『北朝鮮の記録 訪朝記者団の報告』政治のはなし 読売新聞社 嶋元謙郎

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 本稿は、1960年に新読書社から発行された「北朝鮮の記録 : 訪朝記者団の報告 」を紹介しています。帰国事業当時「38度線の北」同様、大きな影響を与えたと思われる訪朝記事です。現段階でのコメントはつけません、一つの歴史的資料としてお読みください。

政治のはなし

読売新聞社社会部 嶋元謙郎

『北朝鮮の記録 訪朝記者団の報告』P51

『官僚主義について』

 実をいうと、われわれは朝鮮の「政治」についても報告をしなければならない。しかし、朝鮮の最高主権機関は最高人民会議であり、その構成は労働者、事務員、インテリなど二百十五人(内女子二十七人)からなり、……。と政治形態について説明してもそれほど意味がない。
 それよりも一体朝鮮政府は、具体的にどのような政策をとり、人民たちはどのように受取っているかという方が、はるかに興味深い。いうならば、政府と人民の〝社会主義的なものの考え方〟と〝受け止め方〟だ。ここのしるすいろいろな話はわれわれの感じとった民衆の中の〝政治〟の一端である。
 中国の北京から飛行機で朝鮮の臨時首都平壌に入ってまず目を奪われることは、町行く人たちの服装がバラエテーに富んでいることである。というのは、中国では男も女も、例の工人服という詰襟の洋服を着ていた。もちろん真冬という条件が重なっていたからでもあろうが、ともかくわれわれの通過した広州、武漢、北京、瀋陽の各都市は、町全体が紺と草色に塗りつぶされていたといってよい。人民外交学生のお偉方も、新聞、通信社の幹部も、宝石商の店員も、飛行場の事務員、タクシーの運転手に至るまで、みんながみんな工人服を着ている。色彩が乏しいと、とかく人間は暗い気持ちにおちいりがちなものである。何か息苦しい、そんな感じにとらわれて、中国を通過する三日間というものはゆううつですらあった。
 それが平壌では、背広を着ている者もあり、作業服あり、工人服あり。特に女性は、白、赤、黄、緑、さまざまな色のチョゴリ、チマと呼ぶ朝鮮服を着ている人や、ワンピース、ツーピース、さらには毛皮のオーバーをはおっている人など様々。何かホッと開放されたようで、旅愁を慰めるに十分だった。もちろん、着ている布地はお世辞にも上質とはいえないし、消費文化が百花繚乱と咲き誇っている日本に比べると、色彩や種類もまだまだお粗末であり、貧弱ですらある。しかし、同じ社会主義国家で、しかも隣り合った中国と朝鮮で、このような開きがあるのは一体何故だろうか?
 ここで中国と朝鮮の消費物資の比較をしようというのではない。消費物資の豊富なことでは、中国の方が朝鮮より遥かに豊かである。われわれが感じたのは、服装の点に於いて中国が画一的なのに比べ、朝鮮は個人個人の好みに任せていることだ。つまり、朝鮮の社会主義的な考え方、というものは、非常に巾が広く、かつ柔軟性に富んでいるのではないか、という点である。
 服装ばかりではない。われわれは元日に朝鮮作家同盟委員長の韓雪野氏、副委員長の李北嶋氏らと懇談したが、その席上で、先ず話題になった日本人作家は、なんと湯浅克衛氏であった。湯浅克衛氏といっても戦後は余り精力的な創作活動をしておられないから、ピンと来る人は日本人の中にも少ないかもしれないが、戦前は「鴨緑江」「オモニたち」など、朝鮮を舞台にした一連の小説を書いていた作家である。朝鮮で生まれ、朝鮮で育った人であるから、朝鮮を愛するという点では人後に落ちなくても、いわゆる左翼系の作家ではない。というよりも、むしろ左翼の公式論でいうならば、〝反動作家〟のレッテルをはられそうな作風だ。
