヨークでの同時多発テロであります。このテロによって反米=テロ支持のような構図ができ上がり、それまで北朝鮮が対米交渉の武器として使ってきた「核」と「長距離ミサイル」が無力化してしまいました。

テロ事件以前は、一応国際条約があったにしろ「核」や「長距離ミサイル」の問題は国家主権に関わる問題であったため、いかにアメリカといえども武カで押さえつけることは国際世論が許さなかったのではないでしょうか。

また大国は「核」と「長距離ミサイル」を持ってもよく小国は持ってはいけないという論理はどう見ても無理があると思います。しかしテロ事件以降はテロと結びつく「核」や「ミサイル」は国家主権を犯しても除去できるとする国際世論ができ上がってしまいました。この情勢の変化は金正日の『先軍政治」を台無しにしただけでなく、対米カードを完全に無カ化させてしまったといっても過言ではないと思います。

金正日が従来の戦争瀬戸際政策やアラブの反米勢力と連帯し、外貨獲得のためにアラブにむやみに武器を売ったりすると一つ間違えば世界を敵に回すことになりかねません。これは大変な状況の変化です。金正日が南北閣僚会談まで中断させたのは、どうしてよいか分からない状態になっているからだと思います。また「金正男事件」のおおりを受け対日、対南工作の責任者であった金容淳が左遷されたとの情報もあります。日本との国交正常化交渉も全く進展を見せていません。総聯も朝銀問題をはじめとして深刻な問題が山積しています。どれをとっても金正日に有利な材料は見当たらないのです。彼の『外柔内剛政策』も先が見えてきたと言ってもよいのではないでしょうか。

質疑応答

質問:米国がタリバンを攻撃している中で北朝鮮はどうなるのでしょうか。

朴斗鎮:北は一応テロ反対を表明しましたが、24時間後でしたし、金大中と一緒に反テロ宣言を出すのも拒否しました。世界から見れば仲間外れの格好になっています。反テロでは中国もロシアも協調していますから大国の矛盾を利用する北朝鮮の伝統的外交戦術が通用しなくなっているので非常に苦しくなっていくと思います。それに地下坑道を破壊するだけでなく、酸素をなくさせ振動波で破壊するアメリカの新型バンカー・バスター爆弾の威力を見せつけられショックを受けていると思います。この新兵器は北朝鮮の防衛体制を無カ化する恐れがあるからです。対米関係の改善がない限り北朝鮮は非常に苦しい状況に追いやられると思います。

質問:統一についてはどうでしょうか。

朴斗鎮:明日でも統一されればいいですが、このままでは統一は相当時間がかかるでしょう。しかし「太陽政策」に西日がさし北朝鮮が孤立していくとこれまでのような戦争瀬戸際政策が使えないだけに案外早まるかもしれません。今後の進展はひとえにアメリカの北朝鮮政策いかんによるのではないでしょうか。そういう意味で金正日が「自主」、「自主」と叫ぶのももうひとつ説得力がありません。現実にアメリカの北朝鮮政策が変化しただけで南北交流も停滞しているのですから。彼が本当に「自主」を唱えるのであれば、アメリカや諸外国の動きに関係なく南北共同宣言に記されたソウル訪問などを速やかに実施すべきではないでしょうか。彼が「自主」を唱える意図はアメリカの排除にあると思います。

質問:拉致問題はどうなるのでしょうか。

朴斗鎮:拉致については対外問題だけではなく、体制問題も絡んできますから否認し続けるでしょう。

質問:国連に報告した文書などに見られるように人権問題は少しは改善しているのでしょうか。

朴斗鎮:人権問題は今や世界の憲法となりつつあります。それ故北朝鮮もこれを無視することがきないので一応それらしく体裁をととのえて対外的に非難されないように繕っていますが、それはあくまで形式的なものです。例えば8時間労働を憲法で決めていても革命的熱意という口実のもとに12時間労働をさせてもそれは本人が望んでやったことだと主張するわけです。思想を強制しても本人が進んでそれを受け入れたと主張するわけです。北朝鮮の社会は民主主義を経験したことがほとんどありません。植民地半封建社会から首領独裁社会に移行したからです。だから人権問題がなんであるかはほとんどの人たちは知りません。人権じゅうりんがどういうものかよく分からないのです。

本当に北朝鮮が人権問題に真剣に取り組んでいたら人権に関する啓蒙活動を大々的に展開しているはずです。北朝鮮は今も世界で最も人権がじゅうりんされている地域の一つではないでしようか。

第3回公判と脱出少年の原画展をめぐって金幸一さんの講演 相原悦子(仙台市)

