会報『かるめぎ』の過去号を、旧サイトから、順次こちらにアップしていきます。この機会に、過去の『かるめぎ』を通して、守る会の歩みを知っていただければ幸いです。
- 帰国運動40周年 記念行事スタート
- 恐怖の二重構造 一安赫氏東大駒場講演一 小川晴久
- 私は金正日政権打倒に一身を捧げる かつての韓国学生運動リーダーで熱烈な金日成主義者だった金永煥氏語る (『月刊朝鮮』誌より)
- 大宅壮一賞授賞式
- 「北朝鮮に消えた友と私の物語」第30回大宅壮一ノンフィクション賞 萩原遼さんの受賞を祝う会
- 強盛大国を目指す北朝鮮と人権
- この人に聞く 宋允復さん(33歳)運営委員
- 初めての飯田橋での駅頭ビラまき(朝鮮総連本部所在地) 小川晴久
- 北朝鮮に渡った友はいまどこに
- 帰国者からの手紙
- 第8回関西支部講座で藤森克美弁護士が報告 『帰国運動の法的責任を問う』6月27日
- 東京学習会報告 7月24日 「帰国事業と北朝鮮の状況について」 守る会運営委員 金鉄雄
- お知らせ
- 編集後記
帰国運動40周年 記念行事スタート
連続3回(8月 10月 12月) 映画と講演
帰国第一船が新潟を出航して40年の今年。「守る会」はこの機会に帰国者の当時と今を考える連続3回の集会を開きます.
映画と講演のご案内 いま振り返ろう!! 40年前を。北朝鮮に渡った在日朝鮮人9万人余と、日本人妻6千人を。 そして思い起こそう!この人達の現在を。
映 画:「海を渡る友情」 (望月 優子 監督 1960年作品)
講 演:高柳 俊男・荻原 遼
特別出演:前田 日明(ビデオ出演)
在日コリアン三世、元プロレスラー。98年引退、現在、リングス社長。
とき:99年8月21日(土) PM13~16時
ところ:韓国YMCA・アジア青少年センター
〒101-0064 東京都千代田区猿楽町2-5-5
℡03(3233)0611
整理費:1000円
40年前の1959年12月、北朝鮮に帰ろうという在日朝鮮人の第一船が新潟港を出たことをご存知ですか。
以来、9万3千人の在日コリアンと6千人の日本人妻が北に向かいました。
この人達はなぜ北を目指したのか?そして今どんな状況に置かれているのか。
40周年の今年、皆さん方と共に考えてみましょう。
8.21集会への呼びかけ
映画「海を渡る友情」とは?
この作品は帰国第一船が新潟から出た翌1960年、女優の望月優子の監督により作られました。脚本は「オモニと少年」「日本海の歌」など、在日朝鮮人の登場する作品を数多く作った片岡薫で、舞台は東京足立区。朝鮮人の父と日本人の母の間に生まれた主人公が民族の心を取り戻していく物語で、その中で朝鮮人帰国事業が主要テーマとして扱われています。
つまり自分も朝鮮人だとは知らずにクラスの朝鮮人をいじめていた主人公の幸男が、帰国事業の高まりの中でその事実を知り、最初は自暴自棄になるが気を取り直して朝鮮学校に転校、やがて家族と一緒に北朝鮮に帰国していくというあらすじの物語です。
あの両親、息子はいま?
水戸光子演じる日本人の母親は当初、北朝鮮に行けば自分は外国人でどんな待遇を受けるかわからないとして、帰国に反対します。自分の父親が朝鮮人だという事実さえ知らない息子の場合、その現実を受け入れ、家族で帰国に同意するまでにはもっと大きな葛藤を経験します。
もちろんこの映画は劇映画(ただし帰国事業の記録フィルムが随所に挿入されている)であり、この親子3人が実際に海を渡ったわけではありません。しかし、この母親が当初思ったように、未知の国への不安を胸に渡航していった帰国者は少なくなかったでしょう。そしてその不安は単なる杞憂に終わらず、「祖国」への帰還後に様々な精神的・肉体的迫害を嘗めた帰国者も少数とはいえないでしょう。
歴史の「その後」を見ている現在の私たちには、その現実に対応した認識のあり方と責任のとり方が要請されるのであって、当時と同じレベルにとどまって、帰国事業をただ賛美したり傍観したりすることはできません。
私達の取るべき態度
9万3000人にも及ぶ在日朝鮮人とその家族が、故郷でもない朝鮮北部へと渡った背景の一つには、在日朝鮮人差別の中で自分や子供たちにとって明るい将来が展望できないという、日本社会の民族差別の問題が確実にありました。
一方、帰国者が北朝鮮に着いてからの数々の人権問題に関しては、事業を推進した北朝鮮政府やそれを信奉する朝鮮総連が直接責任を負うべき問題でしょう。
今年は帰国船が出てからちょうど40年を迎えます。私たちは、北朝鮮帰国者の経てきた40年をいま改めて振り返る中で、日本社会の在日朝鮮人差別と北朝鮮政府の人権抑圧という、帰国事業に伴うこの2つの側面をともに視野に収めつつ、帰国者の生命人権や名誉回復する運動を推し進めていきたいと思います。
恐怖の二重構造 一安赫氏東大駒場講演一 小川晴久
去る5月28日から6月2日まで、強制収容所の体験者であり、守る会の海外会員でもある安赫氏が来日しました。
直接には5月29日(土)午後の、私が今学期開講していた「北朝鮮の人権問題」を主題とする授業の補講に講師として要請し、それに応えて来日したものです。この授業は北朝鮮の強制収容所の存在と実態を知ることに主眼を置き、教科書は姜哲換・安赫共著『北朝鮮脱出 上・下』(文春文庫)を採用しました。5月の連休明けにまでに受講者全員がこの手記を読み終えるように指示し、安赫氏の補講までにはほぼ全員が読了していたと思います。
当日の補講は土曜日の午後に設定しましたので公開としました。当日の安赫氏の話の中で紙面の許す範囲で何点か披露しておきます。
- 韓国に亡命し、韓国で生活してみて、強制収容所の生活がどういうものかハッキリした。
- 収容所(少なくとも私のいた革命化区域)には反体制分子はいない。不平分子が多い。かくいう私も政治犯ではない。収容所に入ったとき私は政治犯ではなかったが、中で過酷な仕打ちを受け、出るときには政治犯になっていた。
