『KNTV ドキュメント 戻らぬ船』北朝鮮帰国事業を扱ったドキュメンタリー

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帰国事業

以下、文字起こしとスクリーンショットとインタビュー動画の切り出し。

さっと内容を把握したい人は下記をご覧ください。

南北離散家族再会事業

ナレーション:
 遠目にはいつもと何ら変わらぬように見える金浦空港が、この日朝早くからざわめきたっていた。今日11月30日離散家族の北側の第二次訪問団が到着するのだ。入国ゲートではマスコミ取材人と歓迎に集まった空港関係者が北からの訪問団を今か今かと待ち構えている。
 ついに北側の訪問団がゲートに姿を現した。実はこの日、天候悪化のため平壌からの飛行機も到着は9時間も遅れていた。またされれば待たされるほど、再開への期待は膨らむばかり。列を作って入国審査を待つ時間が、いつか会う日をひたすらに待ち続けた50年の歳月以上に長く感じられる。
 出迎えの人々に手を振って見せながら、訪問者たちはもしや知っている顔はいないかと辺りを見回す。 早朝から空港に出向き、日が落ちるまで、迎える側の家族たちは兄弟を待ち続ける。
 ピリリとした冬の空気に鼻の頭を赤くしながらも、半世紀ぶりの再会の喜びに寒さも忘れる。1分でも1秒でも早く会いたいという気持ちが、バスに乗り込む足をはやらせる。半世紀の歳月を超え、懐かしの家族へと向かう道のりが遠く遠く感じられる。

ナレーション:
 北からの肉親を待つ南側の家族たちもまた、再会の瞬間を今か今かと待ち焦がれていた。訪問団が入ってくるであろう再会場の入り口から、目を離せぬままため息ばかりが口をついて出る。

ナレーション:
 半世紀ぶりの再会。長い歳月の間生き別れを余儀なくされ、会いたさに気も狂わんばかりであった彼らの54年のハンを言葉で言い表すことができようか。そのハンの深さの分だけ、積もり積もった悲しみと、再会の感激を他人が推し量ることは難しい。このような離散の苦しみは、実は朝鮮半島内だけの問題ではない。隣国日本の在日同胞社会にも40年を超える生き別れの苦しみを抱えて生きる人々がいる。

元朝鮮総連 張明秀チャン・ミョンスさん「未来は平壌にあると思い込んでいた」

ナレーション:
 張明秀さん。張さんにとって、この海は特別の意味を持っている。40年前、張さんは自らの手で、両親と兄弟を北朝鮮への帰国船に乗せ、祖国へと送った。

張明秀さん:
 当時、いわゆる私は帰国者の世話をしていた。そして、帰国者の世話をして、私が帰国者の名簿を持ってきて、あげて、初めて船が出られるわけですよね。だから、私は、そういう船への、一つの総連の看板みたいな、そういう存在だったんですね。

ナレーション:
 1959年、日本赤十字社と朝鮮赤十字社の間で締結された、在日朝鮮人北朝鮮帰還協定に基づき、その年の12月から在日朝鮮人の新潟港からの集団帰国が始まった。日本社会での差別と蔑視、そして貧困を避け、祖国に望みを託した帰国の道。しかし、まさしくこれが、在日同胞離散の悲劇に始まりであった。
 朝鮮半島のソウルと平壌で、離散家族の再会が実現したその日、張明秀さんは40年前、両親と兄弟を北へと送った、ここ新潟港を訪れた。この海を渡ることさえできれば。海を眺めるたびに、40年前の記憶が張さんの脳裏に鮮明によみがえる。

張明秀さん:
 当時、いわゆる、みんな、日本での差別の中で、そして、みんなが、日本にいる僑胞は亡国の民だと。そのようにみんな言ってたわけです。それで、やっと自分たちも新生祖国ができたんだと。そういう感激。そして、ほんとに、いわゆる希望の持てる祖国は一元制?(よく聞き取れず)祖国だと。そこにすべてを委託するんだと。そのとき、これは私が結局、地獄への道案内人みたいなことをやったわけですけど。私は、この道こそが、在日朝鮮人の真の解放の道だと。そのように信じて疑わなかったわけです。だから私の将来というのは日本ではなしに、平壌にあるんだと。私はいつもそのように考えていたんです。

在日同胞の生活を考える会代表 金奎一キム・ギュイルさん「当時の在日同胞は絶対的貧困下にあった」

ナレーション:
 第二次世界大戦後、在日同胞の生活は文字通り悲惨そのものだった。ゴミの山をあさってその日の食事代に当てるガラクタを探す。日本人が嫌がる仕事にすら在日朝鮮人ありつけない。そのような時代に、みんなが平等な社会、地上の楽園という宣伝文句は、崖っぷちに立たされた彼らをその気にさせるに十分であった。