秋の日 折鶴とともに

2001年10月19日(金)に第3回公判が行なわれるとのことで、行ってみようとは思いつつ、職場の方で休みが取れるか取れないかぎりぎりまでわからず、そしてたとえ休みが取れたとしても公判の始まる10時15分までに裁判所へ着くことができるかしらと、前日の夜まで小川先生のところへ電話を入れるなどたいへんなご迷惑をかけながらも休みが取れ、早い時刻の新幹線にも乗れ、無事、傍聴席に座ることができました。

裁判そのものはあっという問に終わるということはすでに聞いていたので、拍子抜けのような気分にはならなかったとはいうものの、裁判官という人もやはり人間、なんとなく原告か被告かどちらか寄りの雰囲気になってしまうのかしらん、裁判官にもあたりはずれのようなものがあるのだな、という気持ちを抱かされました。

東北支部結成に向けて

そしてその後、近所の食堂へ行って皆で話し合いながらも、私としては特に、小川先生と東北支部結成に向けてのこと、その足場がかりとして11月下旬か12月上旬に仙台で講演会のようなことをやってはいただけないか、ということについての話しもできました。

原画展「涙で描いた祖国」

この日、ぎりぎりまで迷いつつも東京へ出てきたのは、この公判のことと、ちょうどこの日から3日間、神田のギャラリーで、北朝鮮から脱出してきたチャン・キルス少年の『涙で描いた祖国』の原画展が開かれるというので、ぜひそれも見たいと思ったからです。

公判が終わってから何気なく私が「これからこれを見に行くつもりだ」と言ったら、私も私もと6人ほどで連なって行くことになりました。会場へ入ると親切な女性の方が受付におられ、また韓国の男性が韓国語でいろいろと解説をしてくれ、それを小川先生が通訳してくれました。クレヨンで描いたという、どこかしらたどたどしさすらあるそれらの描写がかえってこちらの心にずしんと響くものを感じさせ、専門家が専門用語で書いた難しい本よりもずっと訴えるものがあると思いました。

現在の日本では年端もいかない子供による少年犯罪が大きな社会問題となっていて、そういった子供たちに絵を描かせると、黒い色で鋭くとがった悪魔のようなタッチになるのに、この子供たちはあのようにすさんだ苦しい北朝鮮という環境の中で生まれ育ちながらも、そしてその悲惨な光景を描いているにもかかわらず、それらの絵はとりどりのパステル色をふんだんに使い、柔らかさすら感じさせるのです。

このことは、この子供たちの心はあのような環境で言語を絶する苦難を経ながらもすさんではいないということを証明する何よりのものだ、とメンバーのひとりが感想を述べていましたが、私も全く同感でした。このように純真な子供たちが助けを求めているというのに、何もしないということが、どうして同じ人間としてできましょうか。

心にとまる折り鶴

受付のテーブルには、この家族が心をこめて折ったというこの本の中にもでてくる折り鶴がたくさんあって、「どうぞお持ち帰りください」とその女性の方がいうものですから、私がひとつふたつ手にすると、もっともっとどうぞと、両の手のひらからあふれるほどの鶴をもらってきました。

また、この『涙で描いた祖国』の本も販売されていましたので、私は帰りの荷物が重くなるな、とは思いつつも、あの人この人と仙台の顔ぶれが浮かんできたものですから、4冊買ってしまいました。仙台に帰ってきてからも、折り鶴といっしょにそれをプレゼントしたり貸したりした何人かの人から思いもかけぬ反響を呼んだので、またさらに何冊か買うということで北朝鮮のことを少しは知ってもらえたかな、と思っております。

公判傍聴、小川先生との直接のお話し、そして原画展を見ること、この3っの予定を終えることができ、秋晴れのさわやかな1日となりました。今、その折り鶴を日の前にして、そしてそのとなりにはどこのぺ一ジを開いてもテロだとか難民だとかのニュースしかないような新聞をおいて、その間にただちょこんと座っているだけの私は何なのだろうか、と思ったり、こんど11月26日(月)に行なうことになった仙台での小川先生の講演会は、なにがなんでも成功させなければならないなどと、そんなことが頭をよこぎっていく秋のひとときです。

小川晴久共同代表の仙台講演会 相原悦子(仙台市)

