かるめぎ No.33 2000.06.01

会報『かるめぎ』の過去号を、旧サイトから、順次こちらにアップしていきます。この機会に、過去の『かるめぎ』を通して、守る会の歩みを知っていただければ幸いです。

総連本部前と飯田橋駅頭でアピール 朝総連と日朝議連加盟議員に総会決議を伝達

 李順玉さんの4月の国連人権委員会への出国が許可されなかったなど北朝鮮の人権擁護の運動が抑圧されている中、金民柱、小川晴久、萩原遼三代表に仙台からの会員も含め計8人が、5月11日に朝鮮総連と日朝議連加盟議員に第6回総会決議を伝え、飯田橋駅前でもアピールを行った。

 午前11時にまず総連本部前に出向き小川晴久代表がインタホンで来訪の趣旨を述べた。そして金民柱代表が朝鮮語で抗議すると、守衛室責任者が顔をのぞかせ要請文を受け取った。一行は次に飯田橋駅前に引き返し、250部の要請文を一時間足らずで通行人に配付した。

 配布後、再び総連本部前に出向く。こんどは萩原代表が、ハンドマイクを使って、「許宗萬副議長出てきなさい。…我々は君たちのような暴力は振るわない。我々の会は1994年2月の結成総会に諸君が動員した数十人の暴力分子の暴力にも屈せず6年後の今日ますます発展している。帰国者と日本人妻の悲劇に総連は責任をとれ」と呼びかけ、総会決議文を朗読した。しかし、本部の扉は固く閉ざされたままだった。

170人の日朝議連加盟議員に要請

 午後2時頃、今度は国会に出向く。国会では参院会館、衆院第一、第二会館で手分けして、2階から7階まで170人(衆院104人、参院66人)にのぼる日朝議連の各議員事務所をたずね、要請文を配付した。
 このとき配ったのは、村山訪朝団への手紙と日朝交渉再開および政府の食糧支援への守る会の声明文に加え、昨年12月5日の東京国際フォーラム宣言だった。

「日朝議連の各議員は友好をうたう以上、北朝鮮の人権状況(帰国者の状況や強制収容所の存在)を知っておいてもらう必要がある。各地の会員も地元の議員に働きかけてほしい」と小川代表は訴える。  (編集部)

日朝議連加盟代議士に働きかけるために加盟議員リストを公開

 「守る会」では5月11日に日朝議員連盟加盟議員170名に第6回総会決議を伝え北朝鮮の人権状況の改善にいっそう努力するように要請しました。会員や読者のみなさまが地元の日朝議連加盟議員に働きかけるのに役立てればと議員リストを公開します。とくに総選挙を間近にひかえている今、大いに活用されることが期待されます。  (編集部)

【衆議院】
<自民党>
相沢英之・井奥貞雄・池田行彦・岩下栄一・衛藤征士郎・大野功統・奥谷通・
奥山茂彦・小里貞利・河井克行・河村建夫・木村勉・河野洋平・
阪上善秀・桜田義孝・佐藤静雄・鈴木恒夫・鈴木宗男・園田修光・園田博之・
滝 実・武部勤・谷洋一・中川秀直・中村正三郎・中山太郎・中山正暉・
西田司・野中広務・林義郎・原田義昭・檜田仁・藤井孝男・ニ田孝治・
堀之内久男・松岡利勝・目片信・森喜朗・山口泰明・山崎拓・構内正明・
吉川貴盛 

<民主党>
池端清一・石毛えい子・伊藤秀成・上原康助・生方幸夫・大畠章宏・
海江田万里・鍵田節哉・金田誠-・北橋健治・桑原豊・近藤昭一・坂上富男・
佐々木秀典・高木義明・辻一彦・土肥隆一・永井英慈・中川正春・中沢健次・
中山義活・鉢呂吉雄・鳩山由紀夫・日野市朗・藤田幸久・細川律夫・前原誠司・
松本惟子・山本譲司・山本孝史・山元勉・横路孝弘 

<公明党>
池坊保子・上田勇・大野由利子・久保哲司・東順治・若松謙維

<自由党>
西野陽・野田毅・松浪健四郎 

<共産党>
大森猛・金子満広・穀田恵二・中路雅弘・松本善明・矢島恒夫 

<社民党>
伊藤茂・北沢清功・知久馬二三子・辻元清美・土井たか子・中川智子・
中西績介・畠山健治郎・濱田健-・深田肇・保坂展人・村山富市・
横光克彦 

<改革クラブ>
小沢辰男・並木正芳 

<無所属>
武村正義

【参議院】
<自民党>
景山俊太郎・亀谷博昭・岸宏一・北岡秀二・国井正幸・斉藤滋宣・佐藤昭郎・
塩崎恭久・鈴木正孝・須藤良太郎・田村公平・常田亨詳・西田吉宏・馳浩・
長谷川道郎・平田耕一・森下博之・森山裕・山内俊夫・山崎力・山下善彦 

<民主党>
今井澄・木俣佳丈・久保亘・小林元・小山峰男・斎藤勤・笹野貞子・
佐藤泰介・管川健二・角田義一・広中和歌子・藤井俊男・前川忠夫・
峰崎直樹・簗瀬進・山下八洲夫 

<公明党>
海野義孝・加藤修一・高野博師・福本潤一 

<共産党>
井上美代・大沢辰美・緒方靖夫・小池晃・小泉親司・富樫練三・
宮本岳志・山下芳生・吉川春子 

<社民党>
大渕絹子・大脇雅子・梶原敬義・菅野寿・日下部禧代子・清水澄子・
谷本巍・照屋寛徳・田英夫・渕上貞雄・三重野栄子・山本正和 

<参議院の会>
高橋紀世子・堂本暁子

日朝交渉再開および政府の食糧支援について 守る会声明文

 再開された第9回日朝交渉が4月7日平壌で終った。次回は来月下旬東京で開催とのことである.この機会に、日朝交渉と政府の食糧支援につき、私たちの要求を改めて明確に表明する。

 帰国者の生命と人権を守るという本会の立場から、日朝交渉に当って次のことを要求する。

1、1960年代に在日朝鮮人と結婚して北朝鮮にわたった日本人妻(日本人夫を含む、 以下同じ)6000人の早期、全員の里帰りを実現すること。さらに希望にしたがって永久帰国の実現に努力すること。

2、日本人妻の配偶者およびその家族ついては、帰国者全員の一時日本訪問を実現すること。さらに希望にしたがって日本への永久帰国の実現に努力すること。

3、行方不明の帰国者・日本人妻の安否調査につとめること。

4、横田めぐみさんたち日本人被拉致者の徹底調査と原状回復。

 以上の件はいずれも21年から40年という長期にわたって家族肉親との再結合が断たれており、人道上からも一刻も放置できない問題である。日本政府は北朝鮮政府に対し、これらの問題解決を強く主張すべきである。

 これらの問題での進展なしに無条件に食糧支援を行うことに強く反対する。特に「2」の視点が日本政府に欠如していることに私たちは注意を喚起すること。

 以上は日本政府への要求であるが、私たちは北朝鮮政府に対しても人権の国際基準を守ることを断固要求する。

 北朝鮮政府は世界人権宣言の具体化である2つの国際人権規約(自由権規約と社会権規約)に1981年秋に加入している。自由権規約第10条は「自由を奪われた全ての者」つまり刑務所などに囚われている者も「人道的にかつ人間の固有の専厳を尊重して、取り扱われる」ことを求めている。

