本稿は、1960年に新読書社から発行された「北朝鮮の記録 : 訪朝記者団の報告 」を紹介しています。帰国事業当時「38度線の北」同様、大きな影響を与えたと思われる訪朝記事です。現段階でのコメントはつけません、一つの歴史的資料としてお読みください。
(旧サイトより誤字修正して転載:http://hrnk.trycomp.net/siryo.php?eid=00017、http://hrnk.trycomp.net/siryo.php?eid=00018)
農村を訪ねて
毎日新聞東京本社社会部 清水一郎
夢に見た幸福
砂っぽこりの多い野や山。草木もロクに生えていない。点々と見える草ぶき屋根の貧しい農家、壁はいまにも崩れそうな泥の壁。米も麦も、そしてヒエ、アワさえも満足にとれない。一体何と寒々としたところだろう――これがむかしの北朝鮮の農村の印象だったという。
土の色はいまでも変りはない。全体的に黄土がかった灰色の土地、ところによっては赤茶けた田畑が見渡す限り続く。肥沃な平野という感じはまずどこにも見受けられない。しかしいまの北朝鮮の農村にはカワラぶきのしっかりした家がどんどん建っていた。壁は白壁かレンガ造り。田も畑もよく耕されているし灌漑の掘割りが方々に開かれていた。農民たちに会ってみたら口々に「働くのに張り合いを感ずる。幸福だ」との言葉だった。恐らくそれは真実の声だろう。全体として北朝鮮の農村は日本の農村の豊かさにまだ及ばないが、ともかくいまの北朝鮮の農業はかってない発展をみせていると感じた。貧しかった農民たちにとってそれは生まれてはじめての繁栄であり、夢に見た幸福がいま眼の前に実現されたところであろう。
立石農業協同組合
一月二日、平安南道文徳群立石農業協同組合を訪れた。首都平壌市から百キロ近く奥地に入ったところにある。途中の道路は悪くない。若草色の車体をしたソ連製の乗用車〝ボルガ〟は時速六十キロから時には七十キロぐらいで飛ばす。沿道には農村はいくらもあるのだが、北朝鮮側がわざわざここにわれわれを案内したのは、ここが典型的、模範的な農業協同組合だからということによる。
正午近く、村に着いた。村長さんともいうべき同農業協同組合管理委員長、姜仁学さん(五〇)はじめ数人がわれわれ待ちくたびれていた。朝方、見学日程の打合せやら交渉やらがひっかかり、出発が予定より一時間以上も遅れていたのである。さっそく組合の会議所に使われている細長い、あまり大きくない建物に集まってもらい、姜さんから組合に着いての説明をきくことにした。村から出席したのは姜さんのほか管理副委員長、梁昇鎬さん(三五)、簿記長、金承銅さん(三五)、勤労者学校教師、白容植さん(三八)、農業第二作業班、崔応漢さん(三四)、同第十一作業班、朴竜女さん(四〇)、同第八作業班、崔栄子さん(二〇)と、もう老年で非組合員になった金泰湜さん(六十一)の七人だった。
立石農業協同組合がある付近一帯は、むかしからヨルトウサムチョルリ(十二、三千里)平野と呼ばれる平地である。この組合は平地のほぼ中心部にあり、耕地面積は千五十町歩、組合員は千五百八人(男六百二十一人、女八百八十七人)いる。
解放(一九四五年八月十五日)以前にはこの耕地を三十七人の地主が所有していた。いずれも朝鮮人で日本人の地主はいなかった。そして解放前十五年間の数字を平均すると、部落全体の世帯数は五百三十、人口は二千六百五十五人で耕地のほとんどが田であり、畑は十町歩ていどである。
生産高は町歩当り六百五十キロ、収穫総計は年に四百八十トンであり、これを地主と小作人が半々に分けると小作人一世帯の平均取分は四百五十三キロで一人当り九十キロに過ぎなかった。当時、一年中自分の食糧だけで食べてゆけたのは、わずか四十一世帯だけである。このため小作人のうち七十三世帯が次々と部落を離れてゆかねばならなかった。多くは満州へ。そして一部はシベリヤ、日本へも行った。解放後、三十七人の地主は村を追われた。土地は小作人たちに分配され、新しい農村の建設が始まり、貧しかった者にしあわせがやってきた。
ところが、一九五〇年六月に始まった戦争でこの幸福もこわされた。