11月26日(月)午後6:30~午後9:00、宮城県民会館において、20名ほどの参加を得る事ができ、無事終了することができました。

北朝鮮人権問題

小川先生ご自身が、どのような流れで、強制収容所問題を中心とした北朝鮮問題ととりくみあうことになったか、ということを含めての簡単な自己紹介のあと「守る会」の大きなふたつの柱の運動である、帰国事業のことと、強制収容所廃絶のことについて話してくれました。どちらも、それぞれ家族をはじめ身内の者が人質としてとられている以上、事実を知っていても、どうしようもないという状態にある。それならば、親類縁者が人質としてとられていない者、外部の人間、つまり私たちが、そういった人たちにかわって、この事実を発言し続けていかなければならない、とカ説されました。

そして2ヵ月前、アメリカで発足、宣言された「北朝鮮人権アメリカ委員会創立宣言」(英文)を、急いで日本語に訳されてきて私たちが言いたいことを一つの無駄なことばもなくすべて述べていてくれる、この宣言文を世界中に広めることを私たちの務めとして与えてくれました。

支部発足に向けて

その後、会場をあとにして近所のおそばやさんへ行って小人数ではありましたが、懇談のときをもち、新たに2名の会員を得ました。

先生はその晩、仙台市内のビジネスホテルに泊まり、次ぎの27日は午前中でしたが、先生とこちらのメンバー2名の3人で、これからの仙台での活動をどうするか、ということについて話し合いました。
相原悦子(仙台市)

仙台で金幸一さんの講演会 仙台にも守る会支部を!!の声が

12月22日仙台に守る会事務局長の山田文明さん、帰国者裁判の原告金幸一さん、共同代表の萩原遼さんをお迎えして宮城県民会館で「帰国運動とはなんであったか一帰国者裁判報告会」を開きました。暮れのお忙しいなか、急な呼びかけでしたが、二○人の方がご参加くださいました。

◆山田さんのお話

萩原さんの本『北朝鮮に消えた友と私の物語』を読んだ藤森弁護士が、「これはきわめて重大な人権問題だ。ぜひ裁判に訴えて、何とかしなければならない」といわれ、原告になってくれる人を探してついにソウルで金幸一さんに出会いました。金幸一さんは『38度線突破』という本も出されており、藤森弁護士もこの人となら確信をもって裁判がやれるといわれ、立ち上げることができました。いままで3回の公判がありましたが、朝鮮総連側の弁護士は4人もついているのに、告訴事実については「知らない」「われわれは帰国事業と関係がない。あれは日本政府がやったことだ」などと無責任な言い逃ればかりしています。私たちの側には何人かの心強い専門家がおられるし、証拠となる文献なども手に入れつつあり、十分自信を持って裁判を進めることができます。

◆金幸一さんのお話

父親が総連の地元の幹部をしていた関係で、幹部の息子から率先して帰国させるべきだという意見などもあって、1961年に決心して北へ帰りました。北の清津港に着いた時、迎えにきた女性の頬はこけ青白い顔で生気がない。招待所という宿舎に入ったら夜は南京虫の大群。これはだまされたと思った。金日成大学に入れるというから期待して帰国したのに工場で働かされるだけ。

翌年の11月北朝鮮脱出を決意し38度線を突破しました。雪の中を何日も歩き、昼は身を隠し夜だけ見つからないように山の中を歩いて6日目にとうとう南にたどり着いた。途中がけから転落して左腕を折りシャツを裂いて腕をしばり、痛さをこらえて歩きとうしました。私が北朝鮮を脱出したのは、こんなウソで在日同胞が北朝鮮におびき寄せられるのをなんとしてでも阻止したい、彼らに真実を伝えたいという気持ちからでした。この裁判を必ず勝ちたいと強く決心しています。

◆萩原さんのお話

第4回公判傍聴のためアメリカから一時帰国しました。守る会会員の方に勧められて「イースト・ウエスト」という映画を見ました。第二次大戦直後の1946年に旧ソ連でもあった帰国者問題を描いています。ヨーロッパに亡命したロシア人の医者がスターリンの甘言を真にうけてフランス人の妻と男の子を連れて帰国する話しです。この映画を見ながら金幸一さんたちのことが思い出されて思わず目頭が熱くなりました。こんな悲劇をフランス人も描いている、私も負けてはいられないと思いました。私ももう1作書きます。いまアメリカで勉強しているのは過去10年間の米・北朝鮮の核をめぐる対決をもう一度ふりかえり、クリントン政権が金正日のテロ脅迫に屈して手打ちをした1993年から94年の事態を検証したいと考えています。

そして北朝鮮の正体をはっきりと示して日朝国交正常化にあたって日本人は北朝鮮をどう考えるべきかの材料を提供したいと考えています。もしうまく書き上げたらまた仙台に呼んでください。

講演の後、有志で懇親会を持ち、食事をしながら意見交換をしました。この中で萩原さんから、仙台でもぜひ守る会支部をつくってほしいとの要望が出され、来年の春頃をめどに考えてみようとの意見が出ました。

