かるめぎ No.35 2000.11.01 特別増ページ号

会報『かるめぎ』の過去号を、旧サイトから、順次こちらにアップしていきます。この機会に、過去の『かるめぎ』を通して、守る会の歩みを知っていただければ幸いです。

(旧サイトより転載:http://hrnk.trycomp.net/archive/karu35no1go.htm / http://hrnk.trycomp.net/archive/karu35no2go.htm)

日本人妻16人が、9月12日から18日まで里帰り

 守る会は9月12日成田空港で、17日宿舎のオリンピック青少年記念総合センターで、全帰国者の自由往来を求めるアピールを行った。

3人が成田空港で頑張る

 9月12日夕の第三回日本人妻里帰りで恥ずかしいことに里帰り第3陣が9月12日に来日することを、9月初めマスコミ記者の取材から知った。それほど今回の里帰りについてはマスコミは事前報道をしなかった。

 これは6月15日、平壌での南北共同声明以来、北朝鮮の人権問題をとりあげない社会やマスコミの風潮の反映だった。

 守る会は2年前の第2陣のとき初日(空港)と帰国前日(宿舎)の二回、頑張ってアッピールした経験があり、今回まわりが低調な中、それすらやらなかったら守る会の存在の意味はなくなると考え、チラシをつくり、横断幕をもって成田に向かった。

 第2空港ビルの出迎えロビーに行くと私服警官が沢山いて、我々の行動を警戒している様子であった。最初にチラシをマスコミ関係者にまくと肝心な意思表示が阻止されると考え、ひたすら日本人妻たちを待った。

 我々のメンバーが金民柱さんを含め3人であることが決定的に不利であった。いつのまにか我々は私服に取り囲まれていた。会員の一人に私のカバンを持ってもらい、一行が出てきたところで民柱さんと二人で「もっと多く、もっと早く、国籍の区別なく」と書いた横断幕を広げたのであるが、何と警官や私服ではなく、成田空港公団の4~5人の職員に制止されてしまった。

 オリンピックの選手を迎える時にも制止をするのだろうか。全く政治的な規制である。

 里帰りが続く限り我々は成田に行かねばならぬ。今回は空港での守る会のアッピールを絶やさなかったところに意味があった。里帰りできない日本人妻たちのためにも皆さん頑張ろうではないか。

(小川晴久 共同代表)

日赤関係者などにアピール豪雨の中、守る会会員多数が参加 9月17日、オリンピック青少年記念総合センター正門前で

 日本人妻の離日前日、9月17日午前11時から午後1時まで、「守る会」では宿舎のオリンピック記念青少年総合センター正門前で、恒例のアピール活動をした。

 日本人妻たちは、その日故郷訪問から宿舎に帰ることになっていた。あいにく、当日は台風が接近中という悪天候だった。にもかかわらず11時前から集まった会員が、のぼりと横断幕をかかげ、用意したチラシのアピール文を歩行者やセンター利用者に配った。

 昼近くなると、雨も激しさを増し、正門前に立ちはだかって監視していた日赤や警察関係者も心配して傘やタオルを差し入れたりした。監視する側にも気の毒でもあり、暫時入り口近くの建物の軒下に雨宿りした。やがて雨もあがり、活動を再開。

 その頃には参加会員も十人近くになった。チラシ配布と「日本人妻と帰国者の自由往来を認めよ」「強制収容所を廃止せよ」「北朝鮮赤十字会よ国際人道法を守れ」「日赤よガンバレ!」などのシュプレヒコールを繰り返した。センター利用者もほとんどがチラシを受け取った。

 日本人妻の親族関係者らしい和服姿の婦人も、われわれに手で合図して中に入って行った。また月に一度の研修会に参加したという在日韓国・朝鮮人グループの一人も良いことをしていると、われわれを励ましてくれた。

 途中から、ふた手にかれ、車の出入り口でも横断幕をかかげることにした。

 その前を日本人妻が乗っているらしいタクシーが何台か通過した。そのうちの一台に日赤関係者が急いで同乗して別の入り口に向かって走り去る一幕もあった。

 また、この日のアピールに参加した朴春仙さんに、かつてシン・ガンス(辛光洙)の捜査にかかわったという地元の警察署員が話しかけたりした。

 くだんの警察署員は「趣旨は分かるがこんなことやってどれだけ効果があるのか」と余計な心配までした。

 この日はマスコミや日本人妻への直接のアピールはできなかったが、持参したチラシを全て配り、大勢の日赤関係者にアピールできた成果はあった。(編集部)

旧態依然たる里帰りを批判する ―日本人妻里帰り第三陣を迎える折に―

 私たちは今から三十数年前に日本から北朝鮮に「帰国」した九万三千人の人々(うち日本人妻五・六千人-推定)の生命(いのち)と人権を守るために活動している市民団体です。

 三年前の第一陣の時も、二年前の第二陣の時も、こんな少人数の間歇(かんけつ)的な里帰りでは十年、二十年かかってしまう、日本人妻や日本の父母達は高齢になっているから、生きているうちに里帰りさすべきだ。費用がかさむというのであれば船を使ってでも一度に二百人、三百人規模で、高齢者から優先的に里帰りさすべきだと主張しました。

 二年前の二月、たった二回計二十八名の里帰りで打ち切られ二年半も中断し米(こめ)支援や日朝交渉再開と共に再開される、しかも規模もやり方も以前と全く同じという現実をみると、日本人妻里帰りが完全に政治の道具と化していることは明白で、私たちの要求が全く無視されていることに強い怒りを覚えずにはいられません。

<三年後の里帰りの約束が全くの反故(ほご)に>

 四十年前日本人妻たちは三年後の里帰りの約束を信じ、親の反対を押し切ってでも北朝鮮に渡りました。一九六二年秋、日本人妻たちは署名を集め、里帰りの履行を北朝鮮政府に求めました。

 その運動の先頭に立った日本人妻たち〔その中にテノール歌手だった永田(ながた)弦次郎(げんじろう)=金永吉(キム・ヨンギル)の妻 北川民子(きたがわたみこ)さんらがいた〕やそれに協力した夫、芝田孝三(しばたこうぞう)さんが山送り(収容所送り)されたと伝えられています。

 里帰りが37年間実現しなかった背景には、このような痛ましい悲劇、誠実で勇気ある多くの日本人妻たちの闘いと収容所送りがあった事実を皆さん忘れないで下さい。日赤はこの悲劇を調査する責任があります。

 マスコミの皆さんもこの悲劇を知らないで日本人妻里帰りの報道をし続けるのはジャーナリストの名に恥じます。

<日本人妻たちは三年前の当局の談話に縛られている>

 三年前の七月に出された北朝鮮当局(アジア・太平洋平和委員会、委員長:金容淳(キム・ヨンスン)の日本人妻里帰りについての談話ほど恐ろしい談話はありません。日本人妻の現状規定の部分です。

 彼女たちは「国家と社会のあらゆる物質・文化的恩恵を受けつつ張り合いに満ちた幸福な生活を享受している」と。 一体何人の人がこの規定に該当するのでしょうか。この規定の真赤な偽りを衝きましょう。

