恩師・韓鶴洙先生をしのんで ~韓鶴洙先生は拷問で殺された~
大阪市生野区在住 高順玉
謹んで先生のご冥福をお祈りいたします。
どうして先生が殺されなくてはならなかったのですか!
先生は、「反党分子」「スパイ」との汚名をきせられ、保衛部の監獄で 独裁者 金正日に殺され帰らぬ人となられた。
この憤りをどう抑えたらいいのでしょうか!
大阪の古い活動家や同胞のなかで、先生を知らない人はいません。
先生の教えを受けた私たちは、いつも満面の笑顔で「おお、達者かね」と声をかけてくださった、今は遠い先生とのあのころを懐かしく想いだします。
先生に近かった人びとは先生を先輩と呼びます。また、ある人たちは「ソンセンニム」、「校長先生」と心をこめて呼びます。
学校経営のために飛び回る先生の古カバンのなかには、手形がいっぱい詰まっているというので、人びとは親しみを込めて「手形先生」との別名で呼んでいました。
先生はみんなから慕われる闊達で包容力のある教育者でした。
みんな先生が大好きでした。
韓鶴洙先生は、日帝時代故郷を追われるようにして渡日、苦学して大阪商科大学(現大阪市立大学)を卒業された。
祖国光復後は、新しい国の建設は後代の教育から興すべしとの固い信念のもと、民族学校の教師、続いて大阪朝校の校長としての重責をまっとうされた。一九五五年には教職員中央委員会副会長も兼任され、その後は大阪教育会会長として大阪の民族教育の振興に寄与された。
一九七〇年代に入ると、朝鮮総連の権力抗争は激しくなり、金炳植は気にくわない幹部に「反党宗派分子」の刻印をおし、次々と排斥したばかりか、祖国訪問団にくい込ませて北へ追放しました。
私が民族運動の専任活動家であった一九七一年の初めごろでした。
金炳植は、居もしない「宗派セクト」(注=北朝鮮の言う反党反革命の分派のこと)を摘発するのだといって、大阪総連の活動家会議で「朝鮮労働党史の反宗派闘争」の部分を読み上げ、「これと同じ輩がここにもいる。韓鶴洙お前はちやほやされているが、まるで古ゾウキンのように、あっちに付いたりこっちに付いたりの小者じゃないか」と叩いた。先生は身動きもせず演壇を見続けておられた。私はあのときのことを今でも鮮明に覚えています。
あにはからんやその年九月、先生は「教育者代表団」の一員として北に追放され、戻らぬ人となられました。
その後の経緯やご家族の動向については、脱北者・李守一さんの手記をお読みくださればと思います。
私たちはもう弱虫ではありません。遅ればせながら、いまでは何が真実であるのかをよく知っています。北朝鮮の政治犯収容所を取り払い、あの地の民主化の実現こそが、先生の願っておられたことであることをよく知っております。
先生、もう安心され眼をとじてください。
安らかにお眠りくださいませ。
先生の死を決して無駄にしないことを ここにお誓いいたします。
二〇一一年五月
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理論誌『光射せ!7号』より転載