※『朝鮮と日本に生きる――済州島から猪飼野へ (岩波新書)』より、「民族学校再建と韓鶴洙夫妻」の部分を追加。
※(経歴誤りのためタイトル訂正。1952年~東大阪朝鮮第三初級学校2代目校長、1955年~61年大阪朝鮮高級学校3代目校長、1965年~ 初代朝鮮総連大阪府本部教育部長)
新聞、書籍、ネット記事などで、初代大阪朝鮮高級学校校長 韓鶴洙先生に触れられている内容をまとめています。他にも資料・写真などお持ちの方は kalmegi@gmail.com までお知らせください。
朝鮮と日本に生きる――済州島から猪飼野へ (岩波新書)「民族学校再建と韓鶴洙夫妻」P258-262
民族学校再建と韓鶴洙夫妻
やはり夏は、この年もまた何かが突発する季節になりました。一九五〇年六月、三八度線を越えて侵攻してきた米帝国主義とその走狗たちを迎え撃って、「祖国解放戦争」の火ぶたは切って落とされたと、北朝鮮の金日成政府は高らかに開戦を宣布し(実際は北朝鮮からの南下が先んじての”朝鮮戦争”だったことが、のちのち学究者たちによって明かされてきていますが)、米ソ対立の激化が極東アジアの朝鮮で火を噴いたと、世界中が驚愕の衝撃に包まれました。
『朝鮮と日本に生きる――済州島から猪飼野へ (岩波新書)』P258-262
私はこの戦争の始まりを泉北(南大阪)へ向かう駅のコンコースでべた刷りの号外で知りました。正直言って興奮しました。これで南朝鮮の反共の殺戮者どもが一掃されると、恥ずかしいかぎりですが抑えがたい感動にすら駆られた私でした。生身が覚えている狂暴な”アカ狩り”の記憶が、一挙に憤激となって突き上がってきていたのです。私の文化サークル作りの活動は、いよいよもって熱を帯びていきました。日本の米軍基地からは連日、朝鮮半島の戦場へ向けジェット戦闘機が、爆撃機が間断なく飛び立って朝鮮の村落、山野を血で染めていましたが、あのすさまじい火力による破壊力、殺傷力は日本国内の米軍基地があっての猛威でした。
反戦平和が共通の願いであった日本の民主勢力の反基地運動と連動して、まだ正式には結成を見ていない「民戦」(在日朝鮮民主主義統一戦線)の組織活動も広範な在日同胞の民族心情を糾合して、うねりのように高まっていきました。全大阪的な集会や地域集会を盛り上げる文宣隊公演から、文化サークルの合同出演等の演し物を構成して演出するのは、私の専らの仕事ともなっていました。当時の在日朝鮮人運動の大勢は六〇年代初頭までも、北朝鮮の共和国を支持する同胞の方が圧倒的多数を占めていましたので、活動家たちは自負をもって北共和国の正当性を喧伝し、地域同胞だちからもまた厚い信頼を得ていました。苦難の故郷を見捨てて逃げを打ったことがうしろめたくてならない私には、格好の活躍の場がそこに開かれたような文化活動へののめりこみようでした。トラウマともなっている精神的負い目を、それこそ自ら取り払わんばかりに動き廻りました。
年が明けてすぐ「民戦」が正式に発足し、私には民族学校再建という新たな任務が与えられました。一九四八年一月に発せられた文部省通達で、六〇〇校からあった朝鮮連盟傘下の民族学校が強制的に閉鎖させられていたわけですが、その民族学校の復活を大阪市の中西地区(東大阪市と隣接する生野区の東はずれと、東住吉区東端の平野町、加美町一円)にあった「中西朝鮮小学校」の再開で、突破口を開くという重大な任務でした。
そのことで引き合わされたのが学校長の任に当たる、韓鶴洙というお方でした。大阪商科大学大阪市立大学の前身)の同窓会会長をしておられたという三十がらみの屈託のないお方でしたが、民衆活動家の気質を天分のように具えている稀なほどの教育者でした。その韓鶴洙氏も日本に渡ってきて間もない若奥さんの李明子さんと、閉鎖された御幸森朝鮮小学校の一室で住まわれていましたが、別称ミユキモリホテルとも呼ばれていたほど、食客がひきもきらずの寄り場ともなっていた仮住まいでした。定まった収入などもちろんない無類のお人好しの夫を立てて、明子さんはどのように家計を切り盛りしていたのだろうと、身につまされるように想い出します。それだけの謂れとつながりが、私と韓鶴洙一家との間にはあります。六〇年代末、北朝鮮の政府筋からの指名帰国(名指して帰国させられること)を受け入れた韓夫妻が帰国船に乗るため新潟へ向かうまで、ご夫妻は一年近くも私の家の二階に身を寄せていました。大阪朝鮮高校の校長から朝鮮総連大阪府本部の教育会長に転任させられていましたが、その役職からも追われて途方に暮れていたご夫妻でした。絶対召還に応じてはならないと私はあたうかぎりの反対をしましたが、韓先生はうなだれたまま「私は祖国を信じる」とつぶやいて旅立っていきました。多くは語れませんが、韓夫妻は北朝鮮労働党のある筋からの指令で「対南事業」に関わっていました。その指令元の党幹部が北朝鮮労働党内の権力抗争に敗れて、その系統の関係者のすべてが粛清されていったのです。祖国を信じて帰国した韓夫妻はそのまま強制収容所送りとなって悲惨な末路を遂げました。ひと足先に北へ帰っていた遺子二人の姉、弟も、昼ひなか路上から連れていかれたまま、行方知れずになってしまっています。無慈悲極まる北朝鮮の国家体制には、ただただ身が震えるばかりの私です。