 最近の活躍ぶりや家族のことを色々尋ねた挙げ句、帰りぎわに「ぜひ、朝鮮に招待したいから、私のところに連絡して下さるように伝えて欲しい」
と依頼されたときには、正直なところ面食らってしまった。左翼作家ならばともかく、〝反動作家〟をも招きたいとは。「え?」ともう一度念を押したほどだった。清濁合わせのむというのか、何といおうか、その肝の大きさ、度量のあることにはびっくりした。
 帰国後この話をある朝鮮関係の団体に伝えたら、飛び上がって驚いた。この団体では湯浅克衛氏をハナにもひっかけていなかったからである。あわてて住所を調べて連絡を取っていたが、朝鮮側の巾の広い考え方に比べ、日本にある朝鮮関係の団体の考え方は、何か自分で自分を狭くしているかたくなな感じではないだろうか? これからの親善友好運動に一考を要すると思う。
 この朝鮮の柔軟な考え方は、映画、演劇、オペラなどの娯楽面にもよく現れている。
 われわれは朝鮮で、オペラ「栄えある祖国」「沈青伝」、映画「春香伝」、演劇「兄弟」などを鑑賞したが、そのいずれもが、社会主義の宣伝臭が少ないという点にびっくりした。
 実はわれわれとしては、朝鮮という国を、建国の歴史が浅く、社会主義陣営に於いても後進国であるとみていた。従って社会主義を人民に徹底させるために、あらゆる機会を捕らえて、特に映画、演劇などの娯楽を通して教育し、啓蒙しているのではないか、というふうに考えていた。しかし、そういった宣伝臭は、各工場にある言わば素人の芸術サークルに見られるだけで、玄人の演ずるオペラ、映画、演劇には、ほとんど抵抗を感じなかった。
 例えば「沈青伝」は、むかしながらの物語が忠実に神話的な雰囲気の中で進められ、社会主義的な解釈や表現などは一言半句もでてこない。古典ばかりではない。朝鮮戦争の孤児の問題を取り扱った韓雪野原作の「兄弟」にしても、戦争の悲劇や、たくましい祖国愛の精神を盛り上げる場面はあっても、ついぞ社会主義的なお説教はでてこない。だから観衆が素直に芸術のなかにとけこんでいくのであろう。あるシーンではすすり泣きが館内を圧し、ある場面ではドッという爆笑が湧いていた。
 在日朝鮮人の帰国問題で活躍された朝鮮赤十字会の李一卿委員長は、教育文化相を兼ねているが、その話によると、余りに啓蒙性が強かったり、現実を歪曲していると、人民にそっぽを向かれるのだそうだ。つまり、朝鮮の芸術は、あくまで人民のものであり、人民とともに進むように批判をうける。
 われわれが朝鮮に滞在中、丁度「一人の青年の歩いた道」という題名の映画が上映中だったが、これがさっぱり不評判で、観客の入りが少ないとり教育文化相がこぼしていた。「高等中学を卒業した一学生が、大学に進学するのをやめて、祖国建設のために工場で働く」といったテーマに恋愛を盛り込んだメロドラマだが、「それでは大学に行くのが間違っているのか。工場で働くだけが能ではないだろう」という声が高まって、正月興行だというのに散々の不成績。朝鮮の映画や演劇などは、全部独立採算制だから、お客が不入りだと、それを作ったプロダクションは損をする。原作者はもちろん、監督や俳優の収入にも影響してくるわけだ。この映画も六万朝鮮円、日本換算九百万の制作費がかかったんだそうだが、こんな不入りではどうしようもないと李教育文化相が嘆いていた。つまり、いい映画、大衆に喜ばれる映画でないと採算がとれない。人民大衆がその審判官になっているわけだ。これでも判るように、朝鮮では上からの押しつけよりも、下からの人民の批判が重視されているようだった。