- 私ももう32歳となったので結婚のこともいろいろ考えるが、私がしなければならないことは20世紀中にどうしても強制収容所を廃絶したいこと、そのために強制収容所の実態を知らせる映画を作りたい。3年前からあたためてきた映画製作であるが今世紀中にどうしてもつくりたい。それを実現するまでは結婚はしない。
- ヨドク収容所の収容者は当時3万人、帰国者は1500名うち日本人妻は20名位いた。映画を作って、収容所で殺され、死んだ人々の魂をなぐさめたい。
- ヨドク収容所の中には大きな壁があった。革命化区域と完全統制区域を隔てる壁である。ヨドク収容所の中での恐怖は完全統制区域へ送られることである。そこへ移されたら生きては帰れないからである。
以上が当日の補講からの要点です。手記『北朝鮮脱出』だけでも説得力ある内容ですが、安赫氏の話が直接聞けて学生たちは満足していました。
私は金正日政権打倒に一身を捧げる かつての韓国学生運動リーダーで熱烈な金日成主義者だった金永煥氏語る (『月刊朝鮮』誌より)
1980年代の韓国学生運動の指導者で、北朝鮮の主体思想を信奉し金日成一金正日を同志と思って活動してきた金永煥氏(36歳)が、これまでの自分の考えが誤っていたことを認め、これからの方向は金正日政権を打倒し、北朝鮮人民を救うために一身を捧げるとの宣言を行い大きな話題となっています。韓国の『月刊朝鮮』6月号に金永煥氏の長文のインタビューが載りました。
そのさわりの部分を訳出し、紹介します。金永煥氏は慶尚北道安東出身でソウル大学法学部卒。ソウル大を中心に組織された救国学生連盟議長。全斗煥政権時代、20日間にわたる昼夜をわかたぬ残虐な拷問を受けたのち懲役7年の刑で獄中生活。のち民主化により釈放された闘争歴の持主。 (編集部)
――今の北朝鮮の状況をどう考えていますか。
答 朝鮮民主主義人民共和国の正統性を認める人であればあるほどこの国の建国理念と建国精神を根こそぎ踏みにじり、国家を個人の所有物に転落させ、人民にたいし想像を絶する弾圧を加えている金正日政権にたいする敵愾心を燃え上がらせねばならない。左も右も問題ではない。左派であればあるほどさらに強く金正日政権打倒闘争の先頭に立たねばならない。
私は1986年に軍部独裁に反対する左右の大合作を提唱したことがあるが、いま私は金正日政権打倒のための左右大合作を提唱したい。「金正日体制打倒」という絶体絶命の重要課題を前にして歴史問題がどうの社会路線問題がどうのと他の問題を持ち出して争いあい分裂していてはならないと思います。2千万北朝鮮人民の身の毛もよだつ現実を見ながら他にもっと重要な問題があると考える人は、血も涙も干上がった人であり、なにが先でなにが後かの区別のつかない人です。
――北朝鮮の人権状況について深刻に感じ始めはいつからですか。
答 それは90年代の初め、脱北者たちの証言がどっと出始めたころからです。とりわけ耀徳収容所を経験し92年に脱北した姜哲煥氏と安赫氏の証言がきわめて衝撃的でした。私は1986年に主体想の学習のために平壌放送をききながら北朝鮮に政治犯収容所があるという事実を確認しました。放送では「特別独裁区域」と表現していましたが、放送の説明をすこしきいただけで、それが当時あるとかないとか論争になっていた政治犯収容所であることはすぐにわかりました。当時はそれがあれほどおぞましい所であるかは想像もできませんでした。
私はまた金万鉄氏などその以前に脱北した人たちの証言内容が私の北朝鮮にかんする知識とほぼ一致したため、脱北者たちの証言をおおむね信ずるようになっていました。そして脱北者たちの記者会見を少し聞けば、彼らの言ってることの真偽は簡単にわかりました。たとえ何年間かの訓練を受けたとしても証言のつじつまを合わせ表情の演技もうまくやり、記者の予期しない奇襲的な質問にも矛盾なしにうまく答えるということはきわめてむずかしいことです。ましてや脱北していくらもたたない人が嘘をあれほど巧みに言うことはほとんど不可能なことです。
これらの証言を信じない特別な理由はなかったのですが、あまりにもおぞましい内容だったために受け入れるのがひどく苦痛でした。長いあいだ主体思想の同志と考えてきた金日成一金正日政権がこれほどのおぞましいことをおこなっているということをうけいれるには耐えられないような苦痛をともないました。
そしていま考えてみればたいへん卑怯で無責任の感にたえないことですが、一時は北朝鮮にかんすること自体をほとんど考えないようにしたのです。時がたつにつれてすこしずつ内面的苦痛が少なくなり、事実をあるがままに認めたうえでもう一度はじめようという考えになったのです。
それから何年かたちましたが、「金正日政権打倒にこの身を捧げねばならない」と決心したのは价川刑務所を経験して脱北した李順玉さんの証言や李韓永氏の証言などがあいついだ96年ごろでした。
北朝鮮の人権状況を改善するにはいうまでもなく金正日政権を打倒することがもっとも重要です。金正日政権の打倒なしにはいかなる努力も限界があるのです。しかし北朝鮮の人権実態があまりにも差し迫った問題だとみると、金正日政権打倒と同時に北朝鮮の人権状況を改善するための国際的な関心や圧力を組織して行くことも必要だと思います。それがはたしてどれほどの効果があるのか疑問ではありますが、北朝鮮人民が直面している実態を思えばわらでも掴みたいというのが今の気持ちです。
――こんご現実政治に参加する意思がありますか。
答 国会や地方自治体などの役割を無視するわけではありませんが、私の能力には及ばないし、適性にも合わないように思います。現在の私は、北朝鮮革命以外のものにはほとんど関心がありません。過去17年間、私自身、革命家以外の生き方はただの一度も考えたこともありません。北朝鮮革命が成功し、北朝鮮社会があるていど安定すれば静かに理論研究に没頭したいというのが個人的な願いです。
――統一が差し迫っていると仮定したとき、統一の過程で貫徹しなければならない
理念はどういうものでなければならないですか?