一九五一年三月一日を期して、私は韓鶴洙校長に従って廃れたお寺のような中西朝鮮小学校に赴任しました。職員室の片すみに生徒机を並べて寝泊まりまで学校でするといった、漂泊の繰り返しのような活動でしたが本国で挫折した教師業への悔みもあって、仮寝の境遇であっても少しも苦にはなりませんでした。三年近くも閉めきっていた黴くさい各教室の清掃、片づけから、地域青年同盟の協力を得ての教具の補修、営繕。運動場の整備も必要でしたし、板塀も傾いていて更なる杭打ちも必要でした。ほこりまみれ汗まみれの毎日がひと月余りもつづきましたが、地域の保護者(になる予定)のお母さんたちからの、下着や古着の差し入れが殊の外身に沁みた学校再建の仕事始めでもありました。
韓鶴洙校長は私よりひと月も早くから地域の長老や有志の方々を尋ね歩いていて、三月末には早くも「中西朝鮮小学校再建準備委員会」を立ち上げていました。さすがに民戦組織が見立てただけのことはある、選ばれた民衆活動家の韓鶴洙先生でした。私も韓校長のお供をして「引入事業」(日本の学校で学んでいる、同胞生徒の引き入れ活動)といわれていた地域の保護者めぐりに精を出しもしましたが、決まって振る舞われるマッコリ、焼酎の攻勢にはほとほと音を上げていました。ところが韓校長ときたら呑むほどに談論風発の花を咲かせて、夜ともなればそれがお決まりの手順のように、十八番の「西瓜打令」まで太い喉声でひびかせては、保護者たちを虜にしていました。まさに清濁併せ呑む快男子の校長先生でした。
中西地区には日本の小学校が二校ありましたが、今では想像もつかないほど、日本の先生たちとの交流は密なものがありました。毎週土曜日の放課後は「日朝親善の日」になっていて、朝鮮の在校生の子どもらを中心に文化サークルによる歌唱指導から、朝鮮の昔話や紙芝居、在日朝鮮人の謂れなどをわかりやすく説明してあげるのです。それに日曜日の午後からは開校を控えた中西朝鮮小学校での日曜学校までが、親子同伴で開かれていました。このなごやかな賑わいは中西朝鮮小学校への愛着となって、地域ぐるみの活力ともなっていきました。
『北朝鮮脱出 上 (文春文庫)』P213-P217
夢にまで見た日
一九八七年の新年を迎えた。
『北朝鮮脱出 上 (文春文庫)』P213-P217
その年は新年早々からおかしな噂がとんだ。収容者の履歴調査をする「談話事業」が、帰国者村の人びとを対象に、いっそう活発化されるとのことであった。談話事業は直接面談にもとづくものであるため、変なことを口ばしったら、これまでの苦労がすべて水泡に帰す恐れがあった。したがって、人びとは談話事業に呼ばれると聞かされただけで、早くも肝を縮みあがらせるのだった。
「なぜわれわれ帰国者を対象にしているのだろう?」
「ひょっとして、今になって他の罪をおっかぶせようというのではないだろうな?」
人びとが噂をしていたある日。
とうとう祖母に呼出しがきた。祖母は心配そうな顔つきで、
「どうしてわざわざこんな年寄りを呼ぶのだろう?」
と言って行きしぶった。けれど、保衛員たちは祖母を強制的に連行したので、私も心配のあまり祖母について行った。しかし保衛員たちは、
「おまえは表で待っておれ」
と言い残し、祖母一人を面談室に呼び入れたのだった。
その夜、私たちは全員で祖母の話を聞いた。
「あ、そうだ。日本に現在いる親族は誰々かと訊かれたよ。一人残らず言えと。それでみんなの名前を話したら、こんどは親族が日本でしている事業は何だと訊くんだよ。生まれ故郷はどこで、いつ日本に渡ったのかなど、家族の履歴を一つ一つについて……。私がなぜそんなことまで訊くのかと言ったら、これからもきちんと暮らしなさい、と言われた。何がなんだかさ?ぱりわからないよ」
そう言って祖母は心配そうな表情を浮かべた。
「あるいは、よいことがあるのかもしれませんよ」
父が言った。
「そうだろうか。今まで騙され続けてきたから、何一つ信じることができないよ」
「もしよい話だとすると何だろうか? まさか……まさか、出所させるということではないだろうね?」
崔という保衛員がいた。彼は収容所で最古参の保衛員で、叔父が食料工場で働いているとき、叔父に酒をくすねさせて飲んだ張本人であった。ところが、叔父はその事実を最後まで暴露しなかったので、叔父をとても信任していた。叔父がその崔保衛員に会って尋ねたところ、
「そうだな、よくはわからないが、たぶんいいことがあるだろう」
と答えたとのことである。
出所! そんなことが私たちにも起こるのであろうか?
