会報『かるめぎ』の過去号を、旧サイトから、順次こちらにアップしていきます。この機会に、過去の『かるめぎ』を通して、守る会の歩みを知っていただければ幸いです。
<年頭あいさつ>
「今こそ強制収容所の実態を広めよう」 小川 晴久 共同代表
現在世界最悪の人権蹂躙の場、北朝鮮強制収容所の廃絶の課題、帰国者の自由往来の実現の課題、私たち守る会が取り組んできたこの2つの課題が未解決なまま21世紀を迎えざるをえないのは、まことに残念無念の一語に尽きます。新世紀、新年の初めに当たり、以下のことのみ申し上げます。
金正日政権を相手にすることに決めたペリー報告、そして去る6月15日の南北合意、金大中さんのノーベル平和賞受賞という一連の事態は、北朝鮮の金正日政権を承認し、それを支える方向、その方法は太陽政策でという風潮の高まりを示し、北朝鮮の人権状況の改善を要求しにくい雰囲気を生んでいます。2002年のワールドカップ開催までに日朝国交を結ぼうという運動まで登場しています。北朝鮮当局、朝鮮総連のいやがる報道はしないのか、人権問題へのマスコミの反応も冷淡です。予想もしない事態です。私はこの状況を打破する鍵は山の中の強制収容所の存在と実態を訴えることだと思うのです。姜哲煥、安赫『北朝鮮脱出』(上下、文春文庫)、安明哲『北朝鮮絶望収容所』(ワニ文庫)、女子刑務所の実態ですが李順玉『北朝鮮 泣いている女たち』(ワニ文庫)の一つだけでも読む運動を進めることだと思います。
皆さん、帰国者の家族はなぜ公の場で訴えることができないのでしょうか。社会的地位を確立した在日の著名な文化人や学者はなぜ強制収容所や帰国者の苦境を訴えないのですか。答えは一つ。人質政策のためです。北に帰っている家族や親戚が収容所に入れられる恐怖からです。強制収容所が厳然として存在しているからです。
南北合意を祝福し、私たちの運動を快く思わない人たちに言いましょう。あなたたちは姜哲煥氏たちの手記を読んでいず、読もうとしない人たちだ。それでは朝鮮(人)蔑視であると。私たちの会は強制収容所を知らせてこそ存在意義があるのです。頑張りましょう。
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。 金 民柱 共同代表
「金正日政権を支えよとのアメリカの指図はいらない」 萩原 遼 共同代表
あけましておめでとうございます。私たちの会も8年目を迎えました。
マスコミによると、朝鮮半島に大きな変化が生じたそうですが、残念ながらそれは事実誤認のようです。朝鮮半島の変化とは、北の体制になんらかの変化が生じることだと思います。私が評価できる変化とは、南北1千万人の離散家族が10万人単位で再会すること、南北双方の2百万人の武装兵士がにらみ合う中で、双方が10万人単位の兵力削減に踏みきったときです。いまのところその動きはみられません。
私たちの会にとれば、在日コリアンの帰国者の自由な往来、日本人妻の自由な里帰りができることです。さらに強制収容所に囚われている帰国者、日本人妻は無条件で釈放されるべきことはいうまでもありません。
ではなにが変わったのか。アメリカの北朝鮮政策は変わりました。金正日政権を支えていくというのです。しかしその金と物は韓国と日本が出せでは筋が通らない。人権や拉致疑惑はたなあげして日朝国交正常化を急げなどと圧力をかけてくるにいたっては我慢ならない思いです。1964年の1月、日韓条約締結を急げといって、当時アメリカのバンディ国務次官補が日本に来たときのことを思い出します。当時はクーデターで政権を握った朴政権のころです。それの北朝鮮版ではないですか。人権抑圧の非人道政権を強めるだけです。
この身勝手なアメリカの政策を徹底的に暴露したいためにいまこちらで勉強しています。私たちの運動や日朝国交で日本国民のとるべき道についてなんらかのお役に立ちたいと思っていま苦闘しています。日本を離れていてもインターネットの時代です。日本はもちろん世界とつながって生きられるいまは私たちの運動にとってもいいことです。3月の中国四国支部の結成までには帰国します。ことしは九州支部や東北支部も生まれるよう、みなさん、ともにがんばりましょう。
(ワシントンにて)
<年頭あいさつ(各地)>
帰国者の自由往来の実現に向けて 高柳 俊男(運営委員)
1999年夏、本会の連続講座の一環として、映画『海を渡る友情』(1960年、東映)を上映した。この映画の事実調べ(詳しくは『在日朝鮮人史研究』29・30号掲載の拙稿をご覧ください)をする過程で、当時、帰国事業を推進する側に「北朝鮮に帰る日本人妻をはげます会」という団体があり、その活動方針には「将来日本人妻の里帰り問題が起きた際は率先して協力する」と明記されていることを知った。しかしこの会が、日本人妻の問題でその後も継続して運動を展開してきたという話は聞かない。
朝鮮総聯が北朝鮮帰国に組織として取り組んだのは、帰国事業が実施に移される前年の1958年からだった。その後、1963年からは在日朝鮮人の祖国自由往来実現を求める運動を大々的に起こし、それもやがて勝ち取っていく。しかし一度祖国に帰還した人に再度日本への訪問を認めるよう本国政府に要求したという話は、寡聞にして知らない。いや、大幹部の子女などはさまざまな肩書のもとに、しばしば日本に戻っていると聞くが、一般の帰国者はいまだ片道切符のままである。
その意味で、朝鮮総聯の責任は重大であり、批判されてしかるべきである。しかし組織としての総聯と、その構成員とはやはり区別して考えねばならない。いまでも学校や融資、税金問題などの関係から、朝鮮総聯の枠のなかで生活してはいるものの、身内にいる帰国者の問題に関しては、人知れず悩んでいるような在日朝鮮人は少なくないと思われる。そうした広い意味で朝鮮総聯の傘下にいる人々の思いも聞き、その人々をも巻き込んでいけるような幅広い運動をこそ作っていかなければいけないのではないだろうか?
新しい 21世紀においては、人道問題や人権問題としての側面を最優先に掲げた運動をこそ展開していく必要があろう。とりわけ帰国者の自由往来の実現に向けて、ねばり強い運動が求められているように思われる。
北朝鮮民衆の笑顔を求めて 東海支部一同
昨年、東海支部の時針は忙しく回って過ぎました。忙しいという事は、私達の運動にとって喜ばしい事でもあります。しかし、新しい世紀を迎え今なお世界には理不尽な悲しみが多く存在することに心が痛みます。
「運動は特定の者が行うものでも、できるものでもない。一人でも多くの情熱を持つものが力を合わせ発展させて行く事が大切ではないか」という言葉を大切に、今年も北朝鮮の人権確立と擁護に向け微力ながら闘って行きます。
今年もよろしくお願いいたします。
新年あけましておめでとうございます。 相原 悦子(仙台市)
わたしたちは、お正月にはそのように挨拶をかわします。けれども、飛行機でたった2時間たらずという所には、そうではない人たちがたくさんいる。
クリスマスだとかお正月だとかでにぎやかになっている中でその事実を考えるとき、私は……と、ここまで書いて、ペンが止まってしまいます。
北緯38度。おそらく「守る会」の中では、仙台は、この北緯度にいちばん近い所にある土地でしょうか。そして舞台は、さらに北に位置した所にあります。
この仙台以上に一面が白く凍りつき、冷たく強い風が吹き、それが白くぽっかりと空洞になった人たちの心に吹きこんでいる……。
そんな北朝鮮のことを知ってもらいたいという思いや、知らないわけではないけれど、どうしていいのかわからない人たちのために、仙台にもこういった会の集まりがあるのだということを知ってもらおうと、今、地元の新聞などに広告を出そうかと、皆で話し合っているところです。
このネットワークを通して、皆さんの声に心強い思いをしていますが、それと同時に、地元での足場固めということももっと強くと、考えさせられています。
「かるめぎ」33号に載っている、ソウル特派員の東昇平さんの「最も重要な問題はもともと北朝鮮に関心がない人々にも問題意識を持ってもらうことであろう」という言葉と、池田菊敏さんの「新しい会員一人の参加が、少なくとも一人の生命を救うことになると私は確信しています」ということばを、いまいちどかみしめ、かみしめるだけではなく、実践していかなければなりません。
賀正 2001
21世紀、北の地に伝統や文化の光が当たることを願っています。そのためには、まず人々の心が自由で豊かになること。微力ながら、「守る会」を通じてその実現に努力したいと思っています。今年もよろしくお願いいたします。
藤原 幸久
戦争と分断の世紀から、人権と融和の世紀へとなるように。そして北の人々が一日も早く呪縛から解かれて自由になるようがんばりましょう。
ジャンボ
1人でも多く在日の学生に「守る会」の活動を訴えるように努力します。
うさぎ
北朝鮮の人権にひかりがさすように、この1年、頑張りましょう。
福本 正樹
誰もが人として尊厳を持ち自由に生きる事ができるという普遍的な人権を求め!