 こういった人民からの批判は、特に国家機関に働く、いわゆる官僚に向けられている。というのは、朝鮮にも「官僚主義」という言葉が実際に存在し、生きている。民主主義の精神からすれば、すべての〝官僚〟は、人民の〝公僕〟でなければならないし、また人民の税金食わせて貰っているのだから〝公僕〟であるのが当然なはずだが、この至極明快な原則が十分徹底していないことは、われわれは日本でイヤというほど味わっている。もっとも日本は、民主国家の仲間入りをしてからまだやっと十五年しか経っていないから、多くを望む方がどだい無理な話かもしれない。一体、いつになったら、われわれは真の国家の主権者としての権利を行使できるのか、日本の官僚のあり方、やり方をみていると甚だ心細い限り。歴代の内閣や各官庁でいく度となく「官僚主義の打破」が叫ばれながら、いまだかって完全に実行されたことはない。いうならばお先まっくらという状態だが、この点朝鮮ではうまい方法をとっている。
 「人民からの不平不満の投書に対しては、これに明確に答えなければいけない」という官僚に対する義務づけがそれだ。このことを「官僚主義反対闘争運動」という強い言葉で表現している。
 一例をあげると昨年の大学入試試験シーズンのとき、朝鮮には現在、金日成総合大学はじめ大学が三十七校ある。日本では人口九千万人に対し、国立大学九十九校、朝鮮では人口一千万人に対して三十七校だから、朝鮮の方がいくらかゆとりのある比率になっているが、それでも、やはり入学試験となると受験生は頭が痛い。平均三人に一人。金日成大学の物理学部や経済学部の哲学科、政治経済科などという憧れの学科は十人に一人くらいの狭き門となる。そこで、いきおい学生たちは、どの大学を受験したらよいか大いに頭を悩ますわけで、シーズン近くなると、進学相談の問い合わせが、教育文化省に一日二百通前後届くという。
 これを管轄するのは数人の視学である。一人一人に対して適切な助言や指導を行うことに服務規程できめられているが、何分一日二~四十通の回答を出さなければならない。そのほかにも視学としての勤めもある。つい面倒くさくなるのが人情というもので、ある視学が、判で押したような、きまりきった回答をだした。もちろんその学生は、担当の高級中学の先生とも話し合いをしたあげ句、思い余って教育文化省に相談を持ちかけたほどだから、こんな通り一ぺんの回答で満足するはずはない。また相談の問い合わせを出す。同じような内容の回答。そこでこの学生が怒って、それまでのいきさつをしたためた抗議文を出した。
 このような人民の不平不満は、投書係を通じて担当者の手許におくられるから、投書係が見逃すはずがない。たちまち「官僚主義の典型」として槍玉にあげられたという。
 「一体その人はいまどうなっていますか?」
 われわれは興味深く李教育文化相に質問した。ソ連のベリヤ、マレンコフ、モロトフを引合いに出すまでもなく、社会主義国家に於いては、一度批判されて失格すると消されるか、左遷されるか。とにかく二度と浮かび上がってこないというのが、われわれの通念だったからだ。ところが李教育文化相は、そんなわれわれの興味を知るや知らずや、こともなげに答えた。
 「視学として人民に奉仕する義務を怠っていたのだから、視学を罷免されるのは当たり前だ。その人に能力が無かったことが明らかにされた以上は、職場を変わってもらうより他に方法はない。いまはやはりこの省の別の職場に格下げされていますよ」
 「官僚主義反対闘争運動」は、このように、〝必罰〟の形で強硬に進められている。社会主義というものが、総ての点に於て〝計画性〟を内包している限り、「官僚主義」を完全に払拭することは非常に困難なことであろうし、事実「左翼官僚主義」という新語が生まれていることから推しても、根絶やしするのは不可能かもしれないが、こういった制度を採ることによって、一応の是正は出来るであろう。中々良い制度である。日本も少し見習ったら良いが――と官僚国ニッポンに住むわれわれはうらやましい気がした。