(仙台・相原悦子)

太陽でもなく北風でもなく 李英和氏(RENK代表)講演

関西支部講座

12月8日開かれた講座はRENK代表の李英和氏を講師に招き、韓国の太陽政策への評価などを含めて李氏の考えを聞いた。

米同時テロが北に与える意味

もともと1O月中旬、米連邦議会で開かれる北朝鮮難民に関する公聴会に出席する予定だった。しかし同時テロで公聴会は流れた。テロ以外にアメリカは関心をなくすだろう。せっかく北の難民をアメリカが引き受ける機運が米国務省の中であったのだが…。これはテロが北朝鮮問題に与える逆風だ。アメリカが難民を助ければ、助けられた難民は反金正日政権になる。人道上だけでなく、戦略的な価値がある。

一方でテロ事件は追い風にもなるだろう。「テロやテロ支援国家を許さない」ということをアメリカは鮮明にした。次なるテロ支援国家に関心が向く。タリバン、アルカイダの次はイラクと北朝鮮のみだ。

太陽政策は「大成功」

太陽政策はほとんど終わったと言っていい。では、成功したかというと、逆説的だが大成功した。そもそも太陽政策とは、一般的にはイソップ童話による旅人にマントを脱がすのは北風よりも太陽が勝った、ということだが、それは公式発言、宣伝文句に過ぎない。南北統一を早めるために改革開放させる、という意味ではまったく成功していない。太陽政策の真の理由は2つ。

まず金大中大統領がノーベル賞をほしかった、という個人レベルの話。もうひとつは、そもそも北朝鮮を崩壊させない、金正日政権を安定させるのを目的としたものが太陽政策というものだ。統一は望まない。倒れられたあと、自分の任期中に統一するのは困る。だから太陽政策は、独裁政権を維持するために「見事に成功」した。

食糧危機と飢饉で倒れた国はない?

社会主義体制にとって、飢饉は「はしか」のようなもので、かならずかかる。1930年代のモンゴル、北ベトナム(1955-56年)、ソ連(1933年のウクライナ)、大躍進後の中国、ポルポトのカンボジア…。いずれも社会主義革命後すぐ、国家草創期に起きている。農地の集団化により農業生産ががた落ちになり、そのうえ工業化のために農民収奪をやる。「国民がいくら飢え死にしても、それだけでは独裁政権は倒れない」ということが分かる。カンボジアのポルポト政権はベトナムの侵攻によって初めて倒れた。

北朝鮮の飢餓の特異性

北朝鮮の飢饉は1990年代だ。起きる時期が違う。これはソ連、東欧の崩壊による貿易ショックという北風が突然吹いたためだ。この北風で同様に困った国にキューバ、ベトナム、イラクがある。しかし、北ほどの被害はない。キューバは配給制度を強化し、武器を買わずに食料を輸入した。ベトナムはドイモイ政策の成功でいまや東南アジアの優等生である。イラクはフセイン大統領が軍隊のリストラをした。キューバ、イラクは経済下降でも政権は倒れていない。フセインも軍縮はしても秘密警察はリストラしなかった。このことから、「いくら経済が悪くなっても、秘密警察の力があれば政権は維持できる」ということが分かる。金正日はむしろ軍隊を増強した。

経済の悪化で倒れた唯一の国にアパルトヘイトの南アフリカがある。これは経済制裁で成長率がゼロになったため白人の不満が高まり、指導層が分裂したためだ。独裁政権は経済の悪化だけでは倒れない。政治的分裂(南ア)や外国軍の侵攻(カンボジア)などがあって初めて倒れる。これまでの独裁政権がそう教えてくれる。

北朝鮮の2,200万人口のうち農民は400万。25%の農民が残りの75%を食わせていた。機械化、化学化した農業だ。それは75%の工業(肥料、薬)があってはじめて成り立つ農業だった。工業が貿易ショックで崩壊し、農業は急速に凶作になった。工業を回復させないと、農業も回復しない。その複雑なことをベトナムはやった。でも北はできず、フセイン的なテロ政治をやった。

北は農民以外の1,800万人のうち、平壌市民や軍関係、外貨を稼ぐ部門(計600万人)にのみ重点的に食料を配給した。94年一98年の間、これからもれた1,200万人のなかから300万が餓死した。