金 国 雄
2000年に「守る会」で深めた認識、行動を土台にしてさらに新たな世紀にいっそう発展させたいものです。
浅野 正光
遺していった多くの(大きな)ものを少しずつ、確かに受け取っていきたい。
玉川 富恵
新しい世紀、新しい年に抑圧された北朝鮮の人びと、ことに帰国者の方々の安寧と幸福、自由の回復を祈念します。
佐倉 洋
戦後生まれの私をしても、本当に目まぐるしい出来事の20世紀でした。「守る会」の弛まぬ努力が、いつか実を結び帰り舟を仕立ててお迎えに行ける日まで、そして北朝鮮に本当の自由が訪れる日まで諦める事無く活動する事を誓い新年のご挨拶と致します。
小野 美智子
20世紀に誕生した北朝鮮の悲劇が、21世紀まで持ち越されるのは至極残念無念。金正日を21世紀の太陽と標榜する国家の勝利なのか? いや、決してそうであってはならないのだ。悲劇は打破されなければならない。悲劇を打破するのは良識の真の叫びなのだ。21世紀を良識の世紀にしよう!
松浦 照雄
<第2回ソウル国際大会に参加して> 小川晴久 共同代表
国際的な”フレンズネットワーク “が出来ていました
12月8日、ソウルの延世大学内のアレンホールで第2回北朝鮮人権・難民問題国際会議が開かれました。今年は難民問題が中心でしたが、私は強制収容所廃絶を訴えるために参加しました。主催者は私たちと姉妹関係にある北韓人権市民連合と梨花女子大学法学研究所、後援はアメリカの全国民主主義基金(NED)、朝鮮日報、MBC(韓国文化放送)。海外からの参加者は7ヵ国20名でした。昨年12月の第1回会議に参加したメンバー中心にもうひとまわり輪が広がっているのがうれしいことでした。以下特徴的なところを報告します。
1) 北朝鮮人権問題解決のための国際ネットワーク”Friends Network”が形成されていました。第1回参加者を基礎にソウルの市民連合が、この1年間、精力的にインターネットで情報を伝え行動を訴えてきた成果でした。
2) 仏のリグロさんが9月に『北朝鮮の金魚鉢』(姜哲煥一家の受難と強制収容所の報告)をパリで刊行されたこと、姜哲煥氏が休憩時間に最近のヨドック収容所がより悪化、拡大していることを訴えました。日本語版の出版のため訳者、出版社を御紹介ください。
3) 中国政府による北朝鮮難民の強制送還は中国の人権問題であるという観点から”中国の人権”(Human Rights in China,本部 N.Y.)から2人の学者(コロンビア大学とパリ大学の中国専門家)が参加、心強いことです。
4) ”国境なき医師団”から2人の女性幹部がオブザーバーとして自費で参加されました。
5) 韓国の法倫さんたちの食糧支援組織”良き友だち”(Goods Friends)から女性の調査研究部長が参加し、強制送還は死に連がることを批判した、とてもいい報告をしました。
決議文は採択しませんでしたが、全体討論で帰国したら具体的に何をやるかにつき参加者が決意表明し、無条件の太陽政策に批判的な、とても有意義な会議でした。多数の学生・院生がボランティアとして会議を支えました。
同じく出席された朴春仙さんのコメント
北朝鮮における人権抑圧に憂慮する人士が世界中から集まり、情熱を持ち真摯な討議、討論を行い、一日も早く北朝鮮での人権確立を目指した活気と熱気に満ちた大会でした。私もこの大会に参加して、大きな力を得、今後さらに北朝鮮の人権改善に向け残りの人生をせい一杯生きていくことを心あらたに誓いました。
第2回北朝鮮人権・難民問題国際会議、ソウルで開催
「北朝鮮同胞の生命と人権を守る市民連合」と梨花(イファ)女子大学法学研究所が共同主催し本紙が後援する、「第2回朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)人権・難民問題国際会議」が国際人権専門家、外交使節、北朝鮮脱出者、国内の北朝鮮専門家など約200人が出席したなか8日、延世(ヨンセ)大学で開かれた。
会議は中国に逃れた北朝鮮脱出者の実態などについて英国の民営テレビ「チャンネル4」が放送した番組を見た後、国内外の民間団体の現地調査報告を受け、北朝鮮住民と北朝鮮脱出者の人権改善に向けた今後の活動のあり方について討論を行った。
参加者は多元かつ結束力のある世界的ネットワークを構成して北朝鮮の人権状況に対する国際社会の関心を呼び起こさなければならないという点で意見の一致を見た。また、今後、西側諸国が北朝鮮と外交交渉の際、北朝鮮住民の「人権改善」が切迫した問題だという点を提示するよう引き続き誘導していくことにした。
カル・ハペン国際人権協会ドイツ支部事務局長は「昨年3月からリグロ氏が主導している欧州の識者による’北朝鮮人権改善を促す’の署名にロシアなど東欧からも約2000人が参加することになった」と明らかにした。
今回の会議を後援した米民主主義基金(NED)のカール・ガッシュマン会長は基調演説を通して「今日の北朝鮮の状況は1940年代ジョージ・オーウェルが描いたソ連に近い」とし、「南北対話が北朝鮮の人権を見過ごしてはならない。人権なくして和解はあり得ない」と強調した。
2000/12/08 朝鮮日報HPより
<人権年表> 『金大中大統領ノーベル賞受賞と人権』(2000年10月~12月)
2000年
(10月)
6日
米国務省のバウチャ-報道官は「国際テロに関する米国と北朝鮮の共同声明」を発表・米朝両国政府は国際テロが世界の安全保障と平和に脅威を与えるとの認識で一致、化学・生物・核兵器を使ったものも含め、全テロに反対・両国は国際テロに関する情報を交換し、テロ問題で両国に残る未解決問題の解決を目指す。米国は北朝鮮が米国法の要件を満たす際に北朝鮮をテロ支援国リストから除外すると言及。
7日
クリントン米大統領は、北朝鮮の金正日総書記の特使として9日に訪米した趙明録・国防委員会第一副委員長とホワイトハウスで会談した。この席で、趙氏は金総書記の親書を手渡した。会談では、北朝鮮を米国のテロ支援国リストから外す問題と、日航機「よど号」乗っ取り犯人の赤軍元メンバーたちの日本への引き渡しや日本人拉致問題も話し合われた。
13日
韓国の統一省が同日までに発表した統計資料によると、韓国に入った「脱北者」は205人にのぼり、今年末をまたずに過去最多だった昨年の148人をすでに57人も上回っている。家族揃っての脱出ケースは94年の3家族から、97年17家族、99年36家族、2000年は9月末で37家族に達した。第三国経由が多い。
13日
ノルウェ-のノーベル賞委員会は2000年のノーベル平和賞を韓国の金大中大統領(74歳)に授与すると発表。受賞理由は「全般的には韓国及び東アジアの民主主義と人権の発展、特に北朝鮮との和平と和解への努力」と「日本との和解」等。
20日
ソウルで開催中のアジア欧州会議(ASEM)に出席しているフランスのシラク大統領は会見で「北朝鮮は議論の余地のない独裁国家である」と言明。核不拡散、人権問題の改善に向けて北朝鮮が「最低限の行動をとるまで待つ」と述べた。
20日
米紙ロスアンジェルス・タイムズは「北朝鮮の米国との交渉は信義ではなく、核のゆすりに基づくもので、米政府は臆病にもそれに応じた。金正日朝鮮労働党総書記は国内では、世界で最も苛酷で抑圧的な警察国家を運営している。…北朝鮮が北東アジアの緊張緩和、国際的規範の達成、ひどい人権政策の改善に向けて動いていることを明確にしないままに、クリントン氏が金氏とその体制に正当性を与えるのは誤りだ」との社説を載せ、大統領の北朝鮮訪問に警告を発した。
23日
オルブライト米国務長官は金総書記と会談。クリントン米大統領の親書を手渡した。
24日
パリでフランスの歴史家のピエール・リグロ氏らが「北朝鮮の人びとへの支援委員会」を発足させた。参加者は「開放という外観に惑わされるべきではない。多くの人を強制収容所に送り込んでいる最悪の独裁国家に変化の兆しはなく、対外的にも明確な約束は何もない」と指摘している(30日 朝日新聞)。
27日
米紙ワシントン・ポストは社説で、今回の米国務長官の訪朝について、晩餐会のさい「長官は北朝鮮の政治犯15万人の存在について一言も発しなかった。…米指導者が何らとがめることなく独裁者と乾杯すれば、自由のために戦う人びとの意気を阻喪させる…弾圧に関する長官の沈黙が米国の信頼性を低下させる」と非難した。バウチャ-報道官は「国務長官は人権問題を取り上げた」と反論した。
2000年
(11月)
3日
東亜日報は、韓国政府筋の話として、北朝鮮にいる黄長燁元朝鮮労働党書記の妻と長男が7月初め、政治犯収容所に送られたと報じた。移送理由は「金正日後継体制に入る前に、内部規律を確立するため」としている。
20日
「救え!北朝鮮の民衆/緊急行動ネットワーク」(大阪)は、都庁記者クラブで北朝鮮の実情を撮影したビデオの上映を行った。映像は北朝鮮難民男性が10月初めに撮影した。李英和事務局長は「映像から見る限り、多大な国際的人道援助にもかかわらず大きな変化はなく、援助が末端の人びとに届いていない」と説明。闇市では小麦粉1キロが平均月収以上の高値で売られていた。
20日
