本稿は、1960年に新読書社から発行された「北朝鮮の記録 : 訪朝記者団の報告 」を紹介しています。帰国事業当時「38度線の北」同様、大きな影響を与えたと思われる訪朝記事です。現段階でのコメントはつけません、一つの歴史的資料としてお読みください。
教育と福祉衛生
読売新聞社社会部 嶋元謙郎
土曜日の学習
「毎週土曜日の午後にな学習があるんです。大臣級、次官級、局長級とそれぞれのクラスに別れていますが、各クラスに大学の教授が出むいて哲学と政治経済学を勉強する。それが、現在、いかにわが国に適用されているか、新しく政府や党で決定されたことをいかに解決するかなどについて、講義したり討論するのですが、なかなか大変ですよ。時には金日成首相自ら生徒になって一緒に勉強するんですから、教授もつらいし、われわれも頭が痛い。勉強して行かないと恥をかきますから。昨年十月までは、土曜日の午後になると、好きな魚釣りにいっていたのですがネ……」
教育文化相の李一郷さんが、こういって頭をかきながら苦笑していた。朝鮮ではいま、上は首相、大臣から、下は一般人民に至るまで「学習運動」がもり上がっている。まず指導者層が卒先して実行しているのだ。「土曜日は全然仕事にならん」と新聞記者がこぼすほど。土曜日になるとゴルフでソワソワして仕事に手のつかない日本の政治家、実業家に見せてやりたいくらいだった。
この学習運動は名付けて「文化革命」。なにしろ朝鮮は近代史において百年の遅れがある。西欧諸国が産業革命を行って近代へと脱皮した時期に、朝鮮ではまだ封建制がしかれていた。産業革命を終えて飛躍的な発展をみせたときには日本の植民地下にあって、朝鮮の文化の発展は押えられ、解放まで低い民族として残されてきた。この百年の遅れに追いつき、追い越すことが「文化革命」のネライである。
突如としてこの問題が提起されたのではない。政治革命が終って国家機構が確立し、計画経済を行って生活のメドがつき、義務教育を或程度実施して大衆の文化水準を一定のところに高めることができたから、はじめて昨年十月にとりあげられたのである。
国民生活が、不安で、衣食住にもこと欠くようでは、なにを説いても無駄だ。教育水準が低いときに、高尚な理論を教えても理解できない。いまや、一定の衣食住が充足されて、理解力も高まったから、先進国並みに引きあげようというわけだ。
日常生活のなかでは、毎朝ヒゲを剃ろう、髪の手入れを怠るな、アカのついた下着を着るな、一週間に三度以上入浴しよう、ツメを切ろう……というような、誰にでもわかることから、この革命は進められている。日本では社会党や日教組などで嫌われた道徳教育もこのなかに含まれている。「親には孝行をしましょう」「目上の人には礼儀をつくしましょう」といったたぐい。
しかし、こういったことは、まだ文化革命の序の口である。本質は教育改革だ。ことしから朝鮮では九年制の完全義務教育制がしかれる。その九年制度の学校卒業生程度に、全人民の教育水準を引上げることが本当の目的なのである。
人民学校(小学校) 四年
中学校 三年
技術学校 二年
高等技術学校 二年
大学 五年
(このほか高等技術学校から二ー三年制の専門学校がある)
学校の数は大学三十七、専門学校四十六など全部で七千九百校。学生数は大学生三万六千人を含めて二百五十万人。
幼稚園を別にすると、小学校から大学までの就学年限は十六年で、日本の六・三・三・四制による十六年と同じである。しかしその内容は大いに違っている。
お気づきの方もあろうが、日本に当てはめれば中学三年生から高校卒業までの四年間が、朝鮮では技術学校、高等技術学校となっている。思想、常識などの一般課目のほかに、とくに技術、技能を習得させようというのだ。ここを卒業した人は、技手以上の技能資格者になる。〝国民皆技術〟である。つまり、文学を志す人も、経済、哲学などいわゆる社会科学を志す人も、大学に進学したいものはみんなこの二つの技術学校を卒業しなければならない。「ぼくは数学は苦手だから」「物理がからきしだめだから」などといってはおられない。
