私は、八〇歳に手のとどく在日コリアン二世である。今から五〇年前(一九六九年)に在日同胞の北朝鮮への「帰国事業」が始まった、私は二十歳代の青年期にこれを迎えたことになる。帰国船(北送船)が出て二年のあいだに、父母、兄弟、そして妻方の義父母等、総勢六〇余名を北へ送った。
父は二四歳で故里をはなれ日本にやってきた。その一生を土方人夫として働き五人の子供を育てた。
日本でもよく知られる韓国の詩人・金素月は、「故里」を、
・・・忘れることの出来ない故郷
いつもはあまり考えないが
眠りの中では何時のまにか故里です
先祖の眠るところだと
子牛と戯れたところだと
だからそうかもしれないが
あぁ 夢では何時も故里です
と、詠んでいる。
ふるさとは人々の心を温かくさせる。やさしくさせる。 私のアボジ(父)は、雨であぶれた日などはしみじみと「ふるさとの歌」を唄って、望郷のおもいを癒していたものである。
亡国の民であった在日同胞にとって、「故里」とは母の懐であり、「帰郷」、「帰国」とは疼くような念願であり、格別のものであった。
ある出来事や事業などをどう呼び命名するかは、じつに大切なことだと思う。五〇年前から私たちは、北朝鮮と総連の同胞集団略奪を、「帰国事業」と呼んできた。しかしどうであろう。それは、母なる祖国への帰国というイメージからは、あまりにもかけ離れたものであった。その命名から詐欺的なものだった。
同胞の望郷の念を逆撫でし、九万三千人あまりの人々、(六千六百人の日本人妻ら日本国籍者を含む)を誘拐していった呪わしい悪夢が、「帰国事業」であった。すでにその全貌が暴かれているように、金日成の指令に従い国全体が広大な強制収容所である北朝鮮へ、朝鮮総連が同胞を献上した世紀の人権抹殺犯罪、「人間狩り」以外の何ものでもない。
● 骨塚(捨てられた墓)寸前の祖父のおくつき( 墓地)
私の故郷は、韓国の東海岸の小さな町から十キロほど北西に入った邑にある。六・二五動乱時には北の軍隊に一時占領されたため、一族がばらばらになり先祖の墓を探すのに大変な苦労をした。二度目の訪問で母の名前を尋ねられ、子供の時に聞いていたオモニの別名(〇〇〇宅)=(母が父に嫁いで呼ばれていた通称)を憶えていたため、遠縁の親族に会い祖父のおくつき(墓地)と、母の実家を突き止めることが出来た。
私は、祖父のおくつきをたずねた。そこに土盛りの小さな墓があった。ある先輩から聞いた話が頭をかすめた。墓守りをなくし土盛りも草刈りもされない墓を韓国では「骨塚」というのだと。七〇年以上訪ねる人もいなかった祖父の墓はまさにその寸前だったといえる。小さな墓石にところどころはげ落ちそうな祖父の名が間違いなく刻まれていた。
祖父の墓にひざまずいた。写真もなく見たこともない祖父だった。土盛りの奥にアボジの顔とアボジを少し丸くしたような祖父が重なつて見える、祖母の顔も見える。ぼんやりと交互に現れては消える。こみ上げるものを抑える術がなかった。ただ泣いた。慟哭した。 「ハルベ(爺ちゃん)許して…なにもかも悪かったのは私です」と。
そして、アボジや母、兄弟と一緒に来られなかったことを詫びた。私が日本でペルゲイ(赤=総連専従者)をして祖母と父を北に送った罪を詫びた。過去の誤った生き方と悪に加担して犯した罪を謝った。不孝者を許して下さいと許しを請うた。
どれだけの間、私は祖父にすがり付いていたのだろうか。遠縁の人が「もうそれで…」と肩を抱き上げてくれた。墓前にそなえた杯の酒をぐっと呑んだ。
眼の前には、太白山脈の山並みが連なっていた。そうだ、この峰と峰を越え軍事境界線を越えて北へ進むと、そこに祖母の墓が祖父を慕うように南を向いてたっているのだ。祖父と祖母はあの世でも一緒になれない「離散家族」である。
● 「やはり北送されていたのか」と、従兄弟は言った
私は何かに惹き付けられるように、その数ヵ月後、オモニの故郷と生存している母方の従兄弟に逢いたい一心で飛行機に飛び乗った。
オモニの故里は隣村にあった。私は始めてみる従兄弟と顔を見合わせ抱きあった。オモニは一八年前に、そしてアボジはその三年後に戻らぬ人になったことを伝えた。従兄弟は天井を眺めながら「やはり、そうでしたか。北送されたんですか…」と。
始めて涙を流すのであった。「みんな私の責任です」と私は話した。しかし何の返事もなかった。