黄長燁元朝鮮労働党書記は韓国政府の北朝鮮批判活動を制限する動きに対し、「言論の自由は自由民主主義の命だ」とする抗議声明を発した。すでに17日に国家情報院の林東源院長に嘆願書を出し、制限措置を解除しない場合、独自行動をとると伝えている。国家情報院は「過去に執着する偏狭な視角」と反論を発表。6日付の産経新聞に掲載された、黄氏の最新論文「自由民主主義の勝利のために-独裁と民主主義は両立できない」が発端になっている。制限は・政治家や言論人との面会禁止・外部講演の禁止・著書の出版禁止・「脱北者同志会」の機関誌『南北統一』の配布禁止・民間の北朝鮮民主化運動への参加禁止-からなる。国家情報院の反論はテロの脅しが強まっているとして「大勢に顔をそむけず南北和解・協力・緊張緩和に寄与する姿勢」をと要望。
23日
野党ハンナラ党は、調査団を国家情報院に派遣し、黄長燁元朝鮮労働党書記と面談した。秘書役の金徳弘氏は「97年に亡命したとき、韓国政府が約束した身辺保護と対北民主化活動の保証が守られていない。韓国で北朝鮮民主化運動ができなければ外へ出てやるしかないではないか」と語っている。
24日
朝鮮日報は柳根一論説主幹の論評で、韓国政府による黄氏に対する活動制限と、身辺保護の放棄ともとれる措置について「一人の重要な亡命者の良心の自由、表現の自由、対外活動の自由を阻止するというのは、世界的なスキャンダルになる」と批判した。黄氏は統一政策研究所の理事長の座も降ろされている。
2000年
(12月)
3日
産経新聞特派員電によると、2回目の南北離散家族相互訪問(各100人づつ)の際、韓国当局が北朝鮮に拉致されていたと認定した韓国人男性が平壌市の高麗ホテルで、母親と先月30日と今月1日の2回、13年ぶりに面会した。男性は1987年1月15日、黄島海上で操業中に拉致された「トンジン27号」の船員の姜喜根氏(49歳)。同行記者団によると姜氏は「甲板長として働いていたが、共和国に来て無償で勉強させてもらったり、治療してもらったので永住することを決意した」と説明。平壌放送は「拉致などは荒唐無稽な捏造」と放送。
8日
「北韓同胞の生命と人権を守る市民連合」と延世大学が共催し、第2回「北朝鮮人権、難民問題国際会議」がソウル市内で開かれた。7カ国から人権活動家、大学教授、研究者らが参加、太陽政策に厳しい批判が集まった。守る会の小川晴久共同代表らのほか、中国の人権団体「中国人権」から二人の学者、「国境なき医師団」から女性活動家二人もオブザーバー参加。
(佐伯浩明:「守る会」運営委員)
<ワシントン便り> 萩原 遼
地平線のような樹海から昇る朝日
部屋が赤い。前夜ブラインドをおろし忘れた窓から朝日がさしこんでいました。部屋の白い壁にたたみ1畳ほどの赤旗を貼りつけたように真っ赤な朝日で眼がさめた。
14階の窓から眺めると、はるか彼方の樹海の上に太陽が半分ぐらい顔をだしていました。なんという紅さ。7時20分でした。快晴。
ワシントンには工場もない。私の住むところはさらに郊外。20階建てのマンションが4棟あるほかはまわりには高い建物はありません。樹海がまるで水平線のように、地平線のように広がっています。
3ヵ月間日本に一時もどっていましたが、11月末またこちらにきました。冷房から暖房にかわっていました。外はマイナスでも部屋の中は半袖。ぜいたくなエネルギー国だなぁと思います。
地下鉄のつり広告に、氷山の上の大きな白熊の写真。その白熊のセリフです。
「地球温暖化にストップを。温度を下げよう。ぼくの住み家も守ってよ」。
アメリカ黒人の人の善さ
半年前の6月初め、ワシントンに着いたときバブル景気のアメリカでアパート代がはねあがっていることにびっくりして、これじゃなけなしの金はたちまちなくなってしまうと、毎日安いアパートはないものかと炎天下を歩きまわっていました。それをみかねてホテルの黒人のメードのおばさんが、「ドン・ウォーリ(心配するな)。私が探してあげる。24時間待ちなさい」。
彼女は電話をかけまくって、ちょうど24時間後の翌日昼すぎ、日本車の四輪駆動で幼ない娘をつれた別の黒人女性が迎えにきてくれました。そしてつれていかれたのが、いま住んでいるこのマンションです。12畳ほどの一間を月500ドルで。犯罪多発で警戒心旺盛なアメリカ社会で、見ず知らずのアジア人によく貸してくれたと思います。
おちついたころ、感謝をあらわしたくてホテルのおばさんを訪ねました。失礼かと思いながら百ドル入りの封筒を恐る恐るさしだしました。とたんに抱きつかれました。
「実は夕べ、大学生の息子から電話があったのよ。150ドル送ってくれと。これで送ってやれるわ」
ほんとうにうれしそうでした。彼女は昼と夜2つのホテルをかけもちで働いています。
「たいへんなのよ。2人の子供を大学にやるのは」
ジュース飲みなさいともってきた。甘いものはだめだというと、こんどは缶ビール。
「いや、お昼は飲まない」
「じゃあ、夜飲みなさいよ」と小さなカバンにぎゅうぎゅう押しこんでくれました。
アメリカ黒人の人の善さ。人の情けに助けられて見知らぬ土地で雨露がしのげるだけでなく、暑さも寒さも知らずに仕事のできるよろこび。
コメと魚とみそ汁の食事ができ、キムチがあり……。炊飯器とコメとキムチを用意してくれた地下1階のコンビニの主人呉基洪さんは、姿がみえません。年末まで郵便局の臨時職員になって働いているとのことで店は奥さんが守っていました。くるのは週一回だけ。変わらない静かな笑顔。おとなしい人なのに南北首脳会談にたいしては 「これじゃ武装解除と同じじゃないですか。こんなもの受け入れるわけにはいかないですよ」ときびしいコメント。私の考えとほとんど同じであることにびっくりしたものでした。
苦しい翻訳は終わった
前号の『かるめぎ』にも書きましたが、ワシントンに着いてまもなく、1年前からかかわっていたある北朝鮮亡命者の手記の生原稿がどかっと届いたのです。4百字の原稿用紙でおよそ千百枚。私の調査と運悪く重なってしまったのです。苦しい両股裂き。夜も昼も翻訳、翻訳、翻訳……。このとき呉基洪さんにわからないことばを教えてもらってどんなにおせわになったことか。いついっても、どんなにお客がたてこんでいてもいやな顔ひとつしない。
ある北朝鮮亡命者とは、金正日の前妻のお姉さんの成蕙琅(ソン・ヘラン)さん。1996年に北を脱出していまヨーロッパの某国に潜んでいます。打ちあわせのために2度大西洋を往復しました。妹を北に残しているために「これを書いたら妹にどんな迷惑がかかるか」「金正日が怒って何かしかけてくるのではないか」とおびえながらも、よく書いてくれたと思います。北朝鮮の50年を内側から描いた初めての個人史です。今年(2001年)2月ごろには文春から上下2巻で出る予定です。
ようやくすべての作業の完了した12月13日、翻訳関連の調べ物で国会図書館に行ったついでに久しぶりにワシントン市内に出ました。クリスマスの飾りつけや豆電球がきらめいています。図書館から歩いて十分の日本の東京駅にあたるユニオン・ステーション。そのコンコースのまん中にあるオープンドアのバーでとりあえずビールを一杯。
「ハイネケン」というと「ない」。
「じゃあ、ピルズナ(チェコのビール)」
これもない。どこのスーパーにも売ってるのに。
「アメリカのビールしか置いてないんだ」
まずいバドワイザーか。カウンターのとまり木の隣の白人の男が
「ローリング・ロックがいいよ」
このへん、日本人からみたらおせっかいということになるのでしょうが、私は大阪育ち。大阪人のような心安さを感じます。
「じゃあ ローリング・ロックだ」
うまいとはいえないが、バドよりはまし。飲みおえて勘定をすませて「うまかったよ」と隣の男の肩をたたくと上機嫌の笑顔。
アメリカの古き良き時代
駅のコンコースの一角には、クリスマスの飾りつけのひとつとしてミニチュアの汽車がことしも設けられていました。およそ縦20メートル、横八メートルほどの広い舞台に雪におおわれた山の模型。ふもとの村、小さな駅、教会、民家、倉庫、トンネル、港などがありその間をおもちゃの汽車がコトコトと走っています。山峡の線路にはもうひとつの貨車が材木などを積んで。ゲレンデにはスキーヤーの姿。それも動いているのはなかなか手がこんでいます。
それを眺めながら親子づれや男や女、みんな幸せそうな笑顔。こんな姿を見るとよきアメリカの一面を感じます。戦後すぐから住んでいる韓国人のあるお年寄りの話では
「ベトナム戦争までのアメリカはほんとうによかった。人を疑うということを知らなかった」
私も多分そうだろうと思います。白人の女性が朝の散歩のときすれちがうとにっこり笑って声をかけていく。日本の感覚ではストーカーにつきまとわれるのではないかと。これもよき昔の名ごりなのでしょうか。
私が1950年代に見たアメリカ映画「ピクニック」。村の収穫祭を背景にキム・ノバクとウイリヤム・ホールデンの恋物語ですが、そこにもよき時代があふれていました。
私の放浪癖に火をつけたのは、あの映画ではなかっただろうかと、ふと思います。あの映画のあと東京に出て、60年安保にまきこまれ……。
ともあれ苦しい両股裂きはおわった! 心は軽い。いよいよ本来の仕事にうちこめる。この10年間のアメリカと北朝鮮の関係を徹底的に調べたい。何がどうなるのかわかりませんが、つき進むしかない。ロシアの古い詩が励ましてくれます。
彼方まで波の運びゆくは
ただたくましき魂の持主のみ
勇気をもて 友よ!