答 北朝鮮革命を遂行する過程でわれわれが貫徹しなければならないものは民主主義だと思います。ここでは金正日体制に対する非妥協的闘争精神が重要です。民主主義の理念は統一の過経でもいぜんとして重要な理念とならなければなりません。しかし金正日政権が完全に崩壊して、新しい体制を建設したり、統一を推進する過程ではまずなにより包容精神や民族大団結精神が重要だと思います。北朝鮮の人々の中で殺人や横領、賄賂の授受などの刑法違反者の処罰は不可避ですが、それ以外の人には、われわれと理念が完全に違っていても、労働党員であっても、高位のポストについていた人であっても特別な不利益を与えないようにしなければいけないし、これらをすべて包容しなければいけない。金正日政権の犯した途方もない罪業にたいし歴史的責任を問いもう少し多くの者を処罰しなければないという気持ちがおきたにしても、こらえることであり、すべてを包容しなければなりません。
(萩原遼訳)
大宅壮一賞授賞式
〝凄い時代実感させる〟選考委員満票、高い評価
第三十句大宅壮一ノンフィクション賞の贈呈式が十六日、東京日比谷の帝国ホテルで行われた。
受賞は、在日朝鮮人北朝鮮帰国者の悲劇を描いた『北朝鮮に消えた友と私の物語』(文芸春秋社刊)の萩原遼氏、『朱鷺の遺言』(中央公論新社刊)の小林照幸氏。両氏には、正賞の賞金百万円、副賞の国際線航空券が贈呈された。
立花隆、西木正明、深田祐介、藤原作弥、柳田邦夫の選考委員五氏を代表して立花隆氏が「萩原氏の作品は、ここ数年来なくスムースに、満票で受鴬が決まった」と選考経過を報告。併せて「たいへんな厚みのある作品で読み出すと止まらない。北朝鮮に関して、あれだけ背景を深く掘り下げた作品はなかったのではないか」「この同時代史は、われわれがほんとうに凄い時代を生きていたのだということを実感させる」と高く評価した。選考委員の評は月刊文芸春春六月号に掲載。
萩原氏は謝辞で、「私は今日初めてあつらえた服を身につけている。在日の方々が決っして豊かではない家計の中から私に用意してくださった」と紹介。その上で「日本人妻、在日朝鮮人の悲劇に日本が声を上げるために、今後も書き続ける」と述べた。(要旨別掲)
式には、萩原氏が共同代表を務める「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」の小川晴久東大教授や金民柱氏、実兄の木津川計立命館大学教授も出席し祝福した。
在日韓国朝鮮人を主テーマとする作品としては、九七年の野村進氏著『コリアン世界の旅』以来の受賞。 萩原氏の今回の受賞を機に、北朝鮮帰国者、日本人妻問題も再びクローズアップされるものとみられる。
悲劇を終わらすため書き続ける 萩原氏謝辞
ごく最近に平壌を訪問した在日朝鮮人のおばさんがいる。身内が六〇年代に帰国している。ホテルでその身内と、テーブルを挟んで話し合っていた。突然七十歳くらいのおばあさんが現れて、日本語で「日本からいらした方ですか」と聞いてテーブルに割り込み、日本から来た在日のおばさんの手を両手で固く握り締め、「せめて日本のにおいでも嗅がせてください」といって鼻を数秒寄せた。
隣にいた監視員はたちまち引き離して立ち去らせた。六〇年代初めに在日朝鮮人と結婚して北朝鮮に渡った日本人妻だった。この話をしてくれた在日のおばさんは、その日本人妻の話の時にはぼろぼろ涙を流していた「どんなにか日本に帰りたかったでしょう」といって。
そういう現実があるということ、四十年向こうに行って、全土が強制収容所と化した北朗鮮から日本に帰ることのできない日本人妻、そして十万人の在日朝鮮人帰国者。この悲劇がこの本の中で書いた最大のテーマだ。
私は、作家になるとか大宅賞をいただくとかは露ほども思っていなかった。十八歳から共産党の人生で、四十三年間突っ走ってきた。世間のことは何も知らず、大宅壮一賞があることもつい最近知った。
こんな悲劇がこの世にあるか、これを私が書かなくて一体誰が畜くか、たまたま朝鮮半島に出会った私の使命だろうと思って、ただ無我夢中で書いてきた、ということになる。在日の人たちもあなたたちの運命を決して忘れてはいないんだという声を上げ続けるために、これからも書き続ける。
「統一日報」1999年6月22日付
「北朝鮮に消えた友と私の物語」第30回大宅壮一ノンフィクション賞 萩原遼さんの受賞を祝う会
『北朝鮮に消えた友と私の物語』で第三十回大宅壮一ノンフィクション賞に輝いた萩原遼さんの受賞を祝う会が七月四日、大阪・天満橋の東天紅OMM店で開かれ、約百五十人が受賞を祝った。
同著は、北朝鮮に帰った天王寺高校定時制の同級生・尹元一さんとの再会を果たそうとした平壌で仕掛けられた罠と追放の経験をはじめ済州島蜂起、朝鮮戦争、朝鮮総連の権力闘争など韓国・朝鮮と日
本を舞台にした暗部に鋭く光を当てた作品。
挨拶に立った萩原さんは謝意を述べたあと「金日成・正日父子は絶対に許すことができない。命がけで闘い抜き、帰国者で北朝鮮に残って)苦しんでいる人たちを助けるお手伝いをしたい」などと語った。その中で萩原さんは、金正日総書記が命じて処刑した最新の実話や悲惨な生活ぶりを綴った帰国者から届いた手紙を披露した。
祝賀会には、萩原さんが共同代表の一人として携わる「北朝鮮帰国者の生命と人権を狩る会」の小川晴久共同代表、萩原さんの恩師で元大阪外大学長・伊地知善継氏が「(北送事業から)この四十年は残酷な歳月だったとしか言いようがない。そうした位置付けからして萩原さんの本は、より多くの人に読んでもらわねばならない貴重なものだ」「本当に外国のことを伝えるにはその国の言葉に精通していなければできないこと」などと祝辞を述べた。
