会報『かるめぎ』の過去号を、旧サイトから、順次こちらにアップしていきます。この機会に、過去の『かるめぎ』を通して、守る会の歩みを知っていただければ幸いです。
(旧サイトより転載:http://hrnk.trycomp.net/archive/karu25go.htm)
- 「帰国者家族を励ます音楽と講演の集い」台風にも負けず、500人近い参加者!帰国者と家族の人権を正面から取り上げた画期的集い
- 「帰国者家族を励ます音楽と講演の集い」パネルディスカッション〝1日も早く救いの手を!〟帰国者家族が訴え
- 守る会・関西支部事務局長からのお礼のご挨拶守る会の大きな力が証明されました この力で帰国者(日本人妻)の問題を人権・社会問題に 山田文明
- 寺井一通さんの新曲「陽光射せ」
- 世界人権宣言五〇周年に際し、北朝鮮の強制収容所に世界の目を!
- 北朝鮮人権情報
- この人にきく佐伯浩明さん(運営委員、産経新聞正論調査室次長)(聞き手:三浦小太郎)
- 「月刊同和」よりフランス言論の北朝鮮リポート人民は餓え死んでも特権層は私腹を肥やす地上最大の伏魔殿北朝鮮
- 第4回東京学習会報告 三浦小太郎
- 第5回関西支部講座姜在彦先生の講演「戦後の在日朝鮮人運動と私」 元総連地区委員長や教え子など40人を越える参加者が質疑・討論
- 萩原遼共同代表著『北朝鮮に消えた友と私の物語』出版記念会のご案内
- 12月6日 金芝河来日記念公演報告 三浦小太郎
- 追悼 磯谷季次さん 朝鮮を愛した無欲な日本人 小川晴久
- 編集後記
「帰国者家族を励ます音楽と講演の集い」台風にも負けず、500人近い参加者!帰国者と家族の人権を正面から取り上げた画期的集い
「帰国者家族を励ます音楽と講演の集い」は10月17目午後2時から3時間半にわたり、大阪市中央区のエルおおさかで開かれました。500人近い参加者をえて、大きな成果を上げました。
大阪外大講師の長谷川由起子さんの司会により、東京から駆けつけた小川晴久共同代表の挨拶で始まりました。朴聖姫(パクソンヒ)さん、つづいて寺井一通さんの力と情熱のこもったすばらしい歌声は、参加者に大きな共感と感動を呼びました。
朴聖姫さんはみずから作詞した「ああ清津へ」(中村八大作曲)で日本に戻れない帰国者の悲しみを切々と歌い上げました。寺井一通さんはみずから作詞作曲した「妹からの手紙一北朝鮮で死んだ兄へ」を熱唱。会場のあちこちでは目頭を押さえる人の姿も見られました。
そのあと、萩原遼さんから、大きな影響を受けた帰国した高校の親友のことや赤旗平壌特派員時代に「スパイ」のぬれぎぬで逮捕されかけた北朝鮮の陰謀について講演がありました。
つづいて、萩原さんの司会でパネルディスカッションに移り、中筋敬子さん、洪恵博さん、李明子さん、金国雄さんによるそれぞれの体験に基づく貴重な証言がありました。
最後に再び寺井さんと朴さんが登場し、寺井さんはこの集いのために作詞・作曲した『陽光(ひかり)射せ~「帰国者家族を励ます音楽と講演の集い」に寄せて~』という歌を、朴さんは『バラ色の虹』を、それそれ会場のみなさんとともに歌い上げ、フィナーレを飾つてくれました。
集いの後のパーティーにも70人近い人が参加し、集いの成功を祝うと共に、親交を深め、北朝鮮帰国者の生命と人権を守る運動の今後を語りあいました。
集会参加者の八木隆さんのお手紙から
久しぶりに歌に感動しました。朴聖姫さんは「私の回転木馬」「ああ清津へ」朝鮮歌曲「鳳仙花」などで、特に朴さん作詞の「ああ清津へ」は帰国者を歌い、心を揺り動かされました。
寺井一通さんは〝半農半音〟、米作りと音楽半々の生活をしていて、ご自身を「山村(シャンソン)歌手」と称して笑わせました。
寺井さんの歌はシャンソン「枯葉」「人を愛するということ」「人間の詩」「妹からの手紙一北朝鮮で死んだ兄へ」など。私はとくに寺井さんがこの集会に寄せて作詞作曲した「陽光(ひかり)射せ」と「妹からの手紙」にはなぜか魂を揺り動かされ、知らないうちに涙が流れてきてどうしようもありませんでした。このごろ涙腺が緩んできたのかと思うくらいでした。
「帰国者家族を励ます音楽と講演の集い」パネルディスカッション〝1日も早く救いの手を!〟帰国者家族が訴え
パネルディスカッションは、帰国者をもつ4人の方がそれぞれの実情を報告しました。
日本人の中筋敬子さんは、母が在日朝鮮人と再婚、1966年に5人の弟妹全員をつれて北朝鮮に渡りました。1992年に北朝鮮を訪問し、26年ぶりに母と再会し、嬉し涙にくれる中筋さんに母は「泣くのはやめなさい。私のする通りにしなさい。」と金日成・金正日の“御真影”を拝ませたといいます。
洪恵博さんは、日本人の継母と実父、3人の弟妹が1961年に帰国。洪さんも帰国を望み、その準備をしていたところ、父は「帰ってくるな」を意味する暗号の手紙を送ってくるばかり。それでも帰国の意思を変えない洪さんに父はたまりかねて「帰るな」とはっきり書き送ったところ、手紙が北当局に押収されて、一家もろとも行方不明に。「父はおそらく処刑されたと思う。弟妹も収容所に入れられているのではないか」と洪さんは恐怖の収容所国家の一端を報告しました。
李明子さんは実姉夫婦が2人の子供と共に帰国。97年に別便で密かに届いた姉の手紙を紹介しました。そこには、餓死者が家の周りにゴロゴロする状況とともに、「もっと恐ろしいことが起きそうな気がする。次は私の番かもしれない」と記されています。