わが帆は嵐をはらみ
まっすぐに 強く
2000年12月17日 ワシントンにて 萩原 遼
<12・1東京講演会> 金 民柱 共同代表
金民柱共同代表を講師に、12月1日夜、「南北頂上会談への大いなる疑問 帰国事業と朝鮮総連の責任」と題する学習会を澁谷区勤労福祉会館で開いた。出席者は二十人ばかりだったが、金民柱さんならではの体験にもとづいた南北朝鮮と日本の現代史の貴重な話を聞くことできた。以下は講演内容の大幅な抜粋であることをお断りする。 (編集部)*一部、実名を伏せました
次の世代に託し
分裂朝鮮の真只中で少年期、青年期を送り、白髪の老人になり、いよいよこの地球から去っていくという年代になり、何かひと言、しゃべっていかなければだめだろうというのが最近の私の実感でございます。1950年の南北の朝鮮戦争によってどれ位の犠牲者が出ているか。なんと350万人以上の死傷者を出している。そればかりかその戦争と同時に、離散家族が少なくとも800万人以上いると言われています。これを我々は「1千万離散家族」と言っているわけです。この離散家族は、戦争のために生じた人たちなんです。
今日も南北では、第2次の離散家族のお互いの相手国訪問が行われています。今、ピョンヤンからソウルに来てますし、ソウルからはピョンヤンに行っています。行っているんだけれども、まずこの人たちから先に行ってもらわなくちゃだめじゃないかな、という人が殆どいない。
例えば北から来た人たち、第1次の場合は、かつて南で地下活動をやっていた人たち、南労党関係の仕事をやっていて、運良く生き長らえて今日に及んでいる人たち。つまり北に帰って成功した人たち。そういう人たちが全部ですよ。だから、これみよがしに、金浦空港に降りてからバッチはずしたという噂もあるんですけれども、みな金日成バッチをつけていた。ところが、南からピョンヤンに行った人たち、この人たちの名簿は、北でチェックをして、その肉身を会わせてもまず大丈夫な人。こういう人の名簿だけを返してくるわけですね。だから、こっちから行った人たちは皆、向こうの親たちは元気で、良い洋服をまとった人たちに会います。でも南側はそういうわけにはいきません。これはテレビを注意深く見てほしいなと思います。
ですからこの頂上会談そのものが茶番劇だと、私は公言して憚らない。つまり北朝鮮はこれまでどういうことをやってきたのか。それはもちろん南も、軍事独裁政権が何年間も続いた。しかし、それはさておき、北は何をしてきたのか。金日成が生きていた頃は、抗日武装闘争の英雄ですから、これをとやかく非難することはできない。本人がそう言っているし、満州の朝鮮族地域で運動したというのも事実です。ですから、それはそれなりに評価しなければいけないと思います。しかしその後、情勢が危うくなってくると彼はソ連にさっさっと逃げて行ってしまった。ソ連のある一領域で、彼はソ連軍の兵士として訓練し、活動しながら、第2次大戦が終結すると、ソ連軍に守られて平壌に帰ってくる。それであまたの民族主義者を蹴散らして、自分が民族の英雄である金日成なのだ、愛国者なのだというふれこみで今日の実権を握った。
何が離散家族を生み出したのか?
北朝鮮には北朝鮮労働党、南には南朝鮮労働党というのがありました。それ以前に、朝鮮共産党というのがあったのです。が、その指導者は南出身の朴憲永がその一人だった。そして、朴は共産党を解散して、南朝鮮労働党をつくるわけですけれども、北にも北朝鮮共産党分局というのがありましたけれども、これを解散して北朝鮮労働党に衣替えした。ところがこれが1949年に南北合党して一つになった。しかし、この合党は9月頃だったと思うのですけれども、どういうわけか、今、朝鮮労働党の創建記念日は10月10日になっています。これはいかさまで、本来は9月の何日でなきゃいかんと思うわけです。それは南朝鮮労働党と北朝鮮労働党が合併したものを抹殺しているわけなんです。北では、吸収合併したと受け取っているようです。
それで私の言いたいのはそのことよりも、南朝鮮労働党の幹部たちがこぞって、北に皆逃げて行くわけですけれども、その逃げていった人の8割以上を全部抹殺しているわけです。具体的な数字は把握できていませんが。帰って、朝鮮人民共和国の幹部になった人たちは100%除去されています。完全に葬り去りました。それで南朝鮮労働党の残りの2割程度が今度の離散家族で、堂々とええ格好して帰ってきているんですよ。
親族を強制収容所で失い
私の場合も弟2人、甥2人、それから遠い親戚家族総勢合わせて20人位が向こうに帰っていますが、そのうち弟と遠い親戚の叔父はみな強制収容所で死んでいる。その子息たちが日本にいる私を頼って手紙を寄こす。もう40年近くたって住所を3ヵ所変わっている。そうすると彼らはその3箇所全部に手紙を出している。そのうちの1通がやっと私の手元に届きました。日本の郵便局は丁寧だから、宛先に居住者なしということで送り返される。それでそこに別な封筒に入れて送り返す。そうして3度送られてきたわけです。そこには私の死んだ弟の子ども1人、それとおじきの子どもたち、その人たちにはもっと身近な叔父叔母が東京にいるんですが、そこの住所が分からないから、東京でいろいろやっている私のところに寄越す。私はその手紙をもって、そこへ行くでしょう。今はもう食べるものも、着るものも何もない。所帯道具はお茶わんと箸と、布団、敷布1枚しか無いという。おじさん古着でも何でもいいから送って助けて下さいという。これは離散家族ですよ。
私のまわり済州島出身で、4・3事件に関わって、つまり南労党出身で、南朝鮮労働党員であった人で、日本を通じて北に帰った人たちは根こそぎやられています。今、残っているのは在日する帰国者の家族が例えば商工人で、経済的にゆとりのある人たち、年間何百万のお金を北に送れる人たちだけでしょう。
〇・〇〇〇という人がいます。愛知県の県本部、京都、滋賀だったかな、それから奈良の委員長をやった人ですよ。本名は◇◇・◇◇◇というんですよ。これは済州島の4・3事件で島の幹部だったのが何時のまにか日本に逃げたんですよ。それで行方不明になっていたから、私たちは死んだものと思っていた。ところが結婚式の仲人さんをやっていた。そのときの私の驚きは言葉では言い表せない。それともう1人、済州島党委員会の補給部長をやっていた△△・△△△△という男です。この人は平壌に生存しているという。その人も大阪にお婿さんがいて、ヘップサンダルかなんかで結構お金をためて年間何がしか送っているらしい。
この間、平壌に行ってきた私の同郷人に聞いたら、「ああ彼、ベンツに乗ってホテルに現われとったよ」と言う。この2人は全く許せません。私が当時、4・3事件に加担したのは数えで17歳、満では15、6歳でした。そういう何も分からないろくに勉強もできていない若い連中を集めて山で犠牲にさせて、手前は日本に逃げてきてのほほんと総連の幹部をつとめて、北朝鮮に帰った。断固許せません、こういうのは。そういうのがいながら、南から日本を通じて北に帰った人たちは8割以上が犠牲になっているんです。(拍手)
質疑応答から
質 問:最近、帰国者が日本に来れるようになったといいますが、それはどうしてなのですか。
金民柱:朝鮮総連でもずっと長期にわたって、自由往来の運動はやっているんです。ただし、日本に北から来れる人たちは、だれでも良いというわけじゃありません。よほど信認のあつい人でなくては来れません。これはしゃべって良いかどうか分かりませんが、実は私は、生きている弟の保護監視をやっているあちらの官憲の訪問をこの日本で受けているんですよ。なぜなら、ビザの条件というのはだいたい行く先は決まっているんですよ。例えば東京都に行くというと、東京都以外に移動するには警察や入管の許可がないとだめなんですよ、しかしこの2人は堂々と高速道路を通って私の家にやってきてました。96年のことですよ。そして、言ったことは、開口一番、「あんたは北では有名だよ、金正日将軍は金民柱の過去の闘争経歴を見て、こんな珍しい人がいると、ものすごい評価をしている。そんな人の兄弟が北に来ている。だからあなたも言いたいことはあるだろうけれども、祖国は非常に苦しい時機にさしかかっている。だから金さん少しの間だけ静かにしていてください」と言う。相手も紳士でしたよ。私の店に来たら、どこか静かに話せる場所はありませんか、と言う。最初は、朝鮮総連の田舎から出て来た人か、と思った。総連も日本語の下手な変なのを雇うようになったのか、と思った位です。それで2階の私の小さな部屋に連れて行きました。おもむろに身分証明書と弟から託された手紙を私に見せました。この手紙をまず読んでくださいと言う。読んだら、弟からは「お世話になっている人だからよろしく頼む」となっていた。その時は「ぎく」として、困ったなと思いました。今まではあなたにまちがった評価をしていたという。労働党にあった、あなたの資料が全部出てきた、という。しかたがないので相手の要求通りして、お引き取りねがった。