<帰国者と在日家族は離散家族化しつつある>

 離散家族とはどういう意味でしょうか。お互いの住所はわかっていても、自由に会えないと言う意味だけではありません。お互いの居所がわからないというのが本来の意味です。

 最近は二世の時代になり、お互いの住所がわからなくなっている家族が増えていることを最近知りました。日本人妻も同じです。一体何人の日本人妻が今も健在なのか、北朝鮮政府は明らかにする必要があります。日本政府はいかなる努力をしているのか、強く問いかけます。今回里帰りした16人の皆さんも来日中にこの点を少しでも語って下さい。

2000年9月16日
北朝鮮帰国者の生命(いのち)と人権を守る会

南北会談、食糧支援、戦後補償や難民問題などテーマに 盛況だった「日朝国交交渉と北朝鮮の人権」集会

 「日朝国交交渉と北朝鮮の人権」と題する集会が、守る会の主催で9月16日午後、東京都渋谷区の勤労福祉会館で開かれた。日朝国交交渉がこの8月に東京で行われ、9月12日からの日本人妻の来日中という時期に企画された集会でもあり、会員や会員外も含め参加者は会館集会室の定員60名を上回る盛況ぶりだった。

 当日はまず小川晴久共同代表から集会の趣旨説明があり、各講師の講演に入った。最初に、ちょうど米国から帰国中で守る会共同代表の萩原遼さんが、ワシントン滞在中の生活ぶりを交え、米国から見た南北首脳会談と日朝国交交渉をテーマにユーモアたっぷりに語った。

 そして、明治大学講師の川島高峰さんが、フランスの援助団体のアクション・アゲンスト・ハンガーの北朝鮮からの撤退理由を分析し、日本でも関心の高いテーマである食糧支援など人道援助のあり方を追及した。

 次に、福岡から上京中の北朝鮮難民の金龍華さんは、支援に対する挨拶で、北朝鮮脱出とその後の経緯を紹介したほか、帰国者と収容所にもふれ聴衆にショックを与えた。さらに、日朝交渉で中心的なテーマになっている北朝鮮への日本の戦後補償のあり方について運営委員の谷川透さんが、これまでの韓国との戦後補償の運動への取り組みをもとに解説をした。

 司会陣は佐伯浩明、金国雄、佐倉洋、高柳俊男各委員、さらに通訳では川崎孝雄委員という守る会運営委員の総力をあげたものになった。惜しむらくは参加者と講師との質疑応答の時間が少なく講演内容の掘り下げが十分にできなかったことだろう。

 終わりに会員の小野美智子さんが、日本人妻来日に関連して、「旧態依然たる里帰りを批判する」という集会宣言を読みあげた。また、講演会終了後、多くの方たちに懇親会へ参加して頂きました。(編集部)

アメリカの国家戦略と南北首脳会談及び日朝交渉 萩原 遼 共同代表

 昨年10月に、アメリカの元国防長官のウイリアム・ペリー氏が、クリントン大統領の委任をうけてまとめた北朝鮮政策が発表されました。いわゆるペリー報告です。この中でこういうくだりがあります。

「米国は北朝鮮を武力で倒すことも考えたがあまりにも犠牲が大きいことがわかったので、それはしないことにした。この政権はまだまだ長続きする。われわれはこの政権と交渉する必要がある」

 これを読んだとき私は1990年代の10年間、アメリカと北朝鮮は戦争の瀬戸際までいく対決の時代は終わった。米朝は手打ちをした。これからのアメリカは金正日政権を助ける側に回るだろう-と思ったのです。

 「ならず者国家」と呼んで武力制裁の対象だった北朝鮮と手をとりあっていくという、まったく新しい段階に入ったのです。

 このとき同時に思ったのは、日朝国交の動きと南北朝鮮の関係改善の動きがあるだろうと予測しました。アメリカが動かしている。アメリカの描くデザインに沿って日本と韓国は絵をかいている。彼らの本音をさぐる必要があると思って、5月末にワシントンに数ヶ月の予定で行ったのでした。着いて間もなく南北首脳会談です。

 私の予想どおり韓国の一方的な譲歩だけの首脳会談でした。ギブ・アンド・テークが交渉というものですが、金大中氏はギブばかり。いま南北の民衆のもっとも切実な願いは1000万人の離散家族の再会です。約束されたのはわずか200人。こんなペースでは全員が面会するのに5万年かかる。これはやらないと同じことです。金大中氏は少なくとも1万人以上の面会を北にのませるべきでした。

 一方、北側もこんな当り前のことをなぜ応じないのか。北側がもっとも怖れるのは南の実情が北に伝わることです。ウソ八百で北の人民をだましていたことが白日の下にさらされる。「私はだまされていた」という人民の怒りは爆発する。

 「北は地上の楽園で、南はこの世の生き地獄」と教えこんできた。実際は韓国の人たちは十分に食べて、北の人たちが一生味わえない豊かな生活をしていることを知ったら、この50年間のがんばりはいったいなんだったのかとなる。なにしろインスタント・ラーメンすら「この世にこんなうまいものがあるのか」とおどろく人たちです。それほど人間以下の生活を強いられています。

 これを見て下さい。6月14日付の北の「労働新聞」です。金正日が空港に出てきて金大中氏を出迎えている写真です。「大韓民国金大中大統領」と正式名称を党機関紙に記した。これは画期的です。これまでは「憎むべき米帝の傀儡であり、手先である南朝鮮の反動の頭目」とののしってきたのですから。

 それはなぜか。北の経済がゆきづまりにゆきづまって、韓国に助けを求めざるをえなくなったためです。餓死者300万人をだす食糧危機は世界に知られています。それだけでなく、工業の基本である電気がない。工場は動かない。ものが作れない。食糧増産したくても化学肥料も、農薬もつくれない。鉄道は日本の植民地時代のものをいまだに使っている。これを全面的に改修したり、単線を複線化するには莫大な金がかかる。もはやお手あげの状態にいたった結果、これまでの政策を180度変えて、韓国から援助をうけ入れることに踏みきったのです。

 しかし韓国もいま経済が苦しい。韓国の力だけでは、ゆきづまった北朝鮮を支えることはできない。そこから日本も応分の負担をしてほしいということで、日朝国交正常化が急浮上してきたのです。これもアメリカの政策転換の結果です。

 アメリカはかつて93年から94年の北朝鮮の核開発計画にはげしく反応し、武力制裁すらほのめかしました。北も強硬な姿勢で「ソウルを火の海にする」と反発し、戦争の瀬戸際までいきました。もし朝鮮で戦争がおきれば、アメリカの兵士が5万人は死ぬだろうという試算が出てアメリカは震えた。ベトナム戦争の頃とはちがって、いまやアメリカの納税者は、「なんのために他国でわが国の青年の血を流さねばならないのか」という考えに変っています。ここから北朝鮮にたいする宥和政策が生まれて、ペリー報告という形で完結するのです。