李明子さんは「飢えて病気で苦しんでいる姉一家を例え一カ月でも日本に連れ戻して、白いご飯をおなかいっぱい食べさせてあげたい。入院させて治療させてあげたい。わたしたちで費用は持ちますからどうか日本政府は北朝鮮政府と話し合って実現させてください」と訴えました。
金国雄さんはいとこが帰国。在日朝鮮人が帰国者の悲惨な実態を救うために声をそろえて朝鮮総連にせまることだ、勇気をもって立ち上がろう、と呼びかけました。
中筋敬子さんから会場の報道関係者に「マスコミの方はピョンヤンのうわべだけを報道するのでなく、帰国者の置かれた状祝や、あの国の恐るべき実態を正確に伝えていただきたい」と要望し、大きな拍手を受けました。
萩原遼さん(守る会共同代表)は「私の体験した帰国者の真実」と題して、1972年から1年間の北朝鮮滞在中に出会つた帰国者の悲惨な姿と北朝鮮当局の抑圧と差別の実態を報告。金永南(現国家元首代行)が萩原氏のピョンヤン追放の陰謀の仕掛け人であった事実を始めて明らかにしました。
守る会・関西支部事務局長からのお礼のご挨拶守る会の大きな力が証明されました この力で帰国者(日本人妻)の問題を人権・社会問題に 山田文明
この集いの成功のために実に多くの方々のご協力を得ました。
大阪民団、兵庫民団、民主無窮花をはじめ、ご協力いただいた多くの団体、集いの記事を掲載くださった朝日新聞や大阪民主新報など各種メディアのみなさんに、こころから厚く御礼申し上げます。
これまで以上に、各種の団体と多くのメディアにご理解いただき、ご協力いただけたことは、これからの運動の展開にとって大きな財産となるものです。
大阪府立高等学校教職員組合、大阪自治労連、あるいは宗教者の団体などが、それぞれの組織を通じて集いをPRしてくださったことも忘れることができません。私たちが働きかけを一層広げれば、ご協力いただける組織・団体がまだまだたくさんあることを確信しました。
お忙しい中、苦心してチケットの販売に努力してくださった会員のみなさん、ご協力者のみなさん、本当にご苦労様でした。みなさんのお力で大半のチケットを販売し、参加者を広げ、集い成功の基本的原動力となってくださいました。推進会議一同、みなさんのご奮闘に心から敬意と感謝を表します。
また、東京など遠方からチケット販売に協力し、さらには泊りがけで参加してくださったみなさん、本当にありがとうございました。みなさんのご支援にどれだけ励まされたか知れません。
今回の集いでみなさんの大きな実行力が示されたことは、守る会に多様な取組みを成功させるカが備わってきたことを示しています。
この集いの第1の成果は、出演者のみなさんの質の高い歌とお話によって、参加者のみなさんの帰国者家族の実情に関する理解と共感を大きく前進させたことです。
第2の成果は、台風10号の風雨にもかかわらず、帰国者家族を勤ます集いに500人近い人たちが集まる状況を切り開いたこと、相談することも助け合うこともできずにいたこの問題で、公然と集まり、遠慮なく語り合い、主張し合う場を作ったことです。このようにして行動を起こすことで、現代日本社会のきわめて重大で深刻な人権問題、社会問題にもっともっと目を向ける情勢を作りたいと思います。
第3の成果は、守る会会員とその協力者で大きな企画を成功させる実力が備わってきたことを実証したことです。
これらの成果をもとに、収支などの課題を改善し、次の取組みに進んでいきたいと思います。
ご協力くださったみなさんに、重ねて厚く御礼申し上げます。(山田文明)
寺井一通さんの新曲「陽光射せ」
いつも守る会を応援してくださっている寺井さんが、「妹からの手紙」「風」につづく3曲目の唄を作詞作曲し、寄せてくださいました。今、圧制に苦しむすべての北朝鮮帰国者の心に届く唄です。
『陽光(ひかり)射せ』
~「帰国者家験を励ます音楽と講演の集い」に寄せて~
詞・曲/寺井一通
1
陽光射せ 祖国(ふるさと)の人々の上
陽光射せ 祖国(ふるさと)の人々の中
長すぎた悲しみに 終止符を打て
ふたたびの抱擁の 歓びを今
2
陽光射せ 祖国の圧政をたたけ
陽光射せ 祖国の圧政を焦がせ
飢えに泣く子どもらの その声を聞け
夢拓く未来へと 立ち上がれ今
3
陽光射せ 祖団の解放を求め
陽光射せ 祖団の解放のために
真実のこの叫び はこびゆけ今
やがて集る新しい 時代へと今
12月12日 北朝鮮の人権問題を考えるタベ
午後6時15分開場 四谷区民ホール
巨大な拉致であった帰国事業
●萩原 速(守る会共同代表) ジャーナリスト
著書に「朝鮮戦争一金日成とマッカーサーの陰謀」「ソウルと平壌」
最新作「北朝鮮に消えた友と私の物語」(いずれも文芸春秋)
弟を強制収容所で殺されて
●金民柱(守る会共同代表)
「済州島人民の4.3の武装闘争史」(文友社1963年刊朝鮮語)
訳書に「恨・金日成」(ザ・マサダ)
強制収容所体験者の手記を読んで
●弓削 達(元フェリス女学院学長)
著書に「ローマ帝国とキリスト教」(河出書房)
「ローマ帝国はなぜ滅んだか」(講談社)
世界人権宣言と強制収容所
●小川晴久(守る会共同代表)
著書に「朝鮮文化史の人びと」「朝鮮実学と日本」(いずれも花伝社)
世界人権宣言五〇周年に際し、北朝鮮の強制収容所に世界の目を!