崔承喜が断頭台へ?

 ところで、ここで読者のみなさんは、朝鮮では批判された人物が、寛大な処遇を受けられていることに、不審の念を抱かれるに違いない。日本人の持っている社会主義国家への最大の怖れは、社会主義体制下では国家や政府、党の指導路線からはずれたり、あるいは批判をうけた場合には、必ず刑務所にぶちこまれるのではなかろうか、ということである。従って一度ヤリ玉にあげられたものは、再び舞台には登場してこないと思いこんでいる。いわゆる「反民族的」「反国家的」のレッテルを押されれば、永久に消え去ってしまうというわけだ。
 じつは、われわれが朝鮮に着いて三日目の一二月二十日、平壌の国立体育館で行われた「帰国同胞歓迎大会」に、崔承喜が黄徹氏らと共に、芸術家を代表して真先に舞台に登場したときには、アッと息をのんだ。朝鮮舞踊の代名詞にもなっているほどの世界的舞踊家が挨拶を述べることは、当然すぎるほど当然な話なのであるが、それには次のようなイキサツがあったからだ。
 われわれが朝鮮を訪問する直前、つまり帰国問題が大詰めにさしかかっていた三十四年夏から秋に掛けて、日本では、日本人になじみの深い崔承喜が、朝鮮政府から批判をうけて消えてしまったというウワサがパッとひろまっていた。
 ウワサは主として韓国系の新聞、雑誌を通じて流れた。それによると、教育文化省の次官をしていた夫の安漠氏が、独善主義、芸術偏重的傾向を指摘されて失格し、それに伴って崔承喜は「人民芸術家」の称号をハク奪され、夫ともども断頭台の露と消えてしまった、というのである。そういえば安漠氏が批判されたことは朝鮮からの報道で確認されていたうえに当時の朝鮮からの出版物には、崔承喜の近況を報じたニュースも、また踊っている崔承喜の写真もなかった。朝鮮通といわれる人ですら、崔承喜の消息を知らなかった程である。だから、われわれが日本を出発するとき
 「朝鮮人の中で日本人に最も親しまれ、なじみ深いのは崔承喜だ。彼女だけには必ずインタビューするように」
 と部長から命ぜられたときには、ハタと弱ったものである。一体生きているのかどうか。若し生きていたとしても、果たしてインタビューできるものか? 実は全く自信がなかった。
 それほど気をもませていた崔承喜が、真黒のビロードのチョゴリ、チマに身を固め、昔ながらの美しい双頬をほころばせて
 「うるわしい朝の国……母なる我が祖国に限りない光栄を捧げる」
 とプロローグの詩を朗読した時には、全くホッとした気持ちだった。
 その上プロローグが終ると、この夜臨席した金日成首相のすぐ隣りの席に座を占めて、最後まで観劇していた。偉大な芸術家は消されていなかった。それどころか「人民芸術家」としての最高の地位を厳として誇っていたのである。お嬢さんの安聖姫も、この夜のプリマバレリーナとして主役を演じていた。
 後日、崔承喜とインタビューした時にわれわれは夫安漠をも含めた家族のことを質問した。
 「夫は前の職場におりますし、娘はあなた方がごらんになった通り、長男は十五才で音楽学校でピアノの勉強をしています」
 たんたんと語る言葉には、少しも暗いカゲがなかった。あとで労働新聞の記者に聞いたところによると、次官はやめてしまったが、格下げとなってやはり前と同じ教育文化省に勤めていると崔承喜の話を裏書きしていた。
 これは非常に興味深い問題だった。そこでわれわれは、朝鮮ではいわゆる政治犯をどう扱っているのか?、また朝鮮の留置場、刑務所も見学したいと案内役の朝鮮記者同盟に申し入れた。政治犯については、ここ数年というものは、ほとんどない。あったとしても先ず人民から批判を受けて反省していくから、司直の手にかかるような極悪なものはない、という説明であり、留置所や刑務所の見学はついに実現することができなかった。この点、非常にあきたらなかったし、帰国してからもかえすがえす残念に思っている。ただ、朝鮮では刑務所とはいわずに、人民教化所と称していた。これは単に犯罪者を処罰するのではなく、犯罪者を再教育するのを主な目的としているからだが、
 「中国のように各房にはカギがないのか」という質問に対しては
 「残念ながらまだある」
 ということだった。われわれは実際に見学することができなくて物足らなく思ったが、スケジュールの関係もあり、断念せざるを得なかった。
 しかし、われわれは、政治犯や人民教化所を見学しなかったけれども、その処置が寛大であろうとは想像できる。
 平壌には「スターリン通り」というのがあり、スターリンの胸像や肖像も、あちこちに残っている。「スターリン通り」というのは「金日成広場」につながる平壌のメインストリートである。スターリンの死後、スターリン批判が現れて、社会主義国の中で通りや建物からスターリンの名称や肖像画がつぎつぎに消えていったことも思いあわせると、いまだに堂々と名前や肖像を残しているこの国のやり方は一種異様ですらある。ボウヨウとしているのか、自信があるのか。ともかく、こういったところに朝鮮の社会主義的なものの考え方があるのではないだろうか。

