『北朝鮮の記録 訪朝記者団の報告』文化・芸術・スポーツ 共同通信社社会部 村岡博人

書籍/映像紹介

 本稿は、1960年に新読書社から発行された「北朝鮮の記録 : 訪朝記者団の報告 」を紹介しています。帰国事業当時「38度線の北」同様、大きな影響を与えたと思われる訪朝記事です。現段階でのコメントはつけません、一つの歴史的資料としてお読みください。

(旧サイトより誤字修正して転載:http://hrnk.trycomp.net/siryo.php?eid=00017、http://hrnk.trycomp.net/siryo.php?eid=00018)

文化・芸術・スポーツ

共同通信社社会部 村岡博人

『北朝鮮の記録 訪朝記者団の報告』P171

舞踊「はえあるわが祖国」

 かたときも忘れざりし
 あざやかな朝の国、
 松の木つねに青きたらちねの山川よ!
 夢にもうつつのごとたまらなく懐かしかったわが祖国、
 人民の意思でたてられた
 ああ、朝鮮民主主義人民共和国!
 
 舞台に向かって右手の幕前で〝序詩〟の朗読をしているのは〝半島の舞姫〟として日本にも知る人の多い舞踊家、崔承喜さん。それに人民俳優の黄澈氏と人民賞受賞者の功勤俳優金完羽氏だった。崔承喜さんは眼鏡をかけ、えんじ色のビロードのような朝鮮服に身をつつんでいた。戦争で片腕をなくしたという黄澈氏の上衣の右袖の先がポケットにつっこまれているのも印象的だった。

 逢いたかった同胞、兄弟
 ふたたびこんなにめぐり合い
 なんとうれしく幸福なことよ!
 だが、いかに忘れられよう
 われらのほこらしい革命の道程にひそむ
 過ぎし日の血のにじむ闘争の物語を、
 そもだれが
 帝国主義の鉄鎖でこの国の人民をしばりあげたか、
 愛する国土を奪われ
 北は豆満江、南は玄界灘をわたって
 散らぬ他国へ行かねばならなかった
 ああ、忘れられぬ怨みの歳月よ!
 いまなお涙のなかにいたましく聞えくる鉄鎖の音――

 三百余人のオーケストラの伴奏で、一千数百人の歌う合唱組曲「祖国」が荘重にひびくなかに、幕があがり、舞踊「暗黒の中で」がはじまる。舞台は日本帝国主義の支配下で、自由と光明を待ちわびた朝鮮人民の姿を描く。
 これは平壌の朝鮮人民軍体育館で日本からの帰国者を歓迎して公演された音楽舞踊叙事詩「はえあるわが祖国」の開幕の様子だ。この詩は年代記的に朝鮮の歴史を歌ったもので、舞台は幕なしに転換していく。舞踊、合唱、管絃楽、詩など色々な特性をもった表現形式が有機的に統一されすばらしい芸術的アンサンブルをなしているのだ。朝鮮で開花発展した民族文化の集大成といってもいいだろう。最前列の席にすわってみていたわれわれもそのすばらしさにおしみなく拍手を送った。
 「日本に持っていったら大変な人気だろう」
 「いやこれなら世界中どこの劇場にもっていってもうけること間違いなしだ」
 「残念ながら今の日本には個人的に秀れた芸術家はいるけど、こんな集団芸術といったようなものはとうてい出来ないね」
 感想こそ思い思いだったが、同行記者みんながこの作品を生んだ背景について、日本にないものを感じたという点では共通していた。
 この作品は多くの作曲家、舞踊家、指揮者、舞台芸術家などが集まって創作したもので、公演には学生や職場のサークルなどから三千人が参加していた。それはもう個人の力による創作ではなく、ここ十数年の間に朝鮮で蓄積された芸術の成果を集約的に表現したものだといった方が適切だった。われわれは朝鮮に入って何日もたたないうちに、この感動的な舞台をみせられたので、どうしてこうした作品が生まれ、洗練され調和のとれた演奏や舞踊が生まれるのかを、その後自然に心掛けて注意するようになっていた。この疑問に対する解答は工場や農村のサークル活動の中にみつけることが出来た。
 金日成広場にめんして立てられた政府機関の合同庁舎で、われわれは日本でいえば文部大臣にあたる李一郷教育文化相に会う機会があった。日本語の百科事典のおいてある〝相室〟で李さんは「もうすっかりわすれてしまった」といいながらも上手な日本語で話してくれた。その時聞いたことだが、現在朝鮮には音楽サークルが一万五千八百九十五あって参加人員は約五十九万人。舞踊サークルは一万四千七百十六あって参加者は約二十八万八千人、演劇サークルは一万八百九十九で十四万八千人が参加しておりこの他にも文学サークルその他があるとのことだった。人口約一千万人、東京とほぼ同じくらいの人数に対してこれだけのサークルがあるということはちょっと日本では想像しにくいことかもしれない。朝鮮では芸術家が大衆的な基盤の上で育てられていた。正月に訪ねていった平安南道の立石農業協同組合で、あるいは平壌紡織工場で、われわれはたくさんの専門芸術家の卵に会った。彼らは技量がのびるに従って道立劇場に入り、さらに国立劇場に選ばれてゆく、中には専門学校、例えば舞踊学校、音楽学校といったところに入学を許され、専門芸術家になってゆく人もいた。
 あの三千人による音楽舞踊「はえあるわが祖国」がたった三回の合同練習で、すばらしく調和のとれたいきいきとしたものになっていたのは、こうしたサークルで基盤の作られてた芸術家によるアンサンブルだったからにちがいない。部分品が標準化されている大きな機械のように、全国のサークルで育てられてきた若い朝鮮の芸術家たちは、一つの指揮棒を中心にまとまって、美しい演奏をきかせてくれ、流れるような舞踊をみせてくれたのだった。
 朝鮮の集団芸術のすばらしさがどこから生まれてくるかという疑問を解く一つの鍵は、芸術の大衆性ということだった。どこから連れてこようと同じような水準の音楽家、舞踊家がいくらでもみつかるということは集団芸術にとって大切なことにちがいない。

