同胞を金日成親子に売り渡した男 韓徳銖 元朝鮮総連中央本部幹部 洪吉童

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会報『かるめぎ』
朝鮮学校歴史教科書『現代朝鮮歴史 高級3』より

同胞を金日成親子に売り渡した男(下) 元朝鮮総連中央本部幹部 洪吉童

 前号で指摘したように、韓徳銖が在日同胞を心から愛し在日同胞のために一身をなげうった人間でないことは明白であるが、それは晩年、彼が在日同胞から見放された存在に転落したことのなかに明確に現れている。

 彼の葬儀が盛大だったという人たちがいるが、彼が金日成親子からもらった勲章の数に反比例して一般同胞の対応はきわめて冷ややかであった。葬儀に集まった人たちは、現在総連に禄を食む人たちと外交儀礼で来た人たちがほとんどであった。

 彼の死後、一部の在日人士が「統一日報」で彼の死を悼むとしながら、「彼はスケールの大きな人間で彼に対する一般同胞の冷ややかな態度は、彼に対する評価を矮小化したり朝鮮総連が犯した数々の誤謬を彼個人の誤謬にする短絡的な見方が意図的に広められたせい」などとわかった風なことをいっているが、これはまことに「短絡的」な見方であり、笑止千万といわざるを得ない(この人士は同胞の冷ややかな態度を無視できず韓徳銖の功罪は相半ばであるなどとつじつまを合わせた)。

 在日同胞の彼に対する冷ややかな態度は、彼が金日成親子に在日同胞を売り渡した犯罪者であることを看破した結果であるといえる。

韓徳銖の罪状

 韓徳銖が在日同胞を金日成親子に売り渡した罪は次のようなものである。

1、 総連系同胞を欺まん宣伝で共和国に帰国させ、金日成親子に売り渡し、帰国者に新たな奴隷的生活を強要した罪。

2、 総連系同胞に金日成親子を崇拝させ、首領独裁制を強制し、意に沿わない多くの総連幹部を反党分派分子の罪名で追放し、思想の自由と民主主義を奪った罪。

3、 共和国と在日同胞の歴史を捏造、歪曲し総連系同胞の歴史観を狂わせた罪。

4、 民族教育を金日成親子崇拝教育に転落させ、在日同胞の中に偏狭な民族主義を蔓延させた罪。

5、 総連系同胞の財産を金日成親子に収奪させることによって朝銀信用組合を破産させ、そのおこぼれで莫大な私財を不正に蓄えた罪。

6、 総連の財政基盤をパチンコ屋と不動産屋に集中させ、在日同胞経済のIT化を阻害した罪。

7、 共和国の金政権だけを支持するように強要し、内外に共和国の虚像をまき散らし、祖国の分断固定化に狂奔した罪。

 勿論ここでいう7つの罪状は、彼が政治家であったことから当然のことであるが結果責任の罪である。すなわち在日同胞全体に何をもたらしたかということであり、上述した人士のごとく個々の人々の印象や感情を論じるものではない。

権力への執着心

 この罪状の中で最大の罪は在日同胞を共和国に帰国させた罪であるが、これらの罪を一つずつ糾弾するには紙面の制約もあるので他の機会に譲るとして、問題はなぜ彼がこのような大罪を犯すことになったかである。それは彼の「権力に対する異常な執着心」と密接に関係している。この権力に対する韓徳銖の執着心については、いまから40年前、韓徳銖の性癖を肌で知り「帰国事業」の犯罪性をするどく看破した呉貴星(関貴星)氏が次のように指摘している。

「彼は個人崇拝が大好きで、独裁意識が強く、権力に盲執する癖は異常なものがある」

(『楽園の夢破れて』,p.95,亜紀書房刊)。

 韓徳銖の権力に対する野望は金日成というスポンサーが現れたところから顕在化した。その最初の行動は総連の結成による日本共産党民族対策部系(民対系)幹部からのクーデター的権力奪取であった。

権力者への過程

 この権力奪取に至るまでの韓徳銖と金日成の結託過程は総連の記録からは定かではない。

 解放前までは一面識もなかった両者が、解放後どのような経緯で結びついたのかは、それがその後の在日同胞の運命を左右する誠に重大な問題であったにも関わらず明らかにされていない。また明らかにしようともしなかった(この点については萩原遼氏が『北朝鮮に消えた友と私の物語(文藝春秋刊)』のなかで工作員南信子の存在を明らかにすることによってその一端を明らかにしている)。

 総連の公式発表では彼が解放直後から金日成を慕い運動を展開したとしているが、当時の彼を知る人たちはこれを一笑に付している。彼はむしろ呂運亨氏らの主張する「朝鮮人民共和国」路線を支持していたようである。これは解放直後、金日成が朝鮮における有力な政治指導者として登場していなかったことからも見ても自然な姿であったといえる。彼の金日成との野合はむしろ在日朝鮮人組織を日本共産党の支配から奪取することによる利害の一致から始まったと見るのが妥当である。このことは彼の「在日朝鮮統一民主戦線」(民戦)時代の不遇な状態、そして総連結成後の「民対派幹部」への執ようなまでの排除の姿勢などからみてほぼ間違いない。金日成が自分の権力強化に利用するために韓徳銖を使い、韓徳銖もまた金日成の権威を傘に自己の野望を実現しようとしたのである。