太陽でもなく、北風でもな<

金正日は国際社会でなく主として国民にもテロを振るっている。タリバンであれ何であれ大規模なテロ事件を起こす政権は、足元の国民にもテロを行い、そして政権を維持している。自国民に平気で無慈悲なテロを振るう独裁者はきわめて危険だ。そんな独裁者は他国にはもっと平気にテロを行うだろう。太陽をあてたり優しくしても独裁者は倒れない。では北風かと言うと、経済制裁をしても倒れるのは一般国民だけだ。北風の中身は政治的圧力でないといけない。太陽は独裁者でなく難民にあてなさい。それが独裁政権に対する、政治的な意味での北風になる。

(まとめ 坂元正三・会員)

中国・四国支部講演会

11月24日、中国・四国支部は帰国事業の実態を描いたドキュメント「戻らぬ船」(韓国kNTV制作)、「インサイド・ノースコリア」(RENK制作)のビデオ上映と金国雄さん・李貞子さんをゲストとした<お話しの会>を開催しました。

「インサイド・ノースコリア」は北朝鮮難民支援活動に取り組むRENKが隠しカメラで北朝鮮の深刻な飢餓状況をとらえたもので、闇市を徘徊するコッチェビの姿は衝撃的です。また「戻らぬ船」は、当時の時代背景をふまえ、帰国事業にたずさわった人や家族を送り出した人がインタビューで登場、実写映像も重ねあわせ、二重・三重の離散化を事実上強制した帰国事業の内実を問う内容で、現在朝鮮総連を被告として争われている「帰国者裁判」をより理解する上でも大変参考になるビデオです。2本のビデオの上映後、金国雄さん(事務局次長)、李貞子さん(故・金相玉先生夫人)をゲストとして<お話しの会>に入りました。

金国雄さんは、現在すすめられている「帰国者裁判」にかかわり、「あの帰国事業をもっとはやい時期に告発すべきであったが、多くの在日が北朝鮮に親戚・縁者を〈人質〉として帰国させているという実態の中で、遅ればせながらやっと法廷で争うことになった。これは単に朝鮮総連の犯罪性を問うということだけではなく、日本の世論を喚起し国際的に北の独裁政権を監視するという大きな意味をもっている」と述べ、運動への理解と協力を訴えました。さらに、北朝鮮の食糧問題にふれ「飢餓状況は、いわゆる自然災害によるものではなく、構造的に引き起こされたもの。現在、北朝鮮は国際的に莫大な援助を受けているが、北から逃れてきた人たちの中にはその存在すら知らず、その援助が逆に強権体制を支えるものと化しており、国民の食糧を確保するという最低限の国家道徳すら崩壊している」と指摘しました。

また、李貞子さんからは、「帰国した肉親・縁者からの音信により、在日の世界でははやくから<地上の楽園>の虚偽宣伝は通用しなくなっていた」こと、日本に残った多くの人たちも悲痛な思いを抱いていることなどが語られました。参加者からは、食糧支援問題や南北対話についての質問が出され「食糧が一般民衆に配給されるという保証は何一つない、南北対話に絶望感さえ漂っている」ことなどが話され、アフガン難民はもとより国全体が難民化している北朝鮮への関心をもっと広げていくことを誓い、まとめとしました。

次回は、今たたかわれている「帰国者裁判」の原告・金幸一さんをおよびする機会を是非実現したいと考えています。

第5回公判を傍聴しよう!!

日時 3日1日(金) 時間午前11時から 
場所東京地方裁判所527号法廷(5階)
多数の傍聴をお願いいたします。
東京地裁は地下鉄丸の内線、日比谷線、千代田線で霞ヶ関下車すぐ。

帰国事業前史① 帰国事業はいつから始まったのか 梅村雅英 東海支部調査委員

帰国事業は日本と北朝鮮の赤十字社間の協定によったので、双方の動きについて語られるのは当然であるが、もう一方の当事者とも言うべき韓国の帰国事業に対する動きや、韓国から見た帰国事業ついて関心を持たれたことはないだろうか。筆者は帰国事業に関心を持つようになったとき、韓国に住んでいて、意味もわからず、帰国事業当時の『東亜日報』をはじめとする韓国語の資料を読み始めた。最近になって、それらのコピーを読み返し、気づくところがあったので紹介したい。

I 帰国事業の始期はいつか

帰国事業はふつう、1958(昭和33)年8月の神奈川県川崎市中留の集会で集団帰国したい旨の決議がなされたことから始まるとされる。それは張明秀によれば「ふってわいたように起こった」という。しかし、どうもそうではなさそうだ。

ソウルで発行された韓国政経研究所編『朝総連』(韓国では朝鮮総連をこう略称する)(1974年刊)によれば、1954(昭和29)年8月12日、北朝鮮で非公開の内閣幹部会が開かれ、在日朝鮮人の集団帰国が考え出され、極秘の長期の戦略・政策が決定されたという(同書222頁)。その目的は労働カ確保である。

