かるめぎ No.34 2000.08.20

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会報『かるめぎ』の過去号を、旧サイトから、順次こちらにアップしていきます。この機会に、過去の『かるめぎ』を通して、守る会の歩みを知っていただければ幸いです。

「守る会」 北朝鮮の人権改善で要請 7・2北朝鮮人道支援国際NGO会議と 7・3日朝国交促進国民協会設立講演会で

 南北会談の「成功」と日朝交渉の再開を受けて日本でも様々な北朝鮮支援と国交促進の動きが始まっている。「守る会」は、これらの動きに全面的に反対はしていないものの、帰国者の多くや強制収容所収容者や被拉致者の非人道的状態の解決への無関心には厳重な警告を発し、解決への努力を強く求めている。日朝国交促進国民協会ならびに北朝鮮人道支援NGO諸団体への要望書。

要望書 北朝鮮の山の中の強制収容所に目を開いてください!

 私達は今から40年前に始まった帰国事業で、日本から北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国に渡った約9万3千人(日本人妻推定5千人含む)の人権問題に6年前から取り組んでいる市民団体です。私達の立場から貴協会の設立とその運動に当って是非とも要望したい事を記させて頂きます。

 私達は7年前数名の帰国者の遺家族から弟が、兄が、息子が、北朝鮮の山の中の強制収容所(北では管理所といいます)で殺された事実を証言集会(1993年11月7日 カンダパンセ)で開き、強い衝撃を受けました。

 この事実をつきとめるまでに、遺家族は10年以上の時間と、あるケースでは多額のお金を費やしているのでした。

 事実をつきとめても、遺家族はすぐに世間に訴えることができませでした。酷(むご)い人質政策のためです。それを公表すれば、北朝鮮にいる家族や親戚が収容所送りにされる危険や、二度と北の家族訪問が出来なくなるためです。

 3年後の里帰りの約束を信じて、北に渡った日本人妻たちが、40年近くも里帰りを許されなかったのは、なぜでしょうか。3年後の1962年に、日本人妻たちは里帰り要請の署名をたくさん集め、当局に要求したところ、その中心メンバーたちが山送りされた事実も、この運動の中で知りました。日本からの帰国者のうち、1割から2割が山の中の収容所に送られたと、遺家族の方達は推定しています。事実、行方不明者が、たくさんいるのです。

 以上の遺家族や家族の証言は、私達「守る会」結成の時(1994年2月)に奇しくも日本で翻訳され、出版された強制収容所体験者の二人の青年、姜哲煥、安赫、両氏の手記『北朝鮮脱出』(文芸春秋、現在、文春文庫上下)で 100パーセント立証されました。耀徳(ヨドック)15号管理所に 1978年から10年間(9歳から19歳まで)囚われていた姜哲煥(祖父、母、父が京都出身)氏は、収容所の中に在日朝鮮人の5千人の集落があったことを証言しています。

 1979年から、日本の家族が北の親族(帰国者)を訪問できるようになりました。その生活の余りのひどさにショックを受け、それ以後、お金や物の差し入れのための親族訪問が始まりました。しかし、北で見た事を一切公言してはならぬという誓約書を書かされて、訪問者は有り余るほどの真実を知りながら、収容所のことを含め、帰国者の惨状を語ることが出来ず、今も出来ないでいます。

 私達「守る会」は、7年前の勇気ある遺家族の証言を直接聞いて、山の中の強制収容所の存在および実態と酷い人質政策を始めて知り、遅まきながら会を作り、今日まで6年間訴えてきました。当初は真相の解明や、行方不明者の探索という強制収容所に関わる問題に取り組んでいましたが、3年前の日本人妻里帰り一部実現以来、在日帰国者全体の里帰りとも言うべき日本との自由往来の要求を掲げるようになり、現在では私達の活動の柱は、山の中の強制収容所の廃絶要求と、帰国者の自由往来の二つとなりました。

 私達の6年間の取り組みから言えることは次のことです。

 北朝鮮内部の真実が、そとの社会に知られるのを阻んでいるのは、人質政策によります。人質政策が効果を発揮するのは、山の中に強制収容所があるためです。10か所前後有ると言われる強制収容所は、北朝鮮のあらゆる人権侵害を可能にし、人々を恐怖に陥れる根源です。人々を沈黙させるのも強制収容所です。なぜなら反革命分子と訴えられたり、烙印を押されたら裁判もなしに、しかも、家族ぐるみ入れられてしまうからです。そして金日成、金正日父子が世界に知られるのを最も恐れてきたのも、この収容所の存在です。

 私達は、本集いに参加の皆さんに訴えます。日朝国交を促進していくに当って、北朝鮮民衆の恐怖の根源である、山の中の強制収容所の存在と実態をよく承知しておいていただきたいこと、そしてアウシュビッツに勝るとも劣らぬ「北朝鮮強制収容所」問題の解決を今世紀中に解決しなければならぬ「20世紀の問題」としてとらえ、この解決にも努力していただきたい事です。

 まず国交樹立、賠償が先だという先後の問題ではありません。収容所問題をふせて巨額の賠償金を払ったら、強制収容所を根幹とする今の金正日体制を固め、支えてしまう事になるからです。

 また内政干渉でもありません。北朝鮮は国際人権規約(自由権規約)に 1981年に加盟していますから、それを守る義務があります。最近になってやっと国連人権小委員会でも2年連続決議が採択されました。(1997年と1998年)。フランスの知識人も昨年声明を発表し、アメリカでは上院で公聴会も開かれています。姜哲煥、安赫著『北朝鮮脱出』(文春文庫上下)、安明哲著『北朝鮮絶望収容所』(ワニ文庫)を是非読んで下さい。韓国情報部による歪曲、誇張が有るというような問題ではありません。溢れるような事実が、そこに示されているのですから。

 私達が要望したいのは以上の事です。横田めぐみさんをはじめ、日本人被拉致者の原状回復の問題も、日本人妻の早期全員の里帰り実現も、すべて強制収容所問題の解決一つにかかっています。まず国交樹立ありきではありません。

2000年6月 25日 朝鮮戦争50周年の日に
北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会 共同代表
小川 晴久
金 民柱 
萩原 遼 

国民協会設立に即座に対応した「守る会」 共同代表 小川 晴久 

 6月 13日~ 15日の平壌での南北首脳会談とその合意は、世界を驚かせた。しかし、時が過ぎてみると、北(金正日)の体制を経済的危機から救おうとするもの以外の何ものでもないことがハッキリしてきた。その矢先、日朝国交促進国民協会なる組織の旗揚げというニュースがとびこんできた。会長は村山富市、副会長は明石康、隅谷三喜男、三木睦子、理事には各界から 19名、顧問4名、諮問委員には私の知っている人ばかりの研究者7名という内定役員の顔ぶれ。設立趣意書には、 2002年のサッカー・ワールドカップの年までに日朝の国交を結ぼうとある。これは和田春樹さんの口ぐせだという。和田さんは理事に名を連ね、どうやら国民協会設立とこの運動の黒幕らしい。来る7月3日に設立記念講演会を昨年 12月5日私たちが、北朝鮮の山の中の強制収容所の廃絶を訴えた「東京国際フォーラム」を開いたと同じ星陵会館のホールでもつという。明石康氏と小此木政夫氏を講師として。

 このニュースに接して、この組織が誕生する前に内定しているという役員たちに訴えねばならぬと思い起草したのが「北朝鮮の山の中の強制収容所に目を開いて下さい!」という要望書(別掲)であった。運営委員会を開いている時間的余裕はなかったので、共同代表の名において作成したが、7月2日までに内定役員に届けるため、約30名の内定役員の住所(連絡先)を調べる必要があった。2人の運営委員が敏速に事に当ってくれた。第一ラウンドは終わった。

 内定役員たちに国民協会なる組織が発足する前にどうしても私たちの意思を伝えたいというのが主眼であったので、それは郵送までですんだのであるが、7月3日、記念講演会の夜は幸か不幸か他の予定は入っていなかった。前日の7月2日(日)無条件の食糧支援を進めてきた北朝鮮人道支援国際NGO会議の公開シンポが日本青年館で開かれ、運営委員の佐倉さんたちは、そこで、この要望書や4・9総会決議をチラシにしてまくという。そこで7月3日の夜も集会参加者用に若干手直し、会場入口で要望書をチラシにしてまくことにした。

 会場に行ってみると右翼のある団体が「赤い悪魔 金正日打倒」という横断幕を用意し、会場前で国民協会粉砕をスピーカーで叫んでいた。横田めぐみさんたちの原状回復も訴えていた。私たち「守る会」は、国民協会に山の中の強制収容所の存在と実態を知ってほしいと訴えに来たのであって、粉砕という立場ではない。同じグループと思われても困るので、建物内部の入口のところでチラシを配ることにした。おまけに運わるく、当日他の運営委員は都合悪く、ビラのまき手は私一人であった。集会参加者も予想よりも少なく100名程であったので、用意した 250枚のチラシは1/4位しか実際には手渡しできなかった。しかし、いくつかの意味のある出来事はあった。

 開会直前にかけつけ、5分間で去った野中広務自民党幹事長にチラシを手渡すことができたこと。講演後、明石康氏にもっと横田めぐみさんたちの原状回復を重要視してほしいと訴えることができたこと(氏が講演の中で拉致問題も人道的問題かもしれませんが…と言ったので、私は「かもしれないという言い方は正しくない」と指摘した)、開会前、ロビーにいた小此木氏に要望書を手紙で送った市民団体である旨挨拶したためか、氏は講演の最後で強制収容所問題に言及したこと、等々である。