 日朝国交の必要は私も40年以上主張してきたことで、人後におちません。しかし、こんな重要な問題をアメリカの政策にそって押し付けられることにはがまんならない。いまのマスコミや日本の保守政界では、南北情勢が急進展しているから日本もバスに乗りおくれるなと、はやしたてています。日本人の拉致問題や、北のミサイル発射問題などをとり下げて、とにかく国交を結ぶことだという主張が大手をふっている。アメリカのお墨付きがあると、急に元気になるのが日本のマスコミや自民党、外務省の悪いクセです。

 かつて1990年9月に自民党の金丸信氏らが金日成と国交回復を約束したときは、アメリカは激怒して、「出すぎたまねをするな」と金丸氏を別件で失脚においこんだのはまだ記憶に新しいところです。あのときは核疑惑の北朝鮮と国交などとんでもないと反対したアメリカが、こんどは早くやれとせかせている。こんな勝手なふるまいがどこにあるのか。朝鮮と二千年の交流の歴史をもつ日本は、日本の立場に立ってじっくりと懸案を解決しながら納得のいく国交を開くべきです。

 懸案とは被拉致者の問題、植民地支配の謝罪と清算などのほかに私たちの会が発足以来かかげてきた日本人妻全員の里帰り、在日朝鮮人帰国者の往来の自由を北当局に約束させることが含まれます。

 懸案をひとつひとつ詰めていくといつまでたっても前へ進まないから、とにかく国交だ、懸案はそれからでいい、という意見があるが、とんでもないことです。懸案が解決されてこそ国交となるのである。50年以上にわたって日朝国交を妨害してきたのはアメリカであり、それに無条件に追随してきた日本の歴代内閣です。アメリカの政策が変ったら手のひらを返したように騒ぐ。急ぐ必要などどこにもない。

人道援助のあり方について 川島 高峰 明治大学政治学講師

 フランスに拠点をおく世界的な人道活動団体、アクション・アゲンスト・ハンガー(反飢餓行動、以下AAHと略称)は、この三月北朝鮮の活動から撤退する声明を発表した。同声明からは人道活動を通じて知見した北朝鮮の社会の実情を知ることができ、極めて貴重な報告と言える。詳しくは同声明の全訳(25~31ページ)にゆずるが、今回の撤退声明から少なくとも人道援助と民主化支援について次のことが言えると思う。

 第一に、民主化の支援こそ人道援助の枢要である。政治体制の如何を問わず生命の危機に瀕した人々に手を差し伸べることが人道支援であることを否定するものではないが、そもそも批判者や既存の社会に変化をもたらしかねないような支援は受けないといって何かと拒絶をするのは北朝鮮の方である。そのことは今回のAAHの撤退声明からも明白である。

 「飢えた子供は政治のことなど知らない」(レーガン大統領)とは人道援助に政治批判を持ち込むべきではないとする人々がよく引き合いに出す言葉であるが、北朝鮮で飢餓に苦しむのは子供だけではない。このような言葉で政治批判抜きの人道援助を正当化するのは「北朝鮮の全ての飢餓民衆は政治的に子供である」と言うに等しい。人道に名を借り飢えた子供を政治利用することには同意しかねる。

 第二に、北朝鮮の飢餓とは金正日体制への忠誠の残虐な濾過装置なのである。出身成分のヨリ「良い」ものがヨリ多く配給にあずかるシステムが存続する限り飢餓はなくならない。援助は特定の階層を飢餓から救う事はあっても決して完全統制区(強制収容所)に届くことはなく、その特定階層への援助すら受益者との接触を当局は厳しく制限している。批判を伴わない食糧援助は単に出身成分の高低格差を絶望的に拡大させ、忠誠の残虐な濾過装置を強化するだけである。AAHの当局への提案はこの明らかに存在する援助から排除された人々へ接触を試みようとするものであった。しかし、当局はこれを拒絶し、そのような人々の存在すら否定したのである。このことは北朝鮮において飢餓は統治政策の一環であることを示し、この枠を越える援助を決して当局は認めないのである。

 第三に、それにもかかわらず、なおかつ、食糧援助に意義を見出すとすれば、それは食糧そのものが情報の媒体となり得るという点につきる。おおよそ国境を往来するものは人、金、物、情報の四つであり、北朝鮮は金と物だけの往来を求めている。しかし、情報の流入を伴うことなく物を行来させることは困難である。

 このような情報を含め極端に物事が窮乏化した社会ではささいなことが大きな情報源となる。実は似たような状況を日本人も半世紀以上前に体験した。例えば、米軍は大量の宣伝ビラを撒いたが、戦後、その効果を調べたアメリカ戦略爆撃調査団の報告書には印象深い一節がある。

 「私がビラを母に見せたところ、母はアメリカが世界中の原料をすべてもっているにちがいないと申しました。『見てごらん! ビラをまくのにこんな立派な紙を使ってるなんて!』と申しました」 ビラそれ自体が情報の媒体となったのである。このビラがもし食糧だったらどうであっただろうか。北朝鮮に空爆を、などと勇ましいことを言う向きもあるが、爆弾の代わりに米俵を雨あられと降らせた方があらゆる意味で遥かに大きな効果があるだろう。

 また、日本では空襲に伴う大量の罹災難民が地方へ移動したが、この被災者は体制にとって好ましからざる情報(米軍の空爆に日本が無力であること等)を全国へ波及させる媒体となった。ひるがえって、今日、北朝鮮では食糧を求め多くの人々が国内を移動していると聞く。このような人の移動は同時に情報の移動を意味し、移動の自由が厳しく制限されている体制であることを考えると、国内の情報統制は極めて脆弱であると言える。

 第四として、北朝鮮当局にとって海外からの援助とはそれ自体が脅威であり、体制に好ましからざる情報を流布させる危険な「病原菌」なのである。実際、彼らは外国の援助スタッフが民衆と接触することを最も恐れている。そして、北朝鮮の民衆が完全に精神統制された人々と理解することは大きな誤まりである。大量の越境難民は徹底的な民衆教化をしてもなお総書記の「銃爆弾」とならない人々がいることを示しているからである。かつて日本人は敗戦を前後に大きな意識の変化を示した。それは言論・思想の極端な抑圧と鎖国の体制が外部からの刺激をかえって新鮮なものとしたからである。抑圧と鎖国は長期化すればするほど異文化が民衆に与える衝撃力は大きくなる。

 以上のことから、体制に好ましからざる情報が国外から流入した時、その流布を抑止する機能は極めて低く、民衆の異常にまで高い忠誠心は、むしろ劇的転向の可能性と常に背中合わせにあると理解すべきである。食糧投下による「強制」援助はこの体制のジレンマを撃ち抜く最後の切札となるだろう。このような「作戦」を非現実的と一笑に付す者は、一笑に付す限り北の体制は安泰であるが、逆に一度、その検討に着手すればそれだけで彼らは重大な危機に直面するであろうことを想起して頂きたい。

 民衆の飢餓をも政治利用し援助外交を展開する北の為政者は真の愛国者の言葉に耳を傾けるべきである。貧しくして諂うことなく、富して驕ることなし(安重根)