それまでは、といっても学制の変った昨年暮までだが、高級中学を卒業しても、すぐには大学を受験することができなかった。二年以上、工場や農村の生産部門で働いたあとでないと、志願資格がない。労働者と同じ体験をし、同じ生活を経験することによってインテリとして労働者階級から浮上らないように配慮したためと、技術を身につけさせることが目的だったが、こんどは実生活の経験が免除されたかわりに、四年間の技術の基礎教育となった次第。人工衛星の飛び交う科学時代に対応し、遅れをとるまいというネライだ。
旧制度のときは中学校までの七年が完全義務教育だったが、ことしからは文化革命の趣旨に沿って技術学校までの九年間が義務。イギリス十年、日本九年だから、一応世界の中等教育の水準に達することになるが、ここで特筆されるべき点は、朝鮮ではあえて「完全」という言葉をつけて強調していることだ。
日本の場合だと、義務教育は単に憲法によって義務づけられているにすぎない。従って北九州の炭坑地帯のように、石炭界が不景気になると学用品はおろか、教科書まで買えなくて学校にいけない児童生徒がでてくる。義務はあっても、それに対する裏付けがないのである。いわば掛け声だけだ。
それに対して朝鮮は、教科書、ノート、鉛筆、クレヨンなどの学用品はもちろんのこと、通学に必要なカバン、靴、帽子、学生服、下着類まで、とにかく学校にいくための一切のものが、すべて国家から無料で支給されている。親たちが、なに一つ整えてやらなくても、学校にいける仕組みだ。だから朝鮮全国、ほとんどの児童生徒は、同じ帽子、同じ服、同じ靴をはいている。貧乏人――朝鮮には貧乏人はいないが、もしあったと仮定してもそこの子弟は心起きなくみんなと同じように学校にいって勉強できる。完全な教育の機会均等といっていいだろう。これが「完全義務教育」とわざわざ断っているゆえんである。
九年完全義務教育制は、一応ことしから実施されるが、一度に全部が移行するのではない。学校の設備や生徒への支給品は間にあうが、いっせいに切替えるだけの教員数が不足しているのだという。ことしは、とりあえず全体の八〇パーセントを九年制にし、二年後の一九六二年までに百パーセントにする目標だ。義務教育年限の二年引上げによって生じる教員不足を解消するためには、教員の養成にやはり二年はかかるという。これが完成すれば、さらに高等技術学校の二年を加えて、十一年制の完全義務制を施行すると張りきっていた。
この義務教育の延長と歩調を合わせて、一般人の教育水準を九年制卒業程度に高めるために、成人学校が開かれている。むしろ、文化革命は成人学校の方に重点がおかれているともいえる。
各工場、農村、居住区などにある民主宣伝室というのがそれだ。毎日通う人もいるが、老人であろうが、主婦であろうが、すべての人が一年に二ヶ月は仕事と平行しながら学習しなければならないと規定されている。名前はいかめしいが、クラブを小さくして図書館の機能をかねたようなものだ。黄海製鉄所で見学した民主宣伝室には、まわり一面に朝鮮の歴史を分りやすく解説した重要年表が挿絵入りではってあるほか、マンガ入りの「道徳書」や「共産主義教養書」「衛生常識」「一般冶金学」「金属部門の技能者のために」などといった題の本が、両面にある本箱いっぱいに並べてあった。こどもたちが二年で終えるところを、三年から五年かかって習得しようという意気込みである。
しかし、この成人教育だけで人民の文化水準が引上げられるものではない。それにはもう一つの大きな歯車が必要だ。朝鮮はむかしと全く一変している。広い道路、整然とした並木、両側に立ち並ぶ五、六階建の高層建築の列は、東洋というよりは、どこか西欧の都市にやってきたような感じだった。わずかに町の半分が焼け残った開城市にいって、昔ながらの建物を見たとき、やっと朝鮮にきたという実感慨がおこるほどの変貌ぶりだが、頭に物をのせて歩く習慣だけは、昔も今も変わりない。平壌駅のすぐ脇にある平壌駅前デパートでも、頭に物をのせたオモニ(お母さん)たちがバッコしている。近代国家に移り変わろうと意図していても、やはり古くからのロウ習は抜けきれないものとみえる。こうした悪癖をなくすことも、文化革命の重要な課題の一つだ。