また、同守る会・関西支部の山田文明・大阪経済大教授、姜在彦・花園大学教授、RENK代表の金英達・関西大学講師、KMJ代表の鄭早苗・大谷大学教授、梁永厚・関西大学講師、元天王寺高定時制教論・広瀬武成氏、民主無窮花・金正日代表幹事、実兄で「上方芸能」代表・木津川計氏らがお祝いに駆けつけた。
月刊誌『KOREA TODAY』99年8月号
強盛大国を目指す北朝鮮と人権
1999年
(3月)
4日 韓国統一省傘下の統一研究院は北朝鮮の国民生活の状況をまとめた1999年版「人権白書」を発表した。ここ2、3年間は毎年50~80万人が栄養失調で餓死している。5歳までの乳児生存率は50%にすぎない。チフス、コレラの発生、結核患者は300万人から400万人と推定される。
11日 産経新聞特派員電、国家情報院の資料「最近の北韓実相」によると、地方では食料支援の9割が軍に回されているという。軍への流用を指導しているのは、人民武力省後方総局傘下の「五一四常務」という組織。
15日 大韓赤十字社の鄭元植総裁は、赤十字国際委員会など人権関連団体に書簡。北に拉致され、抑留されたままの未帰還者454人と韓国軍捕虜231人の送還へ協力を要請。
19日 韓国政府は北に5万トン規模の肥料を送るために、180億ウォン(18億円)の拠出を決定。
22日 米政府は20万トンにのぼる新たな食料支擾を発表。世界食糧計画(WFP)を通じての従来通りの支援とジャガイモ生産改良の二本立てで行う。
(4月)
20日 拉致日本人家族らが都内のホテルで記者会見し「北朝鮮に拉致された日本人の救出を国政の最優先課題にするための国民集会」を開催する呼びかけ人に、ジャーナリストの桜井よしこさんら129人の著名人の賛同を得たことを表明。
22日 労働新聞の論説記事によると、金総書記は、党幹部らに対し人工衛星打ち上げについて「敵は優に何億ドルもかかっただろうと言っているが、それは真実だ。その資金を人民生活に振り向けたらどれはどよいだろうかと思ったが、わたしは、人民がまともに食べることができないことを知りつつも、あすの富強祖国を建設するために、資金をその部門に振り向けることを許諾した」と紹介している。平壌放送も同様の放送を流している。(5月1日付け読売新聞夕刊)
23日 世界食糧計画(WFP)は新たな食糧援助計画を発表した。児童、高齢者ら8百万人対象に2億6,000万ドル(約312債円、57万トン相当)援助を行う。
(5月)
2日 東京・日比谷公会堂で「北朝鮮に拉致された日本人の救出を国政の最優先課靂にするための鼠民集会」が開かれ、韓国の拉致被害家族も参加し、2,000人が集まった。両国家族は「両国民の協力を通じて国際社会に訴え、拉致姪惑解明の国際世論を作っていこう」と訴えた。「拉致旋惑解明」の署名は130万人分に。
9日 平壌放送によると、労働新聞は、小渕首相訪米にさいし、日本人拉致問題に関し首相の発言は「日本人拉致問題は存在しない。日本の執権者が力説したことは、どれも事実無根である」と反論した。
16日 ダウナー豪外相は千万豪ドル(約8億円)の食料臨時支援を決めた。
17日 オルぶブライト米国務長官は韓国の洪淳瑛外交通商相との会談で、北へ40万トンの食料追加支援を明らかにした。これで今年の米支援量は60万トンとなる。
18日 地下核疑惑施設に対する米国査察チームが北朝鮮入りした。
25日 黄長燁朝鮮労働党元書記の親族ら数十人が、亡命後の97年夏に、北朝鮮当局によって拘束され、貨物列車で地方に移送されたことが、今年3月に中国に越境した難民男性(21歳)の証言で判明した。現地を訪問した旅行者に証言した。
(6月)
3日 北朝鮮の金永南・最高人民会議常任委員長が大型代表団を率いて北京入りし、李鵬全国人民代表大会常務委員長と会談し、中朝関係の修復を確認した。
4日 金永南氏は江沢民国家主席と釣魚台迎賓館で会談、中国が今年、食糧援助15万トン、コークス40万トンを無償援助・供与することが表明された。
15日 韓国西海岸沖で北方限界線を越えて北朝鮮の警備艇、魚雷艇の7隻が越境してきたため、韓国の警備艇十数隻が体当たりして阻止したさい、北側から先制攻撃的に発砲があり、韓国側が応射する激しい銃砲撃事件があった。双方の艦艇に被害がでて、北朝鮮艇の1隻が沈没、1隻がほぼ沈没、3隻が大破し、死者30人、乗員多数が負傷した模様。米国防総省当局者の推定では、北側に死者30人、負傷者も出た模様と語る。韓国側は艦艇2隻が被弾し乗組員7人が負傷。
21日 韓国の現代グループは、19日に金剛山を訪れた韓国観光団560人の中の主婦閔泳美さん(35歳)が抑留、調査を受けていると明らかにした。北朝鮮の女性環境監視員に「韓国に亡命した北の人は幸せに暮らしている」と発言したことが「亡命をそそのかしている」として連行された。
韓国政府は国家安全保障会議で、安全が保証されない限り、金剛山観光事業を中止すると発表。
24日 韓国の金大中大統領は北の女性観光客拘束事件について「われわれは弱い政府ではない。この女性の身柄を返さなければ、観光船もドルも送らない」と述べた。
25日 北朝鮮、閔泳美さんを釈放。29日に韓国政府が閔さんは謝罪文を書くよう強要されたと調査結果を発表。尋問連日16時間で二度も失神。
(7月)
1日 南北次官級会談が再開された。韓国側は離散家族問題を取り上げ、該当家族の名簿交換を8月から毎月300人分について行い、9月には板門店で100人規模の再開実現を提案。北側はこれに答えず、実質協議には入れなかった。北は黄海での銃砲撃事件で謝罪を要求。
3日 李英和レンク事務局長は「北朝鮮の難民問題は、『アジアのコソボ難民問題』ともいえる。難民を無くすには、恐怖政治の金正日体制を倒し、民主化を進めるしか道はない」と話した。