在日同胞の生活を考える会 金奎一(キム・ギュイル)代表「当時の在日同胞は絶対的貧困下にあった」

金奎一さん:
 日本で高等学校を卒業しても大学を卒業しても、一切働くところがない。学校を出れば、すぐにもう直ちに失業者である。従って、日本の社会にいる限りにおいては、人生の夢もない、展望もないと。いうことがありましたね。もちろん当時のあの在日同胞の生活は、日本社会のこの差別、偏見、無権利状態があまりにひどかったので、在日同胞そのものの生活は悲惨を極めてましたね。1959年、60年というと、日本の社会も経済的に相当安定し、向上しつつあったけれども。そして日本人自身は、戦後のね、そういうあの貧しさから解放されたけれども、在日朝鮮人の場合は、全くもう、難しい言葉を使うと絶対的貧困化の状況の中で、明日への夢も希望もなしに生きているという、そういう状況。これがもう全体的な傾向だったと思いますね。

元朝鮮総連 張明秀チャン・ミョンスさん「戦後日本は在日同胞を追い出したかった」

ナレーション:
 張明秀さんは帰国事業の行われた当時、朝鮮総連の帰国事業実務担当者として、他の誰よりも長く事業に関わってきた。張さんにとって、社会主義の新生国家、北朝鮮の建設は民族差別と貧困に苦しむ、在日同胞の唯一の希望の光であった。そう信じたからこそ、一番大切な両親と兄弟を船に乗せ、北朝鮮に送ることができたのだ。しかし、結局彼の選択した道は、差別と貧困からの解放の道とはならなかっ た。地獄への道、家族との生き別れの道だったのだ。彼らをその道に駆り立てたその裏には、当時の日本政府の政治的計算が渦巻いている。

張明秀さん:
 日本が敗戦後、一番大きな問題となったのは。日本政府で一番大きな問題として考えたことは、日本に残る、200万の在日同胞の問題が一番大きな問題として、日本政府にのしかかったわけです。日本赤十字が、日本政府の意向を組んで、在日同胞をやる、北でも南でもとにかく追い出そうと。そのための そういう策略を行ったわけですよね。その策略を行ったということは、今でもまだ伏せられているわけです。

法政大学 国際文化学部 高柳俊男教授「追放政策という面はあった」

ナレーション(岸信介議員 議会答弁):
 在日朝鮮人が帰りたい!という熱望もありますから。純粋の人道的立場、および基本的人権を尊重する立場から、これらの問題を処理したい。左様に考えております。

高柳俊男教授:
 戦後の在日朝鮮人政策を見ると、おっしゃる通り同化政策と追放政策というのがありますよね。で、この1959年からの北朝鮮の帰国事業というのは、やはりそういう追放政策の面が、多分あったと思うんですね。やはり当時のいろんな文献なども見てもですね。そういうような隠れた糸と言いましょうかね。そういうのがチラチラ見え隠れしているというふうに思いますけれども。

元統一日報主幹・ジャーナリスト 金總領キム・チョンリョンさん「社会党ですら在日朝鮮人が帰れば日本の税金の支出が少なくてすむと発言」

元統一日報主幹・ジャーナリスト 金總領キム・チョンリョンさん

金總領さん:
 日本側のこの世論もですね、もう現在とはもう本当に比較にならなくて。赤十字会談で、その北朝鮮帰国協定が結ばれた時に、日本の社会党ですら、当時の、これで在日朝鮮人が帰れば日本の税金の支出 が少なくて済むんだと、こういうことも当時、堂々と言っておりましたし、その記録も残っていました。

元朝鮮総連 張明秀チャン・ミョンスさん「北朝鮮で母に会ってこの国に疑問を抱く」

ナレーション:
 朝鮮総連新潟県本部の副委員長まで務めた張明秀さんは、1980年、朝鮮総連幹部として北朝鮮を訪れた。その訪問で張さんは20年ぶりに、母親との再会を果たす。しかし、そこには希望の地、楽園の地に向かったはずの母の姿はどこにもなかった。彼の見たものは、世の荒波の中で疲れ果て、度重なる苦労で顔中にシワが刻まれてしまった、年老いた母の姿であった。

張明秀さん:
 会って、その時行ってみて、初めて、この国はどういう国だったのかと。そして、帰国者というのはどういうものなのかということは、切実に感じてきたんですね。

ナレーション:
 張明秀さんの母親は、息子との再会を果たした数年後、この世を去り、永遠に帰らぬ人となった。それでも張さんは、母親の記憶を胸に、今も北の空の下、どこかで生きている兄弟家族たちとの再会の日を夢見て、この日も北の海の向こうに思いを馳せるのだった。