しばらくして、仕事上の上司から連絡があって、「北から送られてきたらしいお前の資料が30センチほど朝鮮総連中央にあった。弟さんが死んだのはしょうがないじゃないか、しばらくは静かにしよう。自分が保証するから、1回平壌に行こう」という。ですからかなりの人が監視されていると思います。電話はいろいろあって、すぐ境港まで来てくれませんか、という。すぐ飛行機で来てくれませんか、という。私は行きませんでしたが。今年に入って、ともかく10数人が、日本の家族を訪問しに来ています。それまでは日本の裕福な人の子弟。どういうわけかあちらに金持ちの一人息子とかいっぱい行っているんですよ。
例えば茨木の水戸観光の李サンケイという人がいます。日本の雑誌にも出ましたが。北朝鮮出身で日本への特別在留許可第1号が彼らしいですね。もう1人は、公にできない人ですが、その先生もどういうわけか息子1人しかいなかったのに北に帰えした。その息子は金日成大学を出ていた。何年か前に2千万円、懐にしのばせて北に行って、息子に預けといたら、帰りしな息子が「アボジこのお金、置いてきな」とそのお金を返してくれなかったというんです。そういう人の子弟はどんどん来れます。韓徳銖(ハン・ドクス)議長の子弟、娘1人か2人に男の子がいるんですが、病院でも、娘が看病をしているらしいですよ。日本政府はそれを認めているんだもの。しかし、正式には日本政府は往来を認めていません。しかし、ともかく試験的に10数人日本に来ています。結構、大阪の人が多いようです。(略)
今日はありがとうございました。まさに今、金大中さんと金正日がやろうとしていることは、わが朝鮮の歴史を7世紀の三国統一時代以前に逆戻りさせる働きしかないと私は思います。つまりペリー報告の話のように北朝鮮の体制を認めたまま、戦争しないで仲良くしていこうというだけです。せっかく新羅が7世紀に三国統一したのに、ここへ来て金大中さんがまた二分して固定化しようというのは断固許せません。
<11・25関西学習会>午後2時~5時 大阪経済大学 吉林の新聞記者が見聞きした北朝鮮と脱出者の現在 講師 延 日さん
講演は脱出者を中国の朝鮮族はどう見ているかということが聞けて興味深かった。延日さんのものの言い方から中国では外交政策というものは北京でのみ策定され、一般人の気持ちが中国の政策に反映されるのではないという壁に突き当たるということがわかった。肝心の韓国政府が北からの難民を引き受ける決意がないのだから、当面脱出者の人権問題の進展は難しいと思わざるを得ない。
延日さんは脱北者の問題を政治問題としてはとらえていない。現在不法滞在取り締まりが強化され多数の人が北に送り返されているのだが、延日さんは脱北者が治安上の問題になっているとは思わないとのことだった。脱北者関係のニュースが報道されることもないようだ。一方で脱北者は農家に雇われるなどの形で珍しい存在ではなくなっているのである。日本にも不法滞在労働者の問題があるが政治的、人道的問題だと意識している人は少ないことと同じかもしれない。日本ではそれなりに社会問題として扱われはするが。
中国に脱出している人の数について会場から「金を稼いで帰る人もおり、実数はそれほど多くないのではないか?援助を求めている人も多くはないだろう」と問いがあったが、確かな数字のあろうはずもなく、職を求めての越境と政治的迫害からの脱出を明確に分けることもできない。脱北者問題は当地でも見えにくい問題なのだろう?また根本的には北の体制の問題であって脱北者が帰国して平安に暮らせることが最善なのである。
講演の後半は北での生活体験者を交えてのディスカッションとなったが聴講者も改めて北の体制の特異さを感じたことと思う。人々は無知ではないのだが有効に知恵を働かすことができず困窮に苦しむ悪夢のような社会なのである。
大量の餓死者が出て、今も多くの人々が飢餓に苦しんでいるのに北朝鮮をめぐる国際政治はそれを無視して半島の安定固定化を最優先にしている。日韓ともに安定第一を希求するのは当然のことではあるが同時に北朝鮮の底辺で苦しんでいる人々のことを忘れてはならないだろう。
(山口修:関西支部)
<東海支部 学習会&忘年会&慰労会>国境を越えて語りあう
12月2日、3日の両日(1泊2日)、東海支部主催で学習会を兼ね忘年会が行われました。
当日は寒い中、東海支部の会員はもちろん関西支部からもまた12月8日、ソウルで行われた「第2回北朝鮮人権・難民問題国際会議」への出席を控えて忙しいなか朴春仙さん、九州・福岡で「難民不認定処分取消請求」(北朝鮮難民認定)を求めて係争中の金龍華(キム・ヨンファ)さんをお招きして「北朝鮮の人権確立」を求め活動する方たち15名ほどが集いました。皆さんお忙しいなかおいでを頂き、日頃の活動の疲れを癒そうということから座談・雑談形式で酒宴を持ちました。
当日集まったのは、ごく親しい方たちということもあり、普段言えない事も自由に語ろうということで活発な意見交換が行なわれました。その中、金龍華さんは「帰国者の地位は低い。52あると言われるランクの35、もしくは40以下でどんなに優秀でも帰国者と言うだけで上にはあがれず、ひどい差別の中で生きている」と、いうことでした。
そして、北朝鮮での生活の中で、「何をするにもお金だ。お金さえあればなんでもできる」と語り、その為に社会安全部から鉄道省に移った、と言われました(袖の下が4倍になる)。そして、北朝鮮を脱出した後、奥さんは処刑されたということを後に別の脱北者から聞いたと述べられました。その話を伺ったとき、私は強い怒りと憤りを感じました。北の大地に一刻も早く人権の光がさすことが大切である事を痛感しました。
5時ごろまで皆で語り合い、場所を今夜の宿泊先であるロッジへ移し、温泉につかった後、東海支部資料調査委員の梅村さんを講師に「帰国事業」をテーマとした学習会をおこないました。人数も12名ほどで特に演台も置かず、車座となってその都度、質疑応答を行うという形式であったことから活発な議論がなされ、「帰国事業」がどのような経緯で行われるようになったのかなどその概要から学習をしました。
活気を帯び深夜におよんだ学習会と懇親会&慰労会は、脱北者の方たちの実体験を踏まえた証言と北朝鮮への自由往来が叶うべく「自由と民主化」の達成、その実現こそが最も大切であることを強調され続けたことが印象的でした。
ジャンボ:東海支部
今回の東海支部主催の「学習会&忘年会&慰労会」には多くの方達のご協力を頂いたことを記させて頂きます。
ジャンボWさん、朴春仙さん、福岡で金龍華さんの支援活動を行っております青柳さん、また学習会を段取りしていただいた梅村さん、関西よりお越し頂いた浅野さん、写真家のYさんほか多くの方々にお礼を申し上げます。
金 国雄
東海支部の学習会&忘年会に参加して 浅野 正光:関西支部
これほどまでに、事実の経過報告を聞いて緊張したことはかつてあっただろうか。12月2、3日、東海支部学習会&忘年会&慰労会に参加してのできごとでした。
金龍華さんらの「北」から脱出してから日本へたどり着くまでの話しである。岩をも貫く決死の思い、人の誠意、事の事実が国の壁を越えさせ、人間を動かしていったのです。
余計一層、「北」の体制の卑劣さに怒りがこみ上げてくる。だが、ともすれば聞けば聞くほど「北」の体制に暗澹たる思いに陥りがちだが、終始みんなで真実をわかちあい、元気にそんな思いを吹き飛ばすかのような実に楽しい学習会&忘年会&慰労会でした。
学習会の主なテーマ「帰国運動とは」が、膝詰め談判で時間切れになった感もありましたが、続ければ延々となったことでしょう。「体力」がともなわなかっただけです。
参加者の時間の許す限りの話し合いのなかで、また一段と認識を深くすることができました。いろいろな方にお会いすることができて、私自身が励まされました。今度、また会えることを楽しみにして、守る会の運動を一層発展させることを家族的・兄弟的雰囲気のなかで、たくましく決意を確かめあいました。
最後に2日間、会場などお世話をしていただきました関係者の皆さんに厚くお礼申し上げます。
<中四国支部設立案内>
謹んで新春のお慶びを申し上げます。
さて、昨年は韓国と北朝鮮との劇的な南北首脳会談で朝鮮半島統一が早期に実現されるのではと語られるようになってきました。そのような情勢の中、北朝鮮の人権問題がともすれば忘れ去られようとしています。しかし、現実には北朝鮮社会は以前と変わったところはなく、相変わらず人権蹂躙が蔓延しているようです。過去50年間、北朝鮮の為政者は、人民に過酷な抑圧と欺瞞を繰り返してきました。もしかすれば、昨年の南北首脳会談も金正日の新たなる欺瞞の始まりなのかもしれません。
私達は、あの南北首脳会談で北朝鮮社会の人権問題が解決できるとは認識せず、いままで以上に北朝鮮人民の人権と生命を守る運動が重要であると痛感しています。また、この人権運動は日本の大都市だけでなく、日本全国から、世界の果てまでも行き渡る必要があるとも考えます。
「守る会」ではすでに、東京本部を始め、関西支部、東海支部が活発な運動を展開していますが、今回私達は、「守る会」のさらなる発展を目指し中国・四国支部誕生に向け準備を進めております。