この時は停戦協定が締結されて1年という時期である。そしてそのための布石を北朝鮮政府は周到に打っていった。

Ⅱ 1954年

日本と北朝鮮の関係は、日本赤十字社(以後、日赤と略す)がジュネーブの赤十字社連盟を通じて、残留日本人の安否および速やかに帰国できるよう、援助を依頼する要請を1954(昭和29)年1月6日におこなったことから始まる。これに対し、朝鮮赤十字会(1946年10月18日創立、以後、朝赤と略す)から2月6日付で、「在留日本人の中に帰国を希望する者があれば、よろこんでその帰国を援助いたします」旨の回答が赤十字連盟を経て伝えられた。そこで、日赤は朝赤に残留日本人の氏名、帰国希望者の数、家族との通信などの許可を連絡して欲しい旨を電報したが、何等回答はなかった。さらに日赤は、2月22日、8月19日、12月25日、催促の電報や別提案をするも応答がなかった。

Ⅲ 1955年

1955年4月、ニューデリーのアジア諸国平和会議に出席していた畑中政春氏が、北朝鮮代表から同国が日本人の送還を計画している旨をきき、日赤に通報してきた。そこで日赤は同月13日、朝赤にその確認を求め同18日、その確認と日本人送還に努カ中である旨の回答を得た。この直後、「残留日本人の帰国に関する」南日外相声明が発表された。その中に日本人の帰国は日朝協会と共同で日赤がその任に当り、打ち合わせのため両者の代表を平壌に派遣するよう要請があった。

これ以後、朝鮮総連に極秘指令が下されたという。

それは一人でもいいから合法的手続きを踏んで日本から出国し、北朝鮮に入国させ、その反応を見ようというものであった。朝鮮総連はすぐに行動を開始して日朝協会の会員である国会議員を先頭に立て、出国許可交渉を始めた。そして遂に解放(日本の敗戦)後、10年にして初めて、日本政府の公式の出国許可を受けるのに成功した。大阪大学薬学科に在学中の鄭然昌がその最初の人物であり、1955年8月27日8時に神戸を出航する船で上海経由北朝鮮に向かった。翌28日には林光澈一行が「8・15解放10周年祝賀在日同胞代表団」として平壌に向かった。

ここで、日本の資料だけに接していた人たちは驚かれるだろうと思う。戦後、合法的に北朝鮮に向かったのは1955年8月28日の「8・15解放10周年祝賀在日同胞代表団」林光澈一行が最初ということになっていたのであるから。しかし『朝総連』の記述だけでなく、東亜日報の1959年2月10日夕刊の一面に「一九五五年八月、日本神戸港から外国船便で鄭某(然昌のこと、引用者注記)という一韓国人が日本政府の出国手続きを経て中国へ出航した時、韓国政府は日本政府に韓国人の共産国家送致の不当性を抗議したが、日本政府は日本政府が積極的に送致したのではなく、出国を認定しただけであると曖昧な態度を見せたことがあるが、この時韓国政府は日本政府に充分に韓国政府の立場を諒知させたのであり、これが北韓送致の初ケースであった。」とあるから、鄭然昌が最初の公式出国者であるという主張は根拠があると思う。もっとも林光澈一行の中に鄭然昌の名前が入っている資料もあるから、筆者としては自信を持って言い切ることは出来ない。

ただ、韓国の資料の中には異なる事実を示しているものがあることを伝えたかったのである。

林光澈一行は同年9月29日に金日成首相に会うのだが、その席上金日成首相は
①教育費を送る
②奨学金を送る
③朝鮮総連の活動を積極的に援助する
④留学生を送れ
⑤帰国希望同胞を歓迎する
という約東をしたという。ここで初めて、北朝鮮で既に在日朝鮮人の帰国に対する政策的決定が為されていることが、金日成首相の口を通して表明されたのである。

(次号につづく)

人権年表

「米国北朝鮮人権委員会がワシントンで発足」(2001年9月~2001年12月)

2001年
【9月】
30日
北朝鮮との連結に向けて工事が進められている京義線鉄道の韓国側、山一臨津江区間が開通し、51年ぶりに列車の運行が始まった。

【10月】
19日
韓国の金大中大統領は上海で中国の江沢民主席と会談し、南北対話については「難しい状況にある」と指摘した。

25日
北朝鮮住民の人権状況改善と閉鎖体制の開放を目標とする「米国北朝鮮人権委員会」ワシントンで発足した。レーガン政権下の国防省政務担当次官のフレッド・アイクル博士を委員長として、オーロラ財団首席理事ジャック・レンドテ氏、防衛フォーラム代表スーザン・ショルテ氏、米カトリック大学教授オギチャン氏スチティーブン・ソラーズ元下院議員、リチャード・アレン前国家安保補佐官、力一ルガニシュマン国立民主主義基金会長、ジェイムスリリー元駐韓・駐中大使ら15人。