総連結成

 総連の結成により「民対派」から権力を奪い取った韓徳銖は、帰国事業によって93000余名もの在日同胞を金日成に売り渡す一方、あらゆる虚偽宣伝を行いあたかも自分が差別と貧困からの解放者のごとく振る舞った。そして在日朝鮮人運動の唯一の正統な指導者として君臨するため、上海浪人で後に姻戚となる金炳植を手先に使い、帰国事業の「興奮」を利用して、自己中心の「在日朝鮮人運動史」の捏造にとりかかったのである(勿論、彼の私財の蓄積もここから始まる)。

 彼はこうして自己の運動だけを「正統」とし、その他の人々の在日朝鮮人運動をすべて「異端」と決めつけ自己に対する個人崇拝をあおり立てた。これがいかに目に余るものであったかは、その後、朝鮮労働党が1961年8月「8月提綱」なるものをもってこれを痛烈に批判したことからもうかがえる。

 「8月提綱」によって総連の実権は韓徳銖批判派に移りかけた。韓徳銖はショックのあまり入院し金炳植は人事部長を解任され「朝鮮問題研究所」に飛ばされた。しかし彼らは、その後の人事部長についた安興甲らが韓徳銖の追い落としを計ったとする報告を金日成に送り権力の奪還に成功する。権力奪還後における韓徳銖の復讐はすさまじいものであった。かれは金炳植を新たに設置した組織部長に据え、29、30回中央委員会で態勢を整え「民対派」撲滅に乗り出したのである。

「金炳植事件」

 後に金炳植が韓徳銖に取って代わろうとして起こった1972年の「金炳植事件」(金日成の絶対化をうたった1967年5月25日の非公開教示による金日成崇拝運動を「民対派」撲滅闘争に利用していた韓徳銖が、その突撃隊長であった金炳植に寝首をかかれそうになった事件)は、こうした流れの中で起こったものである。

 金炳植は総連内の朝鮮労働党組織である「学習組」を通じて「民対派」だけでなく自分に反対する幹部を徹底的に弾圧した。そして自分に忠実なことが金日成と韓徳銖に忠実なことであるとして総連の主要組織をすべて手中に収め韓徳銖を孤立させたのである。しかし金炳植が韓徳銖の罪名作りのために設置した盗聴器(韓徳銖の自宅)が露見することとなり最後の仕上げ段階で大逆転を喰らうことになる。この時、中央常任委員会(ほとんどが金炳植派となっていた)で、韓徳銖は「自分を帽子だと思っているのか」と激怒したという。

 「金炳植事件」は総連結成後の最大の権力闘争であり、韓・金体制による総連の私物化が表面化した事件であった(彼らの組織を私物化する姿は、共和国の人々が飢えに苦しむなかで王様の生活を楽しむ金正日一族の姿と酷似している)。この事件の後、共和国に送還された金炳植は、「南朝鮮研究所」の所長という閑職に追いやられていたのだが、彼が隠匿していた秘密資金100億円(金炳植は1980年代の後半に秘密裏に日本を訪れこの秘密資金を回収していった)を金正日に差し出すことと引き換えに国家副主席に返り咲いた。

 「金炳植事件」後、韓徳銖の権威は急速に衰えていった。それとともに彼の金日成親子への盲従はますますひどくなり、恥も外聞もかなぐり捨てた権力への執着があらわになっていく。このことを端的に表した「事件」が1986年の総連第14回大会でのできごとである。この大会で韓徳銖は、金正日によって実権を取り上げらそうになった(世代交代の名目で)のであるが、議事進行中にそれを察知した彼は突如討論者をおしのけ壇上に立ち「私が議長だ」と叫んだのである。

 この事件以降、自己の地位に不安を感じた韓徳銖は金日成親子に対する私的献金にもいっそう精を出すことになる。その資金の捻出のため金正日に媚びることしか能のない財政担当の許宗萬に数百億の資金調達を頼み込んだといわれているが、ここから韓徳銖は好きでもない許宗萬に実権を譲り渡していくことになる。権力に盲執する韓徳銖は在日同胞にその負の遺産を残したままこの世を去った。彼の犯罪が裁かれるのはこれからである。

 最後に私自身ある時期まで韓徳銖の犯罪に加担していたことを厳しく自己批判するとともに、その贖罪のためにも今なお総連を私物化している金正日とその盲従分子許宗萬一派に対する闘いを引き続き行なっていく所存である。

(かるめぎNO.38,39より、見やすいように抜き出して再録)

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