かるめぎ No.35 2000.11.01 特別増ページ号

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(旧サイトより転載:http://hrnk.trycomp.net/archive/karu35no2go.htm)

読者の広場

カルメギ・ホームページ掲示板・落書き帖より

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受信日:2000/09/14    Name:N・O

 いつもながら拙い文章で失礼致します。

 一昨日、成田空港まで日本人妻を迎えに行きました(共同代表の小川先生任と金民柱様と3人でした)。往復交通費が、かなりかかったのが痛いですが。詳しくは、「落書き帖」に書かせて頂きましたが、空港公団の人たちの横暴なやり方は疑問に思いました。

 私も今年受験したのですが、外務省のキャリアと思しき役人までもが私達の行動に思案顔だったので、仮に試験に合格していても行くのを止めようか、とも考えざるを得ません。

 それに警視庁の私服警官と思われる怪しい人物が張り付くなどものものしい雰囲気でもありました。詳しくは16、17日の集会で小川先生や金民柱様から報告があるかと思いますが、以上、取り敢えず私の感想を報告させて頂きました。

 ところで、金国雄さんのお家がございます愛知県の方は大変な大雨が降ったそうですね。大丈夫でしたか?

 私も実は名古屋生まれでして、母方のおばあちゃんが椙山女学園という学校のそばに住んでいるのですが、川が氾濫してもう少しで冠水するところだったそうです。呉々も自然災害や病気、事故にお気を付け下さいませ。

◇   ◇   ◇

 メールを有難う御座いました。里帰りに対する当局の対応になにかすっきりしないものが感じられた由、当局の説明がほしいですね。

 ところで、受験の件合格が待ち望まれますね。その暁には、自分がのり込んで変革してやるというような考え方のほうが、いいのではないでしょうか。千載一遇のチャンスを逃すことのないようにしてもらいたいと思います。「大事の前には小事を省みない」という言葉がありますが、とにかく重要な人生の選択です。慎重にも慎重を期すべきと思います。 老婆心からくれぐれも申し添えました。

 大雨の件、心配下さり有難う御座いました。結論として被害なしということを、とりあえず報告しておきます。又、詳しい連絡もあるかと思います。(福本正樹)

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受信日: 2000/09/17       Name:Y・F

 こんにちは。守る会のFです。

 16日、東京で行われた集会に初めて参加しました。入会に際してお電話でお話をした小川代表、著作を読んでからお目にかかりたいと思っていた萩原代表(新進気鋭の、目つきの鋭い方と勝手な印象を持っていたのですが、非常に穏やかでユーモラスな方だったので驚きました)をはじめ、守る会の方々と初めてお会いできたこと、大きな喜びでした。当日会場にいらしたであろう金国雄さんはじめ、かるめぎネットワークや誌上で拝見しているみなさまにご挨拶差し上げられなかったこと、残念に思っています。また、朝日放送系の番組制作プロダクションの石高プロデューサー(?)でしたか、北朝鮮問題を追いかけているジャーナリストの方も出席されており、ジャーナリストの中にも「守る会」の動向に注目している方がいることを力強く感じました。

 集会は内容も非常に濃く、これまでは一人で考えていたニュースについての印象が、私一人のものではなかったことがわかり大きな喜びを得るとともに活動の重要さを再認識いたしました。

 一方、さらにカジュアルに参加できる会があれば…とも思いました。今回の集会はもちろん非常によい構成で、目的にも合致したすばらしいものでしたが若い人や主婦が気軽に集まれるようなタイプの集会ができると「守る会」への参加者もさらに増え、しかも「特定の人間の少数意見」ではなく「広く一般的な意見が集結した団体」という印象付けができるのではないかと考えました。カルチャーセンターではありませんが、そのぐらい気軽に、この重たい問題を考えることができるようなスペースがあればと思いました。

 集会終了後は、我が家の『お食事当番』のためすぐに帰宅せねばならなかったのが残念です。懇親会で、みなさんの印象や忌憚のないご意見なども聞きたかったので次回の集会の際には、ぜひ懇親会に参加したいと思います。

 やっと幽霊会員を脱したのを期に、これから積極的に「守る会」に関わっていきたいと思いますので、みなさま、よろしくお願いいたします。

◇   ◇   ◇

 メールを有難う御座いました。協力してやっていきましょう。 (:福本正樹)

<帰国者からの手紙>

<帰国者の惨状 一家みな病に伏す>
帰国者の甥から日本の叔母へ8月はじめに届いた手紙

 おばさん お元気ですか 母と一緒に今日○○に逢いました。おばさんが送ってくれたお金と荷物は受取りました。こちら(注:平壌)に来る時、母が病んだ体で苦労して来ましたが、おばさんの消息を聞き、どれ程喜んだかわかりません。

 このたび母が患い家族皆が病に伏せっているために、母にお金がなくつらい思いをしている時助けてくださり、本当にありがとうございます。私も肝炎を患い、大きい姉さんも商売をしていましたが、失敗し困難におちいり、家中が本当に大変な時、おばさんが大きな助けをくださいました。

 これから荷物を送る時は、着古した服は送らず安い服でも新しいのを送ってくださるとありがたいのですが。私たちのためにあまり気づかいなされず健康でいて下さい。

(編集部の注釈)
 手紙の送り主は帰国二世で32歳。宛先の「おばさん」というのは在日の54歳の女性。この人は今長期療養中であるが、北の家族を思い援助している。「母」とはこの女性の姉で1960年に地上の楽園の宣伝に乗せられて一家四人で北朝鮮に渡った。

 「大きい姉」は42~3歳。一家の大黒柱で日本から送られてきた品物を売って家族をささえてきた。昨年までは面会申請をしても手紙には「遠くに行っている」と4~5年消息はなかった。昨年初めに家に戻ったよう。収容所に入れられていたとも思われる。今は病いで家で伏せっている。

 「古着はだめ」というのは北朝鮮当局者が数年前からとっている政策。帰国者から取りあげて中国などへ転売して外貨稼ぎをしているとみられる。しかし帰国者の多くからは赤ん坊のオムツもないので、どんな古い物でもいいからおくってほしいとの切実な手紙がひんぱんに届いている。

 この在日の「おばさん」もごく最近、北の家族に送る荷物を数個準備したが古着が入っているという理由で送れなくなり大部分処分された。

<人権年表>

『日朝国交正常化交渉と人権の動き』
(2000年7月~9月)

2000年
(7月)
8日 平壌放送は、北朝鮮の非人道的人権政策を批判し続ける朝鮮日報の報道について改めて「言論の自由の問題ではなくて、反民族的、反統一的な犯罪行為である」として「(暗礁は)爆破し無くしてしまえ」との評論を伝えた。

11日 朝鮮日報は「朝鮮日報はてなづけられない」と題する反論を掲げた。「われわれは言論の自由と北朝鮮当局の歓心のどちらかを選択しろというなら当然、言論の自由を選択する。朝鮮日報は「いかなる脅迫にも屈しない」と強調した。

13日 主要国首脳会議(沖縄サミット)外相会合は「総括文書」と「紛争予防のための主要八カ国宮崎イニシアティブ」を採択、北朝鮮に対しては「安全保障、大量破壊兵器の不拡散、人道および人権の諸問題をめぐる国際的な懸念」の存在を明記した。

19日 平壌発のイタル・タス通信によると、プーチン露大統領は平壌の迎賓館で金正日総書記と首脳会談を行い、日米が共同開発を進めている「戦域ミサイル防衛(TMD)」と、米国の「国土ミサイル防衛(NMD)」に反対する共同宣言に調印。

26日 河野洋平外相はバンコク市内のホテルで北朝鮮の白南淳外相と初の外相会談を行った。8月21日から25日まで日朝国交正常化交渉の東京開催で合意。両外相は日朝間の過去を清算し、新たな善隣友好関係を樹立することなどを盛り込んだ共同声明に署名した。 

・韓国の李廷彬外相は同市のホテルで白南淳外相と初の南北公式外相会談を行い、対外関係や国際舞台の場で相互協力を進めることなどをうたった共同文書を発表。

28日 朝鮮中央通信は「朝鮮赤十字が最近、二人の日本人行方不明者を確認し、その資料を日本赤十字社に渡した」と報じた。中川秀直官房長官も午前の記者会見で事実を認めたが、氏名や詳細については公表を控えた。該当者は在日帰国者の模様。 

・ASEAN拡大外相会談に出席のため、タイを訪れたオルブライト米国務長官は、白南淳外相と初の米朝外相会談を行った。双方は「歴史的一歩」を強調した。

31日 ソウルで行われた韓国と北朝鮮の南北閣僚級会談が6項目の合意内容を盛り込んだ共同発表文を発表して終了。(1)板門店の南北連絡事務所を8月 15日から再開(2)全民族的行事の再開(3)朝鮮総連の故郷 (韓国)訪問(4)南北をつなぐ京義線の復元等。

2000年
(8月)
8日 東亜日報と朝鮮日報は社説で、国家情報院が北朝鮮亡命者に対し「マスコミのインタビューに応じないように」「南北首脳会談の結果については『良かった』と答えるよう」などと指示している点につき「活発な討論による国民的合意が望ましい」(東亜)「民主国家の憲法精神に反する」(朝鮮)と政府の言論統制を批判。

11日 北朝鮮を訪問中の韓国メディア社長団は、北朝鮮報道機関との間で「民族の和解と団結のために相互の批判報道を中止する」との合意に達し共同合意文を発表。

13日 北朝鮮訪問から戻った韓国報道機関の社長訪問団は、北のミサイル開発について、金総書記が12日の平壌で行われた昼食会で「米国がわれわれにテロ国家の帽子をかぶせているが、これだけ取り除いてくれるならば、即座に修好をする」と述べたことを明らかにした。ミサイルのイランへの輸出も認め「私の力は軍事力からでている」と述べ強盛軍事大国路線に変化のないことを示唆、ミサイル開発の継続も示した。

15日 南北朝鮮離散家族各100人がソウルと平壌を北朝鮮の航空機で相互訪問し、ソウルでは午後、韓国総合貿易センターで肉親と涙の対面をした。再開は15年ぶり。

22日 河野洋平外相は、日朝国交正常化交渉のため来日中の鄭泰和大使ら北朝鮮代表団と外務省飯倉公館で会談し、日本人拉致疑惑解明に向けた調査の強化などを要請。 

・公館前では拉致被害家族ら約 10人が「拉致問題棚上げ反対」と横断幕を張り抗議活動をした。河野外相は会談で「拉致被害家族は大変な思いをしており、その気持ちを踏まえなければならない」と述べた。大使は「拉致は存在しない」と否定。 

・同日から始まった日朝正常化交渉の本会議は、日本側代表団の高野幸二郎大使と北朝鮮代表団の鄭泰和大使の双方が早期正常化を目指すことで一致した。

24日 日朝国交正常化交渉は木更津市のホテルで本会談を行い、日本は「過去の清算」は「日朝が当時、交戦状態になかった」として財産・請求権として処理すべきと主張。拉致問題、弾道ミサイル開発、工作船侵犯など双方に横たわる諸問題を提起した。北は食糧支援に謝意を表明、他は、「拉致はありえない」「ミサイル開発・輸出はどの国でも認められた自主権だ」「(工作船は)断固として否認する」と否定。 

・韓国の「拉北家族連絡会」は大統領府を訪れ、金大中大統領宛に肉親の救出を求める書簡を提出。拉致問題を南北閣僚級会談の議題にと家族の生存確認を要望。

25日 韓国の金泳三前大統領は、金大中大統領の対北政策を「広範な国民的支持と同意を得ていない」と批判、南北首脳会談の合意事項についても「自由民主の基本秩序に立脚した統一、と規定した憲法に違反している」と非難。「北は歴史上、類を見ない共産独裁国家として住民を抑圧してきた。北はまったく変化していないのに、われわれ南だけ変化している。私は統一は望むが、共産統一は望まない」と表明。

2000年
(9月)

1日 南北第2回閣僚級会談は共同文書を発表した。軍当局者の会談開催の可能性を盛り込んだ。他の合意事項は(1)離散家族の訪問団交流を年内に後2回行う。(2)投資保証、二重課税防止など制度的な装置を作る(3)南の◆山と北の開城の道路建設―など。

2日 韓国でスパイ容疑で捕まり、政治的思想転向を拒否して服役した北朝鮮の非転向囚63人が韓国から北に送還された。日本人拉致犯の辛光洙元服役囚(71歳)も含む。

・韓国の国家情報院は、北朝鮮に捕虜として抑留されていた元韓国兵と拉致被害の漁師など8人が、98年に北朝鮮を脱出、第三国経由で韓国に帰還したと発表した。内訳は朝鮮戦争の捕虜5人、残るは漁師一家。家族・氏名など詳細は発表しなかった。5人は咸鏡北道の炭鉱で働かされ、漁師一家は咸鏡南道の造船所で働いた。