ふと私は、前に出所した李竜模のことを思い出した。
〈祖父の罪名が晴れたということなのだろうか……〉
希望と不安が交錯した。
そうこうしているうち、二月十六日の金正日の誕生日が近づいた。誕生日当日になると、管理所の人びとは服装を整え、朝八時に一班前の会館に集合した。やがて管理所長や中央機関から局長も来た。彼らはいつものように、金正日の誕生日の祝賀とその偉大な業績をほめたたえた。通例的な行事がすべて終わり、中央機関の局長が囗を開いた。
「今から親愛なる指導者金正日同志の配慮で、革命化を終え、新しい政治的生命を受けることになった諸君の名を発表する」
会館にぎっしり集まった人びとの息づかいが、急にとまったように静かになった。
「韓鶴洙(元・大阪教育会会長)の家族四名、宋玉先の家族四名、洪忠一ら兄弟五名、玄竜の家族、朴太鐘の家族、徐日善の家族、以上」
私は自分の耳を疑った。二番目に読んだ名前は祖母の名前だったようだが、もしかして聞き間違えたのではないか……? ふり向いて叔父を見ると、その目は涙に濡れていた。私はそおっと叔父の手を握った。叔父は応えるように力強く私の手を握り返した。間違いではなかった。
事実だったのだ。それでもなかなか疑惑は晴れなかった。
〈夢ではないだろうな?〉
私はほっぺたをつねってみた。
痛かった!
〈ああ、夢ではないんだ……〉
名前を呼び終わると、あちこちで痛哭する声が起こった。名前を呼ばれなかった僑胞の家族たちであった。名簿からはずれた人たちは、私たちにしがみついて泣きわめいた。ある人は祖母に抱きついて、体を震わせたりした。そのときまで私は、何がどうなっているのかまるで実感がわかなかった。
その夜。向き合った私たちの家族は、言葉を忘れたかのようにみんな口をつぐんだ。私たちの家族はさいわいにも、この死の収容所で一人も死人を出さなかった。
祖母は思うように歩けなくなり、父は四十代半ばなのに七十代の老人のようになってしまったが、それでも私たちはとうとう生きのびたのだった。それは疑いなく奇蹟であった。
今やこの収容所では、祖母のような老人は彼女一人だけであった。祖母は、
「私たちが出所するというのは間違いないんだね? また変更があるのじゃないかね」
と何度も念をおした。
翌々日。
家族全員が呼ばれた。叔父は祖母を背負い、私は父を支えて保衛員の面談室に行った。中央から来たらしい、いかつい保衛員が家族全員の名前と年齢を尋ねた。そして父に向かい、
「君の父、姜泰休をどう考えているのか?」
と訊いた。すると横にいた祖母が、
「うちのひとが何の罪を犯したのかわかりませんが、私が知るかぎり、金日成元帥様と党に忠誠をつくした人です」
と言った。するとその中央から来た保衛員は目尻をつりあげた。
「そんなことをむやみに言うものではない。それではわが党が、何の罪もない者を管理所へ入れたというのか? 姜泰休は偉大な首領様に背く大罪を犯したのだ。だからここから出ても、姜泰休を探してはならない。万一探し出そうなどとしたならば、もう一度管理所へ入れるぞ」
私たちはみんな蚊のなくような声で「はい」と答えた。
話を終えた保衛員は文書を引き出した。そして祖母から順番に、五本指の指紋を取り終わると彼は、
「君がこの内容を声を出して読みなさい」
と言って、叔父の前に文書を突き出した。その内容は、「出所後、ここ耀徳管理所に関することをいっさい漏らしてはならず。もし漏らしたときには再度収容する」というものであった。
すべての手続きが終わった。
『北朝鮮に消えた私と友の物語』韓鶴洙先生のご家族の話
※金竜南氏は金民柱氏(守る会名誉代表・故人)のことです。
話を金竜南の下の弟泰訓にもどす。五年七ヵ月の収容所生活を終えて社会復帰したかれは二十九歳になっていた。結婚適齢期だった。日本からの帰国者はあの国では差別され、下層に位置づけられているため現地住民とは結婚できない。帰国者は帰国者としか結婚できないのだ。まして収容所帰りである。みなこわがって近づかない。収容所で知りあった帰国者の女性と結婚した。韓ミナさん。泰訓と同年配だった。
大阪の著名な在日朝鮮人の教育者韓鶴洙氏の娘である。韓鶴洙氏は包容力のある、生徒からも父母のだれからも慕われる先生だった。大阪朝鮮高校の校長を経て、大阪の在日の教育全般の指導にあたっていた一九七一年九月、「在日朝鮮教育者代表団」の一員として北に送られた。韓鶴洙氏の声望をねたむ総連議長韓徳銖の指し金による追放である。
夫人の李明子さんは作家である。彼女も夫のあとを追って北に渡った。娘の韓ミナさんと二人の弟はこれより先に帰国しており、大学などで学んでいた。
一九七二年、突然韓鶴洙氏は「反党反革命分子」の烙印をおされて耀徳にある強制収容所に入れられた。一家五人もろとも収容所送りである。まもなく韓氏は殺された。夫人も発狂して絶命した。三人の子供たちはその後かろうじて生きて出所した。
すこし脇道にそれるが、韓鶴洙氏のことを聞くため一九九五年六月大阪・西天満にある朝鮮奨学会関西支部をたずねて、韓鶴洙氏と大阪商科大学(現大阪市立大)の同窓の曺基亨氏に会った。
曺氏は、終戦直後の朝連(在日本朝鮮人連盟)のころの韓鶴洙夫妻の活動ぶりを回想しながら、こう語った。