五二年五月中旬の夜、たった一回の猛爆撃でコッパミジンの大被害をこうむったのである。すなわち、六百四十戸のうち四百五十五戸が破壊され、あるいは焼かれた。死者は実に七百四十五人、家畜のうち死んだ牛百六十五頭、死んだ豚三百二十頭、残った牛はたった二十五頭にすぎない。ニワトリ、アヒルなどの被害も数千羽に達する。前年の収穫物千七百八十六トンのうち千五百二十トンを失なった。その後アメリカ軍による占領期間が三十六日間あった。戦争を通じて学校、病院、倉庫をはじめ農機具などもあらかた焼失した。
しかし農民は屈せずに働いた。残った牛の背に擬装をほどこしながら一坪の土地もほっておかないように耕した。夜は防空壕の穴ぐらしだった。そして一九五三年夏の停戦調印を迎えた。
停戦後、北朝鮮政府は経済三ヵ年計画をたて戦災の復旧、新経済の建設に乗り出した。農業経済面では経済発展の諸条件考慮し、農業協同組合組織を農村に作ってゆく方針をとった。
立石農業協同組合がはじめて組織されたのは一九五四年十月のことである。発足当時参加したのは八十七世帯、組合員の数にして百五十二人、組合の土地は百三十五町歩だった。その後組合に加わる者がどんどん出て、一九五七年には村の全世帯が参加、立石の協同組合化は完成した。
一九五九年度のこの組合の収支計算書を公開してもらうと次のようである。
まず、総生産高は七千七百九十五トンで町歩当たり八トン一六〇キロになる。このうち十二パーセントを現物税として国家に納めた。そして
▽種子として残したもの(百三十八トン)
▽肥料購入に当てるもの(二百五十九トン)
▽共同蓄積(二千九百四十九トン)=百二十七万八千朝鮮円に相当する
を差し引いて残り三千五百十三トンを各世帯に分配した。一世帯当り平均分配量は四トン三百キロになる。
このほか現金収入として組合には四十七万四千八百五十円があり、一世帯当り三百五十円ずつ分配した。一労力者当り百八十九円になる。
協同組合の共同財産にはまた家畜、果樹園などがあり、その数量は次のようだ。
▽牛、四百九十二頭 ▽豚、九百八十五頭 ▽山羊、四十二頭 ▽ニワトリ、四千五百七十五羽 ▽アヒル、七千三百七十五羽 ▽ウサギ、四千七百五十羽 ▽三百五十町歩の水田でコイを養殖しており、親コイ八千百二十尾。
▽リンゴ園、二町歩四百五十本。町歩当り収穫量は二十トン一〇〇キロで一昨年から昨年にかけ一万二千本の苗を植えた。
現有の農機械としてはトラック四台、トラクター十台があるが、このうちトラック一台、トラクター七台は昨年度購入したもの。
灌漑水利施設としては揚水機五台(百馬力二、五十馬力二、三十五馬力一)を備え、田畑全部はもちろん、住宅周辺にある個人持ちの菜田にまで渇水期に水を補給出来る。
脱穀機は三十四台、大部分、組合自体で組み立てたもので、一日平均百四十カマス、最高五百カマスを脱穀する能力がある。
住宅建設はこの農村でもどんどん進められていた。現在ここの世帯数は八百十七、そして昨年一年間で住宅百ニ十七むねを新築、百四十七むねを改築してカワラぶきにした。このほか三階建校舎延四千九百七十三平方メートル、畜舎六百九十五平方メートル、食堂三百五十平方メートル、瓦工場千二百平方メートル(二台で一台一日四万枚を生産)あるいは幼稚園、託児所、共同浴場、理髪所、農機具修理所なども建設し、総計延面積一万四千七百平方メートル(住宅を含む)が新しくできた。
ことしの目標はトラック二台、トラクター六台を新規購入することである。昨年はトラクター十台で千町歩余の耕地を耕したので、一台当り百町歩を受持たねばならず忙しかった。こんど六台入れば、一台当り六十町歩に軽減されるから極めて楽になる。その結果、トラクターはトラックと協力し、肥料運搬の機械化を進められるので、農民の労力も軽減される。そのため目下四月末完成を目当てに、どこの水田、畑にもトラックが入れるよう、道路の整備を進めている。
穀類一町歩当りの今年の収穫目標は十二トンだ。
まだわずか残っているワラぶき屋根の住宅は全部カワラぶきにし、二階建て住宅も建設するが、住宅問題のいっさいは今年八月までに解決する。
日用品タンス、台所の食器戸棚などは組合の家具工場で製作しており、二月末までには全家庭にこれらの家具がゆきわたる。
「豊かになった生活水準をもっと高めよう」というのが、協同組合の活動方針である。
一日のくらし