8日 金泳三前大統領は記者会見で、民主主義を守る国民総決起集会の開催と金総書記の反民族的犯罪行為を糾弾する『二千万人国民署名運動』の展開を表明。前大統領は「金正日は韓国を赤化統一する野望は捨てておらず、まったく変化していない。金大中は一方的な北ペースについていくだけの屈辱的な姿を見せている。」と批判。

15日 1948年の南北分断以来初めて、韓国と北朝鮮の選手団がシドニー五輪の五輪スタジアムで合同入場行進を行い、南北和解の動きを印象づけた。

16日 「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」は渋谷区勤労福祉会館で緊急集会『日朝国交交渉と北朝鮮の人権』を開き、萩原遼氏、明治大学講師の川島高峰氏、戦後補償問題専門家の谷川透氏がそれぞれ講演した。日本に滞在許可を求めて裁判係争中の北朝鮮亡命者の金龍華氏が北朝鮮の非人道的体制を批判する講演を行った。また北朝鮮に渡った在日帰国者9万 3000人全員の早期里帰りなどを求める決議を採択。

23日 森喜朗首相は韓国の金大中大統領と熱海市内のホテルで会談した。大統領は永住外国人への地方参政権付与について法案の年内成立を求めたが、首相は「国の根幹にかかわる制度」として、法案の成立については慎重な姿勢を示した。

24日 森喜郎首相は金大中大統領と熱海市内のホテルで朝食をともにした。大統領は北朝鮮への大規模コメ支援を要請。首相は「支援を検討」とだけ述べ、即答をさけた。 (佐伯浩明:運営委員)

<詩二編>  小野美智子

『望郷』(ぼうきょう)

飛べばひと飛びの近き国
閉ざされし歳月(さいげつ)の戻(もど)らぬなら
せめて会わせよ母と娘(こ)を
夢にまで見た故国にて
訃報を聞く娘の悲しさよ
国情に翻弄(ほんろう)されし里帰り
何故に阻(はば)むか北の国 
皆に等しくある時間(とき)を
取り上げられし帰国者の 願いを罪となす国よ
一日も半日たりとも忘れえぬ
父子(ちちこ)母子(ははこ)は山ほどに
今度こそ今度こそ
念じ続けて声はか細くなるばかり
望郷よ再会よ願いよ届け
それぞれに老いて待つ身の哀れさよ

『伝説の舞姫』

在りし日に美貌の舞姫
朝鮮の露と消へたり
崔 承喜(ちぇ すんひ)のドキュメント観て胸ふさぎ
悲しき怒りこみ上げる
人命を軽んずる国 栄華なく
文化の火を消し彷徨(さまよ)うか
もう二度とあれほどの才媛生まれまい
民族の象徴なりて更に言う
偉大というなら彼女なり
朝鮮の世界の宝を根絶やしに
凍土の国は何処へ行く

<この人に聞く>守る会はだれもが集え気楽に語れる会になってほしい ジャンボ・Wさん(仮名)

 ボタ山や朝鮮部落が点在し差別と貧困が同居した九州のとある町で生まれ、少女期を朝鮮学校に通う音楽好きな子どもとして過ごしました。それは当時、多くの在日の子どもに共通する生き方でもありました。その後も総連組織と長く関わって来ましたし、何回か北朝鮮にも行き、この目で見てきたこともあります。そして今でも友人の多くが総連におります。

―守る会と関わるキッカケは大阪での講演会―

 三年程前、大阪での講演会を聴きに行った折り、朴春仙さんに声をかけていただき知り合いになった事がキッカケでした。それまでいろいろと知らなかったことや今までに疑問に思っていたことなどを金英達さん、萩原さんをはじめ、多くの方々のお話しを聞き、また目にする事によって真実を知るにつけ、自らの幸せを求めるだけではなく多くの人たちの幸せや真に祖国の為に、私にできることで何かお役に立てることができたらというささやかな思いから会員の一人となりました。

―「要望」は、各団体が力を合わせること―

 ただひとつ残念に思うことに、いろいろな団体がある中、皆さん北朝鮮の人たちを救いたいという同じ思いで活動を行っていると思うのですが、各団体がお互いにもっともっと力を合わせ一緒に運動を発展させていただけたらと、思います。

 「守る会」としては、老若男女誰もが気軽に集会や講演会に出かけられまた、手紙などでも意見や要望などを気楽に言え、関わって行けるような「会」になってもらえればと思います。

―北朝鮮のすべてが「悪」ではない 「総連」は、信頼され尊敬される組織に―

 北朝鮮に関しては全てにおいて「悪」という事がともすれば言われます。私は、そのことに対しては賛成しかねるのです。しかし、そんな私も総連が、北朝鮮の出先・下請け機関としての組織ではなく、同胞に立脚し在日社会に貢献し、同胞から信頼と尊敬を得られる組織に早く生まれ変わって欲しいという思いを持っています。その為にも指導部の世代交代が進み思考的に柔軟な若い人材が登用されることが肝要なのではないかと思います。

―「夢」は、北の友人と一緒に統一を祝って歌うこと―

 私は子供のときから歌を歌うことが好きでしたので、祖国が統一された暁には、北朝鮮にいる友人と一緒にその事を祝って歌いたいと思っています。今後とも宜しくお願いいたします。

<本部・支部だより>

<東京本部>

―10月12日運営委員会だより―

■ 講演会のお知らせ

講演会

「南北頂上会談への大いなる疑問と朝鮮総連の責任」

日時:12月1日(金) 午後6時

会場:渋谷区勤労福祉会館第2集会室  (澁谷山手教会前)

講師:金民柱氏 (守る会共同代表)

■ 姜哲煥さん一家と強制収容所に関するピエール・リグロさんの本『ピョンヤンの金魚鉢』(仏語)が出版されました。リグロさんはソウルに一週間滞在して姜哲煥さんにインタビューして書き上げたと言います。

■ 第2回ソウル国際シンポジウムが12月8日にあります。今年のテーマは「脱北者支援」です。ヨーロッパの知識人、このほど北朝鮮の人びとを支援するヨーロッパ委員会結成で声明。

<これまでの署名>

(省略)

 韓国の大統領と北朝鮮の独裁者との6月13日から15日までの頂上会談で、我々に北朝鮮の人びとのおかれている悲劇的な状況を忘れさせてはならない。十五万の人びとが収容されている強制収容所、公開処刑、唯一思想の強制と過去五年間に飢餓で亡くなった二百万もの人びと、北朝鮮は現代の地球上で最も犯罪的な国家である。しかし、この会談がもし北朝鮮の人びとの支援の上で現実的な活動に道をつけるならば、それは無駄ではない。不幸にして、そのような目的を達成するための支援に参加するこの地域の国を今は一つも期待できない。ロシア、中国、米国、日本、そして韓国でさえも、北朝鮮の人びとの苦しみを終らせる唯一の道として残された南北統一をさまざまな理由で現実に促進していない。この統一は、世界の世論次第である。我々は、北朝鮮の人びとを支援するためにヨーロッパ委員会の結成を示唆したい。その第一の目的は、世界の医師団(MDM)や国境なき医師団(MSF)やアクション・アゲンスト・ハンガー(AAH)という非政府組織の独立した団体による食料や医療支援物資の配布管理を北朝鮮に受け入れさせること。それらの団体は今、支援をストップさせられている見捨てられた人びとのために介入できる支援が北朝鮮の特権層に向けられているのを彼らが防ぎきれないからである。第二の目的は、平壌の政権に北朝鮮の人びとが国境を合法的に安全に越える権利を認めさせることである。我々の意見ではそのような支援物資の配布の管理と北朝鮮国民の自由に国を離れる権利は、北朝鮮への援助の継続には、まさに絶対の必須条件である。第三の目的は、北朝鮮国民の自由への奪えない人権の尊重に向けて活動する一方、逃亡できる人びとのために政治難民の地位を獲得することである。彼らは北朝鮮に送還されても、当局に引き渡されてはならない。

<関西支部>

 9月9日、第13回関西支部講座を開き、「米国取材報告アメリカの北朝鮮戦略と南北首脳会談」と題して萩原遼さんから4ヵ月間のアメリカ取材生活にもとづく報告を、エピソードを含めて面白く、興味深く語っていただきました。南北首脳会談後、今度こそ待ちわびた「南北和解と統一」の時が来たと喜ぶ人々の姿が各地で見られましたが、その期待が裏切られることのないように願いつつも、萩原さんは今回の南北会談が昨年のペリー報告によって示されたように、米国が金正日政権を崩壊させず支えることを明確にしたことで、金正日は安心して金大中大統領を迎え入れるとともに、獲得できる限りの経済援助を引き出し、政権基盤を強化しようとしていることなど、北の民主化と人権問題の改善には決して楽観できないことを強調しました。時の話題の焦点でもあった南北首脳会談の評価を巡る時宜を得た講座でもあったため、60名ほどの参加者を得る盛況でした。質疑も尽きず、2次会も20名を超える参加者で賑わい、3次会まで議論をつづけ、親睦を深めました。関西のあたたかい庶民性に満ちた楽しい一日でした。

第14回関西支部講座のご案内

吉林の新聞記者が見聞きした 北朝鮮と脱出者の現在

           講師 延 日さん

日時 2000年 11月25日(土) 午後2時~5時

場所 大阪経済大学   G館  G33教室

大阪市東淀川区大隈2-2-8

大阪市バス 井高野車庫行き 大阪経大前下車すぐ

(大阪駅前、扇町、天神橋筋五丁目、天神橋筋六丁目などで乗車できます。) 阪急京都線 上新庄駅下車 徒歩10分

<東海支部>

「はじめて懇親会を」

 親睦を図る「懇親会」が8月26日、三重県で行われました。事務局3名を含め7人と少数でしたが、東海支部としては記念すべき懇親会であったと信じています。また今回の大水害に対しましてもお見舞いの言葉をいただきました事にお礼を申し上げます。幸いにも私が知る限り支部関係者に被災された方がおられなかった事が幸いでした。また、今回の鳥取西部地震の被災者の皆様におかれましてもお見舞い申し上げます。

金 国雄 拝

三重での懇親会

 東海支部の初めての懇親会を8月26日、残暑厳しい中、三重県で行いました。メンバーは、先ごろ亡くなられた金英達さんのお姉さんの玉川富江さん、弟さんの大野時成さん、大野さんの職場の同僚の北野信義さんなど4名と、東海支部事務局3名の計7名で出かけました。まず会場のお店がすごく立派だったことに驚きました。数々のごちそうを前にして話もはずみ、英達さんの思い出話や朝鮮総連のこと、そして北朝鮮の現状や南北首脳会談などの意見・情報など交換し、大変有意義な時間をすごすことができました。そして次回にでも関西支部などと合同で懇親会を開くことができればと話しながら帰路につきました。

 東海支部は、今後もこういった懇親会を各所で開きたいと思います。ぜひとも皆さんの参加をお待ちしています。あと、ぜひ家へも来てほしいというご希望がございましたらご連絡くだされば可能な限り出かけていきますのでよろしくお願いします。  

ジャンボ

懇親会ご苦労様でした

 東海支部の事務局長始めスタッフの皆様、26日は、本当にありがとうございました。記念すべき、東海支部の懇親会は大成功だったと思います。和気あいあいで、いいお話もたくさん聞く事が出来、お店もゴージャス、料理は美味、初対面の方々は、皆いい人で安心しました。顔合わせの計画、当日の会の進行、ご苦労様でした。我が事務局長金国雄さんは、お酒に酔っても純真な所が新しい発見でした。

 私もいろいろ大変でしたが、無事に東海支部の懇親会を終了する事が出来てほっとしました。私も年は争えず五月から突っ走ってきて、少しひと休みする事が出来ました。スタッフの皆様には、くれぐれも感謝の意を伝えて下さい。

玉川富恵

自己紹介

 自己紹介をしなくてはと思いつつ、東海支部に入会させて頂きましてから一ケ月が過ぎてしまいました。その間、新入会員の私に出来ることは、少しでも多くの北朝鮮に関する書籍を読み、幾許かの知識を得ることと思い手当り次第、読むことに専念致して参りました。読めば読むほど辛く悲しい北の民衆の実情、知れば知るほど読む者を苦しみの中に引きずり込む悲しい知らせ、私はかつてこの様な本に出会ったことがありません。今年の五月から今日までの三ヶ月、私の感じたこと等思いつくまま書き、投稿させて頂くことで自己紹介とさせて頂きます。