 しかるに北朝鮮政府は、社会的政治的生命と身体的生命を区別し、前者を失った者は人間のクズとして人権の適用外としている.これは自由権規約第10条の明確な違反である。

 北朝鮮政府が自由権規約に加入していながら、一切それを守っていない不誠実極まりない態度は、朝鮮赤十字会が、日赤が出す帰国者の安否調査に一度も応じないという驚くべき事実や、姜哲煥、安赫氏の手記があるにも拘らず強制収容所や政治犯の存在を一切否認している所にもよく表れている。

 このような政府や体制と国交を結び、賠償金を払っても、歴史の償いにも両国民の友好にもつながらない。

 私たちは北朝鮮政府に自らも批准している人権の国際基準を守るよう強く求める。これを守らないようでは戦前の日本を批判する資格が無いことをはっきりと指摘する。

 北朝鮮への食糧支援についても、無条件であることには反対である。末端に確実に届くという条件や人権状況の改善を日本政府は強く求めるべきである。
  この点で4月7日付毎日新聞が紹介した、今年2月に撤退した国際救援組織アクション・アゲインスト・ハンガーの北朝鮮担当責任者が語った撤退理由と批判は実に的確である。人道に名を借りた、実は非人道的な食糧支援に私たちは反対である。日本政府や国連に強く改善を求める。

2000年4月9日 北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会 第6回総会

追悼 金英達さん

 金英達さんの主要著作
在日朝鮮人の帰化』明石書店。
創氏改名』(共著)明石書店。
日本の指紋制度』社会評論社。
北朝鮮帰国事業関係資料集』(共同籍集)新幹社。など。

あなたのご協力なしには、私の本はなりたたなかった 萩原遼 共同代表

 昨年、大宅壮-ノンフィクション賞を受賞した『北朝鮮に消えた友と私の物語』をばくぜんと構想し始めたのは1995年の夏でした。大阪に小さな部屋を借り、取材に入って最初に訪れたのが金英達さんでした。いろいろと教えていただいただけでなく、明石の海でとれたという魚料理で、ごちそうしていただきました。

 それ以来、貴重な資料を何冊も惜しげもなしに貸してくれました。研究者というものは概して、せこいものですがヨンダルさんは、まれにみる大らかな方でした。帰国運動の前史をなす戦後の在日朝鮮人運動と日本共産党の関係について、公安調査庁の内部資料を貸してくださったことは忘れられません。

 これなしには、私の本の核心部分はなりたたなかったと思います。

 ヨンダルさんの死因の真相が一日も早く明らかにされまた、その遺志を私達が引き継いでいく事を今は強く金英達さんの霊前に誓いたいと思います。 (5月27日 ワシントン)

金英達さんの不慮の死を惜しむ 山田 文明(関西支部)

 RENK(救え/北朝鮮の民衆/緊急行動ネットワーク)代表の金英達さんが、8日午後6時40分頃、兵庫県尼崎市のマンション自室で死亡しているのが発見されました。連絡が取れずに不審に思った姉から連絡を受けたマンション所有者が合鍵で室内に入り、ズボンとワイシャツ姿で蒲団の上にあお向けになって死んでいる金英達さんを発見しました。

 報道によると、胸に刺し傷があり、まくら元には刺身包丁が落ちていました。また、現場には争った形跡はなく、玄関には鍵がかかっていたそうで、すでに死後約2週間が経過していたといいます。

 当初、身近な一人が事情聴取を受けましたが、12日になって捜査本部が設置され、捜査がつづいています。しかし、その後新たに明確になったことはほとんどありません。一刻も早く真相が解明されることを強く望みます。

 RENKでは、今回の事件は金英達さんが北朝鮮の民主化運動に取り組んできたことと関係があるのではと「徹底的な真相究明を」捜査当局に求めています。

 金英達さんは守る会・関西支部講座にも毎回のように出席し、地道で堅実な研究に裏打ちされた貴重な発言をしてくださる存在でした.昨年の帰国運動40周年を記念した集会でもパネラーとして出演していただき、帰国運動の実態について報告していただくなど、守る会にも積極的に協力していただきました。

 大きな柱の一本を突然失ったことは痛恨の極みでありますが、遺志を受け継ぎ、共通する志を実現するため、悲しみを乗り越えて前進していきたいと思います。

 人権と民主主義の視点から北朝鮮当局を厳しく批判すると共に、在日コリアンの権利のために貴重な研究をつづけた金英達さんに、「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」としてあらためて心から敬意と哀悼の意を表したいと思います。

 金英達さんは1948年に愛知県で在日二世として生れ、苦学して神戸大学法学部を卒業しました。1970年には日本国籍を取得しています。民団の「民族大学」、関西大学、大阪市立大学、奈良産業大学などの講師を務めたほか、1993年にRENKの創設に参加し、94年から代表を努めていました。

RENK代表 金英達さんの死を悼む 共同代表 小川晴久

 RENK(救え/北朝鮮の民衆/緊急行動ネットワーク)代表の金英達さんが4月下旬に尼崎市の自宅で刺殺された事件は、私たち「守る会」にとっても、とてもショックで痛ましい出来事です。真相はこの一文を草している現時点(00.5.22)では定かではありませんが、一日も早く解明されることを願ってやみません。

 金英達さんが、すぐれた在日朝鮮人間題の研究者であったことは広く知られていますが、私たち「守る会」にとっても縁の深い人でした.そのことを以下に記して深い哀悼の意にかえたいと思います。

 RENKは1993年6月に発足しています。私たち「守る会」の発足はその翌年の2月ですが、RENKは私たち「守る会」の誕生にも大きな援助をしてくれました。

 「守る会」誕生の最初のキッカケは1993年8月22日(日)の小さな屋内の非公開の証言集会でした。もっと多くの人に聞いてもらわねばならないと同年11月7日に、6人が一堂に会して証言するという初めての公開の証言集会が都内カンダパンセで開かれました。200名の人々が集まって下さり、会場はギッシリ埋まりました。

 このとき総連系の妨害者は10名前後いましたが、主催者側の要求で途中退場しました。当時まだ金英達さんはRENKの代表ではありませんでしたが、11・7証言集会成功のため大阪から参加してくれたRENKの一員であったと思います。

 そして約半年の準備期間をへて「守る会は1994年2月20日、同じカンダパンセで結成集会をもつことになりました.当日の記念講演の演目は「帰国事業とは何であったか」、講師は金英達さんでした。講演のあと遺家族、帰国事業関係者の証言が続き、主催者側が結成宣言を読み上げて集会を終了する段取りでした。

 ところが開会を宣した途端に野次、怒号による妨害が始まりました。当日約180名の人々が参加していましたが、なんと約50名もの妨害者が会場前列の座席を予め占めていたのでした。金英達さんの講演時間は30分と予定していたのですが、野次と怒号の中で金英達さんは15分は屈せず話し続け、責任を果たしてくれました。
 そのあと4人の遺家族の証言が続き、結成宣言を読み上げたところで、カンダパンセ側から集会中止の要請が入り、結成集会を打ち切らざるをえませんでした。

 宣言を読み始めた途端に妨害者(総連系)の若い者が30名近く手を後ろにあて演壇に詰め寄ってきて集会を粉砕せんとする実力行使が始まったからです。主催者側は結成宣言が読み終わるまで防衛するために老若男女スクラムを組んで彼らの前進を食い止めました。