では、なぜいままでに改めなかったのか? 朝鮮の都市はどこもチリ一つないほど美しい。むかしの朝鮮人は、町中でペッペッと痰をはいたり、手バナを噛んだり、とにかく不潔の代名詞みたいなものだったが、いまではそんな朝鮮人にお目にかかろうとしても、全然見当たらない。そんな悪癖は、現在全く払拭されているのに、重いものを頭にのせて歩く習慣がなぜいまだに残っているのかは大いに疑問だった。それに対して政府の高官はこう答えた。
「道路にタン壷や紙クズ箱を備えつけると、自然に放痰や手バナはやらなくなる。それでもやっておれば、みんなの迷惑する不潔な仕ぐさはやめようと注意することができる。こうして、街をキレイにしてきた。しかし、いますぐ頭にものを載せて歩くなとはいえない。なぜならば、頭にとってかわってものを運ぶ運送方法がたちおくれているからだ。自転車や手押車が少ない。これを解決しなくてはやめてしまえと強制することはできない。」いくら強制しても実行する人はいないだろう。
まず環境を改善すること。まことに社会主義的な地について考え方だ。
つまり、文化革命によって人民の文化水準を高めるためには、同時に国民の生活を引き上げなくてはならない。それには生活の合理化、そうして必然的な結果として、機械化が叫ばれるわけだ。このことを「技術革命」といっている。
目的は全人民に一つ以上の技術を所有させることと、技術の神秘性の打破、いいかえれば技術は誰でももつことができるという自信を植えつけること、の二つである。
新教育制度で、技術学校、高等技術学校を新設したのも、このあらわれであるが、とくに大衆の技術習得のために「科学知識普及協会」が組織されている。中央に本部をおき、各道、郡、市、里、洞にそれぞれ支部を設けて、機関紙や民主宣伝室を利用して啓蒙運動が行われていた。技能者には国家技術者審査会によって一級から七級までの資格を決定し、すべての人が七級以上の技術をもたなければならないことになっている。
「機械の子産運動」というのがある。一つの機械で、新しい機械をつくりだせ。つまり工作機械を製造する工場でなくても、機械をつくってみろ、というネライだ。咸鏡北道にある朱乙亜麻工場はこの掛け声で高精能の万能旋盤やプレーナー、シェーパーをつくった。亜麻工場だから、もちろん、専門の機械製作用の精密機械があるはずない。それでもなおかつ、みんなが工夫してつくり上げたのだ。平壌自動車修理工場ではトラックを生産した。そのトラックを見たが、お世辞にも上等とはいえない。しかし、自分たちの力で旋盤をつくった、トラックを生産したという自信が重要なのである。
技術は神秘のヴェールをかぶった秘密のものでない。誰でもヴェールを取りはずせる。しっかりやんなさい。と、指導しているわけだ。
専門工場のスローガンは「先進技術で武装しろ」。後進国が飛躍的に発展するためには、この方法しかないのだそうだ。オートメーション化はこの至上命令ともいえる。建設部門においては、クレーンによるアパートの建設をよりスピードアップしろ、運輸の面では全鉄道線路の電化をしろ。
農村では農業機械化だ。すでに水利化と電化が、ほとんど完成したので、ことしからは重労働は全部機械にしようとの合言葉だ。
現在トラクターは全国の農村で七千台。これをことし中に四千台増やして一万一千台にする。内訳は国産三千台、輸入一千台。トラックは一千台のところを三千台増やして四千台。こちらはみんな国産品だ。脱穀機、除草機もつくる。こうしてとりあえずことし中に平安南道、黄海南道の九〇パーセントを完全に機械化し、来年は平安北道と咸鏡南道、再来年には残りのすべて、という計画だ。このため、農村では、いまトラクター、トラックの技術講習会のまっさかり。ほとんど毎日のようにいろいろな新聞に、どこどこの協同組合では、何人が技術をマスターしたという記事がでていたほどだ。
このように朝鮮ではいま、文化革命と技術革命を両方の車輪にして、千里の駒の勢いで先進国に追いつこうとしている。