映画「春香伝」

 職場のサークルで創作活動が盛んだったことも印象深いことだった。例えば平壌紡織工場でみせてもらった舞踊劇にこんなのがあった。第一景は、百貨店の売場、織物をあれこれ品定めしているお客さんが売り子に対して生地の質や色がよくないと訴える。ちょうどそばにいた二人の女工さんはいたたまれなくなって逃げ帰る。工場ではあれこれと議論がおこる。はじめはお互いに責任のなすりあいなどやっているが、最後にみんなで協力してやれば品質も向上出来るという確信をつかんで、みんな明るい表情で職場に向かうといったような筋書だった。
 一九六十年の朝鮮は第一次五ヵ年計画を短縮達成し、第二次五ヵ年計画にとりかかる前の準備期間、正式にいえば緩衝期だ。この期間の主な目標は人民生活の向上と農業の機械化、それにすべての工業部門で労働生産性をたかめ、施設の拡張によらないで生産の増加を獲得することだった。紡織工場のサークルがみせてくれた舞踊劇は、この緩衝期の目標をテーマとした創作劇だったのである。清津でみた金策製鉄所サークルの創作劇にしても立石農業協同組合できいた歌にしてもすべて生産と生活に結びついたところで創作がおこなわれていることがはっきりわかった。
 一九五十六年四月、朝鮮労働党の第三回大会が開かれた頃には、金日成首相も中央委員会活動の総括報告の中で「社会主義リアリズムの方法に立脚し、自然主義や純粋芸術などには断乎として闘え」とうったえながらつぎのようにのべねばならなかった。
 「わが文学者、芸術家は、いまなお労働者たちの創造的労働や現実生活から遠くかけはなれている場合が少なくない。こうしたことは、かれらの創作活動にきわめて否定的な作用をおよぼしている。作家や芸術家たちがひんぱんに工場や農村を訪ねまわってはいるものの、多くの場合そこでくりひろげられている生活の本質を洞察しえず、ただ皮相的な現実にのみとらわれている。こうしたことはかれらがわれわれの社会発展の本質を知らず、またわが党の政策をはっきりと把握していないためなのである。文学者と芸術家たちがマルクス・レーニン主義によってしっかり武装し、人民大衆の生活のなかにもっと深く入り込んでいくならば、かれらはわれわれの社会の典型を正確にとらえることが出来るだろうし、したがってかれらの作品はわが人民の期待と要求をみたしうるであろう」
 いまでは職場の芸術家たちが、自分らの生活に取材して創作しているように、専門芸術家たちもこぞって農村や工場に出かけてゆき、労働者の現実生活にふれながら創作活動を行っている。国立舞踊学校の教授をつとめている人民俳優の崔承喜さんも、一九五九年の暮には南浦の製錬所やガラス工場に指導にいったと語っていた。生産生活と結びつかない文化を朝鮮でみつけることは出来ないといってもいいだろう。
 戦争が終わってからたった六年という短い期間に立派な民族文化が開花したことについて、作家同盟の委員長であり最高人民会議常任委員会の副委員長でもある作家の韓雪野さんはこんな説明をしてくれた。