 体をはって守ってくれた人の中にRENKの李英和さんも金英達さんもいました。結成宣言を読み終えたところで所期の目的を辛うじて達成しましたので、会場側の事情で集会終了を宣言したのですが、集会を粉砕できたと思ったのか、それとも彼らも組織動員であったからか、妨害者たちは一斉に引き上げました。50名位の数であったのはそのときわかりました。

 「守る会」運動にとってもう一つ忘れられないことは、日本人妻の里帰りが実現することになって「守る会」が1997年9月9月に記者会見したとき、戦前戦後テノール歌手として活躍して1960年1月に帰国した永田絃次郎(金永吉)一家(奥さんは日本人妻北川民子さん)の事例を資料として用意したときのことです。

 金英達さんは永田絃次郎に関して収集していた貴重な資料を提供してくれました(カルメギ22号参照)。私はそのとき金英達さんという人は研究者には珍しい無私でサービス精神に富んだ方であることを痛感しました。RENK第14号の金英達さんの永田絃次郎論が鮮烈です。

 金英達さんは在日朝鮮人問題の数少ない誠実な研究者であっただけでなく、帰国者の悲劇と苦しみ、北朝鮮民衆のそれを座視せず、北朝鮮政府や総連と闘う勇気をもった研究者でした。彼を失ったことの損失はとても大きく、日がたてばたつほどその意をつよくします。

金英達さんの冥福をお祈りいたします 2000年5月 金民柱

 「RENK(救え/北朝鮮の民衆/緊急行動ネットワーク)」代表・金英達さんの訃報を突然の報道で知り驚くとともに故人のご冥福をお祈りいたします。
 金英達さんは、北朝鮮の民主化と人権闘争の先頭に立って活動されて来た闘士であり朝鮮現代史と在日朝鮮人研究の権威で温厚な学者でもあっただけに、その大きな存在をうしなったことを愁い非常に残念でなりません。

第6回総会  開催さる

<4月9日・シニアワーク東京>

 4月9日シニアワーク東京にて、第6回「守る会」総会が会員多数並びに関係者の参加のもと開かれました。

 先ず、小川晴久共同代表の開会挨拶によって定刻通り始まり、同じく共同代表の萩原遼氏の司会により議事進行がスムーズに行われ、参加会員皆様の拍手によって各議題は順調に承認されました。ただし、一部議題は、再度熟考され再提出されることになりました。

 今回、熟考再提出される『議題』は、三本の「声明」、「要望書」の中の『村山訪朝団メンバーへの手紙』(在日朝鮮人帰国者および日本人妻の安否調査に取り組んでください)の文書の中の一部文言(表現)に関するものでした。

 関西支部からは、山田文明事務局長による「99年度 関西支部活動報告」と「今年度2000年活動方針」と昨年の活動上での問題点などが述べられました。今後の「守る会」全体の活動においても貴重で参考となる報告がなされました。

 また当日は、新しく設立された「東海支部」事務局3名のスタッフも「支部設立報告」と「今後の活動方針」を事務局長の金国雄が代表し報告され、満場の拍手によって2番目の『支部』誕生が祝賀されました。また、梅村、浅井両氏の自己紹介、および今後の「東海支部」活動に対する取り組みの補足説明がなされました。

 議事は、非常に順調に進行しましたが、必ずしもおざなりで形式化された総会ではなく、今回も充実し真剣に討議討論され、また新たなる「守る会」発展に向けた報告がなされた総会となったことを強く感じた事をご報告いたします。  金 国雄(東海支部)

「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」第6回総会 1999年度活動報告と総括2000.4.9 小川晴久

【1】どんな活動をしたか

(1)「守る会」活動の本柱である帰国者の人権の確立と強制収容所の廃止(実はこの2つは、1つのことであるが)について、今年度は以下のシンポジウムに取り組んだ。

■「帰国事業40周年事業」

8月21日 映画「海を渡る友情」と講演
 高柳俊男氏、萩原遼氏、前田日明氏(ビデオ出演)呉寿龍氏〈特別出演〉、於東京韓国YMCAスーペスY。出席者100名。

10月23日 映画「キュポーラのある街」と講演
崔殷範氏(元韓国赤十字国際部長)、安赫氏(特別挨拶)、於川口国際産業会館、出席者50名.

12月18日 大阪集会、映画「海を渡る友情」とパネル・ディスカション
呉寿龍氏講演、パネラー崔殷範氏他。出席者100名。

■2月5日 「北朝鮮強制収容所廃絶を求める東京国際集会」

金民柱氏、安赫氏、ピエール・リグロ氏、スザンナ・ショルテ氏、ハリー・ウー氏    於東京 星陵会館ホール、出席者200名。

(2)学習会、講座も東京と大阪で次のように取り組んだ。

《東京》1999年6月19日
「戦後の在日朝鮮人運動と帰国事業」  (講師 高柳俊男氏)

 7月24日
「帰国事業と北朝鮮の状況について」  (講師 金 鉄雄氏)

 『主体思想の評価について』      (講師 小川晴久氏)

2000年3月12日
「狂犬におびえるな」             (講師 萩原 遼氏)

 6月27日
第8回関西支部講座「帰国事業の法的責任を問う」
            (講師弁護士藤森克也氏)

 10月17日
 第9回関西支部講座
「済州島蜂起、朝鮮戦争、そして 
朝鮮総連を生きた私の半生から今考えること」  (講師 金 民柱氏)

2000年3月4日 
第10回関西支部講座 「在日コリアンと人権思想」  〈講師 朴 斗鎭氏)

(3)街頭行動(駅頭チラシまき) 

6月10日 飯田橋駅、 7月4日 川崎駅、10月15日 川口駅

(4)姉妹団体、実行委の集会への参加

11月10日
 佐伯浩明、三浦小太郎氏らによる「北朝鮮民衆のための人権宣言」発表

11月20・21日
 李順玉さん母子来日講演(東京、大阪)

12月1・3日
 北韓人権・難民問題国際会議(於ソウル)に参加し報告。

(5)会報「カルメギ」(No.27~32)と「生命と人権」(No.11~13)を発行。

(6)「守る会」インターネットホームページに98-99年の2年分のカルメギを全文収録。〈会員の福本正樹氏により)

(7)東海支部の結成。2000年4月2日に会員の金国雄氏らの努力で誕生。

(8)外務省(北東アジア課、人権難民課)への要請(12月6日)。東京国際フォーラムの宣言、決議をもって、リグロ氏、ショルテ氏らと要請行動。

【2】問題点

(1)99年度10項目の方針のうち、地方での講演活動(5)、日赤、政党などへの働きかけ(8)はほとんどできず、またリベルタ出版からの刊行〈9〉はまつたくできなかった。また『五年間の歩み』(小冊)の刊行も実現できていない。

 その主な原因は帰国事業40周年のシンポジウム(2~3回)と国際フォーラムという大きな行事に忙殺されたことにあるが、任務分担や部門別専門委員会の課題〈10)という10項目の方針が実施されなかったことがもう1つの要因である。

(2)『生命と人権』の編集と刊行について編集委員はあきらかになっていた。編集長(小川代表)は運営委員会で報告や了承を辛うじて行なえる形で、編集委員会を別個に召集しなかった。『生命と人権』の日本語版については新年度版の方針案に提示するように大幅な改善を図ることになるだろう。

(3)「守る会」の事務所と私書箱の管理について2人の運営委員の努力で私書箱と事務所管理がはかられてきたが、それでも間に合わず、入会申込書の処理や留守電の処理で会員から苦情が出された。この点を反省し改善の措置をはからねばならない。

2000年度 新役員

<共同代表>
小川晴久(東京大学教授)
金 民柱(在日帰国者遺家族)
萩原 遼(ノンフィクション作家)

<運営委員>
川崎孝雄(会社員)
金 国雄(公務員)
佐伯浩明(産経新聞正論調査室次長)
佐倉 洋(編集ジャーナリスト)
宋 允復(統一日報)
高柳俊男(法政大学助教授)
谷川 透(編集者)
長崎敬一(元NTT社員)
山田文明 (大阪経済大学助教授)

2000年度活動方針

1.帰国者の人権を擁護、確立し、自由往来をかちとる活動

1)帰国事業をいぜんとして正しかったと総括する朝鮮総連に、帰国者の受難の事実を突きつけ、その責任を追及する。朝鮮総連を訴える裁判を準備する。

2)日本人妻里帰りの再開に当たって、全員の早期里帰り実現と、在日帰国者の自由往来を要求する.