スローガンについて

 朝鮮でも、やはり中国と同じように大通りや大きな建物には、垂れ幕やひき幕のスローガンがかかげられている。都市といわず、工場といわず農村といわず、どんな片田舎にいっても必ずスローガンがある。
 「金日成将軍万歳!」「金日成を首班とする労働党万才!」「鉄と機械は工業の王様である」「生活環境をより文化的に衛生的に改善しよう」「継続躍進、継続前進」「千里の駒に乗って闘おう」「花のつぼみ(子どもたちのこと)は新しい朝鮮の大きな柱」そのほか「在日朝鮮同胞の帰国を熱烈に歓迎する」などなど。
 とにかく、朝鮮人はスローガンがお好きである。とくに「金日成将軍万才!」「金日成を首班とする労働党万才!」のスローガンの多いことは、われわれ資本主義社会から訪ねたものにとっては、ときに目障りですらあった。皮肉なものの見方をする人は、
 「それ見給え。強力なスローガンをかかげて人民を引っ張っていかないと、大衆がついていかないんだ。これこそ共産主義の政治理念であり、独裁政治のあらわれだ」
 と我が意を得たようにいうかもしれない。そういえば戦時中の日本も、「欲しがりません勝つまでは」とか「勝ってカブトの緒をしめよ」いうスローガンが合言葉にされていた。
 しかし、この両者の場合には、根本的な違いがあると思う。日本のスローガンは国民の目をごまかして侵略戦争にかりたてるための志気の鼓舞である、だが、朝鮮のそれは、戦争目的ではなく自らの生活を向上させようとする合言葉である、といった理屈があるに違いないが、そういった難しい理論は抜きにして、いかに朝鮮人が「金日成を首班とする労働党」の下で結集されているかについて事実をもって答えたい
 朝鮮では、労働者、学生、農民、新聞記者、運転手、その誰をつかまえてもいい、「いまの暮しはどうですか」と質問すると、きまってこう答える。
 「いまだって。いまのことをお話ししても無駄でしょう、来年はもっと立派になりますよ。目に見えて分かっているんだから」と。
 日本では来年のことをいうと、鬼が笑うという。実際、来年のわれわれは、何着の洋服をつくることができるのか、テレビを買えるかどうか、家の前の道は舗装できるだろうか、下水は完備するだろうか、公営住宅に入ることができるか、そのどれをとっても皆目見当がつかない。本当に日本では、確実な将来というものが、なにひとつ保証されていないのである。それどころか、来年には失業するかもしれないという不安を持っている人もいる。
 ところが朝鮮人は、一人残らず来年のことを確信し、かつ断言する。
 その根拠はなにか?
 政府の公約したことが、これまで公約通りに実現されてきたという信頼感である。
 「五年前までは食物も少なかったし、防空壕を改造した穴ぐらに住んでいた。四年前には戦後急造したバラックに入り、暖かいフトンにくるまって寝ることが出きた。三年前には小ざっぱりした服装を整えられたし、酒でもビールでも果物でも、自由に好きなだけ買えた。二年前には二間つづきのアパートに入って……。だから来年は」
 これは平壌市の文化アパートに住んでいるある建設技能者の述懐である。つまり、生活の一つ一つが、年々歳々目に見えてよくなっているという裏付けがあるのだ。単なる希望的観測や虚ろな盲信ではない。
 朝鮮戦争直後、ソ連の十億ルーブルをはじめとする社会主義諸国の無償援助資金の使い方をめぐって、朝鮮の政府や労働党の内部で、大モメにもめた事件があったそうだ。
 「三年間という長い期間を戦い抜いてきたから朝鮮人は疲労こんぱいしている。なにわともわれ、まずめしを食わし、衣服をきせて元気をつけてから再建に乗り出しても遅くない」という朴憲永を中心とした一派と、「いまは苦しいけれども祖国再建の土台をつくることが、将来の朝鮮を繁栄させる道だ」と主張する金日成将軍を先頭とする一派の争いだった。
 結局、金日成将軍の路線が、再建の基本方針として打ちたてられたわけだが、苦難の一、二年を経たあと、国民生活が加速度的に向上していくにつれ、今更ながら金日成将軍の素晴らしい予見を、あらためて見直しているといってもよい。廃墟のなかから、僅か五、六年の短期間のうちに、金日成将軍の言葉を借りれば「中農の地位までになった」事実は、将軍と労働党に対しての信頼をいやがうえにも高めたことだろう。