「北朝鮮難民 金龍華(キム・ヨンファ)氏のあいさつ」

 氏は多くの支持者の支援をうけ、大村入国管理センターから仮放免されたことに感謝の言葉を述べた後、時間の関係から、事前に氏が用意してきた挨拶原稿を主催者側が翻訳朗読し、その後残された時間内で帰国者に関する話を語ってくれた。

 以下はその概略である。なお氏が提訴した難民不認定処分取消請求事件・退去強制令書発布処分取消請求事件の最終弁論・結審は10月30日福岡地裁301号法廷で行われる。勝訴して日本に定住できることを願ってやまない。 (川崎孝雄運営委員)

 私は1953年、現在の地名では平壌市兄弟山区域で生まれ、北朝鮮で高等中学校を卒業し、1970年朝鮮人民軍に入隊し、1974年に朝鮮労働党に入党。人民軍に12年間服務しましたが、資本主義社会特にアメリカ、日本、韓国に対しては徹底した仇敵だという認識しか持てませんでした。1976年8月18日、板門店ポプラ伐採事件当時の”韓半島平和は戦争を通じてのみ達成される”という教育によって、その認識は一層強くなりました。

日本人妻への迫害はなはだしい

 人民軍将校として除隊後、社会安全部教化局(刑務所)指導員として4年間勤務した過程で人間弾圧の野獣性が北朝鮮社会にいかに無慈悲に具現されているか、実体験を通じて切実に感じました。朝鮮戦争越南者家族、北送在日僑胞、そして日本人北朝鮮生活者に対する政府の監視と迫害がいかに深刻であるか知るようになりました。北朝鮮社会自体が独裁になっており、独裁者父子(金日成・金正日)に対する偶像化しか許容しない社会であり、一言の言葉と行動が死の道に結び付く社会が北朝鮮社会であります。

列車事故で家族全員が収容所送りの危険に

 1988年7月、咸興鉄道局端川機関車隊乗務員指導員在職中の列車事故で政治犯の処罰を受けそうになりました。私は社会安全部所属教導官として勤務した当時、21号管理所をはじめ耀徳管理所についても知っていました。人間が獣にも劣る存在として扱われる政治犯管理所。妻と3人の息子を残し、北朝鮮脱出を決めました。この状況は北朝鮮に住んだことのない人には想像もできないでしょう。私が黙って脱出しなかったなら、家族全員が政治犯管理所に収容されます。行方不明なら家族に及ぶ影響はある程度差があります。妻が知って、私を即座に申告すれば、妻は党に忠実な人となり、私は大反逆者になります。申告しなければ妻は同罪です。

命がけの中国亡命もまた死の危険

 私は鴨緑江を渡り中国に入り、やっと北朝鮮社会が人々を騙し欺いているか知るようになりました。私は韓国行きを決心しました。北朝鮮の実情を知らせ、我国統一のため一生懸命生き、統一された日には北朝鮮に置いて来た息子たちに、この父が歩んで来た道が恥ずかしくない道であったことを見せてやりたい一心でした。しかし中国での脱北生活は容易でありませんでした。乞食生活、下働き生活の中でも身辺の危機を感じて偽造した住民登録証、それが私の運命を試練に駆り立てるとは、当時想像もできませんでした。中国では警察に賄賂をやればどんな事でもできるというのは、すでに知られた事実です。

韓国に密航、逮捕・拷問

 在中韓国大使館に助けを拒まれ、1995年北朝鮮社会安全部と中国公安部の合同捜査にかかり、ベトナムに密入国し韓国大使館の助けを受けようとしたが、外交的摩擦という理由で拒まれました。ベトナムで逮捕され、北朝鮮に送還されそうになりましたが、ベトナムから北朝鮮行きの飛行機は一月に1回程度なので、脱出の機会を得る事ができました。監獄を脱出し、再び中国に渡り、1995年6月0.5トンの小船で韓国に一次密航をしましたが失敗し、二次密航の末韓国に到着しました。夢に見ていた故国に来たと言う安堵感は束の間でした。

 安企部に移送され、北朝鮮からどんな任務を帯びて来たのかと過酷な拷問を受け、中国住民証確認という理由で出入国管理事務所に移され、結局中国への追放が決定されました。中国への追放は即北朝鮮への追放なので、死ねと言うも同然です。

 北朝鮮からの亡命者たちは、私が北朝鮮に送還されれば自分たちの父母兄弟親戚たちが北朝鮮で苦痛を被る事を考えて、私の問題のために非常に努力してくれました。韓国で保釈されたとき、ソウル高等法院に強制退去命令無効訴訟を起こしました。韓国から中国政府へ35回以上確認を求めましたが公式確認はまったくなされませんでした。

 そんな中、北朝鮮にいたときから知っていた人、特に人民軍時代にある部隊にいた人の息子が韓国に亡命したときは、彼らの証言で裁判も確実に行われるだろうと考えましたが、安企部が亡命者たちに証言できないように圧力をかけていた事を知ったときには絶望しました。

日本に脱出

 そんな中、1997年大統領選挙当時、国民会議金大中総裁と越北国民会議天道教教領オ・イクジェとの手紙事件が起こり、その手紙の真偽を確認する要請を国民会議国会議員たちから受けました。彼らは、真偽確認の席上「私の問題は政治的に解決しなければならない問題だから、裁判を取下げても心配する事は無い。」と言い、それを信じて私は訴えを取下げしました。私の運命はまた変わりました。再び収監・追放命令を受け、1998年4月韓国から日本へ脱出しました。

(金龍華)

 以上が挨拶の概要ですが、帰国者に関連して次のような事も語ってくれました。

 北朝鮮政治犯収容所には約20万人が収容され、その75%は帰国者と越北者である。端川の海辺で、海に向かい拍手をしている女性を見て、当時は狂った女性だと思っていたが、日本に来て祈る姿を知り、あれは日本に向って何か祈っていた帰国者だと思う。

「日朝交渉と過去の清算」 谷川 透 戦後補償問題専門家:守る会運営委員

日朝交渉での双方の主張

 第9回日朝国交正常化交渉で、日本は「侵略と植民地支配でのお詫びを表明した1995年の村山富市首相談話と同じ認識。互いに残してきた財産などの返還を求める請求権で処理すべきだ」と言っています。北朝鮮はどう言っているかというと、過去の清算については、「政府の最高責任者が謝罪を表明し、公的拘束力のある公式文書に明記を」「過去の人的・物的損失に対し十分な補償をして解決すべきだ」と言っています。

 過去の清算については、日朝外相会談で日本が「取り組む」という姿勢を示しています。どういう形で取り組むかというと、「経済協力で清算する」(8月29日付け「朝日新聞」記事)と言っています。要するに、日韓方式でいきたいということです。日本は「対立がある中で合意に達した例として、経済協力で決着した日韓方式について適宜研究し、今後双方の接点をさぐる作業を進めたい」と提案しています。朝鮮総連の戦後補償問題をやっている人が、お互いの間で落としどころは決まっているんだということを言っていましたが、最終的に日韓方式でいくんではないか、という気がします。