3)帰国被爆者の実態調査を日朝両国政府に要求する。

4)帰国者問題を離散家族としてとらえ、韓国政府・日本政府に再会実現を促す。

5)帰国者の中には行方不明者が多数存在する。日朝交渉再開にあたり両国の政府と赤十字に行方不明の帰国者の捜索を求める。

6)帰国事業40周年に当たり、9万3千人の実態調査も含め、帰国事業とは何であったのか、歴史解明を図り、懸案の本作りを完成させる。

2.強制収容所の廃止をめざす活動

1)収容所体験者の手記を読み、読んでもらう運動を進める。

2)昨年12月の2つの国際会議を契機に、アメリカ、フランスでの取り組みが進んでいる事実を知らせ『生命と人権』(日本語版)既刊号をセットやバラで頒布し普及する。

3)安赫氏が進めている強制収容所を映画にする事業を支援する。

3.学習会、講座、講演活動「守る会」の基本活動の一つは、上記2つの課題について、不断に認識を高めていく学習活動である。支部の基盤を固め、支部を増やしていくためにも積極的に企画する。

4.駅頭、街頭活動。隔月くらいに駅頭、街頭でビラまきをし、訴える。

5.支部建設 4月2日の東海支部の結成に励まされ、東北(仙台〉、四国(高知)、九州(福岡)での実現をめざす。また海外支部として韓国(ソウル)支部を作る。

6.『生命と人権』の刊行

1)英語版を引き続き韓国の市民連合と共同で刊行する。アメリカ、フランスも含めた共同刊行を目指す。

2)編集委員会を強化する。予算の関係で日本語版を不定期にし、編集も必要があれば改善する、日本語版の体裁はタブロイド版も考慮する。

7.カルメギの刊行 隔月刊を確保する。

8.「守る会」のホームページをいっそう活用する

9.「守る会」を紹介するパンフ、莱(しおり)を作り、会員拡大に努める。

10.日赤、朝鮮総連、日本政府、政党、人権NGOなどに働きかける。昨年末に韓国で誕生した「北韓民主化ネットワーク」を歓迎し連帯をはかる。韓国の市民連合、アメリカ、フランスなど海外との連帯もひき続き強める。

11.事務局態勢、運営委員会の強化、部門別専門委員会を作る。

東海支部 結成

 偶然にも私を含め3人の人間が身近に居住し出会うことができたことが、今回の東海支部設立が短期間に成された大きな要因でした。

 心ある人々との出会が『東海支部設立』という難業を数ヶ月という短い期間で達成させたということであり、そのことが如何に重要であるか、また非道に対する強い怒り、憤り、人間誰もが本来持ち合わせている正義に対する強い憧れと想いが如何に素晴らしく大切であるかということの証でもあります。

 当分の間、支部代表はおかず私を事務局長(本人の弁として、あまり肩書きというものが好きではないのですが、これも北朝鮮国民・民衆の生命 〈人間としての尊厳〉を守り、北朝鮮の地に人権の灯を輝かすためであるならば、あえて引き受ける事も吝かではありません)とし、梅村氏(10年程、韓国を遊学。昨年帰国し、「守る会」に入会した強者。韓国語にも堪能で、力強いスタッフでもある)を資料調査委員として今後、インターネットを利用した東海支部ホームページの資料担当と勉強会の中心人物となる予定です。

 続いて異色の助っ人、浅井氏。今回、「守る会」東海支部設立に重要な役割を担った人物。通称「ジャンボ」といい、私の長年の友人であり仕事仲間(同僚)と同時にスキー仲間でもあります。

 東海支部は、このような三人を事務局の柱とし、新たに会員となられた方々や東海地方の以前からの会員の皆さまを中心に、東京本部、関西支部と連携協力し、「守る会」のさらなる発展を目指し活動を地道に行っていくつもりでおります。今後とも会員皆さまの温かい、ご理解とご支援を賜りますようお願いいたします。

 北朝鮮の未来は、必ずや北朝鮮国民(民衆)のものとなりましょう。また真の日朝友好親善関係が築かれる日、その名誉を「守る会」がひとえに手にすることでしょう。簡単ですが、「東海支部」設立の言葉とさせていただきます。

2000年4月7日 金国雄 拝

第11回 関西支部講座 済州島蜂起、朝鮮戦争、そして朝鮮総連を生きた私の半生から今考えること 講師 守る会共同代表 金民柱さん

 昨年10月17日の第9回関西支部講座につづいて、去る5月20日、金民柱さんにおいでいただき前回のつづきのお話をしていただきました。参加者は40名ほどでしたが、今回も初参加の方をまじえて熱心に討論していただきました。講演に先立ち、参加者一同、不慮の急死を遂げた金英達さんに黙祷をささげました。

 1957年のクリスマスイブ、下関に密航し、父を尋ねて上京した。当時、朝鮮青年同盟の組織が作られつつあったが、その委員長がやってきて議論し、朝鮮戦争は誰が起こしたのか、朝鮮・半島の統一といって無謀な戦争をする意味があるのかと口論になった。

 しかし、今の在日の進むべき方向に一致団結するために協力してくれといわれ、構成員にはならなかったが、その後、協力することになった。

 新宿の自宅の6畳間で「新宿朝鮮青年学校」を開くとともに、新聞「新宿トンム」を発行し、コーラスグループも作った。ところが、青年同盟の幹部がきて、学校や新聞、コーラスグループなどは個人がすることではなく、組織がすることだといって彼らの組織に強制的に併合されてしまった。

 また、米国について論じ合っているとき、「美国」という言葉を使ったところ「“美しい国”とはけしからん」と足蹴にされ、こんな人たちとは一緒にいられないと判断した。その後、リアリズム研究会の事務局に雇われたところ、事務所を監視していた警官に密入国が見つかりそうになったため、そこを辞めて父親の薬屋を手伝うことにした。
 その後、統一評論社の記者になって自転車大行進を取材したが、そこでも私の取材の邪魔ばかりするとんでもない記者がいた。

 済州島の4・3人民蜂起を一冊の本にして、関東地方は私が売りに回ることになった。朝鮮大学にもいって図書館に買ってもらい、総連中央にも売りに行った。
 ところが、総連中央宣伝局の人物は「人民闘争の歴史は個人が書くものではない。党の歴史編纂所あるいは党の承認を得て書くものだ」といってその本を没収してしまった。

 この他、朝鮮商工新聞記者時代に書いた自叙伝にまつわる話など、興味深いお話がつづきました。さらに、北朝鮮に帰った2人の弟と2人の甥のその後や、金民柱さんの周りにいて北に帰った10名ほどの人たちのその後について、帰国者の人権情況の具体例として報告されました。 山田文明(関西支部)