 三十八度線に接した寒村平和里で、四十六才になる婦人が語った。
 「難しいことはわかりませんが、日本の植民地時代、李承晩統治時代、いまの金日成将軍時代と三つの異なった時代に生きてきたわたしにとってとにかくいまの生活が、これまでの暮らしのなかで一番いいんです。こんな生活ができるように指導してくれた方に感謝するのは当然でしょう」と。
 〝反動的〟な意地悪な言い方をすれば、共産主義とか、社会主義とか、そんな理論はどうでもいいんである。要は着実に生活が向上し、明日への確信がもてる政治に、大衆はついていく。
 日本の自民党であってもいい。失業の不安をなくし、月給を二倍に引き上げてただみたいな家賃の住宅に住めるならば、何億という選挙資金をかけなくても、ひとりでに政権がころがりこんでくるに違いない。そうなれば日本でも、「岸首相を首班とする自民党万才!」というスローガンが、いたるところにかかげられるだとう。
 われわれも「来年は必ずこうなります」と希望をもって断言できる国民になりたいものだ。

私有財産について

 「朝鮮では私有財産が認められている」こういっても、大方の人はわれわれの言を信じないかもしれない。
 「社会主義国家でそんなバカなことが」
というだろう。実際、ある座談会で記者がこう話したところ、第六次船で帰国するという中年の朝鮮人がびっくりしたほどだから、無理もない。われわれも朝鮮にいってこの目で確かめるまでは、半信半疑だったのだから。
 「私有財産とは何か?」
などというしち面倒くさい理論は別にして、実のところ朝鮮では、土地はもちろんのこと、起業所、商店、事業所などは、ほとんど私有ないし、私営を認めていない。農村については農業のところで詳しく説明するが、農村で私有が認められているのはアヒル、ニワトリ、山羊などの小家畜と、ホミ(手くわ)などの小さな農具。それにわずかばかりの菜園だけで、農地はもちろん、農業機械、農機具、牛馬などは農業協同組合の所有になっている。また商店、事業所にしても、すべて国営か協同組合経営。中国のような「公私合営」という半官半民の商店もなくて、ちょうど日本のタバコボックスのような六角形の駄菓子屋まで、すべて公営だ。
 「では、やはり私有財産はないではないか」
と早合点なさるかもしれないが、ちょっと次の話を聞いて頂きたい。
 三十八度線のすぐ南にある開城市は、朝鮮で戦渦をまぬかれた唯一の都市である。戦渦をまぬかれたといっても、米国が日本の京都を爆撃しなかったように、高麗の王建が築きあげた千五百年前の古都を後世に残そうという人間としての良心から、破壊しなかったのではない。たまたま朝鮮戦争の停戦会議開始と同時に、中立地帯に指定されたから、ほかの都市のように廃墟にならずに、市街の半分が焼け残ったに過ぎないが、ともかくこの開城市には、むかしながらの、朝鮮の歴史をとどめる家、邸がたち並んでいる。高麗文化を極めた首都だけにいわゆるヤンバン(両班)と呼ばれる富豪の家も数多く残っているが、これらの家がすべて元からの所有者のものだ。戦時中家人が疎開して無人の町と化したときには、政府や人民軍が使用していたそうだが、平和の鐘とともに持主に返してしまったという。
 鋲を打ちつけた大きな木の扉の門構えの邸は、内庭を中心に、部屋数二、三十室は下らない。そこにただ一家族だけが住んでいる人も、数えればきりがないという。停戦直後の、極度に住宅が不足したときにも、これらの邸は強制接収しなかったとか。
 ただここで問題になるのは、一家族だけで住むのをいさぎよしとしないで、アパート式に部屋を貸す場合だ。このときは市の人民委員会に申し出て、規定の部屋代だけを受取る仕組みになっている。規定額以上をとることは、もちろん許されない。
 賢明な方は、もうおわかりのことと思うが、自分自身だけが使い、享受するための私有財産は認められている。ただこの私有財産を生産手段として使用し、利益をあげることが禁止されているのである、つまり、金儲けをするということは、だれかが損をしていることだ。難しい表現をするならば、搾取されている。この人民間における搾取は絶対に認められないという思想だ。
 もう一つ例をあげると、第一次、第二次船でパーマネントのセット一式や乗用車を持って帰国した朝鮮人がある。この人たちは、自分たちは日本にいて祖国建国のときも、また朝鮮戦争やそれにつづく復興建設にもなにひとつ役立たなかったから、せめて日本から持ってきたものを国家に寄付したいという純粋な気持ちからだったが、その態度が厳しく批判された。
 「あなた方の持ち帰ったものは、あなた方の私有財産であって、国家のものではない」ご自由にお使いなさい、というわけだ。ただし使用にあたっては三つの方法しかない。
 まず第一に、その私有財産を使って、パーマネント屋を開業する。開業するといっても朝鮮では市営企業はないから、国営パーマネント屋をつくって、そこの管理人となる。もちろん管理人の給料はほかの髪結師よりはるかに高い。
 第二の方法は、国家がパーマネント一式を賃借りする。これだと給料のほかに、毎月使用料が入ってくる。
 三番目は、国家がパーマネント一式を買いあげるやり方だ。
 どれでもよろしい。あなたの希望する方法でお使いなさい、と指示していた。
 乗用車にしてもそうである。ただ、日本の〝白タク〟のように、こっそりお客を乗せて小遣い稼ぎをしてはならないわけだ。実に合理的にできているといえよう。