在日離散家族 曺幸チョ・ヘンさん「兄が新潟港を離れる時、お母さんと叫んだ」

ナレーション:
 東京北区に住む曺幸さん。曺さんもまた帰国事業で家族と生き別れになった、在日同胞離散家族の一人。1962年、曺幸さんの兄、曺浩平チョウ・ホビョンさんと、妻で日本人の秀子さんは、帰国船で北へと向かった。曺さんは、兄が新潟港を去った日のことを、今でもはっきりと覚えている。

曺幸さん:
 その時に兄が、私たちからこう、体が大きく離れていく時に急に「お母さーーーん」て、地の中から出たような、腹の中から。本っ当に人間が、あんな、お兄さんが、ああいう声が出るっていうのは、私生まれて初めて。お母さんもみんな言ってた。
 その時父はなぜか、兄の方を見ませんでした、ずっと反対でしたから。帰るの(と言ったとき)でも、包丁持っておっかけて、阻止しようとしたぐらいでしたから。その父は涙を流して、反対を見てたんですよ。西の。それは、韓国の慶尚南道の方だったんですよ。それは、父が、自分の生まれた本当の、南の方に行くならまだいいんだけど、なぜあの子はこっちの北の方に行くんだっていう、父なりのやっぱりこう、悩みとか、悔しさとか、腹立たしさとか…。

ナレーション:
 帰国する直前まで、東北大学の大学院に通っていた曺浩平さんが、北朝鮮への帰国を決意したのはやはり、在日朝鮮人に対する差別があまりにもひどかったためだ。学者の道に進むことを希望していた彼にとって、日本社会で在日朝鮮人が大学教授になることは、夢のまた夢であった。民族差別の中、帰国船で北へ向かった人の90%以上は、曺浩平さんと同様、故郷を南に持っている。それにもかかわらず、なぜ北へ向かうことを選んだのか。

在日同胞の生活を考える会代表 金奎一キム・ギュイルさん「韓国は行き地獄、北朝鮮は希望を託せる社会主義祖国という宣伝が行われていた」

金奎一さん:
 韓国の場合は、李承晩政権の時代で、韓国からもたくさんの若い人たちが日本に。この政治的な迫害だとか、経済的な貧困を逃れて日本に逃げてきていて。韓国は生き地獄であると。いうような宣伝が、これは現実だったと思いますけれどもね。(宣伝が)行われていたので、誰も韓国には目が向かない。当時在日の場合は、北朝鮮の社会主義。社会主義祖国は、これは韓国と違って、社会主義社会だから、おそらく在日同胞にとっては、非常に希望を託すことのできる祖国ではないかと。いうふうに信じていたし、またそういう宣伝もね、幅広く行われていたから。在日同胞全体の心が、もうほとんど多くの人々の心が、北の社会主義祖国に傾いていたと。こういう事情があって、北への帰国、これを促進する要因があったんでしょうね…。

在日離散家族 曺幸チョ・ヘンさん「兄が新潟港を離れる時、お母さんと叫んだ」

ナレーション:
 北に帰った兄夫婦からの手紙には、良い知らせは一つとして見当たらない。貧窮した生活と病気、それから何よりも家族を懐かしみ、再会への切なる思いがつづってあるばかりで、そんな手紙を受け取るたびに、日本にいる家族たちの、離散の傷口は広がっていくばかりであった。

ナレーション(浩平さんの手紙):
 新潟を出るときは、10年単位でものを考えようと言っていたのをご記憶でしょうか?もうそれから6年ですが、どうもご両親様と再会する日は、かえって遠くなったようです。いささか落心しています。どうかもう一度お会いし、一緒に暮らしたい ものです。5月25日浩平。

ナレーション:
 1967年、日本の家族に送られた手紙に、再教育の場に行くと記されていたのを最後に、兄からの便りは途絶える。そして、その後28年が経過した1995年、北朝鮮政府から届いた通知は、衝撃そのものであった。スパイ行為の容疑で、服役中に脱走し、兄家族全員ものとも銃殺されたという知らせであっ た。

曺幸さん:
 今の今まで、そんなこと想像にもできないことが。。。銃殺っていう、報告を受けた時。私、それから。私は、その1ヶ月を。。。心臓も悪くなりましたね。

ナレーション:
 しかし、チョヘンさんは、兄家族はまだ生きていると信じている。

曺幸さん:
 考えちゃうわけ。その兄はね、そんな刑務所みたいなところから、脱走するとかね。嘘ばかりの報告書なんですよ、中身というのが。秀子さんが面会に行って、面会で打ち合わせをしたって。そして脱走を企てたって。あの国には面会制度ってないし、捕まった人はどこに入れられるかもわからない。一夜にしていなくなって、どこへ行ったかもわからないのが、北朝鮮の消え方なんですね。それが面会という言葉を使ってるんですよ。でもこれもロンドンアムネスティの人は、嘘だ、作られた文章で、私たちも信じてはいないはっきり(言っていた)。これは大勢の日本の人たちも立ち会いのもとで、早稲田でちゃんと、ロンドン本部の方がいらした時は私たち、ちゃんと、今一度確認したんです。そしたら、作られた文章だって。それと、韓国に亡命してる多くの人に、私たちは聞いてみました。色んな伝手を訪ねて。だけどそういうことがあると、それだけの大事件があったらすぐ口伝で、そう口伝えで広がるんですって、あの国は。誰も知らないって。そんなことはない、だから信じないです。私は信じてない。(兄の)家族はバラバラになってても。何か、何かのあれがあって、生きてると、思ってるの…。