金日成大学の学生たち
われわれは金日成綜合大学を見学した。その名が示すように、日本の東大と同じく、朝鮮では最高の名誉ある大学である。
以前の建物は朝鮮戦争で完膚なきまでに破壊されたとかで、現在は四階建の建物が二むねしかない。そのうえ、戦争直後につくられたので、建てつけがひどく無細工だ。しかし、ここで学んでいる学生たちは、生き生きとしていた。
朝鮮には現在大学が三十七校あることは、先にもしるしたが、志願者が多いので、全員を入学させることはできない。日本と同じように入学試験が実施されており、やはり〝狭き門〟となっている。入学率は平均三人に一人、それが、物理数学学部の物理科、経済学部の政治経済科、哲学科、法学部の国際関係科などという憧れの学部は十人に一人の割合になるという。
大学の試験期日は全国一斉に行われるから、合格しない人も多いわけだが、朝鮮では日本のように受験勉強のための浪人は許されない。入学試験をおちると、全員工場か農村行き。ここで働きながら受験勉強をしなくてはならない。さらに翌年大学の試験を受けるには、そこの職場の推せんがいる。従って、仕事をサボッで勉強だけに熱中することもできない仕組みになっている、。金日成綜合大学の例では四年目にやっと合格した人があるという。
現在同大学には物理数学、化学、地理、生物、歴史、経済、法学、語文(国文学)、外国文学の九学部があり、四千五百人の学生が学んでいる。講座の数は四十五、研究室十、実験室二十で、教職員は三百人いる。社会科学と自然科学の比率はちょうど半々。来年からは自然科学が少し増えるそうだ。各学部を通じての必須科目はロシア語、哲学、マルクス・レーニン主義、朝鮮労働党闘争史、政治経済学といったところ。
学生の自治団体としては民主主義青年同盟がある。そのほかには寄宿舎委員会があって、寄宿舎を運営しているのだけ。
学生は勉強熱心だ。というのは、朝鮮では落第が認められないからである。
学生は次の指導者として全人民の税金によって教育されている。従って怠ける者は教育される資格がない。落第するような出来の悪いものは、別の職場で働いてもらおう。こういうのが根本思想なのである。もちろん日本の学生のように喫茶店通いする学生もある。しかし、入りびたったり、授業をほったらかしてまで喫茶店にいきはしない。そんなことをしていると、人民から批判される。人民が学生を育て上げる責任をもっているからで、批判をうけると退学になりかねない。
そのうえ一つのクラスが、落第生を出してはならないという共同連帯責任のようなものをもっている。落第生がでると、そのクラスの成績に響いてくる。だから、遅れている学生や、講義がのみこめない学生がいると、放課後、全クラスで教えあう。それでもダメなものは退学処分になるだけだ。
学生は人民に養われているのだから、学生結婚は全然ない。とにかく勉強することが学生の義務である。勉強につぐ勉強。これが学生の勤めだ。
授業料は一銭もいらない、それどころか、ほとんどの学生が十五円(日本に直せば約二千二百円 朝鮮の平均賃金の二二パーセント)の奨学金ももらっている。奨学金のない学生は、政府、党機関の重要な地位にある人の子弟だけだ。身寄りのないもの、日本や韓国から引き揚げていった学生には二倍の三十円のほか、下着一切が支給されている。このほか、全学生に学生服とオーバーが配給。いうならば、大学で勉強するのに必要なものが全部支給されているうえに、お小遣いまでもらえるのだから、人民に養われているというのも当然だ。
結婚を考えるヒマもなく勉強するのももっともなことである。のんびりした日本の学生には少々つらいかもしれないが、学生の本分を考えれば当り前のことかもしれない。
入院の体験
新しい年が明けたばかりの一月二日の朝のことだった。
われわれ記者団の一人A記者が、身体の具合が悪いといって、朝食に食堂に下りてこなかった。もともとA記者は、昨年夏に胃かいようを患っており、朝鮮に来てからも、アルコール類を一滴も飲まないほど気を使っていた。