 今回は急なことであったので、運営委員会のまたその一部のとりくみに終わったが、今後は都内の会員の連絡網をつくり、一人でも多くの会員の手を借りたいと思う。

 北朝鮮食糧支援では二割の国民の切り捨てを即時止めるべきだ。

「DPRK(北朝鮮)人道支援国際 NGO会議公開シンポ」に参加して感じたこと

 「市民NGOがひらく 北東アジアの明日」と題するDPRK(北朝鮮)人道支援国際 NGO会議公開シンポジウムが7月2日、東京の日本青年館で行われた。主催者は同実行委員会。実行委の母体となったのは 1998年に「一食キャンペーン」などを行った北朝鮮支援にかかわる 20以上の日本のNGOが参加した「 DPRK人道支援 NGO連絡会」である。シンポは前日、前々日の非公開会議に続くもので国連や国際 NGO関係者も交えて、 200人位の若者を中心にした参加者があり、同時通訳のサービスも完備していた。

 基調講演では武者小路公秀氏が、守る会や RENKの名前をあげ体制維持と食糧支援との関連で、「食糧支援に反対して体制崩壊に導くのは現実的ではない」とふれた。またパネラーの一人吉田康彦氏は、「写真撮影や農村訪問などで北朝鮮の担当者とぶつかりながら支援を続けている」と明かした。徐京錫氏(韓国仏教者の同胞助け合い運動執行委員長)は、「北支援は韓国本来の反共姿勢に反する、しかし 96年からの北の惨状で韓国人もじっとしていられなくなった、保守的な宗教人も支援して韓国国民は支援者を赤とは言えなくなった。北支援には忍耐が必要。我々は北の人権も脱北者の問題も取り上げない。援助の透明性も提起しない。提起すれば北の同胞を助けられないから、これまで忍耐してきた」と語った。さらに熊岡路也氏( JVC代表)は「ミサイル問題を持ち出し担当者と激論になった。聞きにくいことも出していく必要がある」とコメントした。

 そして、「一度も支援食糧を受けたことがない、という脱北者の子どもの証言があるが」との会場からの質問に関連して、北朝鮮に駐在して支援にあたっているユニセフやUNDPなど国連関係者が、現在全土の八割の地域に支援食糧が届いているが、まだ二割の地域には全く支援が届いていず、立ち入りも許されていないこと、また幼稚園や保育所といった組織を通じて支援されているので、組織に関係しない子どもには行き渡っていない事実が明らかにされ、このことが原因だろう。と、話された。

 このシンポでは、様々な支援上の苦労話の一方、支援食糧が二割の地域にまだ届いていないことが明らかにされた。この差別的な援助の事実は見過ごせない。この二割の地域には、まさにミサイルや核施設、強制収容所などが点在しているに違いない。わたしは、北の人々を支援することに反対するものではないが、このことを容認することは、例えば沖縄には軍事施設があるから、住民福祉は差し控えることを容認することになってしまう。たとえこの地域に軍事的な機密施設があるとしても、この地域に食糧支援を行き渡らせることが不可能なはずはない。それが体制問題にかかわることとも思われない。北朝鮮食糧支援では、このような制限の即時撤廃を北当局に要求する必要がある。逆に、これを認めることは人道支援団体自ら国際的な差別的北朝鮮食糧支援に荷担することになりはしないだろうか。このシンポに参加してその思いを強く持った。

(佐倉 洋)

『市民・NGOがひらく北東アジアの明日』 主催: DPRK(北朝鮮)人道支援国際 NGO会実行委員会に参加して        

 「守る会」運営委員・佐倉氏と共に「かるめぎ」号外編(北朝鮮の山の中の強制収容所に目を開いて下さい)等他を持ち、会場の内と外でおもに休憩中に配った。

 おおよそ配り終えた頃、主催者側と名のる人物(男性)が私の手からビラを受け取り読んでいたが、佐倉氏にむかって文中の文言につき、難くせとも取れる質問を始め、また私には、女性の主催者側という人物2名ほどが、つめ寄った。「私達が主催しているのだから」「私達はそのようなビラを配っていない。だから受け取れない」と言い睨みつけられる事、しきり。

 それでもかまわず残りを配っていたが、佐倉氏に対し声を荒げていた先出の男性が「日本人妻の手紙」の載ったビラをビリビリと破いた。それを見て思った。

 「祝賀ムードの南北首脳会談を機に、いきおい付く彼等支援団体は、北の暗部を見ずして体制擁護の下に人道を叫び、現政権の使い走りボランティアなのか」と。

 なぜなら、北の全国民約 2200万人のうち一部をのぞき「日本人妻」の現状とさして変わりない生活を送っているであろう。その窮状を訴える文章が載ったビラを大勢の人達が見ている前でビリビリに(名刺大位)破り捨てるとは、彼等は何をもって人道を唱えるのか。

 食糧支援けっこう。タマゴやバナナを送るもけっこう。当日訴えていた「北は農業支援もさることながら、工業、おもに重工業をおし進めねば」と言う考えもおおいにけっこう。しかし、その前に現実、風前の灯の如く命の火をともす人民。強制収容所の存在。被拉致者。圧政の下で呻吟する人民。それらの事に目をむけた上での人道支援であろう。

 ビラを破いた人物の意図が理解できない。パネリストの一人が「主体思想」について何度も北へおもむき、国際大学でうんぬんと述べていたが、北の体制批判はついぞ聞けず、むしろ支援することで北の立て直しを、外に対する不信を取りのぞく事が先決であると言った。国交第一と。そして私達の会の事を指して(ビラを読んだものと思われる)「行方不明者が出ている様な事も有るには有るが・・・」と言葉を濁した。

 さらに、「中国方面への脱北者3名については、ピョンヤンに人権研究所なるものがあり調査した。そこの責任者は、シン・ヒョンリョル(?)なる立派な人物である」と、述べた。人権についての北の体制は機能しているとでも言いたげであった。ならばなぜ、今も危険を承知で脱北者、亡命者が続出するのか。少なくとも、日本が支援し、パートナーとなりたいのは体制側では無い。人民である。人民あっての国家であろう。

(小野美智子)

ソウルからの通信 ―「南北首脳会談後のソウル風情」― 「守る会」ソウル駐在員 東 昇 平 

 南北頂上会談が予想以上の成功に終わり、韓国は「北韓ブーム」で沸いた。ソウルの大型書店に行くと必ず「北韓コーナー」が設けられ、ベストセラーの中には統一問題や北朝鮮関係の書籍が多く並んでいる。

 先日カラオケに行ったが、北朝鮮の代表的な歌謡曲である「フィパラム(口笛)」や「パンガプスムニダ(会えて嬉しいです)」が新曲として入っていた。街中でも北の歌謡曲を韓国の新人歌手がカバーしたCDが売られはじめ、ヒットチャートにも載っている。

 北朝鮮を「北韓」と呼び、「北韓」に対するアレルギーが強かった数年前の韓国では考えられないことであろう。

 学界では北韓研究学会をはじめとした政治研究系の学会が活動を活発化させ、多くの大学や研究所で南北頂上会談の成果に関するセミナーが行われた。また、学生同士の会話を聞いていても、統一は予想より早く成就するといった楽観論が目立っている。

 南北頂上会談に対する韓国国民の反応について、7月21日付「ハンギョレ新聞」に掲載された全国の中高校生対象の一調査をここでご紹介する。「南北頂上会談以後の北韓に対する考え」設問調査の結果は「否定から肯定へ」が39%。「前も今も肯定的」が28.6%。「前も今も否定的」が17.8%となっている。また、「北韓についての情報を主にどのように得ているか(複数回答)」という質問に対してはテレビ87.7%、新聞・ラジオ48.1%と、予想通りマスメディアの影響が大きく回答に反映された一方、教科書や先生との回答は24.7%に過ぎなかった。

 また、「学校の統一教育が北韓社会を正しく理解するのにプラスとなっているか」という質問に対して肯定的に回答したのは33%に過ぎず、多数が否定的反応を示した。

 一方、周知の通り今年は朝鮮戦争勃発50周年であり、半島分断を固定化させた原因たる朝鮮戦争にスポットを当て、多くのセミナーが行われ、多くの研究業績が出されつつある。日本においては軍事史学会がその季刊学術誌『軍事史学』において朝鮮戦争の特集号を組むなど、ソ連崩壊後の新資料を用いた最新の研究が発表された。

 韓国では、国防部が中心となり6・25戦争50周年記念事業団(註:韓国では朝鮮戦争を主に「6・25(ユギオ)」と呼ぶ)が組織され、それに関わる多彩な行事が予定されていたにも関わらず、ソウルにある戦争記念館における記念式典と記念展示等を除いては、ほとんどの行事が中止されてしまった。

 同記念館では6月25日から9月30日の期間、無休で企画展「ああ! 6・25―その時は自由を、今は統一を」を公開している。サブタイトルの「その時は自由を、今は統一を」は、南北関係の急転に即応したもので、北朝鮮社会の悲惨さや金日成個人の戦争責任問題等は極力排除されている。

 しかし、一般観覧者にわかりやすく展示されていながらも水準は高く、「守る会」共同代表の萩原遼氏が『朝鮮戦争-金日成とマッカーサーの陰謀』(文芸春秋、1993年)で発表された研究成果も大いに活用されているようだった。