以上が組合管理委員長、姜仁学さんの説明のあらましだった。姜さんは若くして小作争議に加わり警察に検挙、ごう問を受け、村を去り、土工、人夫などさまざまの辛酸をなめ、解放後、村に皈って協同組合組織の指導的地位に立つようになった闘争経歴をもつ人だった。中肉中背、手も指もがっしりと太く、日に焼けた顔にはどちらかというと柔和な眼がいつも笑みをたたえていた。
若い崔応漢さんに〝ちかごろの一日〟はどう過ごすのか、たずねてみた。
「朝八時半ごろ、作業場に集まります。組合で打つ鐘の音が合図です。そこで班長からその日の仕事について指示を受け、作業を始めます。昼にはまた鐘が鳴り、食堂へゆくなり家へ帰って昼食です。昼休みには演劇、音楽、舞踊などのサークル研究会があり、再び作業につきます。作業は五十分働らいて十分から二十分休みまた五十分働らく。休み時間には新聞雑誌などの読報会が開かれます。
その日の作業が終ると班ごとに集まって各人の作業の評価を受け、労働手帳に点数を記入してもらいます。一年間の合計点数に比例して収穫物や現金の配分が行われるもので、これを都給制といいます。
作業評価が終ると労働手帳をもらって共同浴場へ行ったり家へ帰ったりする。夕食後は映画をみたりラジオをきいたりサークル活動をやります。
この村には出力三百キロワットの有線放送施設があり、七百五十箇のスピーカーが各家庭に配置され、中央放送の中継をききます。また各班の作業成績、個人の作業成績などが発表されるのもこのスピーカーです。これ以外普通のラジオは百五十台くらい村にあります。サークルに参加している青年は約百人。十二人一組のバンドが二つあり、舞踊、合唱、演劇などで活躍します。ほかにスポーツサークルや女子のための料理サークルも開かれます。児童のためには児童教養室があり、課外勉強は主にここでやります。
金泰湜さんはこの日集まった組合側の出席者の中で最年長だった。むかしといまと、生活はどう変ったかを話してもらった。
「むかし、この辺りの村の小作人は一町歩耕して十カマスというのが普通だった。それがいまでは一町歩で二百カマスていどとれるようになった。作物は主にイネです。ほかにトウモロコシ、マメ、ムギなどもあります。
解放前、お金持ちの地主がいて、毎日ごちそうを食べて過ごしていた。しかしほかの者は食べものすら満足になかった。いまではだれひとりひもじい思いをする人はいない。私の息子も一人は運転手として働き他の二人は大学と中学で勉強している。もともと六人のこどもがいたが、息子一人と娘二人を爆撃で失った。それでもこどもを大学にだしてやれるなど、むかしは想像もできなかったことだ。
むかしといえば、灌漑の水路などももちろんなかった。日照り、かんばつが何より恐ろしかった。まだ覚えているが私が二十才の年だ。雨が全く降らず、何にもとれなかった。乏しいお金でアワを買い、カユをすすって生命だけをつないだ。だから毎年、不安におびえて空ばかり見上げて暮らすのがわたしたちの生活だった。
ところが今ではどうです。水路が縦に横に延びている。トラクターもある。水が自由になったからにはただ働きさえすればいい。働けば生産はあがる。楽しみだ。」
苦しい生活の時代が長かったからだろう。六十一才の金さんは年令よりも大分老けてみえた。
冬の日足は短い。日が暮れないうち写真取材もしてしまわないと困ったことになるので、話の方はこの辺りで一応中断して村を案内してもらった。
村のほぼ中央に食堂や市場、理髪所、洋服店などの施設がある。みんな公共の経営だ。そのそばに鐘があった。戦争のとき、アメリカの爆撃機が投下した不発弾をそのまま逆さ吊りにして作ったものだ。この鐘の音を合図に農村の作業が始まり作業が終る。組合副委員長の梁昇鎬さんが叩いてみせてくれたが、耳をつんざく大きな音がする。四キロ四方に響き渡るという。
赤塗りのトラクター十台も並んでいた。最寄りの駅まで歩いて四十分。バスはきていないし、自転車やリヤカーはまだ普及していないので、トラックを往復させて利用するそうだ。市場をみる。衣類、柱時計、日用雑貨や荒物類、瀬戸物などが一ヵ所にまとまって売られている。十二月に入荷したという白木綿の布地に人気が集まり、おかみさんたちが群がっていた。