朝鮮人は宴会好きであり、酒好きである。
「マーニペッチャン(いやいや百杯)」
「ソンジュフーミョン(先酒後面)」「ターマシダ(底まで乾そう)」「ジュージョンイーバンソク(酒政十八則)」などという俚諺が数えきれないほどある。だから宴会は乾杯につぐ乾杯攻めだ。乾杯の盃を飲み干さないと、
「底を明けるまで」
といって、みんな立ったまま、その人が盃をほすのを待っている。酒に弱い、S、I、両記者は死ぬほどの思いだったようだが、そんな朝鮮人たちも、胃かいよう後間もないというA記者にだけは、決して勧めなかった。酒好きの彼のことである。強引にさされば、あるいは飲んだかもしれないが、病後とわかると決して無理強いしなかったところが面白い。
余談はそれまでにしてA記者は、少し神経質すぎるほど身体には気を使っており、暮れの三十日にも平壌市にある赤十字病院に精密検査にいって「大丈夫」という保証をとってきたばかりの出来事だったから、われわれとしてもびっくりした。
部屋にいくと、昨夜から一晩中下痢つづきで殆ど眠っていない。熱を計ってみる三十八度六分あった。
「どうしたんだ?」
と聞くと
「どうも、急性胃炎だな。なにか食中毒をおこしたんだろう。東京でもよくやったから、一日ゆっくり寝ておれば直るよ」と当人は至極のんきなことをいっている。ところが、案内役の労働新聞田国際部長が見舞いにきて、
「これは大変だ。すぐ医者に診てもらわんと大変なことになるですよ」
というのである。A記者は、そんな大げさはしないで欲しいと頼み込んだが、もちろん承知するはずはない。十分もしないうちに、お医者さんが看護婦をつれてとんできた。
そのお医者さんは裾の長い白い診察着に、白帽子、白マスク。看護婦さんも同様の白ずくめだ。ちょうど手術室で手術をするような形々しい恰好である。ちょっとど胆をぬかれた。
診察は日本と同じ。脈をはかり、検温して、病状をきいて、――内診。十五分ほどいろいろとA記者の身体をみていたが、眉をひそめて宣言した。
「入院する必要があります」
それは宣言というよりも宣告といった方がふさわしいような、重々しい声だった。当のA記者はあわてた。
「入院なんてとんでもない。東京でこんな症状になったことがよくあったんだから。」あわてたのはA記者よりもむしろわれわれ残りの記者だった。もし入院が長びこうものならば、A記者一人だけを残して帰ることはできない。全員が残るわけにはいかないから、誰か一人が代表となって看病せねばなるまい。帰国状況や一般印象記を打電したあとではあるが、早く帰って連載物を書きたいという意気はみんながもっている。誰が残るか、一同ハタと弱ったものである。
「なんとか入院しないですむうまい方法はありませんか」
としまいには哀願したが、白ずくめのお医者は断固として受けつけない。空しく平壌市内朝鮮赤十字に入院してしまった。
帰国の予定日も間近に迫っていたので、残酷ではあるが、われわれはA記者にかまっていることができなかった。われわれにはまだ、取材したいところが、たくさん残っていたから。
ところが翌三日の夕食後、われわれが平壌ホテルの三階ロビーで、夜の取材の打合せをしていたところへ、ひょこりA記者が帰ってきた。大した病気ではないという赤十字病院の診断を聞いていたものの、余りに早い退院だったから、びっくりした。日本では、「入院」といえば、最低五日か一週間ぐらいはかかる「重病」の場合に限られている。だから、われわれもA記者は少なくとも三日以上は入院するだろうと予想していた。それが入院後三十時間経つか経たないかのうちに退院してきたのだから驚いたのはもっともだ。
「誤診だったのか?」
とある記者が尋ねたが、そう疑ってみるのも無理はなかった。
ところが、A記者の話を聞いて、朝鮮の医療に対する考え方を知り、「なるほど」とあらためて感心したものだ。
おごそかな診断
A記者の話は次のようなものだ。
はじめの診断も、赤十字病院の診断も、A記者が予想した通りの「急性胃炎」だった。だから来診したお医者さんの診断は誤診ではなかった。なぜ、それが分かっていながら入院させたのかというと、「どうして急性胃炎にかかったのか。胃が悪いのではないか。それとも他に故障があったのか」という原因を調べるためだったそうだ。