ナレーション:
 曺浩平さん妻、秀子さんが日本の家族に送った手紙にも、家族との再会への思いが綴られている。1973年から始まった、いわゆる祖国訪問団に申し込み、一度北朝鮮に来てくれという内容の手紙。北朝鮮にわたってから10年後のことであった。

ナレーション(秀子さんの手紙):
 総連の組織により、この頃は日本からの訪問団が年45回来ております。主に祖国訪問団ですが、お母様も新潟に色々な手続きを聞いて、訪問団に参加できないでしょうか?そうすれば再会できますゆえ。

在日離散家族 曺幸チョ・ヘンさん「訪問団への申し込みは断られ続けた」

ナレーション:
 日本の家族たちは、訪問団への申し込みを幾度となく試すも、毎回断られてしまったと、1983年にも一度許可が出たにもかかわらず、何の理由からか突如許可が取り消しになった。

曺幸さん:
 うちは受け入れられなかったんですよ。(番組スタッフ「それは選別されて?行ける人と行けないひとがはっきり」)。そうです。区別がされてるんですよ。(番組スタッフ「その区別される基準ってなんですか?)。わかりません。それは、総連に入ってて、総連の連中を飲み食いさせたり、そういう仲間でいられる人でしょうね。そうだもの行った人は。

ナレーション:
 朝鮮総連の訪問団の資格とは、果たして何なのか。制作チームは、訪問団の選抜基準を問うため、朝鮮総連に取材を申し込んだが朝鮮総連はこれを拒否した。

図書出版 新幹社代表 高二三コ・イサムさん「北朝鮮に忠誠心がある人だけ故郷訪問で親族に面会できる」

高二三さん:
 日本から北朝鮮へ面会に行かせる訪問団に入れる人も、結局朝鮮総連であったり、朝鮮労働党であったり、北朝鮮そのものに対してですね、どれだけ忠誠心があるか。それによって、北朝鮮行かせるようにすると思うんですね。それとその忠誠心っていうのはどういうふうに測るかっていうと、色々あるとは思うんだけれども、一番簡単なのは、まあ例えば朝鮮総連の、まあそこで働いてですね、日常の仕事の中で奉仕する。忠誠を尽くすっていう、それが一番最もだと思いますが、しかし朝鮮総連に勤めてない人はどういう風に見せるかというとですね。やはり朝鮮総連であったり、北朝鮮に何らかの寄付行為をしてですね、私はこれを出すぐらい、こう国を愛してるんだ、あなたたちのやっていることを支持するんだ。そういう人に対してやっぱり、離散家族の面会を許してるんじゃないかな、そういうふうに思いますね。だからそれができない人は、自ずと会えないですね。

元統一日報主幹・ジャーナリスト 金總領キム・チョンリョンさん「総連の内部からも自由に故郷訪問を認めるべきだと声が出ている」

金總領さん:
 やはり選抜の基準が当然あっただろうと思いますし、その誰でも望むならば自由に行けるというものではなかったと思います。また今度、今年首脳会談の合意を受けて、総連の故郷訪問団が、北朝鮮に行きましたけれども、これもまったく総連が選抜した人だけを認めるという内容でして、これについては総連系の人たちの間からも故郷訪問団というような限定されたものではなくて、その自由に行くことを認めるべきだ。

在日離散家族 曺幸チョ・ヘンさん「父の亡くなる前に、兄さんに会いたいね、と言ったら…」

ナレーション:
 息子の将来を思い、息子の帰国を止めることもできず、ただ自分のもとを去っていくのを見つめるしかなかった老夫婦。息子のためにと、しばらくの別れを覚悟はしていたものの、ついに再会の機会は死ぬまでたったの一度も訪れなかった。