世界人権宣言が、この十二月一〇日に五〇周年を迎えます。世界人権宣言は一九六六年に二つの国際人権規約(社会権規約と自由権規約)に具体化され、今日では国際人権規約の形で実践と定着がはかられています。五〇年目を迎えた世界人権宣言は、現代の権利宣言として、人権の心強い拠り所となっています。
内外のさまざまな場で五〇周年を迎える意義が説かれていますが、私たちは、世界で最もひどい人権抑圧が行なわれている北朝鮮の人権状況の改善を求める立場から、五〇周年を記念したいと思います。
私たちは、三十数年前に日本から北朝鮮に渡たった九万三千人の帰国者の人権状況の改善と、地獄のような強制収容所の解消を求めて、四年前から活動している市民団体です。
●飢えから逃れる自由もない国
世界人権宣言前文に、宣言の精神とも言うべき四つの自由が宣言されています。言論の自由、信仰の自由、恐怖からの自由、欠乏からの自由です。最近の食料危機が加わって、北朝鮮は今や、この四つの自由のすべてを欠いた国になってしまいました。北朝鮮がいかにひどい人権状況になってしまったか、この事実がよく物語っています。
世界には貧しく飢えている人たちが一杯います。しかしその人たちには、移動する自由や、飢えを凌ぐがせてくれる人々と接する自由があります。世界の援助団体がそこに駆けつけることができます。
ところが北朝鮮の人々はこの自由がありません。出国の自由もなく、外国の援助団体が自由にかけつけ手をさしのべる入国の自由もありません.世界人権宣言第十三条の移動の自由が禁止されているのです.食糧危機に陥ったとき、この禁止がいかに残酷で犯罪的なものであるか明白でしょう。
「国境なき医師団」の北朝鮮撤退声明は、これへの痛烈な抗議です。国連人権小委員会が昨年と今年の二度にわたって、世界人権宣言第十三条と国際人権規約(自由権規約)第十二条の移動の自由を北朝鮮政府に追っていることは、核心をついています。
かつて移動の自由を根拠にして九万三千人もの人を迎え入れておきながら、その人たちの出国(自由往来)の自由を認めないのは、巨大な拉致以外の何ものでもありません。
世界は、北朝鮮政府の世界人権宣言第十二条に対する重大な侵害に対して、大きな声を上げるべきときでしょう。飢えが人々を襲っているのですから。
●強制収容所の存在が悪の根源
北朝鮮の食糧危機は今や誰の自にも明白です。しかし、山の中にみる強制収容所とそのひどさについては、余り知られておりません。
金日成、金正日親子が外に知られるのを恐れ、徹底的に隠し続けてきたからですし、日本のマスコミが報道しようとしないからでもあります。北朝鮮や総連の帰国者家族のロを封じる人質政策もその要因です。
しかし世界は、収容所体験者の手記によって、この収容所の実態を、完膚なきまでに知ることができます。収容所に入るとき「人間であることをあきらめねばならない」といわれるほど、それはものすごい虐待です。
北朝鮮社会全体を恐怖におとしいれている根源はこの強制収容所の存在です。世界人権宣言をトータルに踏みにじっているのもこの存在です。世界は北朝鮮の諸悪の根源である強制収容所(政治犯収容所)に目を向けなければなりません。そして、まず、この収容所をなくさなければなりません.世界人権宣言をもっていながら、このような収容所を見逃しているとしたら、人類の恥であり、怠慢といえるでしょう。
以上のような趣旨で集会をもちます。北朝鮮の事態(ミサイル発射も含め)に心を痛めている人はこぞって参加してください。人権の思想で巨大な生命破壊に絶止符を打とう。
北朝鮮人権情報
1998年10月2日 北朝鮮当局による活動妨害に抗議して北朝鮮からの撤収を発表している「国境無き医師団(MSF)」のフランソワ・ジャ研究局長は朝鮮日報とのインタビューで、救援物資の行方について「体制の上層部、軍隊、軍需工場、輸出工場などに優先的に回されている。われわれの支援が犠牲者たちに直接伝達され
ないのなら、われわれがそこに居る理由はない」と語った。
ジャン局長は「北朝鮮では政治的忠誠度、経済的効用度にしたがって住民が受ける恩恵の優先権が決められている。自分は数十年間、世界の飢餓を研究してきたが、北朝鮮の飢餓は最近のスーダンやエチオピアなどを含めた20世紀の他の国の飢餓とは全く異なる性格を帯びている。非効率的な農業政策、経済破綻、構造的欠陥など相対的な欠陥になっている」と語った。
13日 韓国の国家安全企画部は、北朝鮮軍の元中佐シム・シンボク氏(48)が同日、第三国経由で韓国に亡命した、と発表した。
14日 韓国国防省は北朝鮮軍の男女兵士の2人が南北非武装地帯の軍事境界線を越えて韓国側に亡命したと発表した。軍医のソク・ミョンファン大尉(32歳)と電話交換手のソン・ミョンスン中士(23歳)。
15日 ペリー前国防長官は日経新聞との会見で、北朝鮮のミサイル開発問題で、同氏は北朝鮮のミサイル開発問題について「北朝鮮が建設中の地下施設は原子炉の可能性が高く、4~5年後には完成する」と分析を示した。
ホワイトハウスと議会は1999年度予算案について最終合意、北朝鮮に対する重油供給資金として3500万ドルの拠出が認められた。同時に、米政府は北朝鮮の地下施設をめぐる核開発疑惑を背景として北に対する対策の見直しに入った。国務省の権限を奪う形で、来年1月までに閣僚級の政策調整官を任命する。
24日 朝鮮中央通信は北朝鮮の公安当局が、スパイ容疑で拘束してきた米国籍のキム・ジンギョン氏を国外追放したと伝えた。
27日 韓国の大財閥・現代グループの鄭周永名誉会長(82歳)は、残る牛501頭、自社製の車20台分を土産に、陸路、北に渡った。
国連開発計画のスペス総裁は北訪の帰途に北京で記者会見し、北の今年の食糧生産量について「必要量の3分の2にすぎない、残りは国際援助に頼らなければならない」と述べている。
29日 韓国外交通商部は、北を脱出した林業労働者4人が韓国に亡命したと発表。4人は独立国家共同体(CIS)域内に隠れ住んでいたが、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の支援を受けて、この日、ソウルに到着した。
朝鮮総連が有精卵100万個を送る計画で、第一陣の8万個が北朝鮮の貨客船「万景峰号」に荷積みされて新潟港を出港した。
30日 韓国の財閥「現代グループ」の鄭周永名誉会長が、北の金正日総書記と会談した。
31日 鄭名誉会長は板門店で記者会見し、北朝鮮国内の油田開発や金剛山観光事業について合意したことを明らかにした。