関西支部による萩原さん壮行会

 5月1日、大阪・鶴橋の韓国食堂アリランで、萩原遼さんのアメリカ行きの壮行会を17名の参加で行いました。アリラン食堂は、関西支部の講座が終わってから、懇親会の“打ち上げ”にちょこちょこ利用しています。呼びかけが直前になり連絡できた範囲も限られましたが、お子さん2名含めて「守る会」会員を中心に集まりました。
 会合では、乾杯、会食懇談後、呼びかけ人も詳細には萩原さんのアメリカ行きをからめていないので、萩原さんから報告を受け参加者からの質問に答えるかたちで進められました。

 萩原さんは、朝鮮半島をめぐる情勢で再度ペリー報告の詳細な解明への抱負などを語られました。

 その後、守る会恒例の自己紹介として、各自の守る会の取り組みへの思いを中心に話し合いました。参加者の中で家族4人で来られた奥さんは、韓国から来られた方で日本に来られてからの政治状況、風土の違いからの意識のギャップなどを感じたこと。そして、今の韓国の3・8・6世代に共感するものがあると発言されました。

 最後にみんなからの心のこもったプレゼントをわたし、萩原遼さんからお礼を受け、終始なごやかに期待感あふれる壮行会になりました。
 

ワシントンからの第一報

 成田発、ニューヨーク経由で5月22日夜12時ごろワシントン入りしました。昨年受賞した大宅賞の副賞としてJALからいただいた航空券でのアメリカ入りです。ビジネス・クラスなのでゆったりとし、アルコールも飲み放題というサービスを満喫していたまではよかったのですが、12時間かかってニューヨークに近づいた頃ニューヨーク上空は激しい雷雨で着陸できず、上空で旋回しながら待機するとのアナウンス。二時間ほどたったところで燃料が切れかかったのでワシントン空港に緊急着陸するとのこと。そこで給油したり待機したりが3時間。

 ようやくニューヨークについたのが午前二時半。ホテルはなく、やむなく空港のベンチで夜明かしする羽目に。ベンチで仮眠しながらも時折爆弾のようなはげしい雷の音にびっくり。なにやらきびしい前途を暗示するような幕開けでした。

 アメリカはいまバブル景気のまっただなか。ニューヨークで目に付いたのは、ひところの日本のような地上げや建築ラッシュ。そのあおりなのかホテル代の高いのには目をむきました。

 10年前アメリカに住んでいた頃、ニューヨークのカーター・ホテルといえば一泊38ドル。安宿の典型でしたが、今は102ドル。3倍です。アパートはこれから探すのですが、この調子ではかなり予算を上回りそうです。

 23日からワシントンに常駐するマスコミ各社にあいさつ回り。朝日新聞を訪ねたとき一人の記者が「もしか赤旗におられた萩原さんですか」。彼がまだ東大の学生の頃、東大新聞の編集長をしていた彼から原稿を頼まれたことがあり、20年ぶりの再会です。いろいろ状況をくわしく教えていただき、不慣れなパソコンの送信方法なども手をとって教えていただいたおかげでこの記事も送ることが出来ました。

 またこの記者に紹介された別の記者が、時事通信の名越健郎氏。父上が昨年12月の東京での守る会主催の国際フォーラムに来られて私の『北朝鮮に消えた友と私の物語』を買ってくださり、その後高いお誉めのお手紙をも下さった方でした。そんな因縁でワシントン支局長をしている健郎氏も私の著書を3冊読んだとのことで、とても好意的に対してくれました。

 これから、こうした方々の力をお借りしながら所期の目的を何とか果たしたいと思っています。

萩原 遼 5.27

ソウルからの通信 頂上会談に好意的な韓国世論 ただし、識者には強い批判論も

 4月から5月にかけて、韓国の新聞は内政や統一関連のニュースで話題に困ることがなかったようだ。

 日本でも大きく取り上げられたようなので、ご存知のことだろうが、4月13日には第16代国会議員総選挙が実施された。総選挙前には市民団体による「落薦落選運動Jが展開され、大きな関心を呼んだ。

 投票直前は第一野党のハンナラ党の圧勝と予想されていたが、それを微妙に揺り動かしたのが4月10日の南北首脳会談6月開催発表であった。それに対する韓国世論はどうなのであろうか。

 5月12日付の「文化日報」は次のような世論調査の結果を掲載したが、これが非常に興味深い。

 まず、「朝鮮戦争問題の解決法」については、76.3%の回答者が「未来志向的に解決すべき」としており、「原因・責任の徹底究明が必要」との回答を大きく上回っている。
 さらに、「北朝鮮に対する認識」において「共存・協力の対象」と考えているのが54.8%であるのに対し、「敵対・警戒の対象」との回答が27.7%であった。
 そして、「南北関係改善の期待」については、頂上会談が「ある程度寄与」すると考えているのが55.0%、「画期的契機」が18.7%で、「別に寄与しない」の24.2%を大きく引き離している。

 この世論調査で総じて言えるのは、韓国国民の大半が、頂上会談の開催を非常に肯定的に捉え、今後の展開に期待しているということである。

 なお、韓国には日本同様、さまざまな日刊紙がある。私自身は、朝刊は発行部数第一位の「朝鮮日報」や北朝鮮情報に詳しい「中央日報」、革新系と評される「ハンギョレ新聞」の3紙に目を通すことが多い。夕刊では、識者の発言が多く盛り込まれた「文化日報」が群を抜いて政治に関する情報量が多く、愛読しているため紹介させて頂いた。

 しかし、不明瞭な合意文や北民衆を考え懸念もあり韓国では楽観を諌める声もある。南朝鮮労働党の研究で著名な現代史研究家、金南植(キム・ナムシク)氏にインタビューしたところ、次のように語っていた。

 北朝鮮側が発表した合意文に「労働党総秘書金正日国防委員長と金大中大統領の歴史的な対面が行われ、北南最高位級会談が発表される」という一文があるのに注目し「歴史的な対面」は金大中・金正日であるのに対し「最高位級会談」は金大中・金永南の会談である可能性があるというのである。

 その論拠の一つとして、1994年10月24日に朝鮮中央放送が「金正日同志を統一大統領に推戴するその日を早めるためにより力強く戦おう」という主張があったことを挙げている。つまり、南北の元首は金大中と金永南であり、そのさらに上に「統一大統領」としての金正日がいるという論理である。

 この合意文の表現に関しては、1994年6月に合意された南北頂上会談開催合意書と比較しても不明瞭である。1994年の会談は金日成の急逝により実現しなかったが、当時の合意書は「南北頂上会談を平壌で開催することにする」と明快な表現である。
  しかしこれは単に表現の問題であるとする見解もある。さらにまた、今回の表現は北側が有利に会談を進めようとする一つのカードであると主張する見解もある。

 次に「カルメギ」32号でインタビューに協力して頂いた「北韓の民主主義と人権実現のためのネットワーク」の見解を少し紹介しよう。
 ネットワークの機関紙『月間Keys』4月号では「石橋を叩いて渡るべき『南北頂上会談』」という記事が掲載されている。そこでは、「現在論議されている南北頂上会談は危険を甘受しながら急進展を期待する種類のもの」であるとされ、「談判形式の頂上会議」が必須なのか疑問を提示している。