「ある日、用があってかれの家にいったんです。六畳一間ともうひとつ小さな部屋のついた長屋でした。夫婦二人ともいない。たぶん活動で出かけたのでしょう。部屋には三つぐらいのミナと弟たちがちゃぶ台のわきで寝入っていました。おひつにはなにもありませんでした。おなかを空かしたまま寝てしまったのでしょう」
ここまで言ったとき曺基亨先生は急に目頭をおさえてせき上げるように涙をあふれさせた。ハンカチでおおいながら感情をおさえようとけんめいにあらがっていた。
「見苦しい姿をお見せして……」
と言いながら先生は話をつづけた。「赤貧洗うがごとき生活だった」とも言った。曺氏はクリスチャンだが、社会主義を信じ、祖国の統一と繁栄のためにすべてを投げうって活動した共産主義者の韓鶴洙氏にたいする思想・信条をこえた敬愛の念がにじみでていた。
曺基亨先生はわたしと会ったその直後に入院した。「検査入院」といいながら二ヵ月後の九月二日に亡くなられた。その少し前に病室からわざわざ電話をかけてくれた。
「先日、自宅に帰ったとき韓鶴洙さんが新義州で写した写真と手紙を見つけたから、こんどあなたにあげます。わたしはまもなく退院できるから」
なんの面識もないわたしにあたたかく対応してくださった曺基亨先生の滋味あふれる人柄を忘れることができない。金泰訓と韓ミナさんは二人の子供をもうけたが離婚した。兄の金竜南は「なんということをするのか」と弟を叱るが、理由はわからない。まだ二人が一緒に暮らしていたころ、彼女は義兄の金竜南あての手紙にこう記している。
『北朝鮮に消えた友と私の物語 (文春文庫)』P268-271
「泰元さんと父とは同じ境遇にあります。父のことは一家にとって名誉なことです」
彼女は父が金日成一派にたいしあくまでも節を曲げずたたかって死んだことを誇りに思っているのである。
その後のミナさんの消息は、風のたよりのように時おり聞こえてくる。胸に「反党反革命分子」の標識をつけられて咸鏡北道あたりをさまよっているとも伝えられる。曺基亨氏も、「彼女はあのへんでは知らん者のない存在ですよ」とわたしに言った。尊敬する両親を殺された彼女にとって、もはや恐れるものはなにもないようだ。いまやすべてをさとったのであろう。命をかけてこの邪悪な体制を打倒するしかないと。
どうか生きて解放の日を迎えてほしいと願わずにはいられない。
守る会理論誌『光射せ!』7号 寄稿
北韓の国家的犯罪を斬る<25> (2000.05.24 民団新聞)
朝鮮学校元教員の梁永厚さんに聞く…(上)
関西大学で講師を務める梁永厚さん(69)は、4歳の時に韓国・済州道から日本に渡って来た。大学卒業後、就職が決まらないでいた1951年に留学生同盟の先輩からの誘いで朝鮮学校の教師に就任、閉鎖されていた大阪・巽町(現在の生野区)の中西朝鮮小学校の再建運動にも身を投じた。
「帰国運動」が始まった1959年当時は教師生活も9年目に入り、大阪朝鮮高級学校で地理を教えていた。朝鮮学校に在籍していた69年までに約5000人の同胞生徒に関わり、そのうち自ら「帰国」を勧めた生徒もいる。半世紀近くを教師として生き、北韓の地で行方不明になった教え子への責任を痛感している梁先生は、「在日同胞が手をとって問題解決を」と訴える。先生の話を2回に分けて掲載する。◇◆◇◆◇◆
北の宣伝にすっかり乗せられ
ずるずると運動に教師として初めて赴任したのは、神戸の朝鮮中高級学校だった。社会科を担当したが、朝鮮学校の教壇に立つ朝鮮人の先生が朝鮮語を知らないというのはどういうことだ、と生徒からも非難される厳しいスタートになった。大学までずっと日本の教育を受け、言葉をはじめ民族的な素養は解放後、周囲の一世たちから聞きかじりで覚えたに過ぎなかったから無理もない。
神戸の学校から中西小学校を経て、1955年4月より大阪の公立朝鮮学校へ転任。同校の校内紙を担当していた梁先生は、58年6月、朝鮮戦争休戦5周年を迎える前に玄関の黒板に「この戦争は同族相殺(相食む)悲しい戦争だった。私たちの時代には2度とこういうことが起こらないように」と書き、文章の最後にキケロの詩「もっともよい戦争よりももっとも悪い平和を」の一文を引用した。これが問題になった。
「朝鮮戦争は正義の戦争である」という北韓や朝鮮総連の歴史観を否定したというのだ。総連は先生を登校禁止にし、自宅で自己批判をするようにさせ、何度も自己批判文を書かせた。学校をやめようと思ったが、学生時代から寝食の世話になり、学生運動のリーダー核だった当時大阪朝鮮高校の韓鶴洙校長のとりなしで、同校に引き取られることになった。夏休み中の人事異動であった。「札付き」の先生ということで、ほかの教師から白い目で見られたという。
後日談だが、私淑していた韓校長は71年に「在日朝鮮教育者代表団」の一員として北に送られ、70年代の中頃、強制収容所送りになった。そして殺され、夫人も発狂して絶命したと、萩原遼氏の著書『北朝鮮に消えた友と私の物語』に書かれている。
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「帰国」運動へ59年に東京から鄭求一という新しい校長が赴任してきた。学校運営は北と同じ仕組みで、職員会議よりも北に習って評議委員会が牛耳っていた。梁先生は評議委員会の書記として「帰国」運動に関わるようになった。「帰国」実現を求めて大阪から東京までデモ行進を組織したこともある。行く先々では、子どもたちもが動員されていた。