魚屋、八百屋、肉屋はすぐ隣り。暇がないのでチラッとのぞいてすぐ次へ廻るのだが、平壌のデパートや商店などの印象で想像していたよりもこの村の生活は豊からしい。品物の量も多く、恵まれているようだった。
理髪所はもちろんイナカの床屋さんふう。三人の理髪師がハサミを動かしており、〝いつもキレイに〟と標語のポスターが張ってある。
洋服屋さんというのはクリーニング店といっしょで、もちろんプレスもやる。ミシンが六台に若い女の裁縫師が三、四人就業しており絹の朝鮮服などが縫われていた。
住宅は一戸当り六畳くらいの居間二つの客間一つ、台所が別についている。カワラ屋根、白壁ぬりで平屋建て。一戸一戸かなりの空地を前後にとってキレイに並んでいる。軒には分配されたモミのカマスが高く積み上げられているが、盗難の心配はないという。北朝鮮ではこの点極めて安心で、われわれが物をうっかりどこかへ置き忘れても紛失してしまうことは全くなかったし、スリやカッパライの心配は全然しなくてすんだ。
最近建てたばかりの共同浴場をみた。タイルなどというしゃれたものは使ってない。セメントで浴槽、洗い場などを塗り固めたままで見栄えはよくない。もちろん農民たちの手造りである。しかしモーターで水を汲みあげ、石炭がまでどんどん沸かし、午後六時から午前一時ころまでいつも入浴できるし婦人浴場の隣りには共同洗濯場まで設けてある。三十人から四十人の乳幼児を収容する託児所があった。村全体で同じようなものが六ヵ所に配置され、それぞれが幼稚園も付設されているそうだ。こどもの部屋はオンドルで暖められるようにしてあった。
昨年新築した三階建ての学校があった。資材は国から補助してもらったが、あとは組合だけの力で建てたという。装飾の部分はまだ工事がすんでいなかったが、校長先生が待っていて校舎の中をみせてくれた。
教室数は四十三、付属室が十。生徒数は人民学校六百十八人、初級中学校七百八十二人、農業学校四百三十二人でこの三つが同居している。教員は合計五十七人。
正月なのに教室の一つでは十数人の生徒が一生けんめい勉強している。歴史研究サークルだという。正面の壁には金日成首相の額、周囲の壁には朝鮮独立闘争史などの年表がたくさん張ってあった。
田んぼへ出て灌漑の水路や水門をみせてもらう。巾四メートルぐらいの水路は真白に氷っている。金泰湜老人に水門のそばへ立ってもらって撮影。もう日は沈んでいた。
作業班の現場事務室などをのぞいて再び会議室へ戻り、中断された話を再開することにした。質問も答えも全部通訳が入るので、時間をとることおびただしい。
問「委員長の日課について?」
姜委員長「朝九時に事務所へ出る。そこで朝会を行い、十三人の常務委員の視察分担をきめ、それぞれ作業現場へゆく。私は途中、住宅に寄って家庭に残る老人のこと、燃料、健康、家庭建設などの問題で一、二軒ずつ歩く。現場では一、二時間みなといっしょに働らき、夕方再び常務委員が集まってその日の作業について意見を交換、だれだれは疲れているとか、どの班ではどういう問題を解決せねばならぬとかを討議する。そして作業計画を作り六時半ころ家に帰る。作業計画は常に三本立てで作ってある。つまり、一日、五日、一ヵ月の三種類である。」
問「協同組合の運営が軌道にのるまでには、いろいろ問題があったと思うが?」
姜委員長「五四年の組織当時、一日八時間労働ではとても間に合わなかった。それは農機械も畜力もなくすべて人力でやらねばならなかったからだ。食糧も不足して苦しかった。国家の供給で五六年度からトラック、トラクターが入った。このころから組合員で借金をもつ者は一人もいなくなり、食糧も豊富になった。個人農の人もつぎつぎと組合に入ってきた。いまでは組合自体で農機具を生産するまでになった。」
問「三十七人の地主の消息は?」
姜委員長「知らない。他の地方に移り、それぞれ働いて行きているはずです。これはもと地主だった者はその土地に住んではならないことになったからで、希望に従い、行く先をきめ住宅も割当ててもらって分散しました。解放後は地主と小作人を分離する方が社会の進歩に役立つからです。この部落にも他の土地で地主だった人が移ってきましたが、また他所へ行き、いまではおりません」
問「婦人の一日の生活は?」