 さらに、「いかなる対北政策であれ、結果的に北韓住民が直面している抑圧・貧困体制を引き伸ばすのに悪用される可能性が高いのであれば、慎重で思慮深い検討が要求される」と主張している。

 その主たる理由として「南北頂上会談が金正日の政略的な目的に利用されれば、韓国政権や国民だけでなく、北朝鮮住民もその被害者となりうるという点」が挙げられている。以上のように多様な議論があることを踏まえ、実際の会談に注目したい。

役割大きい「守る会」のホームページ

 ところで、最近、ネットワークのスタッフからも聞かれたことがあるが、韓国の政治学者や北朝鮮ウォッチヤーから「日本には北朝鮮に関するどのような団体があるのか?」と尋ねられることが多い。やはりホームページがあると説明しやすく、守る会のほか、在日コリアン科学的社会主義者ネットワークやRENKのURLを紹介している。守る会のホームページは、会の活動を理解してもらうのに韓国でも大きな役割を果たしているのである。

 私自身、「守る会」に関わるようになったのは在日コリアン科学的社会主義者ネットワークのホームページを通して「守る会」東海支部責任者のキム・ググンさんとお会いしたことがきっかけであったし、現在ソウルにいても、「守る会」のホームページでかなりの情報を入手できる。ホームページ運営関係者に感謝したい。

 最も重要な問題はもともと北朝鮮に関心がない人々にも問題意識を持ってもらうことであろう.今後も各団体が連帯して、世論に呼びかける努力をしていかなくてはならない.決して内輪の満足に終わってはならない、とこの場を借りて生意気ながらも皆様に申し上げたい.  ソウル駐在員 東昇平

 北朝鮮民主化・人権関係 ホームページ・アドレス
RENK(救え!北朝鮮の民衆/緊急行動ネットワーク)
http://www.bekkoame.ne.jp/ro/renk/

在日コリアン科学的社会主義者ネットワーク
http://www.Asahi-net.or.jp/~dt9k-iwmt/

北朝鮮難民救援基金 
http://www.Asahi-net.or.jp/~fe6h-ktu/

人権年表・日朝国交正常化交渉と南北首脳会談

1999年
(12月)
2日 北朝鮮を訪問中の超党派議員団(団長、村山富市元首相。幹事長、野中広務)は同日午後、万寿台議事堂で、金容淳朝鮮労働党書記ら同党代表団と全体会議を続行、次の点で合意した.
日朝国交正常化交渉を前提条件なしで再開、日本人拉致疑惑は「行方不明者」として引き続き調査、食料支援、行方不明者、日本人妻一時帰国調査に関し、12月中に両国赤十字間で協議を開始、政府間交渉と平行協議、来年の早い時期に朝鮮労働党代表団が訪日。

3日 北朝鮮訪問中の超党派議員団団長の村山富市元首相と朝鮮労働党の金容淳書記は、平壌市内で日朝国交正常化交渉の早期再開を促すとの「共同声明」に署名。骨子は日朝国交正常化交渉の早期再開を促す人道問題解決の重要性について合意し、各政府の協力の下で、赤十字に対して相互協力を勧告相互不信を解消し、相互理解と友好を発展させる交流を強化。

21日 人道問題を協議する日朝赤十字会談が、北京の北朝鮮大使館で行われ、双方が共同文書に署名、公表した。
骨子は日本人配偶者の3回目の故郷訪問の実現、日本人拉致問題は「行方不明者」として北朝鮮捜査当局に調査を依頼、食料支援につき、日本政府に対して早期に支援を開始するよう提起し、日本政府も食料支援を表明、昭和20年以前に行方不明になった朝鮮人被害者の安否問題を協議し、解決に向け協力する。
日本側首席代表は近衛忠輝日赤副社長、北朝鮮側首席代表、許海龍・朝鮮赤十字会副委員長。

2000年
(2月)
16日 北朝鮮による拉致疑惑で、昭和53年(1978年)7月に新潟県柏崎市の海岸から失踪した蓮池薫さん(当時、20歳)の父、秀量さん(72歳)が、問題解決への助力を求めてペンジャミン・ギルマン下院外交委員長(共和党)に送った書簡が同日、議会内事務所に届いた。
 書簡は「日本政府は息子ら10人が北朝鮮工作員に誘拐されたことを公式に認めているが、日本政府、米国のクリントン政権ともにこのテロ国家に断固とした態度をとろうとしていません」と訴え、米議会による行動に期待を寄せた(産経新聞)。

22日 韓国の東亜日報は、中国領で北朝鮮からの脱出者などを拉致し本国に強制送還していた北朝鮮工作員の告白テープの内容を公表。送還者の中には日本人妻、ヤン・チョオクさん(58歳)の一家4人もいた。工作員は国家安全保衛部の工作員〈31歳)。
ヤンさんは昨年2月、息子、嫁、孫娘の4人で脱出し、黒龍江省寧安市の朝鮮族の村で匿われていた。

23日 衆参国会議員169人が参加する日朝友好議員連盟(会長、村山富市元首相)が憲政記念館で発会式を行った。「近くて近い国の関係を作ることが当面課せられた課題」〈村山会長)。徐萬述・朝鮮総連第一副議長も関係改善に期待を示した。

(3月)
6日 「被拉致日本人を救う会」が、政府の北朝鮮コメ支援について、外務省前で「北朝鮮から横田めぐみさん・有元恵子さんらを救出しよう」と横断幕と「拉致棚上げにつながる食料支援反対」とのプラカードを掲げて抗議の座り込み行動を行った。
 同日付朝鮮労働党の機関紙『労働新聞』は、新潟でおきた少女監禁事件を引き合いに出して「(日本は)自国内で発生する多くの拉致事件の解明さえできない分際で、むやみに他人に『拉致』というベールをかぶせて言いがかりをつけている」「いわゆる『拉致疑惑』とやらは、意図的かつ計画的な反共和国敵視政策の産物であり、何の信憑性もない謀略にすぎない」と論評した(9日付 産経新聞)。

9日 ドイツを公式訪問中の金大中韓国大統領はベルリン自由大学で講演し「北朝鮮にはインフラ整備が不可欠で、食糧危機は生活必需品を援助することだけでは解決は望めず、農業政策の構造改革が必要だ」と指摘し、支援を民間レベルから政府間レベルに引き上げて経済協力を行うことを表明した「ベルリン宣言」を発表。
 宣言はまた当面は朝鮮半島統一よりも「国際社会で最後に残った地域冷戦」の終結や和平を優先、南北の離散家族問題を解決、双方が特別代表部の設置を認める-などを表明した。
 さらに「東西ドイツの統一を教訓とすべきだ」としながらも、経済面での旧西独の負担が当初予想の10倍に膨れ上がったことを指摘し「韓国に北朝鮮を経済的に肩代わりする力はない」と率直に述べ、日米韓協力の必要性を指摘した。

12日「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための地方議員の会」(会長、土屋敬之都議)東京・銀座の数寄屋橋公園前で、街頭アピール行動を行った。

13日 日朝赤十字会談が北京市内のスイスホテルで開かれた。
 共同発表骨子。日本人配偶者の第三回故郷訪問は4月ないし5月に実施、日本人拉致疑惑については、北朝鮮側が「行方不明者」の調査を開始し、仮に見つかれば日本側に通知し適切な処置をとる、北朝鮮側は1945年以前に行方不明となった朝鮮人の安否調査(北は108人の名簿提出)を依頼、日本側は真摯に調査し通報、日本側は10万トンの食料支援を表明、北朝鮮側は謝意を表明-などで合意した。
 日本側首席代表は近衛忠輝日赤副社長、北朝鮮側首席代表、許海龍・朝鮮赤十字会副委員長.外務省は佐々江賢一郎参事官、北は黄哲研究委員が同席。