「庭の柿の木はまだありますか?」と尋ねた。オモニの大好きな柿の木のことだ。オモニは男ばかりの兄弟の中に生まれた女の子で、外祖父が誕生記念に柿の木を庭に植えたのだった。オモニは叱られたときも嬉しいときも自分の木の下にたたずんだそうだ。もちろん渋柿だった。オモニは、「嫁いだ後も、チンジョン(親庭=実家)を恋しく思うときは柿の木を思い出したさ。春に送ってきた干し柿を、お前たちのばあさんはそっと私にくれたものだよ。本当に美味しかった。父と母の味だった」と、話した。私たち兄弟は何回もこの話を聞かされていた。
「この木ですよ。今もずっとだいじにしています」と、従兄弟は木の前に案内してくれた。私は感無量だった。母の木をバックにして写真を撮った。こんなに大きく育った柿の木をオモニに見せてあげたかった。
翌日外祖父と外祖母のおくつき(墓地)を尋ねた。こうして三度目のふるさと訪問を終えた。
空港に向かうバスの中でおもった。従兄弟の言葉がどうしてもひっかかるのであった。やはり、「自分が北送させたんです」と正直にすべての顛末を話すべきだった。
いゃ、ゆっくり話そう。やっと見つけた従兄弟を失うのが怖かったのだった。同時に考えたことが、「北送」と言う言葉である。韓国のおおかたの人々は、ペルゲイ(赤=総連)が在日同胞を北に騙して送ったのだと思っているのだ。そうだ、あれは間違いなく北送であって「帰国事業」ではなかった。
その後、毎年のように従兄弟から干し柿の小包が届く。「許してくれているのかなぁ」、「いや、そんなものではない」との想いで胸が締め付けられる。
● 北送は、金日成と韓徳銖の仕組んだもの
北からの手紙は年に五、六通は到着する。正直な話、父も母もそして兄も義兄も逝き、以前のような気持ちでは受け止めてはいない。「そうなんだ。たとえ少しでもまた送金しなくちゃ」と、受け流している自分が恥ずかしい。
家族、親族などの人質を獲られている友人や知人の中での会話も、時代とともに様変わりした。一九九〇年頃までは、「大変!。古着でも何でも送るんだ。いや日本円がいちばんらしい」とあくせくもした。子供を人質にとられている親たちは、持ちきれないほどのお土産を背負って船に乗り込んだものだ。定期便のように往来する老婆たちも多かったという。
その当時は、まだ一部の朝鮮総連活動家や熱誠的な同胞の中では「人質」と言う言葉を忌み嫌った。しかし、ここ一十年ほどの様子は大きく変わつてきた。金正日による日本人拉致謝罪以後、訪問者が急激に減少した。手紙が来ても「またか? いい加減にしてほしい」との声が多い。「人質」と言う言葉は当然のように受け止められている。総連の幹部たちもこの言葉に反発しないようになった。と言うことは、彼らも九万三千人あまりの同胞を総連が北送したことを認めていることになる。金親子の命令に従い人質として貢いだと言うことを内心では認めているのだ。
話が前後するが、八〇年代にピョンヤンで逢った友人からこんな話を聞いた。
総連の議長・韓徳銖がピョンヤンに来るときは、歓迎群衆の前列三列には絶対に帰国者を配置しないとのことだった。「テロ」と報復を恐れているのだ。北の連中は、帰国者の恨みがどんなに大きなものかをとっくに見通していたことになる。
韓徳銖が死んだ翌年のことだった。朝鮮高級学校に通ういちばん末の孫が修学旅行で北に行った。ホテルで長兄にあったとき、家族の話のあと、孫に小さな声で「韓徳銖が死んだというが本当か?」と聞いたという。「あれ、こんなことも知らないのか?」と思いながら「はい。そうです」とこたえたという。兄は「そうか…」と、暫く押し黙ったままだったそうだ。「これで少しは死んで行った帰国者の魂も浮かばれる」と、兄は胸の中で思ったに間違いない。私には十分に推測出来る。兄は一生本心から北の体制を支持してはいなかった。
私は最後の北朝鮮訪問で兄と約束をしていた。兄は父母と自らの遺骨(墓)は、「日本の弟に任せるように」との言葉を残して旅立った。それは将来墓を全部南の故里、祖父の横に持って行けとの父母から伝わった動かせない遺言だったのである。
●「マグチャビ」と死の政治犯収容所
あらゆる自由と人権が抑圧されている恐怖社会の北朝鮮であるが、人の口には戸は立てられないものである。私は十回以上の北朝鮮訪問で、兄弟や友人とすれすれの話が出来るようになつていった。
山麓にある祖母と父母のおくつきに向かう道で、皆とは間隔をあけ弟と二人で、それも日本語で話しあった。弟は「町の人民病院のT先生は、日本の国立大学を卒業した腕のいい先生だが、数年前仲間四人で船で日本に脱出しようとして失敗。他の三人は銃殺、山(収容所)に送られた。だが先生の腕がまだ必要だったのでここへ来た人です。今朝、兄ちゃんが来たと言うので日本への手紙を頼まれたんだが、家内が後が怖いと言うことで断ってきました」と、話すのであった。