 「守る会」入会の経緯は金英達さんの事件が発端でありました。英達さんの実弟、時男さんとは同じ職場の働く仲間です。彼からポッリ聞かされたこの事件をきっかけに私は、インターネットで勉強を始めたのでした。他に、入会を決意した事がありました。それは子供のころ朝鮮人差別の苦い想い出があり、それをそのままにしていてはいけない、謝罪するよい機会と思うからです。もう、五十年も前のことです。私の村は伊勢湾に面した半農半漁の村で、小さな入り江が村のゴミ捨て場になっていました。このゴミ捨て場の一画にトタンと板切れで建てた粗末な小屋があり、潮が満ちて来ると海水が押寄せ小屋は孤立状態になってしまう様な所なのです。この家に在日の家族が住んでいたのです、何人家族であったかは記憶にありませんが、ひとりだけ鮮明に憶えています。その家族の中に髪が真白になったお婆さんがいました。彼女は真白なチマ・チョゴリを着て先の反り上がった白い靴を履き、ぼろぼろになつた乳母車を杖がわりにし、顔には幾筋もの深い皺がありそこに鋭い目がある人でした。私が七つか八つのある日、私たち四、五人の子供はこの老女を見つけ「ヤーイ朝鮮人」と囃し立てました。五十年前のことです、すでに天に帰られたであろうあの時の老女と、私の天の神様に許しを乞い新たな気持ちで北朝鮮と向き合って行きたいと思います。

北野信義

「東海支部  学習会&忘年会」

 学習テーマ

『帰国事業』(仮題)

  講師 : 梅村雅英 (東海支部資料調査委員)

時: 12月2日(土)

午後一時より

場所 : 三重県

参加費 : 三五〇〇円

 ※要予約(金国雄まで連絡を)

 ※乗り合わせて行く予定です。

ニュース

<チョ・ヘンさんが坂本義和氏に抗議文>

● 朝鮮時報8月11・25日合併号に掲載された「坂本義和氏に聞く日朝交渉で謝罪と賠償に取り組むべき」との記事中の坂本氏の発言、「…先日、横田めぐみさんの両親が外務省に行って、まず、この事件の解決が先決で、それまでは食糧支援をすべきでないと申し入れた。これには私は怒りを覚えた。自分の子どものことが気になるなら、食糧が不足している北朝鮮の子どもたちの苦境に心を痛め、援助を送るのが当然だ。それが人道的ということなのだ。…」などに対し、9月23日付けでチョ・ヘン(帰国者家族)さんから

「第1に、過去の侵略の問題は、それこそ過去において日本がなした事であって今現在、日本が北朝鮮を支配しているわけではありません。そして、横田めぐみさんたちは今もなお、人生を踏みにじられ、自由を奪われ、 肉身の方々と会うこともできずにいるのです…。私はコリアンという立場を超えて、それこそ『人道的に』過去の問題よりも今現在、拉致疑惑問題の解明を強く要望し一日も早く無事に家族の元に戻られることを強く願っています。第2に、補償金を北朝鮮が受け取り、国交が成立した後、この拉致疑惑問題が必ず解決できるという補償はどこにあるのですか。」

などの理由で坂本氏に抗議文を送った、との連絡が三浦小太郎さん(RENK東京)からありました。なお三浦小太郎さんは、東北大学の大学院生で日本人妻の小池秀子さんと、1962年に北朝鮮に渡り、その後アムネスティ報告によるとスパイ容疑で逮捕され、夫婦で脱出を図ったために子どもたちとともに銃殺されたというチョ・ヘンさんの兄浩平さんの日本の家族に出された手紙を『北朝鮮の闇に消えた若き科学者と日本人妻チョ浩平・小池秀子書簡集』として編集出版している。

<原さんを拉致した辛光洙を北朝鮮に送還>

● 中華料理店コックの原さんを1980年に拉致したとされる北朝鮮工作員で非転向長期囚の辛光洙が釈放され、9月2日に北朝鮮に送還された。この辛元服役囚を工作員とは知らず約3年間、日本で一緒に生活したことのある朴春仙さん(9月17日の第3回日本人妻一時帰国に際し「守る会」の活動に参加)が、板門店を通過するバスに乗り込んだ辛元服役囚に対し、「原さんはどうなった。逃げるな!」と強い抗議の声を浴びせた。しかし、ほかの非転向長期囚63人とバスに乗り込んだ辛元服役囚は、しっかりと窓にカーテンを降ろし、多数の韓国人支援者たちに見送られて北朝鮮に去っていったという。

<北の態度は信用できないと金龍華氏語る>

● この9月12日から18日まで支援者と福岡から上京し、9月16日の「守る会」集会にも参加した金龍華氏は、滞在中、衆議院の法務委員会の主な議員たちへの特別在留の要請、日本や韓国のマスコミの取材など忙しい日程を元気にこなした。同氏は、南北会談については北が政治犯を釈放するか、軍縮を打ち出すかしない限り北の態度は信用できない。日本政府のコメ支援には条件をつけるべきだが、民間支援は息長く行うべきである。民間交流こそ変化のために重要である。また拉致疑惑については北の政府の立場からいって譲歩は期待できない、日朝交渉の場で拉致という表現を使い北を刺激すると場合によっては、証拠隠滅のために北が被害者を殺害してしまうおそれがある、という趣旨のことを述べていた。

<要請文を配った相原悦子さんの感想>

● 仙台市在住の会員・相原悦子さんから次のようなハガキが寄せられました。今年5月に永田町の議員会館をまわって日朝議連関係者の一人として松本善明議員(共産党東北ブロック担当)にも配った「守る会」の要請文(34号参照)に対し、同議員の仙台事務所に出向き問い合わせたところ、「こういうものは中央事務所でないと返事ができない。その後、南北会談があったりして今さら…」と婉曲に回答を拒否されてしまった、とのことです。「結局、私たちは何のために要請文を配ったのか、でも、それでもこういうことのつみかさねで実を結ぶのかな、などと思っています」と、相原さん。

※ 日本共産党は、朝鮮総連との関係を正常化した、と「しんぶん赤旗」(10月20日)紙上で発表した。 (編集部)

アクション・アゲンスト・ハンガー、北朝鮮における活動を停止 完全報告書 2000年3月9日

 国際的な人道援助組織、アクション・アゲンスト・ハンガー(以下、AAHと略称)は今年3月、北朝鮮からの撤退を決定し、その声明をホームページ上にだしています。これは、そのプレス・リリースの全文日本語訳です。

訳者 川島高峰(かわしま たかね)

1963年、東京生まれ。1997年、明治大学大学院修了・政治学博士。早稲田大学、明治大学講師。著書:『銃後―流言・投書の「太平洋戦争」』読売新聞社(1997)、『敗戦-占領軍への50万通の手紙』読売新聞社(1998)など。

<要約>

 栄養失調による最衰弱層への救援事業が実行不能となったため、国際的組織AAHは、北朝鮮からの撤退を決定した。

 これは極めて困難な決定であった。AAHは大多数の北朝鮮の民衆が、依然、自分やその家族のため充分な食糧を見つけるのに極めて困難な状況にあると確信しているからである。

 1998年1月、北朝鮮における事業が始まって以来、チームは、最も恵まれていない人々に少なくとも最小限の基本的救援を届けるため、彼らに接触するよう終始、努めてきた。

 この二年間にわたりAAHは、咸鏡北道(北朝鮮最北部)にある、五歳以下の子供をあずかる保育施設に対し、栄養補給の援助を行ってきた。

 これらの保育施設で、我々のチームは深刻な栄養失調を見ることはなかったが、1998年10月、北朝鮮全域で行った地域栄養調査では、子供の15%が栄養失調に苦しんでいることを示していた。この調査はこれら栄養失調の子供たちが保育施設に来ておらず、おそらくは何の援助もなく死亡している模様との証拠である。

 1999年10月、この観察に対処すべくAAHは、北朝鮮当局に対し咸鏡北道(北朝鮮最北部)での給食施設の事業を提案した。これは最も恵まれていない層、ことに道都の清津の路上でスタッフが、しばしば目撃した深刻な状態にあるストリート・チルドレンを援助するためのものであった。

 残念ながら、北朝鮮当局はこのような事業に際しAAHが通常の基準として行う監督とモニタリング(効果の測定)を許可しなかった。それ故、AAHは、これら人道介入のための極めて基本的な諸原則が遵守され得ない事業を実行することよりは、むしろ北朝鮮からの撤退を選択することとした。

 AAHは、国際社会による北朝鮮への莫大な食糧援助にもかかわらず、栄養失調で死亡が続出する最弱層への接触が欠如している点を非難せざるを得ない。

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目次

序文と証言

■ 人道支援の必要性

1 北朝鮮:漂流する国家
 1-1 崩壊状態の経済
 1-2 1995年の北朝鮮政府の援助要請から疲弊した国土が明らかとなった。
 1-3 膨大な食糧援助にもかかわらず危機的な栄養状態が続いている
2 AAHは北朝鮮に人道的「空間」を切り開くことに努めた
 2-1 援助は最も深刻な咸鏡北道にしぼられた
 2-2 行き詰まり 国家監視の枠内に制約された事業

■ 人道活動の不能

1 最も飢えた層への接触は拒絶された
 1-1 飢餓層へ配給しない体制を通じた支援
 1-2 援助は飢餓に瀕した子供に届かない:「孤児院」の場合
 1-3 最飢餓層との接触、その最後の試みの失敗
2 人道介入のモニターを認めない不透明性
3 監視下の人道活動家
4 北朝鮮では「人道的」支援が弱いというより、むしろ「政治的」支援が不足

勧告

結論

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序文と証言

 1998年1月、朝鮮民主主義人民共和国に向けて出発したAAHの第一陣は、消耗しきった国を見ることになると予測していた。

― 専門家による分析によれば、北朝鮮の経済崩壊は90年代初頭から始まっていた。

― いくつかの調査結果が、内情を知ることが出来ないことが当たり前となっている体制については、おおよそのこととなるのは避けられないが、この経済崩壊が民衆の大多数に重大な結果をもたらしていることを示しているし、またある調査は、大規模な飢餓を報告している。

 北朝鮮滞在中に、AAHの人道ボランティアはこの経済崩壊と、その帰結が民衆の生活状態にもたらしたものを目の当たりにした。

●ストリート・チルドレン 「毎日、私たちは、ぼさぼさの髪と薄っぺらなボロをまとった汚い子供たちを見た。彼らは時に非常に幼く、三才から四才の間であり、独りでそして見たところ非常に衰弱している。」

●生き残りへの民衆の闘い 「朝鮮の人たちは道路沿いに歩き、街路樹の下に座る。時に彼はそこで休憩し、寝ることさえある。人々の日々の生活は食糧を求めることにあり、根菜類や植物を採り、冬の間暖を取るための木を集める」

● 放置された産業基盤 「道路は穴だらけで荒れている。さらに燃料不足のため自動車が走ることは滅多にない。我々が見たわずかばかりの運搬車は木やとうもろこしの軸を載せていた。首都平壌から清津(チョンジン)までの800キロを行くのに三日間をついやした。」

● 水と電気の不足 「都市では、停電が頻繁にある。公共交通である路面電車やトローリバスは、しばしば、とまり、利用者は歩道に長い列で待つ。給水もまた一日に何度も中断される……。いずれにせよ、給水量は人の消費を満たしてない。」放棄された産業都市 「咸鏡北道の道都・清津は、何キロにも及ぶ大規模な産業都市である。しかし、工場は閉鎖されたか、あるいは開店休業にあるように見える。煙の出ている煙突は、ほとんどない。このような町で人はいかにして生き残っているのだろうか?」

人道支援の必要性 

1 北朝鮮:漂流する国家

1-1 崩壊状態の経済

 90年代の初めから、北朝鮮は激しい経済危機を経てきた。北朝鮮の経済は80年代の終りまでは共産圏、分けてもソ連と中国との特恵的な交易関係に基盤を置いていた。それは輸入、特にソ連の石油と技術に極めて特恵的なレートを認めたものであった。

 ソ連の崩壊と中国の経済改革はこの関係を完全に変え、朝鮮の経済は極めて深刻なエネルギー危機に至ることとなった。

 機械と肥料に高度に依存する朝鮮農業の生産性は急落したのである。

1-2 1995年の北朝鮮政府の援助要請から疲弊した国土が明らかとなった。

 1995年、北朝鮮政府は、大きな洪水が深刻な食糧不足を引き起こしたとの口実の下、国際社会に支援の要請を行った。しかしながら、その年とそれに続く三年間にわたり北朝鮮がいかに天災に見舞われてきたとはいえ、全ての観察者は天災は食糧不足を悪化させたに過ぎないという点で一致している。実際、食糧不足は1990年代の初頭から続くものであり、当時からすでに農業生産は民衆の必要量を供給することができなかったのである。1995年の洪水は、たんに北朝鮮の構造的な破綻を明らかにしたに過ぎず、それ以降、政府はそれを隠すことが出来なくなったのである。  現在、北朝鮮の国内総生産は低下の一途にある。その損失は生産システムに回復の見込みがないほど大きなものである。

1-3 膨大な食糧援助にかかわらず危機的な栄養状態が続いている

 1995年以来、北朝鮮は大規模な国際援助を得てきた。1999年には、北朝鮮の食糧不足の大部分が、特に国連の世界食糧計画の貢献により北朝鮮への援助が最も重要な事業の一つとしてまかなわれた。