 8月27日付けの朝日の記事で対外文化連絡協会の鄭崙会(ジョン・ユンへ)日本局長という人が、日本の市民訪朝団に対して「慰安婦問題は国家間補償を、と述べた、とあります。さらにその後で、「一部の国には個人補償を求めている人もいるが、わが国にはいない」と述べたということが書かれています。こういう姿勢は非常に残念です。

日韓方式とは

 日本政府は日韓方式でいきたいと言っていますが、日韓請求権協定とはどんなものだったのか、見ておきたいと思います。これについては延々と長い交渉が行われました。韓国側は未払賃金など8項目を持ち出してきたわけですけれども、日本側は、未払賃金って言うなら金額を言ってみろって言うわけです。そんなもの言えるわけないですよね。日本の方に資料は全部あるわけですから。で、ほらみろ、言えないだろう。そういうものは主張するのはやめて、経済協力でいこうということで、無償3億ドル、有償2億ドルの経済協力を決めたわけです。現金では渡さず、生産物と役務の供与という形でやって、日本の経済発展に役立ったわけです。

 アジア諸国が日本によって一方的に侵略されたり植民地にされたりして蒙った損害というのは、普通の戦争と考えることは出来ない。国家間賠償では済まないものがあるわけです。それは軍人・軍属として引っ張られた人であるとか、強制労働者であるとか、慰安婦であるわけですけれども、こういった人たちは国家が賠償を受けたから、ハイ決着がつきましたというふうにはいかない性格が非常に強いわけです。

 こういうものについては近年、個人補償というものが大きく取り上げられるようになってきているわけです。

朝鮮半島の被害者の大略

 韓国と北朝鮮を合わせて36万5,263人という人が日本軍の軍人・軍属として動員された。うち戦死をした人は2万1,919人で、この人たちは靖国神社に本人の信仰の確認や遺家族の許しも得ないで、勝手に合祀されたことになっています。また軍人・軍属には障害を負った人がいて、彼らは何の補償も受けていない。また軍人・軍属の俸給の大部分は戦後1950年に東京法務局に秘密裏に供託されて、今では受け取る権利がないものとされてしまっています。同じことは70万人の人が朝鮮半島から日本内地に連行されてきて、うち2万人程度の人が死んだと言われる強制労働・徴用の場合も言えます。彼らも未払賃金の問題を抱えています。

 あと慰安婦の問題があります。1937年に南京事件が起き、日本軍があまりにもレイプをして世界中に報道されてしまい、日本軍の沽券にかかわるというので慰安所がつくられました。朝鮮半島から8万人が慰安婦として引っ張られたとされています。これは関東軍特別大演習というのがあって、このときこれぐらいの将兵の数には、これぐらいの慰安婦をということで準備をしたという資料があって、外地に行った350万人の兵隊に10万人の慰安婦がいたと推定し、約8割が朝鮮半島出身者だったことから割り出した数字です。(谷川氏の講演内容を編集部で要約)

中四国支部設立を目指して!!

 中国・四国地方における支部設立に向け10月14日~16日の日程で萩原遼共同代表と金国雄運営委員の二人は広島、松山へ赴き当地の中心的な会員及び関係者の皆さんとお会いし、設立準備に向け懇談会を持ちました。そして来年3月頃をめどに支部結成が申し合わされた。(編集部)

<支部設立を目指して!> 福本正樹(愛媛県)

 10月15日、愛媛県に萩原遼さんと金国雄さんが来られ、中四国支部設立準備会議が行われました。最初は、松山市でという依頼でしたが、会議・懇親会・宿泊を兼ねた場所が見つからなかったので、私の地元の内子町に来てもらいました。内子は、松山より車で20分ほどの位置にあります。

 会議は、全体で12名の参加があり最初に、萩原さんの講演が行われました。

 その後、内子町の見学を行ってもらい、四国で二つしかない芝居小屋の一つ「内子座」、明治に木蝋(もくろう)で栄えた「芳賀邸」。映画撮影も多いその周辺の町並み。駆け足の見学でしたが、何か感じてもらえるところがあれば幸です。

 その後、「守る会」の中四国支部の可能性を検討し、来年の春までにめどをつけようということになりました。私の感想として、短い時間でしたが大変有意義な話し合いであったと思います。話し合いの内容を実行に移すべく検討を進めねばと思います。

 数日後、この話し合いで知り合った朴玉枝さんより、歌集「身世打鈴」をいただきました。一首を紹介すると、
「強制連行の労働に果てし同胞は碑もなく埋もる別子銅山に」
大変立派な歌集で驚きました。

<福本さん&萩原さん&松浦さん>

<懇談会に参加して> 松浦照雄(愛媛県)

 最近「カルメギ」がこない。会費切れで郵送停止にでもなったか? 問い合わせでもしてみようか? と思っていた矢先に封書がきた。封筒は「守る会」専用のもの、差出人の名は「萩原遼」。「…別紙のように10月15日PM2時に松山駅にご集合下さると…」、あの萩原遼先生から? これは本物かいな?と、いぶかりながらも、どうも本物らしいという結論に達した。萩原さんは広島講演後、四国に渡り、数名の会員と懇談されたいとのことであった。萩原さんからの自筆の手紙に感激であった。

 萩原さんは四国に連絡先があるらしい。そこは会員の方のご自宅らしいが、それにしても私の電話番号と酷似している。市外局番からの10桁のうち6桁まで同じ。後方の4桁が違うのみ。こんな近いところに「守る会」の会員がいるのか? 思わず電話した。確かに私の近所に会員がいた。驚きだった。私のところから、彼のところまで車で10分もかからないだろう。懇談会には出席の旨を伝えた。

 懇談会では、萩原さんの「1999年のペリー報告」を根拠とした今後の朝鮮半島情勢の展望は大いに参考になった。また、「守る会」の人権運動を推進する中国・四国の拠点を松山につくろうという話にもなり、私も微力ながらその拠点作りに参加することになった。若輩故、充分なことは何も出来ないかも知れませんが、皆様のご指導、ご鞭撻を宜しくお願い申しあげます。

 さて、萩原さんの印象は才能豊かで、思いやりがあり、気配りのできる素晴らしい方です。また、名古屋から同行したという金国雄東海支部事務局長はたいへん友好的な方で、話しやすい好男児です。今後とも宜しく!!