6日 韓国統一省は北朝鮮が建国された1948年以降、北からの亡命者総数が同日現在で千人を越え1,001人となったことを明らかにした。
8日 金日成主席の死後5周年を記念する「中央追慕大会」が平壌・錦繍山記念宮殿前広場で開かれた。趙明禄・国防委員会第一副委員長が「追悼の辞」を読み上げ、米韓の「戦争挑発策動」によって「一触即発の危機が生じている」とあおった。
韓国政府が北朝鮮からの亡命者の教育・生活支援・定着のために初めて建設した統一省傘下の亡命者センター「ハナウオン(ひとつの園)」がソウル近郊の安城に完成し、竣工式が行われた。常時100人を収容できる。
21日 米国務省のルービン報道官、北に先月17日、中国、ロシア、北朝鮮間でビジネス活動中に北朝鮮に拘束されていた米国人女性が20日に釈放された。
この人に聞く 宋允復さん(33歳)運営委員
──宋允復さんは、朝鮮総達の民族学校を卒業されたそうですが、
家族や友人などで帰国した人はいますか。
宋 朝鮮学校には小学校から中学一年まで通い、その後は日本の学校で学びました。
父の妹が60年代に帰国し、乳癌で70年始め頃に亡くなったそうです。当時私は幼かったので、母はあまり話しませんでしたが、「生活の苦しいときに仕送りの負担も重なって大変だった」と母がぽろりとこぼしていたのを覚えています。他の近い親類は帰っていません。
60年代に母の姉が帰国したいと盛んに言ったそうですけど、祖父が「朝鮮戦争が終わって時間も経ていないのに地上の楽園であろうはずもない」と強硬に反対して踏みとどまらせたそうです。
朝鮮学校の同じクラスのなかには、親戚が帰国した人も何人かいて、向こうから来る手紙は食品や生活必需品を送ってくれというもので、生活は大変らしいとか、自由にものが言えなくて、ひどい目にあってる人が多いらしいということは、小学校の高学年にもなれば常識でしたね。
──朝群学校から日本学校に転入し、日本社会、在日韓国人社会に
入っていって違和感とか感じたことはありますか。
宋 違いはありますし、気になることもありますが、むしろ朝鮮、韓国に積極的に関わりをもって苦楽をともにしている日本人がこんなに多いのかと驚きましたね。ありがたいことだなあと感じ入ることが多いんです。
──朝鮮総達が帰国者の人権問題、強制収容所の問題に
取り組まないことについてどう思いますか。
宋 アントニオ猪木が北朝鮮でプロレスイベントをやった時、私もツアーに紛れ込んで北朝鮮に行ったんです。その話を聞きつけた親戚から電話がかかってきて、「まさか北朝鮮に帰国するつもりじゃないだろうな。私たちの老後がめちゃめちゃになるからやめてくれ」と。長年総連系統で仕事してきた人なんですけど。
総連の幹部の多くも北朝鮮に帰った身内がいて、事実上人質に取られているので、身動き取れないところはあるでしょう。
また、総連関係で人とのつながり、活動の場、生活の基盤を得ている人にとっては、親しい人とは本音で話しても、組織では言えない状況が続いているようです。だからといって、総連を離れてそれだけの基盤を得られるかと言えばなかなか難しい。嫌気がさし、自分で道を拓いていける人はどんどん抜けてますしね。
──在日に望むことはなんですか。
宋 総連に関わっている方々はもちろん、在日のみなさんには「北朝鮮絶望収容所」ほかの北朝鮮亡命者の手記を改めて読み直してほしい。祖国に希望を託して帰っていった人々を待ち受けていたものは何だったのか。その具体的な諸相を知ったときに、あの体制の延命に手を貸していることはできないはずですし、もはやアイデンティティの求心点を北朝鮮の現体制に求める必要もないはずです。
いま日本にいる我々は、帰国者、日本人妻とその家族の日本への自由往来、拉致被害者の帰還を実現し、北朝鮮の人民が恐怖の専制支配から解放される日を実現するために何ができるのか、知恵を集めよう、と呼びかけたいのです。
(聞き手 金鉄雄)
初めての飯田橋での駅頭ビラまき(朝鮮総連本部所在地) 小川晴久
2月20日と21日の街頭活動以来、総会などのため中断していた街頭活動を、去る6月10日(土)朝鮮総連本部の近くのJR飯田橋駅頭で正午から約1時間半にわたっておこないました。ビラの表題は「帰国事業40周年の今年こそ北朝鮮帰国者の人権擁護運動の先頭に立て!」というものでした。250枚配布しました。
当日、管轄の麹町警察署に道路使用許可をとって臨んだのですが、あいにく正午から一時まである政治団体が拡声器をもって街頭宣伝をしているのとかち合ってしまいました。おまけに不手際でハンドマイクもなし。ウイークデーの昼間であったこともあって、こちらからの参加者は3名。やっと静かになった一時から約30分、肉声と守る会ののぼりで訴え、用意したビラがなくなったところで終了しました。
特徴としては若者は男女を問わずほとんど(100%に近く)ビラを受け取らないことです。受け取ってくださるのは60歳以上の年配の人たち。まま中年の女性たちもいます。ビラ配りをしていますと若者亡国論を口にしたくなります。まったくひどいものです。中学、高校、大学で言論の自由、表現の自由、ビラまきの重要性(マスコミにのらない事実を訴える権利)を擁護し、ビラまきに敬意を表する精神と態度を涵養すべきです。
ただ救いもありました。「〇〇先生ですね。大学で先生の授業を取りました。今この近くの会社に勤めています。」と、かつての教え子から声をかけられました。知り合いの小出版社の代表の方からも「暑い中、身体に気をつけて下さい。」と。
もうひとつハプニングがありました。隣である政治団体が拡声器で訴えているとき、混同されては困ると思ったのか、幹部らしき人が寄ってきて「あんたたちはどういういう解決法を持っているのか」と聞いてきました。私は強制収容所の事実をあくまで広めることしかないと答えました。