11月4日 同日付け産経新聞朝刊によると、今年3月、北朝鮮・平壌であったとされる金正日総書記に反対する「3・17クーデター未遂事件」について、首謀者は治安警察を担当する社会安全省の次官だった李宏泰大将で、事前に計画を中国側に連絡していたために、国境を接する藩陽軍区が部隊ぐるみの亡命に備え、厳戒態勢に入っていたという事実が明らかになった。決起部隊の関係者ら数千人が山間部で大量処刑されたと伝えられている。
6日 韓国の李鍾賛安企部長は国会報告で、北朝鮮の情報・工作担当幹部や対南経済協力担当者などが、最近、大量粛清されたとの見方を明らかにした。その中には金英竜・国家安全情報保南部第一副部長、死亡説が流れている金正字対外経済協力推進委員長らが含まれている。
17日 北朝鮮を視察した米民主党のカートマン下院議員は米議会で記者会見し、北朝鮮当局者が過去3、4年来の食糧危機による餓死者が計100万に達していることを認めたと語った。
18日 現代グループが運行する観光船「現代金剛号」が東海港から出港し、北朝鮮に向け初出港した。韓国人観光客800人を乗せている。
20日 小渕恵三首相はクリントン米大統領と元赤坂の迎賓棺で会談し、北朝鮮の秘密地下核施設旋惑の査察問題や弾道ミサイル開発阻止のため日米韓3国が緊密な連携をとることを確認した。
韓国黄海側で北朝鮮に近い江華島の韓国領海内に19日夜、潜水艇と見られる不審な船が出没し、20日早朝になって北朝鮮側に消えた。
21日早朝になって北朝鮮側に消えた。
21日 金大中韓国大統領はクリントン米大統領と会談し、両国は北の地下核施設疑惑について、北朝鮮に疑惑解消の措置を厳しく求めていく方針で一致。クリントン大統領は北朝鮮が米朝核合意を守らなかった場合「米国の支援は難しくなる。信頼を失えばとても不幸になるだろう」と警告。
韓国国防省スポークスマンは記者会見で、江華島沖に現れた不審名船は北朝鮮の4、5人乗りの小型スパイ船と断じ「停戦協定違反で、重大な軍事挑発行為」と強く非難する声明を発表した。
人権団体の「救え!北朝鮮の民衆/緊急行動ネットワーク(RENK)」は25日に訪日する江沢民中国国家主席宛に「中国の良心に訴えます。北朝鮮からの越境者は『難民狩り』に怯え、苦しんでいます。北朝鮮難民の『子供狩り』を直ちに止めてください! あなた(の国)が捕まえた子供たちを返して!」と緊急行動アピールを発した。
「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」はJR御茶ノ水駅前で、北朝鮮の強制収容所の開放、在帰国者の人権の確立を求めて市民に訴えた。約四百人の市民が訴え文をのせたチラシを受け取った。
この人にきく佐伯浩明さん(運営委員、産経新聞正論調査室次長)(聞き手:三浦小太郎)
―佐伯さんが北朝鮮の問題に関心をもつようになったきっかけは
どのようなものだったのでしょうか。
佐伯 元々、社会主義国の人権弾圧の状況が、日本では充分に報道されていないという思いがありました。現代史を少しでもひもとけば、最も人権を弾圧したのは、社会主義国家とナチズム(国家社会主義)という全体主義体制だが、なぜか日本における人権運動はそこを素通りしてしまった。これは本来党派から自由であるべき人権運動が、日本においては反体制的な党派のみに強く影響されてしまったからですね。
そんな中で、安赫・姜哲煥両氏の『北朝鮮脱出』(文春文庫)を読み、守る会の存在を知って、これは本当に意義のある運動が始まったと思い、迷わず参加しました。
―マスコミ一般は、社会主義諸国の崩壊した今でも、北朝鮮の人権状況について
はっきりした抗議の声を挙げようとしません。この原因はどこにあるのでしょうか。
佐伯 まず、平壌に支局を置きたいということで、批判的な報道を控えているという状況があると思います。
それから、戦前の日本の行為についての贖罪意識もあって、朝鮮の問題については強い発言はしたくないという意識があるのかもしれない。確かに戦前の日本の植民地体制は間違っていた。特に官僚の一部と軍部が結託しての大陸進出は僕も批判する。
ただし、孫文の革命を支援した宮崎滔天のように、西洋の植民地主義に抗し、アジアの人権と民族の独立のために戦った日本人も沢山いた訳です。この人たちの良い面を引き継ぐ、国境を越えた人権回復の運動を拡げて行くということは、日本の歴史の教訓を生かすことじゃないかと思います。
―最近のニュースでは、北朝鮮は再び地下軍事施設の査察拒否、
核疑惑の再浮上など、軍事優先の政策をとり、戦争の危機も叫ばれています。
「守る会」はこれに対しどのような対応を考えるべきでしょうか。
佐伯 国際政治の上では、何らかの制裁を含む様々な手段が有り得ると思います。「守る会」は人権団体ですから、北朝鮮の人権弾圧と軍事独裁に、よりいっそう強く、言論で抗議をして行くしかないですね。
ここで強調して置きたいのは、人権運動は現実政治のうえでは無力ではないかという声も有ります。しかし、決っしてそんなことは無い。北朝鮮からの亡命者が必死の思いで故国の現状を訴えたことや、ここ日本で在日の証言者の方々が勇気をもって名乗って在日帰国者や強制収容所のことを証言してくれたことが、国際世論を通じて北に確かに影響を与えています。
実際、北は強制収答所をいくつか閉鎖させているようです。「不要な政治犯を作るな」ともいっています。
―マスコミだけでなく、日本政府も北朝鮮に対して弱腰のように見られます。
佐伯 北の現状については、日本の政府も猛反省すべき点がある。
例えば拉致事件については、自国民を明らかに拉致されて置きながら、20年以上も放置して来たというのは日本政府自身が共犯性があるとしか言いようがない。未だに北に対しこの問題で国民に分かる明確な言葉で総理や外相が強い抗議をしていないのは、国民を守る義務を政府が放棄しているようなものです。裏取引や秘密交渉は何ら北朝鮮への圧力にも抗議にもなりません。
日本政府は人権の名において、北朝鮮に対し拉致も含め断固たる態度で臨むべきです。そして過去の問題は北朝鮮が話し合い可能な政権になった時にきちんと話し合うべきだと思います。
(聞き手:三浦小太郎)
「月刊同和」よりフランス言論の北朝鮮リポート人民は餓え死んでも特権層は私腹を肥やす地上最大の伏魔殿北朝鮮
国境無き医師団の北朝鮮撤収を契機に、フランス有力紙が解剖した北朝鮮の惨状と矛盾 朴祥俊(韓国遊撃軍戦友会総連合会名誉会長)
フランスに本部を置く「国境無き医師団(MSF)」は、1996年から北朝鮮内で続けて来た医療支援活動を去る9月30日付で一切中断して撤収したと、最近公式に宣言した。