三十八度線について

 朝鮮半島を東西に貫く三十八度線についても報告しなければならない。
 軍事分界線を中心に、南北それぞれ二キロ、合計四キロの巾が非武装地帯となっている。この人為的な境界線が、朝鮮民族の悲劇、ひいては世界の悲劇、平和の悲劇である。
 開城から自動車で約三十分。そこの非武装地帯入り口でバスに乗りかえて十分ほど走ったところに、川をはさんで南側に米軍のMP、北側に朝鮮人民軍の管理する関所がある。ここの踏切を開けてもらって入ったところが、〝板門店〟という名で有名な直径九百十四メートルの中立地帯である。朝鮮人民軍と韓国国軍が管理しているのではなく、人民軍と米軍が共同管理しているのだ。
 二人一組の両軍の兵隊がパトロールしていたが、話しひとつしない。もう六年も、こういう単調な生活がつづいているのだが、いまだに交歓したことがないという。雪どけの世界の情勢のなかにあって、ただ一つ取り残されたような冷たい対立。
 ここでは双方の新聞記者は自由に歩きまわり、取材できる原則になっているそうだが、いまだに南北朝鮮の新聞記者すらも、話し合いをしたことがないという。それというのも、朝鮮側の新聞記者が大手を振って歩いているのに、韓国側の記者は、一室に閉じ込められて自由に歩けないのだ。軍事停戦委員会のテーブルのうえにマイクが備えつけてあったが、そのテーブルをたどっていくと、韓国の記者控え室につながっていた。取材の自由を守り、かつ北側との接触を禁じるという妙な論理からだと、案内人が説明した。
 板門店から三十八度線にまたがる平和里という寒村まで、われわれは丘のうえから、また車のなかから、つぶさに軍事分界線周辺を眺めたが、北の方が軍事分界線のところまで、余すところなく耕されているのに比べ、南の方は荒涼とした原野になっていた。評論家の寺尾吾郎氏が訪ねた三十三年の秋には青々とした畑と赤茶気た荒地とが、対照的にはっきりそれと識別できたそうだが、われわれの訪れたのは十二月三十日。真冬なので青と茶色の区別はできなかったが、積雪をおこして起耕した北側と、雪一色におおわれている南側と、単調な色彩の下で一別できただけに、一層、寒々としたものを感じた。
 北の方は軍事分界線のところまで農夫が仕事にいっているのだから、南にいこうと思えばいつでも行ける。軍事分界線を一歩踏みこえて両手をあげれば、たちどころに南からお迎えがくるに違いない。それにもかかわらず野放しにしているのは、南へ逃げてゆくものはないという自信のあらわれなのだろう。
 それにひきかえ南の方は非武装地帯は韓国人立入禁止地区になっているとかで、人ッ子一人見当たらなかった。多分、北に行くのをおそれているのかもしれない。
 朝鮮では三十八度線をこえて南から北にいくことを「義挙入北」といい、韓国は韓国でこの反対を「義挙越南」というそうだ。どちらが多いか、韓国軍人が飛行機で「義挙入北」したことや中部朝鮮で一部隊が大挙「入北」した新聞報道から察すると、「入北」の方がはるかに多いのではないか、という気がする。
 韓国の李承晩大統領は「北進統一」を唱えているが、朝鮮では「平和統一」が合言葉になっている。同じ「統一」を目指すにしても、南と北ではその方法が「武力」と「平和」というようにまるで違っているのだ。その相違は何だろうか?