7大活動課題は
①北朝鮮緊急食糧支援の分配に対する検証
②経済支援と人権改善、難民保護および飢饉救済との条件付き連携
③北朝鮮脱出者への処罰禁止および中国内北朝鮮脱出者への難民資格認定
④北朝鮮住民との多様な接触と交流経路の確保
⑤人権団体および独立言論者の対北接近の許容
⑥対北投資環境の改善一など。

【l1月】
3日
国連世界食糧計画(WFP)のモートン駐平壌事務所長は、北京で記者会見し、北朝鮮こ対する食糧支援として、61万㌧の供与を各国に要請する方針を明らかにした。北朝鮮の全体的な不足量は147万㌧に達する。北側は、主な援助国の日本韓国の要員が支援の届き具合を調べるWFPの作業に参加することを拒んでいる。

8日
韓国の金大中大統領は、与党・新干年民主党(民主党)の総裁を辞任すると発表した。先の国会議員補欠選挙における大敗と与党内紛糾の責任をとった。

9日
警視庁捜査二課は、朝銀東京信用組合の元理事長、鄭京生(64翻ら同組合幹部4人を「検査忌避」容疑で逮捕した。同容疑を突破口にして、北朝鮮への不法資金還流の解明に捜査当局のメスが初めて入るものとみられる。

12日
北朝鮮に肉親を拉致された被害者の家族である横田めぐみさんの両親らは外務省を訪れ「拉致問題で何の進展もない状況でのコメ支揚は絶対に反対」と要請した。外務省側は「現段階でコメ支援の検討は何も行っていない」と応えた。

14日
朝銀近畿信用組台(本店神戸市)の元理事長、安定志(55歳)ら数人の幹部も「検査忌避と背任」の容疑で警察に逮捕された。

14日
金剛山で行なわれていた第6回南北閣僚会談ば次回会談の日程も取決めないまま終了した。昨年7月に始まった閣僚会談が「共同報道文」すらまとめられずに決裂したのは初めて。

15日
ラムズフェルド米国防長官は、訪米中の金東信韓国国防長官と会談し、共同記者会見で「北朝鮮は自らがテロに関与し、ミサイル技術などを拡散させている。大量破壊兵器開発や、ミサイル技術の拡散は現実的な脅威だ」と語った。

16日
北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会が主催した第6回北朝鮮人権市民大学が文京区シビックセンターで開かれ、朝鮮問題研究家の朴斗鎮氏が「同時多発テロと北朝鮮の「外柔内剛戦術の行方」と題して講演し、ブッシュ政権の登場で、テロ資金洗い出しの余波を受けて破綻朝銀に対する当局の検査が厳しくなるなど外柔政策が行き詰まりを見せていると語った。

17日
北朝鮮を追放されたドイツ人医師のノルベルト・フォラツェン氏(43歳)が大阪市内で記者会見を行しし「北朝鮮で大きな軍事的な動きがあり、在韓米軍の緊張が高まっている」と指摘「北朝鮮がいかに危険な国かを伝えてほしい」と訴えた。平壌市に残っている友人からの電子メールによると、38度線に近い軍港の海州には軍艦があふれ、平壌と結ぶ道路は軍用トラックで溢れているという。

22日
韓国国防省は、韓国西海岸沖の黄海上で短距離ミサイルの発射実験を行ったと発表した。射程は100キロ。

27日
韓国合同参謀本部によると、午前{1時40分ごろ、朝鮮半島の南北軍事境界線をはさむ、非武装地帯の北朝鮮側から2・3発の銃撃があり、韓国側は警告放送を発し、応戦した。弾は非武装地帯で使用が禁じられている7.62ミリ機関銃弾だった。南北の銃撃は3年5ヵ月ぶりだった。北朝鮮の説明を求めるために29日に軍事休戦委員会の秘書級協議を板門店で開催するよう求めたが、北側は提案自体の受け取りを拒否した。

27日
日米韓高官協議が、サンフランシスコで開かれ、協議後の共同記者会見で、1994年の米朝核合意に絡めて「国際杜会の懸念に応える措置を取るよう」北朝鮮に要請した。