これを契機に、フランスのリべラシオン(Liberation)紙をはじめとする主要紙は、同じ日付の1面から6面まで、何と6面全部を割いて、苦痛の中で呻吟している北朝鮮の惨状に対する衝撃的な報告を一斉に掲載した。
一方、我国(韓国)では朝鮮日報をはじめとして中央日報などがこれを引用し『北朝鮮救援物資、軍部と政府に漏れている』との見出しの記事を報道した。
これに先駆けて、同和研究所では国境無き医師団の報告書を緊急入手し、「月刊同和9月号(9月1日発刊)に『実存する地獄、朝鮮民主主義人民共和国その阿鼻叫喚の現状を証言する』との特集を出して、読者たちを驚かせた。
月刊同和に既に載せられた特集の証言と重複しない範囲で、ジャック・アマリック記者とローマン・フランクリン記者の報道を訳してみようと思う。
リベラシオン紙は、私たちの耳目を疑わずには読めないくらい残酷な内容を詳細にレポートしているが、月刊同和9月号との重複を避けるために、二人の記者の序文報告要旨だけを訳す事で区別しようと思う。
北朝鮮は飢餓と術数の伏魔殿
リベラシオン紙のジャック・アマリック記者の報告を読んでみよう。
『鉄桶のようなスターリン主義世界の最後の砦である北朝鮮では、8年前から飢えの現象は極度に達し、飢餓状態は伝染病のように蔓延していた.最も驚くべき事実は人口の急激な減少である。推定に依れば、総人口が2,300万であったこの国で、1996年以後なんと300万名が餓死し、2,000万に減少したと報告されている。
しかし、この国で食糧援助活動を繰り広げている非政府団体(NGO)及び国際機構は、共産政権の徹底した厳格な統制によって、制限された範囲内でしか活動できないために、公信力ある正確な統計を集めることは事実上不可能である。
このような条件下でも、フランスの有力日刊紙リべラシオンは初めて、飢餓状態に陥った生々しい証言を入手することができた。
この証言は、国境無き医師団(MSF)の委託を受けた研究者たちによって北朝鮮との接境地帯である中国側で、去る8月一ケ月間に採録できたものである。
道路周辺に散らばった死体、人肉を食べたと言う事例、軍隊がひそかに移した援助食糧など…。この恐るべき飢えと餓死鋭の主人公は、言うまでもなく最も政治的に力の無い一般庶民たちに限られている。すなわち、大多数の庶民たちだけがまさに飢餓の犠牲になって呻吟し、倒れて行っているという話だ。閉鎖的な一社会主義国家のイメージを赤裸々に見せてくれている。
MSFが今確信したところに拠れば、数十万名が餓えで死んで行っているという厳然たる事実である。さらに、MSFは去る9月30日付で、北朝鮮での総ての活動を中断すると宣言した。彼らによれば、北朝鮮での救獲活動を続ける事は、一口で言って人道主義的倫理にこれ以上合わせる事ができないとの判断に従ったものだ。
飢餓と独裁は、共に来る。過去、歴史上の独裁政権下の飢饉、中国の大躍進時代の悲惨だった事実など、そして今回は北朝鮮の場合がまさにそうである。
しかし、根本的な差というのは、北朝鮮の飢餓死亡者の発生要因を見ると、平壌の狂人と為政者たちによって庶民階層に向けられた報復から起きた現象でなく、農村を荒廃させた構造的問題に起因しており、一方、軍需物資以外には他のいかなる物も生産できなくなった休業工場のおびただしい数の労働者への給食問題が台頭した。休業勤労者たちを食べさせられない当局の無能力と無責任を、誰に追求しなければならないのか。また、北朝鮮のノーメンクラツーラ(特権層)の行動様式は、根本的に中国や旧ソ連の支配者たちと区分される。中国や旧ソ連は、一部親共性向の西側の人々を巧妙に利用し、嘘の証言を通じて真実を隠蔽するために様々な努力をしたが、金正日と彼の従僕たちは惨状のむごたらしさを隠したまま、事実の一部だけをひそかに流している。状況を巧妙に利用する一つの手段だと言える。
とにかく、このように真実のようでありながら真実でないような嘘をつきながら、彼らは既に数年前から、無視できない量の救援物資を西側世界から取り込む事ができた。
しかし、この援助食糧は政権の高位層や弾圧勢力、そして受恵者の優先権を占めている密売業者たちの腹を肥やすのに使われていると見ても差し支えない。これがまさに、去る96年から北朝鮮で活動をしてきた非政府組織であるMSFの確信でもある。
さらに、MSFはこれ以上このような監視と統制下では活動できないので、撤収する事を決定し、この団体の責任者たちは自分たちが、これまでの間、平壌政権によって騙され愚弄されたと結論付けた。
彼らだけが欺瞞の対象になったのではない。何故ならば、北朝鮮当局は、彼らに残った最後の手段を極度に活用するにおいては、あえて従うものが無くなるくらい天才的である。即ち、相手を煩わせる事はさすがに一番であると言える。既に核の威嚇を通じて米国、日本、韓国そしてEUから二つの巨大な原子力発電所(軽水炉)と年間60万トンの重油を自由陣営から強奪する事ができた。それでも不足な彼らは、大陸間弾道ミサイルを持ち出して高価な駆け引きを企てている。』
飢えと電力不足の生地獄
ローマン・フランクリン記者は同日付け(9月1日)の寄稿で、フランスの人工衛星スポット(SPOT)がとらえた北朝鮮の最近の夜景写真とかつての写真を比較して見た結果、夜間照明の値が75~80程度激減した事が分かるという。これは言うまでもなく、この国がいかに探刻なエネルギー危機に立ち至っているかを端的に見せてくれる現象といえる。
国境無き医師団は最終的な撤退を発表すると同時に、去る96年以後、北朝鮮の厳しい飢餓問題を助けるための自分たちの救援活動は、平壌政権によって徹底して欺瞞されたと結論付けた。
彼らは破産したスターリン政権を手本としたのか、目的を達成するためには手段と方法を選ばず、国際的援助を引き込もうという北朝鮮当局の指導者たちは、この団体だけでなく、数々の救護機関と団体を受入れた。しかし、平壌は日常的に接しているこの恐師のカーテンの中で、わずか一部分だけを曝け出している訳だ。
国境無き医師団は、3年以内に少なくとも数十万名の人々が飢餓と関連した疾病や栄養失調で死亡するであろう事に付いて、疑問の有り得ない事を確認している。
検証できない他の集計によれば、1995年のこの国の人口は2100万名と見られており、そのうち300万名がここ数年の内に死亡したと推定している。北朝鮮当局は、昨年発表した飢餓と関連した疾病などで死亡した人の数を、134名と引き続き主張している。
13名で構成されたチームで活動した国境無き医師団は、いろいろな地方に常駐し、彼らは人間がゆっくりできる最小限の基本的条件下で、自由に与えられた作業を遂行できるように要求したが、徹底した監視と統制下で、彼らはわずかに食料や医薬品の補給役割以外のいかなる仕事もできない事を悟った。