中国・四国支部結成式では、萩原遼共同代表の講演会も予定されています。また遠方よりご来訪の皆様には時間が許す限り松山観光のご案内もさせていただきます。正岡子規は、「はるや昔 十五万石の城下かな」と松山を詠いました。松山城は街の中央にある小高い丘の上に築城され、そののどかな風情は訪れた人々の心にしみ入ります。また道後温泉は日本書紀や万葉集、風土記にも記載された日本最古の湯として誉れ高く、皆様のご参加を是非心待ちにしております。
中国・四国支部結成式
日 時:2001年3月25日(日)
時 間:午前10時~午後2時
場 所:松山市民会館(松山市堀之内 tel:089-931-8181
日 程:
① 記念講演
萩原 遼 共同代表(大宅壮一ノンフィクション賞受賞作家)
② 中国・四国支部結成式
前夜祭・松山観光
日 時:2001年3月24日(土)
時 間:午前10時時~午後4時
(午前10時以後でも到着次第参加可)
場 所:松山城、道後温泉など
懇 親 会
時 間:午後6時~ 場 所:道後近辺
*松山観光、前夜祭(懇親会)、中国・四国支部結成式にご参加(宿泊先手配も含む)の方は次までご連絡下さい。連絡先:福本(tel:0893-44-3163)、もしくは松浦(tel:0893-44-2468)。
設立準備委員 福本正樹・池田正彦・松浦照雄
「この人に聞く」 聞き手・金 国雄 相原 悦子 (仙台市在住) 響け ″Saluton ″ピョンヤンの空のもとに
思い返せば、朝鮮との出会いはもう十年以上も前、朝鮮語という言葉からでした。その当時、働くでもなし学ぶでもなしで家にいた私は、週一回くらいでもいいから何か規則的に外に出るようなことをしなければと思い、新聞広告に出ていた「朝鮮語教室」という講座に何の考えもなく、朝鮮とか韓国とかの区別もろくに知らずして通い出したのがはじまりでした。
その教室で「ア、ヤ、オ、ヨ」などと文字の読み方、書き方をはじめて私に手とり足とりして教えてくださったのが、その時、東北朝鮮学校で先生をしているというまだ若い方でした。
そのように最初は”朝鮮語”という方からはじまったためかどうかはわかりませんが、韓国語教室の仲間たちからは「相原さんはなんだか北朝鮮というイメージがあるわね」などといわれたりして、私も私で喧騒や人混みが苦手な方ですから、あの幾何学的に整然としているピョンヤンの街並の写真を見たりしては、おお!とただの無知ゆえにプラスのイメージの印象を受けたりしたものでした。
その後、ちょっとしたきっかけで、エスペラントをはじめました。そして、「北朝鮮にもエスペランチストがいたという情報があるが現在のところはわかってはいない」ということを何かのカタログでみかけたことが、なぜかずっと心のどこかにひっかかり続けていた時、何気なくみつけた古い『ラ・レブーオ・オリエンタ』(日本エスペラント学会の機関誌)の記事が、私のそのくすぶり続けていた心に火をつけたのでした。そしてまさかその火が消えないもの、消してはいけないものになるとは思いもせず、現在にいたっています。
―― この人たちはその後どうなったのだろう今どうしているのだろう ――
そんな思いから北朝鮮のことの本を何冊か手にし、この「守る会」のことを知りました。きっと、この時のエスペランチストたちはその後の体制の中で「反体制分子」の烙印を押され、いわゆる収容所のようなところへ入れられたのにちがいない、私はそう思います。そうしてこの一九六〇年以降だけでなく、それ以前からも北朝鮮の地においてエスペランチストたちは迫害を受けていたのだと私に確信させたのが、北朝鮮におけるエスペラント関係情報の中にあった洪亨義(ホン・ヘンイ:一九一一~一九六八)という北朝鮮エスペランチストの「全朝鮮のすべての刑務所はエスペラントの学校になった」ということばです。このことばとめぐりあった時、ああ私の目指すところはここだと、とうとうわかったような気がしたのです。
―― 朝鮮語と朝鮮の人々 ――
これほどまでに美しい響きをもつ言語を母語としている人たちなら、心の奥底にはきっと美しいものをもっている人たちだ、ということを、どうか最後まで私に信じさせてください。そしてお願いします。ピョンヤンの空のもとで ″Saluton !(サルートン! エスペラントで「こんにちは」をはじめ、すべての挨拶のもととなっていることば) ″の挨拶が共にかわせる日が一日も早くきますようにと。
金正日主導下の南北首脳会談に幻想はもてない 朴 龍鎬(パク・ヨンホ)
神奈川県下の元朝鮮総連分会長が、最近子供にあうため祖国訪問団の一員として参加し、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)へ行ってきた。そのとき、現在進められている南北首脳会談のことについていろいろ話したら、息子は「アボジ、そんな話をしないでほしい。みんなは、そんなに詳しいことは知らないのだから」といわれ驚いて仕舞ったというのである。
北朝鮮で配れない総連の新聞
「しかし『朝鮮新報』(週3回、日本で発行されている朝鮮語と日本語による朝鮮総連の機関紙)や日本の新聞に出ていることではないか」と言ったら、「『朝鮮新報』はここでは見られないんだよ」と言われ、また驚いたというのである。筆者が確かめてみると『朝鮮新報』は、相当前から北朝鮮では自由にみられない新聞になっているということだった。
そう言われて筆者は『朝鮮新報』(チョソンシンボ)を注意深くみた。すると朝鮮新報社の記者(複数)が平壌に駐在していて、その記者が取材した記事には必ず記者名が入っていることがわかった。ということは、在日同胞に知らせてもよい「重要な記事」は『朝鮮新報』記者が、「自由」に「取材」して送っているということだ。だから必ずクレジットを見ないと、それが『朝鮮中央通信』電か、本国の記者が書いたものか判別できないということである。
ということは、北朝鮮では、本国同胞の下部末端にまで南北首脳会談の詳細を知らしていないということである。
汎民連は幽霊団体?
このことと関連してもう1つ、汎民連(祖国統一汎民族連合)という団体の10周年記念集会が11月18日に行われたという話である。汎民連の結成は1990年11月20日で、当時のことは『月刊朝鮮資料』(朝鮮問題研究所発行。諸事情により本年1月号より同誌発行は中止)の1991年2月号に詳しい。このことは「汎民連」は北朝鮮主導のもとに結成された組織であることを証明している。11月18日に開かれたという臨時共同議長団会議が北側、南側、海外(日本、米国など)に「ファックスで連絡して行われた」といって、開催場所を明かしていない。これも首をかしげたくなることであろう。このような「不思議な団体」で採択したという「統一運動にこぞって立ち上がろう、海内外7千万同胞に送るアピール(要旨)」には「当面の課題は民族の団結を妨害するため、6・15共同宣言(金大中と金正日によるもの)に逆行するあらゆる障害物を除去しなければならない」と強調していることだ。同20日には平壌で北側本部中央委員会総会と報告会が開かれている。重複するので省略するが、『朝鮮新報』(11月27日付)の社説「汎民連結成10周年、統一運動に大きく寄与を」には要旨が次のように書かれている。
「歴史的な6・15共同宣言の発表は汎民連闘争の正当性を証明している。臨時共同議長団会議では総力をあげて闘争することを訴えるアピールを採択した。現在南朝鮮の既得権勢力や保守勢力のなかには6・15共同宣言の意義を矮小化し根拠なく誹謗中傷する動きがある。この反民族、反統一策動を徹底的に反対排撃しなければならない」(強調は筆者)
これらから判るように、現在進められている南北首脳会談も、北朝鮮の金正日主導下に進められているということだ。南北首脳会談の推移に幻想をいだく理由が全くないということである。
南北首脳会談が、金正日体制の現状維持の保障と戦争防止策をひきかえに実現したものであることは三尺童子にも自明のことだ。この点で両者の利害が一致したのである。しかし事態の発展は、金正日の思惑通りに進む保障は何ひとつないことを示している。
朝鮮戦争の責任不問は不当
いま9万3千余人にのぼる帰国同胞のことを棚上げにして南北離散家族の再会問題でソウル、平壌間の往復が2回実現している。しかしこの問題で大事なのは6・25動乱(朝鮮戦争)問題が不問に付されていることだ。
こんにち「北が南侵した」説に反対する人はいないが、このことがわかるまでに40年の歳月がかかったという。金大中、金正日はこの問題を不問に付して南北首脳会談を実現させているが、どの研究者も一致して指摘しているのは、「統一途上には必ず朝鮮戦争の責任問題が問われるだろう」と断言していることだ。1千万離散家族発生の根源を問わないで、頬かむりして過ごせるものではない。朝鮮戦争の責任問題は、ゴルバチョフとレーガンが呵呵大笑した写真をみた時の驚きやニクソンの中国訪問実現、クリントンのベトナム訪問、そして今回の金正日の名代・趙明禄の訪米とオルブライトの訪朝問題と同一線上に論じられないことを肝に銘ずべきであろう。金大中も金正日も。
(会員.元総連中央幹部)