 ことしは朝鮮では、第二次五ヵ年計画に入る前の緩衝期に入っているが、来年からの第二次五ヵ年計画の合言葉がふるっている。
 「朝鮮の北半分だけで、全朝鮮の経済をまかなえるだけの生産を行おう。食料も重工業も軽工業も。さらには社会保障までも、北朝鮮だけでできるようにしよう。そうすれば、民族の悲願である朝鮮統一は、自然と達成される」
 つまり、人口一千万の北朝鮮の人たちが、二倍の人口のある南朝鮮の人たちまで養おうといっているのである。戦争なんか馬鹿馬鹿しい。主義思想などというのも一般人民には納得し難い。だから、経済建設で勝負をきめようというわけだ。どえらい自信である。
 日本人のなかにも、朝鮮側が韓国に対し、人の往来を自由にしよう、郵便物を交換しよう、南北の交通を再開しようと、提案したことを知っている人も多く、また朝鮮側が韓国に、救援米をおくろうと申し出たことを新聞などで読んだ人もいるが、多くの場合、多分朝鮮の宣伝だろうぐらいにしか考えていない。実はわれわれも日本では百パーセント信じかねていたのだが、実際に朝鮮にいって、物資の出回っている状況や、自信に満ちた態度をみて、「成程」と関心せざるをえなかった。
 「南北が同じ人数をそれぞれ交換して、自由に見学されればいいんですよ。どちらが住みよいか、暮らしやすいかは一目で分かることだから。それを南が、拒否している事実はそれだけ自信のない証拠でしょう」
 労働新聞の田仁徹国際部長はこう語っていた。それだ。朝鮮は、満々たる自信を持っている。この自信が、やがて朝鮮を統一する重要な要素になるのではないか、とわれわれは感じた。
 朝鮮には、軍人と警官が目立って少ない。これは意外なことだった。だから、われわれは、軍人と警官の写真をとるのに少なからぬ苦労をした。車で通っていて軍人や警官をみつけると、あわてて車を止めて写真をとらなければならない。ぼんやりしていると写真をとりはぐれる。それほど少ないのである。
 一体どうして少ないのか。とわれわれは質問した。田仁徹部長が明確に答えてくれた。
 「軍人が少ないのは、万一戦争が起こった場合、われわれは侵略を防ぐ自信を持っている。朝鮮戦争のとき、われわれは世界最強のアメリカ軍と戦って、祖国を立派に防衛した。そのとき老若男女を問わず、すべての朝鮮人が銃をとって戦った、その自信があるのだ。いざというときには全人民が立ち上がる。いまは平和なときだから、なにもわれわれの税金で、無駄なものを養っておく必要がありますか? それよりも生産の面で祖国再建に力を尽くした方がいいではないですか」
 まことに至極もっともな話だ。しかし原爆戦の経験はないから、そのときはと質問したところ
 「原爆戦争になったら仕方ないです。朝鮮人が死ぬだけでなく、全人類が滅びるのだから」と。
 警官については当たり前のことを聞くな、というような顔で説明した。
 「犯罪が少ないんだから、少なくなるのが当然だ。交通巡査だけで足りるから、女子警官で十分ですよ」
 そういえば、警官のなかには婦人警官が目立っていた。
 犯罪については李一郷大臣が統計を示してくれたが、それによると朝鮮全土で一年に十数件にすぎないようだ。一千万人のうちの十数件。まことにウソのような話である。
 日本では警官に税金泥棒というと憤慨するが、朝鮮では大っぴらに「税金を食う奴」という言葉が使われている。軍人と警官。こんな無駄飯食いを養っておくのは、もったいないというわけだ。ここにも、朝鮮の平和を願う祈りがよく現れていた。

北朝鮮の記録―訪朝記者団の報告 (1960年) Amazonリンク

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