相手は「事実は知っている。問題は解決の方法だ。日本は国交を結んでないから外交ルートがない。」と言い出しました。私は思わず「あなたの言い分は外務省の役人の言い方とそっくりだ。私たちの会のことはご存知か。」と言ったところ、「知らない。しかし帰国運動のことは『在日』という映画を見て承知している」と答えました。民主党の代議士とコンタクトのある政治団体(当時参加した金鉄雄氏によれば旧ML系)の幹部でした。ビラをまいたあと近くで3人でコーヒーを飲みながら、この出来事を披露したところ、終始冷静な佐倉洋氏は、「相手の方法論をじっくり聞いたらよかったのに。」といいました。こんな出来事もあった駅頭ビラまきでした。この次はもっと多くの人が参加してくださるよう、この場を借りて訴えます。そのため曜日と時間帯を考えます。
北朝鮮に渡った友はいまどこに
李哲秀君 無事か
40年前の大きな時代のうねりに消えた友 私は昭和16年12月25日生れの男です。昭和22年の夏、「奈良県立奈良高等学枚2年生」の私のクラスに李哲秀という(素良の吉野から来ていた)肺活量7,500ccとの超丈夫な、クラスでも優秀な同級生が、「いよいよ、朝鮮に帰れる事に成つたと」ハングル文字で書かれた教科書のような物を私達に見せて、声高に「マンマ、ヘンギラ」と読み「母さん、飛行機」と得意そうに、大きな〝エクボ〟をへこまし説明してくれた。あれから40年、今でも、李哲秀君のことを思い出します。
吉野の山奥で〝木こり〟をしていたというその体は、逆三角形、学校一のスポーツマンでした。李君なら母国朝鮮に帰れば、きっと名を上げ、日本に帰って来るだろうと級友達と話していたのをおぼえています。でも、帰国朝鮮人のスパイ説をマスコミで知り、今また、萩原先生の『北朝鮮に消えた友と私の物語』で、李君の悲しき帰国に涙、涙です。あれほど喜んでいた李君の笑顔を今、また頭に浮んで来ました。
我がクラスでは「アメリカン・フィールドサービス」でアメリカのフロリダヘ留学した友と李君が消え、火の消えたような、さみしい高校生活でした。「絶対に文通する」と別れた「李哲秀君、君は今どうしている」是非とも、もう一度、会いたいものです。
確か、都合で、我々より1才年上だと聞いていました。「生きていてくれ、李君」君なら、亡命してでも生きるはず。“帰ってこい李君”
(釜田紀昭)
帰国した彼女は幸せか
1972年に定時制高校を卒業し私は都内のビルディング会社に勤務しました。
新しい同務が来たと社内の人達から随分可愛がられたものでした。私のウリマル(朝鮮語)学習担当であった朝高OBの李潤順さん(女性)が金日成還暦祝賀の一環として家族で北朝鮮へ帰国することになりました。朝大教員である父親は飛行機でソ連経由で行くということでした。その後平壌の李潤順さんから手紙が届き「金鉄淀さん、ウリマルの勉強していますか、私はタイピストとして文化連絡会に勤務しています。学校には入れなかったけど勉強はいくらでも出来ます」という内容でした。手紙には住所が書いてなかったので知人から住所を聞き「統一されたら会えるでしょう」と返事を出しました。その後風の便りで「結婚した」と聞き複雑な気持になりました。幸福に生活しているのでしょうが、私自身が人生を遍歴する中で1990年頃から北朝鮮の経済不振が伝えられるようになり、そして北朝鮮の社会のすさまじい状況がわかるようになり、「彼女は元気だろうか、子供は何人いるのかな、帰国者という事で苦労がなければ良いが」と思うようになりました。その後も北朝鮮の状況のきびしさは増すばかりの様ですが、いつか会える機会があることを期待して。
(金 鉄雄)
最初の文章は萩原遼氏の『北朝鮮に消えた友と私の物語』を読んだ感想として東大阪在住の釜田紀昭さんより寄せられたものです。自筆の似顔絵が添えられておりカットに使わせていただきました。
金鉄雄氏は本会の運営委員。
北に帰国した人たちのその後に大きな関心が高まっています。 (編集部)
帰国者からの手紙
〇〇子さん! 貴女の忙しくもあるが楽しい夏休みの報告を読んでおりますと日常忘れがちだった遠い昔がなつかしく思い出され、私も一緒に貴女の行事に参加させて項いたような楽しさを感じたものです。
実は今の私は死ぬことを許されないがゆえに生きているだけなんです。〇〇子さんもいろいろな方面から北朝鮮のニュースを聞いておられるでしょうが外国との交流が切れ、国内資源の制限された経済状態の為、労働者はほとんど出勤するだけで遊んだ状態ですし生産物がないだけに給料も6月から遅配です。大人ばかりの6人家族で何ヶ月も一銭も収入のない生活を〇〇子さんは想像がつきますか?もし、くれたとしても大の男が一ケ月働いて闇タバコ2個分にしかならないのです。こんな訳で若い者たちは悪いことにばかり頭を使い幹部たちは袖の下ばかりねらうので、袖の下の使えないものは一歩も身動きがつきません。
それだけではありません。食生活においてなくてはならないお米の配給は月に2回(15日分)するのですが、その配給さえも2ケ月分遅配し人民たちは口では言えないくらい喘いでおります。私もその中の一人ですが配給所の待合室で前の晩から来た順に番号と名前を記入し列を並ぶのです。いくら夏とはいえ夜中はやはり冷え込みます。他の人たちは地べたにビニールを敷いてその場に寝込みます。“草木も眠る丑三つ時”となると私もなんとなく眠りに追われますがどうしても神経が寝つけません。そんな時輝く夜空を見上げておりますと底冷えがし、体全体からこみ上げる涙が二筋のほほを伝い流れる時の苦しさ、空しさ、悲しさと空腹を何にたとえれば、〇〇子さんは理解することが出来ましょうか?