 なお、ソウルにおいて北朝鮮の原典や研究資料を求めるに最も有用な場所は統一院の北韓資料センターである。当センターは光化門郵便局の六階に位置し、身分証提示の上で誰でも閲覧できる。大学図書館としては慶南大学校極東問題研究所(北韓大学院併設)の図書館が非常に有用であり、一般も利用可能である。

遼さんのワシントン便り 

「南北会談 100人の離散家族再会では、何も変わらない。日朝国交交渉では帰国者と日本人妻を議題に」

 日本からの手紙で「こちらは連日30度以上です。きょうは37度でした。そちらも暑いでしょう?」。ところが申し訳ないほど涼しいのです。朝7時ごろは20度くらい。少し肌寒いほどです。もちろん日中は暑いですが、それでも27.8度。朝晩の涼しさは、信州や木曾の山の中のようです。けさは深い霧でした。外に出ると頬にやわらかな霧雨でした。

 ワシントンにきて2か月あまりになりました。当地に着いて家探しにほんとうに苦労しました。アメリカは、いまバブル景気で土地やアパートは、私が10年前にいたときより2倍から3倍の高さです。私の懐具合では500ドル、高くても700ドルと考えていたら、こちらの不動産屋にバカにされました。最低1,500ドル出さないとだめだと。16万円もどうして出せるのか。昔住んでいた黒人街を飛び込みで、片っ端から当たってもどこも満杯。中には2002年までふさがっていると胸を張っているアパートの管理人もいました。

家 探 し の 苦 労 

 そんな私を、泊まっていたホテルの黒人のメイドのおばさんが同情してくれて、親戚の一室(12畳くらい)を月500ドルで貸してもらうことになりました。毛布とシーツに枕と目覚時計つきベッド、机、本棚、テレビとビデオなどは、レンタルの家具会社から月180ドルで借りました。これはワシントン駐在の記者から教えてもらったことで、10年前は、こんな便利な会社があるとは知りませんでした。

 私の住む所は、ワシントンに隣接したメリーランド州のホワイトオーク(白樫)という所です。バスで10分ほどで地下鉄の駅。そこから20分でワシントンの中心街です。埼玉県の飯能から東京の都心まで2時間かかっていたことを思えば楽なものです。郊外ですので緑の森林がぐるりと取り巻いています。ワシントンは、どこの公園にもリスは珍しくないのですが、私の住むところで野ウサギを2度見かけました。朝の散歩中、薄茶色のウサギが5メートルほどの草の上でチョコンと座っていました。目が合うと、ちょっとキョトンと見上げていて、すぐに逃げていきました。

親切なコンビニのコリアン 

 このアパートでほんとうに幸いだったのは、地下1階のコンビニの経営者が呉基洪さん(48)というコリアンだったことです。韓国の大学出で、静かなタイプです。毎朝、新聞を買いに行く中で、「私はパンが嫌いで米の飯が食べたい。キムチも食べたい。炊飯器、どこかに売ってないですか?」というと、4、5日たったらみな買ってきてくれました。ほかほかのご飯にキムチ。胃袋が生き返ったようでした。

左:コンビニの経営者 呉基洪さん(48)、右:萩原遼氏

 呉さんに、もう一度ひどくお世話になったのは、電話をつけるときです。まるで警察の尋問のような電話会社の身元調査。1回でいかず、別の係りが出るとまた同じ一からの質問。呉さんに相談したら、いやな顔もせずに2日間もぜんぶ代わって英語でやってくれました。

南北会談は画期的か 

 6月半ばの南北朝鮮の首脳会談は、ワシントンでも大きな問題として各紙も一面で扱いました。そのとき日本人の記者がこう言いました。「萩原さん、ワシントンよりソウルにいくべきではないですか。ソウルなら、いまごろはインタヴューなどでひっぱりだこですよ」。わたしの考えはまったく別でした。南北会談の背後にはアメリカがあると思っていたからです。だから取材するなら、まずワシントンだと。理由はこうです。昨年10月「ペリー報告」というアメリカの新しい北朝鮮政策が発表されました。このなかで「北朝鮮の政権が近いうちに代わる可能性はない。ゆえに米国は、この政権を相手に交渉しなければならない」といっています。アメリカが、はじめて、金正日政権の存続を公言したのです。つまり”国体護持”の宣言なのです。

 この10年間を振りかえると、アメリカは北朝鮮の核疑惑をとりあげて、いまにも武力制裁を加える構えをみせたり、北朝鮮も「ソウルを火の海にする」と脅迫するなど、緊張が続いていました。

 この「ペリー報告」によって私は、米朝関係は新しい段階に入ったと思いました。同時に直観的に「金正日は息を吹き返し、長期戦になるなぁ」と思ったのです。北朝鮮帰国者と日本人妻の救出や、飢餓や強制収容所で苦しんでいる人たちの解放もさらに長引くだろうと思ったのです。

 アメリカが北を存続させるという以上、金が要る。その金は、韓国と日本が出せということになるでしょう。一時つぶれていた村山訪朝団が昨年12月に、あわただしく北朝鮮に行きました。ついで、こんどの南北会談です。私の予想どおりです。結果も予想どおりでした。

金正日は、なにも変わっていない 

 ワシントンの別の日本人記者は画期的ではないですか、と聞きました。私がこの会談を「画期的」と評価するのは、こういうことがうたわれたときだとして、こう答えました。離散家族の再会で一万人以上が約束されたときであると。結果は100人です。金正日は南から取れるものだけ取り、自分は何も与えない、何も変えないと世界の前で宣言したわけです。北が変わったか変わらないかをみきわめる目安は、まさにこの離散家族問題にあるのです。これは私が27年前に赤旗特派員であの国に行って気がついたことです。この国の巨大な虚偽は、まさにここにあると。それを見抜かれたことを彼ら朝鮮労働党は恐れて、私を追放したのでした。

 韓国の真の姿が、北朝鮮の人民に伝わることを極端に恐れているのです。だから、韓国離散家族500万人と再会させない。手紙のやり取りも電話もさせない。FAXやEメールなどは夢物語です。完全な情報統制の下で、北の人民にはウソ八百を教えている。ほんの一握りのエリート以外は、北朝鮮人民を一歩も外に出さない。出せば真実を知って「わたしはだまされていた」と大悟覚醒することが、体制維持に危険となることを金正日は知りぬいているのです。帰国者や日本人妻の日本往来を拒みつづけているのも、この脈絡の上にあります。往来を許せば、ウソ八百がばれる。強制収容所や乞食なみの悲惨な生活の実態が露見する。この鎖国と隠蔽の政策を変えないということが、こんどの南北会談で改めてはっきりしたのです。

「守る会」の存在意義は、ますます大 

 統一どころか、50年にわたる離れ離れの家族の苦しみは、まだまだ続く。金正日政権は長期化し、後継者問題も取りざたされつつあるようです。今年29歳の金正日の息子「正男」の登場です。こうした北朝鮮の立ち直りをもたらしたのは、アメリカの政策、金正日体制護持の政策に他ならないというのが、いまの私の考えです。

 私がソウルではなく、ワシントンにきた理由もここにあります。しかし巨大な国際政治の力学の中で現実政治とかかわっている以上、この南北会談を無視するわけにもいかないし、この中で生きていくしかありません。アメリカと北朝鮮、韓国と北朝鮮をめぐる新たな局面の中で、離散家族問題こそが、いまの朝鮮問題の中で最大の問題だということがはっきりした以上、私たち「守る会」の存在意義は、ますます重要になってきたといえると思います。日朝国交交渉の議題のなかに帰国者と日本人妻の往来をきちんと約束させること、それを早期実現させることが、北の体制に風穴をあけ、韓国政府もできない離散家族問題の突破口を開く重要な契機になるというのが私の感想です。

(7月27日ワシントンで 萩原 遼)

『生命と人権』 第14号発行

二つの国際会議報告集 2000年8月15日ソウル国際会議(99,12,1~3)より

・沈黙の壁を越えて    カール・ゴーシュマン
・強制収容所の歴史的考察    アラン・ブザンソン
・唯一思想(主体思想)と強制収容所  小川 晴久
・ソウル宣言と行動方針

東京国際フォーラム(99,12,5)より

・帰国者と収容所と朝鮮総聯の責任   金 民 柱
・映画で収容所廃絶を訴えたい     安   赫
・ナチ・ソビエト・北朝鮮の収容所比較 ピエール・リグロ
・労改(中国)と強制収容所(北朝鮮)  ハリー・ウー
・アメリカも動き出した       スザンナ・ショルテ
・東京国際宣言 ほか

定   価:500円(送料160円、2口会員・定期購読者除く)
申し込み先:「守る会」本部・各支部または、TEL・FAX、ハガキ。
 0424(23)3972(小川まで)

<人権年表>『南北首脳会談と人権の動き』(2000年4月~6月)

2000年
(4月)
5日 日朝国交正常化交渉が約7年5カ月ぶりに平壌市で再開された。北朝鮮の鄭泰和首席代表は「両国の関係改善は単なる主権の認め合いではなく、加害者と被害者の間に存在する過去を清算してこそ、善隣関係の樹立が可能な極めて特殊な関係だ」と述べ過去の清算を強調。具体的には

①過去の侵略と占領に対する謝罪
②人的、物的損失に対する補償
③破壊、略奪された文化財に対する補償
④在日朝鮮人の法的地位に対する補償

──の4つを「ワンパッケージの問題」と提起し、謝罪談話では「法的拘束力のある公式文書に明記」を求めた。日本の高野幸二郎大使は過去清算の重要性では同意、「拉致問題」では「日朝関係改善の上で避けて通れない問題、赤十字会談の進展も踏まえて誠実な対応をとってほしい」と求め、弾道ミサイル開発問題、工作船領海侵犯、生物化学兵器問題や麻薬問題まで問題を列挙し、北朝鮮の誠実な対応を促した。