さらに、民間非営利団体は飢餓頼死事態の深刻性に対する現実的な測定も不可能な事を知った。政権当局の幹部要員たちから常に監視されるために、自由に意思表示する一般人たちに全く会う事ができなかった。
例を上げれば、地域の保健所を訪問しようとすれば1週間前に出張申請をしなければならず、かりに、この要請が受入れられたとしても、実際そこに行ってみると、総ての事が事前に演出された架空の集落を訪問したという印象を消す事ができなかった。
咸鏡道地域で活動した4名の医療陣にによれば、医療施設は徹底した統制下にあって公開されず、おおまかな実状さえも把握するのが難しく、救獲団体から提供された機資材を間違って使っている点を指摘して直してあげようとしたが、そこの医療陣に正しい使用法を教えてやる事さえも許されなかった。
劣悪な医療実態の水準として、彼らが見せてくれたのは8年を経過したレントゲン写真くらいであり、たいして残っていない医薬品さえも、既に1986年に有効使用期間が過ぎてしまった北朝鮮産の薬品であった。血清などはひどいもので、ビール瓶の中に保管されており、電力不足のために、輸血する血液などは大部分凝固していた。
国境無き医師団の研究室長フランソワ・チヤン氏は、自分の団体が標榜する人道主義論理と平壌政権の論理の間には、越えられない障壁がある事を悟った。
即ち、人道的救援活動は最も不遇な人たちに援助を提供することを目標としているのだが、この国に到着した救援物資は政府当局によって配給されたとはいうが、これを待ち焦れている庶民の実需要者たちの手には、何も与えられなかったという事実である。
何の対策も無く絶望的な現実
数々の専門家たちを驚かした食糧配給基準設定を見ると、国民を大きく3個の部類に大別し、それを細かく分類し50の層に分け、その所属等級によった比率を適用して等差配給をするという事を知った。
たとえば、下位部類に分類された階層は、反革命分子の家族分類に属し、優待的高位層は北朝鮮政権体系の高位幹部の取り分である事は言うまでも無い。これは、北朝鮮政府の最優先目標は政権の安定的維持であり、この政権延長に寄与しない平民たちは、飢えと死の危険に放置されるほかないのだ。
現在の飢餓の主原因として指摘しているこの3年間の連続的な洪水は、事実上枝葉的なものに過ぎない。
フランソワ・チヤン氏は、飢饉状態はほとんど政治的な問題から始まったと分析した。即ち、この60年間維持された共産政権の政策の産物であると同時に、他の理由を上げれば、共産政権はこの貧弱な既存の食糧資源までも、政治的忠誠心と秤にかけ、国民を社会的、経済的利用価値判断に照らして等差配給したためだ。
従って特権層だけが住む平壌居住者たちと、党と軍の幹部たちは食糧配給の特恵を享受し、反面、出身成分や党性が良くなかったり戦略武器工場に勤務する事も無い人、外貨稼ぎに助けにならない場合、彼らは全く食糧配給を受けられないというのが嘘でない実態である。
このような類型の飢餓事態は、地球上いかなる国でも探せず、これは戦争に起因したものでもなく、社会秩序の大変動を画策する狂気に満ちた革命と関連した事でもなく、構造的次元に伴う問題だというのが適切だといえる。
これは、大部分の産業がたとえ破局に至っても、とにかく産業型の大多数都市化された国家で、これほどまでに不平等な事態が何のためらいも無く発生したという事実に注目する必要がある。
最も深刻な事態に陥っている人々は、まさに政府や権力に対していかなる関心も見せず、破産してしまった国営企業で働いていた中小都市の勤労者と家族たちである。従って、この飢餓事態は経済の総体的な破産の結果によるものと見なければならない。
そうして、このような総体的破産状況が続出しても、近いうちに政権がまさしく崩壊につながることなく、こうした間に数千数万の善良な一般国民たちは餓死することは明らかである。
このリベラシオン紙の特集報道は、国際救獲団体、国連、米国、日本などが北朝鮮に提供した食糧及び救援物資の転用問題により、関係者間に大きな波紋を引き起こすものと見られる。
善良な国民大衆に一日3食の飯さえ食べさせられない社会主義国家を、世界の目はどのように眺めて評価しているのかを見分けるのに先立ち、北に居住している私たちの兄弟姉妹が餓えて死んで行く、この現実の前で手をこまねいている私たちの立湯を嘆き、私たちはどのように対処する事が適切な方法なのか、今後の希望が持てないだけである。
北朝鮮 中央通信「全く根拠の無い戯言」
対北朝鮮救援物資軍転用事実否認
北朝鮮は9月9日、国際救援機梼から支援された対北朝鮮救援物資が上層部と軍部に転用されているとの(韓国)国内一部言論報道と関連し『全く根拠の無い戯言』と、これを否認した。
北朝鮮はこの日、官営中央通信を通じて『(国際機構が送った)救援物資が上層部、軍隊に転用されているという戯言は、全く根拠の無い戯言』だと一蹴し『それは被害地域の人民たちに等しく届けられており、それを何に使おうと不正と言えない厳然たる事実』だと主張した。
この通信は『現在、朝鮮で活動している人道主義援助機溝は、自分たちが任された救援対象地域で特別な問題が提起されない限り、総て出かけて見ており、援助物資も該当地域にきちんと分配されている』。援助物資転用報道は『我々に対する国際社会の人道主義的援助を遮断させようという、不純な企ての発露に過ぎない』と報じた。
中央通信は、国際支援団体である「国境無き医師団」(MSFが活動上の制約のために、北朝鮮を去るほか無かったという報道と関連しても『「国境無き医師団」の活動に対して妨害した事は無い』として、言論報道を『事実に合わない謀略宣伝』と、非難した。
この資料は、韓国の同和研究所(安應棋理事長が発行している「月刊同和」(李敬南所長・発行兼編集人)の許諾を得て、翻訳作成されました。
北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会 訳(文責)大宅京平
第4回東京学習会報告 三浦小太郎
去る9月19日、日暮里の喫茶ベラミにて、元共産党議員秘書、兵本達吉氏を講師に第4回学習会が開かれた。
テーマは日本人拉致問題について。70年代に連続した北朝鮮による日本人拉致事件に、当時から積極的にかかわり、被害者ご家族のために精力的に活動して来た同氏の回想を中心に、今後いかにこの問題に取り組むべきか、北朝鮮のこのような非人道的な行動の由来はどこにあるのか、そして日本政府、マスコミの責任、ひいては社会主義と人権の問題にいたる広範な講義と討論が行われた。