 「解放後十五年、しかもその間に戦争の大きな被害を受けながら、「はえあるわが祖国」のような立派な集団芸術が何故出来上がったか、歴史的にみなければわからないだろう。それは長い間外国人の支配下で窮乏にたえながら、人民自身が生活を描いた人民文化の伝統があったからこそ出来たことなのだ。例えば李朝時代のように政治的にすたれた時代でもすぐれた文化が残っている。貴族の文化など支配者の文化でなく人民の文化だったからだ――」
 もちろん朝鮮労働党と朝鮮民主主義人民共和国政府が戦時中でも芸術家をとくに保護したこともみのがせない事実だ。崔承喜さんの話しだと、戦争中食料の少ない時でも、芸術家は歌ったり踊ったりするとお腹がすくだろうといって、公演のあるたびにおそばなど〝おやつ〟が特別に配給されたそうだ。
 モランボン(牡丹台)劇場で韓雪野さんの原作になる〝ヒョンジェ(きょうだい)〟という演劇をみた時、もらったプログラムの表紙に「共産主義典型の創造は、われらの芸術の高尚な任務だ!」ということばが刷り込まれていた。このスローガンでもわかるように朝鮮では社会主義建設のために芸術家のはたす役割を非常に重視している。だからこそ優遇もするわけだ。しかしそうかといって宣伝臭の強い作品ばかりが生まれているわけではない。この芝居などはまだ登場人物が類型化され、善玉と悪玉が強調されすぎるようなきらいもあったが、一般にはそう教化宣伝のにおいの強いものばかりではなくなっているようだった。
 映画についていえば崔承喜さんの主演した「沙道物語」(一九五七年)のように侵略者を撃退する千七百年前のものがたりを舞踊化し、純愛のエピソードを織り込んだもの、古典の老女物語「沈清伝」(一九五八年)などにつづいて昨年は貞女物語「春香伝」が天然色フィルムで作られていた。南朝鮮でも映画化されているこの古典が、北朝鮮ではどのように解釈されているか興味深かったが、身分のちがう男女が李朝末期の強烈な封建制に抵抗してつらぬき通す純愛の物語として、鼻につくような社会主義の宣伝臭全くなかった。この映画について、われわれの案内役についてくれた朝鮮人記者の一人は、「もし南北朝線を統一するための自由選挙が行われることになり、お互いに選挙運動をやるようになったら、演説などやめてこの春香伝の映画だけもって廻ればいいという話があった」といっていた。昨年の夏この天然色映画春香伝が封切られた時、平壌の映画館の前には列が出来たという話もきいた。現在朝鮮には七百五十五の映画館があり、昨年は一人平均十三回映画をみている。これらのことは最近の朝鮮の映画が高い娯楽性の中に社会主義的な教養性を持っているということを意味してはいないだろうか。
 李一郷教育文化相は芸を批判する三つの尺度として、世界観の問題、大衆に対する教養性、芸術的技巧の三つをあげていた。そしてサークルでは世界観の問題が一方的に強調されがちで、専門家になると技巧に重点がおかれて世界観の反映のしかたが問題になりやすいとそっちょくに語っていた。生産生活に結びついた芸術といってもそれは決してマルクス・レーニン主義の世界観をむき出しにしたものばかりではないのである。