 それにもかかわらず、栄養失調は減少してきたとは思われない。1998年9月、世界食糧計画、ユニセフ、ヨーロッパ連合により実施された栄養状態についての調査は、子供の約16%が依然栄養失調に苦しんでおり、それはアジアで最悪の比率であることを示していた。加えて、中国国境地域へ飢餓から逃れてきた脱北者によって悲惨な話が集まっているが、それは民衆の多くの部分がきわめて憂慮される栄養状態にあるとの確信を強めるものである。

 他のどのような国とも同様に、「飢餓」状態とは、必ずしも食糧が十分にないためではなく、それよりも、ある特定の範疇の人々が食糧を手に入れることが出来ないという事実から起きるのである。

 この文脈から、AAHは北朝鮮に介入を決定した際、二つの目標を設定した。

―、飢餓の犠牲者に援助するための手段を確保する方法を見出すこと
―、関連事業を徐々に実行できるようにするため、北朝鮮の状況についてより良い理解に至るようにすること。

2 AAHは北朝鮮に人道的「空間」を切り開くことに努めた

 1998年1月からAAHは、咸鏡北道における事業に焦点を据えてきた。咸鏡北道は北朝鮮最北部に位置し、経済の沈滞に特に苦しんでいる地域である。その目的は、北朝鮮の子供たちが通っていると推定される保育施設や幼稚園における栄養失調を防ぐための事業を行うことにあった。

2-1 援助は最も深刻な咸鏡北道にしぼられた

 咸鏡北道は220万人の住民を持つ北朝鮮で最も人口の多い道の一つである。北朝鮮の北部に位置し、中国とロシアの国境に面している。山岳地帯という地形状況が農業に災いし、耕作面積は(全国平均18%に対し)わずか6%に過ぎない。咸鏡北道は必要な栄養量をこの地域の生産だけでまかなえないことが知られている。

 AAHの人道ボランティアは咸鏡北道に到着した折のことを、次のように述べている。

 「この地域は活気がなく、経済は停滞している。大きな産業都市、道都清津は、いまや漂流している。工場の全てか、あるいはその殆ど全てが閉鎖され、わずか二、三台の車が走っているに過ぎない。木材の集積と運搬が冬の間を通じた主たる作業の一つと思われる。子供を含めた多くの人々が、道路沿いに大きな木の枝の束を運んでいた。薪が唯一の暖房の手段である。北朝鮮の人々は、このようにして森林を破壊し尽くしているのである。」

 1999年から2000年にかけて、咸鏡北道は238,000トンの食糧不足に直面した。この地方の農業生産では1日一人当たり170グラムの供給ができるにすぎなかった。

 この地方では人口の大部分が市街地に居住しており、その住民の78%が公的配給制度(基本的食糧を民衆に配給していると思われる)に依存している。しかしながら、1999年、この制度は何も配給しなかった。実際、運送が困難なため、昔から北朝鮮の穀倉地帯であった南部の道は、もはや北部の道に供給しなかったのである。それゆえ、咸鏡北道は住民に必要な栄養を満たすために海外の支援に完全に依存していた。

 咸鏡北道の人々は生存のための厳しい闘いを行っている。あらゆる土地の区画が、丘陵の上さえもが耕されている。都市住民は、バルコニーでニワトリやウサギを飼っている。地方では市場が急に出現しており、それは明らかに多くの都市住民にとって新鮮な食糧を得る唯一の手段である。これらの市場は人でごった返しているので、AAHの人道ボランティアは簡単にその目で確認することができた。しかし、ボランティアは市場を訪れることさえ、決して許可されなかった。というのは、当局はこういった市場の存在を認めることを完全に否定しており、それは北朝鮮の社会主義経済では全く容認できないものだからである。

 食糧不足について、そして、最も脆弱な人々へ支援をもたらすという問題への取り組みから、AAHは子供への栄養支援をその介入の方針とした。

2-2 行き詰まり 国家監視の枠内に制約された事業

 AAHの人道ボランティアは、北朝鮮当局が熱心に受け入れた食糧品の供給のような量的なものだけではなく、水質管理のように検査や訓練を行う質的なことを目的とする事業を開始することも出来た。

 1998年並びに1999年に、AAHは保育園や幼稚園への栄養支援事業を行った。人道活動の目的は、1,442箇所の保育園に通う五歳以下の子供で「当局が認める」108,023人、そして同じく1,098の幼稚園にいる五歳、六歳の子供61,741名の健康及び栄養状態を改善させることである。この事業は咸鏡北道で人道組織が行くことを許された12の郡で行われた。

 AAHの二人の栄養学者が、保育施設の看護婦や医師、小児病院の医師、保健省の代表に対して基本的な検診方法や、栄養失調への対処について訓練を行った。今日では、この地域の全ての保育園でAAHが供与した身長測定や体重測定の道具を用いてその場で子供の成長を追跡して調べる事が出来るようになった。そして、穀類、ミルク、油、砂糖といった特定の食物を利用して子供を適切に保育することができるようになった。これらもまたAAHにより供与されたものである。

 これら頻繁に訪れた保育園や幼稚園の衛生を改善するために石鹸、シャンプー、洗濯粉、消毒液といった衛生用品の配布も組織化された。

水質評価の事業
 AAHの人道ボランティアは保育園や幼稚園の子供の間で多くの下痢の症例を認めたので、水質管理の事業を整備した。この調査は、咸鏡北道の主要な都市の14の水道網で実施され、給水されている水が汚染されていることが明らかとなった。当局は水を沸かして利用するように指導していたが、燃料不足は人々が直面していた大きな問題の一つだったので、この指導にはたして従ったかどうかは疑わしい。

 これらの事業は北朝鮮における人道状況からすれば少しはましな理解を当局から与えられていたが、それでも、AAHの人道ボランティアは多くの機会に出会った最も恵まれない人々と接触することを決して許しはしなかったのである。

二、三粒の米をかき集める
 「我々は米が集積される場所で、穂から落ちた一粒一粒の米を拾っている年老いた人々に出会った。」

わずかな粉ミルクをめぐって…
 「駅で粉ミルクの積み下ろしが行われていた時のことである。ストリート・チルドレンの子が換気孔の隙間から木の棒で積荷を突いていた。貨車の下に小さなプラスチックのかけらを(踏み台として;訳者注)置くことで、彼等が穴をあけた荷物からこぼれたわずかばかりの粉ミルクを集めることが出来るのである。またある子供たちは、レールの上に落ちていた粉ミルクを集めていた。我々は化学肥料を運んでいるトラックでも同じ光景を目撃した。多分、子供たちは食糧と勘違いしていたのだろう…」これは、AAHがその事業を通じ供給を試みた支援も含め国際援助は決して北朝鮮の大勢の人々には達しないとの証拠となった。

■ 人道活動の不能

 北朝鮮での二年間、AAHはいく度も繰り返し試みたが、結局、最も困窮した人々に最小限の接触を得ることすら出来ないことを認めざるを得なかった。

1 最も困窮した層への接触は拒絶された

 北朝鮮における人道支援事業の展開と実施は当局により完全に統制されている。全ての人道事業は政府の行政機構を通じて実施されなければならない。このことから人道支援の援助を受け入れている枠組みと実際に接触しているのは、北朝鮮民衆のどの階層なのか、ということが主たる疑問となる。

 AAHのスタッフの観察によると、公的な配給機構、農場、病院から、AAHが活動した保育園や幼稚園にまで至るこれら全ての構造が、人道組識と最も恵まれぬ人々との間にはられた透明な仕切りとして機能している。北朝鮮において主たる弱者の基準の一つが、まさにこれら公的な構造から排除された大部分の民衆なのである。

 人道組識の支援がこのような国家構造に限られているならば、そこで知ることが出来るのは、この国の真の栄養失調についての状態を示すものではなく、当局が周到に何万もの真に困窮した朝鮮の人から支援を取り上げているのである。結果として、いかなる人道支援の提供も、体制を支持し、翼賛するものとして選ばれた人々を助けるだけであり、それは決して最も恵まれない人々ではないのである。

1-1 恵まれない人々へ配給しない体制を通じた支援

 咸鏡北道における保育園や幼稚園に対する支援事業を通じて、AAHはこのような仕組みを通じた活動を背一杯試みた。そして、栄養失調に苦しむ子供たちと接触することは不可能であることがわかった。なぜならば、これらの施設に通っていないからである。しかし、完璧な理論に基づく介入とは、彼らに支援をもたらす手段を見つけ出し、彼らに密接に働きかけることである。AAHは道都である清津に5人の専門家を置き、継続的にそのような存在を維持できる唯一の組織、つまり、現場で強力な存在であったにもかかわらずである。

 AAHからの栄養学者が、唯一例外的に、五歳以下の子供がいる保育園における栄養失調の事例を見てきた。1998年と1999年、監視の中、咸鏡北道の保育園でAAHにより実施された成長調査から、これらの施設に通園している児童の1%以下が栄養失調にあることがわかった。しかし、1998年10月、世界食糧計画、ユニセフ、ヨーロッパ連合による栄養調査は、北朝鮮の子供の約16%が栄養失調になっていることを示していた。 このような相違をどう説明したらいいのか? AAHのスタッフは、これらの施設に通ってくる子供は大部分が健康な子供であるという事実にたちまち直面しなければならなかった。人道ボランティアが町や村に行った時に、頻繁に目撃したやせ細って飢えた子供たちを追跡する術はなかった。いくつかの保育園の責任者は、栄養失調の子供が彼らの保育園にいるが、病気が重いか、あるいは衰弱しているために登園していないと説明したが、これにより暗に確認できたのである。AAHは、不幸にもこのような子供たちにはいかなる意図による支援も到達しないのではないかとの強い疑問をもった。

 北朝鮮政府が人道支援を利用するために統制するのに用いているような国家機構を通じては、決して最も恵まれない人々に接することは出来ないのである。しかしながら、栄養失調の存在は否定し難い その証拠がボロをまとい、青白い顔色で、捨てられたストリート・チルドレンである。彼らをAAHの人道ボランティアは毎日見かけた。当局は、このような子供の存在を否定し消し去っている。接触することを禁じられた子供たちがいるのである。咸鏡北道の全ての援助は当局により許可されなければならず、この当局の枠外ではいかなる支援も許されないのである。

 AAHの人道ボランティアは、最もひどい状態にある栄養失調も見ることとなった。それは清津の「孤児院」の中でのことである。

1-2 援助は飢餓に瀕した子供に届かない:「孤児院」の場合

 AAHのスタッフは、1998年と1999年の間に三回、咸鏡北道の道都に政府の孤児院(訳者註;社会主義国家なのにわざわざofficialと表記している)として設けられた二つの施設に訪れることが出来た。

 1999年7月の訪問では、総計380名(二つの施設で、一つは〇歳から四歳までの子供を、もう一つは、五歳から六歳までを引き取っている)の子供のうち、栄養失調になっている子供の割合は、20%以上に達し、その大部分がかなり深刻な栄養失調の症状を示していた。

 人道ボランティアが見た子供たちは、精神的にショックを受けており、空ろな目をして集められ、消耗症(訳者註;marasmus幼児に多い症状)にかかっていた。保育園や幼稚園ではみられなかった栄養失調がここでは実に顕著に見られた。

 最もひどいのが一歳以下の子供たちであった。その大多数が鼻から胃へカテーテルで栄養を速やかに与え、そして消化回復させることが必要であり、さもなくば数日で死んでしまうであろう。全ての子供が放置されており、汚れた布を被り、そして化膿性皮膚炎や疥癬といった感染症による皮膚病になっていた。

 なぜ、これらの子供は治療されないのだろうか? 彼らは何者なのだろうか?これらの子供の出身についての北朝鮮の職員の説明は、控えめに言っても、混乱したものであった。すなわち、(両親が死んだので)孤児となった子、片親の家庭から来た子、「窮状に陥った家庭」から来た、両親が「親としてのつとめを正しく果たせなくなった」ところの子、「治療が済んだら施設を出て」、そして「家族のところに帰る」予定の子。

 実際、これらの「孤児たち」は、孤児院にだけ居るのではない。彼らと同じ境遇のものは社会にはもっといるのだが、そこでは望まれない子供が単に社会から隠蔽され、ほとんど恩恵に預かることがない。実際、人道活動家の観察によれば、これらの子供は全くかまわれておらず、そうである以上、これらの施設は現時点では、必然的に死に場所なのである。栄養失調に対する何の対処も施されず、北朝鮮の職員自身から聞いたところによれば栄養失調の子供たちを医療システムに委ねることさえ全くないのである。実際、清津の小児科病院を訪問することが出来たAAHのスタッフは、そこで栄養失調の子供を全く見なかったし、栄養失調の治療の頼みの綱である特別な栄養失調回復の器具ひとつ持ってはいなかったのである。

 これら重大な欠陥から、かつて、栄養失調を改善するために清津の孤児院に栄養失調回復を専門とする治療組識を作ることを提案した。1999年10月、北朝鮮当局はこの支援の提案を、何の説明もなく拒絶した。北朝鮮当局によると、栄養失調の子供は、「道当局によって治療されており」、「道は外部からの支援なしでも、独力で子供の状態を改善できるだろう」としていた。AAHはもし子供たちの治療が出来たのであれば、これらの子供たちの命を救うことが出来たのである。よって、北朝鮮当局の拒絶は犯罪的である。