 懇談会は日曜日の夜であったので、土曜日の夜などの休暇前の気楽さのようにはいかないところころもあって、少々話し足りない感はありましたが、有意義な懇談会であったことに感謝しています。ご参加された皆様に感謝の意を表します。ありがとうございました。(合掌)

第13回 関西支部講座 米国取材中間報告 萩原 遼 「アメリカの北朝鮮政策と南北首脳会談」

 アメリカ政府の朝鮮政策等の研究と取材のため訪米、このほど一時帰国した萩原遼共同代表。萩原遼さんは「南北の統一と日朝国交を期待し支持しながらも、それがすんなりいかない現状」を分析、報告した。(講演要旨)

南北統一は出来るのでしょうか

 私がアメリカに行って間もなく、南北の首脳会談が開かれました。日本の新聞の南北会談の大騒ぎぶりをワシントンの日本のある新聞の特派員は「新聞社というものは、阿波踊りを踊っているようなもので、踊りを踊っている時は、一緒に踊っていないとお前のニュース感覚はおかしいのとちゃうかといわれる。だから踊っている振りをする」という冷めた見方をしている。

 私は南北の統一を望んでおり、断固としてこれを支持しています。私が日朝協会に入ったのが、45年前です。高校の同級生の尹元一(私の著書『北朝鮮に消えた友と私の物語』をご参照下さい)に教えてもらった。日朝協会は南北朝鮮の統一と日朝の国交回復をめざし、活動していた。

 私は一日も早い南北の統一と日朝の国交回復を望んでいます。

周辺の四国と北朝鮮は統一を望んでいない

 ケチをつけるわけではないが、南北首脳の会談で統一が出来るでしょうか?事実は事実として見ましょう。まず南北の統一は当事者どうしでやろうと思えば出来ますが、周囲に大国が四つあります。

 ロシア・中国・日本・アメリカの意向がきわめて重要だというのはいうまでもありません。この四国、どの国も南北の統一を望んでいません。一番望んでいないのはアメリカ。アメリカは北を消滅させなければアメリカ流の統一は出来ない。

 その次ぎは中国が望んでいません。北のいう統一というのは、北によるドンパチをやる統一でしかない。今は南進してはいけないというのが中国の態度、かりに南が吸収統一すると、中国は国境に新たに七個師団を配置しなければならない。

 中国はいま軍隊を減らしたい。そして経済建設に向けたい。新たに七個師団を増設するのは経済的に大変です。

 ロシアは旧ソ連時代に朝鮮が日本の植民地であった時に日本は「おれたちの脇腹に突き付けられた短刀だ」といっていた。それと同じ事になるからロシアも望まない。

 日本はどうでしょうか。朝鮮が統一するとドイツに次ぐ七千万人の世界で十番目の大国になる。そんな大国を日本の支配層は望まない。

 そして肝心要の北朝鮮が望まない。統一はおろか、交流も望んでいない。手紙のやりとりや、電話がかけられますか。日本から電話をかける可能性はあるが、韓国の人が、北にかけられない。国家保安法に違反する。まず電話回線がない、電話ひとつかけられない、手紙のやりとりが出来ない、まして行くことが出来ない。離散家族の再会問題は、一千万人が離散家族で南北に別れて苦しんでいる。それが今回、わずか百人。それも面会場でしか出来ない。一番離散家族が望んでいるのは、離散家族の家で面会をすること。そこへ行けば、どんな生活をしているのかが分かる。これは絶対許さない。許せば平壌の党の幹部でもポラロイドカメラを知らなかったというのですから、人民をウソ八百でだましてきたことがばれる。「南の人民はもっと苦しんでいるから、三度の飯も二度にし、二度のご飯も一度にして南の同胞を救うために、祖国の統一をめざし頑張ろう」そういうウソ八百をこの五〇年ついて来た。とんでもないウソであった事が北の人民にばれる。

七〇年代の北朝鮮の生活

 私は平壌に行って初めて分かった。極たんな貧しさです。まず水道がない。共同の水道はあるが、それをバケツで三階・五階・七階のアパートの部屋に子供たちも動員して、水おけにためる。それが平壌の生活です。

 私の所は外国人アパートであったかでしたが、けれど一歩外に出ると零下十度くらい。でも手を真っ赤にして外で洗濯している平壌の市民を見かけました。そのころの北の経済は自信に満ちていた時代です。

 家で米を切らして、管理人のおばさんの家にもらいに行ったことがあった。もらった米は何と、古米で砕けてなかには石が交じっている米でした。選り分けるに苦労した。これでも良い方だったのです。粟やひえなどの交ざったものを市民は食べていたのです。商店に自転車を展示している、売ってくれというと売らない。見せるだけです。

 この時、これでは南北の統一などとんでもないと思った。統一はおろか韓国と交流もやれないことを痛感した。真実の情報が入ってくるのが怖いのです。あれから30年近くたちましたが、北の状況は同じで、変わっていない。むしろ悪化している。

 帰国した親友、尹元一に会えると思い消息を聞くと妨害される。自分で探しはじめるとスパイ扱いされる。私は仕事上で、韓国の新聞が必要だからと労働党の幹部に頼んだら、いやとはいわない。「考えましょう」という。考えてくれましたかというと「考え中」と、いう。つまり駄目だということです。きょうここに出席のKさん、彼は数年前観光で平壌に行き酒に酔い平壌のホテルで韓国の CD(カセット)を近くにいる者に聞かせたものだから、「ちょっとこい」とつれていかれ、パスポートを取り上げられた。こんな状況もある。

 結局一年で私は彼らによって追放となりました。その原因はこの国を作りあげているウソ八百の体質を知ったためです。それを私に暴露されないために、そして北の人民に南の真実を知らせないための措置であったといえます。

 四ヶ国が統一を望んでいない。それに北朝鮮が望んでいない、統一はおろか交流も望んでいない。金大中韓国大統領だけが望んでいる。この人の願望だけが韓国の新聞を支配している。

ワシントンの取材から

 金友錫という人がおられます。韓国統一省の次官をしていた方で、今ワシントンの戦略研究所の客員研究員です。彼にワシントンでお会いしたので聞いたのです。「何で日本の新聞があんなにはしゃぐのか」と聞くと「それは日本の新聞は全部韓国の新聞を見て書いているからですよ」という。韓国がはしゃぐと日本がはしゃぐという事です。

 金友錫さんは「韓国の大新聞は全部赤字ですよ。だから政府が銀行に融資をストップさせると倒産する新聞社もでる。だから倒産しないように政府の顔色を見ている。みんな一緒の記事になるのはあたりまえ、唯一黒字の朝鮮日報だけは独自の反政府の記事も掲げる」といわれる。そういう事で韓国の新聞は政府が、そしてかつてのKCIA(現国家情報院)が仕切っている。それを日本の新聞が見て書くものだから、一緒になるのはあたりまえというわけです。「もっと日本の記者は勉強して見識のある記事を書いて欲しい」といわれる金友錫さんの意見に私も全く同意見です。大阪シナリオ学校の校長、杉山平一先生(詩人)の詩を紹介します。

 「信号」
いつの時代でも信号が変わるとどっと
人や車が動きだす
あれは恐ろしいものだ

 日本のマスコミが一色に染められ、朝鮮半島に近く統一がくるなどという幻想をふりまかないこと、恐ろしいことが起こらないことを望みたいものです。

南北会談のお膳立てはアメリカ

 南北会談のお膳立てはアメリカであると思う。具体的な根拠は、93~94年の北朝鮮の核疑惑に対して、戦争の寸前までいった。そのあおりで金丸訪朝団にストップを掛けたのもアメリカ。