家には夜が明けても何も食べるものがないだけに家にも帰れず座り込んでいると目の前がぼうとしてきます。完全な栄養失調と知りながらどうすることも出来ないんです。50の峠を超えた今になってキャベツをゆがいてマヨネーズ、ケチャップ、ソ─ス、バターは何もなく唯しょうゆにつけて食事代わりにしたのも生まれて始めての事です。一日三食が人間生活の法則なんですが私など一日二食が常識になりました。こんな苦しい中でも誰一人として不服を口にする人はありません。“もの言うに口寒し”で、一言でも口走るなら二度と明かみを見ることのない始末になります。それが独裁の持つ特権です。ですから私はすべてをしんぼうの一言で持ちこたえて一生懸命内職にむちを打って来たのですが自分の体のほうが先にやられ生活に何の足しにもならない体になってしまったのです。
これだけではありません。実は25歳になる娘(二番目)が生死の境を彷復よっているのです。原因は栄養失調からくる腸炎なんですが胃から下が全部悪いらしいんです(特に大腸炎)腸の中の脂肪分が全部ぬけ切り何を食べても直通するのですから食事法に気をつけ栄養分を十分に取ってやらねばならないのですが今の状態で、お米を見たのが4ケ月前のことだけに手のつけようがありません。娘自身も自分が先あまり長くないものと思いながらもかえって私を元気づけるかのごとく何のグチもこぼしません。
でも時にたまりかねて“お母さん!何かあまくおいしいものが食べてみたいね”と言われる時、母としての役割を果たせない自分が子供の前で大きな罪を犯している人間の様な恐ろしさを感じ子供の顔をまともに見ることが出来ません。
この世に女として生まれ一度も花を咲かせることなく淋しくこの世を去るお話を、映画や小説などでよく見たことはありますが自分が直面してみるとどうしてよいか迷います。
〇〇子さん!こんな時、私はどうすればいいのしょうか?
この手紙は1992年9月5日付けで昔の日本の高校のクラスメイトにあてられた、帰国した在日朝鮮女性からのものです。この人は高校卒業まもなく北朝鮮に渡り、30年あまりたって50歳の峠を越したと記されています。現地で生まれた娘が25歳になっています。
1992年にすでに配給が2ケ月も切れ、給料は6ケ月も遅配している状態だと記されています。闇市と賄賂が横行する無政府状態がすでにこのころから生まれていることを伝えておりきわめて貴重な内容です。母に心配をかけまいとしてグチひとつこぼさない栄養失調の娘さんのけなげな姿が涙を誘います。
(編集部)
第8回関西支部講座で藤森克美弁護士が報告 『帰国運動の法的責任を問う』6月27日
統一協会やヤマギシ会の問題に取り組まれるなど、多くの人権問題に関わってこられた藤森弁護士に、北朝鮮で重大な人権侵害に苦しむことにつながった帰国運動について、その法的責任を如何に問うべきかを報告していただいた。
会場では30名を超える参加者が真剣に聞き入り、原告になりうる人たちの姿も少なくなかった。また、今回は初めて参加された人が多かったこと、遠方から参加された人もあったことが特徴でした。
藤森弁護士の報告の概要は以下の通りです。
朝鮮総連の目的は在日同胞の民族的大衆団体であり、在日同胞の民族問題・生活問題の共助組織として、あるいは差別撤廃の運動体としての役割がある。朝鮮総連の綱領の3には「われわれは在日朝鮮同胞の居住、職業、財産、および言論、出版、集会、結社、信仰などすべての民主的、民族杓権益と自由を擁護する」と明記されている。したがって、総連には構成員の生命身体の自由を守る契約義務がある。
また、総連は帰国運動に際し、大々的な帰国勧誘のキャンペーンを展開し、それによって総連加入者以外の人たちも多数帰国した。一総連の構成員であろうとなかろうと、帰国に際して重要事項の不告知、あるいは不実の告知があった場合には、総連の責任は免れない。日常物資の不足や生活上の困難が予想されるにもかかわらず、その事態について正確な説明をせず、「地上の楽園」と思わせたことは責任を問われねばならない。
誰が原告になれるかというと、原告になれるのは直接の被書者である。帰国者は原告になれるが、日本で訴えを起こせなければならない。北朝鮮を脱出した帰国者ならば、日本で原告になれる。また、帰国者の日本にいる相続人も原告になれる。しかし、たとえば在日の兄がスパイと誤解され、その濡れ衣がもとで帰国者した弟が収容所へ送られたような場合には、濡れ衣を着せられた在日の兄は原告になれる。
時効が成立していないことが条件になるが、具体的な事例に即して検討したい。
日赤の責任も追及できる。日赤が関わった事業で人道的被害が出ていることが明らかであるから、安否調査や救護のための行動を取る責任がある。
裁判の場で事実関係と責任の所在を究明することで、今進行中の深刻な人権侵害の改善につなげたい。裁判は手弁当で進めるので、数万円の予算で可能である。
(山田文明)
東京学習会報告 7月24日 「帰国事業と北朝鮮の状況について」 守る会運営委員 金鉄雄
「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」東京学習会「帰国事業パート2」を7月24日に川崎駅周辺でビラまきを行い、その後、川崎市教育文化会館で行いました。
1「帰国事業と北朝鮮の状況について
レポーター金鉄雄(運営委員)、
2「主体思想の評価について」
講師小川晴久代表が報告をしました
(小川代表の報告は次号掲載予定)
1.「在日朝群人帰国事業」1956年 赤十字国際委員会を仲介にして、日赤と北朝鮮赤十字が在日朝鮮人の帰国問題を密かに協議する。