拉致問題についてお話を聞くときにはいつも身につまされることだが、被害者ご家族の心痛と悲嘆の姿は、北朝鮮の行為がいかに道徳的に許されないことであるか、そしてご家族の悲しみと怒りがどれほどのものかを私たちに突き付けてくる。この日の兵本氏のお話しでも、新潟の海岸をかすかな手掛かりを求めて何日もかけて歩き続けた方、何年も門の電気を消すことなく、娘が帰るのを待ち続けた方、様々な胸打つ悲劇が語られた。
そして、一向に進まぬ状況に疲れ、ご家族の方々も絶望しかかっていたところに一筋の光明を差し込んだのが、韓国からの北朝鮮亡命工作員の証言により浮上した、横田めぐみさん拉致疑惑事件だった。日本から拉致された少女を北で見たという証言から、当時の新潟海岸での13歳の少女の失踪事件が桔び付き、様々な証言の一致から北朝鮮による拉致であったことがほぼ明らかになったのである。
兵本氏の粘り強い努力がやっと実を結ぶこととなった。横田さんのご両親が名乗ることを決意、被害者の家族の方々が団結して連絡会を結成、マスコミもやっとこの問題を取り上げるようになった。しかし現在まで、北朝鮮はすべてをでっちあげと反論、交渉の場でも被害者に該当する人間は北にはいないと強弁し続けている。
さらに、兵本氏は、70年代の事件勃発時、サンケイ新聞がかなり克明なレポートを発表し、拉致の可能性を表明したにもかかわらず、当時は他のメディアも世論もはとんど注目せず、結果としてこの事件の解決を遅らせたと述べた。また、昭和63年の国会における梶山公安委員長(当時)の、「北朝鮮による拉致の疑いが濃厚」という発言も、一部をのぞいてほとんど話題にならなかった。
なぜこのような事態を招いたのか。兵本氏は、政治家にもマスコミにも(そして被害者ご家族にすらも)、北朝鮮がまさかそこまでやるとはにわかには信じられなかった事、国民の生命財産を守るという国家として当然の責務への自覚が政治家にたりなかったことを指摘した。
ここから兵本氏は、自分自身について最も衝撃的だった事件はソビエト連邦の崩壊だったと述べ、自分は社会主義をずっと青年のころから信じつづけ、ソ連を欠点はあってもアメリカなどに比べて相対的には正しい国だと思って来た。その幻想が壊れるとともに、社会主義がいかに多くの人権弾圧、抑圧、そして虐殺すらも行ってきたのかを悟り、収容所国家体制は決して偶発的、特殊なものではなく、社会主義国家に必然的に現れるものだとの認識に至ったと、自らの思想的転換を語った。
拉致事件は、北朝鮮政府が現在の体制のままで有る限り、簡単には解決しないだろう。
しかし、被害者、そしてご家族の方々を、20年以上も放置して釆た責任は、マスコミ、政治家、そして我々国民凡てにある。これは帰国者の問題と同等、「守る会」が関心をもって取り組むべき人権問題であろう。
第5回関西支部講座姜在彦先生の講演「戦後の在日朝鮮人運動と私」 元総連地区委員長や教え子など40人を越える参加者が質疑・討論
11月 28 日の午後、関西支部では第5回関西支部講座を開催し、講師に花園大学教授姜在彦先生をお迎えしました。先生は「戦後の在日朝鮮人運動と私―路線転換(1955年)から総連離脱(1968年)まで-」と題して、2時間にわたって講演され、そのあと1時間ほど質疑と意見交換を行いました。
姜先生の講演は在日本朝鮮人達盟の結成から在日朝鮮統一民主戦線、そして在日本朝鮮人総連合会へと展開してきた過程、その中で金日成が求めた、「朝鮮民主主義人民共和国公民」という立場の運動への路線転換が、「先覚分子」と「後覚分子」との対立をへて進められたこと、そして、その後の運動の問題点について熱心に語っていただきました。講演の槻要は、別に紹介する予定です。
今回の支部講演には40人を越える参加者があり、その中の半数は始めて参加した人たちでした。しだいに守る会を核にした輪が広がってきていることに励まされました。
娘が北に帰っているという一人は、何とか助けたいという一心で参加され、北朝鮮を訪問した時の様子の一端を話されましたが、娘さんへの影響を心配されたのか、すぐに口をつぐんでしまわれました。心配されている様子は痛々しいほどでした。
40年ぶりの再会という姜先生の教え子も参加者の一人で、朝高時代のある試験の答案を「姜先生は評価してくれなかったが、わたしの答案が正しかったのではないか」と質問し、姜先生が「そのことについては降参する」と回答される場面もありました。また、元朝総連の地区委員長であった人も参加していて、上の幹部に対しては自分は被害者であるが、下にいた人たちに対しては加害者ですと、当時のことなどを発言されました。
在日朝鮮人の生活向上と祖国建設の高い理念をもち、個人的利害を超えて行動された良心的総連活動家が、その良心と勇気を今、帰国者とその家族の支援と救援に向けて下さることを期待します。
過熱ぎみの議論もありましたが、4時過ぎにひとまず終了し、場所を移して10数人でうるさいほどの議論を続けました。済民日報(週刊KOREA NEWS)社の論説委員や朝日新聞社の記者も参加されました。
萩原遼共同代表著『北朝鮮に消えた友と私の物語』出版記念会のご案内
11月28日、共同代表の萩原さんが渾身の力を込めて書き上げた待望の書が文芸春秋社から出版されました。もうお読みになった方も多いと思いますが、数々の新事実を明らかにするとともに、総連の路線転換と金日成・韓徳銖の陰謀の中から帰国事業の意味を解明しています。また、萩原さんの人生を決めたともいえる北に帰った友人尹元一や金竜南(共同代表の金民柱さん)、その弟金泰元の消息を通して北朝鮮の冷酷非道な体制を告発しています。
私たち守る会にとっても、総連の路線転換や帰国事業の解明を通して、私たちの運動の原点にたいする正確な視点を与えてくれる貴重な本といえます。
萩原さんの労をねぎらい、出版を記念して、年の瀬の午後を楽しく過ごしたいと思います。ぜひお気軽にご出席ください。事前にご出席の連絡を頂くことができれば幸いです。
日時 12月20日(日)12時30分開場13時開宴15時まで
場所 東天紅 大阪市中央区大手前1-7-31大阪マーチヤンマートビル20階
地下鉄・京阪電車 天満橋下車すぐ 06-943-3781
会費 5000円
連絡先 山口 修恥10722・32-0909、 山田文明Tel&Fax O729-90-2887
萩原遼著『北朝鮮に消えた友と私の物語』
12月6日 金芝河来日記念公演報告 三浦小太郎
12月6日(日)午後6時より、東京イイノホールにて、韓国の詩人金芝河の初来日記念公演が開催された。上演演目は、第一部が金芝河29歳の作品「五賊」のパンソリによる上演。歌は70年代から金芝河とともに活動して釆た林賑澤。第2部は金芝河の詩を元に、在日韓国人の劇作家、金盾進が構成した音楽劇「われわれはどこにいくのか」の上演。