7日 午前の閣議後会見で河野洋平外相は、北が国交正常化交渉を拉致問題より先行させるよう提案していることについて「国交正常化のためには、拉致疑惑をはじめとする人道問題を避けて通るという気持ちはもっていない」と述べた。

8日 「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会」(会長・佐藤勝己現代コリア研究所長)は衆参全国会議員750人に対する拉致問題についてのアンケート調査結果を公表し、回答者の70%が「拉致問題は北朝鮮の国家犯罪」と回答したものの、回答率が約15%と低調だったとしている。

9日 「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」は都内・労働スクウェア飯田橋で総会を開催、北朝鮮の強制収容所の廃絶と在日朝鮮人帰国者の安否調査や里帰りの実現を目指して決議を採択した。決議は「村山訪朝団メンバーへの手紙」「朝鮮総連に対する要望書」「日朝議連参加の国会議員の皆様へ」「日朝交渉再開および政府の食糧支援についての守る会声明」。

10日 南北両国は同日午前、韓国の金大中大統領が、今年6月12日に北朝鮮を訪問し、北朝鮮の金正日総書記と首脳会談を行うと同時発表した。南北首脳会談は1994年7月開催で合意されたが、金日成主席の急逝で実現せず、45年の南北分断、48年の南北の建国以来、初めて。朴在圭統一相と朴智元文化観光相が記者会見して明らかにした。

30日 北朝鮮に子女を拉致された日本人家族らが東京・日比谷公会堂で「横田めぐみさんたちを救出するぞ! 第2回国民大集会」を開催、市民二千人が参加。集会は被害家族と同全国協議会と同地方議員の会の共催。同集会には、韓国の離散家族の親族と北朝鮮に亡命した元赤軍派の岡本武容疑者の妻となった福留貴美子さん(48)の家族も参加した。

2000年
(5月)
8日 「救え! 北朝鮮の民衆/緊急行動ネットワーク(RENK)」は、中国から北朝鮮に強制送還された難民か越境者の姿を捉えた映像を中国側から撮って公開した。昨年12月に豆満江沿いの北朝鮮の施設前に並ぶ子供と男女が映っている。

8日 RENK代表で関西大学非常勤講師、金英達さん(51歳)が、尼崎市の自室で胸を刺されて死んでいるのが発見された。

9日 「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」の小川晴久、萩原遼代表一行は、東京・千代田区富士見町の朝鮮総連中央本部を訪問し在日朝鮮人帰国者・日本人妻に関する要望書を手渡した。朝鮮総連には、

①帰国者・日本人妻の安否調査を北当局に要求し、自らもでかけて行って促進せよ
②家族も含めて、全員の一時帰国、里帰りの実現のために北当局に働きかけよ
③帰国者の惨状が漏れないように帰国者や家族に対する口封じのための暴力や脅迫をやめよ。マスコミに対する圧力や脅迫を中止せよ
④帰国者を利用して金品を強要する本国の恐喝政策の下請けをやめよ、などを要望している。

午後は議員会館を回り、村山訪朝団メンバーと日朝議連参加議員に帰国者と日本人妻の安否調査に積極的に取り組み、北朝鮮の強制収容所の廃絶に取り組むよう訴える要望書を手渡した。

17日 政府は、5月下旬に予定されていた再開2回目となる日朝国交正常化交渉が当面延期されることを正式に表明した。青木幹雄官房長官は記者会見で「南北首脳会談など何らかの都合があったと思う」と述べた。日本人配偶者の一時帰国も次回交渉後に先送り。

2000年
(6月)
1日 中国当局は、金正日労働党総書記が5月29日から31日まで中国を訪問し、江沢民国家主席ら中国首脳と会談し、両国の伝統的な善隣友好の関係を「二十一世紀志向」の新レベルへと推進することで合意したと発表した。

11日 産経新聞ソウル特派員電によると、亡命者の黄長燁元書記は「脱北者同志会」の会報「民族統一」最新号で、北の人権問題を外す南北首脳会談については「われわれの期待は大きく外れた」と論じた。「北の同胞の苦痛をよそに金正日体制を美化し、われわれを誹謗する者は民族への冒とくである」「夜は長くても夜明けは必ずくる」としている。

13日 韓国の金大中大統領は午前、初の南北首脳会談を行うために平壌の順安国際空港に到着。金正日労働党総書記が出迎え、韓国側宿舎の「百花園迎賓館」で会談した。金大統領は金永南最高人民会議常任委員長主催の夕食会に出席。

14日 午前、万寿台議事堂で金大統領、金常任委員長の出席の下、南北閣僚による拡大会議を行い、南北共同声明(1972年)南北基本合意書(1992年)の履行、経済協力、離散家族、相互の代表所設置などを協議。具体的には

①経済協力の政府レベルへの格上げ
②離散家族の再会問題
③南北首脳間のホットライン設置
④南北の代表事務所設置など。

金永南氏は「統一史に輝かしい業績を積み重ねよう」と積極的姿勢を示したという。午後3時から平壌の百花園迎賓館で行われた金大中大統領と金正日朝鮮労働党総書記の南北首脳会談は、休憩を挟み南北両首脳が午後11時20分に南北共同宣言に署名して終了。

北は金容淳アジア太平洋平和委員会委員長、南は林東源大統領特別補佐官らが同席。北は南北の和解と統一問題や緊張緩和と平和定着問題、韓国は離散家族の再会と経済、社会、文化など交流問題などを提起。大統領は夕食会で金総書記の韓国訪問を招請した。南北共同宣言は首脳会談について以下を宣言した。

①南北は統一問題を自主的に解決
②南北は国の統一のために南側の連合制案と北側の連邦制案に共通性を認め、この方向で統一を志向
③南北は8月15日に南北離散家族の親戚訪問団を交換し、非転向長期囚問題を解決
④南北は経済協力を通じて民族経済を発展させ、社会、文化、体育、保険、環境など、諸般の分野の協力と交流を活性化させ、相互信頼を確認
⑤南北は以上の合意事項を速やかに実行に移すために早期に当局者間対話を開催。また、金大統領は金国防委員長の韓国訪問を招請、金国防委員長は適切な時期にソウルを訪問する――としている。

15日 韓国政府の梁栄植次官は首脳会談と南北共同宣言を説明。大統領は北朝鮮のミサイル開発問題に言及、総書記に「関係各国との懸案を速やかに解決するよう」伝え、「周辺各国との関係正常化が必要」と強調。(ベルリン宣言の目標「冷戦終結と平和定着」「和解」は盛り込まれず)。韓国政府の推進目標として軍事境界線で分断された朝鮮半島縦断鉄道の連結、2002年ワールドカップ南北分散開催と単一チーム構成の方針を示した。大統領帰国声明を発表。

「55年の分断と敵対に終止符を打ち、民族の歴史に新しい転機を開くことのできる時点にいるようだ。金正日労働党総書記との会談の過程で何度も絶望したが、二人が誠意を持ち、金総書記も努力をしてくれたために、合意に至った」。

19日 韓国野党の李会昌ハンナラ党総裁は記者会見で、南北首脳会談などに関連して、「朝鮮半島の統一は当然、自由民主主義と市場経済に基盤を置いた統一でなければならない」と述べ、また「一方的に”もう戦争はなくなった”と主張している」「今回の首脳会談を機に韓国社会の大きな混乱と価値観の転倒が起きている」と警告、「北朝鮮を刺激してはいけないとの名文の下に言論と報道の自由を制限しようという動きまである」と批判。

30日 北朝鮮・金剛山ホテルで開かれた南北赤十字会談は朝鮮戦争で生き分かれになった南北離散家族の相互訪問について、8月15日から18日までの3泊4日、離散家族百人を含む151人の訪問団が同時にソウルと平壌を相互訪問することなどで最終合意した。

(佐伯浩明:運営委員)

支部だより

<関西支部> 第12回関西支部講座 梁永厚先生の3度目の講演に25名の参加者 

 7月16日(日)午後1時から5時まで、大阪経済大学の教室を借りて第12回関西支部講座を開催しました。関西支部講座は梁永厚先生の講演を第1回としてスタートしたもので、尽きない内容から続いて第2回も梁先生にお話いただきました。それでも話題は尽きず、3度目の講演を約束していただいていましたが、ご健康などの事情でのびのびになり、今回ようやく実現することができました。

 また今回は、北朝鮮難民救援基金が作成した、中国に脱出した北朝鮮の少年にインタビューしたVTRを上映しました。危険を冒し、時に捕らえられながらも中国と北朝鮮を行き来してお金を持ち帰り、家族の生活を支える子供たちを通して、北朝鮮の人々の生活状況の一端と中国に脱出しても平穏な生活のない困難な現実を伝える貴重な記録でした。

梁先生の講演「在日70年 運動と生活体験から21世紀の在日を考える」の講演内容要約 

 朝鮮総連の前身である民主戦線の時から在日社会運動にかかわり、また教育の場で24年間過ごしました。担任した生徒が300人から400人ほど帰国したのではないか。このことを考えると辛く、苦しい。自分がかかわったこの問題の責任をどうするか、決着を見るまでは叫びつづけねばならないと考えています。

 在日運動への歴史的評価として、先ず当初、自治活動から踏み出し日本共産党と一体となって行った政治運動について、極左冒険主義に走り、結果として自ら政府、GHQの弾圧を招いたことについて反省が必要であると指摘したい。