新聞・ラジオ

 平壌の町を歩いていて珍しく感じた風景の一つに新聞掲示板があった。バスの停留所ごとに四頁建ての新聞をひろげて両側からガラスではさんだ大きなケースが目の高さに立っているのである。朝鮮記者同盟の委員長玄弼勳氏の話では新聞用紙の不足から発行部数が需要に応じきれないため、こうしてみんなが読めるようにするということだった。農村では作業の間の休憩時間に集まって、一人が読むのをみんなが耳を傾けて聞いていた。文化水準の向上にともなって新聞をはじめとする出版物や、ラジオに対する要求が日ましにたかまっているようだった。
 有力なのは朝鮮労働党の機関誌「労働新聞」と、政府の機関誌「民主朝鮮」の二つの全国紙、あとは平壌新聞とか咸鏡北道日報といった地方新聞と、農民新聞、文学新聞、民主青年など各社会団体の機関紙だった。
 労働新聞の発行部数は三十万部で配達は全部逓信省が引受けている。
 党の機関誌だからその社説も権威があるわけで、朝鮮における唯一の通信社である朝鮮中央通信社もよくこれを引用していた。地方新聞が一日おくれで労働新聞の社説を転載しているのも何回かみかけた。そこには日本人記者団が朝鮮から東京へ電報を打つ順番をきめるのに血眼になったり、自分だけきいたことは出来るだけかくそうとするような無益な競争はなかった。
 ちょうど平壌駅前にレンガ造りの出版センターを建設中で、一九六〇年中にこれが完成すればドイツ製の輪転機を入れ新聞、通信、出版社がみんなここに集るということだった。新聞社の印刷工場は新聞以外の雑誌、単行本まで印刷しており、例えばこれまで朝鮮最大の出版工場であった労働新聞出版印刷所では、一九五九年五十種の新聞雑誌のほか五百万部の単行本を印刷していた。
 新聞や雑誌、ラジオは国民の教養のためのテキストになるわけで、従って記者の地位も〝人民の教養者〟として非常に高く評価されていた。東欧の社会主義国から視察にきたジャーナリストの一人が、「朝鮮における記者の待遇はすばらしい、国にかえったらぜひ真似をさせるようにしよう」と感想をもらしていたという話もきいた。実際記者には住宅のほか毎年一着の夏服と一足の靴、二年に一着冬服とスプリングコート、三年に一着のオーバーなどが無料で支給されており、われわれを案内してくれた記者も朝鮮では目立って立派な服装をしていた。記者が優遇され尊敬されているということは、青年の中に記者を志望するものが多いことでもわかった。昨年も専門的に記者を養成する文学大学などは競争率が十五倍になったとのことだった。
 もちろん新聞やラジオが人民の教養のためのものだからといって、むずかしい政治論議やお説教めいた解説ばかりで埋めているわけではない。「平壌新聞」など地方紙には広告部があって、広告料をとってデパートや映画館、劇場などの〝お知らせ〟を掲載していたし、青年同盟の機関誌「民主青年」など「恋愛・結婚・家庭」をめぐるさまざまな投書を二ヵ月にわたって連絡したこともあった。職場の若い女性を好きになったある労働者が、長い間一緒に生活し、子供もある自分の奥さんのことをきらいになり、「気がきかない、背が低い、みにくい」などいろいろな理由をならべたてて離婚を申し出たのが発端で、さまざまな意見と批判がよせられ、またそれに対する反批判などがよせられたものだった。
 ラジオでも、夜仕事の終った時間や正月などにはダンス音楽を流していることが多かった。
 日本の統治から解放された直後には二百三十万人以上の文盲がいたという朝鮮では、その後盛んな成人教育のおかげで一九四九年には文盲がなくなったという話だったが、まだ読み書きの不自由な人は多いらしく、ラジオのはたす役割はそうとう重視されているようだった。政治的関心の高さにもよるのだろうが、一九六〇年の午前零時から金日成首相の新年の挨拶が放送された時など、ホテルのウェイトレスまで仕事の手をとめ、何かメモをとりながらこれに聞き入っていた。まだ一家庭に一台というほど受信器は出まわっていないので、農村、工場などでは協同組合で有線放送施設を作っているところが多かった。
 朝鮮の文化について語るときぬかせないものに大衆舞踊がある。これは社会主義を建設している朝鮮人の生活から切りはなすことの出来ない休息の一形式になっていた。毎日仕事が終わると人々はクラブや舞踊場に集まって音楽と舞踊を楽しむのを日課の一つにしており、休日になると公演や遊園地に数十人から数百人もの男女があつまって大衆舞踊をおどる。
 われわれも清津の港で、招待所の前であるいは平壌駅前で、工場で、農村で――いたるところで踊っているのをみ、仲間に入って踊ったりしたものだ。普及している大衆舞踊は三十種類ぐらいあってそれが次々とくりかえされる。