 また、AAHの人道ボランティアは、かなりの家庭においてひどい栄養失調にある子供たちがただ家に閉じこもっているだけで、助けもなく緩慢な死への宣告にあるのではないかと強い疑念を持つ。

1-3 最飢餓層との接触、その最後の試みの失敗

 最も弱い立場にある人々が支援の通路である国家機構と関われないとの観察から、AAHは清津の市街で仮設食堂を通じ暖かい食事を直接配給するシステムの整備を提案した。北朝鮮当局は、この事業を実施するためにAAHが提案した方法の許可をしなかった。わけても、AAHが主張した基本的なモニタリング・システムは、この計画が対象とした恵まれない人々のために本当になっているのか、どうかを確証するために必要なものであった。

2 人道介入のモニターを認めない不透明性

 AAHは咸鏡北道で二年間活動をしてきたにもかかわらず、この地方における子供の栄養失調の割合を調査することができないことがわかった。AAHのボランティアは北朝鮮政府が見せたいと思ったところを訪問することが出来たに過ぎない。

 AAHのボランティアは、住民の状態を判断し、活動目標を決めることを可能とする客観的なデータが完全に欠如することとなってしまった。入手可能な唯一のデータは、北朝鮮政府により提供されるものであり、それは(訳者註;信頼性を)検証できないものであり、質が一定しないことで知られている。例えば、AAHの栄養補給計画に関する咸鏡北道の住民リストが変更され、その人口は1998年から1999年の間に何の説明もなく減らされたのである。北朝鮮当局が提出した1998年のリストによると、20万5千人の子供が、保育園と幼稚園に通っていた。1999年、この前年と同じ数の地区の子供の数が15万7千人に減らされていた。つまり、1年の間で約4万8千人の違いがあるのである。1998年に提出された受給者の数は大幅に過大なものであったようだ。これはAAHが実在しない5万人に配給を行ったことを意味するのだろうか?この援助はあるいは誰のもとへ行ったのであろうか? 多くの場合、データは疑いもなく間違ったものである。1998年並びに1999年に、咸鏡北道にある保育施設230ヶ所以上に対し訪問を行った間に、AAHは、これらの施設に実際に通っている子供の数と、当局により知らされたり、報告されたりしていた子供の数を比較することが出来た。我々の団体が行った食糧援助の配給量は、後者に基づいていた。保育施設の責任者が施設に実際に通っている子供数を意図的に過大に見積もっており、実際に登園している子供を調べると彼らが言う数の約半数でしかない、ということが明らかとなった。この矛盾についてなんら明確な説明も行われなかった。回答された「理由」は次のようなものである。「病気で休んでいる子」、「今日は休日のため両親のところにいる」、「親の仕事の都合で転園した子供がいる」(咸鏡北道の殆ど全ての工場が休んでいる時にである)、時にはさらに心配な説明が行われた。「子供たちはひどい栄養失調で、大変弱っているので登園することができない」、咸鏡北道の保育施設の数も、大幅に多く見積もられていた。AAHは支援する託児所や幼稚園の名前一覧を決して与えられたことがない。一日に四個所の託児所をまわりたいと求めた栄養学者に、1999年に許可されたのは一日三箇所の訪問であった。北朝鮮の職員が案内した施設で、前年に訪れたことがない施設はただの一つもなかった。ここから、AAHの栄養学者は咸鏡北道のほとんどの託児所を(あるいは、少なくとも見せる「ことができる」施設の全部を)訪問したに違いないと推定した。彼等が訪問した託児所は二百をわずかに上回るものであったが、当局が示した咸鏡北道の託児所の数は千以上であった。

 このような矛盾から、この千箇所のうち訪問できなかった託児所に対する援助の最終的な行き先について疑問が生じた。疑いもなく援助の大部分が他に転用され、援助が与えられているという施設の大部分は全く存在しないのである。この当局により維持された不透明な制度は、北朝鮮当局にとってあらゆる利益を維持し続ける保証なのである。北朝鮮当局は、人道の実態が外部に知られるような可能性を減らすことに絶えず努めている。同じように、いかにして諸団体の活動を統制しているかが露見しないようにつとめているのである。

3 統制下の人道活動家

 救援団体のボランティアは首都ピョンヤンの外を一人で旅行することが許可されなかった。彼らは、いつでも当局がその意のままに指定した通訳を同伴しており、このために北朝鮮の民衆と直接、そして自由に交流することは不可能であった。

 ボランティアの旅行は全て事前に計画されなければならなかった。外国人は、AAHが援助している施設に訪問を希望するばあい、その詳細な旅行計画を一週間前に提出することが求められた。

 これは明らかに当局が訪問先の「下準備をする」ことができるようにするためである。AAHのボランティアが託児所や幼稚園を訪問すると食糧は十分に貯蔵されているのであるが、台所は、しばしば、全く使われた形跡がないのである。幾人かの施設の責任者は、AAHの栄養学者の質問に対し事前に作成されたメモを読みながら回答した。彼らは非常に統制された方法で話し、しばしば、彼らの回答は通訳により「訂正」されていたようである。

 全ての計画、そしてAAHのボランティアが新たな施設に行きたいという要請は許可を得なければならなかった。これは常にできうる限りAAHの旅行を制限するか、あるいは中止しようとする当局者と、必ず論争を起こすこととなった。施設を不意に訪ねることは全く不可能であった。

 AAHは食糧を与える実際の配給の職務に就くことがなかった。当局の配給システムがこれを統括していた。為し得た唯一の監督とは、施設を訪問することであった。しかしながら、AAHのボランティアは配給記録と貯蔵記録という書式による管理システムを苦労して作り上げることを試みた。驚くには価しないのかもしれないが、そこには全く欠損がなく、収支が合うのである。施設の責任者は「完璧な」収支報告書を提出した。

 実際、北朝鮮当局は食糧援助の配給を完全に統制しており、外国人により実施される検証は、全く意味がないのである。北朝鮮当局により援助団体とみなされるのは、単なる食糧提供者であり、それら提供物の査察を要望するようなほんのわずかな権利でも持っていれば、それは援助団体とみなされないのである。NGOの力と参加権は、皮肉にも彼らが供給できる立場にある物品の量(種子、肥料、食糧、等々)に応じているのである。施設の職員は、しばしば、行方がわからなくなる物資、特に食糧、があることを強調するが、つまり、もっと多くの食糧の援助を、そして、地方の食糧生産工場の修復の要請を求めるのである。小規模な、質的な援助事業は、特に強い統制と妨害の下に置かれ、ボランティアはそれを克服するためにおおきな労力を使い果たすこととなる。量が最優先なのである・・・。

4 北朝鮮では「人道的」支援が弱いというより、むしろ「政治的」支援が不足 

 国連の諸機関、特に世界食糧計画やユニセフは、その予算の大部分がアメリカ合衆国により負担されており、そのような機関が北朝鮮への莫大な支援を割り当てているのである。この援助は本質的に政治の論理、すなわち北朝鮮の崩壊の回避に従ったものである。このような援助は、核の脅威や弾道ミサイルの可能性を振りかざすことをためらわぬ北朝鮮当局が巧みに行った政治取引に対する西側諸国の対応なのである。北朝鮮の破壊的な戦略に直面し、まず第一にアメリカによる穏健な対応が国連諸機関を通じて実施されているのである。

 国連の諸機関や人道支援が全体としてこのような手段とされるため、北朝鮮におけるNGOの立場は著しく弱くなり、それは人道的な観点においては危険なのである。それは結局、幾万もの朝鮮人を「現実政治」という祭壇上の犠牲とすることになる。かくも豊富に与えられた食糧援助から完全に排除されているからである。

 人道の原則だけが朝鮮の体制から周到に隔離され、飢え打ちひしがれた人々への支援を可能とするのである。しかし、主要な国際組識が百万トンもの物資の供与をしながら、そしてそれ故(訳者註;つまり、援助の量にものを言わせた)の交渉力をもちながらも、その原則を行わないのであるならば、いかにして基本的な人道原則の尊重を求めることができるというのだろうか? この「人道のダンピング」は、北朝鮮当局を強化するが、しかし、援助の原則の遵守を担うことに努め、その事業を監督しようとするNGOの活動を損なうものである。たとえ、物資が送られても、その援助が目的とした受益者のもとに届くまで注意深く監視されないのであれば、腐敗は容易に生じるのである。

勧告

 結果として諸機関は北朝鮮に対する援助の配給について真に弱者であるという基準、特に飢餓に打ちひしがれた人々に最終的には援助が可能となる社会的基準に基づくことを義務づけるようつとめなければならない。食糧援助の受益者が施設となるのは不可避である。このため食糧援助の配給に際し、受益者がどのような社会的、経済的な弱者かという基準が全く考慮されていない。

 中でも国際社会は、北朝鮮当局により軽んじられている基本的な人道の諸原則、すなわち、受益者と直接に接触すること、直接的な監督手段を現場に置くこと、活動の影響を評価する自由が、北朝鮮で守られるように、圧力をかけるべきである。

 最後に特に述べておくが、国際社会並びに援助提供国は、現場の人道活動家に最も恵まれぬ人々のためにだけ栄養支援の事業を実施する手立てを与えるために、北朝鮮により厳しい政治姿勢を強化すべきである。

結論

 北朝鮮では、人道支援は何の監督もないまま行われており、それは最も恵まれない人々に届くことはない。

 どんな発展を期待できるだろうか?それは疑わしい。国際社会との関わりで言えば、北朝鮮に対する人道支援は、実際には、最も弱い人々に支援を行うという本来の目的よりは、多分に外交と政治の論理に対する対応なのである。ある意味で、餓死が続出する最も恵まれない層というのは、「現実政治」という祭壇の生贄とされているのであり、その「現実政治」とは、平壌の体制を安定化させ、軍事的な危険性についてその能力を抑止することを意図しているのである。人道支援とは北朝鮮の体制に対する白紙の小切手であってはならないと確信する。AAHは人道支援を隠れ蓑とした政治への支援を行うことは出来ない。北朝鮮の民衆の犠牲を支持することは出来ない。

 国際社会による建設的な関与の方針とは、それゆえ、事業を実施することと、最も恵まれない人々と接触を持つこととを同時に行ってゆくことである。国際社会の認識と主たる援助者に厳格な要件を課すことだけが、状況を前進させることができる。

 幾年にもわたり莫大な食糧援助が送られながら、北朝鮮の人々が飢餓により死につづけることは許し難い。(おわり)

(翻訳 川島高峰)

<ことづけ>

 守る会関西支部会員の金啓子さんが、所属の同人雑誌『白鴉』第六号(二〇〇〇年四月二十五日発行:連絡先 大阪市西成区岸里東二‐九‐十二‐二〇一 石井田様方「白鴉文学の会」)に発表した短編小説「ことづけ」を紙面の都合でおよそ半分だけ紹介します。帰国運動によって高校生のとき北の地に単身渡った兄を日本から妹が三十四年ぶりに北朝鮮を訪問して再会する物語です。こうした分割紹介にもかかわらず掲載を快諾された作者に感謝いたします。(編集部)

 『チャム、マボベ、チョミリョグナ(まあぁ! まるで魔法の調味料だわ) わたしは飛行機の椅子に沈むように座りながら、嫂(あによめ)の声を思い出していた。

 あによめは両手を手首のところで合わせ頬を持ち上げた。眼は輝き高揚していた。ヒエと粟と麦の混じったご飯と大根葉汁が、この、日本からのみやげのハイミーで魔法にかけられたように味が変わるというのだ。一週間前の九月四日、平壌空港に降り立つと、旧式のイリューシュン機が並んでいて、全日空のボーイング・ジェット機が際立って見えた。

 そこからバスに乗り平壌駅に着くと、鼻を塞ぐような異様な匂いに眼を白黒とさせ息を詰めた。それは、ニンニクとも違って汚れた靴下をかがされたようで脳髄までクラクラとしたが、それらのことに、さして驚かず戸惑わずにいたのは今になって思えば、事前にそんな噂を聞いていた心がまえがあったためだろう。

 それにしても、はるばる日本からの訪問で、三十四年ぶりに妹をもてなすために、兄の家族が用意して待っていた晩餐の貧しさは、わたしの心を萎えさせた。

 三十四年前、わたしが十五歳の時、三つ違いの兄は同級生達と一緒に共和国へ帰国した。社会主義の祖国建設に燃え、髪を七三に分けて颯爽と新潟から船に乗りこんでいった。その時の兄は若者らしく些細なことに頓着せず、真っ直ぐに人を信じた。それをどうして責められるだろう。アメリカかぶれだった兄は政治に疎く、帰国をフロンティアと言った。血が燃えたぎると言った。目の前に現れた兄は、かつてユウニイと呼んだ面影はなく、三十四年の月日の重さ、深さをその、インテリ層特有の白い顔、黄色く濁った眼、尖った肩、緩慢に動く手足が物語っていた。細い首は処刑を待つ前の鶏に似て皮膚がたるみ、密かに持ち出した酒をあおる姿は張り子の虎に似て、上下左右に揺れていた。鬱積が重いのか、すでに酒に犯されているのか、その姿はどんな演説よりも雄弁であった。

 わたしの思考回路は今にもオーバーヒートしそうだ。わたしは真実がどこにあるのか、というひとつの疑義にとりつかれたようだ。ここに、ある人間の物語をしたいと思う。そう、単純で明解なことだ。しかし、わたしの体はいいようのない疲労と倦怠とで押しつぶされそうだ。

 今、飛行機は東海、日本から見ると日本海の上を飛んでいる。やがて真っ青な海がとぎれ陸地が見えてきた。わたしは、かすかな安堵とくつろぎを覚えた。機内でさざなみのようなざわめきが起きた。一様に安堵しているのだ。矛盾した思いに心を通わせるには疲れ過ぎた。わたしは、一切がくだらなくなって眼を閉じた。すると瞼にはまたあの嫂の顔が浮かんできた。

 嫂は地の人で無邪気に『日本』を取り入れる。そして、度々の父の訪問で受ける金品で平壌での生活を維持していた。父が脳溢血で突然亡くなってから一年の間に、わたしの中である疑問が沸いた。なぜ父は、兄が帰国してしばらく経ってから頻繁に共和国と日本とを往来したのか?