曺幸さん:
 最後に私は父が亡くなる10日前に会ったんです。あ、10日じゃない1週間ぐらいか。私の顔見て、起こしてくれって言ってもう老衰でしたんですけど、起こしてあげて。で髭剃って、きれいにして、気持ちいい?って言ったら、こう頷いて。背中さすって、よく出入りする小黒さんって日本の電気屋さんがいるんです。そこの社長さんと2人で、その方の手を借りて、こうしてあったかい?って撫でて、その時ふとお父さんに、兄さんに会いたいね、お父さん。って私が言ったの覚えてます。そしたら父が、本当にあの、言わなければ良かったって思うぐらいに、大きくこう、首を下に向けた時に、私はお父さんに 勇気づけるために言ったのに、兄さん来るまで待ってようね?っていう意味で。兄さんという言葉を、兄さんという言葉を言ったのに。今思えば、お父さんには、重いものをまたぶつけたのかなって…。

ナレーション:
 父親の臨終を見届けられなかった息子の悲しみを。花盛りの年頃の夢を、死の淵へと追いやってしまった、姑の引きちぎれそうな胸の内を、一体誰が察し得ようか。

曺幸さん:
 それから2年後に、母が今度なくなるんですけど。母が癌で亡くなる時は8月の16日に亡くなって、その1ヶ月ほど前に、小池秀子さんの弟さんとお母さんが東京からわざわざお見舞いに来てくださった。その時母がとってもその、会うの嫌がったんですね。それはね、やっぱり秀子さんがどうなったかわからない苦しさを、母親同士だからわかるじゃないですか。しかもうちのお嫁さんに来て。それが苦しくて、母は自宅に、病室じゃなくて自宅で、接待してくれって。そして、送ってくれて。そう言ったんですよ。その母の真意がわかったのは、やっぱり母が死んでから、いろんなことを、家族の思い出を、自分なりにたどった時に、母の最後の、あの秀子さんのお母さんへのね。しゃべれなかった。顔見ていられなかった。その思いというのは、同じ母親同士として。しかもうちはお嫁さんを迎えた側として。その小池さんに結婚したと同時に会わせることができなくなったという、その辛さ。だからうちは両方に、日本人には。その小池さんのお母さんには最後ひどいこと言われましたよ。朝鮮人と結婚させなければこういうことならなかったって。そのおじさんにも。

ナレーション:
 民族差別と蔑視からの脱出行と信じてきた帰国は、また別の蔑視、そして、憎しみへと、在日同胞を導く結果となった。息子の名前を再び呼べぬまま、孫の顔を見る日を待たずに、生き別れの激痛に苦しみながら、この世を去った老夫婦の傷は、40年経った現在も、なお癒されないでいる。民族的差別と蔑視。絶対的貧困からの解放と、多くの人が信じて疑わなかった、北送船による帰国。しかし、帰国者の大部分は思想・言動・生活など、あらゆる面で制約を受け、資本主義思想に染まった潜在的スパイ分子として認識され、体制にとっての危険分子として、当局の監視対象となった。このため北朝鮮政府は帰国者の日本への自由往来を認めず、まさにこれが北朝鮮帰国者と在日同胞家族との離散という、不幸を招く結果となった。

法政大学 国際文化学部 高柳俊男教授「帰国事業によって離散家族が3か所に発生し問題をさらに難しくした」

高柳俊男さん:
 帰国事業というのは当時はですね、これが在日問題の最終的な解決だというようなね、言い方が結構されてたと思うんですね。つまり、本人たちが望んで、本人たちが自分が祖国と考えるところに行って、そこで幸せに暮らすんだから、これは一番いいというな、考え方があったと思うんですけども、実際には結局より多くの離散家族を生んでしまったというか。つまり朝鮮半島から日本に渡ってきたこと自体が離散ですけども、そこからさらに、今度は南じゃなくてですね、北朝鮮の方に渡って行ったことで、いわばその3カ所に、元々の祖先の地である今の韓国、そして日本、そして渡っていった北朝鮮と、 3カ所に離散家族がこう広がっていってしまったというですね。つまり問題を、その最終解決じゃなくって、より問題を複雑化した。難しくしたという面があるわけであって、そういう面からも問題というのはもっときちんと考えていかなければいけない、というふうに思ってます。

東京大学 教養学部 小川晴久教授「帰国事業の在日家族も離散家族」

小川晴久さん:
 朝鮮戦争だけで生き別れになった離散家族だけじゃなくてですね、帰国事業も含めて、戦前日本にやってこられたいろんな経緯で。強制的に引っ張られてきた人たちも含めてですね。それも離散家族という範疇に入ると思うんです。けどそういうこう歴史全体の中で見た時に、在日の家族と北朝鮮の帰国者とのこの関係は、典型的な離散家族であるとしてですね。在日ゆえに忘れられていたり、忘れ去られようとしている。というそこのことは大変だろう。怒りであり悲しみである、ということを最近知りましてね。あの離散家族問題の理解っていうのは、今急速に強めているところです。

ナレーション:
 小川教授は6年前から「北朝鮮帰国者の生命いのちと人権を守る会」の代表として活動している。彼によれば日本赤十字社に毎年千通ほどの手紙が、北朝鮮から届いているという。果たしてそれらはいかなる内容の手紙なのだろうか。