「帰国」第一船の模様は、学校の寄宿舎に詰めかけ2時間近くテレビで観た。
「確かに感動的だった。当時は北の中身、総連の体制がどういうものか、上っ面しか知らず、ずるずる運動に入り、宣伝にすっかり乗せられていた一教師だった。北のあり方に大きな疑いは持たなかった」。
(2000.05.24 民団新聞)
https://www.mindan.org/old/shinbun/000524/topic/topic_b.html
朝鮮学校元教員の梁永厚さんに聞く…(下)
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教え子たちを北へ
悔やみ切れぬ胸の痛み
1960年代の初期には、「帰国」する生徒がいる一方、総連の「地上の楽園」宣伝に乗って、日本の学校からの転入生が多く、大阪の朝鮮学校の全生徒数が約6000人になったこともあった。そのうち担任をした生徒は延べ300人くらいで、生徒や父母から「帰国」について意見を求められると、「希望を持って帰国を」と勧める立場にいた。「帰国」の一つの背景には、済州道の「4・3事件」や6・25動乱で身辺の危険を感じ、密航して来た子どもがいた。彼らは日本の学校へは入れないので朝鮮学校が引き受けていた。入管当局に捕まり、強制送還で韓国に帰ると「赤」扱いされるのでは、という心配から「帰国」を選択した生徒もかなりいた、と梁先生は指摘する。
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「帰国」の2つのタイプ「帰国」する生徒たちには二通りあった。一つは、朝鮮学校の「北」一辺倒の教育を真に受けたタイプ。もう一つは、密航してきて親戚の世話になっている辛さから荒れていたタイプである。
「北を信じて帰った教え子のうち、亡くなったとか、行方不明になったという消息を聞くたびに、残っている教え子が気がかりになる。とりわけ荒れていた生徒は、帰国後真っ先に収容所送りになったのではないか、と後ろ髪を引かれる」。さらに「北」における「帰国者」への人権抑圧や近年の食糧難に即すと、「ともかく生きていてほしい、という祈りの心になる」と梁先生は言う。
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総連組織への登用梁先生は1962年に校長に任用された。その任用は思想的に問題のある教師だから、「嫌なら辞めろ」という前提で、学校統合運動で失敗をした地域の学校を任せるといういびつなものであった。ところで、総連組織は中央の決定に下部は無条件従わねばならない「独裁」的組織で、中央議長の権限は絶対的であった。その議長を支え、後に自分がその地位に就こうとしたのが金炳植である。その金炳植が実権を握って配置をした総連大阪本部の委員長に請われて、校長職の途中から部長不在の大阪本部国際部副部長になった。69年の夏である。
その後、入官法の改正や外国人学校法案問題が浮上すると、その担当として当時中央の河昌玉社会経済局副局長がやって来た。大阪の弁護士会などとの人的交流を軸にてきぱき仕事を処理したことが認められ、71年の初めに中央の社会経済局に抜擢された。
中央では人権問題の担当を経て、信用組合の担当となったが、ときには金炳植のゴーストライターもさせられた。そうしたなかで見た総連中央の実態は、金日成の誕生日を祝うためや韓徳銖が金炳植にへつらうために下部を踏みつけても「収奪」する手法の横行であった。
「これが社会主義か。この組織ではだめだ」と思っている矢先の72年秋、総連内部の権力闘争を象徴する「金炳植事件」が起きた。それで総連を辞める踏ん切りがついた。
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北送事業とは何だったのか在日の戦後50年を考える上で、「帰国運動」は、当時、韓国政府と民団が「北の労働力を補強する北送運動だ」と反対をした。今日からすると的を射た見方であった。しかし、当時の梁先生は「地上の楽園」説に立って、教え子たちを北へ送ってしまった。今は悔いても悔いたらない思いで胸が痛む。身内も「帰国」しているが、悔いるだけではなく何かをしなければと、80年代に入り、金日成批判を始めた。それで今では教え子や身内とも連絡は途絶えている。
「帰国」者問題は今、人道と人権の問題である。いわば「北」に「人質」をとられているので、「帰国」者問題を取り上げることをためらっている人が多い。でも黙っていては事態は明るくならない。総連内部の良心的幹部も立ち上がってくれることを願いながら、総連に対し「本国とコンタクトを取り、帰国者の消息を開示せよ」「特権幹部の子女だけではなく、帰国者の日本への自由往来の実現を図れ」「人道的援助、親族対面の自由な北訪問を認めよ」など提起する。民団にも「帰国」者の人権擁護と人道支援を訴えたいと、梁先生は結んだ。
(2000.05.31 民団新聞)
https://www.mindan.org/old/shinbun/000531/topic/topic_b.html