A記者の経験談によると、入院するとまず風呂に入れられる。風呂から上がってくると、下着、パジャマ、ガウンなどが揃っていて、自分の持ち物を使うことは一切禁止されているという。病院は十二畳くらいの一室に二つのベッド。ラジオ付き。魔法ビンと紅茶があって、これだけは自由に飲むことができる。
診察は四人の医者。それぞれに診察して、その所見を討議しあって病名を診断する。日本のように一人の医者が診察して病名をきめるのとちがって、あくまで合議制だ。その点ではアメリカ、システムに似ているといえよう。
合議が終っても病名は明らかにされない。A記者がしつこく聞くと、「まだ科学的に証明されていないから、教えるわけにいかない」とのこと。それからレントゲン検査、バリュームをのんでX線透視、検便、検尿、血液検査……。うんざりするような検査が次々に行われ、それらのデータが出揃ったところで、もう一度四人の医者の合議が行われ、やっと「急性胃炎」と診断されたという。
「胃かいようの後の胃の回復は順調である。しかし、まだ完全には回復していないし、相当疲労している所見がみえる。こんどの場合は、疲労したところへ不純な食物が混ってきて消化しきれなかったためにおきた急性胃炎である。胃に異常は認められず、またその他の消化器官は正常である。従って胃の疲労をを回復させるため①アルコール類の飲用を止めること②刺激物、とくに辛いものを食べないこと③消化しやすい軟いものをとること………」とおごそかに言渡されたそうだ。
ここに朝鮮の特色があると思う。つまり、朝鮮では、単に 発熱をとりさり、下痢を止めることだけが、医者の務めではないのである。病人の身体はどうなのか、内臓器官はどういう状態にあるのか、ほかに欠かんはないのか、という点まで調べて、診断、処方するというやり方だ。病気をすれば、必ず人間ドックに入れられる、と考えてよい。
ものぐさな日本人ならば、〝何でもない病気〟をするたびに、一々入院させられていたのではたまらない。その度毎に、わざわざ精密検査ではやり切れないと思う。面倒くさい、自分の身体は自分が一番よく知っていると、わめきたくなるに違いない。
ところが、朝鮮では、何でもない病気でも、病気であることには変わりないという考え方だ。病気であるからには徹底的になおさなければならない。二度とかからないように精密検査をして治療しなくてはいかん。ついでに、どこかほかのところも悪くなっていないか。全くわずらわしいほどである。親切すぎるともいえる。しかし、それが医者の義務であるというのだ。医者がわれわれの要求に一顧をも与えず、断固として入院を命じたのも、職務に忠実であったからにほかならない。
日本で、入院とか、人間ドック入りというと、大へんだ。まず金がかかる。勤めも休まなければいけない。それやこれやで、医者が入院をすすめても、おいそれと入院できないのが実情だ。入院するくらいなら、多少時間がかかっても自分で静かに療養したいということになる。
ところが朝鮮では、やたらに入院する。するというよりさせられるという方が正しい。熟練した医者が不足しているからかというと、そうではない。何度も病気になると、診察した医者の職務怠慢になるからだ。そのうえ治療費、入院代一切がかからないから、気楽に入院となるわけ。
朝鮮には健康保険組合とか国民健康保険というのがない。ないのが当たり前で、一切の治療費、薬代はいらない。すべて国家が負担してくれる。
東京都足立区から帰国した金泰治さんは、十二指腸かいようで平安南道中央病院に入院していたが
「私は日本に二十年住んでいたが、入院したのはこんどがはじめてだ。身体が弱って入院したいと思ったことは度々あったが、お金がなくてできなかった。帰国したときは、自分ではなんともないと思ったのだが、無理に入院させられたような次第だ。入院するために帰国したようで心苦しいが、こんなに大切にされて、タダだとは知らなかった。全くすばらしいの一言だ。しかし、それでも、ときどき夜中に目をさまして〝入院費用はいくらかかるだろう〟と考えてハッとすることがある」