 オンヘヤ
 ヘヘヘ オンヘヤ
 今年の麦作 
 豊年だ オンヘヤ
 君も僕も オンヘヤ
 麦打ちすまして オンヘヤ
 復旧建設に オンヘヤ
 競い立て オンヘヤ
 ヘヘヘ オンヘヤ

 昔から朝鮮人の間に伝わってきた、豊年祝歌オンヘヤのメロディは、あちらこちらで聞かされた金日成将軍の歌とともに今でも忘れられないものとなっている。踊りの歌では〝オンヘヤ〟のほかに〝フンラリ〟、〝勇進歌〟〝千里馬トラクター〟〝親善のワルツ〟などがとくに人気があるようだった。
 メーデーや八・一五解放記念日のような祭日の夜には、平壌の金日成広場をはじめ全国各地で大規模な大衆舞踊会が開かれる。とりわけ金日成広場は無数のイルミネーションで飾られ、サーチライトの光と祝砲の放つ花火が夜空に花園をなすその下で、数万の群衆が夜のふけるまで踊り続けるとのこのだった。

体育・スポーツ

 舞踊や音楽と同じように大衆化され、社会主義建設のために不可欠な要素となっているものに体育とスポーツがある。
 毎朝午前八時、朝の冷たい空気をふるわせて元気な声がホテルの部屋の窓から飛び込んでくる。
 「ハナ、ツー、セー」(一、二、三) ホテルの従業員たちの朝の体操の時間だ。窓から下を見下してみると、食堂で働いていた若い女性も、荷物をはこんでくれたボーイさんもみんな元気いっぱいに手足をのばしている。
 中国でも午前十時、通信社「新華社」を訪問した時、一斉に部屋を出てきた人々がなわとびや駆け足をやっているのをみた。ホテルから飛行場に通ずる道でまだ薄暗いうちから走っている若い男女をみかけたこともあった。
 社会主義の国はどこでも体育を奨励しているが朝鮮もその例外ではなく、体育が積極的な休養として生産や学習と結びついているところにその特色があった。
 朝鮮では内閣のもとに国家体育指導委員会が設けられ、その下部組織が全国各地に網の目のように広がって、体育の大衆化のために指導を続けている。政府は昨年、全国民が一日一時間以上体育運動をしなければならないという規定を作った。ホテルの窓から号令がきこえてきたのはその一つの現れだった。さまざまな職場で働いている人たちのために、体操も人民体操、生産体操、坐って仕事をする人のための体操、立って仕事をする人のための体操といったように考案されていた。しかしラジオの利用がまだ中国ほど十分には行われていないので、現在では「人民体力検定制度」が体育の大衆化のために最も主要な役割をになっていた。
 ソ連の「G・T・O」中国の「労衛制」にひってきするのが朝鮮の「人民体力検定制度」だ。一口にいえば戦争中の日本にあった「体力章検定」のようなものだが、戦争のための〝体力増強〟を目的とした日本のそれと、社会主義建設のための労働人民の健康増進を目標とした朝鮮の体力検定制度では、目的において著しいちがいがあった。
 人民体力検定制度は内閣の決定にによって作られたもので、成年級一級、二級、少年級の三段階にわけてそれぞれ標準記録が決められている。現在行われているのは一九五七年に制定されたもので、成年級一級を例にとってみると、女子は十六才以上二十五才と二十五才以上三十才以下の二段階にわけており、男子は十六才から三十才、三十一才から三十五才、三十六才から四十才、四十一才から四十五才の四段階にわけて十四種目について標準記録が決められていた。