「北朝鮮帰国者」の記憶を記録する会 詩人 金時鐘氏の賛同文(2019.2.8)
熱い共感をもって
-「在日帰国者記録集」刊行に賛同-
金 時 鐘まずもって二〇年になんなんと、北朝鮮の民衆の実態を身をもって探知し、知らしめてきた石丸次郎氏の人間的良心の発露に、深々と敬意を表します。私にしてそうですが、北朝鮮の実情については、特に在日帰国者たちの境遇については世代が移り替わったという年月の無情さも手伝って、とっくからあきらめの心情に取りつかれてしまっています。
昵懇だった文学・芸術の仲間から、再開された民族学校で社会主義祖国に目を輝かせていた、受け持ち学級のいたいけない子どもたち。一途に祖国に憧れたあげく、親に従って行ったまま行方すらわからない、“人民共和国”の、底知れない闇。その子どもたちの校長先生でもあり、長年大阪朝鮮高校の学校長を務められてもいた韓鶴洙先生の、強制収容所で強いられた一家もろともの無念きわまりない死。わけても胸に深く食い入ってならない日本人妻たちの、孤立無援の孤絶感。見ず知らずの北朝鮮でいかばかり喘いで過ごした人生だったことでしょう。
憶い起こせば不眠をかこつしかない、赫赫たる帰国者事業のなれの果てです。“地上の楽園”と謳い上げて帰国させておいて、苦境に陥っている帰国同胞の救援はおろか、消息をたどる仲立ちひとつしない朝鮮総連幹部たちの、良心のかけらもない無耶ぶりには同族であること自体が絶望です。
九万三千人からの帰国者が北朝鮮でどのように生きたかの記録を調べ、整理する仕事は、在日帰国者たちの年齢と世代推移の年月を考え猶予ならない、在日同胞死の鏤刻事業です。石丸次郎氏の活動を蓄えにして、この度在日朝鮮人と日本人の協同・共同の事業として立ち上げられたことを、思いも新たに熱い共感をもって賛同します。
http://www.kikokusya.org/2019/02/496/
そこには私の至純な歳月があったのだから~映画『スープとイデオロギー』が描く「済州島四・三事件」をめぐって2【対談】金時鐘×ヤン ヨンヒ
「帰国事業」で起こったこと
金 ヨンヒさんは大阪の朝鮮高校出身でしたね?
ヤン ええ、そうです。
金 当時の校長は韓鶴洙(ハン ハクス)だった? そのあとか?
ヤン そのあとです。
金 韓鶴洙先生は朝鮮高校の初代校長だったんだけど、民族教育にも熱心で本当に生徒に慕われたいい先生だった。その先生に60年代の末に、北朝鮮から「指名帰国」(名指しで帰国させられること)が来た。帰国船に乗るため新潟へ向かうまで、夫婦で僕の家の2階にいたんだ。僕は必死に、帰るなと止めたんだよ。でも、韓先生は「私は祖国を信じる」と言って行っちゃった。帰国当初は特別扱い受けたようだけど、そのあと韓夫妻は強制収容所送り。向こうの政治闘争に敗れて粛清されたんだ……。先に北に渡っていたこども2人、娘1人、息子1人がいたんだけど、娘のほうは、日中に路上から連れていかれたまま、行方不明。息子から「日本の金で20万あったら結婚ができそうです。住まいもなんとかできそうです。姉さんがどこか遠いとこへ行かれまして、いま連絡がすぐは取れません。お父さんお母さんも行方がわからないままです」という手紙が僕のところへ来た。僕はすぐにお金を送ったんだけど、それがスパイから金をもらったということになって彼まで……。結婚式を控えていたのにね。あとから、彼が死んだことは克明にわかった。
(続きは下記リンク先)
https://imidas.jp/jijikaitai/f-40-233-22-06-g887/5
『在日一世の記憶』
活動家として民族に捧げた人生 朴容徹(パク・ヨンチョル)男
取材日/二〇〇五年八月一八日、九月一四日、九月二八日、一一月九日 出生地/忠清南道論山郡 現住所/大阪市 生年月日/一九二九年二月一五日 略歴/植民地時代、経済的な事情から父親が家族を残したまま日本に渡ったため、留守宅を守る母親のもとで成長する。戦後活路を求め父を頼って渡日。父が三重で朝連の活動にかかわっていたことから自身も活動家の道に入り、日本共産党を経て、朝鮮総連の活動家として生涯を民族運動に捧げることになる。 取材/朴才暎 原稿執筆/朴才暎
(中略)
▼朝鮮総連活動家としての軌跡
卒業後の進路としては教員を志望したのですが、総連中央の社会経済部に一九五八年の四月から六ヶ月間、配属され仕事をすることになりました。当時はちょうど総連の路線転換期で、組織は混乱していました。わたしは商工人たちの講習会を組織しながら、改めて商工会の重要性に気付き、大学生数名を動員して講師の講義を整理し資料を作って配布しました。
五八年九月からは、総連中央に人事部ができて二人が配置されました。人事部では幹部の評価を行うのですが、評価基準は三項目ありました。第一に金日成(キム・イルソン)主席に対する忠誠心、第二に組織方針実践における業績、第三には同胞だちからの信頼、というものでしたが、どうやって全国の幹部の評価をすればよいのかわかりませんでした。そのため組織部の協力を得て幹部を評価しました。
あのころは毎年中央大会が開かれていたこともあって朝から晩まで忙しく、指示に従って昼は総連中央に出勤して仕事をし、午後には中央学院で生活指導をし、家には一週間に一回着替えに帰る程度でした。