 1948年、南北に政権ができてからの在日の運動は、民族主義ではなく国家主義の運動でありました。朝鮮総連では韓徳銖の体制が築かれて今日に至っているが、「北」に従属したもので、在日のための運動ではありませんでした。

 1973年、私が42歳のとき総連を離れ、北へ送った子供たちへの自責の念と、北の政治はこうあってほしいという目標から、北の政権を批判する運動をはじめました。家族を北の人質にとられている人々は声をあげることができないが、この守る会の運動などに心を寄せていることは確かです。北は監獄国家であり、金正日政権は自国民をいじめる政権です。

 昨年9月に総連拡大中央委員会が開かれたが、総連の金日成・金正日追随の本質は変わっていない。運動のやり方を変えようとしているだけです。最近の動向を見ていると、金正日の取巻きの中にテクノクラートが入ってきたのではないか。そのテクノクラートの考え方が金正日に影響を与えているのではないでしょうか。

 南北の首脳会談は、南北が自分たちの問題の主役に成りうることを示した意義が大きい。しかし、北の人権、帰国者の人権、被拉致者の問題が棚ざらしになる可能性があります。日本社会も被拉致者に無関心な冷たい社会です。

 在日の一人としてこれから在日は何をすべきかと考えると、思想に躍らされず、一人一人がのびのびする社会の実現に向けて運動すべきではないかと思います。新たに在日の現実に合わせて活動を開始すべきです。現在の総連も民団も共に民族組織ではなく、国家組織です。それぞれの上にある国をみてその指示で動くのではなく、在日独自に在日の統一を目指す運動があるべきです。民族学校も過去にとらわれず、第3セクターで運営することも検討し、公正な学校へと改革していくべきだと思います。

 今回の首脳会談については、72年の7・4南北共同声明と基本的に同じだと考えます。南の言う国家連合と北の言う連邦はまったく違うものなので隔たりは大きいと思います。また今回の会談は金正日ではなく北のテクノクラートが必要に迫られて実現したものだと思うのでイデオロギー離れはあるようです。ただ離散家族再会は合意されたが、捕虜、拉致された漁民について言及が欠けている点は問題です。 (文責:山口修、山田文明)

◇    ◇    ◇

 講演のあと討論に移り、司会の山田文明氏より、「金大中氏と金正日の抱擁をテレビで見たが、金正日が今までしてきたことを考えると、たとえばオウム真理教が原爆を手に入れたために、平和交渉をしなければならなくなり、麻原と日本の総理大臣が抱擁しているのと同じなのではないかという気がした。金正日政権との対話は必要かつ有意義だが、そのことで北の人権問題にたいする批判を抑えることがあってはならない。民間のわれわれが北の人権問題を取り上げていくことがいっそう重要になっていると思う」との発言がありました。

 討論の中で「果たして北の人々は変革を待っているのか、それとも思想が拘束されて自主的な変革はできないのか」が話題になりました。これについて会の後で、「北」をよく知る方から「帰国者は来訪する親族の持ち込むビデオで韓国のことまでよく知っているが一般の人々は何も知らされず宣伝ばかり聞かされているので、たとえ情報を与えられてもそれが何のことだかわからないだろう。まったく違う世界に生きているようなものです。」との指摘がありました。また、北の社会では密告の仕組みが縦横に張り巡らされ、3・4人で話をしてもすぐあくる日にはその筋の人物が何の話をしたのか調べ、注意していく危険な社会であり、そのことが人々を分断し、抵抗力の成長を封じているとの指摘もありました。

 食糧援助について、「他に方法がないなら全国民に間違いなくわたる量の食糧援助を日本政府は行うべきではないか。田中真紀子は政治家ではじめてそのことに言及した。中国でとうもろこしを買い入れるなら一千万人分といえども大きな額ではないはずだ。ましてや日本には戦争植民地補償の問題がある。家族が北に帰っている人間としては大量援助を期待せずにいられない。」「在日から民間援助という形で総連を経由せず援助すべきではないか。」などの意見が出ました。

第13回 関西支部講座のご案内 萩原 遼 『米国取材報告 アメリカの北朝鮮戦略と南北首脳会談』

9月9日(土)  午後1時30分~5時
大阪経済大学 G 33教室

 8月下旬に萩原遼さんが米国から帰国することになりました。3カ月にわたる米国取材を通じて、南北首脳会談を取り巻く背景や米国の政策について新しい話が聞けるものと思います。ご期待ください。

<東海支部>

 誕生したばかりの東海支部は、支部基盤作りのため地域の会員の活性化を目指す活動を現在取り組んでいます。1、2例として「東海支部ニュース」の発行、会員相互の親睦を図る「懇親会」。(現在、三重県で行う事を計画中です。それ以外にも全国の会員の方との交流を目指す活動も行っています。)

「土佐への親睦の旅」

 東海支部設立の折、激励を頂き、また懇親を深めてきた高知のIさん(守る会会員)を訪ね事務局員3人とA君の4人は、7月21、22、23日の3日間、土佐へと親睦旅行に出かけました。

 21日深夜0時、名古屋発。予算の節約で一般国道を走り一路西へ。神戸のあたりで交通量が増えてきたため、高速に入りさらに西へ。10時半ごろ、瀬戸大橋で写真撮影。そして四国へ入り1時ごろ高知に到着しました。

 Iさんとの再会を喜び、今日のキャンプ地である清流四万十川へ。混雑する国道を避け、景色のいい海岸線を行きました。海の蒼さと、雄大な景色を楽しみながら、四万十川到着。まずその清流に手を入れてみた感想は、意外と温かい・・・。後に地元の人に聞いたところでは、川幅の広いことと、流れが緩やかなので水は意外と温かいとのことでした。

 その日の夕食は、四万十川で獲れた「鮎」と、道すがら漁港に立ち寄り仕入れた「生蛸」、「さざえ」、そしてIさんが用意してくれた「鰹のたたき」などを堪能、その夜は就寝。

 翌朝、かたづけを済ませ、再び高知市内へ戻り、途中桂浜へ寄り、写真撮影などをし、鍾乳洞で有名な竜河洞へ。中に入るととっても涼しかったが、天井の低い所、幅の狭い所、登り下りで約1キロ。最初の涼しさはどこへやら、汗だくになっていました。

 その汗を流しに地元の温泉に入り、その夜は地元のお祭りへ、Iさん宅から田ぼや畑の畦道の中を歩いていきました。祭りの雰囲気もよかったのですが、やはり夜店めぐりが一番楽しく、子供のころをつい思い出してしまいました。そしてノスタルジーにひたりながら、その日はIさん宅に泊めさせて頂きました。

 翌朝、お世話になったIさんとの再会を約束し帰路につきました。帰りは淡路島ルートで神戸に入り、先ほど亡くなられた「金英達さんを偲ぶ会」に出席しました。そこでは、高柳さん、関西支部の浅野さんと同席する事ができ、「守る会」会員の幅広い活動を知りました。

 今回の旅行で大変お世話になったIさんに感謝して、土佐旅行記とします。(文責:浅井・金国雄)

(12~13p)

7・15 金英達さん追悼学習会 

 前号の『かるめぎ』でもお伝えしたように、実証的な在日朝鮮人史の研究者で、RENK代表をも務めていた金英達さん(1948年愛知県生れ、在日2世)が、この春亡くなった。私たちの「守る会」との関係でいうと、1994年2月20日の結成集会で記念講演を引き受けてくださったほか、翌95年11月11日に連続講座の講師として「戦後在日朝鮮人社会と帰国事業」の題でお話しいただいた。私たちは、金英達さんが北朝鮮帰国事業や朝鮮総聯について書いた文献を読むことを通じて、生前の金英達さんを偲ぶとともにその遺志を継いでいきたいと思い、7月15日に「追悼学習会」を企画した。

 当日はまず、参加者全員で黙祷を捧げたあと、私が金英達さんの経歴や研究活動について報告した。手元にある私信なども引用しながら、成人してまもなく一家で帰化したこと、東京に飛び出し牛乳配達をしながら新宿高校へ通ったこと、神戸大学の二部卒業時にはすでに30歳を超えていたこと、その際の卒論テーマが「在日朝鮮人の帰化」だったことなど、苦節の多い歩みをわかる範囲で追ってみた。その上で、金英達さんの研究上の特徴として、①資料に基づく緻密な論証、②大胆な問題提起や通説の見直し、③自ら収集した資料を寛大に提供、の3点を指摘した。

 その後、学習会に移り、「悲劇のテノール金永吉(永田絃次郎)の真実」(『RENK』第14号、1998年2月号)と「朝鮮総聯がまるごとわかる十問十答」(『宝島30』、1994年12月号)をテキストに、小川晴久共同代表がレポートした。小川代表は、前者の論文の末尾で、3つの名前を使い分けざるを得なかった金永吉(永田絃次郎)が墓標に刻まれるのを望む名は、政治に翻弄されず生涯貫き通したかった「オペラ歌手 永田絃次郎」ではないか、と結論づけた箇所に深く感じるところがあったと述べた。

 ついで金英達さんと関係の深かった新幹社社長の高二三さん、運営委員で明石書店の同僚でもあった谷川透さん、RENK東京で活動している加藤直樹さんと三浦小太郎さんなどに、故人の思い出を語っていただいた。在りし日の金英達さんのさまざまな面に触れられたが、とりわけ結成集会のとき、総聯系妨害者たちの野次や怒号のなかでも淡々と自己の意見を述べ切った金英達さんのあの姿が、多くの人からいまさらのように語られた。