先に韓国でも公演を行ったオペラ歌手、田月仙と、舞踏家の大川妙子、そして劇団新宿梁山泊、東京セパラム合唱団が共演した。
金芝河といえば、かって韓国朴政権に対する抵抗詩人として、逮捕、投獄された彼に対する救援運動も日本で展開されたことが思い起こされる。しかし、今回、彼の逮捕のきっかけとなった「五賊」の言語での上演に接し、金芝河がこの作品で本当にやろうとしたことが、今こそ真に理解される時代になったのだと思った。
林賑澤が自由自在に言葉を操り、「五賊」こと、財閥、高級官僚、軍人、政治家、次官への罵詈雑言を投げつけ」明らかに日本の雅楽につながると思われる鼓や琴がリズムをつけていく(歓迎会で劇作家の唐十郎は、「まるで蛇のように心に絡み付いた」と彼らしくコメントした)のを聞いていくと、「独裁に抵抗する良心的知識人」といった金芝河のイメージは彼の一面しか捕らえて来なかったことが分かる。
「五賊」は、近代化していく韓国社会にたいする最も土俗的な、民族の最深部からの呪祖の言葉である。この詩は確かに読まれるものではなく、語られ、謳われなくては意味がない。
金芝河が自らを「乞食詩人」と呼び、自分の詩を「流言ヒ語」と言っていたのは卑下でも誇張でもなく、町から町、村から村を放浪し、差別され、時代から取り残されて行く人々の心を歌い続けたパンソリ芸人たちの後継者をもって任じていたからに違いない。
そして、「五賊」では近代化に抗する民俗の神「捕盗大将」はあっけなく五賊の前に屈する。事実、近代化は歴史の必然である。
そして、金芝河はこの後、激動の韓国社会の中で、由らの思想を深めて行く。韓国民主化運動を変わりなく支持し続けながらも、一部学生運動に見られた玉砕主義、焼身自殺の決行をはっきりと批判、かっての仲間たちからも抗議を受ける。そして、東学党などの韓国民俗思想を掘り下げつつ、現代社会の環境問題、民族問題にたいし、いかにここ東アジアから独自の思想的発信ができるかという問題に取り組んで行く。
はたして、現在金芝河が提起している「生命思想」が、この問題への十分な答えとなっているか否かには、様々な評価があるだろう。しかし、70年代にいかなる権力にも屈しなかった金芝河は、今もいかなる誤解を受けることにも恐れず、あらゆる難問から逃げようとはしていない。
「私はたくさん変わったが、変わっていないことがある。それは私が常に変われるということ。また変わらなければいけないということ。その原則だけは変わらなかった。」
(パンフレットより)
第2部の創作劇について触れる余地がなくなってしまったが、ただ一つだけ最も感動したシーンを上げておく。田月仙が悲しみと怒りを抑制しながら、静かに金芝河の思いを歌い上げ、それに併せて大川妙子が、まるで地下から蘇るかのように立ち上がるシーン。韓国の当時の政治状況をこえて、すべての観客のうちにある現代社会への疎外感とやり場のない焦燥感を呼び覚ますような瞬間だった。新宿梁山泊の代表作の一つ、「地底人伝説」を思い起こさせた。
追悼 磯谷季次さん 朝鮮を愛した無欲な日本人 小川晴久
磯谷季次(いそがやすえじ)さんが去る10月11日91歳をもって生涯を終えた。13年前に奥様に先立たれたが、奇しくも91歳まで生きなさいと奥様にいわれたというその91歳で亡くなられたのである。今から約8年前に出された書『良き日よ、来たれ-北朝鮮民主化への私の遺書-』の副題が文字通りとなってしまった。
機谷季次さんは1984年に世に出た『わが青春の朝鮮』(影書房刊)という書で知られている。
1928年(21歳)一兵士の卵として朝鮮咸鏡北道羅南に連れていかれてから(軍隊は2年で除隊)1947年1月に引揚げてくるまでの19年間の朝鮮での半生を記録したものである。この本と磯谷さんの帰国後の生き方を合わせ、私の中で機谷さんは柳宗悦、浅川巧、槙村浩につぐ4人目の朝鮮の土となる人(朝鮮の真の友)となったのである。
私がこの短い追悼文の中で書かなければならないのは、前記『良き日よ、来たれ』(1991年1月花伝社刊)という書のことである。
この本は今から10年ほど前に磯谷さんが林隠著『北朝鮮王朝成立秘史』(1982年自由社刊)という本を読み、自分の金日成や北の歴史に対する理解が根本的に誤っていたことに驚愕し、探い悔恨と憤りをもって綴った書である。林隠(許真氏の筆名)氏の本の引用・紹介という体裁をとった本であるが、原著の在庫がなくなった今、磯谷さんの本を通して林隠著に触れることができることでも貴重である。
実はこの本が出るとき、『わが青春の朝鮮』の磯谷季次像が壊れてしまうという反対意見が磯谷ファンにあったときく。しかし磯谷さんは敢然と自分の認識の誤りを天下に公表し、何よりも一日も早い北朝鮮の民主化を希求された。今から8年前の82歳の時である。そのときまだ市民組織守る会は生まれていなかった。
磯谷さんはこの本をもってわが守る会の創立に参加され、亡くなるその日まで「良き日よ、はやく来たれ」と願い続け、私たちを励まし続けて下さったのである。希に見る無欲で純粋な人であった。
編集後記
▼ことしもあとわずかになりました。大不況のなか、 くらしも社会もこれまでにないきびしさですが、 いかがお過しでしょうか。私たちの最大の関心事である北朝鮮の状況、その下で苦しんでいる帰国者と日本人妻の状況も破滅的な様相を示しています。この冬を越すことができるだろうかという声もきかれます。
▼10月に大阪で開かれた「帰国者家族を勅ます音楽と講演の集い」の成功によって、帰国者家族の方々と日本人の問にネットワークが大きく広がりました。これからの活動の方向を示してくれているといえます。来年もねばり強く頑ばりましょう。 (萩原遼)
▼発行が遅れてご迷惑をおかけ致しました。カルメギ11月号をお届け致します。この日はちょうど12月12日の集会当日と思いますが、世界人権宣言50周年の今、北朝鮮のひどい人権弾圧への抗議の声が会場にみなぎっていることでしょう。 今年1998年、北朝鮮は予告なしのミサイル(人工衛星?)発射、徹底的な軍事国家化、核査察の拒否など、一向に改善しようとしない国内の人権弾圧と、まさに末期的な状況を呈しています。
「守る会」の人権運動が来年以降ますます重要になって行くと言えるでしょう。 韓国からの金芝河の来日は、かっての民主化運動にかかわった人々には感無量のものがあったかに思います。私たちもまた、一日も早く、北朝鮮の人権状況が改善されることを願って止みません。 (三浦)