28日
同日付け産経新聞によると、ブッシュ米大統領は、反テ□活動について定義した中で、北朝鮮は、大量破壊兵器の拡散を止めるべきで、同兵器開発の有無を確認させるため査察を受け入れることを要求する、と求めている。

29日
朝銀東京信用組合(東京渋谷)をめぐる資金流用疑惑で警視庁捜査二課は、29日、東京干代田区の在日朝鮮人総連合会(朝鮮総連)中央本部、文京区の東京都本部、昭島市の西東京本部など関連施設に対して、前日逮南した朝鮮総連の康永官容疑吉(65歳)らの業務上横領疑惑を裏付けるために家宅捜索した。

1955年の総連結成以来、初の本部強制捜査となった。中央本部前に約400人の総連関係者が集まった。総連中央常任委員会の南昇佑副議長は「強制捜素は不当逮捕、不法捜査である」との抗議声明を出したが、在日の人々は朝鮮総連の許宗萬責任副議長にも責任追及の可能性があるとみている。

【12月】
4日
同日付け産経新聞の古森義久特派員電こよると、北朝鮮が米国政府にテロ支援国家の指定解除を求めているのに対し、ワシントンの有力研究所のヘリテージ財団が作成した報告書は「北朝鮮は米国のテロ支援国家に値する」と指摘している。同報告書は米国務省が北朝鮮の指定解除の最低限の条件として、①テロ糾弾の国際条約や議定書に署名する②テロを公式こ糾弾する③日本赤軍のテロリスト4人を国外追放する一ことを求めている。
また、報告書は指定解除すべきでない理由として、北朝鮮が①過去40年間に3,600人以上の韓国民を拉致し、うち442人をなお拘束している②日本国民を少なくとも10人を拉致したままになっている③ビンラデインー派を含む外国のテロ組織と関わリをも保ってきた④90年代ニはイラク、リビア、パキスタン、イランなどに化学兵器や、生物兵器や弾道ミサイルなどの部品や技術を売ってきた。北朝鮮が過去のテロ活動を認め、韓国との境界線への部隊の集中配備を減らすことを迫れ、と求めている。

(佐伯浩明 運営委員)

新年の一言

「正義」とは何かが問われた昨年。今年は私なりの正義を貫きたいと思います。(藤原)

あけましておめでとうございまず。最近人と話していても明るい話題が少な<なったように思いまず。景気も底が見えないし、小泉総理のいう「痛み」というのも今後どんな形で来るのかわからないし。守る会にも経済的な面で少なからす影響はあると思います。しかし北でもっと過酷な一痛みに耐えている人たちのために今年も一年がんばりましよう。(ジャンボ)

編集後記

◆新しい年、かるめぎ読者のみなさま、ことしもよろしくお願いいたします。新年の松の内に『かるめぎ』をお届けしたくスタッフー同相当無理をしました。関係者の方々のご苦労に感謝いたします。せっかく送っていただいた原稿が紙面の関係や締めきり後にとどいたため掲載できないのもいくつかありました。次号で収録します。(萩原遼)

◆「キリングマシーン(殺人機械)さ」。そう裸足のゲリラ兵は言った。聞くと北朝鮮から輸入されたという。ほかに指導のために北朝鮮軍人もウガンダには派遭されていた(エチオピア、アンゴラなどへの派遣もあったようだ)。それは1980年代初めの旧オボテ政権に対してだったが、新しいムセベニ大統領も北朝鮮との関係は保ち、東京には来ていないが、平壊には行っているようだ。これは東京にいるルワンダ大使のことだが、日本とともに南北朝鮮も兼管しているという。こんどの2月の国際会議にはアフリカの大使館関係者も呼んで北朝鮮についての本当の話を伝えられたらいい。(佐倉洋)

◆謹賀新年。守る会の益々のご発展を祈願いたします。さて、昨年11月24日(土)、中国・四国支部主催の「ピデオ上映とお話の会」に出席のために故金相玉先生の奥様とご一緒に広島に行った。広島は農民詩人として知られる峠三吉の生誕地。1945年8月6日、彼も爆心地より3キロの自宅で原爆被爆。

ちちをかえせははをかえせ
としよりをかえせこどもをかえせ
わたしをかえせわたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんのよのあるかぎり
くずれねへいわをかえせ

この思いは北朝鮮帰国者も同じであろう。原爆であれ、北朝鮮の人権蹂躙であれ、人間の不幸には同質の悲しみがある。この悲しみに応えるのが血の通った人間というものであろう。(松浦照雄)

◆編集に携わられたみなさま。ご苦労様です。
今回はたくさんの記事が集まり、割愛しなければならない記事がありました。次号に掲載できるよう考えたいと思います。(窪田和夫)

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