 それほど潤沢に使えるほどのお金もなかったはずだ。しかし、一度ふらっと出かけると二、三カ月留守にした。突然消え突然帰ってきた。父の遺物を整理していると、訳の分らない暗号文の解読書のような物や、黒いサングラス、変装用のヒゲ、かつら、父の写真とは似ても似つかぬ写真が貼られた身分証などが出てきた。わたしは、わたしの記憶の中にある事実との関連に興味を覚え、また釈然としない疑問を解くために、父の一周忌を終えて今回在日の商工人たちの『祖国訪問団』の旅に便乗したのだった。

 平壌駅でバスを待つ間に民族学校の修学旅行生たちは、高麗ホテルでの話題にこと欠かなかった。シャワーの湯が途中で切れ、赤い水が出てきてあたふたとしたことなど愉快に喋る。まったく無邪気である。

 平壌には外国人向けにノレバン(カラオケボックス)も、温泉地に見られるような銭湯もあり、入湯料は大人が日本円で三百円ほどだった。嫂を誘ってみたが、もったいないという。三百円の外貨があれば、『農民市場』で卵を百個買える。決して支給されない外貨があれば、と後は口ごもった。翻訳をして生計を立てている兄は、月に百四十ウオン支給される。だが、そのウオンとは別のウオンを持たなければ外貨ショップ『農民市場』での買い物がかなわないことを初めて実感したのだった。わたしが円と交換した紙幣はグリーンとピンク、えんじ色に別れていて小さくみすぼらしい。兄の持つ紙幣は茶色で千里馬の絵が入る立派なものだった。しかし、その価値たるや天と地ほどの隔たりがある。

 父が交換紙幣を持って買いそろえたという炊飯器や洗濯機も、電気と水にこと欠き使えないでいた。オンドルがあるといっても電気が回らず、冬になると、部屋の中でもマイナス五度の中で震えているといった。それでもわたしたちはエリートなのです。と嫂は笑った。

 ずっと付いていた案内員は、猿のように狡猾に目を動かせ、油断なくわたしたちを監視した。わたしが一万円を包み彼のポケットに忍ばせると、表情ひとつ変えずに受け取り、夕飯が済むと帰っていった。嫂は丁重に案内員を見送ったあと、いまいましげに舌打ちして、「イーチョンノマ!(たかりめ!) と言った。それからの、朝までの時間は三十四年分に匹敵する。蝋燭をたてゆらゆらと揺れる明りの中でみる兄は次第に逆行する時間の中に居た。わたしは、平壌空港に降り立った時から、この家庭訪問までに味わったいくつもの驚きと憤懣とを吐き出していた。

 「金日成競技場で九・九記念の集団体操を見たんやけどなぁ、ユウニイ。『キムジョンイル チャングン マンスムガンハセヨ!(金正日将軍、永遠なれ)』っていうた時、小学生のような子が旗を振りながら感極まるというように涙を流してたで。意味判ってるのかなぁ?」

 兄は黙っていたが、大学院生の甥はわたしの言葉を遮るように、「それが勉強なんです。……わたしたちは判っています」 と言った。

 「国民学校は一年のうち、半年はマスゲームの練習ばかりします。万一疑問を持つと……それは精神病です」「じゃぁ、あなたもそうしたの?」「いや、わたしたちは学校で勉強していました」 と言い、少し間を置いて、「今はロシアになりましたが、崩壊前のソ連に留学したことがありましたが、その時に自由というものがどういうものか、分かりました」と、彼は続けた。「どういうこと?」 甥はじっとわたしの目を見て、「この国がおかしい、と言うことは知っています。ソ連ではジーパンも自由にはいていましたが、平壌では、女性はスカートでしか外出を許していません。全て作られたものです」と言った。「社会を変えるのは、いつの時代にも若いあなたたちでしょう」と水を向けると、「わたしたちは判っています」と苦しそうに吐き出した。兄はじっと腕を組み目蓋を閉じていたが、朝になるとまた、あの、今にも息の切れそうな鶏の表情になった。

 平壌での生活の中に風呂に入るという習慣は無かった。一日の内、朝の五時から六時までの一時間と夕方の五時から六時の一時間しか水が出ないところでは溜めおいた水は貴重なのだった。少しの湯でもって、顔や手足を洗い口をすすぐと、それが沐浴となった。

 嫂からもち米の依頼があって、わたしは一升のもち米を腰に巻き付けて行った。彼女はそれを両手でうやうやしく持ち上げ、目をつぶった。そしてプロパンガスの弱い火でゆっくりと煮ておかゆをを作った。なにをするのかと聞くと、キムチを作るのだと言う。わたしが兄弟で集めて持ってきたお金を渡すと、待ってましたとばかりに、嫂は配給では当たらないニンニク、唐辛子を『農民市場』で買ってきた。アルミの洗濯桶に、とろりとしたおかゆを流し、唐辛子を混ぜると肌色の混じった唐辛子が渦になって広がり、オレンジ色になった。ヤンニョムといってキムチの素だ。塩漬けした白菜にヤンニョムをすりこみ甕にいれるのは二日後のことだといって、彼女は顔を上げ笑った。「ウムに入れたらもっと味がでるんだけど」「ウム?」「そう、土を掘って作った貯蔵庫なの。ウムの中は年中五度位なんだけど、このアパートじゃぁねぇ、冬はマイナス十五度まで下がるし、夏は夏で、ね! すぐ酸っぱくなるの」 嫂はいたずらっぽく笑った後、ウムのあった遠い日の生活をなつかしむかのように頬を緩めた。

 食事の時に出たキムチはやけに白かった。嫂は、その白いキムチだか、ただの塩漬け白菜だかわからないようなものの葉を広げご飯をつつむようにして食べていた。まるでキムチだけが惣菜であるかのように……。 キムチが栄養のすべての役目を果たすのなら、発酵するための薬味は多いほうがいいではないか!

 わたしは、この不可解な、持って行き場のない怒りに涙を流した。嫂はなにも疑っていないが、二泊三日の訪問でわたしは刹那に一切を了解した。しかし兄も嫂も不平を漏らさない。

 それから三日間、激しく揺れるバスに乗って方々を回ったはずなのだが、わたしには、枯れ草の山と山とにはさまれた、いかにも貧しい農村で、暮色に薄く上っていく煙と、頭の上に風呂敷包みを乗せ石のように固い表情でただひたすらに歩く老婆、体をくの字に曲げて柴を運ぶ女、赤茶けた顔の刃のような眼をした痩せた男、トウモロコシ畑などが乾いた風景として心の中に澱となって残った。赤土と岩だらけの山にトウモロコシの葉だけが緑を色どっている。みすぼらしい藁屋根と平壌の街並みとの隔絶。言葉を失ったかのように表情のない人々と、威張り散らす案内員の中にいて、平壌では見なかった犬が、スローモーションビデオを見るように、悠然と動き首を上げてバスを見たその姿が、唯一生きた実感を与えた。

 およそ、わたしの感傷を笑うかのように日は瞬く間に過ぎた。なんの手立ても思いつかず、父の足跡も探せない間に帰路についている。そして、わたしはそれを喜んでさえいるのだ。しかし、わたしの心は、真っ赤な唐辛子で目つぶしにあったようになっていて、お金を渡した時の嫂の嬉しそうな表情が切なくわたしの瞼に焼き付いて離れない。

 飛行機は大きく旋回し名古屋空港に着陸した。曇天の空港に降り立ったわたしは、がやがやと賑やかな商工人たちに押されるように到着ゲートを歩いていた。わたしは、チケットを持つ自分の手が汗ばんでいるのにその時初めて気がついた。

◇   ◇   ◇

 このあと作品は、一から四まで 四章がつづき、主人公の「わたし」こと金明子の少女時代です。大阪の貧しい朝鮮人部落に育ち、労働災害で右腕を失って働けなくなった父、内職で必死に家計を支える母、アメリカかぶれの兄の勇一、貧しさゆえの両親のいさかい、日本人から受ける差別などが描かれています。

 そこへ父を訪ねてきた男の「祖国は地上の楽園で、教育はタダ、衣食住に不自由はない」という夢のような話しに引かれて明子は新しくできた朝鮮人小学校の四年に編入します。一年ほどしたら文宣隊という同胞の意識を高める文化工作隊の一員として歌や詩の朗読などを広めて回るまでに成長していきます。(編集部)

◇   ◇   ◇

五 

 冬の寒い朝だった。朝礼台の横のポールにゆっくりと旗が上がっていく。 直立不動のソンセンニムとわたしたち。そして『エグッカ(愛国歌)』が流れている。アーチムンピンナライーガンサン(日の出に輝くこの山河)

 わたしは、エグッカを聞いてもピンとこなかった。民順の家族は裕福というには遠いが、全財産をなげうって学校に送迎バス一台を寄付した。今日はその贈呈式だ。鼻水が流れた。校長は応援団長のような声を張り上げている。しもやけの手がかゆくなってきたが、がまんをした。パルチザンは雪の中で凍傷にかかった足を自らノコギリで切ったと習ったばかりだ。なんのこれしき、と思っても段々とかゆくなってきた。意識を反らそうと、ツバを額につけてみたり指を開いたり、閉じたりしたら今度はあかぎれが開き、血がにじんできた。寝る前に『桃の花』をつけて寝なかったせいだ。毎日炊事をしていると、直りかけたしもやけや、あかぎれがわたしを苦しめる。いいなぁー民順は。お母さんが炊事、洗濯ぜんぶをしてくれるから……と考えていると、演説が終わった。 「シヨー! チャリョー! (休め! 気をつけ!)」 班長の声が響いた。

 「余允義氏より、帰国に際しての記念品としてバス一台を我が学校に寄せられました。ここに、余允義氏の愛国精神に敬意を表して金日成チャングンの歌を歌います」

チャーンベッサン チュルギチュルギ(長白山脈の山波が)
ピオーリンチャンウッ(血塗られて)
アーンノッカン クービクビー(アンノッカンの水脈も)
ピオーリンチャンウッ(血塗られて)

 そうだ、キムイルソンチャングンのおかげで国が取り戻せたんだ。でも、この、かゆみをなんとかしてほしいと、わたしは思った。

 秋に、民順の帰国が決まった時、父にそのことを話した。

 「なぁ……アボジ、民順とこキグッ(帰国―編集部)するねんで……うちとこも帰ったらユウニイも学校にいけるやん!」

 「そうやが……。わしは、故郷を捨てて来た。ここを故郷と思って暮らしていかにゃ……。酒屋のつけや、八百屋のつけ、病院のつけを踏み倒しては、どこへ行っても幸せにはなれんだろう。林さん(余氏の通名)はりっぱな人だ。ここにいても暮らせるが、国へ帰って祖国建設に参加するんだから」 と言っていたことを思い出した。

 クラスで民順の帰国の記念に六甲山へハイキングに出かけたことが昨日の事の様だ。ハンチング帽を被ったソンセンニムとわたしたちは、合唱しながら歩いた。ソンセンニムはハーモニカでカチューシャを吹いていた。険しい場所に遭うとパルチザンの『苦難の行進』といってはしゃいだ。