 当日はあくまでも内部の学習会のため、参加者は20人足らずと寂しかったが、故人の活動や人となりをしみじみと偲ぶにはふさわしい集まりであった。

 なお「偲ぶ会」は関西でも、7月8日にはRENK主催で大阪で、また23日には神戸学生青年センターに関係諸団体が集まって、それぞれ開かれた。私は東京の追悼学習会で使った遺影を持参して、神戸の会に参加した。機会があったら東京での学習会の様子を報告しようかと思ったが、偲ぶ会・二次会を通じてあいにくそのチャンスは与えられなかった。でもその席で、金英達さんのお姉さんの玉川富恵さんとお話をすることができた。玉川さんは私たちの追悼学習会にも参加するつもりでいたが、体調を崩して行けず残念だったとおっしゃった。また、弟の英達とは年が離れていることもあり、どんな活動をしていたのか生前はよく知らなかったが、死を契機に自分もいろいろ学んだり、考えたりするようになった、と述懐された。最近、私たちの「守る会」にも、一番下の弟さんとともに入会してくださったという。

 若くしての突然の死は痛ましい限りだが、いろいろな場で蒔いていった種を大事に育てていくのが残された者の務めなのかもしれない。2つの追悼行事に参加して、そんな決意をいま新たにしている。

(運営委員:高柳俊男 法政大学国際文化学部助教授)

英達(ヨンダル)さんを語る

「京都で偶然会って、淡路島に行くというと、英達さんも・・・」と、 高二三さん (新幹社社長)

 …今年、2月5日の旧正月に出張で淡路島に行った。途中、京都で本の営業活動をしていると、奈良で出た遺跡を見てきたという英達さんと偶然会った。◯◯さんとこれから淡路島に行くと言うと、◯◯なら知っている私も行く』という。淡路島でお酒を飲んで、雨の中、水仙のきれいな所も訪ね、バスのターミナルで別れたのが最後になった。…英達さんに「大学の先生になりなよ」というと、「僕には学歴がないから」と遠慮した。英達さんの百分の一も研究してない人が先生をしている。これからの人だった。

「『強制連行』という言葉でもきっちり区別して使っていた」と、谷川透さん(明石書店社員)

 …英達さんは「国籍」、「帰化」、「創氏改名」、「日韓併合前の在日」をテーマに90~94年に次々に本を出した。仕事ぶりはきちっとしていて、「強制連行」という言葉でも、皆が使っているからとはしないで、きっちりと区別していた。

 英達さんは大事なことをした。帰国者の問題でも、旗幟鮮明にすると大学の職にはつきにくい。本当なら収入もある大学の先生であるべきで、なれる人だった。そこが自分の信念を通すこととの関係があったのかと思う。

「英達さんの学術書よりも英達さんの人間に興味がある」と加藤直樹さん(RENK東京)

 …「守る会」結成集会のとき、総連の人たちの怒号にショックを受けていたら、騒ぎの中で落ち着いている人が目の前にいて、それが英達さんで、かえって目立っていたら、司会に呼ばれて壇上に上がった。たんたんと「帰国事業について」話をした。もどってきた英達さんに声をかけたら、「でしょう、面白いでしょう。こんな面白い集会最近ないよね」と答えた。こちらの深刻ぶっている状況と違っていた。『創氏改名』の本も手にはするが学術的できちっと読んでいない。というか英達さんという人に興味がある。とぼけたような所、深意がどこらへんにあるのか、すごく気になる人です…。

「遊び心が分かっている人だった」と三浦小太郎さん(RENK東京)

 …英達さんは、「日本であれ、韓国であれ、祖国とか故郷という感覚はないね。もしあるとしたら愛知のあの町かな」と言われていた。日本人なら日本、在日の人なら韓国や北朝鮮、そういうものに帰属したいという意識から良い意味で超越していた。

 …大阪に行くと、鶴橋のディスコに連れていってくれた。おじさん、おばさんたちが朝の四時半まで踊っていた。『釜山港へ帰れ』を3倍のスピードでやっていた。英達さんは歌は下手だったというが、踊りはうまかった。悠然と踊っていた。この人は遊び心が分かっている人だなと思った。英達さんからいろんなことを学びました。

「『ほんの通りすがりの者』と言う・・・金英達さんの思い出」 沢田竜夫(北朝鮮難民救援基金) 

 帰国事業についてパンフやビラを書くときも何度も英達さんの文章を参考にしたものです。守る会やRENK東京で、講座に呼んだり一緒に街頭情宣行動をやったり、さまざまな場を共有しました。そんな中で、今でも思い出すのは、95年の大阪でのこと。その日、大阪府知事選挙で、本命・横山ノックに対抗して在日党が「幻」の立候補で挑戦した時でした。その際、英達さんは深く関わっていたわけですが、交流集会の席上の自己紹介で、「私は、ほんの通りすがりの者なんですが」と語り思わず皆は爆笑してしまいました。こんなエピソードばかり思い浮かびます。皆がしゃかりきに駆け抜けている時も、英達さんの落ち着いた振る舞いはとても貴重なものだったと思います。私自身も、知らず知らずに励まされていたのだなあと、今になってあらためて感じます。

 7・15の追悼学習会での発言や提出された文章から抜粋して紹介させて頂きました。 (編集部)

お手紙 紹介 金英達さんのお姉さん 玉川富恵さんより

 北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会の皆様、本日は弟・英達のために生前を偲び追悼学習の会を開いて頂く事になり親戚一同大変嬉しく思っています。本来ならば列席して皆様に深く感謝の意を表明しなければならないのですが、上京の調整がつかず文面にてご挨拶させて頂きます。

 私達は弟の仕事が在日朝鮮人問題、朝鮮現代史などの研究をして、著書を出したり、講演をしたりしている位の知識しかありませんでした。

 「北朝鮮民主化支援」等、一連の活動に、これほど精根傾けている事は、全く知りませんでした。只、恥じ入るばかりです。

 そして、私達に対して弟は自身が打ち込んでいる活動の内容に関しては一貫して寡黙だった事の意味が今はよく判るのです。弟はきっと、私の無関心、無知ぶりを嘆き、落胆し、苦笑していたに違いありません。とりわけ私(長姉)は、本当に不肖の姉だった事に悔いるばかりです。そして、ようやく弟・英達のしてきた事、しようとしている事の意義が私達なりに少しずつ判ってきたのです。私達遺族も悲嘆にくれてばかりはいられません。弟の足跡を辿り、これからの「守る会」の皆様の活動のために微力ながらも役に立つ事はないかと考えて居ります。

 そして弟・英達が生前どれ程多くの人に支えられ、助けられて研究、活動に打ち込んで来られたかを強く実感しました。親族一同心よりお礼を申し上げます。

 …最後に僭越ではありますが、このような弟を持った事を誇りに思うと同時に一日も早く涙を乗り越えてもっともっと勉強し、何らかの形で弟の遺志を引き継ぎたいと決意しました。

 弟・英達はこれからも私達遺族の心の中に輝きを放って生き続けてくれる事でしょう。

玉川 富恵 拝

 金英達さんのお姉さん・玉川富恵様からのお手紙を抜粋して紹介させていただきました。今回、玉川さんと弟さんは「守る会」に入会されました。(編集部)

「この人に聞く」 聞き手・金 国雄 ―自己紹介― 小野美智子さん(専業主婦)

 私の生まれた鹿児島という土地柄は、男尊女卑の最たるところです。それは、儒教のそれにも共通するものがあります。

 常に「女ごは、男んしを立てて・・・・」一歩さがると言う風な。それでいて薩摩の女は、弱くはなくむしろ気丈です。

―在日と関わるキッカケは―

 カルメギ三十一号にも書いている通り、およそ四〇年前、朝鮮、あるいは韓国のご婦人との出会いがあり(何回か、おやつを戴いた)その時、在日の人の存在を始めて知ることと成りました。

 その時の母の対応が後の私に、在日の人達との関わりにおいて、強い影響を与えたと思います。母は、「差別」と言う言葉で、何かを教えようとはしませんでした。ごく自然にお世話になれば、お礼を言う。出会えば、挨拶をする。それは、母が人として当たり前の事を私に教えたに過ぎなかったのですが。

 後に読んだ、金達寿著『わがアリランの歌』で書かれている何かと言えば、「ヤーイ朝鮮人」「朝鮮人のくせに」…と言う日本人の恥ずべき愚かさを私は、幸いと言うか親に伝授されなかったと言う事です。そんな母でしたが、父に失望し私達の元から去っていって、もう三十二年が経ちました。

 若いころ、在日の友人とドライブに出かけだいぶ走った頃、忘れ物をしたと血相を変えて言う友に、「何を忘れたの」と聞くと、「外国人登録証明書」と言う。

  「どうしてそんなものが要るのか?」と、聞くと「常に携帯しなきゃいけないんだ」「日本人の貴方には解かるまい」と、友人は言った。その言葉に、在日の置かれている立場を知っているつもりであった私は、大きなショックを受けたのでした。

 親の代に日本にきて、それも強制連行又は来ざるを得なかった人達、日本で生まれ育ち、何十年も経っている人達が未だに「外国人登録証明書」を持ち歩かねばならない現実を私は無知にも知らなかったのです。