 河野洋平外相は閣議に、北朝鮮に10万トンのコメ支援を行うために、政府開発援助(ODA)の緊急無償支援予算から38億4千万円をwfPに拠出することを報告、了承された。
 北への食糧支援は平成9年に6.7万トンのコメ支援をして以来4度目。
 産経新聞が17日報じたところによると、26年前に新潟県佐渡島で行方不明になった同県佐渡農地事務所職員、大沢孝司さん(当時27歳)が北朝鮮に拉致された疑いがある、として「横田めぐみさん等被拉致日本人救出の会」(小島晴則会長)と大沢さんの同級生が16日までに、真相解明を求める署名運動を始めた。
 大沢さんが最後に目撃されたのは昭和49年2月24日夜。当時、現場近くからはハングル文字のマッチが見つかったり「無理やり車に押し込められた人がいた」という情報も出ていたという。

佐伯 浩明(運営委員)

この人にきく 金 国雄(キム・ググン)

 1952年4月26日生 0型名古屋生まれ 名古屋育ち。モットーは、社会主義の理念・理想を失わないこと。好きな言葉:『堅実・誠実』。

 ―在日コリアン二世の一人として、どのような人生を歩んでこられたのでしょう。

 以前、「カルメギ」に投稿させていただきましたように私達世代の多くが物心つくと同時に厳しい差別という現実に直面しました。そのような中、少年時代「社会主義」の、理想に強い希望と夢を託し「朝鮮学校」に転校しました。

 私、いつも通学するときカバン二つを持ち一つには教科書と参考書。もう一つのカバンには、社会主義に関する本を入れ通学途上の電車の中で独学していました。人はよく、朝鮮を社会主義国と言われますが、当時、既にそのような状況ではなかつたと「朝鮮学校」「総連」を通して私は感じていました。社会主義の理想とかけ離れた国になって行く事に強い危惧の念を持った当時は「唯一思想体系」「金炳柄時代」ということで、その点、良くお分かりいただけるものと思います。(『海峡』李進熙 青丘文化社などの本を参考にしていただければ)

 あの当時ですら素直な目で見れば、今日の北朝鮮の状況にいたることはじゅうぶん想像できることでした。

 それでも私、迷いました。何の希望も望みも叶わない将来のないこの日本で生きていくことよりも祖国の建設に、人々の幸せに尽くす事を天職としたいという強い願望もありました。しかし、北朝鮮の体制に対する疑問が日増しに強まり、とうとう「いつの日にか闘う時が来よう。そのとき私は闘いの前面に立つていよう」と、心密かに誓い 「朝鮮大学校(朝大)」進学をあきらめましました。しかし、今は願いが叶い、自らに誇りを思っています。

―「守る会」との出会いと今回、「東海支部」結成に関して

 私が 「守る会」 に入会したきっかけの前提に非常に強く感銘を受けたある一冊の本との出会いがあります。

 『民主主義よ君のもとに』(韓国全斗煥体制下の民衆)萩原 遼・新日本出版社。この本によって萩原 遼という人に強い関心を持ちました。

 九七年でしたか、『民団新聞』に萩原さんのインタビュー記事が載りそこで「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」という帰国者の人権問題に取り組んでいる団体があることを知りました。

 実は私、「金日成主義」に何の疑問も持たなかったならば、かなり高い確率で北朝鮮へ帰国していたと思います。まだまだ少数ながら帰国する人々がいた当時でもあり私の身近な親戚も七十年代に帰っていきました。当時から援助依頼は常識でしたが。その様な経緯もありまた自らの運命でもありえたとの思いから「守る会」のことを知ってすぐ入会させていただいたわけです。

 昨年、萩原さんとの個人的な会話の中で、なんとか東海地方にも「守る会」の拠点ができないものだろうかとの話題になりました。

 私も以前より、そのことを考えてはいたのですが、何分にもおいそれと行えることではありませんでしたが、それは自体は、私にとって大切な課題でもありました。

 今回、重大な責任を何とか果たす事ができホットしているのが現状です。しかし、これからが本当に大変な事であると認識しています。ただし、多くの会員の皆様の熱意と共に謙虚な姿勢で今後とも一歩ずつ前進していければと思っています。

 今後とも宜しく御願いいたします。

日本人妻の手紙

 〇〇様 暑中お見舞い申し上げます。

 その後、家族の皆様始めお友達の方々、如何お暮らしですか。こちらの様子はテレビラジオで御存じのこととおもいます。余りにも筆舌に尽くしがたいのです。私方(ママ)皆なんとか元気です。でも●●が脳血栓でたをれ私の家で床に入っています。丁度貴方から一万円、銀行より送って来た頃でした。早速、そのお金で薬や栄養をと治療しましたが、最近は、便所も行けなくなり只●●に、便り書いて呉れと私へ頼まれます。貴方の友達●●さんとか●●さんとか●●さん●●さん●●さんとか記憶ははっきりしているようです。

貴方から送られた
この小さな星を見てごらん
この水色の星を見てごらん
国境線などどこにもないだろう

 この詩今でも夜空を仰ぎ見ると思い出して口づさみます この広い宇宙に国境線なんか無い。人間の小さい ゝ (小さいの意)感情が逢ふ事もすべてさまたげられて便りも届かぬ●●は貴方と楽しく野や山をかけずり廻った思い出に生きている此の頃です。

 私も貴方に迷惑の便り書くのがつらい。私さえ便り書かなかったらと思ってでも私も七十四才、里帰りして●●さんの日常をつぶさに話そうと思って御無沙汰しておりましたが、今は、はかない夢となっ行けそうにもありませんし、●●さんに好きなものでも食べさせたらと、家族で話し合い私しか便り書く人がなく厚顔して、又お願いの便り書く事に成りました。もうすぐ秋こちらの冬はかけ足でやってきます。

 七月八月と長い梅雨、空つゆのように雨が少なく、今年の稲作を心配しています。どうか豊年になりますよう全国民が照るにつけ降るにつけ一喜一憂しています。食料も給料も一たいどうしてくらしているのか商売する人だけが食べている。頭の廻る人●●君は全全(ママ)駄目でした。●●さんからの援助で着てたべて住む所もあったのに●●の長男夫婦子供二人に家をやり●●は手ぶらで私の家に入って来て病気で倒れてしまったのです。息子夫婦は親を養ふ力など少しもなく手までだすように成り●●は●●さんが今まで助けて下さり私達もその恩恵を受けていますので引き取っています本当に虫の良い願いで私はこんな便り書きたくないのに●●さんや●●に頼まれ又お願いしています。

 十月の始から越冬準備が始まります。春まで燃料トラック一車石炭を買って各家毎、練炭を作ります。千二、三百個作ります。ある人は人に作って貰い、無いものは20ケ30ケ50ケと乗せる練炭が無く成ってから走る者、羨ましい限りです。春までのを積み重ねて安心して冬ごもりしたいものです。

 そして十一月のはじめは、春までたべる漬物(キムチ)白菜、大根、と1t以上の漬物をします。

 漬物一品で春までそれもピンからキリまであるけれど出来る人は幸。この行事が一年中の脳と云ふか家庭によれば盆と正月一ペンに来たと活気づいた毎日を送るのです。

 どうか小さく(小さく)成ったものこの前のように送って下さいませんか●●にコーヒートカレーを食べさせてやりたいと思います本当に申し訳ありません。どうか最後のお願いです助けて下さい。