と苦笑しながら、礼賛していた。
帰国者のなかで入院させられた人は多い。神経痛で入院したある人などは、
「これっぽっちのことで入院するなんてもったいない。」
と涙をこぼしていた。
若い医者たち
A記者の退院後、われわれは平安南道中央病院を視察して、朝鮮の医療機構について詳しく調べるチャンスを得た。
平南中央病院は平壌市の北にある鉄筋コンクリート五階建。まだできたばかりの真新しい病院だった。供雲梓という四十六才前後の中国の医学大学を卒業した人が院長で、医者七十五人、看護婦百二十人、従業員四百人。ベット数四百、最新設備を誇る病院だけに冷暖房つき。真赤なじゅうたんが廊下いっぱいにしきつめられ、病室は明るいクリーム色。一部屋平均四人で、枕元にはスタンド、ラジオのイヤホーン、電話つきという至れり尽くせりの設備で、手術室、レントゲン室、各種検査室、分娩室なども日本の一流病院と比べて勝るとも劣らないほどだった。とくにここには、蛍光燈とエレベーターがあった。われわれが朝鮮で蛍光燈とエレベーターをみたのは、あとにもさきにもこの病院だけだ。
供院長の説明によると、朝鮮ではは日本の村や町にあたる里、洞に診療所。郡、市に病院、道に中央病院がある。このほか赤十字病院、大学病院、各事業所、機関などにも病院があるが、原則は診療所―病院―中央病院というシステムで、個人の開業医は全然認めていない。
病気をすると、まず診療所の医者がかけつける。そこで間に合わないときには郡、市の病院へ、さらに重患の場合は、中央病院に運ぶ。診療所といっても数人から十数人の医師がいる小型綜合病院だそうで、A記者を最初に診察したのはこの医者だった。この人たちは一地区を担当して、巡回している。この診療所制は徹底しているので、朝鮮にはほとんど無医村がないという。ほとんどと言うのは全里、洞の九十九点何パーセントまでで、まだ百パーセントに達していないためだ。
このような機構になっているから、日本のように「――先生」と指名して、いわゆる〝名医〟にかかることはできない。しかし、中央病院や郡、市病院の先生たちは、随時下級病院に出張して治療や技術指導を行っている。また重病人は直接中央病院に運ばれるなど治療の〝平等〟に気を使っている。
医者は若い。平南中央病院を例にとると、七十五人の医者の平均年令は四十才。そのうちの半数が二十七才から三十才までの開放後新しく医者になった人だという。お年寄のなかには、二人の日本の医大を卒業した人をはじめ、旧京城帝大医学部、京城医専、セブランス医専(京城にあった)などを卒業した日本系の医者もいるが、大部分はソ連、中国の医大を卒業した人。熟練者の揃っている平南病院でこういう数字なのだから、朝鮮全体では、三十才以下の医者が半分以上もいるのではないか、と思われた。実際A記者の入院した平壌赤十字病院の内科の医者も、主任医者を除いて、ほとんど三十才前の若い医者だった。朝鮮にそんなに医者がいるはずないと信じない人のために、付けくわえておく。
予防医学に重点
朝鮮の医療政策は、治療よりも予防医学の方に重点を置いている。まず病気をしないことだ。
平壌市外城区橋口洞のアパートに入ったる帰国者がこう語った。
「うるさいと思うほど医者が訪ねてくるんですよ。食慾はありますか、便は快適ですか、セキはしませんか、と。いいえ、全く調子がよろしいといっても、ノドを調べたり、眼をみたり、まったく皇帝なみの扱いなんです。これは、われわれが帰国者だから特別扱いをしているのかと思って隣りの人にきいたら、この家もやっぱりそうなんです、
一体、どういうわけで、こんなにしつこいのかと尋ねたら、診療所の医者は担当地区から病人を出すと減点されて月収に影響するというんです。だから、担当地区から病人がでないように、暇をみてはぐるぐると巡回しているんですネ」