中央学院の学習を通じて総連運動も着実に発展していきました。八期からは、『抗日武装闘争参加者たちの回想記』(金日成将軍の率いる抗日武装闘争の記録集)を教材にして学習運動を始めることにしましたが、この学習は総連運動の高揚期の発展の精神的支えとして、大きな役割を果たすことになりました。『回想記』はたまたま九月書房(総連の出版社)で見つけたのですが、「これをください」といったら、四冊しかありませんでした。それまではわたしたちにも、抗日武装闘争のパルチザンのことなど、まるでわかっていませんでした。
一九五八年一一月から、「回想記読書運動」が日本全国の総連組織で始まることになりました。『回想記』は全十二巻ありましたが、一話一話にストーリーがあって面白くて読みやすく、同胞のあいだでベストセラーになりました。
五九年末に金炳植(キム・ビョンシク)が人事部長になると空気が一変しました。本来日本には党がないのですから活動に宗派(分派)などいなかったにもかかわらず、彼は朝鮮労働党史に倣って「反宗派闘争」という、運動とは離れた思想闘争に力点を置き、講演・講義の中でも一面的に反宗派闘争を強調して、反対派は宗派ということにして打撃を加えたために、組織内は対立、混乱していきました。
一九六一年に共和国の指導で、「在日朝鮮人運動史の是正講義」というのが始まりました。在日朝鮮人運動史は、それまでは元・日本共産党政治局局員で一八年間投獄された金天海(キム・チョネ)先生の指導のもとに、植民地時代も労働運動をし、民戦の時期も共和国を支持した韓徳銖(ハン・ドクス。総連中央議長)氏たちによって総連結成がなされたとされていました。運動史の講義は初めは韓議長、後には中央学院の学監であるわたしがしていました。
受講生の中にはこれを革命伝統という者もいましたが、これからは在日朝鮮人運動は独自のものではなく、抗日パルチザンの影響を受けたものだというふうに、それまでの講義内容を是正せよ、ということでした。「これまでの責任は誰にあるのか」という追及が始まり、「中央学院で始まったのでは」という声が上がりました。空理空論による闘いが始まりました。新潟で全国委員長会議が開かれ、わたしはそこで「宗派を積極的にやっつけない、八方美人的だ」といわれましたが、わたしは変わり身早く誰かを敵にして叩くということなどできませんでした。▼大阪に配属されて
総連の人事部は組織部に統合され、わたしは副部長の職にありましたが、一九六三年一〇月に南大阪本部の組織部長に左遷されました。この決定を聞いたとき、わたしは私心が先立ち、エリート・コースから外されるのだと動揺しました。しかし同胞が一番多く住んでいる大阪に行くのを嫌がることは、自分自身が中央学院で講義してきた主体思想と『回想記』に照らして真の愛国者にも真の革命家にもなっていない表れではないかと、自分自身のそういった心を深く恥じて反省し、勇気を出していくことにしました。
大阪の現実は想像以上に困難でした。まず規律の乱れがあって、一例をあげると、本部の宿直者は食事のときも施錠をしないまを開け放して出かけていました。わたしは組織部長として、本部で『回想記』の読書運動を始めました。まず青年たちと女性同盟(在日本朝鮮民主女性同盟)が積極的に変わっていきました。
一九六五年四月にそれまで東、中、南、北と分かれていた四本部が統合され、大阪府本部に
なりました。委員長には尹鳳求(ユン・ボング)総連中央副議長がなりました。わたしは教育
部長でした。大阪での一四年間のうち、一〇年は教育分野で活動しました。
尹委員長は権威もあり、委員長になる前には大阪朝鮮高校の負債を減らす運動を指導し、成果をあげた実績もありました。「愛国組織が借金をしてはいけない」というのが尹委員長の考えでした。わたしたちは尹委員長とともに「節約と学校を守ろう」をスローガンに、当時五億円あった借金を二年間で返済しました。借金のうち三億は学校関係のものでした。在任中に八校の朝鮮学校を建て直し、大阪朝鮮高級学校の建設では実に一億三〇〇〇万円の黒字決済でした。
わたしは大阪で教育部長を二年、宣伝部長を一年半、生野西支部の委員長を一年、本部の教育担当副委員長を務める間に、李達信(リ・ダルシン)本部委員長のもとで八校の学校を負債なしで新築校舎にし、大阪府から朝鮮学校の各種学校の許可も取りました。
当時の大阪府左藤義詮知事は文部次官だったときに「朝鮮学校不認可」の次官通達を出した人物で、それまで大阪では朝鮮学校は各種学校の認可申請さえできない状態でした。その上に学校の土地、建物の多くは個人名義になっていて、名義人が死亡したり遺族の所在がわからなくなっていたりで、認可申請書を作るのさえ困難でした。しかし韓鶴洙(ハン・ハクス)府教育会長を中心に各学校の教育会長が一丸となって努力し、名義問題などを解決していきました。
この時期に大阪府議会の各党に請願して、協力も仰ぎました。議員による朝鮮学校の訪問があったのですが、自民党のある議員は「朝鮮学校は反日教育をしているとばかり思っていたが、来てみると、敵意どころか生徒たちが礼儀正しく挨拶してくれ、授業内容も日本の学校と変わらないということで、好印象を持った」といっていました。しかし「日本の学校では見られない古びた木造校舎と劣悪な施設の状況に同情した」ともいっていました。こうして大阪の朝鮮学校は一九六五年に認可されましたが、六六年には文部省が「外国人学校法案」の国会上程を諮りました。