 「明子、ナー(わたし)がキグッしたら絶対手紙書くから返事ちょうだいな」

 「うん!」

 弱音を吐かない民順にしては珍しいことだった。皆と別れるのが寂しくなっているのだろうか? と、わたしが民順の顔をのぞくと、

 「明子、『北上夜曲』歌って」と言った。わたしの鼻にかかった声がその曲によく合うらしく、わたしはよく歌っていた。

 「うん、ええよ、『にーおいーやさしいーしらゆーりのーぬれてーいるーよなーあのーひとみー』」 民順の顔を見ると泣いている。わたしは、はっとして続きを歌った。

 「『おーもいーだすーのはーおーもいーだすーのはーきたがみがわらのーせせぇらぎよー』はい! 終り!」

 わたしはわざと明るい声で言った。

 「ありがと、ナーこの歌を歌って明子のこと思い出すわな」

 「うん、ナーもそうする!」

 わたしは、民順の気弱さに驚いていた。いつも民順はキリッとしてわたしたちのリーダーだった。わたしたちに厳しい分自分にも厳しかった。わたしたちは、新校舎に移って朝からの登校になっても、時間を見つけては集まって勉強した。わたしは、よく民順の家に行きテスト作りを手伝った。ワラ半紙を小さく切って、手書きでテストを作っていく。民順はそのために予習をせねばならず、わたしの倍の時間を勉強に費やしていた。教えることに民順の才能は発揮された。テストをただ作るだけではなく、単語の関連性について工夫をこらした。

 「キムチを漬けるのは、タングダ。塩に漬けるのは? チョリダやで、ペチュルウル ソグメチョリゴ キムチルウル タングダ(白菜を塩漬けしてキムチを漬ける)この違いが分かる?」 と、おどけた。そして、真剣に聞かない友には容赦なく罰を与えた。それは、鼻くそを食べることだったり、白墨を投げることだったりした。小さな黒板に向かって書いている時にも後ろに眼があるようだった。白墨は見事に頬に当たる。光子はいつも緊張が足りずに話したり、間違ったりするので、わたしは、ひやひやしていた。

 クラスの壁には、『ひとりは皆のために、皆はひとりのために』というスローガンが掲げられていた。ひとりだけが優秀では認められないのだった。また、校舎の入り口に『学習は、学生の最初の革命任務です』という額が掲げられていた。それは、キムイルソンチャングンの教えだった。

 民順と過ごした二年間の思い出が次々と頭の中に浮かび、わたしも切なくなってきたが、わたしたちは、急勾配の道を歌いながら降りていった。ソンセンニムは六甲道の駅前で写真をとってくれ、甘党の店でぜんざいをおごってくれた。

 「ソンセンニムな、結婚したばっかりで、お金あんまりないのにだいじょうぶかな?」

 いつも大人びたことを言う順子が言った。

 わたしは餅が喉につまりそうになった。

 「だいじょうぶやろ」民順は、こんな時腹をたてたように話す。兄は、二年生の時に成績が少し落ちたが、三年生になって挽回して学年で五番の席次を取っていた。兄の担任は、頻繁にわたしの家に来た。「勇一君をなんとか高校へ行かせてあげてほしいです」父は腕を組み、母は思案げにうなだれていた。「今、外国人に奨学金制度がなくて非常に残念です。どうでしょう、お父さん、民族学校に問いあわせてみられては?」「奨学金のことですか?」「はい、共和国は教育費が無料と聞いています。優秀な生徒には援助は惜しまないのではありませんか?」「それは、そうですが、わたしたちは帰国する気がありません。日本にいて暮らす限りはこちらの教育を受けさせたいとは思っているのですが……」

 「…………」

 兄の担任はそれでもあきらめずに奔走し、朝鮮高級学校に兄は奨学生として入った。「俺、高校から民族学校に行くことにしたから、アキー教えてくれよ。父ちゃんに、中学校出て働いたら家の助けになると思うけど、行かせてっていうたら、『わしが働けたらおまえたちにこんな苦労もさせずに済むのに』って泣いてた。俺、がんばるど!」兄は、高校に入ってからは、それまでプレスリー一辺倒だったことが嘘のように、マルクス・レーニンを口にするようになった。夢遊病者のように『革命、革命』とうなった。「アキー、世の中を変えんことには俺らの幸せはないど」「世の中、変えるって?」「労働者が幸せに暮らすことのできる世の中を作っていかんとあかんって思わんか?

 アボジみたいに怪我をして働かれへんようになっても国の保証で暮らせるようにな!」「うちらが頑張ったらええやんか」「あほやな、おまえは……。ここは外国やど。ちゃんとした国ができてんど。俺、朝鮮人いうことでどっか無視されてたことを今、思いだすとむしょうに腹が立つんや。成績が良かったからいじめはなかったけどな、俺らみたいな若い青年が共和国には必要なんや」「でもアボジは、ここが故郷やって思いって言うてたで」「こんな穴蔵の生活のどこがええねん!」「そう言うても……うち、転校してから前の学校に手紙出したけど、皆励ましてくれたで。こっちの学校でも民順がキグッしてしもうたから寂しいわ。いつまでうちらは別れてばっかりしてバラバラになっていくんやろうって思うねん」「あほやなぁ……おまえは。輝かしい祖国が出来てんど。俺が先に行って祖国建設にがんばるから、後で来い。みんなで幸せに暮らそう」

 「うん……」

 覚めた感覚でいたわたしに比べて、兄は、それまでの鬱憤を晴らすかのようにのめり込んでいった。霞みを食べてでもいけるかのようだった。キムイルソンチャングンから直接に手紙をもらった、と言って頬を染めた。そして、選ばれた人といって祖国建設へと両親の反対を押し切って行った。

 懐かしい妹、明子へ

 明子、本当に懐かしい妹よ、達者でよかった。お互いに三十四年ぶりの再会も会ってみると、ただ『元気だったか?』と手を握りあうだけだったね。日本に居る家族のことはどれだけ夢にみたことか。アボニムが度々訪ねてくれるようになって、おまえや増えた家族の写真をみていたが、わたしの瞼には、十五歳の明子のままだった。おまえが短期訪問でわたしの家にいる間『わたしが民族学校に入ったためにユーニイーが苦労している』と泣いていた姿が今も瞼に残っている。心配しなくてもいい。こんな暮らしでも笑うこともあるのだ。わたしが選んだ人生だ。おまえのせいではない。

 おまえも知っているだろう、おまえとソンナン『城南朝鮮初級学校』で学んだ李同志が金日成総合大学の教授になっているのを。その李同志が今回中国経由で日本へ行くことになったのを聞いて、わたしはこの手紙をことづける。

 李同志は口数は少ないが信頼している。彼は帰国者同士結婚したが、アジュモニ(奥さん)の父上が仙台でパチンコで成功し、毎年組織を通じてかなりの寄付が寄せられているから、手荷物検査はすり抜けられるとおもうのだ。

 わたしはチョンジン(清津港)についた時の驚きをまざまざと思い出す。粉塵が霧のように澱むことに加えて、人々の眼の鋭さ、覇気のなさは、それまでに聞いていた情報とは正反対のものだった。なぜこんな不毛の地にやってきたかと気が狂うほどに苦しんだ。

 大阪の朝鮮部落で住んだころ、わたしがアメリカかぶれだったことはよく知っているだろう。部落の中のあの、その日暮らしの人たちを見て、わたしはわたしの将来について皆と同じ道を行くかと思うといたたまれなかったのだ。ラジオを通じて流れるプレスリー、テレビで見たアメリカの生活、そのどれもがわたしを離さなかった。そして、朝高(朝鮮高級学校)で学んだマルクス・レーニン主義。わたしの中で意識はひっくり返った。

 わたしも、共和国で祖国建設の一員となれると誇らしく思ったものだ。選ばれた闘士ということで血がたぎるようだった。

 わたしは、ひとりで帰国すると言った時の、あのオモニムの驚愕した眼を忘れられない。いつも、オモニムは背をかがめメリヤスの目を拾っていて、夜、俺たちが便所に行こうと眼が覚めた時にもまだ仕事をしていらしたね。小さくラジオが鳴っていて、眼をショボショボとしたオモニムの姿がわたしの瞼に焼き付いている。わたしは本当に親不幸をした。今、アボニムもオモニムも亡くなられて、わたしには生きる力が萎えそうだ。わたしは、帰国してから、すぐにだまされた! という悔しさで何回も自殺を考えたがいつもオモニムのあの姿に思い止まったのだ。怪我をして働けないアボニムの代わりにオモニムは必死にわたしたちを育ててくれたね。そしてアボニムはそれこそ、凄まじく夫婦げんかをしたが、その後、いつもわたしたちに、すまなそうにして夢のある話をしてくれただろう。わたしは、その子供だ、と思ってね。

 同じく帰国した張トンムは、酒を呑んで暴れ狂い、山へ送られてすぐに亡くなった。黄トンムは自殺した。山というのは、強制収容所で、同じ人間が人間をこのように扱えるのが信じられない所だ。ネズミを食べ、木の根を堀り、なんのために生きるのか考えることも出来ないのだ。明子、反抗は犯罪だろうか? こんな現実の中で人は言葉を失っていくのだ。

 わたしは、日本にいる頃に朝鮮人ということで差別を受けてきたが、この共和国では、もっとひどい差別がある。ポルレサラム(本来の人といって、現地で生れ育った人)は、わたしのような帰国者を、キーポと呼んで日帝時代に国を捨てた人間の子孫と見ている。あの、同じ民族が血で血を洗う戦争で金儲けをした、として許せない感情をもつようだ。金儲けだって!?

 手紙で伝えていた通り、わたしは、がむしゃらに勉強し、金日成総合大学に入ることができた。今思うと、キーポであるわたしがなぜ金日成総合大学に入れたのか想像することができる。しかし、当時は、うかつにも自分の力だと思っていた。そのころからアボニムが頻繁に日本とこちらを往復するようになったのだ。これは、アボニムと直接話しあったことはない。しかし、気がつくベきであった。アボニムはいつも突然に現れたが、その時は髭がぼうぼうで、眼の下にはクマができていた。

 どうしたのです?

 と聞いてもただ笑うだけだったが、ふっと、北海道からイカ釣り船に揺られた、と言うこともあった。いつもわたしの顔をじっと見るだけで、すぐにどこかへ行かれた。わたしは分かっていたが聞くのは怖かった。わたしのために命を張った仕事についてくださったのだ。卒業してから合弁会社で翻訳の仕事をするようになって、毎月支給される給料とよべるものが最近でやっと百四十ウオンだ。アボニムが訪問してくださるようになって、わずかだが、外貨で交換紙幣が使えるようになってからの生活は見違えるようだ。まだ、短期訪問ができなかった頃からのことだ。 わたしは、カンネンイパッ(とうもろこし御飯)がつらいというのではない。日本に居たころもそれに近い貧しさだったから。おまえが交換紙幣で買ってくれた中国米は確かに美味だ。わたしが悲しいのはそんなことではない。アボニムがいつも語ってくださったように、人は希望を食べて生きれるものだろう?

 この国では、その希望や夢が画一でそれ以外は抹殺されるのだ。わたしは、もうそんなに長くはない。わたしは、このことを言わずには死ねないのだ。

 そうだ、吉見先生といったか、国道を越えてすぐのところにあった医院の先生は。もう亡くなられていらっしゃらないだろうが、わたしたち家族は本当にお世話になったね。お金のないのを分かっても、黙って診てくださった。あの頃は朝鮮部落の人間とみると露骨に嫌な顔をして診てくれない先生ばかりだったが、弟の勇三が三歳の時だったか、ひきつけを起こして泡をふいてたとき吉見先生は、寒い冬だったが駆け付けてくださった。わたしは、後で薬を貰いにいった時、奥さんと先生のやりとりを聞いてしまったんだ。

 「薬の支払いもバカにならないのに、どうなさるおつもりですか!」

 と、奥さんの声が聞こえたのでわたしがひるんで立っていたら、先生が気をつかれてわたしの手を引っ張って部落まで一緒に来てくださったんだ。

 そして、「空を見てごらん、今日はオリオン座がとてもきれいだ。空が晴れているからね。あの、一等輝いているのがペテルギュウスだ。わたしたちが生まれる前からも、死んでしまってからもこうして宇宙は輝いているのだよ。もうすぐ流れ星が通るから、願いをかけてごらん。きっといつかはその願いが叶う時が来る。勇一君、といったかな。わたしの言うことを理解できるだろう?
 人の一生は長いんだ。いつまでもどん底じゃないよ。底まで落ちたら、後は浮かびあがるだけだ。そうだろう? だから希望をもつことだ」と、言ってくださったことを思いだすよ。

 明子……食べられない苦しさよりも、言えないことの苦しさのほうが遥かに重い。しかし、わたしはしゃべりすぎたようだ。今度はいつ会えるだろうか。達者でな。

一九九九年九月二五日 兄 勇一より  

 七十月二十五日、JR鶴橋駅で午後七時に持っています。  李 俊一

 メモのような手紙が届いた。消印は東京だ。疑心暗鬼なままわたしは、JR鶴橋駅の横断歩道を渡ったところにある太いコンクリート柱の影に立っていた。パチンコ屋の扉が開く度にワッという音が飛び出し、一瞬の覚醒を呼んだ。地下の穴から、東西南北の道路から人は沸きでるように出てくる。その人々の顔をラブホテルのネオンが信号のように染めている。

 バス停の前で小太りの若い男の、わめく声がして振り向くと、男はズボンを足首まで下げ、中腰になってかがんだと思ったら、うんこを落とした。うんこはとぐろを巻いている。わめいているのではなく、泣いているようだ。自転車に乗った中年男はその現場に来て、うんこを見ると舌打ちして、啖を飛ばしてから、小太りの男になにやらどなっている。すると、小太りの男は、大きな声でウォーンとうなり、かがんでまた、うんこを落とした。とぐろが長くなった。停留所にいた人の群れは、男の回りに半円を作って囲んだ。女は鼻をつまんだ。

 横断歩道にメロディー信号が流れて駅の方を見ると、タクシーが止まった。

 黒いコートを着た二人の男が降りて、駅の明るい光の中に立った。背の低い男と高い男とが向かいあって立っている。低い方の男がコートのポケットをまさぐっている。高い方の男が頭を下げ、人混みの中に消えた。男は、さて、という感じでタバコを取りだし、火をつけようとしたが、風で火が消えるのか、なんどもライターをいじくっている。コートのボタンを外して、その中に火を引き入れている。黒いコートから出ている首がやけに細い。痩せた鶏のようだ。散髪の形も耳の後ろまで刈り上げてあり、今の流行ではない。李俊一だろうか?