 昨年10月に発表されたアメリカの北朝鮮政策であるペリー報告によると「金正日政権を武力で倒すことをしない。…この政府と交渉せざるを得ない」とあります。北と戦争をすれば、アメリカは五万人の死者が出ると予測している。韓国は百万人単位の死者が出る。カーター前大統領が金日成と会談、合意できる方向になった。三万七千人の駐韓米軍を北は人質にとったようなもの。もちろんペリー報告の背景にはアメリカ国民の平和への世論がある。アメリカ政府が戦争は出来ないと認識したことが、南北会談につながった。アメリカの都合による南北会談です。一方、北朝鮮は欲しい物はもらう。鉄道、電気などが欲しい。もらうものをもらえばまた閉ざしてしまうでしょう。

 南北会談と日朝国交回復がセットで進んでいる。インフラなどの支援の資金は日本からということでしょう。アメリカの指揮棒による日朝国交回復など不愉快きわまる。

金正日がカギを握っている

 南北が自主的な統一に向かうカギは金正日が握っている。百人の交流でなく一千万人の離散家族の交流を。十六人の日本人妻の訪問でなく、全ての日本人妻の訪問を。全ての北朝鮮帰国者の自由な往来。もし金正日がふみきるなら画期的といえる。統一へと発展するでしょう。しかし金正日はそのとき民衆に八つ裂きにされるかもしれない。彼が一身を投げうって人民のために”時代”を切り開くならば、別の評価となるでしょう。 (文責:八木隆)

ワシントン便り  萩原 遼

 8月末に一時帰国しました。末息子が急に結婚することになったから帰ってきてくれないかという兄夫婦のたのみ。あわせて亡父の33回忌と亡母の17回忌の法要もしたい、からと。8月末の日本の猛暑にはほとほと閉口しました。部屋の中で34度。ワシントンならクーラーなしで室温28度ぐらい。朝晩は20~22度。肌寒いぐらいで、快適にすごしただけにまいりました。

 日本に戻ってもうひとつまいったことは、朝鮮半島が統一に向けて大きく動きだしているという見方があふれていたことです。新聞やテレビのために多くの人がそういう風潮に流されていることを強く感じました。ある本の宣伝文にも枕ことばのように記されているし、友人からきいた話ですが、小学校の朝礼で校長先生が「朝鮮半島も統一は近い、とてもすばらしいことです」とのべたというのです。たまたま朝日新聞の東京本社がシリーズ「識者に聞く」との企画で私にもインタビューにきたので3時間応じました。朝日新聞は私をこれまで一貫して無視してきたので、どういう風の吹きまわしでしょうか。しかし、この部分は絶対に削られると思うので、『カルメギ』読者の方にお伝えしたいと思います。

(朝日)朝鮮の南北首脳会談や日朝交渉の報道に厳しい批判をお持ちとか……。

(萩原)南北首脳会談や共同宣言をすぐに「統一」に結びつけ、「雪解け」とかいって持ち上げているが、それは金大中大統領の願望にすぎない。朝日新聞などは現実を直視せずに、権力者の願望をそのまま先走って報道している。本質は何も変わっていないのに無責任だ。南北も動き出したから、次は日朝だとか、国民は浮き足立っている。人心を惑わしてはいけない。

(朝日)多くの在日韓国・朝鮮人も、そして韓国の新聞も両首脳の合意を歓迎、評価している。統一は民族の悲願であり、過去の植民地支配を考えても、分断に責任の一端がある日本の人々が合意を前向きにとらえるのは当然ではないか。

(萩原)そういう論調のために浮かれた一部の在日がたいこを叩いてお祭り騒ぎをしているのを見ると、ほんとうに気の毒だ。南北にとっては統一問題は軍事問題そのものであり、38度線を挟んで対峙する百万規模の兵力を少なくとも十万ずつでも減らすとか引き離す合意や、軍事基地の相互査察の実現でもない限り、評価できない。

(朝日)物事には段階がある。戦争の危険が回避されたのは画期的なことだ。南北国防相も初めて会談した。

(萩原)国防相同士の会談は京義線の再開のための地雷原の取り除きの交渉など極めて限定的なもの。韓国はもっとつっこんだものにしたいが、北朝鮮の体質がそれを許さない。戦争の危機が去ったなんてとんでもない。いま戦争ができない状況であることは事実だ。それは米国も認め、認めたから昨年十月のペリー報告が出た。米国は新たな朝鮮での戦争で数万の遺体袋を用意しなければならないとの想定に震えたし、北も核攻撃を覚悟しなければならず、互いに震えた結果だ。米国はとりあえず戦争がないことを前提に、北朝鮮の体制を長続きさせることを約束した。そんな『国体護持』の宣言がペリー報告だ。

(朝日)少なくともまず平和共存していこう、ということではないか。それは統一への一歩だ。この時期に二人の南北首脳が会ったことの意味は大きい。

(萩原)私は逆に統一は遠のいたと考えている。北朝鮮にとって統一とは赤化武力統一か南による吸収しかない。どちらも今はできない。なぜ、金正日総書記は出てきたのか。食糧不足については米国を中心にある程度の国際的支援体制もできたが、電力や鉄道や水道などのインフラが壊滅状態で工業を中心に経済が破たんしている。だから金総書記が表に出てこざるをえなかった。韓国の技術や物資が欲しい。日本からはカネがもらえる。取るものだけとったら、また門戸を閉ざす。体制もそのまま温存されるわけだ。つまり分断の固定化だ。こういう風潮をみると、日本はこわい、一丸となってあらぬ方向に走り出す、という気があらためてしました。大阪の詩人で杉山平一さんという80歳台の方がおられます。「信号」という詩があります。

いつの時代でも信号が変わると
どっと人や車が動きだす
あれは恐ろしいものだ

 アメリカが北朝鮮政策を大きく変えたのが昨年10月の「ペリー報告」です。金正日体制を倒さない、この政権と交渉せざるをえない、というのがその中心です。倒さない以上支えるということです。南北首脳会談も日朝国交交渉もこのアメリカの政策に沿ったものだという私の仮説を説得力をもって論証するしか、いまの風潮をまきかえすことはできない。しかし、言うは易く、実際はたいへん困難なことだと、ワシントンに来てあらためて思いました。

 金もコネもない個人が、たどたどしい英語の力で、どうやって厚い壁をこじあけられるのだろうか。おまけに、去年からずっとかかわってきたある北朝鮮関連の翻訳のナマ原稿が7月にどかっと出版社からワシントンに送られてきました。当初の予定では、ことしの一月に原稿をもらって4月には翻訳を終える段どりでした。しかしうまくいかないのがこの世の常。苦しい両股裂き。4時間ぐらいの睡眠で毎日机にへばりついている私の姿をみた隣の部屋に住むルームメイトの黒人のオティスが「もっとリラックスせよ」と私を外にひっぱりだしてくれました。

「サカモト(私の本名)は、いつ見てもライティング(書いている)、ライティング」

 こんなことではだめだ、もっと「ブロード・アクナリジ」をもてというのです。「幅広い認識」とでも訳すのでしょうか。彼の車に乗せられて、黒人とヒスパニック(メキシコなどの中南米の人)しかいない地域の酒の量販店でビールを買いこみ、玉つきのできるバーで一杯。生まれてはじめてオティスから玉つきのルールを教えてもらいました。オティスは42歳。リベリアから10年前に来た男で、仕事は看板屋。また別の週末、彼の友人の黒人の家で開かれたパーティーに連れてってくれました。5、6人の黒人。部屋の調度品もすべてアフリカのもの。ジャーナリストや大学の教授も、労働者もその家の主人の小さな女の子たちもいました。音楽が流れている。コーラスの部分でみなが唱和するのです。

