かるめぎNO.38(2001.05.01),39(2001.07.05)に収録されている記事を見やすいように1本に統合して再録します。
同胞を金日成親子に売り渡した男(上) 元朝鮮総連中央本部幹部 洪吉童
ある94歳の老人が2月21日午後8時20分飯田橋の逓信病院で息を引き取った。その名前は韓徳銖。生命維持装置で維持されていたその体は火葬されたとき骨の形状が残らなかったという。彼もまた金日成親子と共にいつの日か朝鮮民族と在日同胞によって歴史的審判を受けなければならない人物である。
多くの運動家は始めのうちは清新な気持ちと正義感を持って改革の道に臨むのであるが権力の甘い蜜を吸うやいなや初心を忘れ堕落していくことが多い。在日本朝鮮人総聯合会(以下、総連)のドンとして死ぬまで君臨し続けた韓徳銖もまたそのような人間の一人であった。
偽りの「輝かしい経歴」
総連が発表した彼の経歴によると、彼が生まれたのは1907年2月18日で、その出生地は韓国の慶尚北道慶山郡安心面東湖洞である。そして日本に来たのが1927年で翌28年に日本大学の芸術科に入学したとなっている(中退)。彼はよくまわりの人たちに音楽家を夢見て日本にやってきたと公言していた。
1945年までの彼の民族運動家としての経歴はほとんど記されたものがない。ただ残されているのは彼が熱海―丹那トンネル労働争議に関係していたという事実と偽りの「輝かしい経歴」だけである。
総連の発表によると彼はそこで「懲役2年執行猶予3年の刑を受けたのをはじめ数十回の逮捕や拘留にも屈せず在日同胞の民族的尊厳と生存権を守るために戦った」ことになっている。これが精いっぱい誇張した彼の解放前の「輝かしい経歴」である。
数十回という逮捕拘留もまゆつばものであるが(通常数十回というとき40~50回を意味するのだが、1ヶ月1回としても大変な数字であり、こうした状況下ではとうてい正常な労働は出来ないと思われる)それにもまして不思議なのは日本人労働者も含めた労働争議で戦うことがどうして「在日同胞の民族的尊厳と生存権を守る」ことになるのかということである。
総連が発表した精いっぱい美化された経歴の中にもこのような矛盾点が浮かび上がってくるのだが、彼の創氏改名にも素直に応じる経歴はすでに多くの人たちによって暴露されている。
創氏改名にも素直に応じる
まず、彼が丹那トンネルの工事現場で民族の尊厳を守ってきたと言っているが、彼が西原という日本名で創氏改名を行なっていたことはすでにノンフィクションライター・萩原 遼氏の調査によって白日の下にさらけ出されている。そればかりか当時の彼の私生活についても日本人女性と暮らしていたという伝聞さえ存在している。40半ばで朝鮮人女性、林秀蓮氏と結婚しているが、この晩婚はこうした伝聞が確かではないかと思わせる。
彼の解放前の経歴がこうであるため一時彼の活動を朝鮮民主主義人民共和国(以下、共和国)で映画化しようとしたのであるが立ち消えになったようである。さすがの韓徳銖も日本では経歴を隠せても捏造は難しいと思ったのであろう(共和国では金日成親子がいかようにも歴史を捏造できるが日本ではそうはいかない)。
こうした彼の経歴は、当時の在日同胞運動家の中では誇れるものでなかった。それ故、権力志向の強い彼が(彼が朝鮮労働党から批判されるときはいつも個人英雄主義者という罪名であった)主導権を握るためにはどうしても後ろだてが必要であった。その後ろ盾こそが金日成である。金日成と彼の対面は韓徳銖が密航船に乗って平壌に赴き非合法的に行われたと言われている。
在日に幻想をふりまく
彼も多くの社会運動家同様、総連結成時には民族心と使命感を持って運動を展開したと思われる。
総連結成時までの在日朝鮮人運動(在日朝鮮統一民主戦線時)で主導権を握っていたのは日本共産党の民族対策部に属する人たちであった。彼らの多くはマルクスの階級闘争論を絶対化してスターリン主義に傾倒し、民族的利害を階級的利害の下においた。彼らは日本の労働者階級の闘いによって日本の革命が成就してこそ在日朝鮮人の真の解放がえられると主張し、一国一党の原則を盾に日本共産党の下に在日同胞の組織を従属させようとした。こうした主張に加え暴力革命論による極左的運動は一般の在日同胞の生活に多大の被害をもたらした。
韓徳銖はこうした状況の転換を図り、民族主義を前面に打ちだすとともに総連を結成し、その運動を社会主義国(共和国)と金日成に結びつけることによって社会主義に対するロマンと英雄伝説のロマンという幻覚興奮剤を在日同胞に与え、彼らのエネルギーを再結集することに成功した。彼の功績を強いて探すならこの過程で解放後在日同胞が築きあげた民族教育を活性化させ、在日同胞の民族主体性を取り戻させたことであろう。
総連を金日成と韓徳銖の私物に
しかし、この民族主義的傾向は民主主義と人権の思想に裏打ちされていなかったために、総連組織を金日成を「神」とあがめる組織に変質させたばかりか、その財産を彼らと自らの私物に作り替えていった。
1959年12月の「帰国事業」から始まる総連系同胞の金日成親子に対する隷属化の過程は韓徳銖が金親子の手先として働いた民族と在日同胞に対する背徳の歴史である。彼の死後残されたものは在日同胞に対する負の遺産と彼個人の不正蓄財の遺産だけである。
現在総連の影響下にある同胞数は赤ん坊まで入れて9万名程度にしかならず(最盛時は50万人以上)、機関紙朝鮮新報の発行部数は8000部にも満たない(朝鮮大学校生もふくめて)。
また、在日同胞の宝物である民族教育も民主主義教育が抜け落ち、金日成親子を崇拝させる教育になり果てただけでなく、科学性はおろか現状認識すらまともに出来ない状況になっている。学生数も最盛期の数分の一にまで落ち込み、その経済基盤は朝鮮信用組合の崩壊と相まって存亡の危機に直面している。
どうやって250億円もの個人財産が?
これに反して韓徳銖の個人財産は増え続けバブル時には250億円を越えたと言われている。丹那トンネル工事の一介の貧乏労働者が、いかなる錬金術でこの莫大な富を増やしたかについては今のところ明らかにされていない。
また、その住まいも東京都内の高級住宅地にある500坪の大邸宅である。この邸宅はあの有名な黒澤明監督の「天国と地獄」の撮影に使われたといわれる豪邸であり、彼の姪婿で総連の第一副議長であった金炳植がその全盛時に買い入れたものである。そのあまりの豪華さから社会運動家の住まいとしては、特には在日同胞の指導者の住まいとしてはふさわしくないとして関係者から強く反対された邸宅である。彼は、ここで朝鮮大学校卒業生たちを「革命」の名のもとに召し使い同然に使い、最高級車のベンツを運転手付きで乗り回し、主治医付き食事係付きの大富豪のような生活をしていたのである。組織の末端では生活費も支給されず生活苦に喘いでいる活動家が多数いるというのに。
こうした事実だけをとってみても彼が在日同胞を心から愛し、在日同胞のために一身をなげうった人間でないことは明白である。
(次ページに続く)