読者の広場
読者・会員の声を「かるめぎ」に反映させていくため「読者の広場」ページをつくりました。ご意見、ご要望など気軽に投稿して下さい。氏名は、ご要望により伏せさせていただきます。(編集部)
なぜ私が「守る会」に? 藤原幸久(守る会会員)
まずはじめに、自己紹介を。藤原幸久 年齢37歳 職業は会社員、妻1人、子1人と暮らしています。政治には関心はあるけれど興味はなし、選挙へは行くけれど選挙に出ようとは思わないという、典型的なノンポリで、大学時代も新左翼の活動家を横目で見ながら「あんなことをやってなにになるんだろう」と思っていた、私たちの年代としてはごくごく普通の男性です。ただ、フリー生活が長かったため、自分のことは自分で決めたいという意識が若干強いかもしれません。
こんな私が、なぜ「守る会」に入会しようと思ったのかを書き綴ってみたいと思います。「守る会」の中では得意な例かもしれません。しかし、私のように突然「守る会」に入会する可能性を持っている人は、まだまだ少なくないはずです。
その一例としてお読みいただければ幸いです。
Koreaとの出会い
「守る会」との出会いの前に、私と朝鮮文化との出会いがありました。といっても研究とか、学術とは縁遠い話です。
姉の持っていた1冊の文庫本が、その発端です。著者は立原正秋。一般には男女の間の話を書く直木賞作家で、食べ物にうるさく喧嘩に強い、日本の文化や伝統を好み、枯山水に造詣が深く、高麗・李朝の焼き物を愛した文人であり、朝鮮人と日本人の間に生まれたと知られています(後に友人の高井有一氏の著書の中で、立原氏はテグで朝鮮人夫妻の間に生まれ、その後家族で来日した在日であったことが明らかにされています)。
たまたま手にした1冊の本で、私は立原文学に魅了されてしまいました。特にエッセイを読む中で、氏の人間的な魅力にとらわれるとともに、そこに描かれた高麗・李朝の焼き物につよく心を惹かれました。立原という人間をとらえて離さなかった高麗、李朝の魅力とは何だろう…、そう考えて東京・湯島の骨董品屋に足を運び、駒場東大前にある日本民芸館に通い、また当時のツアーミュージシャンという立場を利用しては大阪の東洋陶磁美術館に通って、名品を見続けました。
そこで見た磁器から立ち上るやわらかさ、気品ある親しみやすさ。名品でなくとも、李朝を手にしたいという思いはつのるばかり。でも李朝といえば高価なモノ、とても若輩の私が手にすることなど無理無理…。そう考えていた私の前に現れたのが、大きな私の手にぴったりのぐい飲みです(もちろん酒好きでもありました)。店の主人は「李朝は1年使ってみて味がわかる。1年経ってまだ気に入らなかったら元値以上で引き取るから、持っといで」といって、私の財布の中味をのぞき込み(大して入っていなかったのですが)買える値段を付けてくれました。
あこがれの李朝を手に入れると、今度はその出自が気になりだしました。300年ほど前、朝鮮半島の陶工が手がけたものが私の手の中にある…、そんなロマンティックな気分をさらに高めるために、今度は神田の古書店で古い陶磁器の本を探す毎日。李朝という文字が目に入れば、買える限り購入する。それが韓国という文字に変化するまで、そう長い月日はかかりませんでした。一度、韓国を見てみたい。李朝を生んだ文化が今どうなっているのか知りたい。できれば窯跡にもいってみたい…。こうして一人の韓国フリークができあがったのです。
韓国から朝鮮半島、そして北へ
目に入る限りの韓国情報を集め、韓国観光公社へ日参し、新聞の韓国という文字は漏らさず読み、ウォンのレートを気にする…、行く予定も、行ったこともないのに、一見韓国通の耳年増が出来上がるのに、それほど日数はかかりませんでした。
こうなると避けて通れないのが「民防」「38度線」といった韓国と北朝鮮との接点です。また、高麗・李朝は韓国だけではなく北朝鮮にも存在していたわけですから、北朝鮮の情報にも興味を持つようになりました。
文庫本を中心に、北の現状に関する本を読み始めたのですが、数冊の本を読んでいくうちに、私は北朝鮮問題から目を離すことができなくなりました。北の体制を支えている社会・政治、地上の楽園を信じて帰国した人たちの運命、そして強制収容所の存在…。私が知っていたテレビに映る北朝鮮は、平壌の整然とした光景であり、金日成の笑顔と拍手であり、マスゲームの姿でしたが、その背景にある真実の断片に触れただけで、北の問題に吸い込まれていきました。
萩原遼さんの「朝鮮戦争」をはじめ、「帰国船」「北朝鮮脱出」など、北朝鮮に関係する文庫本を読み漁り、そのたびに書かれている北の状況に驚き、体制を知り、主体思想とはなにかをおぼろげに知っていく中で、隣国でありながら最も遠い国の人々のことが気になり、知ったからには何らかのアクションをしなければならないと思うようになりました。もちろん一人で何かができると考えたわけではなく、団体に所属することで自分自身の意識を高め、また学習し、同じ思いを持つ方々と連帯しようと考えたのです。
そんなときに、知ったのが「守る会」の存在です。安明哲さんの著書「北朝鮮絶望収容所」の最後に「守る会」についての記載があり、その中の「1人が守る会に加入することで1人の命が救われる」という文章が私に勇気を与えてくれました。
参加することそのものが何かに役立つなら
私が参加することで、北の誰かの命が救われるのなら、何の活動もできないかもしれないが参加すべきではないかと、早速電話で連絡をしました。しかし、気になったのは政治的な姿勢の存在です。特定の政党や政治団体、組織に荷担することを嫌ってきた私にとっては、南北朝鮮、そして朝鮮総連や民団、さらに日本の政治団体が母体となっている組織であるなら入会できないと考え、その部分を伺ってから正式に入会しようと決めました。
数日後、小川先生からお電話をいただきました。私が加入することが北の人々のためになるのであればぜひ入会したい、また政治的な色合いのある団体であれば入会の申し込みを撤回したい旨をお話ししたところ、お忙しい中にも関わらず30分にもわたってお話を聞いていただき、また「守る会」についてのご説明をして下さいました。お話ぶりからその人柄の誠実さ、そして北の体制への怒りが伝わってきて、私は即座に「守る会」への入会を決意しました。
幽霊会員を脱出
会費を払い込んで以来、活動の具体的な内容もよく知らず、幽霊会員だった私に、「守る会」は様々な形で参加の機会を与えてくれました。実際にどのような人がいるのか、どの程度の規模の会なのか、会員の方々と私との間には温度差があるのではないかといった疑問や不安は「かるめぎ」を読んでいくうちに少しずつ解消されていき、去る9月16日に行われた東京での集会に参加したのです。そこで出会ったのは、やわらかな、しかし強い意志を持つ方々でした。こうした方々により構成されている会の会員となったことを誇りに思うとともに、さらに一人でも多くの会員を増やし、1人でも多くの北の人を救えるようにしなければと、気持ちを新たにいたしました。
今後私と「守る会」がどのように関わっていくのかはわかりません。しかし、私たちは北の人々の人権と生命が危機にさらされていることを、多くの人に知っていただかなければなりません。マスコミの論調に踊らされることなく真実を見つめる目を持ちつづけるよう、これからも努力していくつもりでおります。みなさん、これからもよろしくお願いいたします。
金啓子氏著「たんぽぽ」を読んで 浅野 正光(関西支部)
「かるめぎ」36号で萩原遼氏が紹介されました「ことづけ」の著者、金啓子さんが『同人誌白鴉』(白鴉文学の会)第7号に「たんぽぽ」を11月に発表されました。
著者と私は、同年代の生まれでしかも同じ大阪市旭区の小学校に通っていました。萩原さんから紹介された時「ことづけ」のなかで「赤川」の文字を見た時はびっくりしました。それ以来のおつき合いである。
「たんぽぽ」のあらすじを書かなくてはなりませんが、この作品に関して、著者は抱負、意欲を「ことづけ」に次ぎ第2弾的に語っています。私は予備的な知識はあったものの、読んだ時には、リアルなタッチに緊張気味にアッと言う間に読み通しました。短編ではありますが、克明に帰国者の運命、なぜその様にいたったかを赤裸々にたどり、今実際におこなわれていることを書き、離ればなれになってしまった肉親の気持ちを切々と訴えています。そして、帰結的に「ある行動」で持って為政者を断罪しているのではないかと私は感じました。
小説のなかから2節をご紹介します。みなさんも”緊張気味にアッと言う間に”読み通していただきたい。
「折しも帰国事業は盛んであった。儒教の精神を疑うことの無い顕成は、まず、自分が先に帰国して生活の基盤を作っておくと、追って、家族が来ると信じて疑わなかった。捨ててきた済州島の故郷は、軍事政権下で今でも貧しいという。同じ貧しさなら、新国家を建国した共和国で国家建設に参加しようという風潮を信じていた。」(白鴉7号71P)