1958年8.11 川崎市内の総連中留分会で集団帰国を決議、中央の幹部による指導があったという。
9.8 金日成首相「在日同胞が祖国に帰り新しい生活ができるようにすべての条件を保障する」と演説。
9.16 南日外相「在日同胞を帰国させるため処置を講じよ」と表明。金一「共和国政府は旅費、帰国後の生活の準備が整っている」と表明。
1959.12.14 新潟港から第一次帰国船が清津港に出航。
植民地支配から解放されたが、差別と失業、負困と生活苦の中で在日朝鮮人が祖国に帰り社会主義国家建国に寄与したいと、帰国運動が起こり、1958年8月に川崎一市内の総連・中留分会で帰国決議がとられ、金日成首相に手紙が届けられた。翌年に帰国協定が実現し、12月14日第一次帰国船「クリリオン号、トポリスク号」が帰国希望者975人を乗せ、新潟漁を出航する。そして1984年までに9万3千人が帰国。
その後北朝鮮での生活の惨状を訴える手紙が相次ぎ、行方不明者、強制収容所送り、処刑と、北朝鮮への帰国は帰国建国と自己の能力と適正に応じた自己実現とはならず、逆向きのものとなってしまった。
この帰国事業には在日の故国帰国への願い、日本、北朝鮮政府の意向を受けたと思われる赤十字間交渉、日本での在日に対する追い出し策謀が背景にあるが、北朝鮮側にどのような帰国事業の必要性があったのかを「今画の学習会のテーマ」にしました。
そして、萩原遼「北朝鮮に瀦えた友と私の物語」により、帰国事業は朝鮮戦争終結に伴う日本の民戦の政治指導部であった日本共産党民対幹部に利用された「国家保衝部、労働教化所」の北朝鮮への追放に源流がある事が判明、帰国者の様々な悲劇は、帰国事業の帰結となり、北朝鮮政治の構造から生じた事であった。
2.帰国事業を必要とした北朝鮮の状況
1945年10.3 ソ連軍政実施。ソ連の衝星国家政策の元でソビエトシステムの導入、産業国有化、土地制度改革、不在地主の禁止、労働教化所(強制収容所)、文化におけるソビエト文化の導入は模倣と自己同一化になる(スターリン大元帥万歳、ソ連に学ぶことは我々の義務である。金日成)
1950.6.25 朝鮮戦争起こる。
1953.7.27 朝鮮戦争休戦成立。スターリン死去。
56年 ソ連共産党20回大会スターリン批判。
ソ連極東軍に所属し、ソ連の政策により擁立された金日成の政治危機、戦争の責任のなすりあいから南労党系との党内闘争が始まり、これにソ連派系、延安派系が加わり、理由は個人崇拝批判、軽工業優先を掲げた金日成批判、クーデタ計画の発覚等であった。軍と保衝部を握る金日成系が勝利する。朝鮮戦争の休戦に伴い経済復興計画が重要課題となるが、産業国有化に基づき工業馳設を稼働させるにおいて、植民地政策の結果、朝鮮人の技術者は育たず工場施設は稼働させられず、日本人の技術者を残留させ施設を操業させる事態があり、日本で高等教育を受けた朝鮮人を技術力の高い労働力として補充する必要があり、また日本では就職差別があり両者の都合が一致する面があった。
1954-56年、経済3ケ年計画。
1955年「思想活動における主体性を確立するために」の演説。
1956年「ソ連共産党20回大会」フルショフのスターリン批判。
1958年第一次5ケ年計画(千里馬運動)。
1961年第4回党大会、甲山派系起用、7ケ年人民経済発展計画。
南労党系、ソ連派系、廷安派の粛清の中で反金日成闘争もあったと云われ、党内抗争による殺伐とした政治状況の刷新と、スターリン批判後の個人崇拝批判を避けるためソ連一辺倒をさける必要があり、その為「朝鮮文化の社会主義」を強調すると共に帰国事業を行い政治ムードを変えようとした(「守る会」元運営委員、張明番氏)。
また朝鮮戦争の結果労働力不足となり、それを補うため海外に移住する朝鮮人を北朝鮮に移住させる政策が取られたと思われる。
お知らせ
『生命と人権』の合本が出来ました。
『生命と人権』の創刊号から10号までの10冊を箱ケースに収めた合本ができました。まとめて普及するのに最適です。
頒価5千円、注文は守る会まで。
曺浩平、小池秀子書簡集が出版されました。
北朝鮮の闇に消えた若き科学者と日本人妻が日本の親族にあてた書簡集です。1962年の帰国から1967年ごろまでの二人の状況と北朝鮮の実状がきびしい検閲を通して伝わってきます。申し込みは下記、
〒136-0072 東京都江東区大島7-6─6 三浦小太郎
書簡集は送料をふくめ500円分の切手を同封してください。
朴春仙さんの居酒屋『潤(ゆん)』がオープン。
守る会の創立に大きく貢献された朴春仙さんが京都で居酒屋を7月30日にオープンしました。
京都市右京区西京極前田町2-6
ソニアMビル1F(地図)
tel075-313-5388
阪急西京極駅より歩10分
PM5時から午前零時まで、yun.jpg (33176 バイト)
編集後記
★ 熱い8月となりました。会員の皆様,お変わりありませんか。40年前の1959年8月13日インドのカルカッタで日本と北朝鮮の両 国の赤十字による「在日朝鮮人の帰還協定」が調印され、その年の12月14日、帰国者のせた第一船が新潟を出航しました。あの日から40年。10万人近い在日コリアンがなぜ大量に北に濠ったのか。40周年のことし各方面の専門家を招き考えてみましょう。そしていまの私たちはなにををすべきなのかをも。
★今号も関西支部の会員山口修さんがパソコン入力とレイアウトで大きな力を発揮してくださいました。毎号人権情報を作成してくださっている佐伯さん、帰国者の手紙を提供してくださった方々や投書をお寄せ下さつた方々に心からお礼を申し上げます。(遼)