小川晴久さん:
 その日本の家族とか、親戚友人のですね、住所を探してくれという手紙だっていうことを聞いたんですね。で、その時に、そのもうお互いがその所在がわからなくなっているという風に、その離散家族化しているという風に私どもが掴めれば良かったんだけど、その頃は、あぁ、SOSの手紙なんだなと、そのお金を送ってくれ、物を送ってくれというその手紙、そのためにその、住所を探してるんだなというふうに、そちらの方に気を取られちゃいましたてね。離散家族化してるという事実に気づかなかったんですね。それでもう6年前ですらそうですからそういう手紙っていうのは、もう休戦するとかですね、相当の数に登ってるはずだと思うんですけど。

日本赤十字国際部 五十嵐清課長「本人の意思を確認した上で、人道的立場から帰国のお手伝いをした」

ナレーション:
 制作チームはその真偽を確かめるため、日本赤十字社に取材を依頼した。確かに日本赤十字社には北朝鮮から相当数の手紙が届いていた。世界中から届いた家族と親戚の安否調査。以来の手紙のうち実に95%が北朝鮮帰国者からのものであった。ではこのような手紙は、いつから赤十字社に舞い込み始めたのだろうか。

五十嵐清さん:
 これはですね。帰えられた、いろいろな方があの、途中で途中で帰えられてますから。帰ってからですね。何年かして、居所が分からなくなったり、手紙で連絡が取れなくなってからですから。お帰りになられて、5年とか10年とか経つ中でですね。あのそういう探していただきたい、という依頼が来ている、ということですね。

ナレーション:
 このような状況に対し日本赤十字社は帰国事業協定に調印した張本人として、在日同胞の離散に対する責任を感じているのだろうか?

五十嵐清さん:
 いろいろ、それぞれ個人個人で、いろいろな思いがあったんだと思うんですけども。そのことについて、日本赤十字社がどうこうというのではなくて。むしろそのお帰りになられたいという意思をね。十分尊重して、それのお手伝いを人道的な立場で、日本赤十字社はやったということなんですね。従ってそのいろいろな個々のケースで、思いとかですね、あのお考えというのはあるとは思うんですけど。その個人個人に対しての思いについて、あの赤十字が一つ一つどうこうってより、むしろその中でもその人が最終的には、北朝鮮にお帰りになりたいということを意思表明をされたわけですね。それを十分尊重して、そのお手伝いをしましょうと、いうところでの、赤十字の働き、という風にご理解いただければと思うんですけどね。

ナレーション:
 北朝鮮帰国者が日本赤十字社に送った家族の安否調査以来の手紙。明らかにこれは帰国事業による在日同胞の離散の現実を物語っている。にもかかわらずこのような結果に対し道義的責任を感じるどころか、当時の人道主義的立場のみを繰り返す、日本赤十字社の態度を私たちはどのように受け止めればよいのであろうか?真に人道主義の生死に立つのであればその結果にも関心を払うべきなのではないか?

法政大学 国際文化学部 高柳俊男教授「当時日朝連帯だということで、善意だとしても、協力した人たちには何かしらの責任はある」

高柳俊男さん:
 日本政府なり、あるいは当時、国交がない状況でその前面に押し立てた赤十字なり、直接の当事者ですから。やはりそれは、帰国事業が終わったからといって、あとはまあ帰ったからもうあとは、向こうの問題です、ということで済ませられない責任があると思いますし、またその日本の当時の、そのまあ社会運動と言いましょうか。当時の社会党なり、共産党なり、あるいは日朝連帯運動の人々もですね、やはりそれ当時は、善意として、それがいいことだと、それが日朝連帯にもなるし、在日朝鮮人がここで貧しい、あるいは差別を受けた状況の中で苦しんでいるんだから、自分たちの祖国に帰るのは、帰してあげるのを援助するのはいいことだ、という全員で協力したことだと思いますけども。しかし、やっぱり、その結果に対してはですね、何らかの責任っていうのはあるわけであって、やっぱりこれも帰った後は知りません、という風にはならないと思うんです。

在日離散家族 金民柱キム・ミンジュさん「北に渡った親族に一度も会えたことがない。父は総連の幹部だったが祖国訪問は断られ続けた」

ナレーション:
 彼も、離散の痛みを抱いて生きる、在日同胞の一人だ。彼の家族と親戚の多くは、帰国船に乗って北へと渡った。そのため、彼の胸のわだかまりは、他の離散同胞に比べ、さらに大きいかもしれない。

金民柱さん:
 私は、弟2人と甥っ子2人、その他済州島の親戚、非常に近い親戚、6親等以内。20数人が北に帰ってるわけですけども、残念ながら私は、一度も北朝鮮に入れてもらえませんでした。それはもちろん在留資格の問題と、いろいろ複雑になっておりまして、まあ一度も会ったことはありません。今日まで