 例えば十六才以上三十才までの男子は人民保健体操とスキーで一〇キロメートルの疾走が出来るほか次の記録をもたねばならない。懸垂九回、一〇〇メートル十三秒八、一五〇〇メートル、五分二〇秒、走巾跳四・五メートルまたは走高跳一・三五メートル、手投弾(七〇〇グラム)投げ三八メートル、距離泳二〇〇メートル、一〇〇メートル速泳二分二〇秒、行軍(八キロ)六〇分、円盤投げ二二メートル、槍投げ二八メートル、砲丸投げ八・三メートル。これを突破するのはちょっとした努力がいりそうだ。
 労働者も農民も働きながら練習するのだからこれらの種目を一ぺんにパスすることはなかなかむずかしい。だから今月は走る種目、来月は跳ぶ種目といった調子で主目標をきめて一つ一つとっていく。工場単位、農村単位、学校単位に体力検定小委員会というのがあって、ここで各個人の日常の成績をみており、標準記録を突破するようになると郡の委員会に報告してくれる。郡の体育指導委員は報告をうけると現場へ出向いていって審査する。少年級と成年級二級の場合は郡の体育指導委員が資格を与えることが出来るが、成年級一級の場合は道(日本の県にあたる)の体育指導委員会に審査を依頼する。
 成年一級の上にも無資格選手、三級選手、二級選手、一級選手、スポーツ名手、功勲体育人というランクが出来ている。スポーツ名手は一九五九年末まだ四十五人しかおらず、功勲体育人は制度だけで該当者はいなかった。名手をのぞいて資格が有効なのは二年間で、それ以上たつとまた検定をうけかえねばならない。検定はいつでもうけられるようになっているが、年に四回、四、六、八、十月には「人民体力検定週間」というのが設けられ、大衆的規模で検定を行なう時がある。各種目別の選手大会と検定とも密接な関係がある。選手権大会に出場するのは射撃、通信競技などの例外をのぞいてみんな成年級一級の合格者でなければならず、大会での成績がよければその場で名手の資格を与えられるようになっていた。
 大衆化の基礎のうえで優秀な選手がどんどんと育っていることは、舞踊や音楽家の場合と同様だ。
 陸上競技の一九五九年度最高記録表をみると男子一五〇〇メートル三分五七秒八。円盤投げ四二・四六メートル、女子一〇〇メートル十二秒四、二〇〇メートル二四秒八などがめぼしいところ、もっぱらチーム・ゲームの方に重点がおかれているのがサッカー、バレーボールなどが世界的水準に達しているようだった。
 朝鮮にはオリンピック委員会に属する各種目別の委員会のほかに六つの体育協会があった。労働者の組織する「鋼鉄」、農民の「豊年」、学生の「千里駒」、人民軍の「二・八」、交通運輸部門に働く人達の組織する「機関車」、それに日本の警官にあたる内務省員の組織する「稲妻」だった。これには一万二千余の初級体育団体がもうらされているとのことだった。
 国際試合も盛んでソ連をはじめとする社会主義国ばかりでなくフランス、アラブ連合、イラク、セイロン、インド、インドネシアなどととも親善試合をやっており、昨年一年だけで六十の外国チームを迎えたといっていた。
 朝鮮のスポーツといえばその昔ベルリン・オリンピック大会のマラソンで優勝した孫選手を思い出すが、最近の様子について国家体育指導委員会の人は「南朝鮮の新聞によるとギャングの頭目になっているそうですよ」と顔をしかめて語っていた。
 この国には日本のようなプロスポーツはない。いくらすばらしい技量をもっていても日本の学生野球や実業団野球選手のように誘惑の手がのびるということもない。ここではスポーツと体育はみるものでなく、自分自身がやるものであり、明日の生産と結びついたものだった。