朴竜女さん「男は一ヵ月に休日は五日ですが主婦は七日あります。そして作業所へ出るのも男より三十分遅れだし、夕方の終業は一時間早くていい。乳幼児のある母親はこのほか午前と午後に三十分ずつの授乳時間が与えられます。昼食時間に託児所からこどもを連れて家に帰りいっしょに食事します。」
崔栄子さん「合唱のサークルに所属しており作業の休み時間に練習します。映画や行事のない夜は基本練習にあてます。
民主青年同盟の会議ではマルクス・レーニン主義や党文献などの学習のほか、党と政府の方針にそっていかに活動すべきか、また組合員の前に横たわる問題はいかに解決するかを討議します。
たとえば十二月に開いた会議では自給肥料生産の問題をとりあげました。
これは党中央委員会で討議された三つの問題のうち、人民経済計画に関連するものであります。
自給肥料というのは泥炭のことです。そして一人毎月三トン当りの泥炭採取を決議し実行しました。もちろん時間外労働です農村機械化が進んだので労働が楽です。むかしの三分の一も疲れない。
泥炭は近くの低い山の間などにあり、三十センチも掘れば出てくるところもある。運ぶのはトラックだから三トンといっても問題は発見してトラックに積みこむだけです。これを田に埋めておけば自然に腐蝕していい肥料になるのです。水をよく吸うのでこの点でも助かります。十二月には六千五百トンを掘り出しました。燃料に使うことも出来ます。泥炭利用は解放後はじめたことです。」
朴竜女さん「むかし朝鮮には〝ニワトリのメスが鳴けば家が滅びる〟というコトワザがあった。女を卑しくみて、いいたいこともいうなという意味です。女性にとって、当時では想像もできない生活条件がいま確立されました。
私は若いころ、徐尚隣というところで農奴をしていた。一生けんめい働いても、貰う食物はいつも冷たい残飯だけ。それを食べながらご主人の湯気の立つお膳がうらやましかった。そういう生活が今時分のものになったのです。倉庫には米がある。
いまお膳に向かうと一生の間働らきつづけても暖かいご飯を食べられなかった母を思い出す。夕食後、家族といっしょに映画をみるとき、南朝鮮や日本へ行った親類のことを思う。こういう幸福な生活は決して天から降ってきたものではない。自分たちの闘いとったものだ。国家の正しい農業政策のもとで保証された生活だ。自分の幸福を思うたびに金日成首相を思い出す。」
崔応漢さん「日本のみなさんにとくに訴えたいのは、再び戦争をしてはならないということです。私は軍隊で前線にいたので生き残りましたが、帰ってみたら家は焼かれ家族五人は全部死んでだれもいませんでした。一番上の兄は占領期間中に米軍に虐殺され、妻は強姦され妊娠しました。米兵に連れられて行く途中、信川付近で爆撃で死んだそうです。両親も弟も爆撃でやられました。私は気も狂わんばかりでしたが、村の人たちから家もフトンももらい、その後再婚して女の子が一人います。歴史をふりかえってみても、私たちがアメリカ人に対してホッペタ一つなぐったことがあったでしょうか。それなのにこんな悲惨な目にあわされました。人類の間で再びこんな悲劇をくり返してはいけません。」
村の人たちの話は尽きなかった。朝鮮人の対米憎悪がどんなに強いかを示す言葉は強烈だった。戦争中、われわれが吹きこまれた〝鬼畜米英〟のスローガンを思い出させるに十分だった。
朝鮮人の戦争体験は朝鮮人自身のものとして、われわれが口をさしはさむ余地は全くなかろう。しかしそれほどまでに激しい憎悪感を一つの民族に対して別の民族が抱いているということ、これを眼の前で見聞きするとき、どうにもやり場のない憂うつ感が湧き起ってきて仕方がなかった。
この夜、われわれには平壌でもう一つの仕事が残っていた。メモを閉じて暇をこおうとするとさえぎられた。
「食事の準備ができました。正月に訪れた客をそのまま帰すわけにいきますか。食堂でサークルの演奏でも聞いてくつろいで下さい」と熱心に引きとめられる。
「それでは」ということになり、食事しながら二十人ばかりの青年男女の演奏や合唱を聞いた。一段落したところで、
「こんどは日本の歌を聞かせて下さい」
という注文。下手な歌にも拍手が湧いた。特産の人参酒はかなりまわっている。テーブルをめぐって踊りが始まる。姜委員長も金老人も崔さん、朴さんもみんな踊る。われわれも手をとって教えられ、踊りの輪に入れられた。思わぬところで思わぬ正月を過ごす羽目になったものだ。