ナレーション:
 帰国後、弟からの手紙は定期的に彼のもとに届いた。事実、突然連絡が途絶えるまでは、帰国した弟や親戚たちの安否をさほど心配したことはない。キムさんとキムさんの父は、朝鮮総連はもちろんのこと、北朝鮮労働党からも新任を受けるほどの革命活動家として認められてきたからだ。しかし、彼らのそのような自負心が、大きな錯覚であったことが後に明らかになるのであった。

金民柱さん:
 弟たちからの手紙が、確か73年以降、ずっーと切れていたと思います。ですからこれ、4、5年経っても手紙が来ない。こちらから手紙を出してもその返事もない。また、北朝鮮を訪問する人たちに託しても、全然あちらでも接触が持てない、ということで、つまり私の親父は、それでは俺が直接行ってあいつを探してみようと。そういう決意のもとで確か申請したはずです。

ナレーション:
 金民主さんの父は、朝鮮総連の幹部中の幹部であった。金さんの父は東京朝鮮中高級学校の財務担当常任理事を務め、朝鮮総連新宿支部共同議長の1人でもあった。誰もが彼の父の北朝鮮訪問許可が下りるであろうことを疑うものはなかった。ところが一度として北からの訪問許可は降りることはなかった。

金民柱さん:
 日帝植民化から、それから解放後の朝鮮総連の創立期、それから朝鮮戦争の頃、それからこんにちの朝鮮総連につながるまで、終始一貫、祖国と社会主義祖国建設のための運動に、やはり家族を犠牲にして、一族を犠牲にして、親父はやってきたと思います。これは僕は自負するところです。

ナレーション:
 彼の父の素晴らしい活動歴にも関わらず、北への訪問が拒否され続けた理由は一体何なのか?何かを隠蔽するためだろうか?この疑問は、それから10年余り過ぎたある日、人づてに届いた、弟の手紙によって解き明かされた。

ナレーション(金民柱さん弟の手紙):
 祖国のために尽くそうと来たのに、このようなことになって本当に悔しい。私はなぜ北朝鮮に来たのか後悔しています。自殺したい気分です。すべて包み隠さず、兄さんにお話しします。泰元テウォンが外を歩き回ることもできず、78年8月に、ペラグラ病で死亡したその原因について、正確にお話しするときがきました。泰元も私も、北に忍び込んだスパイとして逮捕されたのです。しかし、私はスパイの任務など受けたこともなければ、そんなことをしたこともないと言ったので、生きて帰ることができました。しかし、泰元は私のようには行かず、自分がスパイの任務を受けたという、嘘の陳述書に判を押してしまい強制収容所に入って、意思が強くなかったために、結局は病気により、そこで死んでしまったのです。

東京大学 教養学部 小川晴久教授「北朝鮮の強制収容所の実態を知ったら北朝鮮問題の8割から9割は理解できる」

小川晴久さん:
 強制収容所の存在と実態を知ったら、北朝鮮問題の、私は8割から9割はもう理解できると(思います)。で、これがあるために横田恵さんも戻ってこないし、それから帰国者と日本の家族との自由を往来もできない。北の、あの若い青年たちが、時々こう決起するわけですけど、あの家族ぐるみで収容所に持ってかれるというですね。もう想像を絶するようなこの弾圧の中で、ですから今多くの人は、北朝鮮内部で北朝鮮を民主化する力はないと、韓国のような、ああいうそのすごい(民主化運動の)経過を経てですね、民主化するっていうのは、誰が考えても普通はそうなんですけど、北朝鮮の人たちにそれを期待するのは残酷だ、無理だ。それはなぜかと言ったら、強制収容所が存在するからですね。

在日離散家族 金民柱キム・ミンジュさん「親族が再会できる機会を作ってほしい」

ナレーション:
 朝鮮総連に対する忠誠の代価は、結局弟の死となって帰ってきた。スパイ容疑、強制収容所、拷問、そして病死。想像もしなかった最悪の結果。この時から金民柱さんと朝鮮総連との戦いは始まった。帰国船で、北へと渡った金民柱さんの親戚の中には、金さんが特に可愛がっていた甥っ子がいた。帰国後、甥とは連絡が途絶えていたが、ある日その甥から、一通の手紙が届いた。届いた手紙には、痛切な離散の痛みが書き記されていた。