 それから一人本屋へ通い、古代朝鮮の歴史、文化、朝鮮半島と日本の関わり、北と南の分断の経緯、過去日本の犯した罪等などの独学が始まった訳です。

―「詩心」について―

 「詩」に関しては、湧き上がる感情をそのまま書いている拙い物ですが、 読まれる方の心に少しでも届けばと思う次第です。

―「守る会」との出会いと今後の抱負―

 「守る会」への入会は、チョン・キヘ著『帰国船』の巻末に電話番号と、安明哲著『北朝鮮絶望収容所』のあとがきに、故池田菊敏さんが、収容所解放を切々と訴えておられた。また、萩原遼著『ソウルと平壌』でも、「守る会」の存在を確認しました。

 私もこの会に入って、自分の出来ることをしようと思ったのがきっかけでした。今後の抱負としましては、「守る会」の北朝鮮における人権、人命に関する問題が一番ですが、その他にも「在日」を取り巻く諸問題がまだ山積しています。先での「外国人登録証明書」の事も含め本質的に日本の制度は変わっていません。これからも、在日韓国・朝鮮人の方々と同じ人間として関わっていく事に変わりありません。

コッチェビ放浪記 最終回

「コッチェビが物乞いした食べ物を取りあげる軍人たち」

 咸鏡北道セビョル郡は、咸鏡南道よりも食糧事情が悪いようでした。なぜかというと、市場や通りの「コッチェビ」たちが多かったからです。おばあさんの家で食べてもお腹が空くので、自然に市場をうろつくようになりました。市場をうろうろしているコッチェビが五十人以上いて、ぼくたちのように物乞いをして歩く子供たちは三百人以上いるようでした。大人たちもたくさんいましたが、そこでは「大きなコッチェビ」と呼ばれていました。その人たちは市場の横に藁を積んで、そこで寝ていました。一日に平均五百人以上の人が来る市場で、売る物や買う物はたくさんありました。もち米のお餅、ソンピョン(うるち米の粉を練り、餡を入れて松葉を敷いて蒸した餅)、トウモロコシの根や芯を粉にしてトウモロコシの粉に混ぜたものは安いので、ぼくたちが買ったりもらったりできました。ところが、ものすごい噂が出回りました。市場に来る「コッチェビ」を三人捕まえて、トウモロコシのうどんに豚肉と混ぜて具にして、高い値段で売って食べたというんです。ぼくと妹は恐くなって、それからは、トウモロコシのうどんの上に載っている肉は、みんな人の肉だと思うようになりました。

 市場でいちばん強いのは、軍人と青年たちでした。彼らはやたら襲って殴りあい、たがいに盗みあっていました。ぼくとソヨンが物乞いをして、あるおばさんから草餅をふたつもらったのに、軍人が来て頬をたたかれて盗られてしまいました。妹がお腹を空かせているからひとつは返してほしいと頼むと、軍人は妹のお腹を蹴りたおし、「軍人の方が腹が減っているんだ」といってふたつとも口に放りこんでしまいました。

 セビョル郡では、学校に行こうと思わなくてもかまいませんでした。そこの子供たちは、ほとんど学校に行っていませんでした。ぼくみたいに九歳になった子供たちは、ほとんど字も知りませんでした。でも商売はとても上手でした。家でお父さんやお母さんが作ってくれた草餅や草雑炊は、ほとんど子供たちが売り歩いていました。売ったお金でまたトウモロコシの粉を買って、それでまた餅などを作って売りながら暮らしていきます。だから子供たちは、みんな勉強しようと思わないし、両親たちも子供を勉強させようとはしません。

 「コッチェビ」たちといっしょに市場をうろつく内に、みんなと仲良くなりました。「コッチェビ」だといって、完全に悪い子たちではありません。誰かが飢え死にしそうになると、みんなで物乞いをしたり、盗んだものを持ってきて食べさせます。それに、盗んだものはひとりで食べずに、みんなで分けて食べます。その子たちの体にはシラミがうようよしていましたが、暇さえあれば服を脱いでしらみ取りをしていました。ぼくたちは、おばあさんの家にいてしょっちゅう服を着替えていたから、そんなことはありませんでした。

「中国に行って思いっきり食べてみよう」

 市場で「コッチェビ」同士がひそひそと内緒話をしていたのですが、豆満江の向こうの中国には、食べ物がたくさんあると言っていました。そこに行けば、タダで食べさせてくれると言っていました。ぼくは、その話が耳から離れませんでした。

 おばあさんもいつ死んでしまうかしれないし、このままここにいると、ぼくもソヨンも二人とも死んでしまうような予感もしました。両親のいないぼくたちが、どうせ放浪生活をするのならば、いちど中国に行って思いっきり食べてみたかったんです。こうして今年の四月の末に、おばあさんに気付かれないように妹をつれて列車に乗って、豆満江が見えるという所に出発しました。そこにしばらくいて、そのあと蒸気機関車に乗って三時間ほど行くと、本当に豆満江が見えました。

 川の向こうには、見るだけでもすばらしい中国がはっきりと見えました。「三峰駅」と書かれた駅前に立つと、豆満江は駅の横にありました。時刻は午前十一時ごろでした。ぼくは妹のソヨンをつれて豆満江の堤防に近づきました。堤防の上では、軍人たちが行ったり来たりしていました。ぼくたちは草を摘んでいるように見せかけて、堤防の横で若葉を摘んで食べながら時間をつぶしました。ソヨンには、「いい場所に行くから、捕まって殴られてもがまんしなくちゃいけないよ」と言い聞かせておきました。

 昼食の時間になると、堤防の上にいた軍人たちが、昼食を取りに下りていきました。ぼくが堤防の上にのぼって見てみると、軍人たちはいませんでした。ぼくはソヨンをつれて豆満江に入りました。あまり深くないと思ったのに、ぼくたちの背が低くて、胸まで水につかりました。ソヨンは首まで水がきていました。ぼくとソヨンはしっかりと手をつないで川を渡りはじめました。冬が終わったばかりだったせいか、水が冷たくてどうしようもありませんでした。途中でソヨンの鼻まで水がきて、ソヨンはあっぷあっぷともがいていました。下手をするとおぼれ死んでしまうと思って、ぼくたちはもっとしっかりと手を握って渡りました。そしてたがいにいたわりながら言いました。

 「ソヨン、がんばれ。そうしないと溺れ死んでしまうよ」「お兄ちゃん、恐いよ」「大丈夫、死にはしないよ。お兄ちゃんがついているのに死ぬわけないじゃないか」「お兄ちゃん、わたしが死んでもお兄ちゃんは死なないで」ぼくは、本当にソヨンを死なせてしまうような気がして涙がでました。死んじゃだめ。

 「ソヨン、本当に死ぬのが恐いの?」「ううん。わたし恐くないよ。死んだらお母さんのそばに行っていっしょに寝るの。お兄ちゃん、そうしてくれるよね」。ぼくは腹がたちました。

 「怒るぞ。おまえが死んだらお兄ちゃんもいっしょに死ぬよ」。ソヨンは泣きながら言いました。「お兄ちゃんは死んじゃだめ。お母さんとか、わたしとか、お父さんとか、見てあげる人が必要じゃない」話している間に豆満江を渡ってしまいました。ぼくはうれしくなってソヨンに言いました。

 「みろ。死なないと言っただろう」。ソヨンは寒さでブルブルと震えながら答えました。「お兄ちゃん、わたし死ぬかと思った」「早く行って食べ物をもらおう」「うん」。

 ぼくたちは水がポタポタと流れる服をしぼって、あまりの寒さに、中国の村の方へ一気に走っていきました。村につくと、中国の人たちが、ぼくたちをおかしな目でながめながら通り過ぎていきました。ところがひとりのおばさんと男の人が、ぼくたちを見て立ち止まり、「行こう、早く」と言って、ぼくたちの手をめちゃくちゃに引っ張って一軒の家につれていきました。

 家に入って門を閉めて鍵をかけた大人たちは、私たちに北朝鮮からきたのかとききました。モジモジしている私たちに「なんてことだ!」と言いながら舌打ちして、家の中につれていきました。家の中に入ったぼくたちに服をきがえさせた大人たちは、「風邪薬」だといってすぐにぼくたちに薬を飲ませました。そして「お腹が空いているんだろう?」と聞きました。

 ぼくたちが「お腹が空いています」と答えると、本当にすごいパンとお菓子、おコメのごはんを台所からいっぱい持ってきました。ぼくとソヨンは、思わず「ワー」と歓声をあげて、パンから食べ続けました。どれだけ甘くていい香りがするのか、ソヨンは指についたパンくずを一生懸命に吸っていました。大人たちはそんなぼくたちを見て、涙が込みあげてだまって見ていましたが、おばさんが言いました。「おまえたちはかわいい顔をしているね。ここには食べ物がたくさんある。思いっきり食べなさい」本当にありがたい大人たちでした。

「ぼくたち兄妹を助けてください」

 中国に来たぼくたちは、本当に天国や別世界に来たみたいでした。どこに行っても食べ物がいっぱいありました。それも、北朝鮮みたいな草餅や草雑炊じゃなくて、トウモロコシのうどんよりもっと良い、いろんな食べ物がいっぱいあります。だから、子供たちは、市場や通りで「コッチェビ」のようなこともしないし、物乞いもしません。ある中国の人は、ぼくたちが北朝鮮では草と粉をまぜた物を食べて暮らしていると言うと、「それは健康によさそうだな」と言いました。本当におかしい話です。

 ここには孤児もいないし、みんなが勉強をしに学校に行きます。毎日、おやつも買って食べています。北朝鮮の汽車は行っては止まり、ゆっくりと走るのに、ここの汽車は止まったりもしないでものすごく速く走ります。北朝鮮ではバスを見たことがないのに、ここでは外に出るとバスが走っていて本当に便利です。ここの子供たちは、とっても肌がきれいで丸々としいて、カラカラに干上がった北朝鮮のこどもたちと相撲を取ったらみんな勝ってしまいそうです。