「夢の中で純子は巫女の舞を踊っていた。(中略)長い白い手巾を上下に動かした。すると、闇の中から顕成が現れた。おや? 顕成は今、棺の中ではなかったか? 五色の花飾りの房に覆われて喪輿に担がれるのではなかったか? 純子が首を傾けると、今度は墓の中の遺骨が起きあがった。アボジーと呼ぼうとしたが、声がでない。骸骨の方へ手を伸ばすと骸骨はスーッと消えた。目が覚めた純子の頬につるりと一筋の涙が流れた。」(白鴉7号86P)
作品のコピーと入力データはあります。関西支部までお問い合わせください。また、関西支部を中心にして金啓子さんを囲む集いを経営なさっている鶴橋「ぶあいそう」で開いて、みなさんとともに一層深めていくことを提案します。著者はすでに第3弾にアタックされています。
雑感詩 佐倉 洋 北朝鮮帰国者の人権に想う二一世紀北東アジアの新秩序を夢見て
恐怖の鎧帷子の結び目は
一つ一つ解かれていると思われたが
それは幻想にすぎなかったのだ
南北両首脳の握手と笑顔は
偽物に過ぎなかったのか
北の首脳は羊の衣を着た狼に過ぎないのか
この大いなる欺瞞
この大いなる偽善
かつて朝鮮戦争では
核の使用もマッカーサーによって
提案されていたという
その意味では北朝鮮の恐怖の底流には
核の恐怖もあったと言える
平壌の首都防衛隊は沖縄の核ミサイルにも備えていたという
そう元防衛隊員は証言した
一方、いわゆる軟着陸論でさえ元はと言えば
自身の恐怖に根ざしていたと言える
大量の難民渡航というありもしない恐怖に
かつて武装難民が日本海を渡航して
襲来することがまことしやかに囁かれたのだ
テポドン事件があった
不審船事件があった
それがたくみにTMD構想や日米ガイドラインに利用された
それも恐怖に根ざしている
二〇〇〇年六月の南北首脳会談は
そのような朝鮮戦争に端を発する恐怖から
人びとを解放してくれるはずだった
金大中氏の太陽政策は
そのような恐怖を融解することを目ざすことから
名付けられたのではなかったか
ところがいっこうに軍縮が始まらない
それどころか軍拡さえ行われているという
いつまで北朝鮮の人びとは
外敵と強制収容所という内部の恐怖におびえて
暮らさなければならないのか
いつまで沖縄の人びとは基地をかかえこまねばねらないのか
太陽政策、結構だろう
それが北の凍土を融かすなら
韓国や日本の拉致がなくなるなら
沖縄の基地がなくなるなら
しかし、どうも上からの
太陽政策ではダメなようだ
北朝鮮のような地下帝国には
それは通用しないようだ
ならばむしろ下からの
地熱政策の方が有効だろう
草の根から氷を融かして行かねばならない
日本は一千億円以上を費やして
五〇万トンのコメ支援をするというが
効果はどこにあったのか
確かにクリントンが記者会見で口にして
オルブライトも会談で拉致問題にふれたという
いまや拉致問題は世界的に知れた
そのために有効に作用する 言わば「賄賂」となったのだ
しかし、何ゆえ英国のブレア首相に
話したことを打ち明ける必要があったのか
その結果、女の子の命が犠牲にされたかもしれないのだ
政府の無策の言い訳のために
被拉致者が犠牲になっても良いのだろうか
またコメ支援をするなら、政府ではなく民間同士ですべきなのだ
たとえ少量でも
多くの民間が申し出れば
絶対量は多くなる
日朝交渉といっても
日本側の情報は筒抜けになっているに違いない
東京には事実上の北朝鮮の出先機関(朝鮮総連本部)がある
平壌には日本の出先機関はない
この総連は日本の政治家やマスコミ
知識人との情報ネットワークを持ち
それこそ工作をしているというじゃないか
日本にはこれに比較できる情報はないだろう
そうであれば日本には正攻法をとる
以外にないということかもしれないが
北朝鮮は戦争責任と戦後補償を要求する
しかし補償は原爆被害者や強制連行の被害者に
直接わたるべきなのだ
戦争責任の正しい取り方は
収容所の人たちの解放に
脱北者の自由と保護に
離散家族の再会に
北への帰国者の自由往来の実現に
手をかすことだろう
いつになったら北朝鮮と韓国
そして日本の市民同士が忌憚なく
自由に会話できるのだろう
いつになったら離散家族全員が再会できるのだろう
いつになったら日本人妻だけでなく
北に帰った帰国者全員が
自由に往来できるようになるのだろう
いつになったら脱北者が安全に故郷に帰還できるのだろう
いつになったら収容所の無実の人びとが解放されるのだろう
このまま歴史の神が
だまって見過ごすことがあるのだろうか
これほどに自由の日が遠いということは
何か遠大な計画が神にあるのだろうか
北東アジアのすばらしい将来が
準備されているに違いない、と希望したい
北の民衆の苦しみはそのためなのだろうか
そうでなければ彼らの苦しみは全く無駄なものになってしまう
北朝鮮だけでなく
北東アジアの国々は全て軍縮すべきだろう
むしろ世界中の軍隊が解体すべきなのだ
そして新たに創設される
国連常備警察(ボランティア軍)に吸収されたらいい
そうなれば沖縄基地もいらないし
もちろん北朝鮮収容所も解放されるだろう
それは北東アジアに
新しい秩序が確立される時だ
北朝鮮の人びとの苦しみ
沖縄の人びとのさまざまな犠牲が
すみやかに終り
そのような未来への準備に生かされねばならない
それにしてもあれほど韓国の人権を訴えていた人たちは
なぜ今、沈黙しているのだろう
沖縄基地の反対を叫ぶ人たちには
北朝鮮の帰国者や収容所や民衆の苦しみが
見えないのだろうか 声が聞こえないのだろうか
沖縄基地のない日本
強制収容所のない北朝鮮
さらに言えば労働改造所のない中国
そのような北東アジアの新秩序の
一日も早い実現を夢見る
そのとき本当に平和な人びとが安心できる
北東アジアとなるのだ
詩一篇 小野美智子
『叫び』
“新潟から九万三千人余を乗せ 帰国船は北の清津へ
流浪の果てに夢を抱いて人々が行ったあの日あの時
二度と戻れぬなどと誰が思っただろう”
北風が東海(日本海)を渡って吹き付けてくる
冷たく頬を斬る風
何かが聞こえた
耳を澄ませて聞いてみる……
それは叫び声のようだ
とぎれ とぎれに
しかし鋭く突き刺さるような絶叫 海鳴りと共に聞こえる
一人ではない 大勢の叫ぶ声 声 声
陽射しのとどかぬ谷間 凍てつく大地から
それは 海を越えて 聞こえてくるのか
こころを澄ませて聞いてみる
それは幾万の叫びだろうか
海の彼方 地を叩き慟哭するハルモニの姿が浮かんでは消える
幻影のごとく……
ふたたび眼を凝らす
そこには荒れ狂うと涛と 鉛色の雲が低くたれ込めるだけ
錯覚だろうか…… いや聞こえてくる
たしかに叫んでいる! 彼らは叫んでいる!!
絶望の淵で悲しげな眼で訴えている
九万三千余は 今なお抑圧の中にいる
編集後記
◆ 松の内に『かるめぎ』をお届しようと一同がんばりました。執筆、編集、発送、その他の無数の仕事でご協力下さった方々に厚くお礼申し上げます。いまや朝鮮問題は世界の焦点のひとつ。中でも離散家族の再会はその焦点です。私たちの会の役割はますます大きくなってきたと思います。ことしもよろしくお願いいたします。なお金民柱共同代表の年頭のあいさつは、健康上の理由で執筆いただけませんでしたが、次号で金大中大統領にたいし、離散家族の心情を訴える手紙を書きますので、次号にそれを掲載し、年頭あいさつに代えたいとのことですのでご了承下さい。(ワシントンにて 萩原 遼)
◆ 今号も中身の濃い原稿がたくさん集まりました。徹夜の入力で疲れても、この中身を多くの方に読んでいただきたいと思ってがんばりました。人権のためにはどの政府にも堂々とものを言う守る会の姿勢を誇りに思います。「他国の人権問題に眼をとざす事は、おのずと自らの人権も失うということ」大切にしたい言葉です。(金 国雄)
◆ソウルの黄長燁氏の活動が制限され、さる9月に「守る会」の東京講演会であいさつした脱北者・キム・ヨンファ氏の日本国内への特別在留も、韓国での受け入れも拒否されたという。太陽政策は脱北者にとっては寒風となっているようだ。新年には、米国に共和党のブッシュ大統領の誕生で、朝鮮半島情勢も変わるかと期待される。が、米国の北朝鮮への敵対姿勢は、金正日政権の国内締め付けに格好の口実を与えることにもなる。そんなことで手づまり感は否めない。しかし、北朝鮮の民衆は愚かではないと思う。厳冬を生き抜いた人たちこそ春を祝う術を知っているにちがいないからだ。(佐倉 洋)
本の紹介 『北朝鮮大脱出 地獄からの生還』 OH!文庫・宮崎 俊輔・2000年10月10日
先般「OH!文庫」という新しい文庫が登場し、先鋭的な書き下ろし原稿を集めて面白く展開しています。
その中の一冊に、父親が在日1世、母親が日本人の帰国者が中国に脱出し、さらに日本に帰り着くまでを記した本がありました。興味を持って買ってみたのですが、オフィシャルのルートではこうして帰国できるはずもなく、中国当局および外務省の人道的なルール違反黙認により帰国したという内容でした。
もちろん北朝鮮での生活実感に基づく実情の報告などもあり、多くの北朝鮮本の中でも、日本人帰国者という複雑な立場からの記述が多く、大変興味深く読みました。
ノンフィクションだとするなら、守る会としても参考になる部分、また著者の語りを借りて訴えかけたい部分もあるのではと思い。(F)