ナレーション(金民柱さん甥からの手紙):
 おじさん。今日まで私が先にお手紙しなければいけなかったのですが、全く住所がわからず、今日まで懐かしさをこらえながら、待つしかありませんでした。私はこの20年近く、母さんという言葉一つ口にできず、孤独に生きてきました。愛する弟とも、ろくに話もできず、20年余り。どうして私はこんなにも運が悪いのかと大声で泣き叫んだことも数知れません。周りの友人が、両親に会いに家に帰る時期になると、私は血の涙を流しながら会いたさを飲み込み。私の手首を掴んで、一緒に祖国に帰ると地団駄を踏んだ愛する弟を思い出し、懐かしい両親を持っては、涙を流したことも数知れません。

金民柱さん:
 今こういう状況でね、どんどん離散家族が発生していると。だからいったん日本にいる、身内、親兄弟はともかくとして、いとことかはとことか、こういうのがもうすでに他人になっちゃってますから。だから、できればこういう人たち同士が会えるような形で、もう一度再会の機会を与えてほしいと。これはもっと朝鮮総連も、それから共和国の政府も、それから日本のいわゆる政府も、人道的にもう一度考え直してほしいですね。是非実現させてほしい。

ナレーション:
 金民柱さんの言う通り、北朝鮮の帰還協定に関係していた、日本赤十字社と朝鮮総連、日本と北朝鮮政府当局は、今回こそ真の人道主義精神に立って、北朝鮮帰国者と在日同胞間の離散家族問題を解決する責任を負っている。またその一方で、このような在日同胞社会の離散の問題に対する韓国政府の関心も、また求められるところだ。在日同胞は韓国の憲法が明記している通り厳然たる国民なのであり、韓民族の構成員なのだ。今やこれ以上、在日同胞という存在が、イデオロギーの犠牲者、政治的取引の手段となってはいけない。彼らを阻害された異邦人として、放っておいても良いものであろうか?

元統一日報主幹・ジャーナリスト 金總領キム・チョンリョンさん「韓国は在外同胞、在日同胞に関心を払うべき」

金總領さん:
 まさにこの在日韓国人が、あるいは朝鮮人がですね。そういう疎外された人という風になってはいけないのに、また全く阻害されていたわけではないでしょうが。実際に、じゃあいわゆる韓国国籍を持った人は韓国の国民でありますし、また今度の在外同胞法によれば、国民に準ずる待遇を受けることになっているのに、それにふさわしい関心というのが、あるいは対策というものが講じられたというふうには言えないと思います。したがって、これまで非常に経済的に苦しい時代が、韓国の場合は長かったから無理がないかもしれませんが、もうOECD経済協力開発機構にも加入しているような段階になりましたし。在外同胞、在日同胞に対して十分な、やっぱり注意を払う、関心を払わなきゃならないと思います。特に海外同胞が今それこそ500万人を数える時代になりましたし、今後の韓国の発展あるいは、韓国自身の国際化のためにも、在外同胞とその建設的な関係、あるいはこの同胞としての温かみ、情愛というものはやっぱり分かち合うということが、今後の韓国の発展にとっても非常に重要だと思います。

在日同胞の生活を考える会代表 金奎一キム・ギュイルさん「韓国は行き地獄、北朝鮮は希望を託せる社会主義祖国という宣伝が行われていた」

金奎一さん:
 肝心要の朝鮮籍を持っている在日同胞。これについては何ら韓国政府がですね。祖国を自由に訪問する道を開いてないというのは、これはとても私はけしからん話だと、そう思ってますね。で、これが韓国との関係では、我々は韓国籍・朝鮮籍を超えて、全ての在日同胞が自由に自分のふるさとを訪問できる権利を、これは人道的立場に立って韓国政府は直ちに道を開くべきではないか、これが独裁政権ではなしに、民主主義国家になった韓国のなすべき、やっぱり仕事ではないのか。この点は非常に韓国政府の対応は遅れているという風に考えますよ。

ナレーション:
 夜は静かに更けていく。この繁栄と安定の経済大国日本の影には、差別と蔑視、貧困と挫折の在日同胞の壮絶な一世紀があった。この長い歳月の間、忍耐と挑戦。そして、民族の誇りを持ってその難局を乗り越えてきたが、北朝鮮帰国事業がもたらした、肉親との離散だけは、その生き別れの班をどうすることもできずにいる。北朝鮮帰国事業が、在日一世紀の最も大きな悲劇として記憶される事件だったことを、誰も否定できないわけがここにある。

ナレーション(声 小川晴久さん):
 帰国事業というのは、祝福されて帰ったわけですね、現象的には。それがその在日の悲劇の始まりだったというふうに、今総括されるぐらい北に渡ってしまった人は、もう一歩も外に出られないと、いう事態が続いているので。これは確かに戦後を50数年経ちますけど、こんな過酷な、ひどい仕打ちはないですから。在日にはいろんなまだ差別の中にあるにしましてもですね。在住の帰国者、帰国者の家族っていうのは在日の中で最も、重い課題というか、重い苦しみを抱えて、しかもそれを公の場で訴えることはできないと。本当に残酷だと思います。

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