弟は、「ここではいつも油断大敵だよ。その筋(国家安全保衛部)では、帰国者の中に手先(通報者)を潜り込ませているんだ。隣町には元総連活動家で日本にいた時は特殊活動工作員だったが、一晩のうちに二重スパイだということで家族全員が山へ連れて行かれたんだ。面白いことに、日本から送ってもらった自転車の荷台のゴムひもの中の鉄線で無線傍受していたと言うのが、証拠だとされたそうだ」と。私は「心配するな、ゴムひもなんか持ってこないから」といって、顔を見合わせて笑った。
五十年前の北送船がでた頃、総連の専従者は「帰ること罷りならぬ」のおふれが総連中央から出ていた。同胞を帰らせてから幹部は帰るのだと言うことだった。にも拘わらず、同じ支部内の先輩幹部が(一九七一年)急遽、新潟から北へ向かった。その先輩が実は、北の特殊工作員(総連では裏の仕事と言っている)だった。日本の公安に摘発される寸前で逃げるようにして「帰国船」に乗ったわけだった。そして、これは事実であった。
一九八八年のソウル・オリンピックに対抗して北は、その翌年、世界青年平和友好祭を開催した。総連は大金とボランティァを大挙平壌におくった。それへのお返しではなかろうが、大会前後、山(収容所)へ入れていた「帰国者」(冤罪者)を少しばかり解き放した。
先の先輩はすでに政治犯収容所の露となっていたが、奥さんと私の義理の妹が同級生だったので、妹の家で出会うことができた。もちろん細心の注意をはらって…。
私は、「何処へ行って来ました?
家族はどうしています?」と尋ねた。しかし、彼女は何も応えてくれない。話してくれない。長い沈黙だけが続いた。活発で明るい娘時代の彼女が、魂のない廃人のようになっていた。眼の焦点もときどきずれるのであった。見かねた義妹が突然、彼女の後ろにまわり彼女の両手を前に揃え、「兄さん。これ見なさい。これでみんな分かるでしょう」と言った。なんと、彼女の指の爪はなくゴツゴツした黒い肉の塊だけだった。妹が言うに、素手で土を掘りミミズや虫をあさり口に運ばないと生きては行けなかったのだと言うのだ。「この……。この……。」と、妹が床を叩きながら泣いた。私はぐっと奥歯を噛み締めた。なぜか涙はでなかった。
高校の先輩で、日本の国立大学(土木工学)を出て北に行ったS先輩は、やはりこの「マグチャビ」(マグチャビとは手当たりしだいに捕らえると言う意味)にあい山で一命をおとした。先輩の弟のスンチョルとは親友だった。やはり八九年に山から帰った友に聞いたところ、先輩の愛用していた万年筆だけが遺品として、その筋から送られてきたという。何と、死因は河川調査中に鉄砲水に遭遇し死亡したとのことだ。先輩の「無念」をどう言い表せばいいのか。言葉がでない。
金正日は拉致した日本人が洪水で死んだ。墓も洪水で流されたと言う。北の悪魔どもは、どうも同じパターンの嘘をつく習性の持ち主のようだ。
「この国の人権は、犬(ケ)権よりも軽いものさ。自動車に轢かれた犬は喜ばれて犬汁(ケジャン)になる。しかし、人間が道端で餓死して倒れていても埋める人すらいないのだ」と、長兄は皮肉まじりに話したものである。いまは、この兄も逝ってしまった。
● 北送(帰国事業)は、北朝鮮政府の集団誘拐である
一九五〇年の六・一五動乱で離散した人は、一千万人だと言われる。七千万人中の一千万だから七分の一になる。すると、わが祖国の天空には、肉親を引き裂かれた呪いの声が渦巻いているのだ。
今なお北は人質を利用して離散家族面会ショウを繰り広げ、金儲けの手段にしている。韓国政府の「国政監査」によると、金大中、盧武鉉政権時代の離散家族の「対面」で、北が対価として手にいれた米や肥料、面会施設の建設、諸経費等は、一兆七千万ウオンであっと言う。これは、一人の家族が北の家族と会うために一億四千万ウオン(日本円、一千五百万円)を北にかすめ取られたことになる。金親子の出自、まさに馬賊の習性そのものではないか! 数世紀前の事ならいざ知らず今の地球上に、それでも国家だと標榜する集団が、自分たちが拉致して来た人々を人質にし、食い物にして生き延びている国は北朝鮮だけだ。
金日成が仕組み、総連が奴隷のように貢いだ北送同胞は、社会主義への民族大移動という鳴り物入りの集団略奪であった。北送船(帰国船)のタラップは、「地上の楽園」への階段ではなかった。それは、北朝鮮・収容所への階段であり、入り口であった。金親子はこの人質を徹底的に利用した。それは今も続いている。