 わたしはじっと見ていて、帰ってしまおうかどうしようか、と迷った。

 あれが李トンムだとしたら、兄と会った時のように、とてもつらい気持ちになる。帰ろう……帰ろう……。わたしになんの用があるというのだ。

 男が顔をあげたら、風がふいて額が現れた。瓜のようにとがった額に見覚えがあった。『李俊一だ!』メロディー信号が流れた。誘われるようにわたしは、横断歩道を渡った。

 「李トンム?」

 「?!」

 どちらかともなく、手を握りあっていた。李俊一の声はかすれていた。こんな声だったろうか?

 必死に記憶を呼び戻そうとした。彼は、「オデガンマヌエヨ」と言った。オデガンマヌエヨ?

 あぁ……オレガンマニエヨ(ひさしぶりだね)……と言ったのね。平壌の言葉は東北のなまりに似ていた。そして、三十七年ぶりというのに、「君はちっとも変わらないね」と、流暢な日本語を話した。李俊一……。三七年前の李トンム。今、眼の前にいる顔面のない幽霊のような影を引きずっている李俊一。過去から突然わたしの前に現れた。わたしの記憶の彼方にいた李俊一が、その間の歴史を持って立っているというのか? 彼の帰国の際に流した涙はこんなにも長い歳月を予感したとでもいうのか!

 わたしがとまどっていると、

 「鶴一で食事でも」と言った。わたしはハッとした。鶴橋の焼き肉屋の名前を自信ありげに言った。国交のない筈の共和国と日本との間で彼は三十七年ぶりに日本の地を踏んだのではなかったか?

 この一瞬の疑惑をけどられまいとわたしは、「この中に入ると、いくらでも店はあるけど」と言った。並んで歩いて彼を見た。顎が尖っている。わたしを見て、幽霊が笑った。すると、小学生だったころの笑顔が蘇った。歯並びに見覚えがあった。堅そうな前歯の両方に凹凸に乱杭歯がある。はにかんだように笑っている。わたしと、彼との間に流れた時間の重さ、深さにわたしの目蓋は潤み、店の看板が歪んで見えた。影のような彼がわたしと会うために費やした労力は、わたしには計りしれない。さっき一緒にいた男は監視役だろうか。二、三時間の自由時間を金で買ってきているのだろうか。わたしは、このことにどう答えたらいいのだろう。焼き肉屋に入って彼は、個室のようになった部屋の四隅に鋭い眼を走らせた後、ふーっと深く息を吐いた。「金同志に、これを明子に渡してほしい、とことづかってきた」と言って、ガムテープで厳重に封印された封書を出した。わたしが眉を寄せ、じっとしていると、「ウリン、チャールサルゴイッソ(わたしたちは、裕福に暮らしている)安心して……」唐突に李君は言った。わたしの顔をじっと見ている。彼の眼は沼の底から空中に燃え出る青い鬼火のようにもの憂い光を放った。その眼は、わたしに読めと言っている。わたしは、胸を押さえた。心臓の音が彼に聞こえはしないか、と思うほど高鳴った。背筋が冷たくなった。

 はっと、わたしは思いだした。十八歳の頃に一度だけ李君から手紙をもらったことがあった。手紙には、李君のお母さんが婦人病で悩み苦しいので、日本のこれこれという薬を送ってほしい、という内容だった。手紙には切羽詰まった様子が書かれてあり、わたしにして、李君のお母さんの痛みが想像できた。躊躇しながらも薬局に行ったが、とても恥ずかしくなって送ることができなかった。薬局の店主のうさん臭げな眼に、わたしの心は羞恥心で破裂しそうになったのだった。しかし、薬を送れなかったことが、年を追って後悔された。

 「李トンム、あの時はごめんね。薬局に行ったんやけど、なんでか送れなかってん」わたしは、やっと言った。

 「あぁ……そんなこともあったなぁ……」

 李俊一の眼から青い火は消え、彼は遠い眼をして、

 「なに……ケンチャナヨ(いいよ)……。あっ、い、いや……イルオッソヨ(なんでもない)、イルオッソヨ……」と言った。

 わたしは、この時の驚きを言い現すことができない。わたしは、彼の生活を想像することができた。韓国では当たり前のように使うが、共和国では決して使わないという、ケンチャナヨ……。彼は、しきりに酒を呑んでいる。顔が青くなってきても酔う様子でなかった。わたしは、これ以上彼を追い詰めてはならない、と思った。わたしに何が分かるというのだろう。父が秘密を持ったまま逝ってしまった今、探るすべもない。さっきの鬼火のような不気味な眼は、父も時折見せた眼だ。暗い深淵に真っ逆さまに墜ちていく恐怖の中に彼は居る。 思い出話を継いだ。無邪気に笑った。影が揺れた。

 わたしは、遠い昔に、若狭の浜で父の指図通りにテープを流し踊っていたことを思いだしていた。妹とわたしは、なんの疑いも持たず父の帰りを待った。父は見慣れない人と戻ってきて、また、どこかへ消えた。

 「ツンタッタ……ツンタッタ……」

 ザーザーと雑音の入るテープの音が聞こえてきた。

 兄の手紙を持ってわたしを訪ねてきた李俊一。ひとりの初老の男。忘却が蘇り苦しげに息をする過去からの使者。無意識に全てが現れだしたが、全てがわたしの幻想のように思えてきて、あの、潮騒の波の音が蘇った。

 わたしは、段々と遠景の彼方に縮む李俊一の顔に、わたしのぜいたくな涙を重ね、鳴咽の中で兄の命のことづけを焼いた。

〈了〉

「ことづけ」に寄せて   萩原 遼

 「帰国」というものが在日の人々にとってどれほど大きな悲劇であったかをこの短編はみごとに描いています。 すばらしい祖国建設を夢みて北の地に渡った作中の主人公金明子の兄勇一は着いたとたんに「だまされた」と知って自殺を考える。帰国したほかの友人も収容所に送られて死んだり、自殺したりする。父までが息子を救うためのちに北の工作員になって秘密の工作に従事し、同級生の李俊一は韓国への潜入をくり返す工作員にさせられる。

 すべて「帰国者」という弱身を握られて北当局に強要された非人間的な任務です。こうした在日コリアンの悲劇を初めて正面からとりあげ文学作品に結晶させたこの作品は大きな意義をもっています。在日の手によって書かれるべくして書かれた作品であり、作者はいくつかの試行のすえに大きな鉱脈を掘りあてたといえます。こんごこの鉱脈をどんどん掘り進めて豊かな収穫物を私たちの前に見せてくれる大いなる期待を抱かせてくれる作品です。作者は十一月初めに出る『白鴉』第七号に「墓掘り人」という短編の連作を発表していると語っています。 作者の金啓子さんは一九五〇年生まれ。一九九八年より大阪文化学校の本科と専科で二年間学んだ人。『白鴉』同人に芥川賞を受賞した在日の玄月さんらがいます。作者の本業は大阪・鶴橋の居酒屋のママさんです。

 ちなみにこの作品は文芸誌でも反響を呼んで『文学界』の八月号は「衝撃の記録」『新日本文学』十一月号の同人雑誌評では、作品のあらすじを紹介しながら「人間として考えさせられる問題を抱えていることは確かだ。それはおそらく文学が明かに指し示す役割を担っている。なぜならこれほど具体的に、リアルにものを説明する手段はほかにないであろうから」と高く評価しています。

 作者のこれからの活躍と帰国者の問題を広く日本と世界に訴える執筆活動が大いに期待されます。

<編集後記>

◆会員のみなさん、『かるめぎ』読者のみなさん。秋たけなわのよき季節となりました。お元気のことと思います。今号は盛りだくさんの原稿が集まり、臨時増ページ号としました。通常の2倍の分量です。このため、通常の10月1日号と12月1日号を、この35号で11月1日号とし、事実上の合併号とさせていただきます。あわせて、これまでは隔月の偶数月の発行でしたが、これからは奇数月の発行とさせていただきます。理由は年初の号が偶数月なら2月1日号となりますが、奇数月にすると1月1日号となり、年明けを出足早く読者のみなさんに会報をお届けできるからです。日本と朝鮮半島をめぐる情勢の進展に『かるめぎ』の役割がますます高まっていることに見あった措置であることをご理解いただけますように。(萩原 遼)

◆上京中のキム・ヨンファさんとの話の中で、一度彼が涙ぐんだことがあった。それは彼の息子が、みせしめのために左手を切断されたという話をしたときだ。10年以上も離れていれば家族への想いはひとしおだろう。まして家族に迷惑がかからないための秘密裏の脱出だったといい、そのための息子の犠牲ということでは、悲しみも大きい。それでも将来の家族と一緒の生活の夢は持ち続けている。これは今ではまだ奇跡に近い願いだろうが、離散家族の問題がここにもある。ところで日本では帰国者から七千通あまりの手紙が日赤に寄せられ配達されないでいるという。それは住所が分からないだけでなく、相手側が受け取りを拒否している場合もあるという。援助要請と思い、これに答えたくないからだろうかとも考えられる。しかし、金民柱さんの話では、「帰国者」にとっては日本へ手紙を出すことにはリスクもあって、日本の親戚の住所を書いた紙さえ北では秘匿すべきものであるようだ。最近は世代が代わり、その住所さえ分からなくなりつつある。そんな中、日本に手紙を出すのはよくよくの場合という。その話を民柱さんが先の運営委員会の席上披露され、「配達されない七千通の手紙」の重みに今さらながら運営委員一同ショックを受けた。日朝関係を扱う日本の新聞記事やテレビ番組の中でまだ日本の離散家族、「帰国者」やその手紙についてふれた報道は目にしたことがない。(佐倉)

◆日々のたゆまぬ地道な活動が、いずれ大きく変革へと繋がって行くものと考えます。今月も中国・四国に支部設立を求めて遼さんとでかけてきました。何処にも自由に行ける事の素晴らしさをふっと感じました。70年代まで多くの在日は、この日本より自由に海外にでかける事ができませんでした。今では、そのような事もほとんど無くなりました。しかし、北朝鮮では、今なお自由に出国する事は叶いません。人間形成において何処をも見聞できることは、その人の素晴らしい人生を形成する上で非常に大切なものであると考えます。北の人々にも自由に世界を駆け巡る事ができる日が訪れる事を願ってやみません。 (金 国雄)

◆金啓子氏の「ことづけ」、作品の舞台となっている土地は小生の生まれ育ったところであり、しかも作者の金啓子氏と小生は、年齢から推察するかぎり同級生です。当時の雰囲気がみごとに伝わってきます。「そのバス通りは別名、柳通りとも呼ばれた。道の両側に柳が植わっていて風になびいている。柳通りに駄菓子屋と銘湯『菊の湯』に挟まれるように、朽ちかけの診療所跡があった。診療所の門柱に墨のあとも鮮やかに『城南朝鮮初級学校』と書かれた看板が打ちつけてあった」柳通りはそのままの名で現在も存在しています。「菊の湯」は名こそ違いますが、推定される場所にはいまも銭湯があります。診療所跡というのは、心あたりがありますが、複数の教室をもつ学校の敷地としては、あまりにも狭隘ではないかと思われます。小説である以上、つくられた部分もあるかと思いますが、それにしても、作品のなかのいろいろな場面に現われている状況は小生の実感と共通しています。(叶岡)

☆お詫びと訂正:「かるめぎ」34号、「7・15金英達さん追悼学習会 英達(ヨンダル)さんを語る」の記事中、沢田竜夫さんの所属は、「RENK東京」の誤りでした。お詫びして訂正いたします。(編集部)

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