その声は収容所解放のその日まで 一追悼 池田菊敏さん- 小川 晴久(共同代表)

 熱血漢で正義派の池田菊敏さんが去る4月17日、68歳の若さで倒れた。私たちはもう生きてあの池田節を聴くことができない。

 池田さんが守る会の行動に最後に参加されたのはテポドンが打ち込まれた3日前の1998年8月29日(土)のデモ行進のときであった。当日午前11時守る会は渋谷駅近くの宮下公園に集まり、そこからNHK近くをよぎり渋谷駅まで40分デモ行進を敢行したのである。守る会最初のデモ行進であったので主催者側は20名から30名は少なくとも期待した。

 ところが参加者はたったの11名であった。これには私も本当にビックリした。渋谷署に届出てあり、パトカーー台先導するというのにである。デモは敢行したが、余りのショックに守る会のデモはこれが最初で最後になってしまった。

 この悲惨なデモに、今思えばただ一つうれしいことがあった。病を押して池田菊敏さんが宮下公園に駆けつけて下さったのである。池田さんは見るからにやせていた。肝臓が悪いとうかがっていたが、ガンと闘っているようにやせていた。

 池田さんは近くだから激励に来たと言って下さった。からだにこたえるので行進はひかえられたが、余りに少ない参加者だったので、池田さんの病を押しての参加はとても私たちを励ました。今も脳裏に焼きついて離れない。

 池田さんが最も元気であったときのことを話そう。守る会が誕生したのは6年前の2月20日。池田菊敏訳で姜哲煥・安赫共著の『北朝鮮脱出』上下(文芸春秋)が出たのがその6日後の2月26日。

北朝鮮脱出 上・下』姜哲煥、安赫著

 私たちと池田さんとの出会いは1994年2月であった。守る会は肉身が北の強制収容所で殺されたという在日家族の証言を聞いて出発したのであるが、姜哲煥・安赫両氏の収容所告発の日本語版が同じ時期に刊行されたのは、守る会にとってとってもありがたいことであり、うれしいことであった。池田さんはすぐに守る会の会員になって下さり、北朝鮮の収容所体制告発のため沢山の本をその後も訳出・刊行されつつ、守る会の発展のためにいつも心をくだいて下さった。

 姜哲煥・安赫両氏に私たちがいち早く会えたのも池田さんのお蔭である。私たち守る会メンバーは日本語版が出た2カ月後の4月26日にソウルで二人に始めて会っている。写真はそのときのものである.このときの挨拶が翌年7月の2人の日本招請につながった。

 池田さんは1997年5月に安明哲氏の『北朝鮮絶望収容所』(KKベストセラーズ刊)を訳出しているがこの本の訳出あとがきで、池田さんは守る会を紹介し、連絡先まで明記して下さった。この本は卓抜な書名とその凄い内容でこの年に大いに読まれた。この年、守る会への問い合わせは百数十件に及び、百名を超える方たちが会員になって下さった。

 「もしこの手記を読まれてもなお、声をそろえて収容所解放を叫んでくださらないなら、私は『冷たい日本人』つまりあなたを告発せざるを得ない。」と結んだあと、追記として守る会の紹介をして下さり、「新しい会員一人の参加が、少なくとも一人の生命を救うことになると私は確信しています。どうぞご入会ください。」と池田さんは頭を下げておられる。

 今でも月に1~2回は読者からの問い合わせがある。守る会の事務局の対応が遅れるため、読者や池田さんの期待を裏切っていることが多い。この場を借りてお詫びし、至急改めたいと思う。
 池田さんは亡くなってしまわれたが、池田さんの訳書とあとがきの訴えは、強制収容所が解体されるその日まで、同じ力をもって語り続けるであろう。

 池田菊敏さんは、本当にいいお仕事をなさったと思う。20世紀最後の巨悪、金正日と強制収容所体制を告発し、その解体のために4つに取りくんだ熱い心をもった言論出版人として、その業績は永遠に記録されるであろう。姜哲煥氏、安赫氏、安明哲氏の本を私たちは広めなければならない。それは池田さんを生かし続けることであり、また守る会にそそがれた池田さんの愛と期待に応える道でもあると思う。
 池田さん、長い間ありがとうございました。

○本ホームページの強制収容所の地図も、池田氏の快諾のもと、掲載しているものです。

詩二篇 小野美智子

憂い

悠久の文化高き隣国の
惨事に憂い消えずして
累々と幾多の生命血に染めて
うるわし山河どす黒く
まして無実の罪とやら
果て無き殺戮今もなお
飢えて死しても捨て置きて
国守のみ死守せよとて
無慈悲なるかな朝の国
ゆうゆうと流るる大河大同江
その川底より聞こえくる
恨の声が届かぬか
生命を計るハカリなど
この世に一つも無きものを

北の地へ

在りし日に
白き海原揚々と
母なる祖国へ行きし人々
太古より
文化伝えし隣人の
流浪に我も胸裂けん
旅立たせしは誤りか
ようやくの
希望の地ではなかったか
癒やしこそすれ何故に
辛苦の責めを加えるか
気高き民の心ごころに
民に向け
抜きたる刃遠からず
主が胸を貫こう
祖国とは何ぞ
しょく罪の心あるなら解き放て
悪しき野望の無き同胞を

 北の地に渡った在日帰国者と日本人妻に想いをはせて小野美智子さんから今回も二篇の詩が寄せられました。(編集部)

編集後記

◆今までは会員名簿が東京と大阪に分かれ、連絡等を別々に行っていましたが、今回、関西支部の全面的な骨折りでやっと一本化されました。カルメギが2部送られてくるといった苦情がありましたが、今後はこういった事は無くなると思います。 (大宅)

◆今回はネット時代にふさわしく 〈?)ソウル、ワシントン、大阪、愛知、東京、千葉、神奈川といった各地の会員の協力で編集が行われた。(H.S〉

◆今回はじめて「カルメギ」編集・版下作りに携わる事になりました。改めてその大変さを知りました。と、同時に新たなる学びの機会に感謝しています。追々充実した「カルメギ」にして行きたいと思っております。今後とも双方向な会報、会員相互が築いていく「カルメギ」となりますよう願っております。
 ご意見・情報・話題・記事等、是非お寄せください。
   (金 国雄、メール・アドレスfreeman@network.Email.ne.jp)

◆この1年を振り返ると、各地で守る会の核となる新しい担い手が生れていることに勇気づけられます。今回のカルメギもそんな人たちの手で作られています。文章を書くのは大半の人にとって大きな“苦痛”ですが、書くことで頭が整理され明晰に理解できるもの。小さな作品でも完成すれば嬉しいもの。私も遅れながらも頑張ります。(山田文明)

新刊紹介

朝鮮と私 旅のノート』 萩原 遼

 本書は1995年「かもがわ出版」から発刊された『朝鮮戦争』取材ノートの新たな書下ろしである。アメリカ議会図書館での調査研究をもとに『朝鮮戦争-マッカーサーの陰謀』を書き上げたものを今回第5章を新たに追加し文春文庫か発刊されたもの。(文春文庫 450円+税)

海峡―ある在日史学者の半生」 李進熙

 在日1世の著者の半生が記録 され、「北朝鮮・総連」組織を軸に織り成された記録。闇に隠された在日同胞史を知る上で貴重な証言録。(青丘文化社 2800円+税)

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