北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会副代表である山田文明氏は、「帰国事業は北朝鮮政府による誘拐であり、朝鮮総連はその誘拐の実行行為者である」と、断罪している。(機関誌「光射せ!」創刊二号)
北送された九万余人の人々の中には、六、六〇〇余人の日本人妻とその子供たち(日本国籍者)が含まれていた。そしてその後、北は対南工作活動を目的とする多くの日本人拉致を繰り返した。これは重大な人権侵害、主権侵害の国際的犯罪である。山田氏の指摘する「帰国者誘拐」も「拉致」もその本質は同じだ。
私たち同胞の中では、当時の在日の置かれていた状況から、帰国事業は少なくとも人道主義の物差しではかりえる肯定的な事例であったとの見方が存在する。集団誘拐とは言い過ぎではないか。自らの意志で帰った人も多いし、十万もの人がそう簡単に騙されるかね?」と。それで、「お互いにもっと自由に逢えることさえ出来ればの人道問題だけだ」と説く人たちがいる。仕組んだ側から見ると、これは願ったりかなったりであり、その本質と犯罪性、人権的な見方を曇らせる格好のしろものである。
北送事業の本質を、人権の視点で徹底的に究明しなくてはならない。
金正日は、ヒットラーの収容所にもまさる強制収容所を持っている限り自分が安泰だと言う事をよく知っている。いちばんの延命手段なのだ。決して核とミサイルだけが彼の延命道具ではない。
私たちのたたかいは、帰国者の人権解放運動であり、拉致された人々の奪取であり、人権に光りをあてるたたかいである。金正日が生き残っているのは、強制収容所が存在するからである。収容所の解体は金正日軍事独裁政権の崩壊を意味する。
私の犯した罪
ある会合の二次会で、日本人の友人が「ところで在日、特に元総連の活動家は卑怯だよ。帰国問題などでも先頭に立ってたたかおうとしないじゃないか!」と、話をした。私は「うん、それは…」と、答えただけで黙ってしまった。その場では自己弁明にしかならないからだと思ったからであった。
確かに、総連中央級の幹部や帰国運動の犯罪性を暴いてたたかった先輩たちはいた。しかし残念にも大き輪にはならなかった。そこには、北に人質が囚われていることと、再び肉親や友人に政治的な報復を加えさせることは出来ないという思いがあるからである。今も強制収容所の恐怖が在日同胞社会に存在しているのだ。
私は三十年近く総連の専従活動家であった。青年期の私は、「帰国運動」にすべての情熱をかたむけた。宣伝パンフを小脇に、または映画のフイルムを背負い同胞の住む部落を駆けずりまわった。青年たちを集め「祖国建設の夢」を語り合い、新潟へと送り出した。帰国技術者集団を組織し北へ送ったりもした。
その中に、北の工作員であったアボジを持つ高校の後輩がいた。彼を口説いて船に乗せた。その後輩は「俺は日本の大学を出てから帰る」と、首を縦には振らなかった。彼を総連の青年行動隊の力を借りて船に無理やり押し込んだ。その彼もやはり山(政治犯収容所)で死んでいった。悪夢の中に出てくる彼の笑顔は辛くてならない。だのに、肉親の犠牲だけを先に考えていた自分が恥ずかしくてならない。
私は金親子の手先となって、多くの人々の自由を奪い人権を踏みにじり殺人を犯した罪人に間違いない。にも拘わらず、十五年前までは自らを反省、総括しようとは考えなかった。金親子の忠実なしもべとしての誤った生き方をあらため、思想的な総括にいたる期間は決して容易いものではなかった。
しかし、何度も何度も煩悶し、心おさまらなかったことの第一は、北送運動への加担、実行者であったという厳然たる事実だった。いちばん重い問題であった。
そして、金日成、主体思想と決別した。すると不思議にも少し気が楽になった。何かこう重い荷物、十字架を降ろしたような気持ちであった。その後、私は北の人権問題に取り組み、アムネスティにも参加してみた。北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会にも出かけてみた。カン・チョンファンさんや脱北者の講演会に出たり、「平壌の水槽」をグループで読みあったりもした。いろんな会合や集会にも参加している。そして、微力だがたたかいの戦列に加わっていることを誇りにおもう。
私の反省と総括は、犯した罪にくらべ決して十分なものではない。しかし総括は総括それ自体にあるものではない。人は自らの人生観をかえたりもする。問題は正しくかえることだ。そこを起点にした新しい生き方こそ肝要なことだと思う。
以 上
『光射せ!4号』P169-177