 ぼくたちは、今までたくさんの中国の人たちの世話になって生きてきました。中国の人たちといっても、同じ朝鮮民族です。中国の人たちは、ぼくたち兄妹を自分の家に一週間ずつ、つれていって泊めてくれて、おいしいものも食べさせてくれます。ぼくたちもいまは、お腹がいっぱいで、いろんなものも食べてみて、べつに食べたいものもありません。

 ぼくたちが、ごはんをちゃんと食べないと、ここの人たちはとても怒ります。一杯食べないと早く大きくなれないと言います。北朝鮮の人たちは、子供たちがたくさん食べると、「ごくつぶし」だと怒るんですが、こことは正反対です。食べ物のために子供たちをたたく現象はもっとありません。ぼくたちは、こんなに食べ物の多い中国で、お母さんやお父さん、おばあさんのことを毎日考えています。

 満足に食べることもできずに死んだお母さんが、ここに来て三日でもたくさん食べて死んだのなら、ぼくたちの心がこんなにも痛くなることはないでしょう。ぼくたちのお母さんが、結局、大人になるまで一度もちゃんとごはんを食べられないまま逝ってしまうなんて、本当に人の生きる世の中は公平ではありません。お母さんは、醜いわけでもなく、心もきれいなのに、なぜ他の人のように食べることもできないまま死ななければいけないなんて。お父さんもいつも笑っていたのに、本当に他の人たちの言うとおり飢え死にしたんでしょうか。

 ぼくは、食べ物がなくてさまよっていたかわいそうなお母さんを、「このろくでなし」といってどなった北朝鮮保衛部や安全部の人たちを呪います。大きくなったら絶対にあの人たちのところに行って、怒ってやります。

 ぼくたちは中国に来て、一週間に一度ずつあちこちの家を渡り歩きながら、思い切り食べたり遊んだりしているのに満足できません。もうお腹はいっぱいだから、とても勉強したいんです。だから会う人ごとに勉強させてほしいと頼むんですが、ぼくたちには両親がいないから、勉強するには、お金がたくさん必要だから、勉強はできないと言われます。

 ぼくとソヨンは、朝になるとカバンを背負って学校に行く子供たちがとてもうらやましくて、毎日その子たちが見えなくなるまで眺めています。ぼくはソヨンをつれて川辺に行って、ぼくがハングルと数学の基礎知識をたくさん教えてあげました。そうするとソヨンは、もう字も全部ちゃんと読めるし、かなりの数学計算もみんな解きます。本当に聡明な子です。韓国の歌も、一度聞いたらもうついて歌えるので、みんな、ほめてくれます。

 ぼくたちは、死んだお母さんや、どこかに行ってしまったお父さんの願いどおりに、勉強をよくして立派な人になりたいのに、そんな条件がないのがもどかしいばかりです。食べさせてくれさえすれば、外で寝てでも一生懸命勉強します。どうかぼくたちを勉強させてください。そうしたら大きくなって、その恩恵にかならず報います。

1999年7月 中国で イム チョル イム ソヨン

(訳・金 永玉)韓国誌「月刊朝鮮」99年9月より

詩 二篇  小野美智子

『慟哭(どうこく)の海』

便りも途絶え 会いたさに
呼び合う血と血
慟哭の 海を隔てて響き合う
帰して欲しい十万の生命(いのち)
帰って欲しいあの日の海を
片道の旅 東海(トンヘ)の航路(みち)を
あなたが行って四十年
再び会える日 待ち暮れて
哀号(アイゴー)と 泣きながら 泣きながら
老いて行く父がいる 母がいる
もう帰して欲しい十万の生命
帰ってほしいあの日の海を

『牢獄(ひとや)に』

六十万の民人(たみびと)が花枝(はなえだ)を手に打ち振りて
連呼する歓喜の万歳(マンセー) 半島に響き
指導者は満面の笑み湛えたり
ともあれベールを脱いだかも
さりとて
笑顔の仮面のその下に
潜む冷酷の顔を垣間見た
指導者に人の心の有るのなら
まことの笑顔のそれならば
暗き谷間の牢獄(ひとや)にも等しく明かりを灯すべき
重き扉を開け放ち
罪なき民を解いてこそ
賛美の万歳(マンセー)と聞こえよう

読者の広場

 読者(会員)の声を「かるめぎ」に反映させていく為「読者の広場」ページをつくりました。ご意見、要望など気軽に投稿して下さい。*氏名は、伏せさせていただきます。(編集部)

 金 国 雄 様

 お忙しい中、不躾なメールを差し上げる失礼をお赦しください。私は、首都圏のさる大学に通う学生です。Nと申します。ちなみに在日コリアンではありません。今年の4月から「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」に入会致しました。金さんのメールアドレスは、「カルメギ33号」の末尾を見て知りました。

 私は、長野県〇〇市出身なのですが、大学に入学してから4回訪韓して、朝鮮文化にかなり興味を持ちつづけ、所謂「帰国者問題」も数年前から関心を持ち始めました(大学の専攻は全く違うのですが)。先般、歴史的な南北首脳会談が行われ、朝日新聞などは、朝鮮半島情勢についてかなり楽観的な見方をしていますが、帰国者ひとつをとってもそう簡単には解決する類いの問題ではなく、従って「守る会」の存在する意義はいよいよ重要になるもの、と確信しております。

 さて、私はこの4月に入会したものの、就職試験などで忙しく、残念ながら「守る会」の集会に出たことがありません。自宅アパートにパソコンを持っていない私は、「カルメギ」を頼りにするしかないのですが、私がどのように「守る会」に関わっていけるのかいまひとつ分からないところもあります。今日、不躾なメールを差し上げたのは、私に何かできることがあれば、と思ってのことです。

 現在のところ、あまり時間はないのですが、寺尾五郎氏の『38度線の北』に始まる日本人の手になる昔の北朝鮮に関する数々の本を各大学から取り寄せて研究しています。なるべく早く終わらせるつもりですが、こういった拙い拙稿でも「カルメギ」に投稿してよいものでしょうか。長くなりました。 拙文ご容赦下さい。

 暑い日々が続きますが、金さんもくれぐれもお体にお気を付けお元気にお過ごし下さいませ。

「守る会」の発展を祈りつつ大学の研究室にて2000年7月17日 N 拝

 Nさん、こんにちは。

 入会していただきまして本当にありがとうございます。私も『38度線の北』を今だ読んだ事がありません。現在、その姉妹版『朝鮮・その北と南』寺尾五郎著を読んでいます。なにぶんにも個人の能力、時間には限界があります。各人が協力していくことが、とても大切であると思います。今後とも是非遠慮せず、ご意見をお寄せ頂き、ご協力を頂きますよう願っております。また、論稿も出来次第お送り下さい。編集委員会で、はかり取り上げさせていただきたいと思います。また他の方もどんどんとご意見をお寄せ下さい。

金国雄 拝

 協力依頼:現在、会報「かるめぎ」作りにおけるデザイン、レイアウト、編集、印刷、発送等に、ご協力(ボランティア)頂ける方を求めております。連絡先は、本部・各支部または、私宛てにメールでお寄せ下さい(freeman@network.email.ne.jp)。なお、現在「かるめぎ」の表紙・表題のデザインを公募しております。是非ご協力の程を!

編集後記

◆ 個人的な都合で一週遅れの34号着手となりご迷惑をおかけしました。また金国雄さんにおんぶにだっこの編集となりました。今回は、『南北会談』特集となりました。北朝鮮支援や補償のあり方といっ たテーマでさらに掘り下げる必要もあるでしょう。日本人妻や帰国者ももちろんですが、例えば元「従軍慰安婦」とか元「強制連行経験者」に直接、補償が届くのならば、日本の納税者も納得しますが、北の政権担当者ということであればとうてい納得できないからです。

 帰国者の自由往来を求める運動は、ひいては北朝鮮と日本との人と人との関係を築くことにつながると確信しています。(佐倉 洋)

◆ 「かるめぎ」編集、印刷、発送に関し、皆さん暑いなか、ご苦労様です。順調に進んでいるようで心強いかぎりです。(ワシントンにて 萩原 遼)

◆ 今回、編集・版下・印刷・発送等を手がける「かるめぎ」ネットワークを構築し、ネット(メール)を多用した会報作りを行いました。今後とも、その利点を生かし少しでも充実した会報「かるめぎ」になるよう今後ともがんばって行きます。身近な会報、会員相互が作っていく「かるめぎ」となりますよう皆様からのご意見・情報・話題・記事等を求めております。是非お寄せください。(金 国雄 freeman@network.email.ne.jp)

訂正とお詫び

 「かるめぎ」(32、33号)紙上で「守る会の郵便振替口座番号」記載が間違っておりました。多くの方に、ご迷惑をおかけしましことをお詫びし訂正いたします。

 正しい郵便振替口座番号は、「00140-4-718645」です。

◆ 「ソウルからの通信」(33号)において「ソウル特派員 東昇平」となっておりましたが、「ソウル駐在員 東昇平」と訂正いたします。

◆ 「詩二編」(33号)「憂い」の三行目にひらがなで「いのち」と有りますが、削除し訂正いたします。同じく題名「北の地」を「北の地へ」と訂正いたします。

☆ 表紙の画像(南北首脳のキャラクター)は、韓国紙『朝鮮日報』HPより引用。

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