オリンピックについて

 アジアの先進的スポーツ国である日本について、朝鮮のスポーツ界はとくに関心をもっているようだった。
 四年後には東京でオリンピック大会が開かれることになっている。この大会のもつ意義としては、アジアで初めての大会ということがよく強調されている。その意味では日本が南北朝鮮の関係をいかに調整するかということは中国と台湾との関係をどうするかという問題とともに、大会の成否をきめるカギとして世界中の注目を集めている。これについて朝鮮オリンピック委員会の委員長を勤めている洪命熹副首相は、日本国民が帰国問題でみせたと同じような援助をよせることを希望していた。
 朝鮮チームのオリンピック大会参加について、国際オリンピック委員会(IOC)は中国の場合と異なった態度をとっている。中国の場合は二つのオリンピック委員会を認め、二つの代表団を参加させる方針だが、朝鮮については一九五七年のソフィア総会でも一九五九年のミュンヘン総会でも単一チームを構成して参加するよう勧告しているからだ。朝鮮のオリピック委員会はこの勧告にもとずいて、再三〝韓国〟側に会談を開くよう申入れ、場所として中立国香港まで提案したが、〝韓国〟側は応じなかった。これはもし単一チームを作る話し合いがまとまらなかった場合はさきに加盟している〝韓国〟だけが参加権を得ることになっているためで、なんとかかんとか理屈をつけて引延しをしているのだった。両方が統一チームを作ることに熱心だった東西ドイツの場合と事情がちがうわけだ。
 洪命熹委員長は、日本に希望することの第一として、IOCの方針を積極的に支持してほしいと述べていた。これは日本が次期大会の主催地であり、IOCでの大きな発言権をもっているばかりでなく、各種競技連盟でも重要な地位を占めているという評価にもとずくものだった。日本が南北朝鮮の代表を招いて単一チームを作るための会談を開く努力をするならば、会談の場所など一切の むずかしい条件をつけずに参加したいともいっていた。
 だから日本がローマ大会のサッカー予選で〝韓国〟だけを相手にしたことについては強い不満をもっており、洪委員長も「朝鮮が東京大会に参加するようになるためには、日本が南朝鮮だけを相手にすることをやめなければならない」とはっきり指摘していた。
 また「単一チーム構成の問題以前に日本が朝鮮チームの入国を認めることが必要だ、お互いの誤解をとくためにもまず手はじめとしてスポーツの相互交流をやろうじゃないですか」とも語り、「日本側が出入国を認める場合には直ぐにもサッカー、バレーボール、バスケットボールなどのチームを送る用意がある。日本側からがサッカー、バレーボール、バスケットボール、卓球、レスリング、ボクシングなど二十種目のチームを受入れることが出来る」と具体的な種目名まであげていた。
 スポーツに国境なしと常々いっている日本でありながら朝鮮とのスポーツ交流だけは行われたことがない。洪委員長も「今年はスポーツを含めた朝、日の文化交流をやりたいですね」といっていたが、国交が回復していないというだけの理由で、スポーツばかりか一切の文化交流まで禁じられている不合理な現状は出来るだけ近い将来に改めねばならないことだ。この問題については舞踊家、崔承喜さんもこんなふうにいっていた。
 「私は日本にくるようにという交渉をもう五回ぐらい受けました。お国では私たちがいける状態が出来たのでしょうか。われわれの方はあらゆる国と文化交流を望んでいます。日本からみえた文化人とも三回ほど共同コミュニケを発表したことがありますが、かんじんの文化交流はまだ実現していません。しかし在日同胞の帰国がはじまって、この希望は現実的なものとなってきたと思います。帰国問題と同じように文化交流の問題も相互の努力できっと実現することでしょう」
 崔承喜さんといえば、連日警戒警報だ、防空演習だいうさわぎだった昭和十七年の暮、帝劇に初出演、マチネーを加えて二十四回という世界舞踊界でも初めてといわれる長期独舞公演を行った時のことを思い出すオールドファンも多いことだろう。あの時「草笠童」「侍の子』などを踊った崔勝子ちゃん(朝鮮名安聖姫さん、承喜さんの長女)も今では立派に成長し、平壌の舞踊学校で母親とともに創作活動を行っている。自分の生まれたところに一度きてみたいと思うのも人として自然な夢ではないだろうか。
 朝鮮と日本のスポーツや芸術の交流をはばんでいるものがなんであるかは非常に明白になっている。それは日本政府が〝韓国〟にいわれのない気がねをして、朝鮮人の入国を認めないから実現出来ないのだ。スポーツや芸術だけではない、あらゆるものにさきがけて行われるべきジャーナリストの交流さえはばまれているのが現状だ。この状態をあらためてほしいという気持ちは政治的な信条をこめてみんなが一致していることではないだろうか。
 崔承喜さんを十六才の時からわが子のように世話した舞踊家、石井漠さんは語っている。「ボリショイ・バレー団の公演に岸首相夫妻等をお招きした時のことだった。岸さんは急に思い出したように〝崔承喜さんがくるとかいう話どうなってますか〟と話しかけてきた。芸術に国境はないというけれど、岸さんでさえ、個人的にはこういう関心をもっているのになぜ呼べないんでしょう。私もあちらへよばれているしぜひ崔承喜の日本公演も実現させたい」みんなが力をあわせれば石井さんの願いがかなうのもそう遠い日のことではないかもしれない。

北朝鮮の記録 訪朝記者団の報告