「So many people,So many people died」

 ナイジェリアの女性歌手ソニー・オクスンの「第3世界」という歌です。曲もいいが歌詞がいい。長い歌詞のごく一部はこんな調子です。

思いおこせ、第1次大戦で何がおきたか思いおこせ、第2次大戦で何がおきたか思いおこせ、コンゴの流血の戦争で何がおきたか。そのあとにコーラスで「たくさんの、たくさんの人が死んだ」と。

 そしてナイジェリアの内戦で、ベトナムの爆撃で、ソエトの虐殺で・・・と、つぎからつぎへとつづきます。私が日本人であり、北朝鮮問題の専門家だと紹介されたために、みんなが即興で歌うのです。

 思いおこせ、ヒロシマで何がおきたかたくさんの、たくさんの人が死んだ思いおこせ、北朝鮮で何がおきたかたくさんの、たくさんの人が死んだ みんなの唱和の中で、世界はひとつだということをあらためて感じさせてくれました。

 この夜のことを多分私はいつまでも忘れないでしょう。

ソウルからの通信 -6・15後の大学風景- 「守る会」ソウル駐在員 東昇平

 周知の通り6月の南北頂上会談以来、朝鮮半島の対話・和解ムードは続いている。ここ、ソウルでは北朝鮮の歌謡曲を携帯電話の着信メロディに使う若者が目に付いたり、大手百貨店ロッテデパートでは金 正日の人民服に似せたスーツが売り出されたりと、北朝鮮ブームは相変わらずだ。

大学の研究機関でも北朝鮮ブーム 

 その動きに応じて、北朝鮮研究に力を入れてきた各大学が、新聞社や企業体と手を結んで対北投資セミナーの開催や新課程の導入を図っている。例えば、9月には慶南大学北韓大学院は全国経済人連合会、中小企業協同組合中央会、および中央日報と合同で「民族共同体指導者課程」を設立し、政府機関や言論界で活躍する指導層人士に高い水準の北朝鮮事情や統一政策に関する教育を始めた。同様に10月には東国大学北韓学研究所は朝興銀行、国際経営研究院、および毎日経済新聞社と合同で「南北経済協力専門家課程」を開講する。

 いずれも、北朝鮮研究では著名な研究機関たる大学が、財界、新聞社と結合して 時流に乗ろうとしているものである。

 それに対して、大学キャンパスでは「米軍撤収」や「国家保安法撤廃」を叫ぶ垂れ幕が並んでいる。もちろん、これら学生運動の流れを受け継いだ学生会に所属する大学生は一部である。

 日本の大学生同様、現在では韓国でも学生の「無関心」が問題となっているが、それでも一般の韓国学生の政治熱は高く、酒の席でも南北頂上会談の成果について各自の意見を述べることが多い。頂上会談の評価はおおよそ肯定的であるが、懐疑的に考える学生もいる。しかし、問題は時勢を判断するための材料が非常に乏しいことである。

金大中政権が言論統制

 ソウルに駐在する日本人記者達が一様に口にするのは、金大中政権になってから言論統制が厳しくなった、ということだ。ご存知の方も多いかと思うが、現在の韓国の各言論機関は大幅な赤字経営のために、金大中の太陽政策に反することは、まず書けないというのである。現在の政権に正面から逆らうような記事を書けば政権が銀行に圧力を掛け、それにより融資が滞ればすぐにでも当該言論機関は倒産してしまうというのである。

 それらを考えると、学生達が情報を得る場として重要なのが意外にも大学の講義内容にあるようだ。実際に、韓国国内の多くの大学で「北韓政治論」や「南北関係研究論」などの北朝鮮や統一問題に関する科目が準備されている。学部の講座においては南北分断の経緯に始まり、北朝鮮の金日成体制形成への過程や金正日登場の背景、金大中の太陽政策等を概観的に解説している。

 大学院の授業では北朝鮮で発刊された主要な原典、例えば『朝鮮労働党歴史』等の書籍をコピーし、テキストとして使用している。従来、韓国で北朝鮮研究が発展しなかった主たる理由として、北朝鮮の一次資料が自由に閲覧できないことが挙げられていたが、現在は比較的自由になったようだ。無論、平壌から北朝鮮の書籍を取り寄せたり、東京で購入してもそれを韓国に持ち込んだりする学生は皆無に近く、わずかに限られた研究者(大学教授等)が原典を所有する程度である。

 「北韓学科」を開設している大学も多くなってきた。今年は東国大学が初めて後期博士課程を開設して話題になった。また韓国のワセダと呼ばれる高麗大学においても近年、北韓学科を開設して注目を集めている。これらは韓国政府、特に統一院のバックアップを受けている。1997年に設立された北韓研究学会は、それまで北朝鮮研究に力を注いできた東国大学の教授陣が中心となり設立された学会であるが、現在では200名を超す研究者を会員に擁するまでとなった。昨年には同学会が、韓国国内における北朝鮮研究の動向を纏め上げ、『分断半世紀北韓研究史』(ハンウルアカデミー)という本を発刊した。同書は政治、外交、行政、観光、貿易、言語等、24の分野にわたって北朝鮮研究の現況と課題を述べることに成功し、国内で高い評価を受けた。今後、北朝鮮研究を進めていくうえで不可欠の書となろう。なお、日本においても現代の朝鮮半島問題、特に社会科学系の研究者を中心とした学会として、現代韓国朝鮮学会が11月に設立される予定だそうである。

尊重されない脱北学生の声 

 話題は少し変わるが、韓国では北朝鮮から韓国に逃避してきた人のことを「脱北者」と呼んでいる。脱北者の青年達は大部分、ソウルの私立大学である延世大学に入学している。彼らの多くは、北で金日成革命史や主体思想を中心とする偏った教育しか受けられなかったため、英語などの外国語領域のみならず、現代世界の実相など社会科学の基礎的な知識さえ欠如している。そのような彼らを受け入れる大学は多くなく、進学先は門戸を開いている限られた大学になってしまうのである。韓国の大学生は彼らの声も聴くべきなのだろうが、残念ながらそのような機会はなかなかない。どうしても限られた情報の中で南北統一や北朝鮮に関してイメージしながら、議論を形成しているように見える。

次回は、脱北学生のインタビューをソウルからお伝えしたい。

 以上、韓国における北朝鮮研究の動向を中心に「北韓学科」や学会設立の動きをご紹介させて頂いたが、なによりも、これら、北朝鮮を客観的に研究する動きに伴い、「守る会」のような人道的運動もより一層活性化されることを心より望むものである。(敬称略)

次ページ 35号第二部

(旧サイトより転載:http://hrnk.trycomp.net/archive/karu35no2go.htm)

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