板門店の農林
農村をみた経験はもう一回ある。
十二月三十日、板門店の軍事境界線(いわゆる三十八度線)を見学した帰り、平和里農業協同組合に立寄った。板門店のすぐ近く、耕地や住宅の一部は非武装地帯内にふくまれているとかで、もともと韓国側であったのが、停戦協定後は北朝鮮側になった村である。地理的には三十八度線より南にある。
ます管理委員長の説明をきいた。それによると、組合員は七百五十四世帯、三千六百人で水田五百町歩、畑二百五十町歩をもつ。作物は稲を中心とした穀物で、人参栽培を副業とする村である。
最初に組合を組織したのは一九五四年で、それまで一町歩当りよくみて二トンだった収穫が四トンにあがった。しかし分配は、提供した労力のほか、出した土地の割合をふくめて行う〝第二形態〟をとった。五六年に全戸が参加したときに分配は〝第三形態〟すなわち労力のみに応じた分配に転換した。
協同化完成後、生活水準は高まり、五十六年にまず電気が入った。同時に有線放送設備もできた。それまで防空壕暮らしだった農民も五七年には草ぶき屋根の臨時住宅ながら全部家をもつようになった。しかしこれも六〇年八月十五日までに全部カワラ屋根の文化住宅に建てかえることになっている。
最近ではミシンが二百五十台は入り、収穫は町歩当り五トンになった。五九年度、一戸当り平均三トンの穀物と現金三百円を分配した。付属商店をはじめ診療所、共同浴場、学校を建設した。村からソ連留学生も一人出した。
停戦後に植えた人参が六〇年から収穫期に入るので、こんどは一戸当り現金九百円(日本金一万三千五百円)穀物四トンを分配できるだろう。
以上が管理委員長の話しだった。
平和里農協には作業班が三十二班あり、一班平均五十人で構成する。農産二十五班と人参、養蚕、果物、牧場、機械、野菜、建設が各一班である。班の労力者は満十七才から六十才(女は五十五才)までで、老人は付帯能力として数える。
管理委員は二十一人でこの下に各作業班があり、班のなかに組がある。
各作業班の作業計画は組合総会にかけて決定し、ここで決ったものに対しては各班とも遂行する責任を負う。
作業計画とともに標準作業量が班編成についても総会で決定し、不公平のないようにする。洪純芬 さんは二十七才の女性。二年前から養蚕作業班長をやっている。
「農産二十五班のうち七班までが女の班長です。みんな会議でもよく意見を延べるし女性の地位が高まりました。共和国になってとくに感ずるのは、人間に対し差別をつけないという点です。
浴場ができ、最少限度週一回はだれでも入浴するようになりました。洗濯や裁縫も共同でする準備をしているし、映画もみます。サークルの文化活動が盛んで生活水準は眼にみえて向上してきました。自分の仕事にみな誇りをもっています。」
と語った。
平和里は北朝鮮のなかではどちらかというと立ち遅れた農村だという。なるほど戦後の臨時住宅だといういまの農民の家は泥造りに草屋根だ。それに屋根そのものが低い、というより家全体が小さく貧相だ。
しかしそこに働く人々、少なくとも新しい平和里農村の指導的立場にある男女はいずれもさかんな意気に燃えていた。それも中味もなしにただ大言壮語するという精神主義者たち、ハッタリ屋たちではなかった。しっかりと数字をつかみ、目標をたて、着実に計画を実行してゆくタイプだと見受けられた。彼らの進む道程には、あるいはつまづきもあろう、計画の誤りを露呈することがないでもなかろう。しかし国全体が完全な社会主義、共産主義化をめざして一目散にかけてゆく、この大きな流れのなかでは、つまづきも誤りも大した問題ではなさそうだ。少なくとも北朝鮮という国がいわば上り坂にあるといえるここ当分の間は、そう断言できよう。農村を通じてみても北朝鮮は激しい若さを感じさせる新興国であった。
(注) 共同経営の第一形態は、作業だけを協同でおこなう固定的労力相互扶助班であり、第二形態は、土地を統合し、共同経営を運営するが、労働と土地によって配分を行う半社会主義形態であり、第三形態は、土地とその他の基本的生産手段を統合し労働によってのみ分配を行う完全な社会主義形態である。