こんな制度があろうとは、実はわれわれは予想もしていなかった。朝鮮といえばむかしから文化が遅れている。とくに医学は遅れていて、天然痘やライ病が多いと思っていた。事実、解放直後や朝鮮戦争直後には、風土病や伝染病がまんえんして困ったそうだが、防疫事業や治療設備の拡大、保健幹部の養成、医療品の生産、供給を重点的に行って、現在の制度を実施できるまでに漕ぎつけたのだそうだ。
朝鮮ではまた医薬分業が確立されている。医者は診察して処方箋を書くだけ。薬はすべて薬剤士が調合するといった具合。従ってかつての日本の医学とは全然違っているわけだ。面白いことは漢方医が、独立の学科として医科大学や中央病院にあることだ。近代医学をとり入れながら、伝統の漢方医学も同時に発展させようというわけだがなかなか、アジア的なやり方だと思った。
このように保健医学の面では非常に発達した制度をとっているが、これに伴う弊害もおきているという。それは、人民大衆が診療所を利用しすぎることと薬を無駄使いすることだ。
なにしろ、一切無料だから、少し身体の具合が悪いとすぐ、診療所にいく。折角投薬しても、一、二回しかのまずにほったらかす。これは非常に無駄なことであると、政府幹部が考えこんでいた。
われわれは医学については内外漢だから、朝鮮の医学水準がどのくらいのものか、日本よりも高いかどうかについては分からない。しかし医学が経験を必要とする分野であるのに朝鮮の医者が若いこと、日本よりも伝統が浅いこと、などから日本の水準にはまだ及びつかないと思われる。しかし、その水準はともかく、医療費無料、予防医学などといった朝鮮の制度は先進国をしのぐものといえるようだ。
至れり尽くせりの孤児の待遇
社会主義国家だけに、社会福祉は行きとどいている。
われわれは実際に養老院を見学しなかったが、この国では男六十才以上、女五十五才以上は原則として労働禁止。栃木県から引揚げた五十五才の婦人が「日本でバタ屋として働いていたから、帰国してからも働きたいと申し出たところ、朝鮮では五十五才以上の女性が働くことはまかりならんと拒絶されました。まだまだ働けるのに」とこぼしていたが、余程、その人を必要としない限り、働かせない。
その代わりに、いわゆる停年になるときの月給が、死ぬまで毎月支給されている。そういえば暖かい冬の日に、平壌の大同江河畔のベンチに腰かけて、日なたぼっこをしている老人たちの姿をよく見掛けた。
孤児に対する待遇は至れり尽くせりだ。
三年前の朝鮮戦争を戦ってきたから、朝鮮には孤児が多く、初頭学院(人民学校まで)と遺子女学院(初等中学、高級中学クラス)とに収容している。
われわれは国防省が管理している平壌郊外の万景台革命者遺子女学院を参観したが、ここは国防省の所管だけに、生徒たちは、かつての日本の幼年学校生とのような軍服じみた制服を着ていた。一目で孤児と分かるためだそうだ。
この学院には約千人の孤児がおり、三十畳くらいの部屋に十二人が生活していた。孤児たちの衣食住や学用品はもちろん国家で無償給付。お小遣いも一ヵ月二ー三円支給されている。
このような初等学院や遺子女学院は各道、郡、市などにあってそれぞれ教育省、通信省、各道などが管理しているので、全体の正確な事は分からなかったが、とにかく、革命や戦争の犠牲者だけでなく両親が病死したものも含めて、すべて孤児になった子どもが収容されているという。両親の許を離れて、兄弟だけで帰国した東京出身の朝鮮人子弟も、遺子女学院に入れられていた。
どうして高校クラスまで一般の子どもと区別するのかというと、普通の学校に分散していれると、親のない子としてひがみやすくなることと、分かれていると面倒をみるのに不便だからだ。
朝鮮には里親制度がない。よほど近い親戚でないと、孤児を引取って育てることはできない。全部、これらの学院に収容されるのである。
だから、学院の生徒たちは大切にされる。服装が一目でそれと分かるようになっているのもそのためだし、大学に進学するときは最優先という恩典がある。孤児たちが生き生きとして朗らかなのも、こういった制度のおかげだろう。社会福祉は、社会主義国家の方が進んでいる。そう思わずにはいられなかった。