わたしたちは学校を守るために、全面的に反対に立ち上がりました。大阪の社会科学者協会(在日本朝鮮社会科学者協会)支部で、日本の学者に反対を訴えることにしました。民族教育をよく理解されていた立命館大学の末川博総長の全面的な協力のおかげて、国、公、私立一九校の総長、学長が一四名、元・前学長が四名、日本学術会議会員七名、教授五名、合わせて三〇名の参加のもとに「在日朝鮮人の民族教育に関する近畿各大学学長、教授懇談会」が六六年一一月二七日に持たれました。この懇談会は世論に大きな影響をもたらしました。近畿に続いて日本各地でも懇談会が持たれ、世論の支持を得て、法案は一九七二年六月七日に廃案になりました。
六七年からは宣伝部長になりました。宣伝部は幹部教育、同胞教育、新聞、雑誌などの普及など広い範囲で仕事をしましたが、広報物の遅配と代引き料金の累積が問題になっていました。調べてみると、支部の宣伝部長の多くは自身も読まず、という状態でした。わたしは会議を開いて、支部の宣伝部長たちはまずは自分自身が読んで、読者にも内容を解説して普及し、代金も前納制に切りかえることで赤字を清算し、学習会を持つことにしました。
生野西支部の委員長は六八年から一年間の赴任でしたが、朝鮮総連のなかで一番大きな支部であり、一万五〇〇〇名の同胞が住んでいる地域でした。分会だけでも四三もありましたが、狹い地域で二時間もあれば徒歩で全分会を回れるほどでした。小型宣伝車を買って同胞関連のことを宣伝することにし、掲示板も大阪市のものより大きなものを一〇〇個作り、写真速報なども活用しました。
借家住まいであった商工会館も日本の民主商工会から買い取って自前のものにしたころ、ある日、大きな企業家の文景洙(ムン・ギョンス)社長から会いたいとの知らせがありました。最近、生野西支部がよくやっているので、賛助金五万を毎月出してくれるというのです。わたしは感謝しながら、二万円だけいただくが、三万円分は他の三人の賛助会員を組織してくれと頼みました。文社長は「これまではもっと出してくれといわれたことはあっても、こんなことをいわれるのは初めてだ」といって、快く他の三人の会員を組織してくれました。こういうこともあって、わたしが赴任したころには三名だった賛助会員が、離任畤には八〇名に増えました。
府の教育担当副委員長時代には、李吉炳(リ・ギルビョン)商工会(在日本朝鮮人商工会)会長の二億七〇〇〇万円の寄付で、新大阪に総連大阪府本部会館が新しく建てられました。(中略)
『在日一世の記憶』P511-517
魂の渇きから出合った音楽 韓在淑(ハン・ジェスク) 男
取材日/二〇〇七年五月一一日、一七日、二二日、二九日 出生地/済州道北済州郡 現住所/奈良県 生年月日/一九三二年一二月一〇日 略歴/済州島で生まれ育ち、四八年に渡日。大阪音楽学校(現・大阪音大)声楽科を経て、大阪放送交響楽団『椿姫』にジェルモン役で出演、ルートs 大阪公演オペラ『修禅寺物語』他に出演。『鴨緑江』『密林を語れ』など初演、三大古典劇『沈清伝』など編曲・公演。東京フィル、関西フィルを「アリランの夕べ」で指揮。「在日民族音楽研究会」主宰。長女はドイツ在住のピアニスト韓伽耶(ハン・カヤ)さん(カールスル国立音楽大学教授)。 取材/川瀬俊治 原稿執筆/川瀬俊治
(中略)
▼京都、大阪の朝鮮高級学校で吹奏楽指導
創立一〇周年記念文化祭のコンサートを終えたあと、京都朝鮮高級学校の校長に「京都朝高の吹奏楽を指導し、音楽を教えてほしい」といわれました。この頼みを受けてわたしは西今里中学を退職し、週に一回、京都朝高まで通うことになります。
京都朝高に行って二年くらいして、朝高ブラスバンド部が全国大会で東京に行きました。わたしは講師でしたから東京まで行く必要はなかったのですが、生徒たちが「先生がいなかったら演奏がうまくできない」というので同行したんです。
大会で自由曲「慶祝」を演奏すると、朝鮮総連の韓徳銖(ハン・ドクス)議長が立ち上がり「アンコール、アンコール」といい、審査員も同じ気持ちで、本選で優勝しました。
次いで朝鮮大学校講堂での本選優勝者の発表です。本選と同じ曲はやらないで、朝鮮舞曲を演奏することにしたのです。そのときに指揮をした生徒が金慶和(キム・キョンファン)で、いま金剛山歌劇団の指揮をしています。
当時大阪朝鮮高級学校の教育会長(PTA会長)韓鶴洙(ハン・ハッス)先生という方がおられた。わたしの建国時代の師匠で、先生から「大阪でも音楽を教えてほしい」と頼まれ、大阪朝高でも師範科の音楽と吹奏楽を教えることになりました。教員生活は一九七〇年代中ごろまで続きました。記憶に残る公演は、一九六八年に大阪市港区の見本市会場で行われた「朝鮮民主主義人民共和国創建二〇周年記念」の「大音楽舞踏叙事詩」公演です。京都、大阪の朝鮮高級学校の合唱部と吹奏楽部の指導の責任者として、大阪と京都の間を駆けめぐっていました。(中略)
『在日一世の記憶』P676-677
新たな資料を入手次第随時更新します。新しいものは先頭に追加していきます。